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さらばソヴィエト鉄道〜独善的な支配国家〜

さらばソヴィエト鉄道〜独善的な支配国家〜
28問 • 2年前
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    問題一覧

  • 1

    1941年8月、Aを米、英と共に支持したソ連のBは、42年1月にはCに加わり連合国としての立場を表明した。さらに、43年のD以降は、戦後世界のあり方について会談を重ね、43年末のEでは対日戦争への参戦を約束。45年2月のFで、Bはドイツ軍降伏後の未来を定めた。 45年4月、Gに参加し国際連合設立に加わると、 Hの常任理事国になる。 が、ドイツ問題を通し、冷たい戦争(冷戦)が始まり、イギリスのチャーチルはI演説でソ連の東側諸国への対応を非難、アメリカ大統領トルーマンはトルーマン=ドクトリンを発表し、封じ込め政策を明確にした。さらに、マーシャル=プランまで発表され、対抗したBは47年に各国共産党のための情報連携組織、J(K)、49年には経済協力機構L(M)を結成した。49年10月、中華人民共和国が成立すると、毛沢東との関係を深め、両国は50年2月、Nを締結した。Bは以前、国民党との繋がりがあったが、東西冷戦構造が、過去の経緯を乗り越えさせた。 さらに、朝鮮半島ではOのP党を支援し、Qを樹立。朝鮮戦争が始まった。 この頃、独自路線を歩もうとしていたティトーを48年にはLから除名している。 しかし、53年3月、Bは死去。73歳だった。後継の首相はR、第一書記にSが選ばれ、新たな時代が始まった。

    大西洋憲章, スターリン, 連合国共同宣言, カイロ会談, テヘラン会談, ヤルタ会談, サンフランシスコ会議, 安全保障理事会, 鉄のカーテン, コミンフォルム, 共産党情報局, COMECON, 経済相互援助会議, 中ソ友好同盟相互援助条約, 金日成, 労働, 朝鮮民主主義人民共和国, マレンコフ, フルシチョフ

  • 2

    1953年3月5日、スターリンは死去し、共産党第一書記に選ばれたのがフルシチョフだった。彼は集団指導体制のもと、まず行き詰まっていたAを収束させることに決し、7月にBに調印した。しかし、翌年、Cの和平も合わせて協議されたDが決裂してしまい、完全な和平は実現せず、冷戦構造は継続した。55年にEが再軍備しF(G)に加わると、軍事同盟Hを結成し対抗。一方、55年には、平和共存路線に走り、ジュネーヴ4巨頭会談での、アイゼンハウアー、ソ連首相、I、イギリス首相のJ、フランス首相のKの4ショットは有名。が、ソ連は国家体制維持のため、具体案を練ろうとせず、実際の成果はなかったと言える。が、Lと言われる平和共存路線が築かれたのは、大きな成果といえよう。しかし、Mをソ連が軍事介入したことによって再び緊張は高まった。(ジュネーヴ4巨頭会談は、Nの開催が背景。) Mが起きた要因は、フルシチョフのOでのスターリン批判、それに付随するPにある。しかし、6月のQ、8月のMはどちらも鎮圧され、あくまで上からの批判にすぎなかった。また、スターリン批判は、中国との関係が悪化する最大の要因となった。 57年には、モロトフ、マレンコフを排除し、R(S)の実験成功、Tの打ち上げに成功することで、Iを解任し、事実上の独裁に至った。

    朝鮮戦争, 朝鮮休戦協定, インドシナ戦争, ジュネーヴ会議, 西ドイツ, NATO, 北大西洋条約機構, ワルシャワ条約機構, ブルガーニン, イーデン, フォール, ジュネーヴ精神, ハンガリー反ソ暴動, パン=アフリカ会議, ソ連共産党第20回大会, コミンフォルム解散, ボズナン暴動, 大陸間弾道ミサイル, ICBM, スプートニク1号

  • 3

    1953年3月5日、スターリンは死去し、共産党第一書記に選ばれたのがフルシチョフだった。彼は集団指導体制のもと、まず行き詰まっていたAを収束させることに決し、7月にBに調印した。しかし、翌年、Cの和平も合わせて協議されたDが決裂してしまい、完全な和平は実現せず、冷戦構造は継続した。55年にEが再軍備しF(G)に加わると、軍事同盟Hを結成し対抗。一方、55年には、平和共存路線に走り、ジュネーヴ4巨頭会談での、アイゼンハウアー、ソ連首相、I、イギリス首相のJ、フランス首相のKの4ショットは有名。が、ソ連は国家体制維持のため、具体案を練ろうとせず、実際の成果はなかったと言える。が、Lと言われる平和共存路線が築かれたのは、大きな成果といえよう。しかし、Mをソ連が軍事介入したことによって再び緊張は高まった。(ジュネーヴ4巨頭会談は、Nの開催が背景。) Mが起きた要因は、フルシチョフのOでのスターリン批判、それに付随するPにある。しかし、6月のQ、8月のMはどちらも鎮圧され、あくまで上からの批判にすぎなかった。また、スターリン批判は、中国との関係が悪化する最大の要因となった。 57年には、モロトフ、マレンコフを排除し、R(S)の実験成功、Tの打ち上げに成功することで、Iを解任し、事実上の独裁に至った。

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  • 4

    1959年9月15日、当時権力の絶頂にあったフルシチョフは、夫人を伴いソ連首相として初めてのAを行った。国際連合総会でも演説をおこない、全面完全軍縮を提案した。会談はBで行われ、当時の大統領、Cと会談した。両者は国際紛争の平和解決で合意し、CのDが約束された。 この成果を背景に30日にはEを行い、Fと会談した。Fはスターリン批判を行ったフルシチョフに対し当初から否定的で、独自路線を進んでいたため、6月にGに踏み切っていた。(秘密協定) Eで関係改善を図ったフルシチョフもFを説得することはとうとうできず、成果は得られなかった。 フルシチョフは外交成果の仕上げのため、60年、再び4巨頭会談にのぞんだが、Hが起こったことで米ソ対立が深まり、実現しなかった。 結果、彼の外交は成果を得るどころか、深刻さを増してしまった。 61年には米大統領がIに変わり、再び首脳会談が行われようとしたが、話し合いは決裂し、問題が激化していたJはKの構築に踏み切った。 さらに、Lを成功させたMが反米姿勢を高めると、62年にはミサイル基地を設置し、Nが勃発した。フルシチョフは妥協しミサイル基地を撤去した。翌63年にはOが締結し、アメリカとは「敵対的平和」状態に突入した。

    訪米, キャンプ=デーヴィッド, アイゼンハウアー, 訪ソ, 訪中, 毛沢東, 中ソ技術協定破棄, U2型機事件, ケネディ, 東ドイツ, ベルリンの壁, キューバ革命, カストロ, キューバ危機, 部分的核実験禁止条約

  • 5

    スターリン批判を機にフルシチョフのもとで非スターリン化が進んだが、それは決してソ連解体を容認するものではなく、あくまでスターリンへの批判にとどまった。特に、1956年に起きたAとBを武力鎮圧したことが物語っている。 ①第2次大戦ののち、Cでは戦前からの共産党指導者、Dが政権を握っていたが、(対独運動を戦争中に指揮)暴力的変革、一党独裁を必要としないEと言われる路線でソ連との違いを明確にしていた。が、スターリンの頃からティトー同様批判されていた彼は解任され、CのFが結成された。(労働党と社会党)Fは親ソ政権であったことから国民の自由は抑圧されていた。が、スターリン批判が行われると政権は交代。Gで起きた暴動を契機にAが加速していくと第一書記に復活し、スターリン派の排除を行った。フルシチョフは軍事介入を決意しワルシャワに乗り込むも、Dが対立を避けたことで軍事衝突は行われずに(ドイツの隣国ということもある)Dの復権承認が行われ、ソ連に服属した。10月には国民の前で「社会主義の道」という演説を行い、社会主義への見解の多様性を示し、独自内政を再開。が、一方でソ連との協和からかHは脱退しなかった。 その後は次第に保守的な姿勢をとるようになり、党改革の否定を明確にし、スターリン派を再度登用するなど考えを変え、58年からはI(J)の政策に賛成し、中ソ対立におけるソ連援助の立場を明確にした。68年のKではH軍隊の派遣を主張した。 しかし、70年、過去にバルト交易で栄えたことのあるL(戦前はM)で民衆の蜂起を武力弾圧したことで国民からの信頼を失い、Fによって解任させられた。 ②Aによって政権が交代しDが復権したことを受け、Nの首都Oでは学生がデモを起こした。改革は政治家でBを組織したPは、国民の支持を受け首相としてQから脱退したが、軍事介入によって暴動は鎮圧され、改革撤回を拒否したPは処刑された。Nではこれによって、88年まで政権を握る親スターリン派のQが指導者の座に座ったが、徐々に中道路線をとるようになり、国民から好かれるようになる、とDとは対照的な長期政権の指導者であった。 一方、中ソ対立がはじまったことで、59年にフルシチョフがRを通告、64年に毛沢東は独自でSを成功させた。(64年はフルシチョフ解任の年であり、毛沢東はSを祝砲だと言った) 地方労働者出身で農民運動に携わり、人気も高かったフルシチョフも、就任後は外交面での成果が得られず、スターリン批判を行ったものの弾圧を行ってしまった。結局彼は、キューバ危機での弱腰で非難が起こり、一方的に解任されてしまうのだった。(切ない…) 彼の外交はTと呼ばれるほど不安定なものであった。 が、スターリンを批判したことは、ソ連の完全な恐怖政治を揺るがす大きな契機となり、経済成長が実現したこともあってか、評価される点もある。

    ポーランド反ソ暴動, ハンガリー反ソ暴動, ポーランド, ゴムウカ, 人民民主主義, 統一労働者党, ポズナニ, ワルシャワ条約機構, コメコン, 経済相互援助会議, チェコ事件, グダンスク, ダンツィヒ, ハンガリー, ブダペスト, ナジ=イムレ, カーダール, 中ソ技術協定破棄, 核実験, 瀬戸際外交

  • 6

    1964年、キューバ危機での弱腰外交が国民から不満を買い、フルシチョフは解任させられた。(不在中に決定)こうして第一書記に就任したのがAだった。彼はここから18年にわたって政権を継続させることとなる。(が、この頃はソ連社会の停滞時期で、共産党官僚、Bが特権的権力を行使していた) 内政は首相であるCに任せたが、利潤導入方式経営という改革を行おうとしたCは結局成功を収めることはできなかった。(のちにDの先駆として見直された) 外政では、基本的にはE(F)を推進し、欧州の安定とアメリカの核軍縮を前進させたが、ハンガリー、ポーランドに次ぐ東欧諸国の反乱を抑えるため、厳しく介入を行った。背景には、中ソ対立による統率力の低下を抑える動きがある。 E(F)の推進としては、66年に全欧州安全保障会議の開催を提唱し、68年にはG(H)を米英ソの大国が合意し採択、70年には国際条約として発行された。(のちに北朝鮮の脱退などの困難な問題を抱えてしまう) 75年にはIでJ(K)を行い、全ヨーロッパ(アルバニア以外)とアメリカ・カナダの35カ国が安全保障についての会議をした。72年のL以降ヨーロッパの敵対関係が存在しなくなったことが原因であり、8月にはMが調印された。(人権はもはや国家の内政事項ではない、という規定は国家を超えた人権を認め、東欧革命の原動力となった。) 69年から72年の間にはN(O)でアメリカとの関係改善を狙い、73年にはPを行いQを締結する。(ニクソンと合意。) 彼は長い政権下で70年代後半には国家元首の地位につき、個人崇拝が行われるようになる。ソ連の解体の主要因となったのも彼と言える。(近代化と全近代化の矛盾)

    ブレジネフ, ノーメンクラツーラ, コスイギン, ペレストロイカ, 緊張緩和, デタント, 核拡散防止条約, NPT, ヘルシンキ, 全欧安全保障協力会議, CSCE, 東西ドイツ基本条約, ヘルシンキ宣言, 第1次戦略兵器制限交渉, SALT・I, 訪米, 核戦争防止協定

  • 7

    ブレジネフは緊張緩和を行ったものの、ソ連という組織の解体は断固として許す気はなかった。1968年にAでBが起こるとこの鎮圧にむかった。 Aは、そもそも48年にCとして成立しており、共産党政権としてソ連に服属していた。共産党第一書記だったDが親スターリン派の人物であり、経済の停滞から68年に書記の座を引き摺り下ろされると、後任についたのが民主化の指導者、Eだった。彼は貧しい家具職人のことして生まれた人物で、ソ連停滞をかねてから懸念しており、異なる歩みを模索する家庭で民主化運動の動きを強めていた。 68年4月に共産党第一書記として就任すると、一党独裁を否定し基本的人権を尊重しようとする新しい改革、Fを打ち出した。この動きにたいし社会主義社会の否定を危惧したブレジネフは8月、軍事介入に踏みきりウクライナのKGBにEをはじめとするCの幹部たちを収監した。(この事件をGと呼び、侵攻に携わったのがHの軍である) しかし、Hの軍としてソ連支援を決意したのは独裁的長期政権下にあったI、J、K、Lの4カ国であり、MのNはGを非難した。また、Hには所属してはいないものの、東欧社会主義国ながらティトー政権のユーゴスラヴィア、O政権のPもまた批判している。(もちろん毛沢東も批判) ブレジネフは国際的非難を受けることを見越してか制限主権論と呼ばれるQを示したが、一刻の主権制限はしょうがないというこの考えはあまりに倫理に反していた。(79年のRもこの原則に則って行われた) Gは東欧社会主義圏の一体化はなされていないことを明確にし、冷戦終結の可能性を示唆するものだった。西ドイツのSによるTはこれを契機に行われた。

    チェコスロヴァキア, プラハの春, チェコスロヴァキア社会主義共和国, ノヴォトニー, ドプチェク, 人間の顔をした社会主義, チェコ事件, ワルシャワ条約機構, ハンガリー, ポーランド, 東ドイツ, ブルガリア, ルーマニア, チャウシェスク, ホッジャ, アルバニア, ブレジネフ=ドクトリン, アフガニスタン侵攻, ブラント, 東方外交

  • 8

    プラハの鎮圧とそれに伴うチェコ事件は、ブレジネフ政権下に行われた二つの大きな出来事の契機となった。 AとBである。(ごめんなさい。AがBより10年も後です) ①カーターとの第2次戦略兵器制限交渉が成立していた79年、ブレジネフはAを行った。カーターは交渉に批准せず、翌年のモスクワ=オリンピックでもボイコットを行い次のレーガン政権から米ソがCと呼ばれる期間に入る主要因となってしまった。 アメリカとのデタントが行われ関係改善が果たされそうだったソ連がなぜAを行ったか、それは共産政権維持とソ連国内におけるイスラーム民族運動の鎮圧が目的と考えられる。 が、ゲリラ戦を得意とし、アメリカの支援を受けていたDを攻略することは難しく、国際的な非難を浴びたソ連は世間に国際的孤立と社会主義の限界、ソ連体制の硬直化を明らかにしてしまった。(なお、ブレジネフ本人は病気がちでAに携わっていなかったようである。) この出来事が起こった1979年は、歴史の転換年としての側面が強く、イスラーム国家における大規模革命E、鬱屈とした毛沢東政権を変容させたFによる改革開放政策、イギリスでのGによるHの導入がおこなわれ、一つの時代の終わりを告げたとされる。 また、アメリカのDへの支援は、のちのイスラーム原理主義集団Iが武器を持ち過激テロを起こすきっかけとなっている。 ②1689年のJ、1727年のKで始まり、1858年のL、69年にはM、81年にはNと中国とロシアは国境で長らく対立しており、中ソ国境紛争と呼ばれる紛争は定期的に発生していた。 特に、中国側は列強支配と繋げロシア側による不平等条約であるとみなし、緊張は高まっていた。64年の核実験成功以降、ソ連との緊張状態はピークに達し、当時中国国内でOが起きていたこともあっってか中国国内でのソ連批判も強く、その過程で台頭した軍人Pを後継者に添えようとしていた毛沢東は全面戦争を意識していた。 69年3月、黒竜川の支流、QでB(R)がおこる。大規模衝突で50人を超える死者が出たが、9月にSの葬儀に出席したTと周恩来の話し合いの結果、戦争になることは避けられた。

    アフガニスタン侵攻, 珍宝島事件, 新冷戦, アフガニスタン, イラン革命, 鄧小平, サッチャー, 新自由主義, タリバン, ネルチンスク条約, キャフタ条約, アイグン条約, 北京条約, イリ条約, プロレタリア文化大革命, 林彪, ウスリー川, ダマンスキー島事件, ホー=チ=ミン, コスイギン

  • 9

    秘密警察であるAの議長を務め、ブレジネフ時代の停滞と腐敗を一掃しようと乗り出したのがBだった。が、彼はすでに長く生きており、就任後に病に倒れたため十分な成果を収めることはできなかった。(彼が目をかけ、のちにBの政策を引き継いだのがCである) その次に就任したDも1910年代の人物であり、短命で亡くなってしまう。次に就任したのがCだった。 彼は34年生まれの人物で、就任した85年はまだ51歳という若さだった。1985年3月、Dの急死を受け書記長に選ばれた彼は、党首脳、閣僚、軍首脳などの人事異動を断行、共産党官僚の特権打開に 取り組んだ。 1986年4月、ソ連国内の現ウクライナでEが起きてしまう。7年前アメリカで起きたFを彷彿とさせるこの事故は、Fの教訓が未だ共有されていなかったソ連ではどうすることもできなかった。 事故の報告が硬直しすぐにはCに届かなかったことが、テレビがメディアとして大きな力を持っていった80年代の流れに付随し、Cに情報公開(G)を迫るのだった。 こうして歴史の見直しが進められ、スターリン体制時代の犠牲者やブレジネフ時代の処刑、流刑が掘り起こされ、多くの名誉回復が行われた。特に、長くソ連当局が否定していた1939年のHが明かされたことは大きな変革となり、H内のIが明らかになったことで、90年から91年の間にJが独立を宣言。ソ連解体へと突き進むこととなった。 

    KGB, アンドロポフ, ゴルバチョフ, チェルネンコ, チェルノブイリ原子力発電所事故, スリーマイル島原子力発電所事故, グラスノスチ, 独ソ不可侵条約, 秘密議定書, バルト三国

  • 10

    1986年、ゴルバチョフはAと称する改革路線を打ち出した。それはスターリン体制から続くソ連の硬直を変えるものだったが、あくまでソ連の再始動を目指してのものだった。しかし、このAはより強い改革を要求する急進派と、保守派両方から反対を受けた。しかし市民大衆はこれを支持し、下からの改革としてAが行われた。89年3月にはB制によって議員選挙が行われ、第1回人民代議員大会が開催。90年にはついにCの否定、D制まで話が進み、初代にゴルバチョフが選ばれた。しかし、肝心の経済改革は、「今まで」と「これから」が混ざってしまい、結局うまくはいかなかった。

    ペレストロイカ, 複数立候補, 一党独裁体制, 大統領

  • 11

    ゴルバチョフは、ブレジネフ=ドクトリン(A)を放棄し、新政策Bを掲げた。これはソ連が西側との相互依存を重視し、社会主義国との対等の関係を結ぶ、という全く新しいものだった。新冷戦の行き詰まりでソ連財政は圧迫しており、外交の見直しが図られたことが契機となった。 87年にはアメリカのCとの間でD(E)全廃条約に調印し、89年のFで冷戦は終結した。 88年には79年から長く続いたGをやめ、89年撤退完了を果たした。Gがソ連の失敗で終わったことは、91年のソ連崩壊、そしてアメリカ、ソ連にはもう従わない、H主義の形成を促してしまい、Iにつながってしまった。Gが行われたJ本国では、Hが作られたことで、89年以降も内戦が続き、Jが台頭した。Jは極端なH主義で、仏教遺跡Kを破壊したことで世界からバッシングの対象となった。(Kはガンダーラ様式の仏像をもち、Lが訪れたことでも知られ、著書Mにも名前が残るほどだった。) また、長く対立していた中国とも関係を改善し、89年5月、ゴルバチョフは訪中。Nと会談し、中ソ関係正常化を果たした。当時は、天安門事件が起きていた頃で総書記だったOとも会談をしている。ゴルバチョフとの交渉を終えた5月の18日、その帰国を見送ったNは、6月4日天安門で武力弾圧を行った。 そのほかにも、1990年にはPを訪問したり、Qと国交を樹立したりしている。

    制限主権説, 新思考外交, レーガン, 中距離核戦力, INF, マルタ会談, アフガニスタン侵攻, イスラーム原理主義, 同時多発テロ, タリバン, バーミヤン, 玄奘, 大唐西域記, 鄧小平, 趙紫陽, ヴァチカン, 韓国

  • 12

    1988年、ブレジネフ=ドクトリンの制限主権論の撤回を表明したのがAだった。このAによって東ヨーロッパ社会主義圏諸国は一斉にBを起こした。 ①まず、1960年から80年代のハンガリーでは長期政権を維持していたCが健康上の理由から88年にようやくの辞任をしていた。続くグロース書記長が三人の改革派によって導かれ、民主化の動きが起こった。これは一連のBの先頭を切るものであり、「1発の銃声も聞かれず、一滴の血も流れず」平和に実現された。改革はまず、国家英雄Dを復権させ、再埋葬するところから行われた。89年1月には社会主義国で初めてEが否定され、政党活動の自由が保障された。 法治国家のもと、Fが起きた10月23日を国家の記念日とし、今日まで続く新国家、Gが築かれた。 なお、89年5月、Hとの国境が開放されたことで、ヨーロッパを分け隔ててきたIに初めて風穴が開き、これを知った東ドイツの国民は亡命を行ったとされる。 ②ソ連では、3月に初の選挙が行われゴルバチョフが就任した。 ③ポーランドでは、1970年代、Jが親ソへと方針転換したことで国民の不満が高まっていたが、Kのレーニン造船所の労働者ストライキをもとに、労働者の代表Lが政府と交渉し、統一労働者党の統制を受けない労働組合、独立自主管理労組が結成された。こうして、80年にLを代表としたM(N)が結成。略称をOと呼ぶ。 しかし、81年12月政権がPに移ると、民主化運動を打開しようと戒厳令が敷かれてしまう。Lは弾圧され逮捕されたが、経済の悪化が加速したことを踏まえ、1989年2月6日、Qが開かれ、Mは再合法化された。4月にQが閉幕し合意すると、6月には自由選挙が実施。Mが圧勝したが、協議の結果Pが大統領となる妥協が成立した。しかし、改革の歩みはさらに進み、9月にはカトリック系知識人Rが首相を務める連立政権が樹立。国名はポーランド人民共和国からSへと変更した。

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  • 13

    ハンガリー、ポーランドに始まった東欧革命は、東欧社会主義圏に民主化、自由化の動きをもたらした。 1940年8月23日、秘密議定書の密約でソ連のものとなったAは、ゴルバチョフのBによって歴史の見直しが行われた結果、条約締結が行われたちょうどC年目にあたる1989年8月23日、およそ100万人から200万人の人が「D」を結び、抵抗の意を示した。 90年3月11日、まずEが独立を宣言すると、親ソ派は介入したものの、A全てで独立の是非を問う国民投票が行われると、いずれも70から90%の賛成があり、もう独立の意思はとどまるところを知らなかった。 1991年8月、Fがおき、A国内でも保守派による攻撃が行われたが、Aの結束は強く市民は追い出すことに成功し、G、Hの順番で正式に独立を宣言した。

    バルト三国, グラスノスチ, 50, 人間の鎖, リトアニア, 保守派クーデター, エストニア, ラトビア

  • 14

    1945年5月7日はなんの日であるかと問われれば、ナチス=ドイツ降伏の日である。 6月、ドイツの4カ国分割占領とベルリンの分割管理の基本方針が示された。これは2月のAで提唱されていたもので、7月のBで成立したCによって確定した。しかし、あくまでこれはドイツを経済的に回復させ、主権回復までの一時的な措置であった。そのため、ドイツの統一性維持のために管理理事会が置かれたのがDだった。また、併合されていたEはドイツからは分離されるも、4カ国によって占領管理された。 (臨時政府が45年中に作られ、統一政府としての機能を果たしており、統一政府を置けなかったドイツとは異なる。47年からは国家のあり方を規定するFが検討されており、スターリンが死去したG年に締結された。なお、この頃からEはHであり、同時期にIに加盟が認められている。今でもHの観点からJには非加盟の国家である。現在この国の抗争地として残っているのがKである。) 1945年11月には、Lが開廷される。これは戦争責任を問うもので、開かれたMは、33年以来ナチ党が大会を開催した場所でもあり、ユダヤ人絶滅を宣言した場所でもある。だからこそ、ここで行われたのである。処刑されたのは12名で、特にヒトラーの後継者と呼ばれたN、終身刑と裁定が違うものの断罪されたナチ党副総統、Oは有名である。(ヒムラーは自殺、NもMの後自殺) しかし、ドイツを揺るがす出来事が起こる。冷戦の深刻化だった。 トルーマンがトルーマン=ドクトリンでPを明確にし、Qを具体化したことで冷戦は深刻に。 48年6月20日、西側がRを行ったことがドイツを刺激し、同月24日にSが行われた。 Sは西側のRに反対したソ連が、ベルリンにつながる道路、鉄道、水路を西ドイツから閉鎖した。これに対しアメリカはTを行い、西ベルリンの人々の命を守った。 これによって、ドイツの東西分裂は確定してしまうのだった。

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  • 15

    1949年5月、ドイツの西半分、アメリカ・イギリス・フランス占領地区がAを制定し独立国家、 Bとして成立した。AはCとも呼ばれるもので、将来的にはドイツ全域に適用されるべきであると考えられていた。1919年に成立したDとしばしば比較されるが、Dが国民を信頼していたのに対して、人間不信的であったのがAである。 これによって、大統領は間接選挙選ばれること、首相権限が大統領より強いこと、連邦主義であること(中央集権は連合国によって否定)などが制定された。 8月14日には第1回連邦議会総選挙が行われ、戦後のドイツに生まれた新政党、E(F)がG(H)と連合する形でドイツ社会民主党を抑え第一党となった。これは戦前、ビスマルクのIに抵抗したカトリック系政党を母体にしたもので、Gに関してはバイエルン地方のカトリック勢力を中心としている。 9月7日、暫定首都をボンにおき、初代大統領にテオドール=ホイス、初代首相にJが選出された。これに対抗する形で同年10月にKが建国している。 Jは70歳で首相になった人物で、戦争で若者が枯渇し、疲れ果てていた西ドイツに、経済大臣エアハルトと共に、「L」をもたらした人物だった。アメリカのMによる援助を受け、54年のNにもとづき、55年5月5日、国家主権回復とOを西側諸国に認められ、翌日、Pに加盟。57年には長年のフランスとの抗争地、Qの問題を決着させ、Qのドイツ復帰を実現させた。 61年にはKによるRの建設で、緊張がピークに達するも、Lを遂げ、63年、フランスのSとTを成立させたことを花道に、Jは引退した。(Jはケネディのソ連との対話路線に不信感を抱いており、米ソどちらにも与していないSと志向が一致した。)

    西ドイツ基本法, ドイツ連邦共和国, ボン基本法, ワイマール憲法, キリスト教民主同盟, CDU, キリスト教社会同盟, CSU, 文化闘争, アデナウアー, ドイツ民主共和国, 経済の奇跡, マーシャル=プラン, パリ協定, 再軍備, NATO, ザール地方, ベルリンの壁, ド=ゴール, 独仏友好条約

  • 16

    アデナウアー引退後、キリスト教民主同盟のAが政権を継承するも、東ドイツと対話を求める世論の動きを無視したこと、経済が停滞したことにより退陣。66年の総選挙で過半数を占める政党がいなかったことから、野党のB(C)がキリスト教民主同盟と連立政権を樹立。Bはナチスドイツ時代非合法とされていたが、戦後に復活しており、西ドイツでは現実路線をとっていた。Dでは、Eとの絶縁を宣言しており、国民政党への転換を図っていたことで知られる。 こうして、キリスト教民主同盟の党首、Fが首班、Bの党首、Gが外務大臣となったHが成立した。 しかし、オール与党体制による国家建設は、当時のベトナム反戦運動やパリでのIに刺激された学生たちによって不満を買い、崩壊してしまう。 結果、Fが辞任し、G政権として70年台から成立した。 Gは東ドイツとの融和を図り、ドイツ統一のためのJを展開した。 元々西ベルリンの市長だった彼はかねてよりドイツ統一を目標としており、69年10月、接近による変化という新外交で、ソ連やポーランド、東ドイツに訪問し、それぞれと条約を締結したり、国交を正常化したりした。70年にはポツダム宣言以降確定していなかったポーランドとの国境をKであることを認めるLを締結し、欧州安定に寄与した。12月、Mを訪れたGは、かつてNで起こった蜂起の記念碑に対し跪き、黙祷を捧げた。 8月にはOを締結しており、ソ連のP首相との間で、不可侵を約束した。 そしてついに72年12月21日、Qが結ばれ、初めての直接会談は世界に変化をもたらし、73年には東西ドイツによるRが実現した。これはデタントに向かう下地となり、それが75年のヘルシンキ宣言へとつながっている。なお、74年Gが辞任すると、同じくBのSがJを継承、82年からはキリスト教民主同盟のTに変わったが、彼もJを継承する姿勢を見せたため、90年ついにドイツは統一された。

    エアハルト, 社会民主党, SPD, ゴーデスベルク綱領, マルクス主義, キージンガー, ブラント, 大連立内閣, 五月危機, 東方外交, オーデル=ナイセ線, 西ドイツ=ポーランド国交正常化条約, ワルシャワ, ゲットー, ソ連=西ドイツ武力不行使条約, コスイギン, 東西ドイツ基本条約, 国連同時加盟, シュミット, コール

  • 17

    東西冷戦が進行する中、49年10月に成立したのがドイツ民主共和国である。ここでは、AとBとが合同したC(D)が第1党であったが、民意によっての選挙ではなく、政党によって必ず有利になるやり方で作られていたため、形だけの民主主義国家だった。 53年6月、東ベルリンでEが起きた。これはソ連のスターリン死去のニュースをきっかけに自由を求めて起こったものだったが、ソ連との関係悪化を恐れた西側諸国は支援することをせず、結果ベルリン問題と呼ばれる問題が起きてしまった。50年から総書記を務め60年からは国家元首となっていたFは、ソ連側の人間であったが70年代、ソ連と距離を置くように。しかし、独裁を維持したため、時代に硬直していた。腹心だったGに政権を任せて引退したFだったが、Gは社会主義を維持する構えをみせ89年10月に解任。11月にベルリンの壁解放に応じた。 なお、55年から参加していたソ連を中心とした軍事同盟Hは冷戦終結宣言後の91年7月に解散している。

    ドイツ共産党, ドイツ社会民主党, 社会主義統一等, SED, ベルリン暴動, ウルブレヒト, ホネカー, ワルシャワ条約機構

  • 18

    ベルリンの壁の開放は、未だソ連との関係を持っていた東欧国家にも影響を与えた。 ①第二次世界大戦に枢軸国として参戦していたブルガリア王国は、国内では労働者党の党首で、Aの書記長だったBがパルチザン闘争を行なっており、戦後Cとして国家が成立した。 Bは首相となり、反社会主義への粛清や農地改革等を行い、49年にDに加盟、55年にEに加盟しソ連衛星国家の一部となった。 54年、共産党書記長となったFは、フルシチョフらを支持し、非スターリン化を進めるも、68年のGではソ連とともに軍隊を送り、絶対的権力で国家を統一していた。 しかし、1878年のHの百年祭が挙行されるとマケドニア人はブルガリア人である、とナショナリズムが盛り上がり、経済危機を迎える中でクーデターの動きが起こっていた。 89年、ベルリンの壁開放の翌日、ゴルバチョフと連携したムラデノフがクーデターを成功させ、Fは辞任。2004年にはIに、2007年にはJに加盟を実現した。 ②1968年、チェコ事件以来Kによる共産党一党独裁体制が敷かれていたチェコスロヴァキアは、言論抑圧と経済停滞で国家全体に無気力感が蔓延していた。77年には知識人のLらが言論の自由等の改革を提唱するMを発表。75年のNで提唱されたCSCEの最終文書決定にチェコスロヴァキアの現状を組み込もうとするものだったが、弾圧されてしまった。しかし、85年のゴルバチョフによるグラスノスチとペレストロイカは民衆に自由という夢への憧れを抱かせた。 89年1月、LらがMの際に亡くなった大学生の追悼集会を予定すると当局は弾圧。それに対する抗議運動が国中に広まり、約20年ぶりに沈黙を破ったプラハの春の指導者、Oは民主化を要求し、ワルシャワ条約機構に対しPの見直しを求める書簡を送った。この頃には、ポーランドで「Q」が政権をとっており、ハンガリーでも民主化が進んでおり、政府に力はなかった。 11月、ベルリンの壁開放の報が届くと市民・学生の運動は活発となり、ついに24日、Kから引き継いでいたヤケシュの政権幹部が辞任したことで、Oが連邦議会議長、Lが大統領に選ばれた。大衆行動におり流血の惨事が起こらなかったチェコスロヴァキアの変革は、Rと呼ばれている。その後、穏健な改革を目指すスロヴァキアと急速な市場経済化を目指すチェコ、重圧を跳ね除けたからだろうか、2カ国は分裂した。 89年12月、Sで冷戦の終結が約束される。これはゴルバチョフによる新思考外交と、それに付随した東欧革命が主要因のように思えるが、社会主義圏の限界と、自由への抑圧、そして大国アメリカの双子の赤字による揺らぎが原因であると考えられる。社会主義対資本主義という構図は、とうに終わりを迎えていたのである。 しかし、Tが終結していないのに、冷戦は本当に終わりを迎えたと言えるのだろうか。

    コミンテルン, ディミトロフ, ブルガリア人民共和国, コメコン, ワルシャワ条約機構, ジフコフ, チェコ事件, サン=ステファノ条約, NATO, EU, フサーク, ハヴェル, 憲章77, ヘルシンキ宣言, ドプチェク, ブレジネフ=ドクトリン, 連帯, ビロード革命, マルタ会談, 朝鮮戦争

  • 19

    1990年、東西ドイツの統一実現後、現代までに混乱は克服されてきた。 84年から大統領に就いたAは90年から統一ドイツの大統領を務め、ドイツの過去を直視した「過去に目を閉ざすものは結局のところ現代にも盲目となります。」という演説で知られる。 82年からCDU政権を樹立していた首相、Bは統一に貢献するも、統一後の経済不振で国民の支持をなくし、CDU/CSUと自由民主党の連立政権から、CによるD(E)とFの連立政権へと移行した。 Fは環境保全などの市民活動から始まったもので、98年から表面化したGでは政権が揺らいだ。 2003年のアメリカによるHでは、反対し派兵しなかったが、2005年の選挙ではBと同じくCDU/CSUとSPDの連立政権としてIが初のJとして首相に就任した。なお、21年12月8日から今日にかけては、Kが就任している。

    ヴァイツゼッカー, コール, シュレーダー, 社会民主党, SPD, 緑の党, コソヴォ問題, イラク問題, メルケル, 女性首相, ショルツ

  • 20

    東欧革命の中で唯一と言っていい流血騒動となったのがAである。 Aは枢軸国であった国で、ドイツの対ソ戦に協力させられたことでひどくダメージを負っていた。 47年2月、連合国とのBでソ連に対して賠償金やC(現在のD)などを移譲、ブルガリアへは南ドブルジャを移譲したため、360万人以上の人口を失い、Eとして成立した。 A共産党はFに加盟し、東ヨーロッパ社会主義圏を構成した。49年には他国と共にGを結成。 スターリン体制への傾斜を強め、51年からは5か年計画を実施している。55年にはHにも加盟している。 56年、フルシチョフがスターリン批判を行うと、フルシチョフ政権のIによる経済統制に反発。独自の工業化政策を打ち出した。その背景にはルーマニアの豊富なJがあったが、政権を握ったのはKだった。 彼の外交は、ソ連の機構には留まりながらもアメリカやフランスとも渡り合い、中ソ対立では中立の立場をとったためLと呼ばれた。その後、後継者となったMは独自路線を歩み、多面外交を継承。一方、国名をNにかえ、独裁を強め、ソ連よりの外交を改めてOを展開、67年にはPと国交を樹立し世界を驚かせ、チェコ事件にも軍を派遣しなかった。 Mの独裁は次第に国内で反感をよび、東欧革命の嵐が吹き荒れる89年12月、Qで民衆暴動が起こり、大統領夫妻は逃げようとヘリコプターで脱出したが、着陸の瞬間に捉えられ、即席の裁判ですぐに処刑が通告された。夫妻ともに銃殺された。その後は救国戦線のRが政権を握るも、その政策は共産党の活動を禁止はしたものの、旧共産党員が残っているなど不十分で問題となった。2004年にはSに、2007年にはTに加盟し、西ヨーロッパ側の立場をとった。

    ルーマニア, パリ講和条約, ベッサラビア, モルドバ, ルーマニア人民共和国, コミンフォルム, コメコン, ワルシャワ条約機構, コメコン, 石油資源, デジ, 三台のピアノを同時に弾く, チャウシェスク, ルーマニア社会主義共和国, 自主外交, 西ドイツ, ティミショアラ, イリエスク, NATO, EU

  • 21

    ペレストロイカを進めたゴルバチョフだったが、1989年の東欧革命で力を弱める。 ゴルバチョフは連邦制の維持を望んだが、バルト三国が3月に相次いで独立を宣言すると、6月にはロシア共和国がAの指導のもとで主権を宣言した。 91年、Aとゴルバチョフ、両派の対立は深刻化したが、ゴルバチョフはバルト三国への対応をうまく行えず、けれども連邦維持について国民からの支持は強かったため新連邦条約草案の作成に入っていた。 しかし、91年6月、ロシア共和国がAを大統領に選出すると、モスクワのクレムリンにソ連大統領とロシア大統領が同時に存在する以上事態となった。 1991年8月19日、ソ連共産党のBが発生、ゴルバチョフは軟禁されてしまう。 しかし、クーデターはAによって鎮圧され、ゴルバチョフは一命を取り留めた。 ゴルバチョフはこれによって権力を失墜させ8月24日、Cは解党された。真珠湾攻撃でも有名なDという日に、E、F、Gの3カ国はミンスク郊外に集まり、1922年のH条約の無効を宣言し、変わってI(J)を創設することにした。12月25日にはゴルバチョフは辞任、26日にソ連は消滅した。K年の歴史があるソ連はこれにて終わりを告げた。 こうして旧ソ連はIに加盟したE、F、Gと中央アジア5カ国であるL、M、N、O、P、そしてキリスト教系のQ、バクー油田を抱えるR、ベッサラビア一帯であるSに分かれることとなり、これが新たな紛争地域形成へとつながってしまったことは紛れもない事実である。 なお、Aは94年にTを武力弾圧したことでも知られる。

    エリツィン, 保守派クーデター, ソ連共産党, 12月8日, ロシア, ウクライナ, ベラルーシ, ソヴィエト連邦, 独立国家共同体, CIS, 69, ウズベキスタン, カザフスタン, キルギス, タジキスタン, トルクメニスタン, アルメニア, アゼルバイジャン, モルドバ, チェチェン紛争

  • 22

    ソ連解体後、エリツィンを大統領としたAは、まず核問題で揉めることとなる。ソ連解体の頃は、ちょうどユーゴスラヴィア内戦の激化期にあたり、同様な内戦になることが危惧されたが、アメリカの仲介によりAによる核の全預かりで話は片付き、その代わりとしてウクライナにBが編入されることとなった。しかし、1994年、C地方でDが起こる。これは一方的な独立であったため、エリツィンは武力鎮圧を行なったが、その様子は世間的に非難された。96年、停戦するも、2000年には再度起こっており、独立派にはイスラーム過激派のEが加わったとされている。その後、CISには93年、F(G)が加盟したが、2008年には脱退。 92円には旧ソ連を構成していたH、I、J、K、L、Mの6カ国によるNが締結され、条約には翌年、O、P、Qが加盟するも、のちにH、I、J、K、L、Qの6カ国に落ち着いた。 2002年にはR(S)として結成しているが、2022年には中央アジアのTでの騒乱に対し迅速な介入と題して軍事行動が起こっている。

    ロシア連邦, クリミア半島, カフカス, チェチェン紛争, アル=カイダ, ジョージア, グルジア, ロシア連邦, アルメニア, カザフスタン, キルギス, タジキスタン, ウズベキスタン, 集団安全保障条約, アゼルバイジャン, ジョージア, ベラルーシ, 集団安全保障条約機構, CSTO, カザフスタン

  • 23

    旧ソヴィエト連邦から分立したベラルーシ、ウクライナはどちらもロシアにとって必要な場所であった。 ベラルーシはロシアとの提携を行い、2020年では大統領職に不正選挙疑惑を持ちつつもとどまったAが有名である。 しかし、ベラルーシと異なり、ウクライナは長らくロシア連邦と対立関係にあった。 ソ連時代の54年、ウクライナはBによってCの譲渡を許可されていたが、その後はブレジネフの時代に経済の停滞が起き、ヘルシンキ宣言の頃には反体制活動が活発になった。 86年、Dが起きたことで深刻な汚染問題を負ったが、90年6月、エリツィンによるロシア連邦の独立を契機に、ウクライナ共和国として主権宣言を行う。91年12月、CISに加入した。 その後はCを独立とともに入手したウクライナだったが、94年12月、Eで会議を開催し、CSCEがFへと改称する。 ここで、G、H、Iの3カ国はJに加盟し、ロシアに核を移管した。2004年12月には、ユシチェンコにより民主化が達成され、Kと呼ばれる。しかし、その後もウクライナ政情は安定せず、国内では親ロシア派のヤヌコーヴィチと親西欧派の対立が続いた。ヤヌーコヴィチは大統領に就任するも、2014年の2月にLと呼ばれる暴動が起き、政権は崩壊。これをMと呼ぶ。 これを受けて動いたのがNだった。彼はCの人々がロシア編入を希望しているとして軍隊を派遣。O時代以来のロシア領という歴史的経緯、そして軍港であるPのゲットを目標としたものだった。2014年4月には親露派であるウクライナ東部の分離運動も始まった。 Qは、これを踏まえ対ロシアとの戦争を辞さない考えを示し、ロシアはサミットへの参加を断られG8から除外、ウクライナはRから離脱した。その後はSが結ばれるもすぐに崩壊し、紛争は巨大化した。 そして2022年のTにウクライナ侵攻が始まった。 ⚠️なお、ソ連の人物として有名なトロツキー、フルシチョフ、ブレジネフはいずれもウクライナ生まれの人物である。

    ルカシェンコ, フルシチョフ, クリミア半島, チェルノブイリ原子力発電所事故, ブダペスト, 全欧安全保障協力機構, ウクライナ, ベラルーシ, カザフスタン, 核拡散防止条約, オレンジ革命, ウクライナ騒乱, ユーロマイダン革命, プーチン, エカチェリーナ2世, セヴァストーポリ, NATO, CIS, ミンスク合意, 2月24日

  • 24

    2000年からロシア連邦の大統領となったAは、B出身の人物である。エリツィンの辞任ののち、国民の信任を得て就任した。2008年、Cでの紛争に対して南オセチアを支援した。その後はDに大統領が変わるも、実質的には首相となったAの権力が残ったままで、2012年に大統領に返り咲いた。 2014年8月、クリミア半島を制圧し併合。(E)国内での支持率は急速に高まった。 2011年には一斉に起こった民主化運動、FがGにおよび、同年3月18日、H政権打倒を掲げる反体制派によってIが勃発した。Aはこれに介入し、Hを擁護、アラブ世界の混迷をさらに深めてしまった。

    プーチン, KBG, ジョージア, メドベージョワ, クリミア危機, アラブの春, シリア, アサド, シリア内戦

  • 25

    ヨーロッパの火薬庫、と呼ばれていたバルカン半島には、1918年、Aが作られた。南スラヴ人であった三民族は、1919年にB、20年のCで承認されたが、国王クーデターののち29年にDとして成立した。 Dは宗教、言語、文字が複雑に交錯したため、Eと呼ばれたことで知られる。その歴史は41年のドイツによるFまでの第一段階、そしてGを経てティトーによって46年にHとして建設されてからの第2段階、と2期に分けられる。 第一のユーゴ、とも言える41年までの時期、すでに国はまとまっていなかった。29年1月、国王だったIはDとして分布を意識させない国家の成立を目論むも、31年、波及していた世界恐慌の影響からファシスト集団Jの反乱などが起きていた。Jはイタリアに亡命しKのもとで活動。Lの独立を目指していた。1920年から国王がM、Nと結んでいたOなどによって安全保障を図ろうとしたが、国王Iは暗殺されてしまった。その後FでDは消滅を迎えた。 40年11月、ドイツはP、Qをその戦場とし我が物とし、41年3月にはRを日独伊三国同盟に加入させた。同月、ドイツの魔の手はDにも近づいており、結果国家は崩壊した。しかし、その過程で不当な分割が起き、のちにつながる問題のきっかけになった。 ロンドンでは、亡命政府が樹立したが、内部対立が起きていた。 また、クロアティア、スラヴォニア、ボスニア・ヘルツェゴビナはJによってSとして独立しており、政権はJのものとなっていた。これにのちに対抗することとなるのが、枢軸軍に対する抵抗運動組織で、クロアティア人やムスリム攻撃を繰り返すTである。 やがて、ティトーがパルチザン部隊を組織すると、45年3月、ティトーを首相にHが建設された。

    セルブ=クロアート=スローヴェン王国, サン=ジェルマン条約, トリアノン条約, ユーゴスラヴィア王国, モザイク国家, バルカン侵攻, パルチザン闘争, ユーゴスラビア社会主義共和国連邦, アレクサンダル, ウスタシャ, ムッソリーニ, クロアチア, チェコスロヴァキア, ルーマニア, 小協商, ルーマニア, ハンガリー, ブルガリア, クロアティア独立国, チュトニク

  • 26

    ユーゴスラヴィア社会主義共和国連邦は、第二次世界大戦の最中、パルチザン闘争で国を守った英雄、Aの強力な指導力で組織された連邦だった。1942年、B(C)を組織したことで共産党を中心とした戦後政権を準備し、44年10月ベオグラードが解放され、46年1月にスターリン憲法を範とした憲法を制定し、Dが発足した。(64年に改名) しかし、48年にはAの路線とソ連の路線は対立を強め、Eから除外されてしまった。これによって、F制、G、そしてHという独自路線国家が築かれた。 この国では、企業の国有化、土地改革が進められ、富裕層が一掃されたが、農業の集団化は行われなかった。 除名後の48年6月、AはIと呼ばれる独自社会主義をとることになる。労働者は国有化工場で全権限を取得し、その機関とした労働者評議会が設立された。 また、外交面ではJ政策を掲げ、積極的平和共存を掲げた東西中立姿勢を見せた。53年のKでソ連との関係も改善され、55年にはLがユーゴを訪問している。しかし、同年のMには加盟しなかった。 61年には首都ベオグラードで第1回Nを開催、インドのOが提唱した東西どちらにも与しない姿勢、Pに賛成したA、エジプトのQの3者によって(インドネシアのRも提唱に加わる)、第三世界の結集を図った。 65年からはRを柱とした経済改革が始まり、しかし改革は思うように行えず次第に自由化の動きは名ばかりであることが露呈した。 68年のSではチェコ側を支持し、ソ連の軍事介入を否定、中国との関係では毛沢東を修正主義として批判した。 74年には1974年憲法を成立させたが、この行動がのちの自由分権化の根拠になっていくこととなる。 しかしAがTに死去すると、各国の鬱屈とした思いの重しは外れてしまい、解体へと向かった。

    ティトー, ユーゴ人民解放ファシスト会議, AVNOJ, ユーゴスラヴィア連邦人民共和国, コミンフォルム, 連邦, 自主管理, 非同盟, 自主管理社会主義, 非同盟, スターリン死去, フルシチョフ, ワルシャワ条約機構, 非同盟諸国首脳会議, ネルー, 非同盟主義, ナセル, スカルノ, チェコ事件, 1980年

  • 27

    1980年、ティトーが死去すると、89年の東欧革命の流れに合わせ、90年には自由選挙の方針がとられたが、Aの代表が民主集中制の否定をしたことで分裂の流れが強まった。 ユーゴスラヴィア連邦では90年に自由選挙こそ開催されるも、セルヴィアとモンテネグロ以外の4国は民族主義的割合が強く、91年6月にB、Cが独立を宣言した。ついで11月にD、翌年3月にはEがそれぞれ独立を宣言した。 B、Cの独立にFが反発したのが、Gだった。92年、F、Hは改めてIを設立。Gは勢いを増してしまう。 Gは第一段階としてBの独立に伴う戦争、そしてCの独立を抑えようとする第2段階(JがCを承認したことで対立は過激化)、次がEの独立を倒そうとしたKだった。 これはFの人々はLというムスリムへの虐殺行為が国際的非難を浴びた。Fの政権を握っていたMは国際的に糾弾の対象となっていた。 Fの人々はメディアを通して悪玉として世論が形成され、冷戦終結後最大の紛争であったこの紛争に対し、ロシアのNはF側で、アメリカのO(続いてP)はFを非人道的だと批判した。 95年8月からQの本格介入とPの仲介によってRが成立し、一応の和平が成立している。 こうして、2003年、FとHがSとして国家を形成したのち、2006年にHが独立したことでユーゴスラヴィア連邦は完全に歴史から姿を消した。 なお、98年から表面化した大問題が、Tである。

    スロヴェニア, スロヴァニア, クロアティア, マケドニア, ボスニア=ヘルツェゴヴィナ, セルヴィア, ユーゴスラヴィア内戦, モンテネグロ, 新ユーゴスラヴィア連邦, EC, ボスニア内戦, 民族浄化, ミロシェヴィッチ, エリツィン, ブッシュ(父), クリントン, NATO, ボスニア=へルツェゴヴィナ和平合意, ボスニア=ヘルツェゴヴィナ, コソヴォ紛争

  • 28

    旧ユーゴスラヴィア連邦のA共和国の中のB自治州は、C系住民が多く、彼らはムスリムであったことから、分離独立を求めていた。 D死去の翌年には暴動が発生していたが、鎮圧。 その後も暴動を続け、89年の東欧革命が起こると91年のEで自治権獲得に動き出した。 しかし、セルヴィア大統領のFが弾圧を加え、ユーゴスラヴィアが解体した98年、ついにGとして表面化した。 AはHからの治安維持という調停案を拒否し、99年、アメリカのIはHとともにJを掲げて空爆に踏み切った。 しかしながら、Hの空爆はKの承認なく行われたことで今でも疑問が残る。なお、この時Hの一員として参加したのがドイツのLである。このことによって政権内部のMとの分裂が起こったまま介入は実施され、戦後ドイツにとっても重い決断となった。 なお、この問題でなぜAはBを許さないのか。それは1389年のNはA成立の基盤であり、やはり手放せない場所なのである。2020年には、経済正常化が果たされた。

    セルヴィア, コソヴォ, アルバニア, ティトー, ユーゴスラヴィア内戦, ミロシェヴィッチ, コソヴォ問題, NATO, クリントン, 人道的介入, 国際連合, シュレーダー, 緑の党, コソヴォの戦い

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    イギリスの自由主義的改革

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    ウィーン会議から革命へ

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    ナポレオンボナパルト

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    フランス革命

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    アメリカ独立革命

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    ムガル

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    モンゴル

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    イスラーム

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    フランス東欧ロシア

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    フランス東欧ロシア(注釈)

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    欧米近現代史〜帝国主義時代の国内情勢〜

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    欧米近現代史〜アフリカ分割と国際関係。ロマノフ朝の終焉とソ連〜

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    欧米近現代史〜WW2開戦前の国際情勢〜

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    欧米近現代史〜世界恐慌から第2次世界大戦〜

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    ギリシア・ヘレニズム・ローマ文化史〜文化の興り、その原初〜

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    中世ヨーロッパ・ルネサンス文化史〜キリスト教と文化〜

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    17、18世紀のヨーロッパ文化〜絶対王政と革命の時代〜

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    古代オリエント世界〜メソポタミア事変〜

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    古代ギリシア世界〜未来を見ていた人々〜

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    ヘレニズム時代・古代ペルシア史〜突如現れたカリスマ、アレクサンドロス〜

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    共和政ローマ〜相容れない市民と貴族〜

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    ローマ帝国とキリスト教〜あまりに大きくなりすぎた国〜

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    ゲルマン人の移動とフランク王国〜進撃のゲルマン〜

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    西欧中世社会の成立〜身分差のはっきりした社会〜

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    ビザンツ帝国〜ローマ帝国最後の星〜

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    十字軍と中世社会の変容〜結びつく宗教と権力〜

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    西欧中世の各国史〜自立していく国家〜

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    大航海時代〜埃被ってた宝の地図〜

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    宗教改革〜抗議するものたち〜

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    絶対主義の時代(スペイン・イギリス・フランス)〜栄光のハプスブルク〜

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    イギリス革命〜王との対立・立憲への道〜

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    8問 • 2年前
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    絶対主義の時代(フランス・オーストリア・プロイセン)〜啓蒙する君主たち〜

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    アメリカ独立革命〜縛るものはもう何もない〜

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    産業革命〜世界を変えた大発明〜

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    フランス革命〜フランスは誰のものか〜

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    ナポレオン=ボナパルト〜英雄の失敗〜

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    ウィーン体制〜勢力均衡は夢の夢〜

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    イタリア・ドイツの統一〜古き帝国の近代化〜

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    6問 • 2年前
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    古代インド〜完全統一を遮る諸民族の訪れ〜

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    中国前近現代史・1(中国文明〜春秋・戦国時代)〜知的生命体の躍動〜

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    中国近現代史・2(秦〜漢)〜統一と外交〜

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    中国前近現代史・3(魏晋南北朝時代)〜戦乱と異民族〜

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    18問 • 2年前
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    中国前近現代史・4(隋〜唐)〜鮮卑大国〜

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    19問 • 2年前
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    中国前近現代史・5(五代十国〜宋)〜歪な商業大国〜

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    16問 • 2年前
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    中国前近現代史・6(モンゴル帝国と元)/中国前近現代史・7(明)

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    中国前近現代史・8(清)

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    中国前近現代史・8(清)

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    中国前近現代史・9(明・清の社会経済史)

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    イスラーム世界の成立〜暗躍と興亡〜

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    イスラーム世界の分裂〜大規模分裂と大量の王朝〜

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    イスラーム諸国の繁栄〜多民族複合超国家〜

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    イスラーム諸国の繁栄〜多民族複合超国家〜

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    朝鮮半島史〜うまくやらなきゃ生きてけない〜

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    内陸ユーラシア史〜遊牧乗っ取り計画〜

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    東南アジア史〜貿易と繁栄〜

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    東欧・北欧史〜希望と挫折〜

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    アフリカ史〜憎きヨーロッパ諸民族〜

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    中南米史〜神と深く結びついた国〜

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    中国文化史〜4000年の歴史〜

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    2学期中間テストー戦後史ー

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    アメリカの覇権とその陰り(ブッシュ子まで)

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    中華人民共和国〜社会主義はなんとやら〜

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    西欧の戦後史〜もう、変わらなきゃいけないんだねっっ〜

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    インド、東南アジア〜次世代を担うものたち〜

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    アフリカ南アメリカ〜長きにわたる帝国との決別〜

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    中東に起こる諸問題〜世界の命運を握る場所〜

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    idiom

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    年号暗記〜実際大事だよねー〜

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    年号暗記(オリエントから中世)

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    年号暗記〜ウィーン体制から〜

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    アジア近現代史徹底整理.1〜清朝の衰退と朝鮮の開国〜

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    アジア近現代史徹底整理.2〜中国分割・韓国併合・辛亥革命〜

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    問題一覧

  • 1

    1941年8月、Aを米、英と共に支持したソ連のBは、42年1月にはCに加わり連合国としての立場を表明した。さらに、43年のD以降は、戦後世界のあり方について会談を重ね、43年末のEでは対日戦争への参戦を約束。45年2月のFで、Bはドイツ軍降伏後の未来を定めた。 45年4月、Gに参加し国際連合設立に加わると、 Hの常任理事国になる。 が、ドイツ問題を通し、冷たい戦争(冷戦)が始まり、イギリスのチャーチルはI演説でソ連の東側諸国への対応を非難、アメリカ大統領トルーマンはトルーマン=ドクトリンを発表し、封じ込め政策を明確にした。さらに、マーシャル=プランまで発表され、対抗したBは47年に各国共産党のための情報連携組織、J(K)、49年には経済協力機構L(M)を結成した。49年10月、中華人民共和国が成立すると、毛沢東との関係を深め、両国は50年2月、Nを締結した。Bは以前、国民党との繋がりがあったが、東西冷戦構造が、過去の経緯を乗り越えさせた。 さらに、朝鮮半島ではOのP党を支援し、Qを樹立。朝鮮戦争が始まった。 この頃、独自路線を歩もうとしていたティトーを48年にはLから除名している。 しかし、53年3月、Bは死去。73歳だった。後継の首相はR、第一書記にSが選ばれ、新たな時代が始まった。

    大西洋憲章, スターリン, 連合国共同宣言, カイロ会談, テヘラン会談, ヤルタ会談, サンフランシスコ会議, 安全保障理事会, 鉄のカーテン, コミンフォルム, 共産党情報局, COMECON, 経済相互援助会議, 中ソ友好同盟相互援助条約, 金日成, 労働, 朝鮮民主主義人民共和国, マレンコフ, フルシチョフ

  • 2

    1953年3月5日、スターリンは死去し、共産党第一書記に選ばれたのがフルシチョフだった。彼は集団指導体制のもと、まず行き詰まっていたAを収束させることに決し、7月にBに調印した。しかし、翌年、Cの和平も合わせて協議されたDが決裂してしまい、完全な和平は実現せず、冷戦構造は継続した。55年にEが再軍備しF(G)に加わると、軍事同盟Hを結成し対抗。一方、55年には、平和共存路線に走り、ジュネーヴ4巨頭会談での、アイゼンハウアー、ソ連首相、I、イギリス首相のJ、フランス首相のKの4ショットは有名。が、ソ連は国家体制維持のため、具体案を練ろうとせず、実際の成果はなかったと言える。が、Lと言われる平和共存路線が築かれたのは、大きな成果といえよう。しかし、Mをソ連が軍事介入したことによって再び緊張は高まった。(ジュネーヴ4巨頭会談は、Nの開催が背景。) Mが起きた要因は、フルシチョフのOでのスターリン批判、それに付随するPにある。しかし、6月のQ、8月のMはどちらも鎮圧され、あくまで上からの批判にすぎなかった。また、スターリン批判は、中国との関係が悪化する最大の要因となった。 57年には、モロトフ、マレンコフを排除し、R(S)の実験成功、Tの打ち上げに成功することで、Iを解任し、事実上の独裁に至った。

    朝鮮戦争, 朝鮮休戦協定, インドシナ戦争, ジュネーヴ会議, 西ドイツ, NATO, 北大西洋条約機構, ワルシャワ条約機構, ブルガーニン, イーデン, フォール, ジュネーヴ精神, ハンガリー反ソ暴動, パン=アフリカ会議, ソ連共産党第20回大会, コミンフォルム解散, ボズナン暴動, 大陸間弾道ミサイル, ICBM, スプートニク1号

  • 3

    1953年3月5日、スターリンは死去し、共産党第一書記に選ばれたのがフルシチョフだった。彼は集団指導体制のもと、まず行き詰まっていたAを収束させることに決し、7月にBに調印した。しかし、翌年、Cの和平も合わせて協議されたDが決裂してしまい、完全な和平は実現せず、冷戦構造は継続した。55年にEが再軍備しF(G)に加わると、軍事同盟Hを結成し対抗。一方、55年には、平和共存路線に走り、ジュネーヴ4巨頭会談での、アイゼンハウアー、ソ連首相、I、イギリス首相のJ、フランス首相のKの4ショットは有名。が、ソ連は国家体制維持のため、具体案を練ろうとせず、実際の成果はなかったと言える。が、Lと言われる平和共存路線が築かれたのは、大きな成果といえよう。しかし、Mをソ連が軍事介入したことによって再び緊張は高まった。(ジュネーヴ4巨頭会談は、Nの開催が背景。) Mが起きた要因は、フルシチョフのOでのスターリン批判、それに付随するPにある。しかし、6月のQ、8月のMはどちらも鎮圧され、あくまで上からの批判にすぎなかった。また、スターリン批判は、中国との関係が悪化する最大の要因となった。 57年には、モロトフ、マレンコフを排除し、R(S)の実験成功、Tの打ち上げに成功することで、Iを解任し、事実上の独裁に至った。

    朝鮮戦争, 朝鮮休戦協定, インドシナ戦争, ジュネーヴ会議, 西ドイツ, NATO, 北大西洋条約機構, ワルシャワ条約機構, ブルガーニン, イーデン, フォール, ジュネーヴ精神, ハンガリー反ソ暴動, パン=アフリカ会議, ソ連共産党第20回大会, コミンフォルム解散, ボズナン暴動, 大陸間弾道ミサイル, ICBM, スプートニク1号

  • 4

    1959年9月15日、当時権力の絶頂にあったフルシチョフは、夫人を伴いソ連首相として初めてのAを行った。国際連合総会でも演説をおこない、全面完全軍縮を提案した。会談はBで行われ、当時の大統領、Cと会談した。両者は国際紛争の平和解決で合意し、CのDが約束された。 この成果を背景に30日にはEを行い、Fと会談した。Fはスターリン批判を行ったフルシチョフに対し当初から否定的で、独自路線を進んでいたため、6月にGに踏み切っていた。(秘密協定) Eで関係改善を図ったフルシチョフもFを説得することはとうとうできず、成果は得られなかった。 フルシチョフは外交成果の仕上げのため、60年、再び4巨頭会談にのぞんだが、Hが起こったことで米ソ対立が深まり、実現しなかった。 結果、彼の外交は成果を得るどころか、深刻さを増してしまった。 61年には米大統領がIに変わり、再び首脳会談が行われようとしたが、話し合いは決裂し、問題が激化していたJはKの構築に踏み切った。 さらに、Lを成功させたMが反米姿勢を高めると、62年にはミサイル基地を設置し、Nが勃発した。フルシチョフは妥協しミサイル基地を撤去した。翌63年にはOが締結し、アメリカとは「敵対的平和」状態に突入した。

    訪米, キャンプ=デーヴィッド, アイゼンハウアー, 訪ソ, 訪中, 毛沢東, 中ソ技術協定破棄, U2型機事件, ケネディ, 東ドイツ, ベルリンの壁, キューバ革命, カストロ, キューバ危機, 部分的核実験禁止条約

  • 5

    スターリン批判を機にフルシチョフのもとで非スターリン化が進んだが、それは決してソ連解体を容認するものではなく、あくまでスターリンへの批判にとどまった。特に、1956年に起きたAとBを武力鎮圧したことが物語っている。 ①第2次大戦ののち、Cでは戦前からの共産党指導者、Dが政権を握っていたが、(対独運動を戦争中に指揮)暴力的変革、一党独裁を必要としないEと言われる路線でソ連との違いを明確にしていた。が、スターリンの頃からティトー同様批判されていた彼は解任され、CのFが結成された。(労働党と社会党)Fは親ソ政権であったことから国民の自由は抑圧されていた。が、スターリン批判が行われると政権は交代。Gで起きた暴動を契機にAが加速していくと第一書記に復活し、スターリン派の排除を行った。フルシチョフは軍事介入を決意しワルシャワに乗り込むも、Dが対立を避けたことで軍事衝突は行われずに(ドイツの隣国ということもある)Dの復権承認が行われ、ソ連に服属した。10月には国民の前で「社会主義の道」という演説を行い、社会主義への見解の多様性を示し、独自内政を再開。が、一方でソ連との協和からかHは脱退しなかった。 その後は次第に保守的な姿勢をとるようになり、党改革の否定を明確にし、スターリン派を再度登用するなど考えを変え、58年からはI(J)の政策に賛成し、中ソ対立におけるソ連援助の立場を明確にした。68年のKではH軍隊の派遣を主張した。 しかし、70年、過去にバルト交易で栄えたことのあるL(戦前はM)で民衆の蜂起を武力弾圧したことで国民からの信頼を失い、Fによって解任させられた。 ②Aによって政権が交代しDが復権したことを受け、Nの首都Oでは学生がデモを起こした。改革は政治家でBを組織したPは、国民の支持を受け首相としてQから脱退したが、軍事介入によって暴動は鎮圧され、改革撤回を拒否したPは処刑された。Nではこれによって、88年まで政権を握る親スターリン派のQが指導者の座に座ったが、徐々に中道路線をとるようになり、国民から好かれるようになる、とDとは対照的な長期政権の指導者であった。 一方、中ソ対立がはじまったことで、59年にフルシチョフがRを通告、64年に毛沢東は独自でSを成功させた。(64年はフルシチョフ解任の年であり、毛沢東はSを祝砲だと言った) 地方労働者出身で農民運動に携わり、人気も高かったフルシチョフも、就任後は外交面での成果が得られず、スターリン批判を行ったものの弾圧を行ってしまった。結局彼は、キューバ危機での弱腰で非難が起こり、一方的に解任されてしまうのだった。(切ない…) 彼の外交はTと呼ばれるほど不安定なものであった。 が、スターリンを批判したことは、ソ連の完全な恐怖政治を揺るがす大きな契機となり、経済成長が実現したこともあってか、評価される点もある。

    ポーランド反ソ暴動, ハンガリー反ソ暴動, ポーランド, ゴムウカ, 人民民主主義, 統一労働者党, ポズナニ, ワルシャワ条約機構, コメコン, 経済相互援助会議, チェコ事件, グダンスク, ダンツィヒ, ハンガリー, ブダペスト, ナジ=イムレ, カーダール, 中ソ技術協定破棄, 核実験, 瀬戸際外交

  • 6

    1964年、キューバ危機での弱腰外交が国民から不満を買い、フルシチョフは解任させられた。(不在中に決定)こうして第一書記に就任したのがAだった。彼はここから18年にわたって政権を継続させることとなる。(が、この頃はソ連社会の停滞時期で、共産党官僚、Bが特権的権力を行使していた) 内政は首相であるCに任せたが、利潤導入方式経営という改革を行おうとしたCは結局成功を収めることはできなかった。(のちにDの先駆として見直された) 外政では、基本的にはE(F)を推進し、欧州の安定とアメリカの核軍縮を前進させたが、ハンガリー、ポーランドに次ぐ東欧諸国の反乱を抑えるため、厳しく介入を行った。背景には、中ソ対立による統率力の低下を抑える動きがある。 E(F)の推進としては、66年に全欧州安全保障会議の開催を提唱し、68年にはG(H)を米英ソの大国が合意し採択、70年には国際条約として発行された。(のちに北朝鮮の脱退などの困難な問題を抱えてしまう) 75年にはIでJ(K)を行い、全ヨーロッパ(アルバニア以外)とアメリカ・カナダの35カ国が安全保障についての会議をした。72年のL以降ヨーロッパの敵対関係が存在しなくなったことが原因であり、8月にはMが調印された。(人権はもはや国家の内政事項ではない、という規定は国家を超えた人権を認め、東欧革命の原動力となった。) 69年から72年の間にはN(O)でアメリカとの関係改善を狙い、73年にはPを行いQを締結する。(ニクソンと合意。) 彼は長い政権下で70年代後半には国家元首の地位につき、個人崇拝が行われるようになる。ソ連の解体の主要因となったのも彼と言える。(近代化と全近代化の矛盾)

    ブレジネフ, ノーメンクラツーラ, コスイギン, ペレストロイカ, 緊張緩和, デタント, 核拡散防止条約, NPT, ヘルシンキ, 全欧安全保障協力会議, CSCE, 東西ドイツ基本条約, ヘルシンキ宣言, 第1次戦略兵器制限交渉, SALT・I, 訪米, 核戦争防止協定

  • 7

    ブレジネフは緊張緩和を行ったものの、ソ連という組織の解体は断固として許す気はなかった。1968年にAでBが起こるとこの鎮圧にむかった。 Aは、そもそも48年にCとして成立しており、共産党政権としてソ連に服属していた。共産党第一書記だったDが親スターリン派の人物であり、経済の停滞から68年に書記の座を引き摺り下ろされると、後任についたのが民主化の指導者、Eだった。彼は貧しい家具職人のことして生まれた人物で、ソ連停滞をかねてから懸念しており、異なる歩みを模索する家庭で民主化運動の動きを強めていた。 68年4月に共産党第一書記として就任すると、一党独裁を否定し基本的人権を尊重しようとする新しい改革、Fを打ち出した。この動きにたいし社会主義社会の否定を危惧したブレジネフは8月、軍事介入に踏みきりウクライナのKGBにEをはじめとするCの幹部たちを収監した。(この事件をGと呼び、侵攻に携わったのがHの軍である) しかし、Hの軍としてソ連支援を決意したのは独裁的長期政権下にあったI、J、K、Lの4カ国であり、MのNはGを非難した。また、Hには所属してはいないものの、東欧社会主義国ながらティトー政権のユーゴスラヴィア、O政権のPもまた批判している。(もちろん毛沢東も批判) ブレジネフは国際的非難を受けることを見越してか制限主権論と呼ばれるQを示したが、一刻の主権制限はしょうがないというこの考えはあまりに倫理に反していた。(79年のRもこの原則に則って行われた) Gは東欧社会主義圏の一体化はなされていないことを明確にし、冷戦終結の可能性を示唆するものだった。西ドイツのSによるTはこれを契機に行われた。

    チェコスロヴァキア, プラハの春, チェコスロヴァキア社会主義共和国, ノヴォトニー, ドプチェク, 人間の顔をした社会主義, チェコ事件, ワルシャワ条約機構, ハンガリー, ポーランド, 東ドイツ, ブルガリア, ルーマニア, チャウシェスク, ホッジャ, アルバニア, ブレジネフ=ドクトリン, アフガニスタン侵攻, ブラント, 東方外交

  • 8

    プラハの鎮圧とそれに伴うチェコ事件は、ブレジネフ政権下に行われた二つの大きな出来事の契機となった。 AとBである。(ごめんなさい。AがBより10年も後です) ①カーターとの第2次戦略兵器制限交渉が成立していた79年、ブレジネフはAを行った。カーターは交渉に批准せず、翌年のモスクワ=オリンピックでもボイコットを行い次のレーガン政権から米ソがCと呼ばれる期間に入る主要因となってしまった。 アメリカとのデタントが行われ関係改善が果たされそうだったソ連がなぜAを行ったか、それは共産政権維持とソ連国内におけるイスラーム民族運動の鎮圧が目的と考えられる。 が、ゲリラ戦を得意とし、アメリカの支援を受けていたDを攻略することは難しく、国際的な非難を浴びたソ連は世間に国際的孤立と社会主義の限界、ソ連体制の硬直化を明らかにしてしまった。(なお、ブレジネフ本人は病気がちでAに携わっていなかったようである。) この出来事が起こった1979年は、歴史の転換年としての側面が強く、イスラーム国家における大規模革命E、鬱屈とした毛沢東政権を変容させたFによる改革開放政策、イギリスでのGによるHの導入がおこなわれ、一つの時代の終わりを告げたとされる。 また、アメリカのDへの支援は、のちのイスラーム原理主義集団Iが武器を持ち過激テロを起こすきっかけとなっている。 ②1689年のJ、1727年のKで始まり、1858年のL、69年にはM、81年にはNと中国とロシアは国境で長らく対立しており、中ソ国境紛争と呼ばれる紛争は定期的に発生していた。 特に、中国側は列強支配と繋げロシア側による不平等条約であるとみなし、緊張は高まっていた。64年の核実験成功以降、ソ連との緊張状態はピークに達し、当時中国国内でOが起きていたこともあっってか中国国内でのソ連批判も強く、その過程で台頭した軍人Pを後継者に添えようとしていた毛沢東は全面戦争を意識していた。 69年3月、黒竜川の支流、QでB(R)がおこる。大規模衝突で50人を超える死者が出たが、9月にSの葬儀に出席したTと周恩来の話し合いの結果、戦争になることは避けられた。

    アフガニスタン侵攻, 珍宝島事件, 新冷戦, アフガニスタン, イラン革命, 鄧小平, サッチャー, 新自由主義, タリバン, ネルチンスク条約, キャフタ条約, アイグン条約, 北京条約, イリ条約, プロレタリア文化大革命, 林彪, ウスリー川, ダマンスキー島事件, ホー=チ=ミン, コスイギン

  • 9

    秘密警察であるAの議長を務め、ブレジネフ時代の停滞と腐敗を一掃しようと乗り出したのがBだった。が、彼はすでに長く生きており、就任後に病に倒れたため十分な成果を収めることはできなかった。(彼が目をかけ、のちにBの政策を引き継いだのがCである) その次に就任したDも1910年代の人物であり、短命で亡くなってしまう。次に就任したのがCだった。 彼は34年生まれの人物で、就任した85年はまだ51歳という若さだった。1985年3月、Dの急死を受け書記長に選ばれた彼は、党首脳、閣僚、軍首脳などの人事異動を断行、共産党官僚の特権打開に 取り組んだ。 1986年4月、ソ連国内の現ウクライナでEが起きてしまう。7年前アメリカで起きたFを彷彿とさせるこの事故は、Fの教訓が未だ共有されていなかったソ連ではどうすることもできなかった。 事故の報告が硬直しすぐにはCに届かなかったことが、テレビがメディアとして大きな力を持っていった80年代の流れに付随し、Cに情報公開(G)を迫るのだった。 こうして歴史の見直しが進められ、スターリン体制時代の犠牲者やブレジネフ時代の処刑、流刑が掘り起こされ、多くの名誉回復が行われた。特に、長くソ連当局が否定していた1939年のHが明かされたことは大きな変革となり、H内のIが明らかになったことで、90年から91年の間にJが独立を宣言。ソ連解体へと突き進むこととなった。 

    KGB, アンドロポフ, ゴルバチョフ, チェルネンコ, チェルノブイリ原子力発電所事故, スリーマイル島原子力発電所事故, グラスノスチ, 独ソ不可侵条約, 秘密議定書, バルト三国

  • 10

    1986年、ゴルバチョフはAと称する改革路線を打ち出した。それはスターリン体制から続くソ連の硬直を変えるものだったが、あくまでソ連の再始動を目指してのものだった。しかし、このAはより強い改革を要求する急進派と、保守派両方から反対を受けた。しかし市民大衆はこれを支持し、下からの改革としてAが行われた。89年3月にはB制によって議員選挙が行われ、第1回人民代議員大会が開催。90年にはついにCの否定、D制まで話が進み、初代にゴルバチョフが選ばれた。しかし、肝心の経済改革は、「今まで」と「これから」が混ざってしまい、結局うまくはいかなかった。

    ペレストロイカ, 複数立候補, 一党独裁体制, 大統領

  • 11

    ゴルバチョフは、ブレジネフ=ドクトリン(A)を放棄し、新政策Bを掲げた。これはソ連が西側との相互依存を重視し、社会主義国との対等の関係を結ぶ、という全く新しいものだった。新冷戦の行き詰まりでソ連財政は圧迫しており、外交の見直しが図られたことが契機となった。 87年にはアメリカのCとの間でD(E)全廃条約に調印し、89年のFで冷戦は終結した。 88年には79年から長く続いたGをやめ、89年撤退完了を果たした。Gがソ連の失敗で終わったことは、91年のソ連崩壊、そしてアメリカ、ソ連にはもう従わない、H主義の形成を促してしまい、Iにつながってしまった。Gが行われたJ本国では、Hが作られたことで、89年以降も内戦が続き、Jが台頭した。Jは極端なH主義で、仏教遺跡Kを破壊したことで世界からバッシングの対象となった。(Kはガンダーラ様式の仏像をもち、Lが訪れたことでも知られ、著書Mにも名前が残るほどだった。) また、長く対立していた中国とも関係を改善し、89年5月、ゴルバチョフは訪中。Nと会談し、中ソ関係正常化を果たした。当時は、天安門事件が起きていた頃で総書記だったOとも会談をしている。ゴルバチョフとの交渉を終えた5月の18日、その帰国を見送ったNは、6月4日天安門で武力弾圧を行った。 そのほかにも、1990年にはPを訪問したり、Qと国交を樹立したりしている。

    制限主権説, 新思考外交, レーガン, 中距離核戦力, INF, マルタ会談, アフガニスタン侵攻, イスラーム原理主義, 同時多発テロ, タリバン, バーミヤン, 玄奘, 大唐西域記, 鄧小平, 趙紫陽, ヴァチカン, 韓国

  • 12

    1988年、ブレジネフ=ドクトリンの制限主権論の撤回を表明したのがAだった。このAによって東ヨーロッパ社会主義圏諸国は一斉にBを起こした。 ①まず、1960年から80年代のハンガリーでは長期政権を維持していたCが健康上の理由から88年にようやくの辞任をしていた。続くグロース書記長が三人の改革派によって導かれ、民主化の動きが起こった。これは一連のBの先頭を切るものであり、「1発の銃声も聞かれず、一滴の血も流れず」平和に実現された。改革はまず、国家英雄Dを復権させ、再埋葬するところから行われた。89年1月には社会主義国で初めてEが否定され、政党活動の自由が保障された。 法治国家のもと、Fが起きた10月23日を国家の記念日とし、今日まで続く新国家、Gが築かれた。 なお、89年5月、Hとの国境が開放されたことで、ヨーロッパを分け隔ててきたIに初めて風穴が開き、これを知った東ドイツの国民は亡命を行ったとされる。 ②ソ連では、3月に初の選挙が行われゴルバチョフが就任した。 ③ポーランドでは、1970年代、Jが親ソへと方針転換したことで国民の不満が高まっていたが、Kのレーニン造船所の労働者ストライキをもとに、労働者の代表Lが政府と交渉し、統一労働者党の統制を受けない労働組合、独立自主管理労組が結成された。こうして、80年にLを代表としたM(N)が結成。略称をOと呼ぶ。 しかし、81年12月政権がPに移ると、民主化運動を打開しようと戒厳令が敷かれてしまう。Lは弾圧され逮捕されたが、経済の悪化が加速したことを踏まえ、1989年2月6日、Qが開かれ、Mは再合法化された。4月にQが閉幕し合意すると、6月には自由選挙が実施。Mが圧勝したが、協議の結果Pが大統領となる妥協が成立した。しかし、改革の歩みはさらに進み、9月にはカトリック系知識人Rが首相を務める連立政権が樹立。国名はポーランド人民共和国からSへと変更した。

    新ベオグラード宣言, 東欧革命, カーダール, ナジ=イムレ, 一党独裁体制, ハンガリー反ソ暴動, ハンガリー共和国, オーストリア, 鉄のカーテン, ゴムウカ, グダニスク, ワレサ, ポーランド自主管理労組, 連帯, ソリダルノチ, ヤルゼルスキ, 円卓会議, マゾビエツキ, ポーランド共和国

  • 13

    ハンガリー、ポーランドに始まった東欧革命は、東欧社会主義圏に民主化、自由化の動きをもたらした。 1940年8月23日、秘密議定書の密約でソ連のものとなったAは、ゴルバチョフのBによって歴史の見直しが行われた結果、条約締結が行われたちょうどC年目にあたる1989年8月23日、およそ100万人から200万人の人が「D」を結び、抵抗の意を示した。 90年3月11日、まずEが独立を宣言すると、親ソ派は介入したものの、A全てで独立の是非を問う国民投票が行われると、いずれも70から90%の賛成があり、もう独立の意思はとどまるところを知らなかった。 1991年8月、Fがおき、A国内でも保守派による攻撃が行われたが、Aの結束は強く市民は追い出すことに成功し、G、Hの順番で正式に独立を宣言した。

    バルト三国, グラスノスチ, 50, 人間の鎖, リトアニア, 保守派クーデター, エストニア, ラトビア

  • 14

    1945年5月7日はなんの日であるかと問われれば、ナチス=ドイツ降伏の日である。 6月、ドイツの4カ国分割占領とベルリンの分割管理の基本方針が示された。これは2月のAで提唱されていたもので、7月のBで成立したCによって確定した。しかし、あくまでこれはドイツを経済的に回復させ、主権回復までの一時的な措置であった。そのため、ドイツの統一性維持のために管理理事会が置かれたのがDだった。また、併合されていたEはドイツからは分離されるも、4カ国によって占領管理された。 (臨時政府が45年中に作られ、統一政府としての機能を果たしており、統一政府を置けなかったドイツとは異なる。47年からは国家のあり方を規定するFが検討されており、スターリンが死去したG年に締結された。なお、この頃からEはHであり、同時期にIに加盟が認められている。今でもHの観点からJには非加盟の国家である。現在この国の抗争地として残っているのがKである。) 1945年11月には、Lが開廷される。これは戦争責任を問うもので、開かれたMは、33年以来ナチ党が大会を開催した場所でもあり、ユダヤ人絶滅を宣言した場所でもある。だからこそ、ここで行われたのである。処刑されたのは12名で、特にヒトラーの後継者と呼ばれたN、終身刑と裁定が違うものの断罪されたナチ党副総統、Oは有名である。(ヒムラーは自殺、NもMの後自殺) しかし、ドイツを揺るがす出来事が起こる。冷戦の深刻化だった。 トルーマンがトルーマン=ドクトリンでPを明確にし、Qを具体化したことで冷戦は深刻に。 48年6月20日、西側がRを行ったことがドイツを刺激し、同月24日にSが行われた。 Sは西側のRに反対したソ連が、ベルリンにつながる道路、鉄道、水路を西ドイツから閉鎖した。これに対しアメリカはTを行い、西ベルリンの人々の命を守った。 これによって、ドイツの東西分裂は確定してしまうのだった。

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  • 15

    1949年5月、ドイツの西半分、アメリカ・イギリス・フランス占領地区がAを制定し独立国家、 Bとして成立した。AはCとも呼ばれるもので、将来的にはドイツ全域に適用されるべきであると考えられていた。1919年に成立したDとしばしば比較されるが、Dが国民を信頼していたのに対して、人間不信的であったのがAである。 これによって、大統領は間接選挙選ばれること、首相権限が大統領より強いこと、連邦主義であること(中央集権は連合国によって否定)などが制定された。 8月14日には第1回連邦議会総選挙が行われ、戦後のドイツに生まれた新政党、E(F)がG(H)と連合する形でドイツ社会民主党を抑え第一党となった。これは戦前、ビスマルクのIに抵抗したカトリック系政党を母体にしたもので、Gに関してはバイエルン地方のカトリック勢力を中心としている。 9月7日、暫定首都をボンにおき、初代大統領にテオドール=ホイス、初代首相にJが選出された。これに対抗する形で同年10月にKが建国している。 Jは70歳で首相になった人物で、戦争で若者が枯渇し、疲れ果てていた西ドイツに、経済大臣エアハルトと共に、「L」をもたらした人物だった。アメリカのMによる援助を受け、54年のNにもとづき、55年5月5日、国家主権回復とOを西側諸国に認められ、翌日、Pに加盟。57年には長年のフランスとの抗争地、Qの問題を決着させ、Qのドイツ復帰を実現させた。 61年にはKによるRの建設で、緊張がピークに達するも、Lを遂げ、63年、フランスのSとTを成立させたことを花道に、Jは引退した。(Jはケネディのソ連との対話路線に不信感を抱いており、米ソどちらにも与していないSと志向が一致した。)

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  • 16

    アデナウアー引退後、キリスト教民主同盟のAが政権を継承するも、東ドイツと対話を求める世論の動きを無視したこと、経済が停滞したことにより退陣。66年の総選挙で過半数を占める政党がいなかったことから、野党のB(C)がキリスト教民主同盟と連立政権を樹立。Bはナチスドイツ時代非合法とされていたが、戦後に復活しており、西ドイツでは現実路線をとっていた。Dでは、Eとの絶縁を宣言しており、国民政党への転換を図っていたことで知られる。 こうして、キリスト教民主同盟の党首、Fが首班、Bの党首、Gが外務大臣となったHが成立した。 しかし、オール与党体制による国家建設は、当時のベトナム反戦運動やパリでのIに刺激された学生たちによって不満を買い、崩壊してしまう。 結果、Fが辞任し、G政権として70年台から成立した。 Gは東ドイツとの融和を図り、ドイツ統一のためのJを展開した。 元々西ベルリンの市長だった彼はかねてよりドイツ統一を目標としており、69年10月、接近による変化という新外交で、ソ連やポーランド、東ドイツに訪問し、それぞれと条約を締結したり、国交を正常化したりした。70年にはポツダム宣言以降確定していなかったポーランドとの国境をKであることを認めるLを締結し、欧州安定に寄与した。12月、Mを訪れたGは、かつてNで起こった蜂起の記念碑に対し跪き、黙祷を捧げた。 8月にはOを締結しており、ソ連のP首相との間で、不可侵を約束した。 そしてついに72年12月21日、Qが結ばれ、初めての直接会談は世界に変化をもたらし、73年には東西ドイツによるRが実現した。これはデタントに向かう下地となり、それが75年のヘルシンキ宣言へとつながっている。なお、74年Gが辞任すると、同じくBのSがJを継承、82年からはキリスト教民主同盟のTに変わったが、彼もJを継承する姿勢を見せたため、90年ついにドイツは統一された。

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  • 17

    東西冷戦が進行する中、49年10月に成立したのがドイツ民主共和国である。ここでは、AとBとが合同したC(D)が第1党であったが、民意によっての選挙ではなく、政党によって必ず有利になるやり方で作られていたため、形だけの民主主義国家だった。 53年6月、東ベルリンでEが起きた。これはソ連のスターリン死去のニュースをきっかけに自由を求めて起こったものだったが、ソ連との関係悪化を恐れた西側諸国は支援することをせず、結果ベルリン問題と呼ばれる問題が起きてしまった。50年から総書記を務め60年からは国家元首となっていたFは、ソ連側の人間であったが70年代、ソ連と距離を置くように。しかし、独裁を維持したため、時代に硬直していた。腹心だったGに政権を任せて引退したFだったが、Gは社会主義を維持する構えをみせ89年10月に解任。11月にベルリンの壁解放に応じた。 なお、55年から参加していたソ連を中心とした軍事同盟Hは冷戦終結宣言後の91年7月に解散している。

    ドイツ共産党, ドイツ社会民主党, 社会主義統一等, SED, ベルリン暴動, ウルブレヒト, ホネカー, ワルシャワ条約機構

  • 18

    ベルリンの壁の開放は、未だソ連との関係を持っていた東欧国家にも影響を与えた。 ①第二次世界大戦に枢軸国として参戦していたブルガリア王国は、国内では労働者党の党首で、Aの書記長だったBがパルチザン闘争を行なっており、戦後Cとして国家が成立した。 Bは首相となり、反社会主義への粛清や農地改革等を行い、49年にDに加盟、55年にEに加盟しソ連衛星国家の一部となった。 54年、共産党書記長となったFは、フルシチョフらを支持し、非スターリン化を進めるも、68年のGではソ連とともに軍隊を送り、絶対的権力で国家を統一していた。 しかし、1878年のHの百年祭が挙行されるとマケドニア人はブルガリア人である、とナショナリズムが盛り上がり、経済危機を迎える中でクーデターの動きが起こっていた。 89年、ベルリンの壁開放の翌日、ゴルバチョフと連携したムラデノフがクーデターを成功させ、Fは辞任。2004年にはIに、2007年にはJに加盟を実現した。 ②1968年、チェコ事件以来Kによる共産党一党独裁体制が敷かれていたチェコスロヴァキアは、言論抑圧と経済停滞で国家全体に無気力感が蔓延していた。77年には知識人のLらが言論の自由等の改革を提唱するMを発表。75年のNで提唱されたCSCEの最終文書決定にチェコスロヴァキアの現状を組み込もうとするものだったが、弾圧されてしまった。しかし、85年のゴルバチョフによるグラスノスチとペレストロイカは民衆に自由という夢への憧れを抱かせた。 89年1月、LらがMの際に亡くなった大学生の追悼集会を予定すると当局は弾圧。それに対する抗議運動が国中に広まり、約20年ぶりに沈黙を破ったプラハの春の指導者、Oは民主化を要求し、ワルシャワ条約機構に対しPの見直しを求める書簡を送った。この頃には、ポーランドで「Q」が政権をとっており、ハンガリーでも民主化が進んでおり、政府に力はなかった。 11月、ベルリンの壁開放の報が届くと市民・学生の運動は活発となり、ついに24日、Kから引き継いでいたヤケシュの政権幹部が辞任したことで、Oが連邦議会議長、Lが大統領に選ばれた。大衆行動におり流血の惨事が起こらなかったチェコスロヴァキアの変革は、Rと呼ばれている。その後、穏健な改革を目指すスロヴァキアと急速な市場経済化を目指すチェコ、重圧を跳ね除けたからだろうか、2カ国は分裂した。 89年12月、Sで冷戦の終結が約束される。これはゴルバチョフによる新思考外交と、それに付随した東欧革命が主要因のように思えるが、社会主義圏の限界と、自由への抑圧、そして大国アメリカの双子の赤字による揺らぎが原因であると考えられる。社会主義対資本主義という構図は、とうに終わりを迎えていたのである。 しかし、Tが終結していないのに、冷戦は本当に終わりを迎えたと言えるのだろうか。

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  • 19

    1990年、東西ドイツの統一実現後、現代までに混乱は克服されてきた。 84年から大統領に就いたAは90年から統一ドイツの大統領を務め、ドイツの過去を直視した「過去に目を閉ざすものは結局のところ現代にも盲目となります。」という演説で知られる。 82年からCDU政権を樹立していた首相、Bは統一に貢献するも、統一後の経済不振で国民の支持をなくし、CDU/CSUと自由民主党の連立政権から、CによるD(E)とFの連立政権へと移行した。 Fは環境保全などの市民活動から始まったもので、98年から表面化したGでは政権が揺らいだ。 2003年のアメリカによるHでは、反対し派兵しなかったが、2005年の選挙ではBと同じくCDU/CSUとSPDの連立政権としてIが初のJとして首相に就任した。なお、21年12月8日から今日にかけては、Kが就任している。

    ヴァイツゼッカー, コール, シュレーダー, 社会民主党, SPD, 緑の党, コソヴォ問題, イラク問題, メルケル, 女性首相, ショルツ

  • 20

    東欧革命の中で唯一と言っていい流血騒動となったのがAである。 Aは枢軸国であった国で、ドイツの対ソ戦に協力させられたことでひどくダメージを負っていた。 47年2月、連合国とのBでソ連に対して賠償金やC(現在のD)などを移譲、ブルガリアへは南ドブルジャを移譲したため、360万人以上の人口を失い、Eとして成立した。 A共産党はFに加盟し、東ヨーロッパ社会主義圏を構成した。49年には他国と共にGを結成。 スターリン体制への傾斜を強め、51年からは5か年計画を実施している。55年にはHにも加盟している。 56年、フルシチョフがスターリン批判を行うと、フルシチョフ政権のIによる経済統制に反発。独自の工業化政策を打ち出した。その背景にはルーマニアの豊富なJがあったが、政権を握ったのはKだった。 彼の外交は、ソ連の機構には留まりながらもアメリカやフランスとも渡り合い、中ソ対立では中立の立場をとったためLと呼ばれた。その後、後継者となったMは独自路線を歩み、多面外交を継承。一方、国名をNにかえ、独裁を強め、ソ連よりの外交を改めてOを展開、67年にはPと国交を樹立し世界を驚かせ、チェコ事件にも軍を派遣しなかった。 Mの独裁は次第に国内で反感をよび、東欧革命の嵐が吹き荒れる89年12月、Qで民衆暴動が起こり、大統領夫妻は逃げようとヘリコプターで脱出したが、着陸の瞬間に捉えられ、即席の裁判ですぐに処刑が通告された。夫妻ともに銃殺された。その後は救国戦線のRが政権を握るも、その政策は共産党の活動を禁止はしたものの、旧共産党員が残っているなど不十分で問題となった。2004年にはSに、2007年にはTに加盟し、西ヨーロッパ側の立場をとった。

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  • 21

    ペレストロイカを進めたゴルバチョフだったが、1989年の東欧革命で力を弱める。 ゴルバチョフは連邦制の維持を望んだが、バルト三国が3月に相次いで独立を宣言すると、6月にはロシア共和国がAの指導のもとで主権を宣言した。 91年、Aとゴルバチョフ、両派の対立は深刻化したが、ゴルバチョフはバルト三国への対応をうまく行えず、けれども連邦維持について国民からの支持は強かったため新連邦条約草案の作成に入っていた。 しかし、91年6月、ロシア共和国がAを大統領に選出すると、モスクワのクレムリンにソ連大統領とロシア大統領が同時に存在する以上事態となった。 1991年8月19日、ソ連共産党のBが発生、ゴルバチョフは軟禁されてしまう。 しかし、クーデターはAによって鎮圧され、ゴルバチョフは一命を取り留めた。 ゴルバチョフはこれによって権力を失墜させ8月24日、Cは解党された。真珠湾攻撃でも有名なDという日に、E、F、Gの3カ国はミンスク郊外に集まり、1922年のH条約の無効を宣言し、変わってI(J)を創設することにした。12月25日にはゴルバチョフは辞任、26日にソ連は消滅した。K年の歴史があるソ連はこれにて終わりを告げた。 こうして旧ソ連はIに加盟したE、F、Gと中央アジア5カ国であるL、M、N、O、P、そしてキリスト教系のQ、バクー油田を抱えるR、ベッサラビア一帯であるSに分かれることとなり、これが新たな紛争地域形成へとつながってしまったことは紛れもない事実である。 なお、Aは94年にTを武力弾圧したことでも知られる。

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  • 22

    ソ連解体後、エリツィンを大統領としたAは、まず核問題で揉めることとなる。ソ連解体の頃は、ちょうどユーゴスラヴィア内戦の激化期にあたり、同様な内戦になることが危惧されたが、アメリカの仲介によりAによる核の全預かりで話は片付き、その代わりとしてウクライナにBが編入されることとなった。しかし、1994年、C地方でDが起こる。これは一方的な独立であったため、エリツィンは武力鎮圧を行なったが、その様子は世間的に非難された。96年、停戦するも、2000年には再度起こっており、独立派にはイスラーム過激派のEが加わったとされている。その後、CISには93年、F(G)が加盟したが、2008年には脱退。 92円には旧ソ連を構成していたH、I、J、K、L、Mの6カ国によるNが締結され、条約には翌年、O、P、Qが加盟するも、のちにH、I、J、K、L、Qの6カ国に落ち着いた。 2002年にはR(S)として結成しているが、2022年には中央アジアのTでの騒乱に対し迅速な介入と題して軍事行動が起こっている。

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  • 23

    旧ソヴィエト連邦から分立したベラルーシ、ウクライナはどちらもロシアにとって必要な場所であった。 ベラルーシはロシアとの提携を行い、2020年では大統領職に不正選挙疑惑を持ちつつもとどまったAが有名である。 しかし、ベラルーシと異なり、ウクライナは長らくロシア連邦と対立関係にあった。 ソ連時代の54年、ウクライナはBによってCの譲渡を許可されていたが、その後はブレジネフの時代に経済の停滞が起き、ヘルシンキ宣言の頃には反体制活動が活発になった。 86年、Dが起きたことで深刻な汚染問題を負ったが、90年6月、エリツィンによるロシア連邦の独立を契機に、ウクライナ共和国として主権宣言を行う。91年12月、CISに加入した。 その後はCを独立とともに入手したウクライナだったが、94年12月、Eで会議を開催し、CSCEがFへと改称する。 ここで、G、H、Iの3カ国はJに加盟し、ロシアに核を移管した。2004年12月には、ユシチェンコにより民主化が達成され、Kと呼ばれる。しかし、その後もウクライナ政情は安定せず、国内では親ロシア派のヤヌコーヴィチと親西欧派の対立が続いた。ヤヌーコヴィチは大統領に就任するも、2014年の2月にLと呼ばれる暴動が起き、政権は崩壊。これをMと呼ぶ。 これを受けて動いたのがNだった。彼はCの人々がロシア編入を希望しているとして軍隊を派遣。O時代以来のロシア領という歴史的経緯、そして軍港であるPのゲットを目標としたものだった。2014年4月には親露派であるウクライナ東部の分離運動も始まった。 Qは、これを踏まえ対ロシアとの戦争を辞さない考えを示し、ロシアはサミットへの参加を断られG8から除外、ウクライナはRから離脱した。その後はSが結ばれるもすぐに崩壊し、紛争は巨大化した。 そして2022年のTにウクライナ侵攻が始まった。 ⚠️なお、ソ連の人物として有名なトロツキー、フルシチョフ、ブレジネフはいずれもウクライナ生まれの人物である。

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  • 24

    2000年からロシア連邦の大統領となったAは、B出身の人物である。エリツィンの辞任ののち、国民の信任を得て就任した。2008年、Cでの紛争に対して南オセチアを支援した。その後はDに大統領が変わるも、実質的には首相となったAの権力が残ったままで、2012年に大統領に返り咲いた。 2014年8月、クリミア半島を制圧し併合。(E)国内での支持率は急速に高まった。 2011年には一斉に起こった民主化運動、FがGにおよび、同年3月18日、H政権打倒を掲げる反体制派によってIが勃発した。Aはこれに介入し、Hを擁護、アラブ世界の混迷をさらに深めてしまった。

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  • 25

    ヨーロッパの火薬庫、と呼ばれていたバルカン半島には、1918年、Aが作られた。南スラヴ人であった三民族は、1919年にB、20年のCで承認されたが、国王クーデターののち29年にDとして成立した。 Dは宗教、言語、文字が複雑に交錯したため、Eと呼ばれたことで知られる。その歴史は41年のドイツによるFまでの第一段階、そしてGを経てティトーによって46年にHとして建設されてからの第2段階、と2期に分けられる。 第一のユーゴ、とも言える41年までの時期、すでに国はまとまっていなかった。29年1月、国王だったIはDとして分布を意識させない国家の成立を目論むも、31年、波及していた世界恐慌の影響からファシスト集団Jの反乱などが起きていた。Jはイタリアに亡命しKのもとで活動。Lの独立を目指していた。1920年から国王がM、Nと結んでいたOなどによって安全保障を図ろうとしたが、国王Iは暗殺されてしまった。その後FでDは消滅を迎えた。 40年11月、ドイツはP、Qをその戦場とし我が物とし、41年3月にはRを日独伊三国同盟に加入させた。同月、ドイツの魔の手はDにも近づいており、結果国家は崩壊した。しかし、その過程で不当な分割が起き、のちにつながる問題のきっかけになった。 ロンドンでは、亡命政府が樹立したが、内部対立が起きていた。 また、クロアティア、スラヴォニア、ボスニア・ヘルツェゴビナはJによってSとして独立しており、政権はJのものとなっていた。これにのちに対抗することとなるのが、枢軸軍に対する抵抗運動組織で、クロアティア人やムスリム攻撃を繰り返すTである。 やがて、ティトーがパルチザン部隊を組織すると、45年3月、ティトーを首相にHが建設された。

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  • 26

    ユーゴスラヴィア社会主義共和国連邦は、第二次世界大戦の最中、パルチザン闘争で国を守った英雄、Aの強力な指導力で組織された連邦だった。1942年、B(C)を組織したことで共産党を中心とした戦後政権を準備し、44年10月ベオグラードが解放され、46年1月にスターリン憲法を範とした憲法を制定し、Dが発足した。(64年に改名) しかし、48年にはAの路線とソ連の路線は対立を強め、Eから除外されてしまった。これによって、F制、G、そしてHという独自路線国家が築かれた。 この国では、企業の国有化、土地改革が進められ、富裕層が一掃されたが、農業の集団化は行われなかった。 除名後の48年6月、AはIと呼ばれる独自社会主義をとることになる。労働者は国有化工場で全権限を取得し、その機関とした労働者評議会が設立された。 また、外交面ではJ政策を掲げ、積極的平和共存を掲げた東西中立姿勢を見せた。53年のKでソ連との関係も改善され、55年にはLがユーゴを訪問している。しかし、同年のMには加盟しなかった。 61年には首都ベオグラードで第1回Nを開催、インドのOが提唱した東西どちらにも与しない姿勢、Pに賛成したA、エジプトのQの3者によって(インドネシアのRも提唱に加わる)、第三世界の結集を図った。 65年からはRを柱とした経済改革が始まり、しかし改革は思うように行えず次第に自由化の動きは名ばかりであることが露呈した。 68年のSではチェコ側を支持し、ソ連の軍事介入を否定、中国との関係では毛沢東を修正主義として批判した。 74年には1974年憲法を成立させたが、この行動がのちの自由分権化の根拠になっていくこととなる。 しかしAがTに死去すると、各国の鬱屈とした思いの重しは外れてしまい、解体へと向かった。

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  • 27

    1980年、ティトーが死去すると、89年の東欧革命の流れに合わせ、90年には自由選挙の方針がとられたが、Aの代表が民主集中制の否定をしたことで分裂の流れが強まった。 ユーゴスラヴィア連邦では90年に自由選挙こそ開催されるも、セルヴィアとモンテネグロ以外の4国は民族主義的割合が強く、91年6月にB、Cが独立を宣言した。ついで11月にD、翌年3月にはEがそれぞれ独立を宣言した。 B、Cの独立にFが反発したのが、Gだった。92年、F、Hは改めてIを設立。Gは勢いを増してしまう。 Gは第一段階としてBの独立に伴う戦争、そしてCの独立を抑えようとする第2段階(JがCを承認したことで対立は過激化)、次がEの独立を倒そうとしたKだった。 これはFの人々はLというムスリムへの虐殺行為が国際的非難を浴びた。Fの政権を握っていたMは国際的に糾弾の対象となっていた。 Fの人々はメディアを通して悪玉として世論が形成され、冷戦終結後最大の紛争であったこの紛争に対し、ロシアのNはF側で、アメリカのO(続いてP)はFを非人道的だと批判した。 95年8月からQの本格介入とPの仲介によってRが成立し、一応の和平が成立している。 こうして、2003年、FとHがSとして国家を形成したのち、2006年にHが独立したことでユーゴスラヴィア連邦は完全に歴史から姿を消した。 なお、98年から表面化した大問題が、Tである。

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  • 28

    旧ユーゴスラヴィア連邦のA共和国の中のB自治州は、C系住民が多く、彼らはムスリムであったことから、分離独立を求めていた。 D死去の翌年には暴動が発生していたが、鎮圧。 その後も暴動を続け、89年の東欧革命が起こると91年のEで自治権獲得に動き出した。 しかし、セルヴィア大統領のFが弾圧を加え、ユーゴスラヴィアが解体した98年、ついにGとして表面化した。 AはHからの治安維持という調停案を拒否し、99年、アメリカのIはHとともにJを掲げて空爆に踏み切った。 しかしながら、Hの空爆はKの承認なく行われたことで今でも疑問が残る。なお、この時Hの一員として参加したのがドイツのLである。このことによって政権内部のMとの分裂が起こったまま介入は実施され、戦後ドイツにとっても重い決断となった。 なお、この問題でなぜAはBを許さないのか。それは1389年のNはA成立の基盤であり、やはり手放せない場所なのである。2020年には、経済正常化が果たされた。

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