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中国文化史〜4000年の歴史〜
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  • 問題数 26 • 11/14/2023

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  • 1

    孔子を祖として発展した儒教は、前漢のAの時代、Bの手によって官学化された。BはCを定め、それを教えるDを設置した。 前漢の外戚でEを建国したFや、その後Fを倒した後漢のG(H)は、Iに始まる陰陽五行説と加味したJを行った。 後漢時代からは、Cをより詳しく理解するため、前漢末のKの文献批判をもとに、Lが開拓した訓詁学が、Mによって完成された。 しかし魏晋南北朝期には国家への不信から衰退。唐の時代、国家が安定すると再興した。 唐の建国者Nの息子O(P)は、儒学者のQに命じRを編纂させ、この書を国定教科書として科挙の基準とした。科挙制度を充実させるためだった。 尚、SはRの作成に携わり、定本を作った。こうして定着した科挙制度は、科挙の合格者によってT運動へと帰着した。 T運動では、漢代以前のものを古文としており、南北朝期の南部で発展していた貴族によるU文化による文章、Vを批判し、古文に重きを置いた。提唱者は詩人としても有名なW (X)で、唐の詩人としても代表者だった。友人のYも彼に協力し、宋代の人物と合わせZと呼ばれた。このように、訓詁学は隆盛しつつも、文学の隆盛がその中心となったため思想的な発展は見られなかった。また、儒教を持ち上げた一方、Wは仏教を激しく批判した。

    武帝, 董仲舒, 五経, 五経博士, 新, 王莽, 光武帝, 劉秀, 鄒衍, 讖緯説, 劉向, 馬融, 鄭玄, 李淵, 李世民, 太宗, 孔穎達, 五経正義, 顔師古, 古文復興, 六朝, 四六駢儷体, 韓愈, 韓退之, 柳宗元, 唐宋八大家

  • 2

    宋代になると、A(B)によって宋学が大成した。訓詁学を哲学まで深めたこの学問は、経済的余裕を勉学に当てたCたちによって支えられた。 始祖と呼ばれたD(主著E)は、宇宙論を展開していた F時代の人物で、同時代、GとHのIとよばれた兄弟が老荘思想の影響を受けると、宇宙と物質とを重ねるJの理念を築いた。(同時代にはKも提唱)また、人間の生き方として大事なのは欲望に動かされないことだとしたLの理念も作られた。兄Gは、Mの改革を受け、官職を辞している。 南宋になり、AはJやLのほか、考え方を固める。 真理に至るにはあらゆる物事が必要だとするN、Mの改革に反対していたO(歴史書Pを書いたことでも有名)が提唱していたQ(封建道徳)、漢民族の正統性を明らかにするRを宋学のキーワードとした。 Aの主著がS、Tである。 このような宋学の文化は、高麗にも伝わった。 16世紀、UとVが活躍する。どちらも宋学の内Jを発展させたが、そのうちWを重視したのがU、Yを重視したのがVだった。 UはZを建設し、これは儒学教育機関として朝鮮の主要なものとなった。

    朱熹, 朱子, 士大夫, 周敦頤, 太極図説, 北宋, 程顥, 程頤, 二程, 理気二元論, 張横渠, 性即理, 王安石, 格物致知, 司馬光, 資治通鑑, 大義名分論, 華夷の別, 四書集注, 資治通鑑綱目, 李退渓, 李栗谷, 理, 気, 陶山書院

  • 3

    儒学は元の時代、科挙が一時停止され、停滞を迎えた。 が、漢民族支配が復活した明代に入ると、皇帝を支える朱子学が官学化される。Aの時代だった。 彼は農民教化策としてBを公布し、Cが里ごとに毎月6回、これを唱えながら巡回した。 永楽帝の時代には、D、E、Fが作られた。 しかし、このような権力による注釈書の検定作業は、学問の自由な発展を阻害するとした人物がいた。それが、Gだった。彼は朱子学を深く学びつつも、それが空疎であることを考え、机上の空論ではなくHという理念に達した。 南宋の儒学者、Iの影響も受け、成立したJは、朱子のKを批判しLであることを理念とした。また、知ることが行なうことで、行なうことが知ることであるとするMもその中心理念であった。 明末期にはN(O)が現れ、独自の男女平等論を説いた。儒教倫理にとらわれない恋愛を主題としたPが書いたQもこのNの影響を受けたとされる。Nの主著が、Rである。彼は儒学批判で投獄され、獄中で自殺した。

    洪武帝, 六諭, 里老人, 四書大全, 五経大全, 性理大全, 王陽明, 知行合一, 陸九淵, 陽明学, 性即理, 心即理, 致良知, 李贄, 李卓吾, 湯顕祖, 牡丹亭還魂記, 焚書

  • 4

    明代に生まれ流行した陽明学に変わって、清代では、異民族王朝であった清は陽明学を認めず、政治批判に陥らないよう、古典解釈を主とするAを採用した。これは元々明末期にBが始めたもので主著はCであった。 清朝に仕えなかったが、著述に専念し中国のDと呼ばれたEも創始者の一人とされ、著書Fでは清の政治を批判した。 このAの代表的人物とされるのが、Gである。(そのほか戴震・段玉裁が有名) 清末期には、Hに発展する。これは、Iが著したJに基づいたもので、より実践的になっていた。 代表的学者であるのが、変法運動に与することとなるK、Lである。

    考証学, 顧炎武, 日知録, ルソー, 黄宗羲, 明夷待訪録, 銭大昕, 公羊学, 孔子, 春秋, 康有為, 梁啓超

  • 5

    中国で仏教が定着したのは、4世紀、A出身のBがC時代で混乱する中国世界に進出したことによる。彼の門下から現れたDが中国仏教の基礎を築くと、その弟子Eは東晋の時代、中国のFの祖となっている。 また、5世紀にはAからGが訪れる。彼はHで仏典の漢訳に務めた。 6世紀にインドから訪れたIがJを創始すると、より仏教は浸透していった。 東晋の時代には、KがL時代のMを訪問。都Nで仏典を研究し、Oを著した。 唐代になると、知識人の間でPが、庶民の間でQが流行する。南宋では、Rと結びつき民間仏教、Sが成立した。(のちの紅巾の乱の原因) また、この頃インドに訪問したT、Uはどちらも有名で、Tはナーランダー僧院で学んだ人物で、旅行記Uを著した。(V時代のWに向かった) Uは帰路にてXに1年間滞在し、Yを著した人物として知られる。 このように仏教は定着していったが定着した仏教のことをZと呼ぶ。

    亀茲, 仏図澄, 五胡十六国, 道安, 慧遠, 浄土宗, 鳩摩羅什, 長安, 達磨, 禅宗, 法顕, チャンドラグプタ2世, グプタ朝, パータリプトラ, 仏国記, 禅宗, 浄土宗, 弥勒下生信仰, 白蓮教, 玄奘, 義浄, 大唐西域記, ハルシャ=ヴァルダナ, ヴァルダナ朝, 室利仏逝, 南海寄帰内法伝, 格義仏教

  • 6

    北魏期には、西域への門戸であったA(BやCと呼ばれた)、山西省D付近のE、河南省F付近のGで石窟寺院が造営された。 北魏のHに代表されるように、国家規模で大規模寺院を建てたが、例外的にIは道教を信奉した人物として有名。 唐代の玄奘は、長安にJを建設し、仏典などをそこに保存したとされるが、彼はソグディアナの中心、Kやアフガニスタンの古都、Lなどアジアの主要な都を訪問している。 また、義浄が訪問したシュリーヴィヤ王国の都はMであり、彼が滞在したのもそこである。 元代には、NがOに没頭。流行し、Pなどが招かれた。

    敦煌, 莫高窟, 千仏洞, 大同, 雲崗, 洛陽, 竜門, 孝文帝, 太武帝, 大雁塔, サマルカンド, バーミヤン, パレンバン, フビライ, チベット仏教, パスパ

  • 7

    中国では、老荘思想や、神秘主義思想であるA、後漢で成立した祈祷による病気治療を行う民間信仰であるB(Cで広まる)・D(Eで広まる)とが融合し、F時代にGが道教を成立させる。この動きは、東晋のHが著書、IでAを完成させたことによるものだった。 初の道教集団、Jが形成されることとなり、特にKは大規模廃仏を行ったため重宝した。 12世紀になると、北方でLという王朝が建国される。この王朝でも道教が流行し、Mが仏教(特にN)の要素を導入し、改革的な道教集団、Oを設立し華北に広めた。一方、江南地域では、P王朝でQが流行し、OとQは対立した。

    神仙思想, 太平道, 山東, 五斗米道, 四川, 北魏, 寇謙之, 葛洪, 抱朴子, 新天師道, 太武帝, 金, 王重陽, 禅宗, 全真教, 南宋, 正一教

  • 8

    魏・西晋期には、乱世による社会不安を受け、Aが流行した。これは世俗を超越した論議で、B、Cを代表とする竹林の七賢が活躍した。 唐代に入ると、Dと呼ばれる外来の三宗教が広まった。 南北朝末期には、ゾロアスター教(E)が伝来し、Fなどの唐を往来した外国人の間で流行した。 唐代のGの時代には、Hが来訪してネストリウス派キリスト教(I)を布教する。各地にJ(のちにKに改称)を建設し、繁栄を讃え長安に、漢字、シリア文字で刻んだLを建立した。 摩尼教(マニ教)はMの時代に流入し、北アジアのNに伝播した。 また、このほかにもムスリム商人の来校に伴いイスラム教が流入する。イスラム教はOと呼ばれた(のちにPと呼ばれた)。 元代に入るとQが大都に来訪する。彼は中国最初のカトリック布教者となり、イエズス会教師の来訪が盛んとなった明代には流行した。 清代には康熙帝の時代にイエズス会以外、雍正帝時代に全布教活動が禁止となり、乾隆帝時代にはこれを徹底させるため、貿易港がRのみとなった。 しかし、1856年から起こったSののち、T条約、U条約を経てキリスト教布教は自由となってしまった。 このように、仏教、道教以外の宗教も流行している。

    清談, 阮籍, 嵆康, 三夷教, 祆教, ソグド人, 太宗, 阿羅本, 景教, 波斯寺, 大秦寺, 大秦景教流行中国碑, 則天武后, ウイグル, 清真教, 回教, モンテ=コルヴィノ, 広州, アロー戦争, 天津, 北京

  • 9

    春秋戦国時代、神話時代から殷・周時代の歴史をまとめたAが編纂された。また、孔子はBを制作している。 漢代になると、CがD体でEを記す。Cは前漢の武帝に獄中に捕えられ、そこでこれを書いたという。(D体は、皇帝の記録であるFとそれ以外に関する記録であるGがある) 後漢ではHがI体でJを編纂する。日本に関して、初めて記述したことでも知られる。 西晋では、KがL体で三国時代の歴史を編纂。その中にあるMでは、女王卑弥呼に関する記載があったとされる。 南北朝時代には、南朝でNがJの続編、OをP体で編纂。同じく南朝時代にはQの来訪を記載した宋代の歴史、RがS体で記述されていた。 唐代には、中国最初の体系的な史学理論書、Tや制度史、Uが記された。 宋代には、北宋のVが編纂したW、X(どちらもY体)が唐代、五代の頃の歴史を著し、Z論を展開した。

    書経, 春秋, 司馬遷, 紀伝, 史記, 本紀, 列伝, 班固, 紀伝, 漢書, 陳寿, 紀伝, 『魏志』倭人伝, 范曄, 後漢書, 紀伝, 倭の五王, 宋書, 紀伝, 史通, 通典, 欧陽脩, 新唐書, 新五代史, 紀伝, 大義名分

  • 10

    北宋時代、Aの中心人物としても有名なBが、戦国時代から五代まで、C体でDを編纂した。大義名分論を展開し、 南宋時代には制度史Eが著された。 元代には、モンゴルの歴史書F、さまざまな正史をまとめた初心者向けの歴史教科書、Gが編纂された。

    旧法党, 司馬光, 編年, 資治通鑑, 文献通考, 元朝秘史, 十八史略

  • 11

    中国最古の詩集、Aは中国に文学の訪れをもたらし、戦国時代にはBらがCを編纂した。 魏晋南北朝時代には、貴族文化の繁栄を受け、Dと呼ばれる優美な対句文体が流行し、東晋のE(F)、宋のG、梁のHは有名である。 (Eの代表作がI、J。HはKを編纂)

    詩経, 屈原, 楚辞, 四六駢儷体, 陶淵明, 陶潜, 謝霊運, 昭明太子, 帰去来辞, 桃花源記, 文選

  • 12

    唐代になると、貴族文化は全盛を迎える。 詩が流行し、盛唐(具体的にはAの時代)の時代、全盛期が到来した。 この時代には、Bと呼ばれた天才詩人、李白、Cと呼ばれた杜甫、画家としても知られるD、そのほか田園詩人のEが活躍した。 特にCは、代表作として苦しい農民を詠んだF、Gで揺れる中国の中で詠まれたHを詠んでいる。 中唐の時代になると、Iが楊貴妃について詠んだJなどの作品を詠んだが、その一方で四六駢儷体を批判するK運動が起こる。のちにLに数えられるようになるM、Nが推進した。

    玄宗, 詩仙, 詩聖, 王維, 孟浩然, 兵車行, 安史の乱, 春望, 白居易, 長恨歌, 古文復興, 唐宋八大家, 韓愈, 柳宗元

  • 13

    唐末期、藩鎮の台頭は貴族中心社会の没落を意味してしまった。 これによって、庶民文化が流行し、古典演劇となるA、楽曲の歌詞として成立したBが流行した。また、C、Dにはじまる古文復興運動が流行し、唐宋八大家と呼ばれるように、中心人物のE、そしてF、その息子であるG、H(兄のGはIを著した)、J、Kと六人の人物が活躍した。 元代になると、モンゴル人は中国伝統文化を軽視し、庶民文化のみ受け入れられた。 古典演劇は発展し、Lが流行し、M、N、Oが流行ったがOは明以降流行する自由な戯曲、Pの先駆的作品として有名である。 また、白話小説も成立し、Q、R、Sなどの明代の白話小説の原型が成立した。

    雑劇, 詞, 韓愈, 柳宗元, 欧陽脩, 蘇洵, 蘇軾, 蘇轍, 赤壁の賦, 曾鞏, 王安石, 元曲, 漢宮秋, 西廂記, 琵琶記, 南曲, 水滸伝, 西遊記, 三国志演義

  • 14

    明代には、四大奇書とよばれる口語小説が成立する。 これはA、B、C、Dの4つであった。 AはEが著したが、もともとこの108人の豪傑たちはFを題材としてGが原作を記述したものである。(宋代末期の農民反乱) Bは、陳寿のものを元にしたもので、同じくEが著している。 Cは、現状の旅をSFとしてHが著したものである。 そのほか、短編小説としてIが作られたが著者はわからず、長編戯曲としてJが作られている。

    水滸伝, 三国志演義, 西遊記, 金瓶梅, 羅貫中, 宋江の乱, 施耐庵, 呉承恩, 今古奇観, 牡丹亭還魂記

  • 15

    清代には、口語小説としてA、B、Cが作られた。 Aは貴族家の栄枯盛衰を描いた長編小説で、Dが著し、 BはEを風刺し知識人の腐敗を暴いたもので、Fが著した。 Cは伝奇を集めた短編集である。 また、戯曲として、白居易の長恨歌をモデルとするG、明末の動乱を描くHが有名である。

    紅楼夢, 儒林外史, 聊斎志異, 曹雪芹, 科挙, 呉敬梓, 長生殿伝奇, 桃花扇伝奇

  • 16

    後漢の時代、中国で画家が誕生した。 最初期、墓室の壁面などに使われた画像を掘り込んだ石材、Aが流行したが、東晋になると確立者、Bが登場する。彼は女官の行儀や作法を絵画としてCを描いた。 また、この東晋には書聖と呼ばれた書家、Dが活躍した。彼は子のEとともに、二王と呼ばれ、Fは代表作となった。 当時、書体はGであったが、彼はH、I、Jの3書体を芸術的に完成させた。

    画像石, 顧愷之, 女史箴図, 王羲之, 王献之, 蘭亭序, 隷書, 楷書, 行書, 草書

  • 17

    唐代になると、画家、書家ともに変革期を迎えた。 画家においては、初唐の画家、Aが人物画を描くと、盛唐になったことで山水画に秀で、Bの祖とされるC、詩人としても有名なDの祖とされるE、仏教画に秀でたFが現れた。 書家においては、王羲之の書風を引き継いだ3大書家のG、H、I、そして王羲之の書風に対して革新的な書風を確立したJが現れた。(JはKに参加し反乱軍鎮圧に走った) そのほか、仏教彫刻が栄え、工芸では多くがLとして使用されたMと呼ばれる陶器が作られた。

    閻立本, 北宗画, 李思訓, 南宗画, 王維, 呉道玄, 欧陽詢, 虞世南, 褚遂良, 顔真卿, 安史の乱, 副葬品, 唐三彩

  • 18

    宋代に入ると、画家は宮廷のAに所属し、そのためB画と呼ばれるようになった。主な画家は、皇帝でもあったCがいたが、南宋代に至ると、D、E、Fが現れた。 一方、士大夫などが趣味としてG画を描いた。主な画家は、北宋のH、I、南宋のJがいた。 そのほか、絵巻物として北宋の首都Kを描いたLが描かれた。

    画院, 院体, 徽宗, 馬遠, 夏珪, 梁楷, 文人, 李公麟, 米芾, 牧谿, 開封, 清明上河図

  • 19

    元代に入ると、王羲之の書風を受け継いだA(B)が現れた。 一方で、画家としては山水画に秀で、C画を確立したD、ほか3人が四大家として現れた。 明代に入ると、宋のE画の流れを汲むF画、宋のG画の流れを汲むH画を描いた。主な画家は、F画が美人画に秀でたI、H画の完成者がJである。

    趙孟頫, 趙子昂, 南宗, 黄公望, 院体, 北宗, 文人, 南宗, 仇英, 董其昌

  • 20

    漢代、武帝の経済諸政策について記録したAがまとめられた。 これ以降、技術についてまとめられるようになり、後漢にはBが急性発熱性疾患の治療法をCでまとめた。 また、この時代にはDが中国最古の漢字辞書、Eをまとめ、Fを部首ごとに総括分類した。 後漢のGが改良して実用化に成功した製紙法においては、製造した紙を4代皇帝Hに献上したとされる。 Gの開発した紙は、Iと呼ばれるようになり広く普及。この普及以前までは、JやKに文字を記述していたとされる。

    塩鉄論, 張仲景, 傷寒論, 許慎, 説分解字, 小篆, 蔡倫, 和帝, 蔡候紙, 木簡, 竹簡

  • 21

    魏晋南北朝時代になり、北魏のAはBという地理書で河川とその流域を中心にまとめた。また、この時代にはCが最古の農業書、Dを著した。

    酈道元, 水経注, 賈思勰, 斉民要術

  • 22

    唐代になると、製紙法が西に伝わり、757年にはイスラーム世界最初の製紙工場がAに作られた。 宋代になると、隋代に発明されたBという印刷方法が作られ、宋代にはC(仏典党の集大成)や暦を印刷した。 現存するアジア最古の印刷物は、日本のDに残っている、Eにあるとされる。 また、北宋ではFがG活字を発明し、Hという印刷法が作られた。しかし漢字の困難さゆえに衰退してしまった。 また、朝鮮では世界最古のI活字がJ王朝の頃に作られ、世界最古のK活字がL王朝の頃に発明されている。 中国では、宋代においてこれらを含めて中国のM発明と呼ばれたものが作られた。

    サマルカンド, 木版印刷術, 大蔵経, 法隆寺, 百万塔陀羅尼, 畢昇, 膠泥, 活版印刷術, 金属, 高麗, 銅, 李氏朝鮮, 四大

  • 23

    元代になると、地理学者Aが各地を周遊してBを作成した。これは中国の地図として清代、Cが作成されるまで主要な地図として使われた。 また、Dは中国伝統の暦学を土台としてEを作り、中国最善といわれたFをもとに、グレゴリウス暦にほぼ一致するほど正確であった。 江戸時代には、日本でこれを土台にGが作成されている。

    朱思本, 輿地図, 皇輿全覧図, 郭守敬, 授時暦, 太陽太陰暦, 貞享暦

  • 24

    明代になると、永楽帝は大編纂事業を行う。 中国最大の百科事典とされたA、思想についての注釈書であるB、C、Dはどれも科挙試験の必須項目となった。 また、イエズス会の到来により実学的な技術書が多量に作られた。 農業技術の集大成として、EがFを、薬学の集大成として、GがHを、産業技術の図解入り解説書として、IがJを、西洋の暦法の漢訳書を、KがLと協力しMを、ユークリッド幾何学の漢訳書を、NがOと協力しPを、作成した。 そのほか、造園技術に関するQ、鉄砲の構造解説書、Rが有名である。

    永楽大典, 四書大全, 五経大全, 性理大全, 徐光啓, 農政全書, 李時珍, 本草綱目, 宋応星, 天工開物, 徐光啓, アダム=シャール, 崇禎暦書, 徐光啓, マテオ=リッチ, 幾何原本, 園治, 神器譜

  • 25

    清代になると、康熙帝はAを編纂させ、漢字辞典の基準とした。 雍正帝の治世には、Bが完成し、百科事典として永楽大典に並ぶ規模であった。乾隆帝の時代には、Cが編纂され、古今の重要図書は分類された。 新末期には、Dが世界地理書、Eを作った。

    康熙字典, 古今図書集成, 四庫全書, 魏源, 海国図志

  • 26

    イエズス会宣教師は、明末期から清代において中国で活躍した。 中国最初の世界地図、Aを作ったBは、徐光啓とともに幾何原本を製作しており、徐光啓とともに西洋暦法の漢訳書、Cを作成したDは清初期には天文台(E)の長官に就任し、暦をFとして制定した。 そのほか、Gとともに大砲などの西洋技術を紹介したH、康熙帝の命で同僚のIとともに実測中国地図、Jを作ったK、円明園を建築したカスティリオーネがいた。

    坤輿万国全図, マテオ=リッチ, 崇禎暦書, アダム=シャール, 欽天監, 時憲暦, アダム==シャール, フェルビースト, レジス, 皇輿全覧図, ブーヴェ