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欧米近現代史〜世界恐慌から第2次世界大戦〜
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  • 1

    世界恐慌は、アメリカの保護関税政策、そして各国の経済回復による貿易の縮小と、アメリカ国内での要因がある。 まず、大戦直後からAが下落したことがあり、これにより農民はすでに貧困化していた。(怒りの葡萄) また、アメリカでは輸出を見込んだ生産Bに陥っていた。こうして、企業の業績が悪化し、農業恐慌が起き、機械化によって失業者が増加した。 その上、景気が上がりに上がったことで、株価が異常に高騰したことも原因であった。 1929年10月24日、暗黒の木曜日といわれたこの日、C株式市場(D街)で株価が大暴落し、世界恐慌が起きる。アメリカでは大量の失業者が増え、影響はヨーロッパに波及した。1929年から大統領であったフーヴァーは、不況の長期化の理由が海外にあるとした。 1930年のストームホーリー関税法(農産物価格引き上げ!?)ののち、31年におこなったフーヴァーモラトリアムは、各国政府間の支払い義務をE年間停止した。が、決定の遅さからほとんど効果はなかった。こうして、世間は自国中心の経済、Fが高揚した。

    農産物価格, 過剰, ニューヨーク, ウォール, 1, 経済ナショナリズム

  • 2

    フーヴァーののちに大統領に就任したA党のBは、アメリカ経済の立て直しのため、3つのRであるC、D、Eを掲げ大統領選に勝利し、F(G)を行い連邦政府の積極的介入をおこなった。なお、このEはのちにイギリスのHが理論化し、 I政策と呼んだ。

    民主, フランクリン=ローズヴェルト, Relief, Recover, Reform, ニューディール, 新規まき直し, ケインズ, 修正資本主義

  • 3

    ニューディール政策は、前期と後期に分かれ、最初の100日間と呼ばれた前期では、国内での原因の解決をとにかく目指した。 ①まずは独占資本の影響力を弱め、中小企業を救済するため、A(B)を行い、工業における企業間競争の規制などを実施した。また、労働者のC・団体交渉権を承認したり、最低賃金制度も採用した。(労働者の購買力の低下を改善) ②農業恐慌を踏まえ、(戦争終結による農産物の需要低下)農業生産の制限と国家によるD生産物の買取で農民を救済するE(F)をおこなった。 ③また、ダム建設、発電等のGによるHの救済、ダム建設によるIの低下を目指すJ(K)をおこなった。 ④Lを停止し、管理Lをおこなった。

    全国産業復興法, NIRA, 団体権, 過剰, 農業調整法, AAA, 公共事業, 失業者, 電力価格, テネシー川流域開発公社, TVA, 金本位制

  • 4

    前期(35年まで)のニューディール政策は、自由に反するとされ批判された。A法、B法は35年にCをうけ、大統領選勝利のため、ローズヴェルトは政策を転換。大衆向けに改造した。 35年、上院議員のDがD法を提案し、A法の労働者の権利の部分を分割立法化した。そして、労働者の団体権・団体交渉権という権利の部分を拡大化した。 また、38年にはE(F)で自動車・鉄鋼産業などのG労働者を組織化した。 そのほかには、35年、保険金や退職金、老年年金の支給を保障したHを出した。(Iがないことで有名。のちにJ大統領、K大統領が拡大化) 36年には新農業調整法も施行した。

    全国産業復興, 農業調整, 違憲判決, ワグナー, 産業別組織会議, CIO, 非熟練, 社会保障法, 医療保険, ジョンソン, オバマ

  • 5

    ローズヴェルトの外交は、A外交と呼ばれた。これは植民地間の一体化を狙い、ヨーロッパからのブロックを目指すものだった。しかし、Aという通り、あくまで植民地ではなく友好関係のある独立国同士であることに注意。(実態は主従関係)これを、B=ブロックと呼ぶ。 34年にはCを廃止し、Dの独立を承認した。 また、ヨーロッパに対して孤立主義政策を強め、国際協調路線をやめた。33年には輸出拡大のためにEの承認をおこなったものの、大した成果は得れなかった。35年には、交戦国への武器・軍需品輸出を禁止し、Fを施行した。(翌年Gも禁止) 植民地政策としては、34年にHを可決し、10年後の完全独立を約束した。(戦時中なので無理)

    善隣, ドル, プラット条項, キューバ, ソ連, 中立法, 借款, フィリピン独立法

  • 6

    イギリスは、世界恐慌の流れを受け、A内閣(B党)は失業者の拡大を受け混乱していた。Aは成立直後に恐慌に直面し、緊縮財政政策をとった。(金を労働者に渡して国家を破綻させるか、国家を保つために労働者を救わないか。Aは後者を選んだ。Cを削減)しかし、労働組合からの猛反発を受け、党の考えとも合わなかったため総辞職になった。 31年には、Aが挙国一致内閣として復帰し、AはD党の一員であった。なお、B党からは除名されている。 A挙国一致内閣は31年にEを停止し、ポンド安による国家財政の回復に成功した。 また、同年Fを提出し、Gを法制化した。(26年のH会議における構想を法制化) また、翌年には自由貿易を放棄する輸入関税法をおこなった。 32年には、ブロック経済を採用するI会議を行い、J=ブロックを形成した。本国と自治領とを、K制度などで結びつけた。

    マクドナルド, 労働, 失業保険, 保守, 金本位制, ウェストミンスター憲章, イギリス連邦, イギリス帝国, オタワ連邦, スターリング, 特恵関税

  • 7

    イギリス連邦を構成する7カ国は、イギリス本国、A、B、C、D、E、Fである。

    オーストラリア, ニュージーランド, カナダ, アイルランド自由国, ニューファンドランド, 南アフリカ連邦

  • 8

    世界恐慌を受け、フランスはA=ブロックを形成した。ベルギー、オランダとともに形成したこのA=ブロック(別名Bブロック)は、Cを維持している点でイギリスやアメリカと異なり、これは貿易赤字によるものだと思われる。 また、不況の本格化により、右翼勢力が勢いを強めたフランスは、D党とE党が統一行動協定を結び、のちにF党も加わり、D党党首をトップに置いたG内閣を作った。これが、初めてのH政府になった。 なお、Hとは、35年のIで採択された、反ファシズム勢力の戦術である。中国ではこれを受け、Jが行われている。

    フラン, 金, 金本位制, 社会, 共産, 急進社会, ブルム人民戦線, 人民戦線, コミンテルン第7回大会, 八・一宣言

  • 9

    1920年に成立したAは、正式名称をB党という、右翼政党である。C党から改称して成立し、21年にDが党首となった。 彼らの主張は、E体制の打破、反F主義や反G主義、そしてオーストリアの合併などのH国家の建設であった。 23年には、Iを行ったが、(J占領、インフレーションへの不満から)鎮圧され、Dは獄中でKを口述筆記。こうして、武装蜂起による政府転覆ではなく、選挙による議会進出を狙うようになる。 21年には直接行動部隊、Lが結成され、23年には秘密警察組織、Mが結成された。(Lは別名N、Mは別名O) しかし、ドーズ案以降は国民の国家への不満は次第に収まり、支持率は減っていった。

    ナチ党, 国民社会主義ドイツ労働者, ドイツ労働者, ヒトラー, ヴェルサイユ, ユダヤ, 共産, 大ドイツ, ミュンヘン一揆, ルール, 我が闘争, 突撃隊, 親衛隊, SA, SS

  • 10

    ドイツは世界恐慌の影響を最も早く、最も強く受け、失業者が30年から32年の2年間で2倍のA万人になった。 政権は混乱し、30年から32年の間はブリューニング内閣がデフレ政策で賠償金支払い停止を目論んだが、失業者増加の直接要因になってしまった。 32年のB会議で賠償金の支払い軽減は達成したものの、国民の間の失望感は広がり、C党とD党が台頭した。保守派や中間層はB党を好み、(30年の選挙ですでに第2党)32年に当選したEは、C党を最大の脅威と考えた。F月の選挙でC党は第1党となっていた。Eは内閣を次々に任命していったものの、政局は混迷し、ついに33年1月、C党のG内閣が成立した。軍部や大資本家の支援によって成立したGは、直ちに議会をHし、D党の弾圧をおこなった。33年のうちに起きたIを口実にD党の弾圧に成功し、選挙で圧勝。D党は非合法化され、議席を剥奪された。また、そのほかの政党も引き込み、全議席の3分の2を獲得した。

    600, ローザンヌ, ナチ, 共産, ヒンデンブルク, 7, ヒトラー, 解散, 国会議事堂放火事件

  • 11

    ヒトラーは自身の就任後、ドイツをA帝国であるとした。33年のBで、ヒトラー政権にCを委ね、違法な憲法でも合法化できるようになった。こうして一党独裁体制を確立する最終段階として、ナチ党以外全てのDを活動禁止し、労働組合も解散させ、中央集権体制に移行した。 34年6月のレーム事件ではナチ党の急進派や保守党の有力者を暗殺し、突撃隊だったレームを抑えた親衛隊の立場の地位が向上した。34年8月、Eの死によってヒトラーは大統領職を兼任。F(フューラー)に就任し、G、H、I、Jの全権を掌握した。

    第三, 全権委任法, 立法権, 政党, ヒンデンブルク, 総統, 大統領, 首相, 党首, 軍最高司令官

  • 12

    ヒトラー独裁下の33年、国家秘密警察Aが創設された。34年にBが実権を握ると、恐怖政治のシンボルとなった。 また、ヒトラーは失業対策政策を行ったが、これがうまくいった。 まず、公共事業(C建設など)で失業者を吸収し、軍備拡大計画や、休暇旅行なども政策としておこなった。 36年には、D最優先のEを、責任者をFとして行い、スローガンはGであった。 同年には国民意識の高揚のため、Hを行っている。

    ゲシュタポ, ヒムラー, アウトバーン, 軍事, 四カ年計画, ゲーリング, バターより大砲を, ベルリン=オリンピック

  • 13

    ドイツ人のユダヤ人迫害は、35年のA法以降より強くなった。A法は反ユダヤ主義を法制化し(反セム主義)ユダヤ人のB追放やドイツ人とのC禁止などを定義した。ゲシュタポはユダヤ人迫害を強めたほか、38年にはDという恐怖の事件も起きた。なおこのユダヤ人集団迫害をEと呼ぶ。 ユダヤ人は、Fに強制移住されるようになり、アウシュヴィッツなどで大量虐殺ーホロコーストーをされた。 ユダヤ系物理学者として有名なG、ユダヤ系精神学者として有名なH、ドイツ人作家としてユダヤ人迫害を批判したIなどはこの動きを受けて亡命している。 ユダヤ人の他にJも迫害の対象とされた。

    ニュルンベルク, 公職, 通婚, 水晶の夜, ポグロム, ゲットー, アインシュタイン, フロイト, トーマス=マン, ロマ

  • 14

    ヒトラーは33年の就任後、8月にはAを脱退した。これは、Bに次ぐ脱退で、経済制裁を避けるためのものであった。 なお、これに対抗し翌年9月にCがフランスと関係を強め、加盟している。 また、33年中には、賠償金のDを一方的に宣言した。 35年にはEを編入し、これが最初の領土拡大となった。(ヒトラー下) E内のFで91%の圧倒的な支持を得たことを理由とした。 同年には、Gの復活、Hの保有などを強行するIを行った。 各国ではこれを受け、J戦線を実施したが、思惑の違いから完全に抑えることができなかった。(イタリアがKを起こしたことで解散) また、同年5月にフランスとソ連でLが締結され、ソ連はMでN戦術を採択した。 しかし、イギリスはどうせ自分のところにはこないだろうという判断から、宥和政策をとり、ドイツとOを結んだ。 ドイツの再軍備は容認され、翌年3月Lを口実にPへ進駐した。これはQ、Rを破棄したものであったがイギリスの宥和政策で認められ、フランスも渋々黙認した。

    国際連盟, 日本, ソ連, 不払い, ザール地方, 住民投票, 徴兵制, 空軍, 再軍備宣言, ストレーザ, エチオピア侵攻, 仏ソ相互援助条約, 第7回コミンテルン大会, 人民戦線, 英独海軍協定, ラインラント, ヴェルサイユ条約, ロカルノ条約

  • 15

    36年から起きたスペイン内戦は、AによるB朝の崩壊から始まった。右派と左派の対立が激化したスペインでは、36年2月にC内閣が成立し、Dが大統領に就任した。反共和派の軍人EはFで反乱を起こし、これに各国が加わったことで大きな戦乱になった。 ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニはE側に立ち、自国の戦力確認の実験台として利用した。 特に、ヒトラーがおこなったGは悲惨で、これを受けHはIを描いた。 そのほかに、ポルトガルの独裁者JもE側を支援した。 一方、C側についたのがソ連とKで、Kに参加したL、M、Nの三人は作家としてスペイン内戦について書いた人物で、アメリカのLはO、フランスのMはP、イギリスのNはQについて記した。 内戦は、Rの陥落とともにEが勝利を収め、S党が一党独裁体制をする形で終わりを遂げた。 なお、戦争に参加しなかったスペインは、T年まで独裁体制を維持している。

    スペイン革命, ブルボン, 人民戦線, アサーニャ, フランコ, モロッコ, ゲルニカ爆撃, ピカソ, ゲルニカ, サラザール, 国際義勇軍, ヘミングウェイ, マルロー, オーウェル, 誰がために鐘は鳴る, 希望, カタロニア讃歌, マドリード, ファランヘ, 1975

  • 16

    35年の9月にAをおこなったイタリアは、翌年にBを併合。 36年にフランコ支援で関係を深めたドイツとCを結んだ。 また、D以降孤立していた日本とドイツはEを結び、37年に対共産主義を名目にFを結ぶことで、3国は関係を強くし、同年にはイタリアもGを脱退している。

    エチオピア侵攻, エチオピア, ベルリン=ローマ枢軸, 満州事変, 日独防共協定, 日独伊三国防共協定, 国際連盟

  • 17

    ドイツは、37年11月以降、ドイツ人移住区域である東ヨーロッパ地域の併合を表明した。 まず、38年3月にAを併合することを決め、38年9月にはAとチェコスロヴァキアの国境地域であるBの割譲を要求。 各国はCでBの処遇を決めるが、イギリス首相D、フランス首相Eが宥和政策をとったことで、チェコスロヴァキアの意思は関係なく占領は認められ、ヒトラーはこれを最後の領土的要求と述べた。 39年にはBを奪われたことで対澳防衛が十分でなくなったチェコスロヴァキアはFされ、西のチェコがG・H保護領として併合され、東のスロヴァキアは保護国化された。 リトアニアにあったIも、ドイツ人居住地であったため併合されている。

    オーストリア, ズデーテン地方, ミュンヘン会談, ネヴィル=チェンバレン, ダラディエ, 解体, ベーメン, メーレン, メーメル

  • 18

    39年3月にAの陸上交通路要求をおこなったドイツは、Bの返還とAにおける鉄道、道路建設権を要求した。 ポーランドはドイツの要求を拒否し、英仏もポーランドの安全保障を約束した。 この一件に便乗し、イタリアはCを併合し、ドイツ=イタリア軍事同盟が結ばれ関係を強めた。 8月23日、ドイツはDを結び、Eの分割とFなどでの勢力範囲を制定した。 こうして、9月1日、ドイツはEに侵攻し、9月3日に英仏はドイツにFした。こうしてWW2が始まった。

    ポーランド回廊, ダンツィヒ, アルバニア, 独ソ不可侵条約, ポーランド, バルト三国

  • 19

    ポーランドは、ドイツのAにより3週間で壊滅し、ドイツに続いてソ連も侵攻したことで、もう完全に壊滅した。その後ソ連はBにも侵攻し、続いてCにも侵攻した。これをDという。国際連盟はソ連をEしたが、これは先にも後にも一回きりである。この頃、英仏が無言を貫いたことから、Fと呼ばれている。 4月にドイツはG・Hに侵攻し、翌月にI・Jに侵攻。その後北フランスにも侵攻し、ダンケルクで逃亡した。 その後Kがドイツ側で参戦し、その4日後にドイツ軍はLを占領。フランスは降伏し、対ドイツ協力内閣、Mが成立し、首班はNであった。 なお、5月からイギリスはO内閣が成立し、徹底抗戦を決定。副首相はPであった。フランス人のQはロンドンに亡命しRを作り、S運動を指導した。

    電撃戦, バルト三国, フィンランド, ソ連=フィンランド戦争, 除名, 奇妙な戦争, ノルウェー, デンマーク, ベルギー, オランダ, イタリア, パリ, ヴィシー政府, ペタン, チャーチル, アトリー, ド=ゴール, 自由フランス政府, レジスタンス

  • 20

    1940年7月、ヒトラーが実行したAはバトルオブブリテンと呼ばれた英独の戦いで、イギリスはどうにか守り切った。 ドイツの軍事成功を経て、9月にはBが成立し、のちにハンガリー、ルーマニア、スロヴァキア、ブルガリアがドイツ側で参戦した。 同月には日本軍がCに進駐し(Dの降伏を契機に)、アメリカとの対立を深めた。 41年5月には南進政策を進めたい日本がEに調印し、相互不侵略を約束した。前月の4月から、日本はFを受けていたが、7月のGで対立を強め、ついにHの禁止が決定する。日本の軍部は、この状況を造語、「I」と述べた。 日本ではこれを機に近衛文麿内閣が総辞職し、東条英機内閣が成立し、対米開戦を決意した。アメリカのJを蹴った日本は、交渉を決裂させた。

    ロンドン空襲, 日独伊三国同盟, 北部仏印, フランス, 日ソ中立条約, 日米交渉, 南部仏印進駐, 石油輸出, ABCD包囲網, ハルノート

  • 21

    アメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルトは、41年1月にAを宣言し、3月にはBを成立させ、中立法を改正し孤立したイギリスの支援に回った。41年まで行われたドイツのC制圧で、ドイツはソ連と対立を深め、抵抗したD・Eを占領した。ソ連はその頃Fを締結し、EのGはH闘争をおこなった。41年6月のIでドイツとソ連は開戦し、(バルバロッサ作戦)北部ではJ近郊に達し、11月にはK近郊まで到達した。 41年にLでイギリスとソ連は提携し、42年にはMを結び強化した。12月8日には真珠湾攻撃が起き、ドイツ、イタリアも対米宣戦。 以降、日本は東南アジアをほぼ制圧。まずイギリス領のN、Oを占領。そしてPも占領。その後は石油資源を得ることができるオランダ領のQ、Rを占領。アメリカ領のS、、イギリス領のTを占領して、大東亜共栄圏を提唱した。

    四つの自由, 武器貸与法, バルカン半島, ギリシア, ユーゴスラヴィア, 日ソ中立条約, ティトー, パルチザン, 独ソ戦, レニングラード, モスクワ, 英ソ相互援助条約, 英ソ軍事同盟, マレー, 香港, シンガポール, ジャワ, スマトラ, フィリピン, ビルマ

  • 22

    42年1月、連合国26カ国は反ファシズム対応のAを提唱。これを受け、存在意義をなくしたBは43年5月に解散している。 42年になると日本はCで敗北。ソロモン諸島のDの争奪戦を開始したものの、結果、日本軍が撤退した。 ドイツはEをはじめ、43年に敗北する。イタリアは11月にFに上陸され、43年にはGにまで上陸され、ムッソリーニが失脚しHが誕生し無条件降伏するなど、3国とも敗北への道を強めた。 その後の44年には、連合軍がIでJ上陸作戦を決定し、最高司令官のKが成功を収める。 連合軍はLを解放し、ソ連はソ連で東欧に侵攻しM、N、Oと次々と侵攻。 連合軍のドレスデン大空襲ののち、ソ連軍がPを陥落させ、ヒトラーの自殺後すぐドイツは無条件降伏した。 日本は日本で、44年6月にQを陥落し、本土空襲を本格的に受け、その後Rを攻略され、フィリピン制空権を奪回。フィリピンは45年1月に奪われた。その後は沖縄戦、原爆投下、ソ連の対日参戦と被害を受け、無条件降伏した。

    連合国共同宣言, コミンテルン, ミッドウェー海戦, ガダルカナル島, スターリングラードの戦い, 北アフリカ, シチリア島, バドリオ政権, テヘラン会談, ノルマンディー, アイゼンハワー, パリ, ポーランド, ルーマニア, ブルガリア, ベルリン, サイパン島, レイテ島

  • 23

    第2次世界大戦中の連合国は、A、B、C、D、E、Fの6つの会談をおこなった。

    大西洋上会談, カサブランカ会談, カイロ会談, テヘラン会談, ヤルタ会談, ポツダム会談

  • 24

    大西洋上会談は、イギリス軍艦で開催され、AとBが会談を行い、Cを作りDの再建を表明した。 カサブランカ会談は、Eのカサブランカで行われ、FとGが会談をおこない、対ドイツ無条件降伏を目標とした。また、まずはイタリアを狙おうと決めたのもこの会談で、これを元にH、Iへの上陸を決意した。 カイロ会談は、エジプトのカイロで行われ、J、K、Lが会談を行い、Mを作り中国にN、O、Pを返還しQを独立させることを定めた。

    フランクリン=ローズヴェルト, チャーチル, 大西洋憲章, 国際平和機構, モロッコ, フランクリン=ローズヴェルト, チャーチル, 北アフリカ, シチリア島, フランクリン=ローズヴェルト, チャーチル, 蒋介石, カイロ宣言, 満州, 台湾, 膨湖諸島, 朝鮮

  • 25

    テヘラン会談は、Aのテヘランで行われ、B、C、Dが会談に参加した。これで、独ソ戦に続くドイツへの対英仏戦線であるE問題について協議する。また、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦についても話し合った。この話は、B、C、Dそれぞれの思惑から膠着した。 ヤルタ会談は、F半島のヤルタで行われ、G、H、Iが会談に参加した。Jが作られ、ドイツのK、敗戦後のLカ国による共同管理、そしてドイツのM化、ドイツ戦犯の裁判、N、Oの新政権樹立を定め、またソ連の対日戦線が決定した。(米ソ秘密協定) ポツダム会議は、ベルリン郊外のポツダムで行われ、P、Q→R、Sが参加した。会談中にPとSが対立。Tが作られ、その後ポツダム宣言として米英中が共同で宣言した。

    イラン, スターリン, フランクリン=ローズヴェルト, チャーチル, 第二戦線, クリミア, フランクリン=ローズヴェルト, チャーチル, スターリン, ヤルタ協定, 無条件降伏, 四, 非武装, ポーランド, ユーゴスラヴィア, トルーマン, チャーチル, アトリー, スターリン, ポツダム協定

  • 26

    ポツダム宣言は、アメリカ、イギリス、中国の共同宣言として宣言され、8月8日にAが参加した。これによって、日本の無条件降伏そして領土を本土4島に限定し、戦後の連合国占領と戦犯裁判を開くことを決めた。

    ソ連

  • 27

    37年7月7日のA郊外で起きたBを皮切りに、日中両軍は武力衝突しC戦争が始まる。12月に日本軍はDを占領し、蒋介石は国民政府をEに移した。38年に日本軍はE、Fを占領し、蒋介石はGに政府を再度移した。(H省)左派のIはGを脱出し日本側に入った。 この頃、近衛文麿はJと呼ばれる日本・満州・中華民国の3国提携をうたった。 39年にはKで日本とソ連が軍事衝突。日本は敗北し、日米修好通商条約を破棄し東南アジアへと方向転換した。この39年に危機感を感じたソ連は、挟撃を避け、同じく挟撃を避けていたドイツとLを結んでいる。

    北京, 盧溝橋事件, 日中, 南京, 武漢, 広州, 重慶, 四川, 汪兆銘, 東亜新秩序, ノモンハン事件, 独ソ不可侵条約