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国際関係2
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    問題一覧

  • 1

    A.ギデンズは『国民国家と暴力』で、国民国家が資本主義と工業主義の基盤の上に築かれ、戦争が工業化することで大規模な総力戦の可能性が生じたと論じた。また、国民国家の仕組みが世界全体に普及し、東西の陣営や先進国・途上国の区別を横断する形で軍事秩序が世界大で形成されたと指摘した。

  • 2

    国際連合は、国家間戦争を基本的に違法とし、集団安全保障体制を整備することで国際の平和と安全を保とうとする発想で設立された。こうした法律家的、道徳家的アプローチを理論的に支えたのが、H.モーゲンソーやG.ケナンらの古典的リアリストであった。

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  • 3

    K.クラウゼヴィッツは『戦争論』で、戦争は他の手段による政治の継続であると論じ、戦争は一手段であって目的ではないことを強調した。したがって、政治的に厳しく対立する敵国に対しては、その撃滅をもくろむ絶対戦争が行われるという。それはクラウゼヴィッツの死後、2つの世界大戦によって実証された。

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  • 4

    G.W.ブッシュ米国大統領は、先制攻撃、体制変更、軍事的優位の維持を内容とする国家安全保障戦略、いわゆるブッシュ・ドクトリンを掲げた。これを踏まえ、大量破壊兵器の保有の疑惑を根拠に、国連安全保障理事会決議による委任を受け、2003年、イラクに対し有志連合を組んで攻撃を行った。

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  • 5

    国連原子力委員会では、第二次世界大戦終結後に核戦争を防止するための討論がなされたが、ソ連は「核兵器の国際機関による管理」を、米国は「核兵器の使用・保有の禁止」を主張し、合意に至らなかった。核管理が進むのは、1960年代に核軍手記に熱心な「新アジェンダ連合」が活動し始めてからである。

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  • 6

    19世紀、アフリカ諸地域はヨーロッパ諸国によって植民地化され、国の領域が定められた。しかし第二次世界大戦の終結を受けて、植民地とされる地域に住む人民の経済的・政治的自決権などを認める「植民地独立付与宣言」が1945年に国連総会決議として採択され、翌1946年には17の国家が独立を果たしたため、同年は「アフリカの年」と言われている。

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  • 7

    冷戦構造の下で、国家が分断された事例として、朝鮮半島における大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の分断や、チェコとスロバキアの分断、1960年代に米国とソ連の代理戦争として甚大な被害の出た南北イエメン紛争などが挙げられる。

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  • 8

    民族戦争において、諸民族の分布域が国の内外に錯綜し、1つの国の中で拮抗する複数の民族が主導権を争う事例として、ルワンダにおけるフツ人とツチ人の紛争が挙げられる。この紛争においては、国連が平和維持活動(PKO)を展開し、PKO部隊が武力行使も行い、その停戦を実施した。

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  • 9

    1つの国の中で、他族派の民族によって抑圧された複数の少数民族が、自治を守るために連帯して国家に立ち向かった事例として、冷戦終結直後の1990年代に紛争が頻発したユーゴスラビアが挙げられる。コソボでの内戦状態の解決にあたっては、北大西洋条約機構(NATO)軍も介入してS.ミロシェビッチ政権を支援した。

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  • 10

    クルド人はトルコ、イラク、イラン、シリアなどの中東各国にまたがって分布する。イラクにおいては、長らく独裁政権を維持してきたS.フセイン政権が、クルド人に対して迫害や化学兵器の使用等を行い、国際問題となった。

  • 11

    冷戦期と冷戦後の人道的介入の共通点としては、いずれも人道的な危機への対応ではなく戦略的な利害が重要な動機となっていることや、一国の単独介入が中心であることが挙げられる。冷戦期に、国際連合安全保障理事会において人道的介入として決議されたケースとしては、インドによるパキスタンへの介入やベトナムによるカンボジアへの介入がある。

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  • 12

    内戦状態にあったソマリアにおける飢餓の悪化に対応するため、国連は第一次国連ソマリア活動を派遣して停戦監視に当たった。その後、食糧物資の略奪や人道支援団体への武力攻撃が頻発したため、米国主導の多国籍軍と武装解除を行う第二次国連ソマリア活動が展開したが、武力勢力との戦闘により多数の死傷者が出る事態に至り撤退した。

  • 13

    1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナでは、多数派のセルビア系住民と少数派のムスリム系住民との間で、ボスニア紛争が起こった。国連安保理は国連保護軍の派遣を決定し、重装備の国連保護軍に強制的な武装解除を行わせた。これにより、北大西洋条約機構(NATO)軍による本格的な軍事介入に至らず事態が収束した。

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  • 14

    ルワンダでは、80万人以上が犠牲になったといわれるルワンダ大虐殺が起こり、これを受け、国連ルワンダ支援団が武装解除のため派遣された。しかし、国連ルワンダ支援団は戦闘の激化によって撤退を余儀なくされ、その後、国連安保理決議を受けて派遣されたNATO軍の地上部隊が戦闘を制圧したものの、100万人規模の難民が隣国に流出することとなった。

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  • 15

    コソボ紛争では、1999年に、アルバニア系住民の虐殺を防ぐという目的で、NATO軍がセルビアに対して地上軍を投入したが、この軍事介入は国連安保理決議を経ずに行われた。このため、NATO軍の軍事介入は違法なものであり、事後的に国連安保理決議によって正当性が否定されることになった。

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  • 16

    1990年、イラクがクウェートに侵攻し、湾岸危機が発生した。米国主導の多国籍軍が、翌年、国際連合安全保障理事会の決議を受けることなく、イラク軍に対する攻撃を開始し、湾岸戦争が始まった。イラクはミサイルを発射する等して抵抗したが、多国籍軍はイラク軍をクウェートから撤退させるのみならず、イラクに侵攻してサダム・フセイン政権を打倒することにも成功した。

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  • 17

    ソマリアでは2つの民族が対立し、1990年に両者の主導権争いを原因とする内戦が勃発し、1994年に50万人以上の犠牲者を出すジェノサイドに発展した。これに対して国連は、国連ソマリア活動の一環として米国を中心とする多国籍軍を派遣し、平和創造活動を行った。1995年には、紛争当事者の武装解除を行うことができたため、国連ソマリア活動はソマリアから撤退した。

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  • 18

    1992年にスロベニアにおいてセルビア系住民と他の民族集団との間で内戦が勃発し、ユーゴスラビア連邦の解体が始まった。これに対して、1995年に国連安保理の要請に基づいて北大西洋条約機構(NATO)軍によるセルビア系勢力への空爆が実施された結果、デイトン和平合意が結ばれた。しかしその後、内戦はコソボにも飛び火し、コソボ紛争では、アルバニア系住民の虐殺を防ぐという目的で、1999年に国連安保理の決議を受けてNATO軍による空爆が行われた。

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  • 19

    シエラレオネにおいて、1991年に政府側と反政府せいりょくの革命統一戦線(RUF)との間で内戦が勃発した。1999年にはロメ和平合意の成立に基づき、国連シエラレオネ・ミッション(UNAMSIL)が派遣されたが、2000年にはRUFが戦闘を再開して国連PKO要員を拘束する事件が発生した。その後、政府とRUFとの間で停戦合意が成立し、2005年にはUNAMSILの任務が終了した。

  • 20

    2003年、米国のG.W.ブッシュ政権は大量破壊兵器拡散とテロを阻止する等の目的で、フランスやドイツとともにイラク戦争を開始した。戦争は短期間で終結し、この戦争を通じてイラクの大量破壊兵器の開発やテロ組織との関係等も明らかになり、同年、米軍を中心とする多国籍軍はイラクから撤退し、イラク人による暫定政権が発足した。

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  • 21

    国連平和維持活動(PKO)は国際連合憲章において明文化され、紛争当事者に対し停戦合意を要請するために開始された活動で、派遣には安全保障理事会の決議を必要としている。活動の平和への貢献が評価され、1988年にノーベル平和賞を受賞したが、この後、冷戦が終結すると、従来の停戦要請任務に加え、新たに選挙監視、難民帰還支援などの任務も担うようになった。

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  • 22

    国境なき医師団(MSF)は世界保健機関(WHO)の一組織として危機に瀕した人々への緊急医療活動を主な目的として活動しており、1999年に国際援助分野における功績によってノーベル平和賞を受賞した。MSFの活動はWHO加盟国からの財政支援によっており、わが国もエボラ出血熱流行国におけるMSFの活動への資金拠出等積極的な支援を行っている。

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  • 23

    国際原子力機関(IAEA)は原子力の平和的利用の促進、原子力の平和的利用から軍事的利用への転用の防止などを目的として部分的核実験停止条約(PTBT)の締結を受けて設立され、2005年に原子力の軍事的利用を防止するための査察活動が評価されノーベル平和賞を受賞した。この受賞後、核兵器保有国であるインド、パキスタンがIAEAに加盟した。

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  • 24

    気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は、自然科学者を構成員とする非政府組織で、気候変動に関する最新の科学的知見についての報告書を作成し、中立的な立場から各国政府に対し提言を行っている。報告書が各国政府の環境政策に与えた影響力が評価され2007年にノーベル平和賞を受賞し、この受賞後には、生物多様性条約が採択された。

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  • 25

    化学兵器禁止機関(OPCW)は、化学兵器禁止条約に基づき成立された機関で世界的な化学兵器の全面禁止および不拡散のための活動を行っており、化学兵器の廃絶に向けた取り組みが評価され2013年にノーベル平和賞を受賞した。同年のシリアにおける化学兵器使用を発端として、OPCWによる関連施設の査察等、シリアの化学兵器全廃に向けた国際的な取り組みが開始された。

  • 26

    核兵器用核分裂性物質生産禁止条約(FMCT:いわゆるカットオフ条約)は、高濃縮ウランやプルトニウムなどの核兵器の原材料となる物質の生産を禁止する条約である、同条約は、核軍縮や各不拡散に関する条約の中で、わが国が初めて提案した条約であるが、現在のところ、核兵器国であるアメリカ合衆国などからの賛意は得られていない。

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  • 27

    キューバ危機の後、大気圏内および宇宙空間における核爆発実験を禁止する部分的核実験禁止条約(PTBT)が、米、ソ、英、仏、中の5か国間で結ばれた。同条約は、実験が可能な場所を、地下と水中に限定することで、核兵器の開発を少しでも抑制しようとするものであり、後にわが国を含む100以上の国で批准された。

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  • 28

    核兵器不拡散条約(NPT)は、「核兵器国」を米、ソ、英、仏、中の5か国に限定し、日核兵器国における原子力の平和利用については、国際原子力機関(IATA)の保障措置を受諾する義務を課して核拡散を防止しようとするものであるが、2007年には、インドが6番目の核兵器国としてNPTに加盟することをアメリカ合衆国が支持するとした米印原子力協定が大筋で合意された。

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  • 29

    包括的核実験禁止条約(CTBT)は、いかなる場所においても核爆発実験を行うことを禁止する条約であり、核兵器の開発や質的改良を抑制し、核軍縮の縮小や核不拡散を図ることなどを目的としている。同条約は、1996年に国際連合で採択されたが、現在のところ、アメリカ合衆国を含む一部の発効要件国が批准していないため、発効には至っていない。

  • 30

    アメリカ合衆国とロシア(ソ連)との間の戦略兵器削減条約(START)は、START IおよびSTARTⅡの両条約が批准・履行されたことで、戦略核弾頭数が大幅に削減された。さらに、両国は、STARTⅡの履行を踏まえ、配備された戦略核弾頭数をおのおの1700発〜2200発に削減することを定めたモスクワ条約に加盟した。

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  • 31

    20世紀、国際連盟によって成立した「集団安全保障」は、1920年代にはすでに各国間の軍拡競争と対立を招き、第二次世界大戦の遠因となった。

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  • 32

    第二次世界大戦後の冷戦期は、主として核兵器による抑止力が米ソの戦争を回避し、「長い平和」だったと評価する考えもある。

  • 33

    ナポレオン没落後のウィーン体制では、各国の「勢力均衡」が進んだ結果、軍縮を実現し、19世紀を通じてヨーロッパは平和を維持した。

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  • 34

    「ハード・パワー」は、その国の保有する軍事力や経済力であり、それらの表出は国際会議での発言力や指導力などにも現れる。

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  • 35

    国際連合は、国連改革の一環として多数決による意思決定を改め、現在、熟議に基づく「満場一致」での決定を推進している。

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  • 36

    1968年に成立した「核兵器の不拡散に関する条約(NPT)」は、すでに核を保有していた国を含めたすべての国に、核兵器の開発を禁じ、削減を義務づけた。また、NPT体制は核兵器用の技術や原料の拡散を防ぐさまざまば制度的枠組みも提供してきており、インドやパキスタン等の加盟国による核実験を未然に防いだことから、同体制の功績は大きいと評価されている。

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  • 37

    1992年のB.ブトロス・ガリ国連事務総長による「平和への課題」は、国連の紛争対応能力を向上させるためのさまざまな提言を含む報告書である。同報告書は、国連の平和機能を「予防外交」「平和創造」「平和維持」「紛争後平和構築」に整理し、その強化方法について述べている。この「紛争後平和構築」には、紛争後の武装解除や難民の帰還等が含まれる。

  • 38

    多国間援助と二国間援助からなる政府開発援助(ODA)は、有償資金協力と無償資金協力(贈与)の2種類から成り立っており、技術協力は含んでいない。2000年に設定されたミレニアム開発目標(MDGs)において、援助供与国側には、努力目標として、ODAを国民総所得の0.1%まで増額するという数値目標が与えられた。

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  • 39

    難民の国際的保護と難民問題の恒久的解決を実現するため、国連総会は1950年に国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を設立した。1965年に採択された「難民の地位に関する条約」は難民の宗教の自由や結社の自由等を認める画期的な内容であったが、日本はこの条約にいまだ加入していない。

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  • 40

    大気中の温室効果ガスの濃度を安定化させることを究極の目標とする「気候変動に関する国際連合枠組条約」が1992年に採択され、この条約に基づき、国連気候変動枠組条約締約国会議(COP)が1995年から毎年開催されている。2005年の締約国会議ではパリ協定が採択され、1年以内に世界の平均気温の上昇を停止することを求めた。

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  • 41

    1962年のキューバ危機を境に、米ソ間の歩み寄りの機運が生まれ、宇宙空間、水中、地下での核実験を禁止する部分的核禁止条約(PTBT)が、1963年に署名され発効した。この条約は、冷戦期に米国とソ連が初めて合意に至った軍縮条約であり、米ソによる核軍備の増強は実質的に制約されることとなった。しかし、中国、フランスは参加しておらず、これらの国の大気圏内での核実験の頻度は増加した。

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  • 42

    核不拡散条約(NPT)は、米国、ソ連、英国、フランス、中国を核兵器国と定め、核兵器国以外への核兵器の拡散防止を目的としている。核兵器国は、NPTに定められた不拡散の義務を担保するための措置として、NPT発効に伴って設立された国際原子力機関(IAEA)の査察を受ける義務を有する。条約の規定の遵守を確保するため5年に1度NPT運用検討会議が開催され、2015年の同会議では、中東非大量破壊兵器地帯の設置について合意文書が採択された。

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  • 43

    NPTの不拡散規範を実効的なものとする仕組みとして輸出管理の制度があり、そのうち、技術移転管理のための技術供給国間の協調体制として原子力供給国グループ(NSG)がある。NSGは特定の条約等に基づくものではないが、NSG参加国の中では、原子力関連資機材・技術の輸出に際し守るべき指針である法的拘束力のないNSGガイドラインに基づいて、輸出管理が実施されている。

  • 44

    包括的核実験禁止条約(CTBT)は、核保有国、非核保有国の如何にかかわらず、あらゆる空間における核兵器の実験的爆発を禁止する。この条約の履行の確保はIAEAが担うこととされており、国際監視制度等の検証制度が設けられているが、現地査察の権限は有していない。この条約が発効するためには、発効要件国44か国すべての批准が必要とされているが、2020年3月時点では、英国、フランス、ロシア、日本が批准しておらず、条約は未発効となっている。

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  • 45

    冷戦終結前後の多国間の核兵器の軍備管理体制として、1972年に締結された第一次戦略兵器制限条約(SALT Ⅰ)と1991年に締結された第一次戦略兵器削減条約(START Ⅰ)がある。これらの条約は、いずれも大陸間弾道ミサイル(ICBM)等の戦略核兵器の保有の上限数を制限するものであり、軍備管理条約と位置付けられている。一方、1993年に発効した第二次戦略兵器制限条約(STARTⅡ)は、戦略核兵器の全廃を目指す軍縮条約である。

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  • 46

    K.ウォルツは、戦争と平和を考えるとき、個人に注目する第一レベル、国家に注目する第二レベル、そしてパワーの配分状況といった国際システムに注目する第三レベルという異なる分析レベルを提示した。構造的リアリズムの立場をとるウォルツは、この中で国家の政治経済体制を重視する第二レベルから戦争と平和を最もよく説明できると唱えた。

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  • 47

    H.ニコルソンは、政府が国民の代表者の承認を経て決定する「外交政策」と、経験と深い思慮分別を身につけた職業外交官に委ねられる「外交交渉」とをはっきり区別すべきことを唱えた。その上で、主権者である国民の意思に従うという民主的外交は、危険が伴うものの、他の外交の方式より好ましいとした。

  • 48

    ゲーム理論で用いられる「囚人のディレンマ」では、独房にいる共犯の2人の囚人の自白と黙秘の選択のゲームが設定される。このとき、相手が自白した場合と黙秘した場合のそれぞれの状況においてよりよい選択肢を選ぶ結果、自白するより、相手を信頼して黙秘を続けることで共通の利益を得るミニマックス戦略を2人が共に選択する。これは軍拡か軍縮かという外交上の選択に示唆を与える。

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  • 49

    外交上の意思決定については、『決定の本質』でG.アリソンが3つのモデルを提唱したことが有名である。第一モデルは、政府を一枚岩の合理的な意思決定主体とみなす合理的行為者モデル、第二モデルは、意思決定が駆け引きややり取りによってなされることを重視する組織過程モデル、第三モデルは、外部からの入力に標準手続きに従って組織の反応が出力として示されるとする官僚政治もしくは政府内政治モデルである。

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  • 50

    1648年のウェストファリア条約以降、主権国家が外交の代表権を保持する最優位の主体として位置付けられる仕組みが形作られた。この原理は今日でも維持されており、国際連合でも総会や安全保障理事会はいうまでもなく、経済社会理事会や人権理事会でも、非政府組織は公式には今なお協議資格を認められていない。

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  • 51

    竹島は、隠岐島の北西に位置する。わが国は江戸時代より竹島で経済活動を行っており、明治38(1905)年に竹島を島根県に編入した。サンフランシスコ講和条約においても、竹島は日本がその権利・権原を放棄すべき地域とはされなかったが、昭和27(1952)年、韓国は「李承晩ライン」を一方的に画定し、その後竹島周辺を航行する海上保安庁巡視船を銃撃するなどした。わが国は竹島の領有権問題を国際司法裁判所に付託することを提案したが、韓国は応じていない。

  • 52

    北方領土とは、北海道北東海域にある歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島をさす。これらの島は元来ロシア領であったが、明治38(1905)年のポーツマス条約によって我が国に割譲された。その後第二次世界大戦時にソ連が北方領土に侵攻し、ポツダム宣言を受託した時点までに四島とも占領された。昭和31(1956)年に日ソ平和条約を締結した際に北方領土は返還されることで合意されたが、現在でも返還は実現していない。

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  • 53

    尖閣諸島とは、石垣島の北北西に位置する魚釣島等の島々を指す。明治28(1895)年の下関条約によって、清国よりわが国に割譲された。サンフランシスコ講和条約では、わが国が放棄する領土として明記されず、施政権は沖縄と共にアメリカ合衆国に引き継がれ、後に沖縄と共にわが国に返還された。その間領有権を主張し続けていた中国は、平成4(1992)年に領海法を制定して軍の部隊を駐屯させた。

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  • 54

    沖ノ鳥島は、太平洋上にあるわが国最南端の島である。沖ノ鳥島は、波による侵食で満潮時には水没する状態となり、中国からもはや島は消滅したためこれにかかる領海・経済水域は設定できないとする指摘を受けた。これを受けて、平成16(2004)年にわが国が護岸等の設置工事を行った結果、満潮時にも海面上に島が露出するようになり、中国は沖ノ鳥島周辺のわが国の経済水域で計画していた海洋調査の実施を断念した。

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  • 55

    東シナ海における資源開発について、わが国は平成15年(2003)年に東シナ海上に日中中間線の東側の海域で、天然ガス田の試掘を行った。これに対し、東シナ海での日中間の排他的経済水域にかかる境界は未確定として資源開発を自粛してきた中国が反発し、天然ガス田の開発中止と当該海域についてのデータ提供を求めた。わが国がこの要求を拒否したため、中国は平成17(2005)年に当該海域における海底調査を実施した。

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  • 56

    「パブリック・ディプロマシー」は広報外交や文化外交とも呼ばれ、外国や国際社会の世論に向かって、自国のソフトパワーを高めるために展開される。伝統的な外交が政府機関の専管事項であるのと異なり、パブリック・ディプロマシーに携わるのは産業界やアーティストなど、もっぱら民間の団体や個人である。

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  • 57

    「国内避難民」とは、紛争などによって強制的に家から追いやられながらも、国外に逃れることができず、いまだに出身国内にとどまっている人々のことをいう。国内避難民の数は国外への難民の数よりもはるかに少ないが、その保護が国際社会の急務となっている。

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  • 58

    「保護する責任(R2P)」という概念を打ち出した「介入と国家主権に関する国際委員会」による報告書は、ある国家で極度の人権侵害が生じているとき、一義的には当該国家に国民を保護する責任があるが、国家に対処能力や意思がない場合、国際社会がその責任を有するという考え方を提示した。

  • 59

    B.ラセットが提示した「デモクラティック・ピース」の理論によれば、民主主義国家は非民主主義国家よりも戦争をする可能性が少ない。それゆえ民主主義国家が増えるほど、戦争の危険は減ると予想された。

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  • 60

    欧州連合(EU)における地域連合が進展するのに伴い、加盟国から1名ずつの委員で構成される欧州委員会の権限が強化される側面が目立ってきた。その決定には欧州市民の民意が十分に反映されていないのではないかという疑問が出てきて、「民主主義の赤字」の問題の一例とされている。

  • 61

    エスニック・ナショナリズムに基づく国民国家形成の手段として、しばしば新生国家間では本来居住すべき国家に居住していない住民を対象に、強制力を伴う人口移動・交換が行われる。そのため、国民の追放を禁止する現行の欧州人権条約も、「集団的措置によるものではない限り、何人も自己の国籍国の領域から追放されない」としている。

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  • 62

    アフリカ諸国は独立を達成するにあたり、多くの場合、現地の住民の意向に配慮することなく宗主国が引いた植民地の境界線を国境としたが、1963年に創設されたアフリカ統一機構(OAU)は、主権尊重の立場をとり、独立達成時点の国境の維持を確約すると決議した。

  • 63

    コンゴ内戦におけるビアフラ、エチオピア内戦におけるエリトリアの分離独立運動のように、アフリカでは分離独立の要求が武装紛争を引き起こした事例は多いが、広範な国際的支持を確保するに至らず、いずれの地域も独立を達成していない。

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  • 64

    旧ソ連は、特定の基幹民族名(たとえばロシア人)を冠する連邦構成共和国(たとえばロシア)の領域的範囲と同機関民族の居住分布の一致を図った。しかし、革命直後の旧ソ連に併合されたバルト三国には併合後に大量のロシア人が流入したため、ソ連解体後もこれらの3国においてはロシア人がその多数派を占めた。

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  • 65

    冷戦の終結によって旧ユーゴスラヴィアや旧ソ連等の社会主義諸国の解体が進む過程において内戦が勃発したのは、ユーゴスラヴィア連邦の多数派であったクロアチア人やソ連のロシア人が新生国家の独立を機に「少数者」の地位に転落したためであった。たとえばチェチェン紛争も、ソ連を構成する共和国の一つであったチェチェン共和国の独立を契機とするものだった。

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  • 66

    グローバル・ガヴァナンスという概念は、グローバル・ガヴァナンス委員会が3年近くにわたる討議を経て、1995年にダボスの世界経済フォーラムで発表した報告書において示されたことで知られる。この概念には多様な議論が含まれるが、カント主義的なコスモポリタニズムに依拠してリアリズムやリベラル制度論を退けていることで共通している。

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  • 67

    特定の知識を持つ専門家集団が政策決定に影響を及ぼす場合、これを知識共同体(エピステミック・コミュニティ)と呼ぶことがある。専門家集団は新しいものの見方を提示し、ときには国境を越えたネットワークを作る。モントリオール議定書や京都議定書といったグローバルな環境レジームの形成にこれが見て取れる。

  • 68

    R.パットナムは、国際交渉と国内の批准者との二層ゲームという分析手法を案出した。これによると、議会の表決において国内批准に必要な多数を獲得することができるような国際合意の集合を勝利集合(ウィン・セッツ)とし、勝利集合が小さければ小さいほど、国際交渉のフリー・ハンドが拡大するため、国際交渉が妥結しやすくなるが、他方で相手国より譲歩を引き出しにくくなる。

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  • 69

    国家安全保障に対して、人間を中心に置いた安全保障の構想が人間の安全保障である。国連貿易開発会議(UNCTAD)が1994年の『人間開発報告書』で先駆的に唱え、人間の安全保障委員会が2003年に『安全保障の今日的課題』を提出した。この中では、目標として「恐怖からの自由」と「欠乏からの自由」が挙げられ、国家による安全保障の時代は終わったとして、安全保障の担い手として、さまざまな脅威から人間を守るために多様な非国家主体が掲げられた。

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  • 70

    国際関係の批判りろんの代表的論者であるR.コックスは、「理論は常に誰かのために、何らかの目的のために存在している」という立場から、客観法則を追求しようとする実証主義を批判し、世界システムを実体化してとらえないよう戒めた。他方で、とりわけ社会勢力の役割を強調して抑圧や暴力からの人間の解放を構想する発想をユートピア主義としてこれを排除した。

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  • 71

    J.ナイは、国際関係でパワーが論じられるときには、軍事的手段や経済的手段などを用いて他の主体の行動に直接的に作用するパワーに加えて、文化的手段を説得・感化に用いて他の主体の行動に間接的に作用するハード・パワーがあるとした。

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  • 72

    国益を追求する諸国家間の力の関係に着目して国際関係を捉える見方を、一般に現実主義(リアリズム)と呼ぶ。人間の性向に着目するK.ウォルツの現実主義や、国際システムを重視するH.モーゲンソーの構造的現実主義(ネオリアリズム)等がある。

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  • 73

    1969年の著作『危機の二十年』で、H.キッシンジャーは、19世紀以来の自由主義思想を国際政治に適用しようとする考え方に対して、世論と規範意識によって国際平和が達成されると信じる立場は国際政治の権力的要素を無視していると批判し、現実主義の必要性を説いた。

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  • 74

    英国学派とは、諸国家が持つ共通の制度や規則の存在に着目し、アナーキー(無政府状態)なものではあるが社会としての性格も持つ国際社会の存在を論じ、その制度や歴史に関する研究を発展させたH.ブルらが代表する学派である。

  • 75

    リアリズムの立場から主張される勢力均衡の理論は、諸国家の軍事力などを中心とするパワーが同程度で釣り合っていれば国際政治の安定が保たれやすいというものだが、リアリズムの流れをくむネオリアリズムの代表的論者であるR.ギルピンも、同様に、ある覇権国に対抗しうるようなパワーを持つ別の覇権国の存在が国際政治の安定をもたらすとの覇権安定論を展開した。

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  • 76

    リベラリズムは、リアリズムと同様に国家を自己の利益を追求する主体と捉え、国際関係をアナーキー(無政府状態)ととらえていることから、O.ヤングは、資源保護や環境問題への対策等に関する研究において、国際制度や問題対応のための国際レジームの有用性を否定した。

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  • 77

    リベラリズムの立場からは、技術的・経済的な問題は政治性が低いため、国際協調が比較的容易であるとの機能主義が主張され、経済社会分野での国境を越えた協力関係の強化を通じて国際紛争を抑制できるというD.ミトラニーの主張した見解は、国際連合の専門機関の設立にも影響を与えた。

  • 78

    リベラリズムの代表的な論者であるR.コヘインとJ.ナイは、国家間関係における軍事力の相対的な重要性が低下し、国家間に存在する経済・社会的な多様な領域での複雑なイシュー・リンケージ(問題領域間の連携性)が起こるなど、それ以前の理論とは異なる国際政治過程が見られる「複合相互依存」状態をひとつの理念型として提唱した。

  • 79

    リベラリズムの理論では国際関係における道徳の役割を重視しない傾向が強い。これに対しリアリズムの論者として知られるS.ホフマンは『国境を越える義務』で、国際関係でも道徳的行動の余地が一般に論じられている以上に大きいことを主張し、国際社会であっても一定の道徳基準があり、政治家には責任倫理が求められることを強調した。

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  • 80

    H.ブルは、近代主権国家システムの歴史を通じて、3つの競合する思想的伝統が存在するとした。すなわち、国際政治を闘争状態とみなすホッブズ的伝統、潜在的な人類共同体が国際政治においても機能しているとみなすカント的伝統、国際政治は国際社会の枠内で発生するとみなすグロティウス的伝統の3つである。

  • 81

    コンストラクティビズムは社会学的な理論構成を掲げ、国際政治を国家相互の間主観的な関係ではなく、個々の国家が一方的に持つ主観的なイメージや理念がぶつかり合う領域とみなした。各国が名声を気にし、自らの国益を制限するように見える国際規範を受け入れることがあるのは、そうした一方的な主観的要因が作用するためである。

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  • 82

    恒久平和の実現は、共和政体、常備軍の廃止、国家連邦といった制度から構築されると論じたのは啓蒙思想家のJ.ロックである。この思想は国家間の協調を追求するリベラリズムの論調に継承され、M.ドイルやB.ラセットは戦争防止には民主主義よりも自由貿易体制が重要だとする「通商による平和」論を唱えた。

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  • 83

    ナポレオン戦争後のヨーロッパで形成されたウィーン体制は、1821年から始まるギリシア独立戦争やそれに付随する露土戦争によって短命に終わり、H.モーゲンソーやH.キッシンジャーらのリアリストから、勢力均衡のメカニズムを欠いた不安定な仕組みだとみなされた。多くのリアリストがそれに代わって安定した勢力均衡のモデルとみなしたのが、第一次世界大戦後のいわゆる戦間期である。

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  • 84

    H.モーゲンソーは『国際政治』で、国際関係では「力によって定義される利益」をめぐって権力闘争が繰り広げられると論じた。モーゲンソーによれば、権力闘争は国際関係において政治、経済、文化、倫理などのあらゆる局面で見られる客観的原理であり、あらゆる国家の行動準則を形作っている。

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  • 85

    J.ナイは、冷戦初期について「平和は不可能だが、戦争はありそうにない」と記述したことで知られている。東西の大分裂を国家間のパワーのバランスから分析し、また西側にとっての大西洋同盟の重要性を強調した。さらに『平和と戦争』を著し、核戦略についての研究を進めた。

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  • 86

    I.ウォーラーステインによって提唱された世界システム論は、15世紀末以降に形成された世界経済と国際政治を世界資本主義による分業の体制ととらえた。そこでは周辺と中央の二極文化が貫徹し、周辺の剰余価値の中央への収奪が進むため、中央の経済発展の一方で周辺の絶対的窮乏化が進むとされた。

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  • 87

    J.ガルトゥングは平和研究の代表的研究者であり、暴力を行使する主体が明確な直接的・個人的暴力と、暴力の主体が明確ではない間接的・構造的暴力とを区別した。その上で、直接的・個人的暴力は平和研究の対象としては重要ではなく、これまで見落とされがちであった間接的・構造的暴力こそが、長期的で大規模になりやすいとして、もっぱらこれを考察すべきだと主張した。

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  • 88

    A.ウェントらが唱えるコンストラクティヴィズムは、これまで国際関係の分析において重視されてきた物質的・客観的な要素よりも、非物質的・主観的な要素の重要性を強調する。そのため、理念、規範、イデオロギー、アイデンティティなどが間主観的に構成されることで国際関係が形成され、展開するとみなした。

  • 89

    国際レジームとは、「国際関係の特定問題領域における、諸主体の期待が収斂するところの黙示的あるいは明示的な原則、規範、規則、意思決定手続の集合」と定義される。国際レジームの例としては、国際貿易レジーム、核不拡散レジーム、国際人権レジーム、地球温暖化防止レジームなどが挙げられる。このような国家間協力に着目したのが国際レジーム論である。

  • 90

    リアリズムでは一般的に国家間協力は難しいとされるが、ネオリアリズムの覇権安定論では、覇権国によって作られた国際レジームまたは国際制度に他の国々が従うことで国家間協力が実現されることは珍しくないと論じられた。また、国際レジームはいわば覇権国による秩序安定のための手段であり、国家間協力は覇権国の圧倒的パワーによって促されるとされた。

  • 91

    覇権安定論の主張どおりであれば、覇権国が衰退すれば、圧倒的なパワーという後ろ盾を失うことになる国際レジームや国際制度もまた崩壊・消失していくことになる。これに反論したのが、ネオリベラリズムの国際レジーム論あるいはネオリベラル制度論であった。この立場によれば、何も存在しないところに国際レジームを作るのは容易なことではなく、覇権国の主導を要するが、一度作られた国際レジームを運用していくだけであればさほどコストはかからないとして、覇権衰退後の世界でも国際レジームは存続しうるとされた。

  • 92

    ヘゲモニーとは、国際関係において一国が突出したパワーを持ち、国際的なリーダーシップを発揮して国際公共財を提供することで国際秩序を形成し、その受益国をフォロワーとする仕組みのことである。16世紀以降の近現代ではどの時代でも継続的に見られる。

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  • 93

    ヘゲモニー・サイクル(覇権循環)とは、覇権国が勃興、勝利、成熟、衰退という共通のサイクルを描き、覇権国の盛衰が歴史的に繰り返されたことを示す。19世紀後半から20世紀初頭の英国、第二次世界大戦後の米国などのヘゲモニー・サイクルを見ることができるが、それぞれのヘゲモニーを支えるパワーの基盤は歴史的に多様である。

  • 94

    覇権安定論とは、ヘゲモニーが成立している期間には、大国間の戦争が減り、国際秩序が安定するという説である。しかしR.コヘインは、ヘゲモニー衰退後も、覇権国主導でつくられた国際レジームが持続性を持つため、国際秩序の安定が維持されると論じた。相反するこれらの見解は、いずれも伝統的な勢力均衡論に基づく主張である。

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  • 95

    覇権国のパワーが低下し始めると、新興国家が既存の国際秩序へのチャレンジャーとして現れ、国際秩序の再編をめぐる闘争が展開し、チャレンジャーがかつての覇権国に代わって新たな覇権国としてヘゲモニーを確立する。16世紀以降、この繰り返しが100年から120年ほどの周期で見られた。

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  • 96

    19世紀後半のパックス・ブリタニカは、海軍力と経済力で他を圧倒した英国がもたらした平和をさす。英国は「世界の工場」であり、「世界の銀行」であり、高関税政策と保護主義貿易で自らの帝国圏内での資本蓄積を強力に進めることができた。

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  • 97

    「関税及び貿易に関する一般協定」(GATT)の下で行われたウルグアイ・ラウンド交渉の妥結の際に、世界貿易機関(WTO)の設立が合意された。WTO協定では、従来GATTが対象としてきた物品の貿易に加えて金融・通信などのサービス分野、著作権や特許権などの知的財産権分野に関してもルールが策定され、また、WTOにより統一化された紛争解決手続きによらず一方的措置を発動することが禁止されるなど紛争解決手続きが強化された。

  • 98

    WTO協定においては、不公正な貿易による被害に対する救済手段として貿易救済措置を設けている。貿易救済措置のうちアンチ・ダンピング関税措置は、特定品目の輸入の急増が国内産業に重大な損害を与え、国民経済上緊急の必要性が認められる場合に、損害を回避するために発動されるもので、輸入数量の制限を内容としている。わが国では、ネギや生シイタケの輸入に関して措置が発動された例がある。

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  • 99

    WTOに代表されるグローバルな貿易秩序が存在する一方で、一部の国や地域で協定構成国のみを対象として関税を原則廃止してモノやサービスの貿易自由化を行う自由貿易協定(FTA)が締結されている。FTAの新規の締結件数は、1990年代には、多国間での貿易自由化交渉に比較して合意形成が容易であることから急速に増加したが、2000年以降になるとWTOの枠組みが活用されるようになり、新規の締結件数は大幅に減少している。

    ×

  • 100

    わが国は、モノやサービスの貿易自由化だけでなく投資の自由化、人的交流の拡大等幅広い分野を含む経済連携協定(EPA)を2002年に初めてシンガポールとの間で締結した。2015年末現在、東南アジア諸国連合(ASEAN)、欧州連合(EU)、インド、オーストラリア、メキシコなどの地域・諸国とのEPAが発効しており、これらEPA相手国との貿易額がわが国の貿易総額に占める割合は約80%となっている。

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    問題一覧

  • 1

    A.ギデンズは『国民国家と暴力』で、国民国家が資本主義と工業主義の基盤の上に築かれ、戦争が工業化することで大規模な総力戦の可能性が生じたと論じた。また、国民国家の仕組みが世界全体に普及し、東西の陣営や先進国・途上国の区別を横断する形で軍事秩序が世界大で形成されたと指摘した。

  • 2

    国際連合は、国家間戦争を基本的に違法とし、集団安全保障体制を整備することで国際の平和と安全を保とうとする発想で設立された。こうした法律家的、道徳家的アプローチを理論的に支えたのが、H.モーゲンソーやG.ケナンらの古典的リアリストであった。

    ×

  • 3

    K.クラウゼヴィッツは『戦争論』で、戦争は他の手段による政治の継続であると論じ、戦争は一手段であって目的ではないことを強調した。したがって、政治的に厳しく対立する敵国に対しては、その撃滅をもくろむ絶対戦争が行われるという。それはクラウゼヴィッツの死後、2つの世界大戦によって実証された。

    ×

  • 4

    G.W.ブッシュ米国大統領は、先制攻撃、体制変更、軍事的優位の維持を内容とする国家安全保障戦略、いわゆるブッシュ・ドクトリンを掲げた。これを踏まえ、大量破壊兵器の保有の疑惑を根拠に、国連安全保障理事会決議による委任を受け、2003年、イラクに対し有志連合を組んで攻撃を行った。

    ×

  • 5

    国連原子力委員会では、第二次世界大戦終結後に核戦争を防止するための討論がなされたが、ソ連は「核兵器の国際機関による管理」を、米国は「核兵器の使用・保有の禁止」を主張し、合意に至らなかった。核管理が進むのは、1960年代に核軍手記に熱心な「新アジェンダ連合」が活動し始めてからである。

    ×

  • 6

    19世紀、アフリカ諸地域はヨーロッパ諸国によって植民地化され、国の領域が定められた。しかし第二次世界大戦の終結を受けて、植民地とされる地域に住む人民の経済的・政治的自決権などを認める「植民地独立付与宣言」が1945年に国連総会決議として採択され、翌1946年には17の国家が独立を果たしたため、同年は「アフリカの年」と言われている。

    ×

  • 7

    冷戦構造の下で、国家が分断された事例として、朝鮮半島における大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の分断や、チェコとスロバキアの分断、1960年代に米国とソ連の代理戦争として甚大な被害の出た南北イエメン紛争などが挙げられる。

    ×

  • 8

    民族戦争において、諸民族の分布域が国の内外に錯綜し、1つの国の中で拮抗する複数の民族が主導権を争う事例として、ルワンダにおけるフツ人とツチ人の紛争が挙げられる。この紛争においては、国連が平和維持活動(PKO)を展開し、PKO部隊が武力行使も行い、その停戦を実施した。

    ×

  • 9

    1つの国の中で、他族派の民族によって抑圧された複数の少数民族が、自治を守るために連帯して国家に立ち向かった事例として、冷戦終結直後の1990年代に紛争が頻発したユーゴスラビアが挙げられる。コソボでの内戦状態の解決にあたっては、北大西洋条約機構(NATO)軍も介入してS.ミロシェビッチ政権を支援した。

    ×

  • 10

    クルド人はトルコ、イラク、イラン、シリアなどの中東各国にまたがって分布する。イラクにおいては、長らく独裁政権を維持してきたS.フセイン政権が、クルド人に対して迫害や化学兵器の使用等を行い、国際問題となった。

  • 11

    冷戦期と冷戦後の人道的介入の共通点としては、いずれも人道的な危機への対応ではなく戦略的な利害が重要な動機となっていることや、一国の単独介入が中心であることが挙げられる。冷戦期に、国際連合安全保障理事会において人道的介入として決議されたケースとしては、インドによるパキスタンへの介入やベトナムによるカンボジアへの介入がある。

    ×

  • 12

    内戦状態にあったソマリアにおける飢餓の悪化に対応するため、国連は第一次国連ソマリア活動を派遣して停戦監視に当たった。その後、食糧物資の略奪や人道支援団体への武力攻撃が頻発したため、米国主導の多国籍軍と武装解除を行う第二次国連ソマリア活動が展開したが、武力勢力との戦闘により多数の死傷者が出る事態に至り撤退した。

  • 13

    1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナでは、多数派のセルビア系住民と少数派のムスリム系住民との間で、ボスニア紛争が起こった。国連安保理は国連保護軍の派遣を決定し、重装備の国連保護軍に強制的な武装解除を行わせた。これにより、北大西洋条約機構(NATO)軍による本格的な軍事介入に至らず事態が収束した。

    ×

  • 14

    ルワンダでは、80万人以上が犠牲になったといわれるルワンダ大虐殺が起こり、これを受け、国連ルワンダ支援団が武装解除のため派遣された。しかし、国連ルワンダ支援団は戦闘の激化によって撤退を余儀なくされ、その後、国連安保理決議を受けて派遣されたNATO軍の地上部隊が戦闘を制圧したものの、100万人規模の難民が隣国に流出することとなった。

    ×

  • 15

    コソボ紛争では、1999年に、アルバニア系住民の虐殺を防ぐという目的で、NATO軍がセルビアに対して地上軍を投入したが、この軍事介入は国連安保理決議を経ずに行われた。このため、NATO軍の軍事介入は違法なものであり、事後的に国連安保理決議によって正当性が否定されることになった。

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  • 16

    1990年、イラクがクウェートに侵攻し、湾岸危機が発生した。米国主導の多国籍軍が、翌年、国際連合安全保障理事会の決議を受けることなく、イラク軍に対する攻撃を開始し、湾岸戦争が始まった。イラクはミサイルを発射する等して抵抗したが、多国籍軍はイラク軍をクウェートから撤退させるのみならず、イラクに侵攻してサダム・フセイン政権を打倒することにも成功した。

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  • 17

    ソマリアでは2つの民族が対立し、1990年に両者の主導権争いを原因とする内戦が勃発し、1994年に50万人以上の犠牲者を出すジェノサイドに発展した。これに対して国連は、国連ソマリア活動の一環として米国を中心とする多国籍軍を派遣し、平和創造活動を行った。1995年には、紛争当事者の武装解除を行うことができたため、国連ソマリア活動はソマリアから撤退した。

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  • 18

    1992年にスロベニアにおいてセルビア系住民と他の民族集団との間で内戦が勃発し、ユーゴスラビア連邦の解体が始まった。これに対して、1995年に国連安保理の要請に基づいて北大西洋条約機構(NATO)軍によるセルビア系勢力への空爆が実施された結果、デイトン和平合意が結ばれた。しかしその後、内戦はコソボにも飛び火し、コソボ紛争では、アルバニア系住民の虐殺を防ぐという目的で、1999年に国連安保理の決議を受けてNATO軍による空爆が行われた。

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  • 19

    シエラレオネにおいて、1991年に政府側と反政府せいりょくの革命統一戦線(RUF)との間で内戦が勃発した。1999年にはロメ和平合意の成立に基づき、国連シエラレオネ・ミッション(UNAMSIL)が派遣されたが、2000年にはRUFが戦闘を再開して国連PKO要員を拘束する事件が発生した。その後、政府とRUFとの間で停戦合意が成立し、2005年にはUNAMSILの任務が終了した。

  • 20

    2003年、米国のG.W.ブッシュ政権は大量破壊兵器拡散とテロを阻止する等の目的で、フランスやドイツとともにイラク戦争を開始した。戦争は短期間で終結し、この戦争を通じてイラクの大量破壊兵器の開発やテロ組織との関係等も明らかになり、同年、米軍を中心とする多国籍軍はイラクから撤退し、イラク人による暫定政権が発足した。

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  • 21

    国連平和維持活動(PKO)は国際連合憲章において明文化され、紛争当事者に対し停戦合意を要請するために開始された活動で、派遣には安全保障理事会の決議を必要としている。活動の平和への貢献が評価され、1988年にノーベル平和賞を受賞したが、この後、冷戦が終結すると、従来の停戦要請任務に加え、新たに選挙監視、難民帰還支援などの任務も担うようになった。

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  • 22

    国境なき医師団(MSF)は世界保健機関(WHO)の一組織として危機に瀕した人々への緊急医療活動を主な目的として活動しており、1999年に国際援助分野における功績によってノーベル平和賞を受賞した。MSFの活動はWHO加盟国からの財政支援によっており、わが国もエボラ出血熱流行国におけるMSFの活動への資金拠出等積極的な支援を行っている。

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  • 23

    国際原子力機関(IAEA)は原子力の平和的利用の促進、原子力の平和的利用から軍事的利用への転用の防止などを目的として部分的核実験停止条約(PTBT)の締結を受けて設立され、2005年に原子力の軍事的利用を防止するための査察活動が評価されノーベル平和賞を受賞した。この受賞後、核兵器保有国であるインド、パキスタンがIAEAに加盟した。

    ×

  • 24

    気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は、自然科学者を構成員とする非政府組織で、気候変動に関する最新の科学的知見についての報告書を作成し、中立的な立場から各国政府に対し提言を行っている。報告書が各国政府の環境政策に与えた影響力が評価され2007年にノーベル平和賞を受賞し、この受賞後には、生物多様性条約が採択された。

    ×

  • 25

    化学兵器禁止機関(OPCW)は、化学兵器禁止条約に基づき成立された機関で世界的な化学兵器の全面禁止および不拡散のための活動を行っており、化学兵器の廃絶に向けた取り組みが評価され2013年にノーベル平和賞を受賞した。同年のシリアにおける化学兵器使用を発端として、OPCWによる関連施設の査察等、シリアの化学兵器全廃に向けた国際的な取り組みが開始された。

  • 26

    核兵器用核分裂性物質生産禁止条約(FMCT:いわゆるカットオフ条約)は、高濃縮ウランやプルトニウムなどの核兵器の原材料となる物質の生産を禁止する条約である、同条約は、核軍縮や各不拡散に関する条約の中で、わが国が初めて提案した条約であるが、現在のところ、核兵器国であるアメリカ合衆国などからの賛意は得られていない。

    ×

  • 27

    キューバ危機の後、大気圏内および宇宙空間における核爆発実験を禁止する部分的核実験禁止条約(PTBT)が、米、ソ、英、仏、中の5か国間で結ばれた。同条約は、実験が可能な場所を、地下と水中に限定することで、核兵器の開発を少しでも抑制しようとするものであり、後にわが国を含む100以上の国で批准された。

    ×

  • 28

    核兵器不拡散条約(NPT)は、「核兵器国」を米、ソ、英、仏、中の5か国に限定し、日核兵器国における原子力の平和利用については、国際原子力機関(IATA)の保障措置を受諾する義務を課して核拡散を防止しようとするものであるが、2007年には、インドが6番目の核兵器国としてNPTに加盟することをアメリカ合衆国が支持するとした米印原子力協定が大筋で合意された。

    ×

  • 29

    包括的核実験禁止条約(CTBT)は、いかなる場所においても核爆発実験を行うことを禁止する条約であり、核兵器の開発や質的改良を抑制し、核軍縮の縮小や核不拡散を図ることなどを目的としている。同条約は、1996年に国際連合で採択されたが、現在のところ、アメリカ合衆国を含む一部の発効要件国が批准していないため、発効には至っていない。

  • 30

    アメリカ合衆国とロシア(ソ連)との間の戦略兵器削減条約(START)は、START IおよびSTARTⅡの両条約が批准・履行されたことで、戦略核弾頭数が大幅に削減された。さらに、両国は、STARTⅡの履行を踏まえ、配備された戦略核弾頭数をおのおの1700発〜2200発に削減することを定めたモスクワ条約に加盟した。

    ×

  • 31

    20世紀、国際連盟によって成立した「集団安全保障」は、1920年代にはすでに各国間の軍拡競争と対立を招き、第二次世界大戦の遠因となった。

    ×

  • 32

    第二次世界大戦後の冷戦期は、主として核兵器による抑止力が米ソの戦争を回避し、「長い平和」だったと評価する考えもある。

  • 33

    ナポレオン没落後のウィーン体制では、各国の「勢力均衡」が進んだ結果、軍縮を実現し、19世紀を通じてヨーロッパは平和を維持した。

    ×

  • 34

    「ハード・パワー」は、その国の保有する軍事力や経済力であり、それらの表出は国際会議での発言力や指導力などにも現れる。

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  • 35

    国際連合は、国連改革の一環として多数決による意思決定を改め、現在、熟議に基づく「満場一致」での決定を推進している。

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  • 36

    1968年に成立した「核兵器の不拡散に関する条約(NPT)」は、すでに核を保有していた国を含めたすべての国に、核兵器の開発を禁じ、削減を義務づけた。また、NPT体制は核兵器用の技術や原料の拡散を防ぐさまざまば制度的枠組みも提供してきており、インドやパキスタン等の加盟国による核実験を未然に防いだことから、同体制の功績は大きいと評価されている。

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  • 37

    1992年のB.ブトロス・ガリ国連事務総長による「平和への課題」は、国連の紛争対応能力を向上させるためのさまざまな提言を含む報告書である。同報告書は、国連の平和機能を「予防外交」「平和創造」「平和維持」「紛争後平和構築」に整理し、その強化方法について述べている。この「紛争後平和構築」には、紛争後の武装解除や難民の帰還等が含まれる。

  • 38

    多国間援助と二国間援助からなる政府開発援助(ODA)は、有償資金協力と無償資金協力(贈与)の2種類から成り立っており、技術協力は含んでいない。2000年に設定されたミレニアム開発目標(MDGs)において、援助供与国側には、努力目標として、ODAを国民総所得の0.1%まで増額するという数値目標が与えられた。

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  • 39

    難民の国際的保護と難民問題の恒久的解決を実現するため、国連総会は1950年に国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)を設立した。1965年に採択された「難民の地位に関する条約」は難民の宗教の自由や結社の自由等を認める画期的な内容であったが、日本はこの条約にいまだ加入していない。

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  • 40

    大気中の温室効果ガスの濃度を安定化させることを究極の目標とする「気候変動に関する国際連合枠組条約」が1992年に採択され、この条約に基づき、国連気候変動枠組条約締約国会議(COP)が1995年から毎年開催されている。2005年の締約国会議ではパリ協定が採択され、1年以内に世界の平均気温の上昇を停止することを求めた。

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  • 41

    1962年のキューバ危機を境に、米ソ間の歩み寄りの機運が生まれ、宇宙空間、水中、地下での核実験を禁止する部分的核禁止条約(PTBT)が、1963年に署名され発効した。この条約は、冷戦期に米国とソ連が初めて合意に至った軍縮条約であり、米ソによる核軍備の増強は実質的に制約されることとなった。しかし、中国、フランスは参加しておらず、これらの国の大気圏内での核実験の頻度は増加した。

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  • 42

    核不拡散条約(NPT)は、米国、ソ連、英国、フランス、中国を核兵器国と定め、核兵器国以外への核兵器の拡散防止を目的としている。核兵器国は、NPTに定められた不拡散の義務を担保するための措置として、NPT発効に伴って設立された国際原子力機関(IAEA)の査察を受ける義務を有する。条約の規定の遵守を確保するため5年に1度NPT運用検討会議が開催され、2015年の同会議では、中東非大量破壊兵器地帯の設置について合意文書が採択された。

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  • 43

    NPTの不拡散規範を実効的なものとする仕組みとして輸出管理の制度があり、そのうち、技術移転管理のための技術供給国間の協調体制として原子力供給国グループ(NSG)がある。NSGは特定の条約等に基づくものではないが、NSG参加国の中では、原子力関連資機材・技術の輸出に際し守るべき指針である法的拘束力のないNSGガイドラインに基づいて、輸出管理が実施されている。

  • 44

    包括的核実験禁止条約(CTBT)は、核保有国、非核保有国の如何にかかわらず、あらゆる空間における核兵器の実験的爆発を禁止する。この条約の履行の確保はIAEAが担うこととされており、国際監視制度等の検証制度が設けられているが、現地査察の権限は有していない。この条約が発効するためには、発効要件国44か国すべての批准が必要とされているが、2020年3月時点では、英国、フランス、ロシア、日本が批准しておらず、条約は未発効となっている。

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  • 45

    冷戦終結前後の多国間の核兵器の軍備管理体制として、1972年に締結された第一次戦略兵器制限条約(SALT Ⅰ)と1991年に締結された第一次戦略兵器削減条約(START Ⅰ)がある。これらの条約は、いずれも大陸間弾道ミサイル(ICBM)等の戦略核兵器の保有の上限数を制限するものであり、軍備管理条約と位置付けられている。一方、1993年に発効した第二次戦略兵器制限条約(STARTⅡ)は、戦略核兵器の全廃を目指す軍縮条約である。

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  • 46

    K.ウォルツは、戦争と平和を考えるとき、個人に注目する第一レベル、国家に注目する第二レベル、そしてパワーの配分状況といった国際システムに注目する第三レベルという異なる分析レベルを提示した。構造的リアリズムの立場をとるウォルツは、この中で国家の政治経済体制を重視する第二レベルから戦争と平和を最もよく説明できると唱えた。

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  • 47

    H.ニコルソンは、政府が国民の代表者の承認を経て決定する「外交政策」と、経験と深い思慮分別を身につけた職業外交官に委ねられる「外交交渉」とをはっきり区別すべきことを唱えた。その上で、主権者である国民の意思に従うという民主的外交は、危険が伴うものの、他の外交の方式より好ましいとした。

  • 48

    ゲーム理論で用いられる「囚人のディレンマ」では、独房にいる共犯の2人の囚人の自白と黙秘の選択のゲームが設定される。このとき、相手が自白した場合と黙秘した場合のそれぞれの状況においてよりよい選択肢を選ぶ結果、自白するより、相手を信頼して黙秘を続けることで共通の利益を得るミニマックス戦略を2人が共に選択する。これは軍拡か軍縮かという外交上の選択に示唆を与える。

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  • 49

    外交上の意思決定については、『決定の本質』でG.アリソンが3つのモデルを提唱したことが有名である。第一モデルは、政府を一枚岩の合理的な意思決定主体とみなす合理的行為者モデル、第二モデルは、意思決定が駆け引きややり取りによってなされることを重視する組織過程モデル、第三モデルは、外部からの入力に標準手続きに従って組織の反応が出力として示されるとする官僚政治もしくは政府内政治モデルである。

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  • 50

    1648年のウェストファリア条約以降、主権国家が外交の代表権を保持する最優位の主体として位置付けられる仕組みが形作られた。この原理は今日でも維持されており、国際連合でも総会や安全保障理事会はいうまでもなく、経済社会理事会や人権理事会でも、非政府組織は公式には今なお協議資格を認められていない。

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  • 51

    竹島は、隠岐島の北西に位置する。わが国は江戸時代より竹島で経済活動を行っており、明治38(1905)年に竹島を島根県に編入した。サンフランシスコ講和条約においても、竹島は日本がその権利・権原を放棄すべき地域とはされなかったが、昭和27(1952)年、韓国は「李承晩ライン」を一方的に画定し、その後竹島周辺を航行する海上保安庁巡視船を銃撃するなどした。わが国は竹島の領有権問題を国際司法裁判所に付託することを提案したが、韓国は応じていない。

  • 52

    北方領土とは、北海道北東海域にある歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島をさす。これらの島は元来ロシア領であったが、明治38(1905)年のポーツマス条約によって我が国に割譲された。その後第二次世界大戦時にソ連が北方領土に侵攻し、ポツダム宣言を受託した時点までに四島とも占領された。昭和31(1956)年に日ソ平和条約を締結した際に北方領土は返還されることで合意されたが、現在でも返還は実現していない。

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  • 53

    尖閣諸島とは、石垣島の北北西に位置する魚釣島等の島々を指す。明治28(1895)年の下関条約によって、清国よりわが国に割譲された。サンフランシスコ講和条約では、わが国が放棄する領土として明記されず、施政権は沖縄と共にアメリカ合衆国に引き継がれ、後に沖縄と共にわが国に返還された。その間領有権を主張し続けていた中国は、平成4(1992)年に領海法を制定して軍の部隊を駐屯させた。

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  • 54

    沖ノ鳥島は、太平洋上にあるわが国最南端の島である。沖ノ鳥島は、波による侵食で満潮時には水没する状態となり、中国からもはや島は消滅したためこれにかかる領海・経済水域は設定できないとする指摘を受けた。これを受けて、平成16(2004)年にわが国が護岸等の設置工事を行った結果、満潮時にも海面上に島が露出するようになり、中国は沖ノ鳥島周辺のわが国の経済水域で計画していた海洋調査の実施を断念した。

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  • 55

    東シナ海における資源開発について、わが国は平成15年(2003)年に東シナ海上に日中中間線の東側の海域で、天然ガス田の試掘を行った。これに対し、東シナ海での日中間の排他的経済水域にかかる境界は未確定として資源開発を自粛してきた中国が反発し、天然ガス田の開発中止と当該海域についてのデータ提供を求めた。わが国がこの要求を拒否したため、中国は平成17(2005)年に当該海域における海底調査を実施した。

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  • 56

    「パブリック・ディプロマシー」は広報外交や文化外交とも呼ばれ、外国や国際社会の世論に向かって、自国のソフトパワーを高めるために展開される。伝統的な外交が政府機関の専管事項であるのと異なり、パブリック・ディプロマシーに携わるのは産業界やアーティストなど、もっぱら民間の団体や個人である。

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  • 57

    「国内避難民」とは、紛争などによって強制的に家から追いやられながらも、国外に逃れることができず、いまだに出身国内にとどまっている人々のことをいう。国内避難民の数は国外への難民の数よりもはるかに少ないが、その保護が国際社会の急務となっている。

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  • 58

    「保護する責任(R2P)」という概念を打ち出した「介入と国家主権に関する国際委員会」による報告書は、ある国家で極度の人権侵害が生じているとき、一義的には当該国家に国民を保護する責任があるが、国家に対処能力や意思がない場合、国際社会がその責任を有するという考え方を提示した。

  • 59

    B.ラセットが提示した「デモクラティック・ピース」の理論によれば、民主主義国家は非民主主義国家よりも戦争をする可能性が少ない。それゆえ民主主義国家が増えるほど、戦争の危険は減ると予想された。

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  • 60

    欧州連合(EU)における地域連合が進展するのに伴い、加盟国から1名ずつの委員で構成される欧州委員会の権限が強化される側面が目立ってきた。その決定には欧州市民の民意が十分に反映されていないのではないかという疑問が出てきて、「民主主義の赤字」の問題の一例とされている。

  • 61

    エスニック・ナショナリズムに基づく国民国家形成の手段として、しばしば新生国家間では本来居住すべき国家に居住していない住民を対象に、強制力を伴う人口移動・交換が行われる。そのため、国民の追放を禁止する現行の欧州人権条約も、「集団的措置によるものではない限り、何人も自己の国籍国の領域から追放されない」としている。

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  • 62

    アフリカ諸国は独立を達成するにあたり、多くの場合、現地の住民の意向に配慮することなく宗主国が引いた植民地の境界線を国境としたが、1963年に創設されたアフリカ統一機構(OAU)は、主権尊重の立場をとり、独立達成時点の国境の維持を確約すると決議した。

  • 63

    コンゴ内戦におけるビアフラ、エチオピア内戦におけるエリトリアの分離独立運動のように、アフリカでは分離独立の要求が武装紛争を引き起こした事例は多いが、広範な国際的支持を確保するに至らず、いずれの地域も独立を達成していない。

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  • 64

    旧ソ連は、特定の基幹民族名(たとえばロシア人)を冠する連邦構成共和国(たとえばロシア)の領域的範囲と同機関民族の居住分布の一致を図った。しかし、革命直後の旧ソ連に併合されたバルト三国には併合後に大量のロシア人が流入したため、ソ連解体後もこれらの3国においてはロシア人がその多数派を占めた。

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  • 65

    冷戦の終結によって旧ユーゴスラヴィアや旧ソ連等の社会主義諸国の解体が進む過程において内戦が勃発したのは、ユーゴスラヴィア連邦の多数派であったクロアチア人やソ連のロシア人が新生国家の独立を機に「少数者」の地位に転落したためであった。たとえばチェチェン紛争も、ソ連を構成する共和国の一つであったチェチェン共和国の独立を契機とするものだった。

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  • 66

    グローバル・ガヴァナンスという概念は、グローバル・ガヴァナンス委員会が3年近くにわたる討議を経て、1995年にダボスの世界経済フォーラムで発表した報告書において示されたことで知られる。この概念には多様な議論が含まれるが、カント主義的なコスモポリタニズムに依拠してリアリズムやリベラル制度論を退けていることで共通している。

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  • 67

    特定の知識を持つ専門家集団が政策決定に影響を及ぼす場合、これを知識共同体(エピステミック・コミュニティ)と呼ぶことがある。専門家集団は新しいものの見方を提示し、ときには国境を越えたネットワークを作る。モントリオール議定書や京都議定書といったグローバルな環境レジームの形成にこれが見て取れる。

  • 68

    R.パットナムは、国際交渉と国内の批准者との二層ゲームという分析手法を案出した。これによると、議会の表決において国内批准に必要な多数を獲得することができるような国際合意の集合を勝利集合(ウィン・セッツ)とし、勝利集合が小さければ小さいほど、国際交渉のフリー・ハンドが拡大するため、国際交渉が妥結しやすくなるが、他方で相手国より譲歩を引き出しにくくなる。

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  • 69

    国家安全保障に対して、人間を中心に置いた安全保障の構想が人間の安全保障である。国連貿易開発会議(UNCTAD)が1994年の『人間開発報告書』で先駆的に唱え、人間の安全保障委員会が2003年に『安全保障の今日的課題』を提出した。この中では、目標として「恐怖からの自由」と「欠乏からの自由」が挙げられ、国家による安全保障の時代は終わったとして、安全保障の担い手として、さまざまな脅威から人間を守るために多様な非国家主体が掲げられた。

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  • 70

    国際関係の批判りろんの代表的論者であるR.コックスは、「理論は常に誰かのために、何らかの目的のために存在している」という立場から、客観法則を追求しようとする実証主義を批判し、世界システムを実体化してとらえないよう戒めた。他方で、とりわけ社会勢力の役割を強調して抑圧や暴力からの人間の解放を構想する発想をユートピア主義としてこれを排除した。

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  • 71

    J.ナイは、国際関係でパワーが論じられるときには、軍事的手段や経済的手段などを用いて他の主体の行動に直接的に作用するパワーに加えて、文化的手段を説得・感化に用いて他の主体の行動に間接的に作用するハード・パワーがあるとした。

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  • 72

    国益を追求する諸国家間の力の関係に着目して国際関係を捉える見方を、一般に現実主義(リアリズム)と呼ぶ。人間の性向に着目するK.ウォルツの現実主義や、国際システムを重視するH.モーゲンソーの構造的現実主義(ネオリアリズム)等がある。

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  • 73

    1969年の著作『危機の二十年』で、H.キッシンジャーは、19世紀以来の自由主義思想を国際政治に適用しようとする考え方に対して、世論と規範意識によって国際平和が達成されると信じる立場は国際政治の権力的要素を無視していると批判し、現実主義の必要性を説いた。

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  • 74

    英国学派とは、諸国家が持つ共通の制度や規則の存在に着目し、アナーキー(無政府状態)なものではあるが社会としての性格も持つ国際社会の存在を論じ、その制度や歴史に関する研究を発展させたH.ブルらが代表する学派である。

  • 75

    リアリズムの立場から主張される勢力均衡の理論は、諸国家の軍事力などを中心とするパワーが同程度で釣り合っていれば国際政治の安定が保たれやすいというものだが、リアリズムの流れをくむネオリアリズムの代表的論者であるR.ギルピンも、同様に、ある覇権国に対抗しうるようなパワーを持つ別の覇権国の存在が国際政治の安定をもたらすとの覇権安定論を展開した。

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  • 76

    リベラリズムは、リアリズムと同様に国家を自己の利益を追求する主体と捉え、国際関係をアナーキー(無政府状態)ととらえていることから、O.ヤングは、資源保護や環境問題への対策等に関する研究において、国際制度や問題対応のための国際レジームの有用性を否定した。

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  • 77

    リベラリズムの立場からは、技術的・経済的な問題は政治性が低いため、国際協調が比較的容易であるとの機能主義が主張され、経済社会分野での国境を越えた協力関係の強化を通じて国際紛争を抑制できるというD.ミトラニーの主張した見解は、国際連合の専門機関の設立にも影響を与えた。

  • 78

    リベラリズムの代表的な論者であるR.コヘインとJ.ナイは、国家間関係における軍事力の相対的な重要性が低下し、国家間に存在する経済・社会的な多様な領域での複雑なイシュー・リンケージ(問題領域間の連携性)が起こるなど、それ以前の理論とは異なる国際政治過程が見られる「複合相互依存」状態をひとつの理念型として提唱した。

  • 79

    リベラリズムの理論では国際関係における道徳の役割を重視しない傾向が強い。これに対しリアリズムの論者として知られるS.ホフマンは『国境を越える義務』で、国際関係でも道徳的行動の余地が一般に論じられている以上に大きいことを主張し、国際社会であっても一定の道徳基準があり、政治家には責任倫理が求められることを強調した。

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  • 80

    H.ブルは、近代主権国家システムの歴史を通じて、3つの競合する思想的伝統が存在するとした。すなわち、国際政治を闘争状態とみなすホッブズ的伝統、潜在的な人類共同体が国際政治においても機能しているとみなすカント的伝統、国際政治は国際社会の枠内で発生するとみなすグロティウス的伝統の3つである。

  • 81

    コンストラクティビズムは社会学的な理論構成を掲げ、国際政治を国家相互の間主観的な関係ではなく、個々の国家が一方的に持つ主観的なイメージや理念がぶつかり合う領域とみなした。各国が名声を気にし、自らの国益を制限するように見える国際規範を受け入れることがあるのは、そうした一方的な主観的要因が作用するためである。

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  • 82

    恒久平和の実現は、共和政体、常備軍の廃止、国家連邦といった制度から構築されると論じたのは啓蒙思想家のJ.ロックである。この思想は国家間の協調を追求するリベラリズムの論調に継承され、M.ドイルやB.ラセットは戦争防止には民主主義よりも自由貿易体制が重要だとする「通商による平和」論を唱えた。

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  • 83

    ナポレオン戦争後のヨーロッパで形成されたウィーン体制は、1821年から始まるギリシア独立戦争やそれに付随する露土戦争によって短命に終わり、H.モーゲンソーやH.キッシンジャーらのリアリストから、勢力均衡のメカニズムを欠いた不安定な仕組みだとみなされた。多くのリアリストがそれに代わって安定した勢力均衡のモデルとみなしたのが、第一次世界大戦後のいわゆる戦間期である。

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  • 84

    H.モーゲンソーは『国際政治』で、国際関係では「力によって定義される利益」をめぐって権力闘争が繰り広げられると論じた。モーゲンソーによれば、権力闘争は国際関係において政治、経済、文化、倫理などのあらゆる局面で見られる客観的原理であり、あらゆる国家の行動準則を形作っている。

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  • 85

    J.ナイは、冷戦初期について「平和は不可能だが、戦争はありそうにない」と記述したことで知られている。東西の大分裂を国家間のパワーのバランスから分析し、また西側にとっての大西洋同盟の重要性を強調した。さらに『平和と戦争』を著し、核戦略についての研究を進めた。

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  • 86

    I.ウォーラーステインによって提唱された世界システム論は、15世紀末以降に形成された世界経済と国際政治を世界資本主義による分業の体制ととらえた。そこでは周辺と中央の二極文化が貫徹し、周辺の剰余価値の中央への収奪が進むため、中央の経済発展の一方で周辺の絶対的窮乏化が進むとされた。

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  • 87

    J.ガルトゥングは平和研究の代表的研究者であり、暴力を行使する主体が明確な直接的・個人的暴力と、暴力の主体が明確ではない間接的・構造的暴力とを区別した。その上で、直接的・個人的暴力は平和研究の対象としては重要ではなく、これまで見落とされがちであった間接的・構造的暴力こそが、長期的で大規模になりやすいとして、もっぱらこれを考察すべきだと主張した。

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  • 88

    A.ウェントらが唱えるコンストラクティヴィズムは、これまで国際関係の分析において重視されてきた物質的・客観的な要素よりも、非物質的・主観的な要素の重要性を強調する。そのため、理念、規範、イデオロギー、アイデンティティなどが間主観的に構成されることで国際関係が形成され、展開するとみなした。

  • 89

    国際レジームとは、「国際関係の特定問題領域における、諸主体の期待が収斂するところの黙示的あるいは明示的な原則、規範、規則、意思決定手続の集合」と定義される。国際レジームの例としては、国際貿易レジーム、核不拡散レジーム、国際人権レジーム、地球温暖化防止レジームなどが挙げられる。このような国家間協力に着目したのが国際レジーム論である。

  • 90

    リアリズムでは一般的に国家間協力は難しいとされるが、ネオリアリズムの覇権安定論では、覇権国によって作られた国際レジームまたは国際制度に他の国々が従うことで国家間協力が実現されることは珍しくないと論じられた。また、国際レジームはいわば覇権国による秩序安定のための手段であり、国家間協力は覇権国の圧倒的パワーによって促されるとされた。

  • 91

    覇権安定論の主張どおりであれば、覇権国が衰退すれば、圧倒的なパワーという後ろ盾を失うことになる国際レジームや国際制度もまた崩壊・消失していくことになる。これに反論したのが、ネオリベラリズムの国際レジーム論あるいはネオリベラル制度論であった。この立場によれば、何も存在しないところに国際レジームを作るのは容易なことではなく、覇権国の主導を要するが、一度作られた国際レジームを運用していくだけであればさほどコストはかからないとして、覇権衰退後の世界でも国際レジームは存続しうるとされた。

  • 92

    ヘゲモニーとは、国際関係において一国が突出したパワーを持ち、国際的なリーダーシップを発揮して国際公共財を提供することで国際秩序を形成し、その受益国をフォロワーとする仕組みのことである。16世紀以降の近現代ではどの時代でも継続的に見られる。

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  • 93

    ヘゲモニー・サイクル(覇権循環)とは、覇権国が勃興、勝利、成熟、衰退という共通のサイクルを描き、覇権国の盛衰が歴史的に繰り返されたことを示す。19世紀後半から20世紀初頭の英国、第二次世界大戦後の米国などのヘゲモニー・サイクルを見ることができるが、それぞれのヘゲモニーを支えるパワーの基盤は歴史的に多様である。

  • 94

    覇権安定論とは、ヘゲモニーが成立している期間には、大国間の戦争が減り、国際秩序が安定するという説である。しかしR.コヘインは、ヘゲモニー衰退後も、覇権国主導でつくられた国際レジームが持続性を持つため、国際秩序の安定が維持されると論じた。相反するこれらの見解は、いずれも伝統的な勢力均衡論に基づく主張である。

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  • 95

    覇権国のパワーが低下し始めると、新興国家が既存の国際秩序へのチャレンジャーとして現れ、国際秩序の再編をめぐる闘争が展開し、チャレンジャーがかつての覇権国に代わって新たな覇権国としてヘゲモニーを確立する。16世紀以降、この繰り返しが100年から120年ほどの周期で見られた。

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  • 96

    19世紀後半のパックス・ブリタニカは、海軍力と経済力で他を圧倒した英国がもたらした平和をさす。英国は「世界の工場」であり、「世界の銀行」であり、高関税政策と保護主義貿易で自らの帝国圏内での資本蓄積を強力に進めることができた。

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  • 97

    「関税及び貿易に関する一般協定」(GATT)の下で行われたウルグアイ・ラウンド交渉の妥結の際に、世界貿易機関(WTO)の設立が合意された。WTO協定では、従来GATTが対象としてきた物品の貿易に加えて金融・通信などのサービス分野、著作権や特許権などの知的財産権分野に関してもルールが策定され、また、WTOにより統一化された紛争解決手続きによらず一方的措置を発動することが禁止されるなど紛争解決手続きが強化された。

  • 98

    WTO協定においては、不公正な貿易による被害に対する救済手段として貿易救済措置を設けている。貿易救済措置のうちアンチ・ダンピング関税措置は、特定品目の輸入の急増が国内産業に重大な損害を与え、国民経済上緊急の必要性が認められる場合に、損害を回避するために発動されるもので、輸入数量の制限を内容としている。わが国では、ネギや生シイタケの輸入に関して措置が発動された例がある。

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  • 99

    WTOに代表されるグローバルな貿易秩序が存在する一方で、一部の国や地域で協定構成国のみを対象として関税を原則廃止してモノやサービスの貿易自由化を行う自由貿易協定(FTA)が締結されている。FTAの新規の締結件数は、1990年代には、多国間での貿易自由化交渉に比較して合意形成が容易であることから急速に増加したが、2000年以降になるとWTOの枠組みが活用されるようになり、新規の締結件数は大幅に減少している。

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  • 100

    わが国は、モノやサービスの貿易自由化だけでなく投資の自由化、人的交流の拡大等幅広い分野を含む経済連携協定(EPA)を2002年に初めてシンガポールとの間で締結した。2015年末現在、東南アジア諸国連合(ASEAN)、欧州連合(EU)、インド、オーストラリア、メキシコなどの地域・諸国とのEPAが発効しており、これらEPA相手国との貿易額がわが国の貿易総額に占める割合は約80%となっている。

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