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東南アジア史〜貿易と繁栄〜
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  • 問題数 22 • 8/22/2023

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  • 1

    ベトナムでは、前4世紀頃から中国文化・スキタイ文化の影響を受け、青銅器文化、A文化が興った。Aでは、青銅器製のBなどが出土している。 その頃、漁労民の文化、C文化も栄えている。

    ドンソン, 銅鼓, サーフィン

  • 2

    秦の始皇帝は、南方征服を行い、百越国を攻撃。A郡以下3郡(A郡、B郡、C郡)を設置した。 秦末の混乱の中でA郡の趙佗がDを建国した。  しかし、前漢の武帝の遠征で、Dが滅亡すると、Eが設置される。(F郡、G郡、H郡) 後漢になると、光武帝の支配下でIがJ郡で反乱を起こす。一部ベトナム支配をするも鎮圧されてしまう。 その後、K郡の南部で、Lが独立した。 唐の時代には、MがNを設置した。 唐代の混乱期、たくさんの王朝が成立するも、どれも短命に終わった。

    南海, 桂林, 象, 南越, 南海9郡, 南海, 交趾, 日南, 徴姉妹, 交趾, 日南, チャンパー, 高宗, 安南都護府

  • 3

    1009年からベトナムでは、A(B)が成立した。都はCに置かれたこの国は、北部ベトナムのD人最初の長期王朝。国号をEとした(Cに都がある時は、この名前で呼ぶ) 1075年、Fの軍隊を撃退し、のちに朝貢を行った。 11世紀以降、南部のGと抗争した。 また、中国を真似し、Hを実施している。 が、外戚のIに政権を奪われてしまう。

    李朝, 大越国, ハノイ, ベト, 大越国, 宋, チャンパー, 科挙, 陳氏

  • 4

    李朝ののち、陳氏が建てたのが陳朝だった。都はAである。元のBの遠征軍を3度に渡り撃退し、民族意識が高揚した。 彼らは元を撃退した影響で、対中国感情から固有文字Cを作成した。また、Dと呼ばれる歴史書を漢文で書いている。 チャンパーを攻撃し、南方に領土を拡大するも、国内混乱の末Eに政権を奪われた。(一時、Fの遠征により明の支配を受ける)

    ハノイ, フビライ, 字喃, 大越史記, 胡氏, 永楽帝

  • 5

    ベトナムは、明の支配を受けていたが、AがBを建国し明から自立する。(都はハノイ)その後、明へ朝貢し、中国的な官僚国家を建設した。 南進政策を進めた彼らは、Cを征服し、ほぼDを統一した。 16世紀には、衰退に乗じて一時政権を奪われた。 また、17世紀、武人に実権を奪われ、北部でEが政権を担った。 南方のFではGが台頭し、南北は分裂してしまう。 Eの作ったものをHと、Gの作ったものをIと呼ぶ。 なお、この頃都ハノイは、旧名であったJからKに改称している。 また、HとIが勢力を増したのは、一時政権を握ったLを倒したからである。

    黎利, 黎朝, チャンパー, 南北ベトナム, 鄭氏, フエ, 阮氏, 大越国, 広南国, 昇竜, 東京, 莫氏

  • 6

    1773年、中南部帰仁のAのB氏3兄弟が指導したAの乱が起きた。これによって、南北の分裂王朝はどちらも崩壊してしまった。 こうしてできたB氏政権(B朝)は、清軍を撃破した。(この頃、黎朝も未だ形だけ成立していたが、国王がこれを機に清へ逃げたため滅亡) 1802年、タイに亡命していたCが、D(E)を建てたことによって崩壊した。 Dの都はFだった。建国時には、G人の宣教師Hの義勇軍やタイ軍の援助を得ている。 彼の時代、国号はI(J)とされた。 清に朝貢し、冊封を受け、欧米排斥の動きをとった。

    西山, 阮, 阮福暎, 阮朝, 越南国, フエ, フランス, ピニョー, 越南, ベトナム

  • 7

    カンボジアでは、2世紀、後漢とローマとの交易が盛んになったことで、Aという国家が作られた。(おそらく、南アジア語系のB人) 東南アジア最古の本格的な国家である。 海上交易で繁栄し、港市Cは栄えた。金貨や鏡、ヒンドゥー神像など、交易の証拠が出土している。 彼らは、インド文化を受容したと考えられる。 B人の一派であるDに圧倒され、7世紀中頃に滅亡した。

    扶南, クメール, オケオ, 真臘

  • 8

    南ベトナムのチャンパーは、後漢から独立したチャム人国家で、17世紀まで存在していた。 中国では、漢代にA、唐代にB、宋代にCなど呼称が違う。 海上交易の中継点として繁栄し、インド文化の影響が強いものの、唐には朝貢している。 11世紀以降は、北部の大越国(D朝・E朝・F朝)やカンボジアのG朝と抗争を繰り広げ、中国の遠征も受けたものの、長く耐え抜いていたが、17世紀に南方阮氏の属国となった。

    林邑, 環王, 占城, 李, 陳, 黎, アンコール

  • 9

    インド船が来航していた東南アジアでは、マラッカ海峡への中継地点であるビルマが栄えていた。 8世紀ごろには、北部にいたA人がAを建国しており、8世紀から11世紀まで栄えBやヒンドゥー教が信仰されていた。 9世紀にCから攻撃を受けると衰退し、D人王朝Eに吸収される形で消滅した。 EはD人最初の統一王朝であり、7世紀ごろからFに服属していたD人が南下する形で勢力を拡大し、A人、G人を征服した。その過程でHが入り込み、信仰された。 Iと交流する過程でもHを積極的に保護し、多くの仏教寺院を建てたことからJ王朝とも呼ばれる。 しかし、仏教寺院建設で出費がかかっていたタイミングで元のKの遠征で衰退しやがて滅亡した。

    ピュー, 上座部仏教, 南詔, ビルマ, パガン朝, 南詔, モン, 上座部仏教, カンボジア, 建寺, フビライ

  • 10

    チャオプラヤ川では、A人が7世紀、Bを建設した。(A人は先住民)唐への朝貢を行うなど、交易が盛んであった。 その後、8世紀になるとC人が移動を開始する。(ベトナム原住?)

    モン, ドヴァーラヴァティー王国, タイ

  • 11

    当初、クメール人の都市連合だったA(B)は、Cから自立し、Cを滅ぼした。インド文化の影響を受けたことで、Dが信仰された。8世紀には、南北2つの勢力に統合され、南がE、北がFだった。Eは海上交易で中国と、Fは陸路で安南都護府と接触した。 このカンボジアを統合した王朝がGだった。 建国者はHで、国王を神聖化することで王権を強化したこと、寺院建築を盛んに行ったことで知られる。 都としてIを造営した。 1113年から即位したJは、DのK神を信仰し、Lを建立した。 (Lは当初はD寺院だったが、タイのMによる攻撃で都が放棄されると、次第にN寺院となった。) 続くOは大乗仏教を信仰した人物で、インドシナ半島全域を支配し、灌漑などでも繁栄した。 なお、15世紀にLの攻撃を受け、都をPに移した。

    カンボジア, 真臘, 扶南, ヒンドゥー教, 水真臘, 陸真臘, アンコール朝, ジャヤヴァルマン2世, アンコール=トム, スールヤヴァルマン2世, ヴィシュヌ, アンコール=ワット, アユタヤ朝, 仏教, ジャヤヴァルマン7世, プノンペン

  • 12

    マラッカ海峡を支配して7世紀から14世紀まで成立していたのがAだった。 マレー半島の港市国家が連合し、スマトラ南部のBを中心に海上帝国を形成しているものだった。 中国では、唐の時代にCとよばれた。 インドからのDを導入し、東南アジアの布教の中心となった。 唐の僧侶、EはここでFを記述した。 ※8世紀から9世紀には、GがAを支配したとされるが不明点が多い。彼らはHの仏教遺跡を造営したことで有名である。

    シュリーヴィジャヤ, パレンバン, 室利仏逝, 大乗仏教, 義浄, 南海寄帰内法伝, シャイレンドラ朝, ボロブドゥール

  • 13

    マラッカ海峡に10世紀頃から存在した港市国家連合を、総称してA(アラブ人はB)とよんだ。 10世紀ごろには、いくつかの国家連合がCに朝貢し、ジャワのDと抗争を繰り広げた。 11世紀には南インドのEが侵攻し、各地を征服したため、Cに使節を派遣している。

    三仏斉, ザーバジュ, 宋, クディリ朝, チョーラ朝

  • 14

    8世紀ごろから、ジャワ島中部の盆地にジャワ人がAを建国した。ここではヒンドゥー教が信仰され、Bが建設された。この王国が東部に移り、C朝となった。インド文化を強くうけ、D文化として確立した。ここでは、E文学がジャワ語され、F(G)となった。

    古マタラム, プランバナン寺院群, クディリ, ジャワ, サンスクリット, 影絵芝居, ワヤン=クリ

  • 15

    13世紀の東南アジアは、モンゴルの遠征の影響で大きく状況が変化した。 1299年、ビルマにあったA朝はフビライの遠征で弱体化し滅亡。北部のシャン人や南部のモン人(B朝)が台頭して抗争した。 1257年、タイ人は小国家を統合させ、C朝の従属から自立しD朝を建国させた。元に朝貢し、中国文化の影響を受けた。 全盛期には、タイ文字が制定され、Eが導入された。 カンボジアでは、アンコール朝が衰退していた。 1222年、ジャワ島近辺ではクディリ朝がF朝になった。F朝は元の使者を追い返してしまい、元のG遠征の原因を作ってしまう。 が、彼ら自身はG遠征の寸前に内紛で滅亡した。 こうして訪れた元を撃退した王族Hは、Iを建国する。 これは、ジャワにおける最後のJとなり、クディリ朝以来のKを継承した。 彼らも元に朝貢し、その後Lの南海遠征の際に明に朝貢している。

    パガン, ペグー, アンコール, スコータイ, 上座部仏教, シンガサリ, ジャワ, ウィジャヤ, マジャパヒト王国, ヒンドゥー教国家, ジャワ文化, 鄭和

  • 16

    14世紀以降、ビルマでは、パガン朝滅亡以来の分裂状態になっていたが、A朝が統一した。ビルマ人、モン人の融和を狙い領土を拡大し、タイのB朝と抗争し領土を拡大した。が、オランダやイギリス、明や清の攻撃で弱体化し、C人のD朝によって滅亡した。 しかし、ビルマ人、C人の対立は長きに渡り続き、国の滅亡をもってしても、戦いが終わることはなかった。この争いに終止符を打ったのがビルマ人のEで、彼はF朝を建国する。宿敵であったG朝を滅ぼし、清の侵攻を撃退後は、清に朝貢した。 H侵攻を機に、I戦争が勃発し、Jに征服された。(1886)

    タウングー, アユタヤ, モン, ペグー, アラウンパヤー, コンバウン, アユタヤ, アッサム, イギリス=ビルマ, イギリス

  • 17

    14世紀以降、Aを破り、Bを併合したCは、Bから自立した国家で、17世紀にタイ史上最大の領域を得た。 Dを国教として繁栄したこの国は(ヒンドゥー教の寺は仏教寺へ)Eの艦隊の来訪を受け、明の冊封を受けた。(明はマラッカ侵攻を抑えたい) F商人(G)が進出し、アジア各地との交易を積極的に行い、日本とのH貿易では、Iが形成された(リゴール太守のJが有名)。 16世紀には、南シナ海〜インド洋の国際貿易を掌握したが、ビルマのKに侵入を受け、一時断絶するも再独立。しかし、ビルマのLによって滅亡した。その後は、ビルマ軍を撃退したMが再統一し、Nをたてたが、暗殺され、部下のO(P)が、都をQにRを建国した。のち、清に朝貢し、独立を維持した。

    アンコール朝, スコータイ朝, アユタヤ朝, 上座部仏教, 鄭和, 華人, 華僑, 朱印船, 日本町, 山田長政, タウングー朝, コンバウン朝, タークシン, トンブリー朝, ラーマ1世, チャクリ, バンコク, ラタナコーシン朝

  • 18

    ラオスでは、13世紀、A人を統一したB王国ができていたが、のちにタイに服属した。Bとは、Cという意味である。

    ラオ, ランサン, 百万頭の象

  • 19

    1293年、ジャワ島に成立したAは、今日のインドネシアに匹敵する規模の領域を支配し、15世紀Bの南海遠征によって、明に朝貢した。 その後はイスラーム教徒の侵入を受け、Cが成立する。が、1510年、2代目インド総督のポルトガル人、Dによって占領されたため、王家は南端のEににげ、E王国を作った。 その後、1641年にはジャワ島がFの領土になり、19世紀に突入するとG協定によりHの領土となった。 なお、E王国はずっと存在し続け、一部はイギリス人、Iの手によってJの領土となったが、現在のKの一員として残っている。

    マジャパヒト王国, 鄭和, マラッカ王国, アルブケルケ, ジョホール, オランダ, イギリス=オランダ, イギリス, ラッフルズ, シンガポール, マレーシア

  • 20

    14世紀から本格的なイスラーム国家としてマレー半島に成立したAは、海上貿易で繁栄した。鄭和の南海遠征に協力し、明へ朝貢していた彼らは、タイのBの支配を脱し、インド洋交易の覇権を握った。ムスリム商人が来朝するとC化し、東南アジアC化の拠点となった。 1511年に、Dによって武力征服されると、その後はEに、Fに支配された。 Aの王家は、Dによる支配ののち、南端にGをたて、ムスリム商人を集めた。ムスリム商人はスマトラ島の南からジャワ島へと抜けるルートを開拓し、(Hを通る)スマトラ島北部のI、ジャワ西部のJ、中部ジャワのKが繁栄した。

    マラッカ王国, アユタヤ朝, イスラーム, ポルトガル, オランダ, イギリス, ジョホール王国, スンダ海峡, アチェ王国, バンテン王国, マタラム王国

  • 21

    ポルトガルは、16世紀インド洋・東南アジアに進出した。 1505年、Aに到達すると(シナモンの産地)、インド洋交易(B商人)を保護するCと対立する。1509年のDでCを破ると、 1510年にEを占領しインド交易の拠点に。 1511年にはFを占領し、G諸島に到達した。その後は、ペルシア湾口のH、AのIを占領している。

    セイロン島, カーリミー, マムルーク朝, ディウ沖海戦, ゴア, マラッカ, モルッカ, ホルムズ, コロンボ

  • 22

    オランダのインド洋・東南アジア進出は、1602年のAの設立から始まる。 B島に進出したオランダは、1619年以降Cを拠点にした。 1623年、D諸島でEと対立するFが勃発し、Eを追放した。(Fはインドへ) 1641年にはGを占領し、1658年にはHを占領した。

    東インド会社, セイロン, バタヴィア, モルッカ, イギリス, アンボイナ事件, マラッカ, セイロン島