問題一覧
1
A系とされる騎馬遊牧民、Bは文献資料の上で知られる最初の遊牧民族である。 南ロシアを中心に、黒海周辺や北カフカスなどにわたる強大な王国を形成した。(前6世紀頃) C朝の遠征軍を撃退した。 ギリシア歴史家Dに「街も城壁も作らずに移動生活を送っている、騎馬の弓使いである、農耕はせず生活は家畜に頼っている。」と称された。
イラン, スキタイ, アケネメス, ヘロドトス
2
前5世紀頃、スキタイの騎馬文化と製鉄技術を継承し、モンゴル高原で強大化したのがAだった。初期、中国は戦国時代〜秦だった。Aは燕や趙など諸国に侵入したが、Bによって遠征を受け、武将CがDにいたAを討伐し、ゴビ砂漠の北にまで退けた。Eを建てられ、境界線となった。
匈奴, 始皇帝, 蒙恬, オルドス, 万里の長城
3
匈奴の全盛期を担ったのが、Aである。彼は北ではトルコ系民族Bを、鮮卑の前身集団、Cを滅ぼす形で匈奴を強大化させた。 また、D年のEでは、前漢のF(G)を平城に包囲し勝利した。高度な製鉄技術で前漢を圧倒し、前漢は屈辱的な和議を結ばされた。(毎年多額の物品を送る)南では、河西回廊にいたHを駆逐しタリム盆地を支配し、シルクロード交易の利を独占し、Iにも進出し漢を圧迫した。 なお、Hは逃げた場所で強大化。Jになった。
冒頓単于, 丁零, 東胡, 前200, 白登山の戦い, 高祖, 劉邦, 月氏, オルドス, 大月氏
4
前漢の武帝は、対匈奴政策を行ったことで知られる。 匈奴を挟撃するため、AをBに派遣し同盟を結ぼうとしたが、Bは強大化していたため、戦う理由がなく失敗。 Aは帰国後、天山北路にあったCに派遣されたが、失敗。(のちに同盟締結)前129年からは攻勢に転じ、ゴビ砂漠の北方に匈奴を退けた。 前121年には、Dを河西回廊に設置する。中心はEだった。 また、前104年にはFが天山山脈、パミール高原に囲まれた盆地、G盆地にあったオアシス都市国家Hに向かう。Iを獲得するためだった。しかし、獲得はできず、武力制圧を決意。獲得した。その後は漢がJ一帯までを入手した。
張騫, 大月氏, 烏孫, 河西4郡, 敦煌郡, 李広利, フェルガナ, 大宛, 汗血馬, タリム盆地
5
匈奴は、前60年頃によって分裂した。 Aの呼韓邪単于は前漢に降伏し、臣従関係を結んだ。前漢・元帝の宮女であるBは、呼韓邪単于に降嫁された。 一方、Cは西域都護によって攻撃され滅亡している。 また、漢は西域支配を強めており、西域都護府が置かれた。武帝の死後、設置されたが、Dの時代には廃止され、のちに後漢で復活された。 Dの時代に、Aは勢力を回復し、内紛で南北に分裂。南匈奴は後漢に服属した。 91年には、西域都護にE(兄は後漢の歴史書、Fを書いたG)が任命され、西域都護府をH(I)に置いていた。西域のオアシス都市50余国を服属させ、J海以東に勢力を伸ばし、Eは部下であるKをL(ローマ)に派遣した。M(シリア)まで至るも引き返した。(パルティアの妨害?) Cは、後漢や周辺民族の攻撃を受け西進するも消滅。4世紀にはフン人の移動を引き起こしたという線が有力である。
東匈奴, 王昭君, 西匈奴, 王莽, 班超, 漢書, 班固, 亀茲, クチャ, カスピ, 甘英, 大秦, 条支国
6
南匈奴は中国に服属していたが、316年のAでBを滅ぼした。(CがDを建国)こうして、華北ではEが始まった。
永嘉の乱, 西晋, 劉淵, 漢, 五胡十六国時代
7
後漢末期、五胡と呼ばれる異民族が中国に侵入した。 八王の乱に乗じて劉淵が漢を建国したA(Bの最初)、初めは匈奴に服属していたC、匈奴の別種国家D、一時華北を統一したEを建国したF、Fと同じくG系民族のHがあった。
匈奴, 十六国, 鮮卑, 羯, 前秦, 氐, チベット, 羌
8
鮮卑は、一部族A氏のBによって台頭する。彼は都をCにおき、Dという国家を建国した。 彼の時代、君主の呼称としてEが使われた(のちのF)。 残りは中国史で!!!
拓跋, 拓跋珪, 平城, 北魏, 可寒, 可汗
9
5世紀、タリム盆地を支配したのがAだった。彼らは東西交易で繁栄したおそらくモンゴル系の国家で、君主の称号としてBを使用した。5世紀の末に丁零の末裔、Cが独立すると衰退し、6世紀中頃にDに敗れて衰退した。
柔然, 可汗, 高車, 突厥
10
白いフン(A)と呼ばれ、中央アジアで隆盛を誇った(5から6世紀)のがBである。 彼らは西のC、東のD、南のEと強大な敵相手に猛攻撃を仕掛け圧迫した。 しかし、のちにCのFとDに攻め滅ぼされた。 (Cはこれを機にビザンツへの攻撃を開始。Dは中国方向へと進軍を開始した。Eは圧迫の際に弱体化され滅亡したとされているが、フーナと呼ばれる別民族という可能性もある。Cの攻撃は、のちのG半島隆盛のきっかけになった。)
白匈奴, エフタル, ササン朝ペルシア, 突厥, グプタ朝, ホスロー1世, アラビア
11
トルコ系民族の大帝国として、6世紀から8世紀、隆盛を誇ったのがAだった。 彼らは6世紀半ばに強大化すると、タリム盆地周辺を支配していたBを滅ぼし建国。 その後ササン朝ペルシアのホスロー1世とともにエフタルを滅ぼした。 が、CのDによる攻撃を受け、東西に分裂してしまうのだった。
突厥, 柔然, 隋, 文帝
12
東突厥は、分裂後モンゴル高原の東部を支配した。彼らは一時隋にAするも、隋滅亡後勢力を回復させる。が、のちにBのCに敗れると滅亡した。(突厥第一帝国)Bの羈縻政策の支配下に入った。 680年ごろ、Bの支配が揺らぐと(則天武后即位の10年前)復興した。(突厥第二帝国) 8世紀に建てられたD碑文には彼らの繁栄が記されている。 ※D碑文は、E文字(もしくはソグド文字)を起源とするF文字で書かれている。この文字は、内陸アジアのGが最初に使用した文字である。 なお、東突厥は744年Hの攻撃を受け滅亡した。 西突厥はBのIの時代にBの攻撃を受けA以降、復興することなく他民族の台頭によって滅亡した。
服属, 唐, 太宗, オルホン, アラム, 突厥, 遊牧民, ウイグル, 高宗
13
744年〜810年、東突厥にかわり建国されたのがAだった。Bを名乗り、王国を建設し、Cで唐を援助したことで勢力を拡大した。 交易では、D人との共存関係を維持したことで知られ、唐との間のEはD人の仲介で行われていた。 また、彼らはF文字を使用した(G文字に由来)。そしてF人は、H教信仰が盛んであった。(D人はI教が多い) 840年、北方から来たトルコ系遊牧民、Jが南下を行い、滅亡。その後は四散し各地で国家を建てた。彼らが西進したことで、中央アジアはK化を迎えた。 Jは突厥・Aに服属したのち、840年にAを滅ぼした。のちにLの圧迫を受け、13世紀初め、Mによって滅亡した。
ウイグル, 可汗, 安史の乱, ソグド, 絹馬貿易, ウイグル, ソグド, マニ, ゾロアスター, キルギス, トルコ, 遼, チンギス=ハン
14
ソグド人は、5世紀から9世紀、A系の民族として東西交易で活躍した。(特に唐代のBやC)しかし、751年のD以降は徐々にE商人に立場を奪われた。
イラン, 突厥, ウイグル, タラス河畔の戦い, ムスリム
15
青海地方を支配した鮮卑族系の国家がAだった。彼らは4世紀から7世紀にかけて成立したものの、太宗時代の唐に服属し、その後Bに討たれる形で分裂、衰退していった。全盛期は、Cを支配し東西交易で繁栄していた。
吐谷渾, 吐蕃, オアシスの道
16
7世紀から9世紀にかけて、チベット諸族を統一し成立し力を持ったのがAだった。 建国者Bが統一して以降、唐とはCの時代からずっと親交を続けていた。彼らは、インド文化、中国文化を摂取し、インド文字(D文字)を元にE文字を作った。 しかし、唐とは吐谷渾の支配をめぐり対立。玄宗の時代には唐に反抗し、Fに乗じて一時Gを占領、略奪している。 その後は安西都護府を滅ぼし、北庭都護府も占領した。が、9世紀には唐と和約を結んだ。 823年、講和条約を記したHは、A、唐、両方の都に建立されるも、Aのみ現存している。 彼らは都をIに置き、国家的宗教ラマ教を築いた。これは中国・インドから流入したJとチベット国有のKが融合して成立したものだった。が、のちに末期の廃仏によって衰退してしまう。これが王位継承とも絡み、国家そのものも分裂・衰退していった。
吐蕃, ソンツェン=ガンポ, 太宗, グプタ, チベット, 安史の乱, 長安, 唐蕃会盟碑, ラサ, 大乗仏教, ボン教
17
チベット仏教は、吐蕃の崩壊とともに衰退の一途を辿っていた。 が、11世紀には復活し、13世紀、根本聖典であるチベット大蔵経も完成した。 モンゴル軍に攻め込まれチベットは服属を余儀なくしたが、 Aがラマの僧Bを重用したことでモンゴル人の信者を増やした。 14世紀には、明にも愛されたチベット仏教だったが、結果的に帝室とのつながりが強かったことで宗教的に堕落してしまう。 これに対し、革新運動を起こしたのがCだった。Cは旧来のラマ教(紅帽派)の堕落に反対し、D派を作り上げた。中国王朝との関係を断つ厳格な戒律の遵守をといた彼は法王Eを政教両権の最高指導者とした。(Eとは、タタールのFが贈った尊称である) モンゴル人にも強く愛されたラマ教(チベット仏教)は、この後Eの保護者になる、という形でモンゴル人を懐柔させる力として使われることとなる。
フビライ=ハン, パスパ, ツォンカパ, 黄帽, ダライ=ラマ, アルタン=ハン
18
中国が宋代に至る頃、モンゴル系民族AがA(B、C)を建国する。建国者はD(E)であった。都はFに建てられた。 Dは、タングート、ウイグルに向かった彼らは、さらに東北のGを滅ぼした。(Gは『H』と呼ばれた) 第2代のIはJの建国を援助し、その見返りとしてKを獲得した。(Kのうち前者がL周辺、後者がM周辺) その後はJを滅ぼし、国号をCに改めた。一時華北を支配するも、撤退して支配してしまい、その後は国号を何度も変えつつも、冊封などを行なっている。 1004年には、宋とCとで和約、Nを結んでいる。宋が兄、Cが弟とされた。 Cは毎年、Oを20万匹、Pを10万両、Qとして受け取っている。
契丹, キタイ, 遼, 耶律阿保機, 太祖, 上京臨潢府, 渤海, 海東の盛国, 太宗, 後晋, 燕雲十六州, 北京, 大同, 澶淵の盟, 絹, 銀, 歳幣
19
キタイの支配体制は、北方の遊牧民族(A制)と中国の農耕民族(B制)を分けて統治するC体制だった。 Aを管理する官庁がD、Bを管理する官庁がEだった。 また、遊牧地域から農耕地域までの全領土を5つに区分するFの制度を行なった。 また、キタイは太祖がGを母体に大字を、Hを母体に小字を作成することでできたI文字が作られている。 また、彼らは唐代の影響を受け仏教が流行り、各地にJが建立された。 そんなキタイも、Kと同盟を結んだL(M)によって滅亡する。 その後はN(O)として中央アジアに移り、Pを滅ぼし建国した。建国者はQで都はRだった。
部族, 州県, 二重統治, 北面官, 南面官, 五京, 漢字, ウイグル文字, 契丹, 仏塔, 北宋, 金, 女真, カラ=キタイ, 西遼, カラ=ハン国, 耶律大石, ベラサグン
20
吐谷渾と隋や唐に挟まれていた部分で遊牧をしていたA族(B系)は、オルドスに進出し、黄巣の乱の平定に協力したことから皇帝の姓をもらったCがD(E)を建国した。(1038〜1227) 1044年には宋と遼との対立に乗じて宋を攻撃し、Fという和約を結んだ。(毎年Gを13万匹、Hを5万両、Iを2万斤Jとして受け取る) また、彼らは漢字を模倣した複雑なK文字を使用した。
タングート, チベット, 李元昊, 西夏, 大夏, 慶暦の和約, 絹, 銀, 茶, 歳賜, 西夏
21
A系の女真族(B部)の国であるCは、Dによって都をEに置き成立する。(1115〜1234) 第2代のFは北宋の都である開封を占領し滅亡させることに成功する。(G)華北支配を開始した後、南宋との間にHの和議を結び歳貢を受け取った。 1142年にはHの和議を結び南宋がCに対してIを25万匹、Jを25万両渡した。南宋との国境は、これによりK〜L山脈の間となった。 第4代の海陵王の時代にM(現在のN)に遷都している。 彼らは遊牧民を部族制で、漢民族を州権制で縛る二重統治体制と、開国者Dの定めたO・Pという軍事行政制度で支配し、Qという貨幣を製造している。 また、彼らも独自文字、女真文字を作っているが、これは漢字と契丹文字の影響を受け、より簡略化したものである。 この時代、五斗米道は改称され、Rという名前で発展しており、呪術的な要素を排除した平民向けの融合宗教(母体は道教)であるSの作ったTと対立した。
ツングース, 完顔, 金, 完顔阿骨打, 上京会寧府, 太宗, 靖康の変, 紹興, 絹, 銀, 淮河, 秦嶺, 燕京, 北京, 猛安, 謀克, 交鈔, 正一教, 王重陽, 全真教
22
雲南地方では、唐と吐蕃との抗争を機にAが建国された(連合国家)。8世紀前半に雲南地方を統一した彼らは、唐とは友好関係をたもち、唐の文化を導入していた。 が、8世紀半ばになると従属関係から抜け出し強大化。冊封体制から離脱した(安史の乱では双方を攻撃) しかし、10世紀初頭に内紛で滅び、服属国家であるB系の豪族、Cが成立した。 Cは、Dに朝貢し、中国文化を摂取したものの、モンゴルのEによって滅亡した。(EはDより先に攻撃。頭良い)
南詔, 白蛮, 大理, 宋, フビライ
23
アッバース朝が弱体化した9世紀後半、A系最初のイスラーム朝であるB朝が独立した。彼らはターヒル朝から自立して建国するも、そのおよそ8年後に建国されたC朝によって滅ぼされてしまう。(同じくA系) 彼らは、中央アジアから東部イランを支配して、自立し、のちにDを都とした。 その後は東西交易で繁栄したが、これによって中央アジアのイスラーム化が急速に進んだ。 Eが滅亡すると、9世紀半ば、トルコ系民族は中央アジアに流入する。Eは3つの勢力に分裂し、河西回廊、天山山脈、そして中央アジアに分かれた。 中央アジアに訪れたトルコ系民族は、アッバース朝のカリフによってF軍団を編成した。(トルコ人を中心とする白人軍人奴隷)カリフ権弱体化のきっかけとなった。 C朝の元で、トルコ系民族はGに改宗する。C朝でもF軍団が作られた。Fが波及すると、 トルコ系遊牧民によってH朝が建国される。さらに、C朝のFによって、I朝が建国され、北インドにもイスラームが流入していった。 なお、C朝は999年、H朝によって滅ぼされたが、H朝も東からきたJによって滅亡した。 この地域は、トルコ化したことで、Kと呼ばれた。
イラン, サッファール, サーマーン, ブハラ, ウイグル, マムルーク, イスラーム, カラ=ハン, ガズナ, カラ=キタイ, トルキスタン
24
トルコ人は、11世紀西アジアまで拡大する。 A朝は、トルコ系B派の国家で、Cが建国した。彼らはD地方に興り、ニーシャープールを中心都市として発展した。 アッバース朝の承認を受け1055年にEに入城、F派のG朝を追放した。そして、カリフからHの称号を譲り受けた。 1071年には、アルプ=アルスラーンがマラーズギルドの戦いでIに進出しビザンツ帝国軍を破っている。(十字軍の始まり) その後は分裂した。(イスラーム朝歴史参照) ルーム=セルジューク朝が崩壊した後のアナトリアでは、Jがオスマン朝を設立。 2代目のオルハンはビザンツ帝国からKを奪い都とした。 3代目はLを占領し(トルコ語ではM)遷都した。
セルジューク, スンナ, トゥグリル=ベク, ホラーサーン, バグダード, シーア, ブワイフ, スルタン, アナトリア, オスマン1世, ブルサ, アドリアノープル, エディルネ
25
1206年からモンゴル人のAが台頭する。彼は圧倒的強さで、一瞬で世界のパワーバランスを崩してしまった。 まず、オアシスの道とも呼ばれたシルクロードを征服し、1218年にはB(部)も征服。その後は1221年にC朝を征服し、Dに侵入した。 1227年にはEに征服し、さらに金の攻略を目指すも病死した。 草原の道を征服したのがFである。彼はGを征服し、(南宋と挟撃)1236年にはHが大西征を開始。中央アジア〜黒海北岸を制圧、吸収を行い、 ロシアに侵入しIも征服した。 また、JやKまで侵入し、ウィーンに迫った。 シュレジエン侯ハインリヒ2世の率いるL・Mの連合軍を破ったNの戦い(Oの戦い)で勝利するも、Fが死んだことで遠征は中止した。 が、中央アジア〜南ロシアに至るPを建国した。 アッバース朝を滅亡させた(バグダードを攻略し)のがQである。(遠征したのはR)彼はイラン地方にSを建国している。
チンギス=ハン, ナイマン, ホラズム=シャー, 西北インド, 西夏, オゴタイ=ハン, 金, バトゥ, キエフ公国, ハンガリー, ポーランド, ドイツ, ポーランド, ワールシュタット, レグニツァ, キプチャク=ハン国, モンケ=ハン, フラグ, イル=ハン国
26
モンゴル帝国は、3つの大国に分裂した。 A、B、Cの3つである。 Aは、中央アジアのイリ川〜シル川にかけて作られ、オゴタイ家のウルスを吸収後、14世紀にD化した。(14世紀半ばに分裂) Bはヨーロッパに遠征したEが南ロシアに退き形成。住民の多くが、トルコ系で、諸ハン国の中で、最も早期にF化が進んだ。14世紀のGの時代に全盛期を迎えるも、15世紀、Hが自立するとともに崩壊した。 Cは西アジアに遠征したIが形成した。初期にはネストリウス派キリストを擁護していた。Iはエジプトへ遠征するも、J朝に敗れ、その後西進は止まった。 全盛期のKは、Lに改宗し国教化した。イラン人宰相のMは活躍し、モンゴル人中心の歴史書Nで知られる。 なお、それぞれ都はN、O、Pに置かれた。(A、B、Cと同じ並び)
チャガタイ=ハン国, キプチャク=ハン国, イル=ハン国, イスラーム, バトゥ, イスラーム, ウズベク=ハン国, モスクワ大公国, フラグ, マムルーク, ガザン=ハン, イスラーム, ラシード=アッディーン, 集史, アルマリク, サライ, タブリーズ
27
オアシスの道では、地下水路を繋ぐ技術、Aを開発したことでイラン系ソグド人がオアシス都市を建設した。 B山脈の北側の交通路がC、B山脈の南側はDと呼ばれた。 Cはソグディアナへと至る道で、タラスから南下するとDへ、西進するとEへ合流する。 Dは北道(西域北道)と南道(西域南道)に分かれ、一般的にはFと呼ばれる場所である。
カナート, 天山, 天山北路, 天山南路, 草原の道, シルクロード
28
タリム盆地は、A山脈、B山脈、C高原に囲まれた地域中央部はD砂漠が位置する。
天山, 崑崙, パミール, タクラマカン
29
A川、B川に挟まれソグド人が東西交易で活躍した地域をソグディアナという。
アム, シル
30
オアシスの道には、オアシス都市が築かれた。 前漢の武帝時代に設置されたAは有名だが、西域には漢人の植民国家では640年に唐に滅ぼされたBや 漢代にはC、唐代にはDが置かれたE(F)がある。(仏僧であるG、Hの出身地)
河西4郡, 東昌, 西域都護府, 安西都護府, 亀茲, クチャ, 仏図澄, 鳩摩羅什
31
ソグディアナに置かれたオアシス都市は、中心都市であるA、バクトリアの都だったB、サーマーン朝の首都だったCがある。
サマルカンド, バクトラ, ブハラ