問題一覧
1
1944年、米国の呼び掛けに応じて44か国が国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(IBRD)の樹立に合意し、ブレトンウッズ体制が成立した。このブレトンウッズ体制は、金融分野および戦後復興・開発分野の国際レジームであった。一方、貿易分野の国際レジームを支えることになったのは、関税および貿易に関する一般協定(GATT)であった。その締結に当たっては、無差別原則を掲げる英国は米国特恵の禁止を求め、米国はそれに抵抗した。
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2
米国は、安全保障政策上の観点から北米自由貿易協定(NAFTA)などの地域横断的なFTAの締結による経済連携を進めてきており、二国間FTAは外交政策上有効でないとして2015年末現在締結されたものはない。他方、中北は、WTO加盟以降、政治面での近隣諸国との関係を重視して経済連携に関する協定の締結交渉を行っており、2015年末現在、香港、マカオ、パキスタン等との間で協定が締結されている。
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3
1960年代には、国連安全保障理事会が「国連開発の10年」決議を採択し、発展途上国全体の年平均経済成長率を10%以上とする目標を打ち出した。
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4
1970年代には、南北問題の解決を図るため、国際復興開発銀行(IBRD)は「ベーシックインカム」戦略を推進した。
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5
1980年代には、東南アジアを中心に新興工業経済地域(NIES)が台頭したことから、国連総会は「NIESの樹立に関する宣言」を採択し、特恵関税制度の撤廃を各国に求めた。
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6
1990年代には、ブラジルのリオデジャネイロで国連環境開発会議(地球サミット)が開催され、「持続可能な開発」のための協議が行われた。
○
7
2000年代には、南アフリカのヨハネスブルグで持続可能な開発に関する世界首脳会議(環境開発サミット)が開催され、連ミレニアム開発目標(MDGs)」の達成が確認された。
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8
第二次世界大戦後、米国は、公的資金を用いた無償援助によって、ヨーロッパ経済の再建を図った。この米国の西ヨーロッパに対する大規模な経済援助はマーシャル・プランと呼ばれるが、その背景には、戦争で疲弊したヨーロッパ経済の崩壊の危機、そしてソビエト共産主義の脅威があった。マーシャル・プランは、西ヨーロッパ経済復興と経済統合に貢献したが、共産主義勢力の封じ込めには失敗し、フランス、イタリアで共産党が第一党になるなど、所期の目的を達成するには至らなかった。
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9
1960年代後半以降急速な経済成長を遂げた韓国、台湾、香港、シンガポールは、アジア新興工業経済地域(NIEs)と呼ばれているが、その経済成長には、共通して以下の3つの特徴がある。まず、工業化が先進国に対する従属のもとでもたらされること、次に、輸入代替型戦略から輸出推進型戦略を経て経済成長が可能になること、最後に、各産業の生産地が先進国からNIEs等を経て中国、ベトナム、ミャンマーなどへと移動しつつ順番に発展していくということである。
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10
戦後日本の経済復興に伴って、日米経済摩擦が繰り返し発生し、両国間で通称規制協定の締結や自主規制の実施が次々に行われ、鉄鋼自主輸出規制、日米繊維規制協定、自動車自主輸出規制等が実施、締結された。米国側はその後、モノの市場だけでなくサービス部門にも関心を広げ、また、日本市場の系列取引、談合、複雑な流通などの「見えざる障壁」の除去をも求めるようになった。
○
11
世界貿易機関(WTO)は、1995年に設立された国連の関係機関であり、自由貿易を支える国際レジームとしてとらえることができる。WTOの紛争解決手続においてはコンセンサス方式が取られており、紛争解決委員会が貿易紛争について裁定を示しても、1か国でも裁定に反対すれば採択されない。このように、WTOにおいては紛争解決手続きが強化されておらず、裁定に不満な紛争当時国の反対で採択が阻止されるようになっている。
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12
「アフリカ開発会議(TICAD)」は、米国が主導して、国連、国連開発計画、世界銀行およびアフリカ連合委員会と共同で開催される、アフリカ諸国の開発の支援をテーマとする国際会議である。わが国は、アフリカ大陸でのレアアースの確保の必要性が高まったことなどから2013年に初めて同会議に参加した。
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13
A.センは、貧困を人間の基礎的な潜在能力である選択の幅や自由度が欠如している状態であるととらえ、貧困削減とは個々人の潜在能力を高めていくことであるとした。「経済協力開発機構開発援助委員会(DAC)貧困削減ガイドライン」も、能力の欠如に着目し、貧困とは、経済的能力、人間的能力、政治的能力、社会・文化的能力、保護能力が欠如している状態であるとした。
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14
グラミン銀行は、バングラデシュ政府により設立され、バングラデシュの農村において大地主を対象として、低金利で大規模な融資を行っている。融資をもとに農業の近代化が図られ、農業経営による収益が拡大した結果、土地を所有せず農業に従事していた貧困層の生活の向上や農村女性の地位の向上等の成果も見られるようになった。
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15
「国連ミレニアム開発目標(MDGs)」においては、2015年までに達成すべきものとして、初等教育の完全普及の達成、乳幼児死亡率の削減等の教育および保健分野に限定した目標が設定された。「国連ミレニアム開発目標」とはされなかった極度の貧困と飢餓の撲滅については、2016年から2030年までの目標である「持続可能な開発のための2030アジェンダ(SDGs)」に含まれることとなった。
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16
先進諸国のODAの調整を行っている経済協力開発機構(OECD)の開発援助委員会(DAC)は、多国間援助およびに国間援助のうち借款を除く贈与をODAと定義している。援助には資金援助だけではなく、技術支援もあり、途上国からの研究生の受け入れや、コンサルタントの派遣なども含まれる。このような技術援助をグラント・エレメントと呼び、ODA支出総額の25%以上にすることが目標とされている。
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17
わが国の二国間ODA実績(支出総額)の地域別配分を見ると、昭和45(1970)年にはアジアへの支出が9割以上を占めていたが、平成12(2000)年には同支出は3割未満となった。現在は、アフリカの開発効果の向上が課題となっており、平成25(2013)年の中東・北アフリカおよびサブサハラ・アフリカへの支出は5割以上を占めている。
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18
わが国のODA実績(支出純額)は平成元(1989)年に世界最大となり、1990年代を通じてほぼ一貫して、規模の面で世界一の援助供与国としてDAC諸国のODA供給量の約2割を支え続けた。厳しさを増す財政状況の中で、ODA予算(当初予算ベース)は、平成10(1998)年度以降減少傾向に転じ、世界一の援助供与国ではなくなった。
○
19
ODAは二国間で直接供与されることもあれば、世界銀行や国連などの国際機関のプログラムを通じて途上国に供与されることもある。平成25(2013)年のわが国のODA実績(支出純額)の内訳は、二国間ODAが全体の約3割、国際機関に対するODAが約7割となっており、わが国と被援助国との関係強化よりも、専門的知識や政治的中立性を持った国際機関を支えることを重視した配分となっている。また、二国間ODAの約8割を技術協力が占めている。
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20
平成4(1992)年に策定された「開発協力大綱」においては、わが国と開発途上国との互恵的な協力をめざすべきである、という開発協力の理念が示された。一方、「開発協力大綱」を改定し、平成27(2015)年に閣議決定された「政府開発援助大綱(ODA大綱)」においては、わが国が発展途上国に援助をもたらす指導的な関係にあるという開発援助の理念が示され、中長期的な援助政策が包括的に取りまとめられた。
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21
第二次世界大戦後に独立した国々はその多くが経済発展の問題に直面することとなった。このような状況の中、1961年の国連総会において、米国のJ.F.ケネディ大統領の提唱で、1960年代を「国連開発の10年」とすることが宣言され、途上国の国民総所得の成長率を最低でも年率5%とすることを目標とする「国際開発戦略」が採択された。
○
22
1970年代になると、人間が人間として生存するうえで欠くことのできない財やサービス、すなわちベーシック・ヒューマン・ニーズ(BHN)が満たされていないということを貧困ととらえる考え方が生まれた。この観点に基づき、国連開発計画(UNDP)では、BHNアプローチを提唱したが、これは、貧困にかかる指標にBHNの考え方を用いたものの、貧困層の人々に直接BHNを提供するのではなく、あくまで経済発展の波及効果によって貧困の解消を目指すものであった。
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23
パキスタンの経済学者であるM.ハックの唱えた潜在能力アプローチに基づき、貧困について、単なる財やサービスの有無によって生じるのではなく、「できる・できない」といった能力の有無によって生じるものとして解釈し直したものが潜在能力貧困である。この潜在能力貧困を示す指標としては人間開発指数(HDI)があり、これは平均寿命・教育水準・幸福度・1人当たりの実質国内総生産の4要素を用いて、1990年に世界銀行によって初めて算出・発表された。
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24
2000年に国際的な貧困削減目標として世界銀行によって設定されたのが、ミレニアム開発目標(MDGs)である。MDGsは国際社会の支援を必要とする課題に対して2015年を達成期限とする8つの目標を掲げている。この目標は、BHNや人間開発といった個々人の生存状況の向上をめざすアプローチよりも、それまで国際社会で取り組まれてきた途上国全体の経済発展を通じた開発アプローチを重視するものとなっている。
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25
UNDPは2015年に、国際社会が取り組むべき今後の目標として、2030年を達成期限とする8つの項目からなる「持続可能な開発目標(SDGs)」をMDGsの後継として策定した。この目標は、国際的な貧困削減目標として途上国にのみ適用されるものであり、MDGsを踏襲し、さらに高いレベルをめざす内容であるため、MDGsの期間中に顕在化した新たな課題への対応は含まれていない。
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26
国際連合では、人権保障のための条約や国際協定などが採択されている。しかし、人権侵害を行っている特定の国に対する非難決議等の採択は、内戦干渉のおそれがあるため行っていない。
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27
国連ミレニアム宣言は、人権および基本的自由の尊重等を強化するため、さまざまな施策の実施を定めた。これを中心にまとめられたミレニアム開発目標は、目標期限の2015年までに達成することが困難となったため、諸目標がそのまま「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に継承された。
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28
地域的人権保障体制とは、地域の実情に応じて人権の保障を確保することであり、ヨーロッパでは、欧州安全保障協力機構(OSCE)が人権保障に関する基準等の整備に当たっている。
○
29
人間の安全保障とは、国家の平和と安全のためのアクターを、国家のみならず個人にも拡大するという考え方であり、その主体はもっぱら非政府機構(NGO)とされている。
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30
人権外交とは、人権問題を外交の課題とするものであるが、アメリカは歴史的に黒人差別があったことを受けて、これが実施されたことはない。
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31
越境する環境問題解決に向けて国際的協力を図るため、1968年、フィンランドが国連の経済社会理事会において、国連人間環境会議の開催を提案し、1972年にヘルシンキ会議が開催された。20年後の1992年リオ会議では、「持続可能な開発」を合言葉に調整が進められ、同会議で署名に至った「国連気候変動枠組条約(温暖化防止条約)」では、当初から締結国の二酸化炭素の排出削減目標数値が明示される形となった。
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32
1970年、「核不拡散条約(NPT)」が発効し、これにより締約国による核保有への新規参入の道が閉ざされたが、条約締結以前の核保有国(米・ロ・英・仏・中5か国)については、条約発効後50年間に限りその保有が認められた。国際的な核不拡散の動きを受けて、当該条約発効以降、非締結国であっても、新たに核保有宣言をする国は出ていない。
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33
「テロリズム」の定義は、国連総会において、「むき出しの暴力を媒介として遂行される政治目的達成のための殺傷・破壊行為」と決議されており、かつて見解の相違の見られたパレスチナに対するイスラエルの行動に関する評価についても、国連総会において一致が得られ、2001年「包括的テロ防止条約」が締結された。
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34
「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)」は、顕著な普遍的価値を有する文化遺産・自然遺産を、人類全体のための世界の遺産として保護することを目的として、1972年の国連教育科学文化機関(UNESCO)総会において採択され、わが国は1992年に同条約を締結した。世界遺産委員会では、締約国からの推薦に基づき、顕著な普遍的価値を有すると認められる文化遺産・自然遺産が世界遺産に登録される。
○
35
人種差別一般への取り組みとしては、1963年に「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する宣言(人種差別撤廃宣言)」、1965年には、「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約(人種差別撤廃条約)」が採択された。しかし、人種差別撤廃条約は人種差別を幅広く定義する一方、国家が差別を行うことのみを禁じており、社会に存在する差別を禁止する義務までは当事国に課していない。
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36
人権の国際化は、1948年に加盟国への拘束力を有する世界人権宣言が採択された後、国際人権規約が採択されるなど、国際連合を中心に進められた。しかし、その後、人権をめぐる各国の対立が激化し、地域の特徴を反映した人権保護の必要性が認識されるようになったことから、1980年代に、欧州、中南米、アフリカ、アジアのそれぞれの地域杖立において、相次いで人権条約が採択され、人権裁判所が設置された。
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37
K.アナン元国連事務総長は、国連のすべての活動で人権を統合する考えとして「人権の主流化」に言及し、国連人権委員会の改組を提案した。この後、国連総会決議を受け、2006年、従来の国連人権委員会に替えて国連人権理事会が設置された。この国連人権理事会の下で行われる普遍的・定期的レビュー(UPR)は、国連のすべての加盟国の人権状況を定期的に審査するものである。
○
38
国連における人権に関する専門機関として、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)が置かれ、この機関では、犯罪被害者の権利保護に特化した活動を行っている。人権課題は、各国の国内問題としての側面も有している一方、居住国において解決されない場合も想定されるため、国連加盟国に居住するすべての人々は、OHCHRに対して直接人権救済を求めることができる。
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39
世界中に貧困、飢餓、武力紛争、虐待、性的搾取といった困難な状況に置かれている15歳未満の児童がいる現実に目を向け、児童の権利を国際的に保障し、促進することを目的として、1946年に「児童の権利に関する条約」が採択された。これを受けて国連児童基金(UNICEF)が設立され、第二次世界大戦は被災した子どもたちに対する緊急支援を担うこととなった。
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40
経済のグローバル化が進展するにつれて、人権を侵害する主体が国家のみならず企業等へと多様化していることに伴い、新たに、国家、企業、非政府組織(NGO)等が参加する国連グローバル・コンパクトが発足した。参加団体は、人権、労働、環境等に関する原則に違反した場合、罰則等の制裁が科されることになっているため、企業からは自主的な取り組みを阻害するものと指摘されている。
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教育学
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1
1944年、米国の呼び掛けに応じて44か国が国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(IBRD)の樹立に合意し、ブレトンウッズ体制が成立した。このブレトンウッズ体制は、金融分野および戦後復興・開発分野の国際レジームであった。一方、貿易分野の国際レジームを支えることになったのは、関税および貿易に関する一般協定(GATT)であった。その締結に当たっては、無差別原則を掲げる英国は米国特恵の禁止を求め、米国はそれに抵抗した。
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2
米国は、安全保障政策上の観点から北米自由貿易協定(NAFTA)などの地域横断的なFTAの締結による経済連携を進めてきており、二国間FTAは外交政策上有効でないとして2015年末現在締結されたものはない。他方、中北は、WTO加盟以降、政治面での近隣諸国との関係を重視して経済連携に関する協定の締結交渉を行っており、2015年末現在、香港、マカオ、パキスタン等との間で協定が締結されている。
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1960年代には、国連安全保障理事会が「国連開発の10年」決議を採択し、発展途上国全体の年平均経済成長率を10%以上とする目標を打ち出した。
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4
1970年代には、南北問題の解決を図るため、国際復興開発銀行(IBRD)は「ベーシックインカム」戦略を推進した。
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1980年代には、東南アジアを中心に新興工業経済地域(NIES)が台頭したことから、国連総会は「NIESの樹立に関する宣言」を採択し、特恵関税制度の撤廃を各国に求めた。
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1990年代には、ブラジルのリオデジャネイロで国連環境開発会議(地球サミット)が開催され、「持続可能な開発」のための協議が行われた。
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2000年代には、南アフリカのヨハネスブルグで持続可能な開発に関する世界首脳会議(環境開発サミット)が開催され、連ミレニアム開発目標(MDGs)」の達成が確認された。
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8
第二次世界大戦後、米国は、公的資金を用いた無償援助によって、ヨーロッパ経済の再建を図った。この米国の西ヨーロッパに対する大規模な経済援助はマーシャル・プランと呼ばれるが、その背景には、戦争で疲弊したヨーロッパ経済の崩壊の危機、そしてソビエト共産主義の脅威があった。マーシャル・プランは、西ヨーロッパ経済復興と経済統合に貢献したが、共産主義勢力の封じ込めには失敗し、フランス、イタリアで共産党が第一党になるなど、所期の目的を達成するには至らなかった。
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9
1960年代後半以降急速な経済成長を遂げた韓国、台湾、香港、シンガポールは、アジア新興工業経済地域(NIEs)と呼ばれているが、その経済成長には、共通して以下の3つの特徴がある。まず、工業化が先進国に対する従属のもとでもたらされること、次に、輸入代替型戦略から輸出推進型戦略を経て経済成長が可能になること、最後に、各産業の生産地が先進国からNIEs等を経て中国、ベトナム、ミャンマーなどへと移動しつつ順番に発展していくということである。
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10
戦後日本の経済復興に伴って、日米経済摩擦が繰り返し発生し、両国間で通称規制協定の締結や自主規制の実施が次々に行われ、鉄鋼自主輸出規制、日米繊維規制協定、自動車自主輸出規制等が実施、締結された。米国側はその後、モノの市場だけでなくサービス部門にも関心を広げ、また、日本市場の系列取引、談合、複雑な流通などの「見えざる障壁」の除去をも求めるようになった。
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11
世界貿易機関(WTO)は、1995年に設立された国連の関係機関であり、自由貿易を支える国際レジームとしてとらえることができる。WTOの紛争解決手続においてはコンセンサス方式が取られており、紛争解決委員会が貿易紛争について裁定を示しても、1か国でも裁定に反対すれば採択されない。このように、WTOにおいては紛争解決手続きが強化されておらず、裁定に不満な紛争当時国の反対で採択が阻止されるようになっている。
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12
「アフリカ開発会議(TICAD)」は、米国が主導して、国連、国連開発計画、世界銀行およびアフリカ連合委員会と共同で開催される、アフリカ諸国の開発の支援をテーマとする国際会議である。わが国は、アフリカ大陸でのレアアースの確保の必要性が高まったことなどから2013年に初めて同会議に参加した。
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13
A.センは、貧困を人間の基礎的な潜在能力である選択の幅や自由度が欠如している状態であるととらえ、貧困削減とは個々人の潜在能力を高めていくことであるとした。「経済協力開発機構開発援助委員会(DAC)貧困削減ガイドライン」も、能力の欠如に着目し、貧困とは、経済的能力、人間的能力、政治的能力、社会・文化的能力、保護能力が欠如している状態であるとした。
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14
グラミン銀行は、バングラデシュ政府により設立され、バングラデシュの農村において大地主を対象として、低金利で大規模な融資を行っている。融資をもとに農業の近代化が図られ、農業経営による収益が拡大した結果、土地を所有せず農業に従事していた貧困層の生活の向上や農村女性の地位の向上等の成果も見られるようになった。
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15
「国連ミレニアム開発目標(MDGs)」においては、2015年までに達成すべきものとして、初等教育の完全普及の達成、乳幼児死亡率の削減等の教育および保健分野に限定した目標が設定された。「国連ミレニアム開発目標」とはされなかった極度の貧困と飢餓の撲滅については、2016年から2030年までの目標である「持続可能な開発のための2030アジェンダ(SDGs)」に含まれることとなった。
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16
先進諸国のODAの調整を行っている経済協力開発機構(OECD)の開発援助委員会(DAC)は、多国間援助およびに国間援助のうち借款を除く贈与をODAと定義している。援助には資金援助だけではなく、技術支援もあり、途上国からの研究生の受け入れや、コンサルタントの派遣なども含まれる。このような技術援助をグラント・エレメントと呼び、ODA支出総額の25%以上にすることが目標とされている。
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17
わが国の二国間ODA実績(支出総額)の地域別配分を見ると、昭和45(1970)年にはアジアへの支出が9割以上を占めていたが、平成12(2000)年には同支出は3割未満となった。現在は、アフリカの開発効果の向上が課題となっており、平成25(2013)年の中東・北アフリカおよびサブサハラ・アフリカへの支出は5割以上を占めている。
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18
わが国のODA実績(支出純額)は平成元(1989)年に世界最大となり、1990年代を通じてほぼ一貫して、規模の面で世界一の援助供与国としてDAC諸国のODA供給量の約2割を支え続けた。厳しさを増す財政状況の中で、ODA予算(当初予算ベース)は、平成10(1998)年度以降減少傾向に転じ、世界一の援助供与国ではなくなった。
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19
ODAは二国間で直接供与されることもあれば、世界銀行や国連などの国際機関のプログラムを通じて途上国に供与されることもある。平成25(2013)年のわが国のODA実績(支出純額)の内訳は、二国間ODAが全体の約3割、国際機関に対するODAが約7割となっており、わが国と被援助国との関係強化よりも、専門的知識や政治的中立性を持った国際機関を支えることを重視した配分となっている。また、二国間ODAの約8割を技術協力が占めている。
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20
平成4(1992)年に策定された「開発協力大綱」においては、わが国と開発途上国との互恵的な協力をめざすべきである、という開発協力の理念が示された。一方、「開発協力大綱」を改定し、平成27(2015)年に閣議決定された「政府開発援助大綱(ODA大綱)」においては、わが国が発展途上国に援助をもたらす指導的な関係にあるという開発援助の理念が示され、中長期的な援助政策が包括的に取りまとめられた。
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21
第二次世界大戦後に独立した国々はその多くが経済発展の問題に直面することとなった。このような状況の中、1961年の国連総会において、米国のJ.F.ケネディ大統領の提唱で、1960年代を「国連開発の10年」とすることが宣言され、途上国の国民総所得の成長率を最低でも年率5%とすることを目標とする「国際開発戦略」が採択された。
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22
1970年代になると、人間が人間として生存するうえで欠くことのできない財やサービス、すなわちベーシック・ヒューマン・ニーズ(BHN)が満たされていないということを貧困ととらえる考え方が生まれた。この観点に基づき、国連開発計画(UNDP)では、BHNアプローチを提唱したが、これは、貧困にかかる指標にBHNの考え方を用いたものの、貧困層の人々に直接BHNを提供するのではなく、あくまで経済発展の波及効果によって貧困の解消を目指すものであった。
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23
パキスタンの経済学者であるM.ハックの唱えた潜在能力アプローチに基づき、貧困について、単なる財やサービスの有無によって生じるのではなく、「できる・できない」といった能力の有無によって生じるものとして解釈し直したものが潜在能力貧困である。この潜在能力貧困を示す指標としては人間開発指数(HDI)があり、これは平均寿命・教育水準・幸福度・1人当たりの実質国内総生産の4要素を用いて、1990年に世界銀行によって初めて算出・発表された。
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24
2000年に国際的な貧困削減目標として世界銀行によって設定されたのが、ミレニアム開発目標(MDGs)である。MDGsは国際社会の支援を必要とする課題に対して2015年を達成期限とする8つの目標を掲げている。この目標は、BHNや人間開発といった個々人の生存状況の向上をめざすアプローチよりも、それまで国際社会で取り組まれてきた途上国全体の経済発展を通じた開発アプローチを重視するものとなっている。
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25
UNDPは2015年に、国際社会が取り組むべき今後の目標として、2030年を達成期限とする8つの項目からなる「持続可能な開発目標(SDGs)」をMDGsの後継として策定した。この目標は、国際的な貧困削減目標として途上国にのみ適用されるものであり、MDGsを踏襲し、さらに高いレベルをめざす内容であるため、MDGsの期間中に顕在化した新たな課題への対応は含まれていない。
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26
国際連合では、人権保障のための条約や国際協定などが採択されている。しかし、人権侵害を行っている特定の国に対する非難決議等の採択は、内戦干渉のおそれがあるため行っていない。
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27
国連ミレニアム宣言は、人権および基本的自由の尊重等を強化するため、さまざまな施策の実施を定めた。これを中心にまとめられたミレニアム開発目標は、目標期限の2015年までに達成することが困難となったため、諸目標がそのまま「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に継承された。
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28
地域的人権保障体制とは、地域の実情に応じて人権の保障を確保することであり、ヨーロッパでは、欧州安全保障協力機構(OSCE)が人権保障に関する基準等の整備に当たっている。
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29
人間の安全保障とは、国家の平和と安全のためのアクターを、国家のみならず個人にも拡大するという考え方であり、その主体はもっぱら非政府機構(NGO)とされている。
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人権外交とは、人権問題を外交の課題とするものであるが、アメリカは歴史的に黒人差別があったことを受けて、これが実施されたことはない。
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越境する環境問題解決に向けて国際的協力を図るため、1968年、フィンランドが国連の経済社会理事会において、国連人間環境会議の開催を提案し、1972年にヘルシンキ会議が開催された。20年後の1992年リオ会議では、「持続可能な開発」を合言葉に調整が進められ、同会議で署名に至った「国連気候変動枠組条約(温暖化防止条約)」では、当初から締結国の二酸化炭素の排出削減目標数値が明示される形となった。
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1970年、「核不拡散条約(NPT)」が発効し、これにより締約国による核保有への新規参入の道が閉ざされたが、条約締結以前の核保有国(米・ロ・英・仏・中5か国)については、条約発効後50年間に限りその保有が認められた。国際的な核不拡散の動きを受けて、当該条約発効以降、非締結国であっても、新たに核保有宣言をする国は出ていない。
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「テロリズム」の定義は、国連総会において、「むき出しの暴力を媒介として遂行される政治目的達成のための殺傷・破壊行為」と決議されており、かつて見解の相違の見られたパレスチナに対するイスラエルの行動に関する評価についても、国連総会において一致が得られ、2001年「包括的テロ防止条約」が締結された。
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「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)」は、顕著な普遍的価値を有する文化遺産・自然遺産を、人類全体のための世界の遺産として保護することを目的として、1972年の国連教育科学文化機関(UNESCO)総会において採択され、わが国は1992年に同条約を締結した。世界遺産委員会では、締約国からの推薦に基づき、顕著な普遍的価値を有すると認められる文化遺産・自然遺産が世界遺産に登録される。
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人種差別一般への取り組みとしては、1963年に「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する宣言(人種差別撤廃宣言)」、1965年には、「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約(人種差別撤廃条約)」が採択された。しかし、人種差別撤廃条約は人種差別を幅広く定義する一方、国家が差別を行うことのみを禁じており、社会に存在する差別を禁止する義務までは当事国に課していない。
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人権の国際化は、1948年に加盟国への拘束力を有する世界人権宣言が採択された後、国際人権規約が採択されるなど、国際連合を中心に進められた。しかし、その後、人権をめぐる各国の対立が激化し、地域の特徴を反映した人権保護の必要性が認識されるようになったことから、1980年代に、欧州、中南米、アフリカ、アジアのそれぞれの地域杖立において、相次いで人権条約が採択され、人権裁判所が設置された。
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K.アナン元国連事務総長は、国連のすべての活動で人権を統合する考えとして「人権の主流化」に言及し、国連人権委員会の改組を提案した。この後、国連総会決議を受け、2006年、従来の国連人権委員会に替えて国連人権理事会が設置された。この国連人権理事会の下で行われる普遍的・定期的レビュー(UPR)は、国連のすべての加盟国の人権状況を定期的に審査するものである。
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国連における人権に関する専門機関として、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)が置かれ、この機関では、犯罪被害者の権利保護に特化した活動を行っている。人権課題は、各国の国内問題としての側面も有している一方、居住国において解決されない場合も想定されるため、国連加盟国に居住するすべての人々は、OHCHRに対して直接人権救済を求めることができる。
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世界中に貧困、飢餓、武力紛争、虐待、性的搾取といった困難な状況に置かれている15歳未満の児童がいる現実に目を向け、児童の権利を国際的に保障し、促進することを目的として、1946年に「児童の権利に関する条約」が採択された。これを受けて国連児童基金(UNICEF)が設立され、第二次世界大戦は被災した子どもたちに対する緊急支援を担うこととなった。
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経済のグローバル化が進展するにつれて、人権を侵害する主体が国家のみならず企業等へと多様化していることに伴い、新たに、国家、企業、非政府組織(NGO)等が参加する国連グローバル・コンパクトが発足した。参加団体は、人権、労働、環境等に関する原則に違反した場合、罰則等の制裁が科されることになっているため、企業からは自主的な取り組みを阻害するものと指摘されている。
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