問題一覧
1
米州機構(OAS)は、1948年に採択された「米州機構憲章」に基づき、アメリカ合衆国および中南米諸国20か国を原加盟国として発足した。同年に発効した平和的解決のための米州条約および米州相互援助条約は、それぞれ本機構による紛争の平和的解決などを詳細に規定しており、本機構は国連憲章第52条の「地域的機関」としての地位を有すると同時に、米州相互援助条約を運用するための地域機構としての性格を持つといえる。
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2
集団安全保障とは、平和と安全の実現を目的として国家間で合意を作り上げ。集団内での武力行使に対して、他の国家が集団的に対処する仕組みをいう。
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3
安全保障理事会は、5カ国の常任理事国と選挙により選出される16カ国の非常任理事国とで構成される。非常任理事国は、任期は2年で、地域間の均衡を配慮して、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ、東欧、西欧その他の各地域ごとに一定数が選出され、また、連続して任期を務めることが認められている。日本は、現在までに加盟国中では最も多く非常任理事国を務めている。安全保障理事会の決定は、手続き事項を除き、構成する21カ国のうち14カ国以上の賛成を必要とするが、常任理事国のうち1カ国でも反対した場合は成立しない。
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4
国際連盟は、第一次世界大戦後に設立された国際機関であったが、軍事的制裁を実施する場合には全加盟国の同意が必要とされたため、実効性のある対策を打ち出すことが困難であった。
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5
国際連合は、安全保障理事会の常任理事国に拒否権を認めたため、侵略抑止の効果が疑問視されることとなった。そこで、各国の個別的自衛権は認めず、集団的自衛権の行使だけを認めた。
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6
国際連合においては、総会が国際の平和と安全の維持について重要な責任を負っている。安全保障理事会は、総会の監督の下、国連軍の指導等の役割を担う。
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7
朝鮮戦争(1950〜1951年)と湾岸戦争(1991年)では、国際連合による集団安全保障が有効に機能した。侵略国に対して国連軍が派遣され、平和と安全が回復された後、講和条約も締結された。
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8
総会は、すべての加盟国のよって構成され、その表決は過半数の賛成で決するが、五大国のうち1つでも反対した場合、採決は行われない。
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9
経済社会理事会は、経済および社会問題全般に関して審議する機関であり、理事会は五大国すべてを含む、15か国によって構成されている。
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10
国際司法裁判所は、国際紛争の平和的解決のために設置された機関であり、国家のみが事件を付託でき、加盟国はその判決に拘束される。
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11
事務総長は安全保障理事会が任命するため、歴代の事務総長は全て、五大国のいずれかの国の出身者である。
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12
国連の職員は国連と自身の出身国に忠誠を誓う義務を負っているため、国際的職員として認められていない。
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13
国連の経費は、国連憲章において、加盟各国が負担することとされており、国連通常予算の各国の分担率は、基本的には各国の支払い能力に基づき、具体的な分担率を国連総会によって決定することとされている。ただし、特定の加盟国に過度に依存するのは適当でないとの配慮から分担率には上限が設定されている。2019年から2021年における国連通常予算の日本の分担率は、8.564%と決定され、米国、中国に次ぎ加盟国中第3位となっている。
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14
安全保障理事会は、5か国の常任理事国と選挙により選出される16か国の非常任理事国とで構成される。非常任理事国は、任期は2年で、地域間の均衡を配慮して、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ、東欧、西欧その他の各地域ごとに一定数が選出され、また、連続して任期を務めることが認められている。日本は、現在までに加盟国中では最も多く非常任理事国を務めている。安全保障理事会の決定は、手続き事項を除き、構成する21か国のうち14か国以上の賛成を必要とするが、常任理事国のうち1か国でも反対した場合は成立しない。
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15
国際司法裁判所は、国連の主要な司法機関として、条約、協定の解釈など国家間で発生した国際法上の紛争のほか、戦争犯罪や人道に対する罪についても処理する機関で、国連総会と安全保障理事会が別個に実施する選挙で選出された15人の裁判官で構成される。同一国から選出される裁判官の数についての制限はなく、同一期間において、日本から複数名の裁判官が選出されていたこともある。また、国際司法裁判所に係属する事件の訴訟当事者となれるのは国家のみであり、個人、非政府組織、民間企業からの申し立てを処理することはできない。
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16
国連創設60周年を機に開催された国連首脳会合において、国連が、創設以降、安全保障、開発、人権、環境などの分野で、課題解決のために中心的な役割を果たしてきたことが確認された。他方、国連の機能が複雑化するにつれて生じてきた、組織の肥大化や縦割りの弊害、非効率性、不透明性についての批判がなされたため、平和維持活動については、簡素化による規模の縮小を目的として、国連事務局の関係組織を、新たに設立された平和構築委員会の下に整理統合する組織改革が行われた。
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17
国連の主要機関である経済社会理事会は、経済、社会、文化、教育、保健、人権の分野における国際的な課題について研究と報告を行い、総会や国際労働機関、国連食糧農業機関などの関係する専門機関に勧告することなどを任務とする機関で、経済制裁に関する勧告については、核実験実施国に対するそれも含め重要な任務の一つとなっている。経済社会理事会の取り扱う分野が広範囲であるため、その活動にかかる人材および資金は、国連全体の70%を占め、また、「麻薬委員会」「開発計画委員会」など多くの委員会が下部機関として設置されている。
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18
国際通貨基金(IMF)は、1944年のブレトン・ウッズ会議で採択されたIMF協定に基づいて設立され、1975年のキングストン合意によって変動相場制から固定相場制に移行し、その後は、加盟国の為替政策の監視を主な任務として行っている。その活動の1つが、国際収支問題を抱える加盟国に一時的に信用を供与することであり、1990年代終わりに生じたアジア通貨危機により、タイ、インドネシア、韓国および中国に対してIMFの融資が行われた。
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19
世界保健機関(WHO)は、1946年の国際保健会議で採択されたWHO憲章に基づいて設立された機関であり、主な活動として、感染症その他疾病の撲滅事業の促進、世界各地の難民の国際的保護等を行っている。2011年に、WHOの総会はパレスチナの正式な加盟を承認したが、これに反対した米国は分担金の支払いを停止した。
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20
1919年に設立された国際労働機関(ILO)は、政府、使用者、労働者の各代表からなる三者構成の原則をとっており、全加盟国が参加する国際労働総会、わが国も政府側の常任理事を務める理事会等で構成されている。労働の基本的権利に関するILO条約について、ILO加盟国は、未批准であっても、これらの条約に掲げる原則の実行についての進捗を報告しなければならない。
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21
国連開発計画(UNDP)は、1961年の国連総会の決議により、多国間食糧援助に関する共同計画の実施組織として設置された機関であり、主な活動として、食糧が欠乏している貧しい人々への食糧の提供、天災等の緊急事態により生じた食糧不足に対する緊急援助を行っている。2010年にハイチを襲った大地震の際には、自前の輸送手段を活用して、緊急支援を実施した。
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22
世界銀行を構成する1つの機関である国際開発協会(IDA)は、1945年に設立されて以来、中所得国や信用力のある貧困国に融資や保証、分析・諮問サービスなどを提供している。1950年代後半からは、利息支払いもできない可能性があるために融資を受けられない国が現れるようになったことから、より緩やかな条件で融資する組織として国際復興開発銀行(IBRD)が創設された。IBRDによる融資の原子のほとんどは加盟国からの出資金で賄われている。
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23
「地球公共財(global public goods)」とは1970年代から「地球規模の共有資源(global commons)」の同義語として使われている。国連開発計画(UNDP)は、地球環境の保全という目標が途上国の発展の権利を過度に制約しかねないことを恐れてこの概念を用いていない。
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24
「人間の安全保障(human security)」とは、ルワンダやコソボなどにおける人道的破局状況を回避するために、コフィ・アナン国連事務総長がその報告「平和への課題」の中で提唱した国連平和維持活動の目標である。従来の同活動とは異なり、人道的救援物資の運搬を確保するために国連ミッションに武力行使権限を容認する必要が説かれた。
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25
「国際の平和と安全(international peace and security)」とは、国際連合創設の目的として、国連憲章の目的規定の冒頭に掲げられている。その憲章第39条は、安全保障理事会に、平和に対する脅威、平和の破壊または侵略行為の存在を認定するとともに、国際の平和および安全を維持・回復するために勧告・決定する権限を与えている。
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26
「保護する責任(responsibility to protect)」とは、9.11テロ事件を契機として米国の保守系政治組織が打ち出した概念である。国家には国際的なテロ組織による攻撃から自国民を保護する責任があるため、テロ組織を取り締まる意思と能力を持たない国家に対しては自衛権を法的根拠として武力行使を行うことができるとされた。
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27
「持続可能な開発(sustainable development)」とは、もともと2000年の国連ミレニアム宣言において先進諸国の援助政策の目標として初めて定式化されたもので、その後その概念は世界的に使われるようになった。開発の推進、貧困の解消を、地球環境の保全と両立させることが強調された。
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28
東南アジア諸国連合(ASEAN)は、2000年代に入り、さらなる統合を推進し、組織を強化する動きを見せており、2007年にはASEAN憲章が採択された。同憲章では、法の支配、民主主義、人権尊重、グッド・ガバナンス等の諸原則が明記され、加盟国の内政の不干渉の原則が維持された。また、意思決定は協議とコンセンサスに基づくこととされ、コンセンサスが得られない場合には首脳会議に委ねられる。
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29
2003年に採択された第二ASEAN協和宣言では、安全保障共同体、経済共同体、社会・文化共同体からなるASEAN共同体を設立することについて合意され、ASEANでは、2020年の3共同体の発足に向けたさまざまな取り組みが進められている。また、共同体の構想に当たっては欧州連合(EU)が参考とされ、ASEAN共同体の設立に当たって議会を設置することや単一通貨を導入するための準備が進められている。
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30
ASEAN諸国とわが国、中国、韓国によるASEAN+3首脳会議は、1990年代終わりに生じたアジア通貨危機への対応を通じ、地域協力の枠組みとして急速に発展した。しかし、その協力分野は通貨や金融が中心であったことから、2005年には、米国、オーストラリア、ニュージーランドを加えた新たな枠組みとしてASEAN+6と称される東アジア首脳会議(EAS)が始動し、ASEAN+3の枠組みは発展的に解消された。
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31
ASEAN地域フォーラム(ARF)は、アジア太平洋における政治・安全保障問題に関する対話と協力の多国間枠組みとして、1994年から設置されている。27の国と機関が参加し、信頼醸成、予防外交、紛争解決、復興支援という4段階を設定して対話を進めることとしているが、コンセンサスを重視して制度化を急がない漸進的なペースによる会議運営が特徴のため、2017年3月現在も準備段階であり、まだ1度も開催されていない。
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32
アジア欧州会合(ASEM)は、相互尊重および相互利益に基づく平等な関係の下、アジアと欧州の共通の関心事項について、オープンで包括的な対話と協力を行う仕組みとして、バンコクで第1回首脳会合が開催された。政治、経済、社会、文化等の3つの分野を活動の中心とし、近年ではアフリカ諸国の参加が拡大し、2017年現在は53の国と機関によって構成されている。首脳会合は非公式会合として形式にとらわれず、不定期に開催されるのが特徴である。
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33
ASEANは、東南アジア10か国による地域協力機構であり、その域内には約10億人が居住している。2020年末までに、ASEAN共同体の発足をめざしている。
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34
NAFTAは、1994年にアメリカとカナダの間で発効した自由貿易協定である、2002年にメキシコが加盟申請したものの、アメリカがこれを拒否し続けている。
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35
MERCOSURは、南米のすべての国々が参加している完全同名である。非民主主義国も加盟しているため、民主主義が遵守されていないと批判されることも多い。
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36
EUは、欧州諸国が結成している国際機構である。2017年にイギリスが離脱を表明したが、同年中にはソビエト連邦を構成していたベラルーシとウクライナが加盟した。
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37
AUは、アフリカ統一機構(OAU)を改組して2002年に発足した地域協力機構である。50を超えるアフリカ諸国が加盟し、域内の経済成長などをめざしている。
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38
オーストリアのR.クーデンホーフ=カレルギーは、欧州を舞台として甚大な被害をもたらした第二次世界大戦への反省から、戦後、欧州の統合による平和の維持と共同市場の結成を通じた繁栄を訴える汎ヨーロッパ運動を推進した。これを受けてフランスのC.ドゴール大統領は、アメリカ合衆国をモデルとした「ヨーロッパ合衆国」の創設による欧州の統合を訴えた。
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39
1952年に発効したパリ条約によって設立された欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)は、西ドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、デンマークの6か国を原加盟国とし、加盟国域内で産出される石炭と鉄鋼を共同管理することを目的としたものであり、以後の欧州連合(EU)成立に至る統合の端緒となった。この取り組みは西ドイツのR.シューマン外相によって提唱されたものであり、ECSCの設立には西ドイツが強いリーダーシップを発揮した。
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40
1958年に発効したベルリン条約によって、貿易障壁の撤廃による自由市場の形成、共通の経済政策、加盟国間の生活水準の是正を目的として、欧州経済共同体(EEC)が設立された。ただし、加盟国間における具体的な制度の調整に時間を要したため、EEC加盟国による関税同盟の設立は、1986年の単一欧州議定書の採択まで達成されなかった。
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41
1967年に発効したブリュッセル条約により、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)、欧州原子力共同体(EURATOM)および欧州経済共同体(EEC)のそれぞれの執行機関(委員会)を統合して、欧州共同体(EC)委員会が創設された。この後、ECにおいては、英国等の新たな加盟による領域の拡大と、通貨協力の取組等による統合の深化が進められた。
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42
1993年に発効したマーストリヒト条約によって、欧州共同体(EC)を第1の柱、共通外交・安全保障政策を第2の柱、共通通貨の創設を第3の柱とするいわゆる神殿構造のEUが成立した。その後、2009年に発効したリスボン条約により、この構造は廃止されてさらなる統合の深化が図られ、EU域内市民の直接選挙によるEU大統領職が創設された。
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43
南アジア地域協力連合(SAARC)はインド、パキスタンなどの南西アジアの7か国を原加盟国とする地域協力の枠組みである。SAARC憲章では経済社会開発や文化面での協力などの非政治領域での協力をSAARCの目的としているほか、印パ対立などを背景とした域内の緊張を緩和するべく二国間や地域の係争事項を首脳会議において討議することとしており、SAARCの枠組みによってカシミール地域の帰属決定に関する住民投票が実現した。
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44
米州機構(OAS)は1951年に発足した汎米国際機関である。当初OASは米国の影響の下、1962年にキューバへの制裁決議を行うなど反共政策を推進していたが、米州開発銀行の創設や米州人権条約の採択など、経済社会開発面での活動も強化するようになった。近年では民主主義の擁護・推進もOASの目的の1つとなっており、1990年に設置された民主主義促進室を活動主体として米州各国での選挙監視活動や法整備支援を行っている。
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45
アフリカ連合(AU)は、アフリカ大陸とその周辺島嶼の諸国を包括する地域機関であり、アフリカ統一機構(OAU)が発展改組されて発足した。AUはOAUと同様、厳格な内政不干渉原則を採用しているが、近年ではソマリア情勢などを背景に、紛争予防・解決能力を強化するべく、紛争担当部門を独立させる機構改革を推進しており、今後総会の下に平和安全保障理事会やアフリカ待機軍を創設することが構想されている。
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46
太平洋諸島フォーラム(PIF)はオーストラリア、ニュージーランドなど大洋州に位置する16か国・地域で構成された組織であり、政治・経済・安全保障など幅広い分野において域内共通の関心事項の討議を行っている。近年、援助国を中心とした域外国との対話も開始しており、2012年の5月にはわが国とPIF間の対話の場として初めて太平洋・島サミット(PALM1)が開催され、環境・気候変動や海洋問題、人間の安全保障などについて議論された。
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47
欧州評議会(Council of Europe)は民主主義の擁護および人権保護の推進を理念として1949年に設立された。欧州評議会の目的は人権、民主主義および法の支配の擁護であり、1953年に発効した欧州人権条約に基づき、欧州人権裁判所が設立されている。その他、加盟国の防衛問題への取り組みも行われており、1975年に旧東側諸国の国境固定化などを内容とするヘルシンキ宣言を行い、冷戦終了前の東西陣営の軍事的緊張感を緩和することに貢献した。
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48
米州機構(OAS)は、1948年に採択された「米州機構憲章」に基づき、アメリカ合衆国および中南米諸国20か国を原加盟国として発足した。同年に発効した平和的解決のための米州条約および米州相互援助条約は、それぞれ本機構による紛争の平和的解決などを詳細に規定しており、本機構は国連憲章第52条の「地域的機関」としての地位を有すると同時に、米州相互援助条約を運用するための地域機構としての性格を持つといえる。
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49
北大西洋条約機構(NATO)は、1949年4月にワシントンで署名された条約に基づいて設置され、同条約第5条では国連憲章第51条が定める集団的自衛権を行使できることを規定している。しかし、冷戦終結後の現在も、第5条の集団的自衛権は一度も発動されたことがない。2001年10月からアフガニスタンのタリバンに対して米英などが武力行使に踏み切ったが、この軍事作戦も国際連合安全保障理事会決議の採択を待って始められたものである。
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50
1950年6月の朝鮮戦争勃発など冷戦の激化を受けて、西ドイツの再軍備が求められるようになると、フランスは西ドイツの再軍備を歓迎しつつアメリカ合衆国の影響力を排除する目的から、フランスの国民議会の支持の下、欧州主導で西ドイツの再軍備を支援する欧州防衛共同体(EDC)の創設を推進した。一方、アメリカ合衆国はフランスに対抗して西ドイツのNATO加盟を通じた再軍備を強く推し進めたため、フランスはEDC創設を断念せざるをえなくなった。
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51
1957年3月にローマで著名された欧州経済共同体(EEC)設立条約は、農業、漁業、通商などさまざまな政策領域で統合を実現した。それから50年経った2007年3月、欧州連合(EU)加盟諸国は、リスボンで共通外交・安全保障・防衛政策の樹立をうたい、EU大統領やEU外相などのポストを設けて「連邦国家」のような統合体へと発展を遂げることを掲げた欧州憲法条約に、政治合意した。
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52
東アジア地域では、1997年12月以降、東アジア諸国連合(ASEAN)と日中韓3か国によるASEAN+3の協力枠組みが制度化されてきた。しかし、ASEAN+3を活用した東アジア地域協力は、ASEAN各国首脳が日中韓首脳と定期的な会合を重ねる程度にとどまり、大臣レベルの協議は実現していない。ましてや日中韓では3か国独自の首脳会合すら開かれていない。
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53
1952年に発足した欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)を起源に持つ欧州共同体(EC)は、地域的な経済協力機構として、加盟国を拡大させ続けた。1993年に欧州連合(EU)に生まれ変わり、単一市場は北欧や東欧にまで広がった。ただし、共通の外交・安全保障政策はとられていない。
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54
東南アジア諸国連合(ASEAN)は、地域の安定を図りながら共産主義の脅威に対抗することを目的として、1967年に設立された。域内の著しい経済成長を背景として、様々な広域地域制度を推進しており、その結果、アジア太平洋経済協力(APEC)は消滅した。
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55
1995年に設立された世界貿易機関(WTO)は、貿易に関する規則が遵守されているかを監視し、貿易紛争を解決する国連の関連機関である。WTOの設立に伴って紛争解決手続は強化されたが、サービス貿易や知的財産権等の新分野での規則作りは回避された。
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56
1994年に発効した「海洋法に関する国際連合条約」は、伝統的な海洋とその資源の自由な利用の原則を修正し、領海、排他的経済水域、大陸棚等に関する規則を整備した。これによって新しい海洋法秩序が生まれた。
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57
国際的な経済格差を背景にして、20世紀後半から途上国に対する政府開発援助(ODA)が活発に行われるようになった。1961年に国連経済社会理事会(ECOSOC)の傘下に開発援助委員会(DAC)が設立され、援助の方針も定められるようになった。
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58
ウィルソン政権は、第一次世界大戦が勃発するとともに武器貸与法を成立させ、ドイツと戦うイギリスを積極的に支援した。その後、ドイツの無制限潜水艦作戦をきっかけとして、ドイツに対して宣戦布告を行い、第一次世界大戦後に参戦した。
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59
F.ローズヴェルト政権は、日本による「満州」や中国、東南アジアへの進出に反対しつつも、一貫して対日交渉を継続した。そして、真珠湾攻撃があるまでは第二次世界大戦に参戦せず、対日経済制裁を行うこともなかった。
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60
トルーマン政権は、朝鮮戦争が勃発すると、国際連合安全保障理事会の決議を取りつけ、「国連軍」の中心として参戦した。その後、中華人民共和国が義勇軍を派遣すると、マッカーサーが中国本土への核兵器の使用を強く主張したため、トルーマン大統領は彼を解任した。
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61
ケネディ政権は、ベトナムのホーチミン政権への介入方針を改め、「紛争のベトナム化」を唱えて同国から軍を撤退させた。その後、ホーチミン政権が南北ベトナムを統一したことから、ケネディ大統領は統一ベトナムとの国交を正常化した。
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62
レーガン政権は、イラクのフセイン政権がクウェートに侵攻すると、国際連合安全保障理事会の決議なしに多国籍軍を組織してイラク軍と交戦した。そしてソ連がこれを批判すたことから米ソ関係が悪化し、いわゆる新冷戦の時代に突入した。
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63
1947年、ソ連は東欧諸国の経済復興への大規模援助を行う相互安全保障法による援助(MSA)を表明するとともに、ヨーロッパ各国の共産党間の情報交換と活動の調整を行い、連携を強化するための機関として共産党・労働党情報局(コミンフォルム)を結成した。
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64
1949年1月に米国をはじめとする12か国によって、集団安全保障機関としての北大西洋条約機構(NATO)が設立されると、同年4月、ソ連と東欧諸国は軍事同盟(COMECON)を設立し、軍事面における結束を図って西側陣営に対抗した。
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65
1962年のキューバ危機の翌年、米ソは部分的核実験禁止条約(PTBT)を共同提案した。これは、合法的な核保有国の数を、その時までに核保有を宣言していた5か国に限定しようとするもので、同年締結され、米国、ソ連、英国、フランス、中国の5か国の参加で始まった。
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66
1968年、チェコスロバキアのプラハの春と呼ばれる改革運動に対して、ソ連は、社会主義諸国全体の利益と安全は1つの社会主義国の主権に優越するという主張を展開し、軍事介入を行おうとしたが、米国との緊張関係や世界的な反戦平和運動もあり、軍事介入は回避された。
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67
1985年にソ連共産党書記長となったゴルバチョフが、国内で社会全般にわたる斬新な改革(ペレストロイカ)を進め、新思考外交を展開するようになると、レーガン政権も核軍備管理、核軍縮のための交渉に応じ、1987年、米ソ間で中距離核戦力(INF)全廃条約が締結された。
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68
冷戦期の世界では、米ソの間の全面対立は回避されたが、ヨーロッパの新興独立諸国を中心にした地域では、米ソが政府や反政府勢力に支援し合う形の代理戦争が多発した。同様に、アジアでも朝鮮戦争や中印国境戦争が起こった。
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69
1962年にソ連がベルリンに中距離核ミサイル基地の建設を始めたことから、米ソ間の緊張が高まり、核戦争の危機が訪れた。陸路の封鎖で対抗する米国にソ連が譲歩して建設が中止された後、両国の首脳間にホットラインが結ばれるなどの措置がとられた。
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70
米国のR.ニクソン大統領は、1971年、中国を訪問することを発表し、翌年2月に訪中した。この米中和解の背景には、中ソ対立やベトナム戦争終結に向けた動きがあった。日本からも1972年9月に田中角栄首相が訪中し、1978年に日中平和友好条約が締結された。
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71
1985年にソ連共産党書記長に就任したM.ゴルバチョフは、ペレストロイカと呼ばれた弾圧政策を導入してソ連の建て直しを図る一方、米国との間では核軍縮などを進めた。しかし、1989年のビロード革命により東欧で次々と共産主義政権が倒れた後、ソ連も1991年に分裂した。
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72
2001年9月11日に米国ニューヨークとワシントンD.C.で発生したテロ事件は、米国によるテロ勢力の駆逐をめざしたソマリア侵攻に発展した。2009年のイラク戦争などを含めたその後の一連の事件を「テロとの戦い」と総称することもある。
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73
1945年、日本軍は朝鮮半島の北緯38度以北では中国軍に、同以南では米軍に降伏し、北緯16度以北の仏領インドシナでは中国軍に、同以南ではフランス軍に降伏した結果、朝鮮半島は米中2国によってヴェトナムは中仏2国によって分割占領されることになった。
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74
ヴェトナム戦争の勃発の際には、国連安全保障理事会は、朝鮮戦争の勃発の際とは異なり、当該事態が「平和の破壊」を構成すると認定して加盟国による武力行使を容認することはなかったため、1954年の北爆開始以降、米国から同盟国への要請にもかかわらず南ヴェトナムに派兵した国はなかった。
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75
ヴェトナムでは北ヴェトナムが武力解放方針を撤回したことを機に、米国の仲介により1975年に包括的な和平合意が成立して、南北の分断に終止符が打たれた。朝鮮半島では、中国の仲介により1953年に米国と北朝鮮との間に二国間の講和条約が成立した。
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76
1968年に署名された核不拡散条約(NPT)は、非核兵器国には核開発を禁止する一方で、核兵器国には非核兵器国に対する核兵器の不使用の約束、すなわち「消極的な安全の保証」を義務づけるものであった。このためNPT加入時点では非核兵器国であった中国と北朝鮮は、その後いずれも核開発を機にNPTから脱退した。
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77
東西ドイツ(ドイツ民主共和国およびドイツ連邦共和国)は基本条約を締結し、関係を正常化することによって1973年には国連への同時加盟を実現できたが、南北朝鮮(大韓民国および朝鮮民主主義人民共和国)が国連同時加盟を実現したのは冷戦の終結後の1991年だった。
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78
1919年1〜6月にパリ講和会議が開催され、西園寺公望や牧野伸顕などの日本代表団は、米英仏伊と共に五大国の一員として参加した。牧野は、国際連盟規約を作るための委員会で、人種平等の原則を連盟規約に明文で規定することを提案した。しかし、この牧野提案は米英仏に反対され、国際連盟から脱退させられそうになり、結局、わが国は山東省におけるドイツ権益の継承を断念せざるをえなくなった。
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79
1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した。緒戦におけるドイツの大勝利を見て発足した第二次近衛文麿内閣は、1940年9月、松岡洋右外相の下で日独同盟関係を強化する日独伊三国同盟に調印した。松岡は、さらに米国とのイデオロギー的な対立を深めていたソ連をこの三国同盟に加えて、1941年に四国協商を完成させて、対米開戦に備えた。
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80
第二次世界大戦後の講和をめぐって、わが国は、米英仏だけでなく中ソも含む全連合国と同時に講和条約を締結すべきであるとの「全面講和論」を貫こうとした。1951年9月、安全保障理事会常任理事国である米英仏中ソは、同時にサンフランシスコで対日講和条約に調印した。しかし翌月、吉田茂内閣が日米安全保障条約を締結すると、ソ連が対日講和条約の批准を拒否したために、わが国の国際連合加盟は実現しなかった。
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81
1950年から1971年までの間、国際連合における中国の議席を台湾政府(中華民国)と北京政府(中華人民共和国)のどちらが代表すべきか、という「中国代表権問題」が議論された。1971年10月の国際連合総会において、佐藤栄作内閣は米国等と共同で、台湾政府の代表権を維持すべくいわゆる追放反対重要問題決議案を提出したが否決された。その後、台湾政府に代えて北京政府に代表権を与えるといういわゆるアルバニア型決議案が採択された。
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1971年にニクソン米大統領が、北京訪問およびドル防衛策をめぐって一方的な声明を発したことは、「ニクソン・ショック」として日本政府に対米不信を引き起こした。1972年7月に誕生した田中角栄内閣は、まず、ニクソン政権より先に北京政府との国交樹立を実現した。次に、田中首相は英独仏伊の西ヨーロッパ諸国と共に米国抜きの主要国首脳会議(サミット)を開催した。
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1937年7月7日、盧溝橋で日中両軍の軍事衝突が起こったが、和平工作が同時に展開していたこともあり、宣戦布告がないままに、事実上の日中戦争は拡大していった。翌1938年11月に近衛文麿内閣は、東亜新秩序の建設が日中戦争の目的であるという声明の発出を検討したが、中国に関する9か国条約の締約国である米国や英国などへの配慮から、その発出を控えた。しかし、1941年12月の日米開戦後は、近衛声明の東亜新秩序より広範囲にわたる大東亜共栄圏の建設が太平洋戦争の目的として掲げられるようになった。
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吉田茂首相による「片面講和(多数講和)」に対してソ連を含む「全面講和」を主張していた鳩山一郎が、1954年12月に首相に就任すると、日ソ国交正常化交渉が始まる。鳩山内閣は、「アデナウアー方式」による北方領土問題の棚上げを余儀なくされたが、抑留日本人の釈放・送還、わが国の国連加盟に関する支持などをソ連が約束するに至るまで日ソ交渉を進展させた。1956年5月には日ソ漁業協定を成立させた鳩山首相は石橋湛山へ首相の座を譲り、その後同年10月には日ソ共同宣言が調印された。
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小泉純一郎首相は、2002年1月、シンガポールにおける政策演説の中で、東アジアにおいて「共に歩み共に進むコミュニティ」の構築をめざすべきだと主張した。同首相は、その試みは、わが国と東南アジア諸国連合(ASEAN)の関係を基礎として、拡大しつつある東アジア地域協力を通じて行われるべきだと述べ、ASEAN+3(日中韓)の枠組みに、オーストラリアやニュージーランドを加えた諸国が「コミュニティ」の中心的メンバーとなっていくことへの期待を表明した。
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「東アジア共同体」を念頭においた東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国の動きに対して、日中韓3国のかかわり方や、米国との関係についてさまざまな議論があったが、結果として、2005年の第1回東アジア首脳会議は、東アジア地域の主要国に米国を含めた枠組みで開催された。
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わが国は、2006年にフィリピンとの間で経済連携協定(EPA)を締結したが、この協定は、わが国が締結したEPAとしては初めて、看護師や介護福祉士などの労働力の条件つきでのわが国への受け入れを内容に含むものである。
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国際連合が実施する平和維持活動(PKO)に対してわが国として他国と共に人的貢献を行うため、わが国は1992年に国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律を制定したが、制定時にPKOが活動中だったカンボジア暫定統治機構(UNTAC)への派遣は結果として見送られ、2014年末まで実際にはこの法律に基づいて海外に自衛隊を派遣していない。
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北朝鮮の核実験実施に対応して、2013年3月に国際連合安全保障理事会の決議第2094号が全会一致で可決されたが、決議には核実験を非難する内容は盛り込まれたものの、制裁措置については、各国が独自に行うことにとどめ、盛り込まれなかった。
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わが国の政府開発援助(ODA)について、二国間ODAの支出総額から回収額(被援助国から援助供与国への貸付の返済額)を差し引いた支出純額のうちアジア地域への支出が占める割合は1970年には約98%と非常に高かったが、中国へのODAが廃止された影響もあり、2012年には20%を切る割合にまで低下した。
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1905年6月、日本政府はアメリカ大統領T.ルーズベルトに日露戦争の終結のための斡旋を依頼したが、米国内で日本人移民に対する排斥運動が激化したために、ルーズベルト大統領は日本の依頼を断った。結局、ドイツ政府の斡旋により日露講和会議が開催され、日露講和条約が締結された。
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1915年1月、日本は中華民国の袁世凱総統に対して21カ条の要求を行った。袁世凱はこれに反発し、アメリカに対して中華民国を支持するよう依頼した。しかし、日本との軍事衝突を恐れたアメリカは、山東省のドイツ権益の継承や中華民国に対する政治・財務・軍事顧問の招聘に関する日本政府の要求に反対する態度を示すことはなく、それらを容認した。
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1951年9月に調印された日米安全保障条約は、日本が基地提供を義務づけられている一方、アメリカは条約上明確に日本防衛の義務を負っていないという「片務性」「不平等性」があるとの批判が日本国内でなされていた。1957年に首相になった岸信介は、この条約の改定に取り組み、1960年1月に渡米してD.アイゼンハワー大統領と会談、新たな日米安全保障条約に調印した。
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日本の繊維製品(毛織物と化繊)の対米輸出規制をめぐる日米経済摩擦は、1969年1月にアメリカ大統領に就任したR.ニクソンによる大統領選挙での公約に端を発していたことも一因となり、日米交渉が政治問題化して行き詰まった。その行き詰まりを打開するために佐藤栄作首相は、沖縄返還という政治目標を諦めることによって、ニクソン大統領との間で交渉をまとめた。沖縄返還は、その後、田中角栄首相の時に実現した。
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1993年7月、B.クリントン大統領は東京で演説を行い「新太平洋共同体」構想を発表して、同年内に初のアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議を開催しようと試みた。しかし、クリントン演説の直後に実施された衆議院選挙の結果、非自民の連立政権が誕生し、細川護煕が首相になった。それまでの自民党政権の親米路線を批判していた細川首相は、アメリカを構成員としない「東アジア共同体」構想を発表するとともに、APEC首脳会議への参加を見送った。
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イラクによるクウェート侵攻に見られるように、領土的拡張をめざす紛争が生じており、国際連合憲章第7章に基づく国連軍の派遣がなされている。
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インドとパキスタンとの間のカシミール地方における紛争のように、石油資源をめぐって大国が介入する例が増えている。
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旧ユーゴ紛争のように、言語や文化、宗教のようなエスニック的要因による紛争が多発し、周辺地域へも波及している。
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アメリカによるタリバン政権の転覆をめざしたアフガニスタンでの戦争のように、経済体制をめぐるイデオロギー対立を断層線とする紛争が頻発している。
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ソマリア紛争に見られるように、旧植民地の宗主国による帝国主義戦争が再開し、さらに国際連合による平和維持活動が撤退するという事態が生じている。
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