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問題一覧
1
アフリカ分割はベルギー国王Aが、イギリス人探検家でナイル川の源流を見つけたBを救出したCの探検を契機にアフリカのDを領有することを決めた。イギリスとポルトガルはこれに反発し、ドイツのEは調停会議、F会議を行なった。占有権、実効支配、境界画定を取り決め、DはG国としてAの私領として成立した。(のちにベルギー領Dに)
レオポルド2世, リヴィングストン, スタンリー, コンゴ, ビスマルク, ベルリン, コンゴ自由
2
イギリスのアフリカ侵略は、まず最優先事項であるAの利権獲得であった。当時イギリス最大の植民地であったBとの貿易がよりラクになるからである。そのため、まずはエジプトを抑えようとエジプト財政を圧迫する。C内閣だったイギリスは、エジプトの財政難に乗じてエジプト政府を買収し、1876年には国家財政も国際管理下においた。これに対し、エジプト最初の反イギリス運動でDが反対運動、D運動を起こした。これは、アフガーニーのパン=イスラーム主義に影響された。アフガーニーの弟子、Eもこの運動に参加したようである。彼らはあくまで立憲革命を要求したが、イギリスは武力鎮圧し、エジプトを事実上の保護国化した。次に、エジプトの隣国でイギリスにとって目の上のたんこぶであったスーダンを抑えるため、イギリスはエジプトと同じタイミングで支配を始めたが、およそ1898年まで18年もの時間がかかってしまう。これは、Fが自らをG(救世主という意味)と名乗り、G運動によって抵抗したことが原因である。ナイル川を使ったゲリラ戦に思ったより苦戦したイギリスは、太平天国の鎮圧で活躍した軍人、Hの戦死、Gに現在のスーダン首都、Iを乗っ取られる事態となった。1898年、イギリスはスーダンでフランスと対面し、ドイツの台頭を恐れ当時協調路線を強めたかった両国は戦をさけ、フランスは退き、ついにスーダンはイギリスの領土になってしまった。この騒動を、J事件と呼ぶ。これを契機に、イギリスはフランスと1904年、Kを結び、イギリスのL、フランスのMはそれぞれ正式に領土となった。これらイギリスとフランスの歩み寄りは、タイが植民地化しなかったなど、歴史の転換点となった。
スエズ運河, インド, ディズレーリ, ウラービー, ムハンマド=アブドゥフ, ムハンマド=アフマド, マフディー, ゴードン, ハルツーム, ファショダ, 英仏協商, エジプト, モロッコ
3
ファショダ事件を経てスエズ運河利権を我が物としたイギリスは、1815年のウィーン議定書以降オランダから獲得したA(中心地B)へと目を向ける。ここでは、すでにオランダ系移民のC人がイギリス人から逃げており、まずは東方ににげD共和国を設立。が、すぐにイギリスがきたため、北部に逃げ、E共和国、F自由国を設立する。EでG鉱、H鉱を、FはG鉱を発見した。これを大きな資源だと思ったA首相Iは、南アフリカ内陸部のJを征服したが、 E共和国、F自由国を征服できなかった。ファショダ事件を経たイギリスは翌年1899年からK戦争を始める。これはイギリス本国の植民地相Lが推進した。これにより1902年には戦争が終わり、1910年にはMが成立した。(N、O、P、Qの4州)この頃、大量の戦費からイギリスは借金を抱え、光栄ある孤立を捨て日英同盟を結んだ。 C人はイギリス人から黒人いじめを提案されたが、これはRと呼ばれた。C人の中では、民族意識を高めた人もおり、Sと自称した。
ケープ植民地, ケープタウン, ブール, ナタール, トランスヴァール, オレンジ, ダイヤモンド, 金, セシル=ローズ, ローデシア, 南アフリカ, ジョゼフ=チェンバレン, 南アフリカ連邦, ケープ, オレンジ, ナタール, トランスヴァール, アパルトヘイト, アフリカーナー
4
フランスのアフリカ横断政策は、1830年に国王Aが行なったBに始まる。Cが1842年に直轄地とすると、入植者(D)が増大。 1881年にはEを保護国化した。(F会議でフランスの優先権が認められた)その後、国威を示すためフランスはG、Hなどのサハラ砂漠を征服する。HではIの抵抗を鎮圧し、征服した。また、ガーナは分割領とし、J王国をイギリスが、K王国をフランスが支配した。 東アフリカでは、スエズ運河妨害のためにフランス領Lを形成し、海港都市Mを建設した。1896年にはヴァスコダガマ航路の妨害のためにNを領有した。ここまで、イギリスのマフディー運動の水面下で行われていた。
シャルル10世, アルジェリア出兵, ルイ=フィリップ, コロン, チュニジア, ベルリン, セネガル, ギニア, サモリ=トゥーレ, アシャンティ, ダホメ, ソマリランド, ジブチ, マダガスカル
5
イタリアは1885年、エチオピアからAを分割し領有、Bは英仏と分割した(資源はないとこ)。1895年から1年間、C侵入を起こしたが、Dの戦いで敗北し撤退を迫られた。このC侵入は、背景に英仏対立があり、Eはイタリアを支援し、FはCを支援した。 その後、1911年にはオスマン帝国弱体を見計らってG戦争を起こし、H、Iを獲得しJという名前で植民地化した。(古名)
エリトリア, ソマリランド, エチオピア, アドワ, イギリス, フランス, イタリア=トルコ, トリポリ, キレナイカ, リビア
6
ドイツのアフリカ進出は、ビスマルク時代にA会議を経てB、C、D、Eを獲得した。場所を理解しておこう! マジ=マジの蜂起、ヘレロ人の虐殺があったが、ヘレロ人の虐殺は20世紀最初のFという見方もある。 ヴィルヘルム2世の時代になると、G事件をH年、I年の2回に分けて行なった。H年にはフランスの植民地だったGのJにヴィルヘルム2世が突如として訪問し、抗議を行なった。KのLでこの事件は講和され GはフランスとJの勢力範囲となった。 I年にはGのMで発生し、ヴィルヘルムはいちゃもんをつけた。フランスはドイツに譲歩したものの、Gを正式に保護国化した。これがイギリスとフランスがドイツと対立する最大の原因となった。
ベルリン, トーゴランド, カメルーン, 南西アフリカ, 東アフリカ, ジェノサイド, モロッコ, 1905, 1911, タンジール, スペイン, アルヘシラス, アガディール
7
第1次世界大戦直前、独立国だったのは、イタリアを撃退したA帝国、アメリカ解放奴隷の居住地、B共和国の2つである。
エチオピア, リベリア
8
ビスマルク外交は、フランスの孤立こそが狙いであった。当時、五大列強と呼ばれていた、フランス、イギリス、ドイツ、ロシア、オーストリア。そしてイタリア。この6国がヨーロッパ関係競争に与する。 まず、ビスマルクはドイツ、オーストリア、ロシアとAを結んだ(1871)。ロシアとオーストリアはB半島問題で揉めていたものの、ビスマルクとしては両国を抑えつける狙いもあったのだと考えられる。当時のイギリスは「C」とよばれる政策をとっていたので、フランスは確かに孤立していた。 そんな中、D戦争が起きてしまう。これに勝利したロシアは南下政策を成功したはずだったが、ビスマルクは勢力均衡の考え方からそれを無下にした。(E条約を棄却しF条約を締結)これがF会議である。これによりG、H、Iの3国が独立し、Jはロシアの保護国ではなく、オスマン帝国内の自治国になった。そして、F条約の歪なところは、ビスマルクがイギリス、オーストリアに媚をうったところにある。 イギリスはK島を獲得し、オーストリアはLの統治権を獲得した。なお、フランスはチュニジアの行動が自由になった。 ロシアが怒らないはずはなく、逆にイギリスは自分を優遇したドイツに好意的になった。こうして、Aは事実上解体し、ドイツはMを結びロシアに対抗した。 ロシアも流石に孤立化は避けたかったのか、その2年後Nを結んだ。 ビスマルクは、フランスをより孤立にしようと当時フランスに不満を持っていたイタリアに取り込み、秘密軍事同盟Oを結んだ。なお、この際オーストリアとイタリアはP問題で揉めている。 87年にはNが解散し、ロシアが再度孤立化。ドイツはロシアとだけでも仲良くしようと秘密条約(軍事同盟ではない)Q条約を結んだ。これによて両国のいずれかが攻撃を受けたとき、互いに中立であると約束した。
三帝同盟, バルカン, 光栄ある孤立, 露土, サン=ステファノ, ベルリン, ルーマニア, セルビア, モンテネグロ, ブルガリア, キプロス, ボスニア・ヘルツェゴビナ, 独墺同盟, 新三帝同盟, 三国同盟, 未回収のイタリア, 再保障
9
ヴィルヘルム2世になって、ビスマルク外交は意味を持たなくなってしまう。まず、バルカン権益を狙ったドイツはロシアとのA条約の更新を拒否し、ロシアとの仲を断ち切る。この機に乗じて、ビスマルクが最も危惧していたBが締結されてしまうのだった。 ヴィルヘルム2世は3B政策と呼ばれた対外政策を進める。1899年、C鉄道の敷設権を獲得し、さらにペルシア湾の奥にあるバスラの港も抑えた。これはインド進出と捉えられ、イギリスからも嫌われる。すでに、三国同盟しか機能していなかった。その後も三国干渉、日露戦争などを経て国際情勢は変化し、1904年の英仏協商に介入したことで、英仏との対立は大きなものとなる。 1907年にはついにイギリスがロシアとDを結ぶ。2国はEでの対立を解消し、北部をロシア、南東部をイギリスの勢力範囲とした。また、Fはイギリスの勢力範囲となり、チベットは相互不干渉となった。 BとDが重なり、ついに同年、Gが結ばれた。 「追加情報」 イギリスに対抗してドイツが行なった大幅な海軍拡張計画をH法と呼ぶ。(H競争)
再保障, 露仏同盟, バグダード, 英露協商, イラン, アフガニスタン, 三国協商, 建艦
10
日清戦争で日本がA半島を獲得し、これを見かねたB、C、Dの三国は三国干渉を行なった。ロシアはA半島南部のEとFを租借し、G年にH事件が起き8か国が共同でその対処に回ると、ロシアはそれを機会にIを占領した。この動きを見て、この頃ちょうどJ戦争で多額の借金を背負っていたイギリスは光栄ある孤立をしてKを結んだ。 1904年、L戦争が起こると、日本はEで開戦しその後のM海戦、N海戦で勝利を遂げる。1905年革命が起きたこともあり、セオドア=ローズヴェルトの仲介でポーツマス条約が結ばれた。ロシアはA半島南部を失い、鉄道権益やOを日本に譲渡した。
遼東, ロシア, フランス, ドイツ, 旅順, 大連, 1900, 義和団, 満州, 南アフリカ, 日英同盟, 日露, 奉天, 日本海, 南樺太
11
日露戦争後、三国同盟と三国協商とでヨーロッパは二極化した。中でも、Aと言われたバルカン半島はB帝国の支配下だったとはいえ、国民のナショナリズムの高揚から爆発寸前だった。爆発したのは1908年。日露戦争での日本勝利を以て、Cが起こる。これによりB帝国はその機能をほぼなくし、Dが独立した。またオーストリアはEを併合し、(元からほぼオーストリアのものではある)イタリアは戦争を行いトリポリ・キレナイカの支配権を得る。 このような混沌とした状況の中、Eを狙っていたFは(G主義)オーストリアと対立。スラヴ系のH、Iそしてなぜか入ってきたJの3国と結集しKを結成。イタリアトルコ戦争で負けたB帝国を強襲。L戦争をおこす。アルバニアは独立し、この講和条約、M条約でN島(Jへ)やイスタンブール以外のヨーロッパ領を割譲したが、オーストリアから牽制を受けていたFは思っているほど勢力拡大できず、Iが領土を拡大した。 こうして、今度はK内での分裂が起こる。F、H、J 、B帝国、そしてOがIを攻撃するP戦争が起きた。Iは敗北したが、B帝国とともにドイツ、オーストリア側になった。
ヨーロッパの火薬庫, オスマン, 青年トルコ革命, ブルガリア, ボスニア・ヘルツェゴビナ, セルビア, 大セルビア, モンテネグロ, ブルガリア, ギリシア, バルカン同盟, 第1次バルカン, ロンドン, キプロス, ルーマニア, 第2次バルカン
12
1907年の三国協商、1882年の三国同盟だけでなく、実は1902年にイギリスと日本でA、1907年にフランスと日本でB、ロシアと日本でCが結ばれた。また、1902年には実はDが結ばれており、Eはドイツ側で参加する中立を約束させられ、そのかわりリビアを承認された。
日英同盟, 日仏協約, 日露協約, 仏伊協商, イタリア
13
第1次世界大戦はサライェヴォ事件から始まる。ボスニアの州都サライェヴォで起きた。フランツフェルディナントをプリンツィプが暗殺したこの事件は、パン=スラヴ主義とパン=ゲルマン主義の戦いであった。1914年7月である。 Aが総動員令を発布すると、ドイツがロシア、フランスに宣戦する。イギリスはドイツのB侵犯を口実に宣戦する。 初期の戦線は、攻め込んだ方が負ける。 ドイツのCが考えたCプランに従い、ドイツはまず西部戦線の崩壊を狙う。これはロシアの参戦が遅いであろうことから作られた。が、1914年8月、東部でDの戦いが起きてしまう。これは壊滅させることに成功したドイツだったが、一方の西部戦線ではEの戦いで戦線が膠着。塹壕戦となってしまった。 同月にはFが参戦し、G湾を占領し(青島占領)中国に対しHを提出した。また、アメリカとFはIを結んだ。 3ヶ月後にはJが参戦、翌年5月にはKがロンドンでの秘密条約でLの割譲を約束してもらい参戦した。 また、毒ガスはMの戦いで初使用された。戦車、飛行機、機関銃、潜水艦も同じようにWW1の最中使用された。
ロシア, ベルギー, シュリーフェン, タンネンブルク, マルヌ, 日本, 膠州, 二十一ヶ条の要求, 石井・ランシング協定, オスマン帝国, イタリア, 未回収のイタリア, イープル
14
WW1後半期の戦線は、最大の戦いとされるA要塞での攻防戦から始まる。(1916年2月)A要塞はなんとか持ち堪え、Bはフランス軍を率い死守した。逆に今度はドイツへとCの戦いで連合国はせめたが決着はつかなかった。この戦いでイギリスは初めてDを使用。ドイツはE海戦で制海権を失い、無制限潜水艦作戦と呼ばれる、目に見えた船は全てぶっ潰す作戦を行なった。(1917) しかし、これが悪手だった。F事件を機に、Gが参戦してしまう。(F事件は無制限潜水艦作戦の前)一方、ドイツはHによりロシアとIで停戦するのだった。 イギリスはドイツを完全に叩きのめすため、J人、K人を味方に取り入れる。JにはLで独立を約束、KにはMで建国を約束した。J人は参戦を求めていたが、Kにはあくまで名家Nの協力を手にするためだった。参戦は求めていない。しかし、その裏でオスマン帝国の分割を約束するOを秘密裏に結んでいたのだった。 そのほかにもインドに戦後の自治を約束し、インド人兵士も手に入れたイギリスなのだった。
ヴェルダン, ペタン, ソンム, 戦車, ユトランド, ルシタニア号, アメリカ, ロシア革命, ブレスト=リトフスク条約, アラブ, ユダヤ, フセイン=マクマホン協定, バルフォア宣言, ロスチャイルド家, サイクス=ピコ協定
15
WW1の終結は、A、B、C、Dという順番で大国が降伏したことによる。特にDではEが起き、(F軍港の水平反乱)各地のG(労働者と兵士の評議会)が結成されヴィルヘルム2世はオランダへと亡命し、1918年11月10日のHの成立(臨時政府の首班はI)により、翌日のJ条約で締結された。フランスの森で締結。 ほかにも、K(L)の大流行も終結の一因である。
ブルガリア, オスマン帝国, オーストリア, ドイツ帝国, ドイツ革命, キール, レーテ, ドイツ共和国, エーベルト, ドイツ休戦, スペイン風邪, インフルエンザ
16
ロシア革命の背景は、外国資本の引き上げによる労働者環境の劣悪化にあった。当時、イギリス、フランスはアメリカに借金している状態で、ロシアへの援助は難しい状態にあった。また、労働者環境の劣悪化は、装備にも影響し戦争でも大敗が続いた。こうして起こったのがA(ロシア暦)だった。女性労働者のデモ(パンよこせ)を契機としたBは、全市の労働者にまで波及し軍内部の反乱をもたらし、軍兵士が労働者に加担した。こうして、ニコライ2世は退位しCは滅亡した。 こうして、一旦ブルジョワを中心にDが成立した。これは帝政ロシア時代の国会、Eを基盤とし、官僚や軍将校の支持を得た。F党を中心に、エスエルの右派やメンシェヴィキの一部を加え成立したとされる。 しかしながら、その裏で労働者によって作られ、下級兵士の支持を得ていたのがG(H会)である。これは各地に存在し、のちに全国で結成されることになるが、その最初はIであった。Jとエスエル左派(少数のボリシェヴィキ)によって成立した。 この二重権力状態でありつつも戦争は終わらず、国民の不満は高まっていた。
二月革命, ペトログラード蜂起, ロマノフ朝, 臨時政府, ドゥーマ, 立憲民主, ソヴィエト, 労兵, ペトログラード, メンシェヴィキ
17
二重権力状態のロシアを動かしたのは、AからBで帰ってきたCだった。彼はボリシェヴィキの指導者で、帰国後Dを発表した。これは臨時政府への抵抗、革命の遂行、そして即時停戦を主張するものであった。彼は「すべての権力をソヴィエトへ」のスローガンを掲げ政権樹立を目指した。その後、Eと呼ばれた反乱を起こしたがテロリストについてくる人々は少なく、鎮圧され再度亡命。ロシアでは同月にFの党首、G内閣が成立する。彼は国民からの期待とは裏腹に、戦争をやめることをしなかった。国民は失望し、コルニーノフは反革命を起こす。(王政に戻せ!) これの鎮圧に協力したボリシェヴィキは立場を手にし、そしてついにHが起きた。ボリシェヴィキ派の労働者、兵士が武装蜂起した。 二重権力状態は終わり、Iでソヴィエト政権が樹立。議長はC、外務人民委員はJ、民族人民委員はKであった。 Cは約束通りすぐにLをだし、全交戦国への即時和平を求めた。 その際唱えた三原則が、M、N 、Oである。 また、Lのほかに社会主義の原則に則りPも出している。(私有化の禁止)
スイス, 封印列車, レーニン, 四月テーゼ, 七月蜂起, エスエル, ケレンスキー, 十月革命, 第2回ソヴィエト会議, トロツキー, スターリン, 平和に関する布告, 無併合, 無償金, 民族自決, 土地に関する布告
18
平和に関する布告、土地に関する布告を出したソヴィエト政権は、自分たちの立場を絶対のものにするためAをロシアではじめてB選挙で行なった。が、国民の中でもいまだにテロリストであるという認識が強かったのか、Cが圧勝してしまう。まさかの結果にレーニンは激怒。武力をもって制圧した。こうして、1918年にボリシェヴィキ独裁が始まるのだった。ボリシェヴィキはDに名前を改称し、首都をEに移した。 終戦を求めたソヴィエトだったが、ドイツとはF条約で単独講和できたものの、広大な領土を奪われ、いつしか国内では内戦が起きていた。反革命を求めているGとソヴィエト政権のHである。1918年からはI戦争が起き、連合国の介入により国内はおかしくなる。英仏がGの支援で出兵し、アメリカ、日本はJ救済を口実にシベリアに出兵した。結果的にはH側の勝利ではあったものの、I戦争中に起きたK戦争でポーランドが領土をとりもどした。
憲法制定議会, 男女普通, エスエル, ロシア共産党, モスクワ, ブレスト=リトフスク, 白軍, 赤軍, 対ソ干渉, チェコスロヴァキア, ポーランド=ソヴィエト
19
ソヴィエト政権は、反革命取締りのために秘密警察機関A(B)を作った。(のちにKGB→FSBと変化している)また赤軍(C)と呼ばれた軍隊は、Dによって近代化された。1919年にはEが結成され、ロシア共産党の指導下で世界の共産勢力がFで結成された。(のちに反ファシズムへ) ソ連は対ソ干渉戦争の際、その厳しさのためにG主義を採用していたものの、厳しい経済統制(Hの一切禁止、Iの強制徴発、食料J制)によって労働者の生産意欲は減退し、経済は破綻し食糧危機を招いた。この頃の餓死数は、WW1より多かった。対ソ干渉戦争が終わった1921年にレーニンは政策を転換し、新経済政策と呼ばれるKを行なった。一部に資本主義を戻したこの政策は、社会主義の過激さを抑えたものであったため、他国との協調への足がかりになった。(I徴発の廃止、L経営の認可、小規模ならHの認可。重要産業は国有のまま。)これにより、ネップマン、クラークと呼ばれる豊かな国民も一部出現した。 国際協調路線へと転換したソ連は、1921年にイギリスと経済封鎖を解除するM協定を、22年にはドイツとの国交を回復するN条約を締結し、ドイツはソ連を承認した。
チェカ, 非常委員会, 赤衛軍, トロツキー, コミンテルン, モスクワ, 戦時共産, 私企業, 穀物, 配給, ネップ, 小農, 英ソ通商, ラパロ
20
ラパロ条約でドイツからの承認を受け、ついにAが成立する。これは、B、C、D、Eの4つのソヴィエト共和国で成立した。(1936年にはEはジョージア、アルメニア、アゼルバイジャンに分裂する)1924年には1924年にはF憲法が制定され、国家としての力を強めた。 同年にイギリスイタリアフランスの3国が承認され、翌年には日本も承認。こうしてAは国際社会へとついに参戦する。
ソヴィエト社会主義共和国連邦, ロシア, ウクライナ, ベラルーシ, ザカフカース, ソヴィエト社会主義
21
1924年、憲法発布の年、ソ連のAが亡くなってしまう。遺書がどっかいってしまったので、B論のCとD論のEは対立した。(B論はAも主張。D論はあくまでB論への対抗の意味が強かったと思われる)EはCを他勢力と共闘し追放する。(1929)彼はその後も強者をどんどん排除し、独裁体制を得た。(なお、B論が世界と一緒に社会主義を形成しソ連の後進性をなきものにしようという考え方であるのに対し、D論はソ連だけでもなんとかなる論なのですでにクレイジー) 1928年からEはFを行う。工業国への転換と、農業集団化が狙いだった。重工業を優先し、農業を集団化した。国営農場のGと集団農場のHを作って先進国を目指した。(この頃、外的には世界恐慌の影響を受けなかったとされているが、農業は模範農場を作って外的にはそれで面子を守り、国内では400万人が餓死したとされる) 1936年にはIを出し、Eの力はより一層強まり、対外的には民主性を担保したものだといっていた割に、市民権は確保されなかった。 1933年からはJを行い、重工業、軍事により一層重点を置いた。37年には工業生産がアメリカに次いで世界2位となった。 一応第3回も行なっているが、開戦で中断。 つまり、この頃のソ連は先進国でありながら、国民の生活は必ずしも良かったものとは言えない。
レーニン, 世界革命, トロツキー, 一国社会主義, スターリン, 第1次五カ年計画, ソフホーズ, コルホーズ, スターリン憲法, 第2次五カ年計画