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西欧中世の各国史〜自立していく国家〜
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  • 問題数 25 • 8/19/2023

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  • 1

    イングランドでは、1066年、AによってB朝が始まり、Cが即位した。アングロ=サクソン貴族の土地を没収し、Bの貴族に封土として与えた。 また、イングランドにフランスのD制度を導入する。当初から王権が強い、集権的な封建国家がこうして誕生した。 全国の所領は国王によって掌握され、これは検地帳(E)と呼ばれた。 が、1154年にB朝は断絶してしまい、フランス諸侯F伯GがHとしてI朝を創始した。

    ノルマン=コンクェスト, ノルマン, ウィリアム1世, 封建, ドゥームズデー=ブック, アンジュー, アンリ, ヘンリ2世, プランタジネット

  • 2

    プランタジネット朝は、フランス諸侯A伯BがCと名乗り創始された。彼は母からD領を、父からA伯領を、妻からE領をもらっており、フランスのほぼFを領有していた。彼の領土は英仏海峡を挟んでピレネー山脈に至る地域を支配していたため、その様子からGと呼ばれた。 続いて即位したのがH(I)で、第J回十字軍に参戦し、単独でK朝のLと交戦した。講和を成し遂げたが、途上でM大公の捕虜となってしまった。これにより、負担が高まり諸侯の不満が高まる原因となってしまった。 帰国後は、フランス王Nと抗争している。(不慮の戦死) 続いて即位したのが、バカのO(P)だった。 彼はフランス王Nと交戦し敗北。イングランド王権の弱体化と内政の動揺を招いた。(Cの際のフランス領土を奪われまくり、もはやQしか残っていない) また、教皇Rと対立し、破門され屈服した。(S任免権問題で対立) その後は神聖ローマ皇帝とも提携しフランスへの復讐を狙ったが、これも失敗し、貴族の不満は爆発。 1215年にTを承認する事態となった。

    アンジュー, アンリ, ヘンリ2世, ノルマンディー公, アキテーヌ公, 西半分, アンジュー帝国, リチャード1世, 獅子心王, 3, アイユーブ, サラーフ=アッディーン, オーストリア, フィリップ2世, ジョン王, 欠地王, ギエンヌ, インノケンティウス3世, カンタベリー大司教, 大憲章

  • 3

    大憲章(A)は、Bの失政に対し貴族が団結して結んだもので、王に特許を再確認させたものである。「C」 これによって、Dには貴族(高位聖職者と大貴族)の同意が必要となり、不当なE・Fも禁止となった。 また、王権に対する「G」が明文化された。あくまで貴族中心であるから、中世的な革命と言える。 しかし、Bの息子、Hは大陸政策に熱中し、大憲章を無視してDを強行してしまった。1265年、I系の貴族Jは反国王派貴族の指導者となり、Hと対立し武力衝突。これに勝利し、聖職者・貴族に加えK・Lを加えMを行い、国政についてまとめ承認させた。彼はその後Nに敗れ戦死した。

    マグナ=カルタ, ジョン王, 自由の特許状, 課税, 逮捕, 投獄, 法の支配, ヘンリ3世, フランス, シモン=ド=モンフォール, 都市代表, 州騎士, シモン=ド=モンフォールの乱, エドワード1世

  • 4

    ヘンリ3世の次に即位したAは、イギリス統治(内政)を積極的に行った。これは、ヘンリ3世を反面教師にしたものだった。 彼はまず1284年にBを征服すると、続いてCを征服しようとしたが、そのためには軍事費が必要だった。 1295年、彼はDを開く。これは、E・Fの他に、各州のG、H人ずつと各Iの市民のH人ずつが構成した。 こうしてイングランドJが確立した(国民全体の代表とは言えない)。 彼らはK承認権によって王権を牽制した。

    エドワード1世, ウェールズ, スコットランド, 模範議会, 聖職者, 貴族, 州騎士, 2, 都市代表, 身分制議会, 課税

  • 5

    1327年、イギリス国王Aが即位する。 彼は1339年にBを主張しCを始めた。 Aの時代にDは確立したものの(上院のEと下院のF)、彼らは未だ立法権を持たなかった。 騎士は地主となり、地方のGになった。

    エドワード3世, フランス王位継承権, 百年戦争, 二院制議会, 貴族院, 庶民院, ジェントリ

  • 6

    中世フランスでは、カロリング朝断絶後AがB朝を創始した。彼は元々Cの伯で、D人を撃退した実績を持っていた。 1180年には、E(F)が第G回十字軍に参戦する。 彼はHまで到達するも、イングランド王Iと対立し、途中帰国した。 1204年には英王のJを倒しイングランド王のKを奪還した。こうしてフランスでは、王権が強化された。 しかし、彼もまたJと同じくLに破門させられてしまう(離婚問題)。 が、彼はJとは異なり聡明であったため、ちゃんと謝罪し、強行のため南フランスに居たMを排除するNを開始した。そしてM討伐の名目で、力を持つ反抗的な諸侯、Oを打倒し南フランスの支配権を拡大していった。(Pの時代まで)

    ユーグ=カペー, カペー, パリ, ノルマン, フィリップ2世, 尊厳王, 3, アッコン, リチャード1世, ジョン王, 大陸領, インノケンティウス3世, 異端, アルビジョワ十字軍, トゥールーズ伯, ルイ9世

  • 7

    アルビジョワ十字軍を1229年に完了させたのがAと呼ばれたBである。彼は南フランスの制服を完成し、ほぼ全土の支配を確立させた。また、C神学部の学寮(D大学)を創設させ、D大学は中世神学の最高権利となった。 彼は十字軍遠征を行い、モンゴルに宣教師であるEを送ったが、協力要請は失敗し、彼自身も第7回の途上で病死した。(Fで)

    聖王, ルイ9世, ソルボン, パリ, ルブルック, チュニス

  • 8

    Aと呼ばれたBは、イングランドのC・Dを目的にイングランドと交戦した。が、イングランド王Eに勝利することができず、奪還することはできなかった。また、イングランドとの抗争のため、聖職者への課税を強行した彼は、教皇Fと対立してしまう。 1302年には、Gを召集し、H・I・J代表に教皇との対立の際に国王と協力することを約束させた。 こうして、1303年にKを行った。 また、1308年にはLを解散させ、財産を没収している。 こうしてフランスは国家権力を強め、カトリックにとどまりながらフランス教会を王権のもとに組み込む政策を成功させた。この国家教会主義を、Mとよぶ。Nの時代に最高潮。 1328年には、Bの息子Oがなくなり、Pは滅亡した。

    端麗王, フィリップ4世, ギエンヌ, フランドル, エドワード1世, ボニファティウス8世, 全国三部会, 聖職者, 貴族, 平民, アナーニ事件, テンプル騎士団, ガリカニスム, ルイ14世, シャルル4世, カペー朝

  • 9

    カペー朝は1328年に断絶し、AがB朝を創始した。彼は傍系の人物だったが、Cの母イサベルはDの娘だったため、Cは王位継承権を主張した。こうして、Eが勃発した。 しかし、そもそもどちらも領土問題で元から揉めており、フランス側はF地方、G地方を制圧し、イギリスをフランスから追い払いたく、イギリス側は大陸領の回復を狙っていたため、時間の問題だった感は否めない。 F地方は、ヨーロッパ有数のH生産の中心地で、イングランドからのIの輸入に依存している地域だった。 G地方は、Jの生産地で、中心都市Kは有名である。

    フィリップ6世, ヴァロワ, エドワード3世, フィリップ4世, 百年戦争, フランドル, ギエンヌ, 毛織物, 羊毛, ワイン, ボルドー

  • 10

    百年戦争にあたり、戦争は常にフランス領内で行われた。 エドワード3世の長男であったAは英軍のBを指揮し、フランスの重曹騎士軍と十字兵隊を撃破した。 1346年のCの戦いではDが北フランス、アルトワ地方でフランス軍に大勝した。さらに、港市、Eを占領した。 1356年には、Fの戦いでGが中部フランスでフランス軍に大勝した。 こうして、フランス王ジャン2世を捕えることに成功した。 また、フランス国内では深刻なほどにHが流行しており(ヨーロッパ最大被害) 農民反乱、Iも起きていたため、前期の経過はイギリスの優勢であった。 このIは、アダムが耕し、イヴが紡いだ時、誰が領主だったか。とウィクリフの教えを広めたJに影響されたものだった。

    エドワード黒太子, 長弓兵, クレシー, エドワード3世, カレー, ポワティエ, エドワード黒太子, ペスト, ジャックリーの乱, ジョン=ボール

  • 11

    百年戦争は前期、Aが優勢だった。これを受け、B派はイングランドと手を取った。これにより、B派とC派で対立が起き、フランスの勝利は絶望的になってしまう。1420年には、D条約が結ばれ、フランス王シャルル6世にヘンリ5世のフランス王位継承権を認めさせたが、Eでの戴冠を行なっていないため、これは認められなかった。 この鬱屈とした状況を打開したのが、Fだった。イングランド軍によるフランス中部、Gの包囲網をFは破り、北上しEを奪還した。そしてそこで、Hの戴冠を行い、(1431年、Fはルーアンで死去)Iの和約でHがB派と和解したことで、フランス優勢になり、J年にフランスの勝利で百年戦争は幕を閉じた。(つまり正確には114年戦争) イギリスは、K以外の全ての大陸領土を失った。

    イギリス, ブルゴーニュ, アルマニャック, トロワ, ランス, ジャンヌ=ダルク, オルレアン, シャルル7世, アラス, 1453, カレー

  • 12

    百年戦争中に戴冠し、フランス国王となったAは、戦争中に大商人Bを財務官に登用した。(しかし戦争中に失脚)財政改革と、官僚制、常備軍の強化を行った。 続くCは裏切り者の領地、D領を併合し、ほぼ全国統一を達成した。 その次のEは1494年、Fの王位継承権を主張し、G戦争を開始した。 この戦争は、H家対I家の対立も加わり、長期戦争となった。

    シャルル7世, ジャック=クール, ルイ11世, ブルゴーニュ公, シャルル8世, ナポリ, イタリア, ヴァロワ, ハプスブルク

  • 13

    百年戦争中、イングランドではA系のB朝が成立していた。しかし、C家との王位継承争いが起こり、戦後、国内の大貴族は2分される。 こうして起きたのが、D戦争だった。これは、B家とC家の戦いで、のちのイングランド王家の紋章から、D戦争と呼ばれた。 後世の創造によると、B家がE色、C家がF色のバラである。 戦況はCが優勢で、国王をGとしてCが成立。 その後も内紛は続いたが、C朝のリチャード3世を破り即位したHによって、1455年からのI年にわたる戦争は幕を閉じた。(Gの娘と結婚) こうしてJ朝が成立した。

    プランタジネット, ランカスター, ヨーク, バラ, 赤, 白, エドワード4世, ヘンリ=テューダー, 30, テューダー

  • 14

    テューダー朝成立後、貴族間での潰し合いの結果相対的に王権は強化された。 創設者ヘンリ=テューダーをはAと改名し、既存の国王評議会の中に、Bと呼ばれる特別法廷を設け、Cの時代に整備された。AはDなどを起用し、貴族勢力を抑え込み、中央集権化を行った。なお、度量衡や貨幣統一も行なっている。

    ヘンリ7世, 星室庁裁判所, ヘンリ8世, ジェントリ

  • 15

    オットー1世は、神聖ローマ帝国を成立させた。以降、歴代皇帝はAに熱中し、ドイツ統治は疎かになりB(領邦)が台頭した。

    イタリア政策, 大諸侯

  • 16

    1024年、神聖ローマ皇帝の座に座ったのはA朝だった。 A朝のBは、1077年のCで有名で、教皇Dと対立し謝罪した人物である。彼は諸侯と結んだ息子Eの反乱を受け捕えられ退位した。 息子Eは、F年にGを行い叙任権闘争を終わらせた人物として有名である。 1138年からはH朝が成立する。 Iはローマ法に基づく皇帝理念を掲げ、イタリア政策を頻繁に行なった。 彼の時代には、大諸侯が帝国諸侯として自立している。 また、一時的にJを統合したが、Kに敗れ引き返した。 彼は第L回十字軍に参加するも、不慮の戦死をしてしまった。 また、H朝では、Mも有名で、当初はN王であった人物である。彼はNという稀有な土地で、イスラーム文化・カトリック文化・ビザンツ文化の影響をうけ、第O回十字軍ではアイユーブ朝との外交交渉に成功している。ドイツに興味関心が湧かなかった彼は、諸侯・都市の特権を認めた。また、彼もKと戦っている。 しかし1254年、十字軍の呼びかけに叛逆した長男(イスラーム勢力を匿っていた)を殺してしまったことで、後継者が減り、頼みの綱だった次男もすぐに死去してしまう。こうして、H朝は終わりを迎えた。

    ザリエル, ハインリヒ4世, カノッサの屈辱, グレゴリウス7世, ハインリヒ5世, 1122, ヴォルムス協約, シュタウフェン, フリードリヒ1世, イタリア, ロンバルディア同盟, 3, フリードリヒ2世, シチリア, 5

  • 17

    シュタウフェン朝が断絶すると、ドイツではAに突入する(十字軍末期と同時期)。 諸侯間での対立が激化したこの時代、ドイツ皇帝はドイツ以外から選ばれ、ドイツにいないドイツ皇帝、という事実上の無皇帝時代に突入した。しかし、B家のCが即位すると集結する。彼は即位後、多くの領土を手にした。 B家を危険視した他諸侯は1356年、D朝のEの時代にF(G)を締結。七人の選帝侯による、皇帝選出が決まった。(H伯、I公、J王、K辺境伯の4諸侯と、L、M、Nの3人の大司教。Bはいない)しかし、1438年からは東方のオスマン帝国を警戒し、B朝が世襲した(O以降)しかし、皇帝に対する領邦君主の優位が法的に確認された。

    大空位時代, ハプスブルク, ルドルフ1世, ルクセンブルク, カール4世, 金印勅書, 黄金文書, ファルツ, ザクセン, ベーメン, ブランデンブルク, ケルン, マインツ, トリーア, アルブレヒト2世

  • 18

    ドイツ人は、スラヴ人やマジャール人を同化、吸収しA川以東への東方植民を解放した。(B修道会など)これはC人との対立を招いた。 12世紀には、中心がDであるEを神聖ローマ皇帝が成立させ、15世紀からはF家が支配した。 13世紀、バルト海沿岸にはGが建てられたが、H人との対立を招き、Iの戦いでJ朝に敗れ15世紀には臣従した。 のちのオーストリアであるKは、対マジャール人のために建設され、13世紀以降ハプスブルク領となった。

    エルベ, シトー, スラヴ, ベルリン, ブランデンブルク辺境伯領, ホーエンツォレルン, ドイツ騎士団領, ポーランド, タンネンブルク, ヤゲウォ, オストマルク

  • 19

    北イタリアでは、イタリア政策による被害を喰らっていた。皇帝党のAと教皇党のBは国を二分させるように対立した。

    ギベリン, ゲルフ

  • 20

    フィレンツェでは、1494年、フランス王シャルル8世によってイタリア遠征が行われた。同年にはドミニコ会の修道士、Aがフランス軍の侵入に乗じてメディチ家を追放し神聖政治を行なった。が、98年には火炙りにされ、共和政治が復活しBが外交官として活躍した。1527年には、皇帝軍が侵入しCを行なった。

    サヴォナローラ, マキァヴェリ, メディチ家の再追放

  • 21

    南イタリアは、中部イタリアの教皇領によって、北イタリアとは全く異なる歴史を歩んだ。 1130年からA人によって建国されたBは、Cがシチリア・ナポリ王位を継承した巨大国家となった。 12世紀からはドイツのD家に支配を受ける。(Eがシチリア王) その後はフランスのF家が支配を確立し、1282年のGは有名である。この時に、反乱を援助したH家がシチリアを支配し、シチリアはナポリと分裂。15世紀半ばにナポリをHが制圧するも、16世紀にはスペイン王位を継いだI家のものとなった。

    ノルマン, 両シチリア王国, ルッジェーロ2世, シュタウフェン, フリードリヒ2世, アンジュー, シチリアの晩鐘, アラゴン, ハプスブルク

  • 22

    415年からイベリア半島を支配していたAも(都B)、イスラーム教徒の侵入を受け、北アフリカからC朝の侵入を受ける形で、711年Aは滅亡した。 その後は756年からD朝(都はE)に、1056年からF人の支配を受けた。(G朝→H朝) この支配に対する国土回復運動が、レコンキスタである。 初期は、西ゴート貴族が先住民と同化したI王国(のちにJ王国)と改名、半島北東部のK王国が成立していた。 11世紀には、J王国を併合したL王国がMを奪還するも、G朝に敗北した。 同じく11世紀には、N王国が登場し、K王国、L王国、N王国は連合を組み、G王国を破った。 L王国は、これでOを奪還している。 また、L王国から1143年に分離独立したP王国も、13世紀までにレコンキスタを完成させ、大航海時代の担い手となった。 1479年位は、L王国、N王国が合体しQ王国として成立した。 これは国内のペストによる混乱を抑えるため、Lの王太子RとNの王女Sが結婚し成立した共同統治国家だった。

    西ゴート王国, トレド, ウマイヤ朝, 後ウマイヤ朝, コルドバ, ベルベル, ムラービト朝, ムワッヒド朝, アストゥリアス, レオン, ナバラ, カスティリヤ, トレド, アラゴン, コルドバ, ポルトガル, スペイン, フェルナンド, イサベル

  • 23

    A年、ついにレコンキスタは完成される。B朝の都Cは、征服されたのである。

    1492, ナスル, グラナダ

  • 24

    中世では、北欧3国(A、B、C)はD(B連合王国)として成立した。これは、Bの王女Eによって形成された同君連合だった。なお、1523年、CのFが抜けたことで解消された。

    ノルウェー, デンマーク, スウェーデン, カルマル同盟, マルグレーテ, グスタフ1世

  • 25

    スイスでは、1291年以降A家からの独立を目指しており、独立戦争を開始(B同盟)1499年にはC戦争でA家を撃退し、D年のEで独立が承認された。

    ハプスブルク, カルマル, シュワーベン, 1648, ウェストファリア条約