問題一覧
1
第1次産業革命は、A世紀後半、Bで始まり、19世紀には他国へと拡大した。動力をCとしたこの革命では、主工業は、Dであった。しかし、第2次産業革命の時代(E世紀後半)になると、軽工業から重工業へと生産が移り、新たな動力としてF、Gが生まれる。第1次産業革命の中心国だったBはその地位を失墜させ、逆にH、Iがリードした。
18, イギリス, 石炭, 木綿, 19, 石油, 電力, アメリカ, ドイツ
2
A戦争で大量の資金を得たプロイセンのBは、重工業にその大半を使った。が、2年でその全てが失われると、相対的にドイツの経済が失速。実際、景気は気分なのである。 また、アメリカではその頃、Cが作られ、アメリカの国力が上昇。ヨーロッパとアジアを繋ぐDの開通、E船の出現が、安い農産物の入手を可能にする。これは良いことが多かった反面、ヨーロッパ農業不況を巻き起こした。こうして起きたのが、F年の恐慌とも呼ばれる、19世紀末大不況である。
普仏, ビスマルク, 大陸横断鉄道, スエズ運河, 蒸気, 1873
3
19世紀末、Aが登場する。Bの業種の会社が協定を結ぶC、Bの会社が吸収、合併を行うD、Eの企業が単一の資本に集まるFの3パターンが生まれたが、そのうちFでは、こうしてできた親会社がGと呼ばれた。これらは国家と結びつき、余剰資本を海外に売りたいと言い出した。これが、列強の対外政策、Hへとつながった。
独占資本, 同一, カルテル, トラスト, 多種, コンツェルン, 金融資本, 帝国主義
4
ヨーロッパの19世紀末から20世紀初頭にかけての素晴らしい時代は大戦後古き良き時代として捉えられ、なんと呼ばれたか?(フランス語)
ベルエポック
5
A(国名)生まれのB人、Cは著作DのうちでE主義への移行の意義を説いた。彼のそうした考えの中心となったのがFという考え方で、彼は階級闘争の発展の形態を、G主義→H革命→I主義→J革命→K主義とした。これをL説と呼ぶ。
ドイツ, ユダヤ, マルクス, 資本論, 社会, 唯物史観, 絶対, ブルジョワ, 資本, 社会主義, 社会, 発展段階
6
19世紀半ばにはAを背景に世界のBであったCは、その勢いからD帝国と呼ばれた。時代を背負ったE女王は、F年(およそG戦争やH戦争の時代)〜I年までCの栄華を牽引した。世界一の工業国という立場からJ貿易を推進させ、1851年にはKを開く(チャーチスト運動の抑制に成功)、世界初の鉄道であるLを開く(各国より30年はやい)などで高い経済力を誇示し、その経済力、および付随する海軍力を背景に「M」政策をとった。1873年の不況以降は世界のBの立場をなくしたものの、今度は貯めていたお金で世界のNの立場を手にした。ロンドンのOはその中心となった。
第1次産業革命, 工場, イギリス, 第2, ヴィクトリア, 1837, エジプト=トルコ, アヘン, 1901, 自由, ロンドン万国博覧会, メトロポリタン鉄道, 光栄ある孤立, 銀行, シティ
7
名誉革命後のイギリスでは、選挙権の拡大が長らく行われず、A運動が起こっていた。当時は地主しか選挙権を持っていなかったのである。 指導者B率いる地主・貴族を支持基盤とするC、指導者D率いる資本家を支持基盤とするEの2大政党が国家を形成していた。Cが植民地の拡大を目指したのに対して、資本家を支持基盤としていたEは、支配に金を使うのを恐れ内政を重視しようとしていた。このような考えの対立から生まれた言葉が、F主義とG主義である。
チャーティスト, ディズレーリ, 保守党, グラッドストン, 自由党, 大英国, 小英国
8
1868年、英国の首相となったAは、70年にBを制定し、初等教育を制度化した。その10年後に義務化している。 71年には初めてCを合法化するC法を作った。 80年からの第2次内閣では、D労働者、E労働者に選挙権を付与する、第F回選挙法改正を行う。彼はこれら含めG回首相となっている。
グラッドストン, 教育法, 労働組合, 鉱山, 農業, 3, 4
9
1908年から8年間イギリス首相だったAは、B党の人物として、蔵相Cを活躍させ、D党と協力して社会改革を実施した。1911年には労働者保護政策、Eを施行する。アイルランドからの支持を得ようとしていたB党は、Fの優越を確立させるGを可決させた。(アイルランドの自治権運動と重なって)
アスキス, 自由, ロイド=ジョージ, 労働, 国民保険法, 下院, 議会法
10
アイルランド問題は、Aによる征服から始まった。アイルランドは土地をイギリスに盗られ、1840年半ばのBでアメリカ等への移民が増え、アイルランドは人口が半減。こうして高まった不満によって、イタリアの影響を受け、Cを中心に立ち上がったDが一番槍となり、その後は秘密結社Eが出てきた。それらはどちらも、武装蜂起をする過激独立運動団体であった。それぞれ弾圧され、次に立ち上がったのが指導者Fを中心に立ち上がったGで、これは政党であり、プラス自治獲得を目指した公式団体である。彼らの支持を得ようと、自由党のHは1870年にIを制定し土地問題の解決を図るが、自治権を要求していたアイルランドはそれでも止まらず、1886年にはJ案を出す。しかし、2度とも不成立であり、アイルランドの不満は強大化。独立運動の気運が高まる事態となった。なお、この自由党のHの動きで自由党内は分裂し、Kが抜ける事態となった。
クロムウェル, ジャガイモ飢饉, オブライエン, 青年アイルランド党, フィニアン, パーネル, アイルランド国民党, グラッドストン, アイルランド土地法, アイルランド自治法, ジョゼフ=チェンバレン
11
アイルランドは独立運動が急速化し、1905年にはAが結成(Aは我々自身という意味)、完全独立を主張する非武装党である。1914年、B内閣のC法でDの優越が定まりついにEが成立する。しかし、これもまたとまってしまう。Fの勃発によってである。Fの最中、アイルランドではついに武装蜂起が起こってしまう。これがGである、なお、この事件にAは関わっていない。鎮圧したものの、イギリスもアイルランドをどげんかせんといかんと気づき、1918年にAが第1党になると、アイルランドはイギリス議会への出席をやめ、党首Hが独立を宣言。イギリスも無視できず、1920年に国教会の多い北アイルランド以外の自治権を認めた。こうして、1926に首相HのIが成立する。イギリス連邦内の自治権としての立場を手にしたのである。が、1937年にはアイルランドは完全独立を宣言し、国名をJに変える。WW2の対ドイツ戦争に参加せず、1949年、WW2が終わりイギリスの立場が弱まると、正式に独立しKとなった。
シン=フェイン党, アスキス, 議会, 下院, アイルランド自治法, 第1次世界大戦, イースター蜂起, デ=ヴァレラ, アイルランド自由国, エール, アイルランド共和国
12
イギリスでは、1884年から社会主義運動が広まる。1884年、マルクス主義の革命を通じた社会主義改革を実現しようとしたA、同年に革命ではなく、労働者の権利を広げようとしたB(指導者はC、D)1893年には指導者Eを中心とし、Bと同じく労働者の議会進出による漸進的達成を目指したFが成立する。 G年、H(A、B、Fと65の団体の代表者が合体)が結成され、1906年の総選挙でI議席獲得する。同年に初代党首にEを掲げ、初代委員長をJが務めたKが作られる。(正確にはHが改名)なお、Aはこの際に革命を起こしたいという理由から不参加である。
社会民主連盟, フェビアン協会, ウェッブ夫妻, バーナード=ショー, ケア=ハーディ, 独立労働党, 1900, 労働代表委員会, 29, マクドナルド, 労働党
13
[補足です]長らく続いたアイルランド宗教問題 1801年に行われたAは、イギリスをB連合王国にした。すると、アイルランド出身のCが下院議員として当選し、宗教問題が表面化する。1828年に審査法が廃止され、Dを除くEの公職就任が可能となると、その翌年には Fが制定し、Dの公職就任も可能になった。
アイルランド併合, 大ブリテン=アイルランド, オコンネル, カトリック, 非国教徒, カトリック教徒解放法
14
イギリス選挙法改正への道のりは、3段階に分けられる。 1832年、Aを代表とする中産階級へ参政権を広げたホイッグ党のBが1段階目、 1867年、C内閣下のD党がE労働者へ選挙権を与え、84年にはF内閣下のG党がH労働者、I労働者などほぼ全ての労働者へ選挙権を広げたのが2段階目、 20世紀に突入し、終戦直前になり、WW1が総力戦であったことから、J歳以上の男性普通選挙だ気でなく、K歳以上の女性参政権が認められた。 この頃、イギリスは挙国一致内閣で首相は(L党の)Mである。 1928年にはN党のOが男女ともにP歳に改定。 時は一気に進み、69年にはQ(R党)が1男女ともにS歳に改定した。これが3段階目である。
資本家, グレイ, ダービー, 保守, 都市, グラッドストン, 自由, 農業, 鉱山, 21, 30, 自由, ロイド=ジョージ, 保守, ボールドウィン, 21, ウィルソン, 労働, 18
15
1870年、フランスではAが成立した。これは、B戦争によって、フランス皇帝Cが捕虜となり退位したことが原因である。ティエールも失脚し、1875年にはDが制定され、フランスは政党があまりに多く、政情は不安定であった。国民が統合し出した1880年には、バスティーユ牢獄の襲撃が起きた7月14日を国民祝祭日に制定した。
第3共和政, 普仏, ナポレオン3世, 第3共和政憲法
16
フランスは、19世紀後半、A戦争の敗戦、B・Cの割譲、D外交による国際的孤立からドイツへの復讐心が高揚し、2つの事件が起きた。 E事件、F事件である。 E事件は1887年から1889年に元陸軍相Eは過激な対独感情を口にしており、政府に罷免されてしまう。これを受け、急進団体が結集した大衆運動が起き、結局収束されたものの、E本人は民衆とウマが合わず自殺。煮え切らない事件である。 F事件は、G系軍人のFがドイツのスパイ容疑をかけられ、実は彼が冤罪であり、真犯人が見つかっても、軍部は威信保持のために再審を拒否。カトリック教会、ジャーナリズムがユダヤ人であること、反独感情から盛大に叩いたことから、Fの処遇が大問題となる。(Fは可哀想)この際、H主義の旗手、Iらが協会などを批判した。Iは公開状、「J」を提出した。これによって国論が二分し、K派とL派が対立した。が、その後K派が勝利しFは釈放された。(1906) 1905年には、ナポレオン時代に結ばれたMが棄却されNが制定された。 F事件を経て、G人はキリスト教への畏怖から自分たち自身の国家を作ろうと運動を始める。G人ジャーナリストOがPのバーゼルでQを開き、Rに国家を建国しそこへの移住をすることが促進された。この一連の運動をSという。(この頃は本格化せず。Rは田舎なので)
普仏, アルザス, ロレーヌ, ビスマルク, ブーランジェ, ドレフュス, ユダヤ, 自然, エミール=ゾラ, 私は弾劾する, 共和政擁護, 反共和政, コンコルダート, 政教分離法, ヘルツル, スイス, 第1回シオニスト会議, パレスチナ, シオニズム
17
フランスでは、20世紀に入り1901年に、ドレフュス事件における共和政擁護派がAを設立した(社会主義ではない!?)。 小ブルジョワや農民を支持基盤とした。一方、1905年にBが指導者となりCが設立した。これは、マルクス主義含む社会主義団体諸派が一丸となりDを契機に作られた。 そのほかにも1895年から徐々に勢力を拡大していたEがあり、これは議会制を批判し、労働者の暴動による改革(F)を推進した。
急進社会党, ジャン=ジョレス, フランス社会党, 第2インターナショナル, 労働総同盟, サンディカリズム
18
国際赤十字社は、スイスのAが創設した。彼は、Bの影響をうけ1863年には創設した。
デュナン, ナイチンゲール
19
フランスのAはBを提唱した。ギリシャに習ったこれは、第1回大会はCで、第2回大会はDで行われた。
クーベルタン, 国際オリンピック大会, アテネ, パリ
20
ドイツ帝国が成立したのは何年?
1871年
21
ドイツ帝国の二院制は、AとBで構成されており、Aは22君主国と3自由市、BはC歳以上のCで選出した。しかし、責任内閣制は認めなかったため、皇帝権がとても強かった。
連邦参議院, 帝国議会, 25, 男性普通選挙
22
ビスマルクが1871年から10年間、1880年に至るまで行ったAは南部のB、そしてその政党C を抑圧することを目的として行われた。これは、「プロテスタント」の「ドイツ人」を築こうとした狙いがあると考えられる。
文化闘争, カトリック教徒, 中央党
23
1873年の経済恐慌以降、労働者の生活が困窮したドイツではA(1875〜)が結成され、これは世界最初のB政党となった。この頃から、ビスマルクはB弾圧を開始し、Cを一旦終結させた。1878年のDは弾圧の最たるものであり、Eを理由としBそのものを非合法化した。が、反面、飴と鞭の政策で労働者救済のためのFを試行した。これは1883年にG法、1884年にH法、1889年にI法と規模を拡大していった。
ドイツ社会主義労働者党, 社会主義, 文化闘争, 社会主義者鎮圧法, 皇帝狙撃事件, 社会保険制度, 疾病保険, 災害保険, 養老保険
24
1879年、ビスマルクは「A」ともよばれる保護貿易政策を始める。これを公的には、Bとよぶ。この政策は、産業資本家とユンカー保護のため、工業製品と農産物に輸入関税を課したもので、イギリスへの対抗措置である。
鉄と穀物の同盟, 保護関税法
25
ヴィルヘルム2世はヴィルヘルム1世の孫で、彼の死後、父親の急逝により3ヶ月で帝位についた。(1888)ビスマルクと対立し、彼が辞職した後、Aを開始する。国内政策では、1890年にBを廃止し、大企業、コンツェルンと提携する。(C、ジーメンスなど)世界2位の工業国へと成長。こうして社会主義者を合法化したヴィルヘルム2世は1890年にDから改称したEを政党とし、当初はF主義を採用していた。が、議会で議席を伸ばしていくと、革命の必要がなくなる。(当時世界最大の社会主義政党) 彼らはGを指導した。 こうして、考え方が変わってきたEは理論的指導者Hが唱えたI主義によって革命からシフトチェンジし、安全性から議会内第1党を獲得した。
親政, 社会主義者鎮圧法, クルップ, ドイツ社会主義労働者党, ドイツ社会民主党, マルクス, 第2インターナショナル, ベルンシュタイン, 修正
26
ビスマルク時代、社会主義政党として成立していたAは、B派とC派(マルクス主義)が合同して成立した。 B派は指導者Dがビスマルクに接近し、一方マルクスの弟子Eを指導者としたC派はマルクスの教えを貫いていた。 が、1878年のFで非合法化されてしまう。
ドイツ社会主義労働者党, ラサール, アイゼナハ, ラサール, ベーベル, 社会主義者鎮圧法
27
マルクスの指導で始まったAは、その容態を大きく変えた。AはBで結成された世界初の国際的な労働者組織で、C反乱を機に結成されたものの、Dを通して各国からの弾圧をくらい内部対立が起こる。マルクスはE派、F派との対立をすることとなった。(Fは死の間際で不参加である)なお、E、FはともにG主義者である。 1889年には、フランス革命から100周年を記念してHでIが結成された。これはAと異なり、個人的ではなく団体・政党による組織だった。そのリーダーとなったのがJである。が、結局革命を狙っていない各国の政党はWW1で自国の戦争を支持し解散してしまった。 1919年、国際的な社会主義運動を支援するKがLによって提案され作られる。これは当初革命を指導したものの、1935年からは人民戦線戦術(ファシズムを許さない)に転換し、Mの開幕とともに(英仏と露が協調)解散した。
第1インターナショナル, ロンドン, ポーランド, パリ=コミューン, バクーニン, プルードン, 無政府, パリ, 第2インターナショナル, ドイツ社会民主党, 第3インターナショナル, レーニン, 独ソ戦
28
19世紀のロシアでは、歴代皇帝の農奴制強化によって市民階級が成長する契機がなかった。 1801年から即位したAは、ウィーン会議に参加し、1815年にBを提唱。革命を弾圧した。 彼の死を機に青年貴族が反乱を起こしたCも結局はDの弾圧を受け、Dは「ヨーロッパの憲兵」として同様に革命弾圧を徹底。 1821年から起きたEでは独立を援助するも、31年のFでの反乱、48年のGでの民族運動を弾圧した。 彼の時代、東方問題が深刻化する。 Eを経て、Eで勝利することができなかったHがIの領有権を主張してオスマン帝国と開戦した第1次エジプト=トルコ戦争では、ロシアはJ側を支持。 フランスはK側を支持し、イギリスはL側を支持した。エジプトが勝利したことでIの領有権は認められ、結果1833年、M条約が結ばれた。 ロシアはオスマン帝国に協力した見返りにN・OのP的航行権を主張。 39年からはHが、エジプト、IのQ権を主張。完全に図に乗った。フランスがK側、ロシアがJ側という構図は変わらないものの、このままでは戦争の結果関係なく、両国が得をすると考えたイギリスは、R、SとともにT側で参戦。 結果1840年、U会議でV条約が結ばれた。(仏以外) HはW・Xの世襲権を与えられる代わりにYをオスマン帝国に返還。そして追加で、イギリスの狙っていたZの破棄が行われた。あらゆる外国軍艦は、Zの経路を通過禁止になってしまったのである。ロシアは大損害を被った。
アレクサンドル1世, 神聖同盟, デカブリストの乱, ニコライ1世, ギリシア独立戦争, ポーランド, ハンガリー, ムハンマド=アリー, シリア, オスマン帝国, エジプト, エジプト, ウンキャル=スケレッシ, ボスフォラス海峡, ダーダネルス海峡, 独占, 世襲, プロイセン, オーストリア, オスマン帝国, ロンドン, ロンドン4国, エジプト, スーダン, シリア, ウンキャル=スケレッシ条約
29
第2次エジプト=トルコ戦争での失敗を受け、ロシアはA年、クリミア戦争を起こす。 16世紀以来フランスがオスマン帝国とのカピチュレーションから掌握していたB管理権は、フランス革命を受けてロシア側が得ており、正教会とカトリックが混在していた。 ロシアはC保護を口実に開戦したが、ロシアが当事者になったことで1854年、フランスとともにイギリスがオスマン帝国側で参戦。統一戦争を控えたD王国も参戦した。 1855年、Eでの攻防戦を経てロシアは敗北。こうして結果、1856年にFが結ばれ、ロシアの南下政策は完全に挫折した。 Gは中立化、オスマン帝国領は保全されることが決まったが、この戦争によってHが完全に崩壊した。 1877年には、75年、オスマン帝国内で反乱を起こしていたIの独立運動が正教徒の多いJに飛び火。今回は独立運動が弾圧されていたため、ロシアは理由を持って望み、早々に講和し勝利を果たした。 K条約でロシアは南下政策を成功させ、L、M、Nの独立とOの保護国化(オスマン帝国領内の自治国として)に成功したが、ビスマルクの仲介を受け1878年、Pで改めてQ条約が成立し、K条約は棄却。(英首相R) オーストリアがSの統治権を、イギリスがTの行政権を獲得し、独露関係が悪化した。
1853, 聖地, ギリシア正教徒, サルデーニャ, セヴァストーポリ要塞, パリ条約, 黒海, 勢力均衡, ボスニア・ヘルツェゴビナ, ブルガリア, サン=ステファノ, セルビア, モンテネグロ, ルーマニア, ブルガリア, ベルリン会議, ベルリン, ディズレーリ, ボスニア・ヘルツェゴビナ, キプロス島
30
1855年から帝位についたロシアのAは近代化政策として1861年にBを発令し、ついに農奴にC的自由とD権を与えた。が、土地の分与は有償であったため、結局農民は貴族の土地で働かなければならず、農民の生活は一部を除いて向上しなかった。この頃、土地を管理していたのが農村共同体ーEーである。Bから2年後の1863年、ポーランドで独立運動が起き(F)即鎮圧される。(Aの政策は独立運動を容認するものだと勘違い) これにより、Aは反動的に政治を恐怖的なものに変化させる。 一方、人民主義者ーGーはミールを基盤とし社会改革運動を始める。このGの中心にいたのが、知識人階級Hである。彼らはI(人民のなかへ)をスローガンにし、社会改革の原因を農民の知識不足と帝政にあると考えた。こうして農民に対する啓蒙運動を行なったものの、政府の弾圧、および農民の無関心(まずお金がないんだ…)で挫折してしまう。こうして彼らのうち一部は良くない方向に走り、政府っていらなくない?なJ、権力っていらなくない?なK、みんなぶっ殺せ!なLへと向かった。Lは実際、Aを暗殺してしまうので、怖い。 その後、帝位についたMは1891年からNを結び、(当時の財相はO)急速な工業化を進めた。この頃建設されたのがPである。
アレクサンドル2世, 農奴解放令, 人格, 土地所有, ミール, 一月蜂起, ナロードニキ, インテリゲンツィア, ヴ=ナロード, アナーキズム, ニヒリズム, テロリズム, アレクサンドル3世, 露仏同盟, ウィッテ, シベリア鉄道
31
ロシアの社会主義団体は、国の性質上、分裂を余儀なくされた。そもそも、マルクス主義は絶対主義→資本主義→社会主義という流れを主張するものであったが、帝政下のロシアは、資本家が勢いを強めつつも帝政が残っている、アンバランスな状態であった。こうして、元々1つだったA(1893年結成。1903年活動開始)はB、C、Dの3つに分裂する。多数派の意味を持つBは、指導者Eが2段階連続革命を主張したものの、あまりに過激すぎたこと、そして労働者しか支持者がいなかったことから立場が弱く、亡命していた。少数派の意味を持つCは、指導者をF、Gとし、第1の革命であるブルジョワ革命の成功を目指した。そしてDは、Hとも呼ばれ、ナロードニキの流れを汲みミール中心の社会改革を目指した。
ロシア社会民主主義労働者党, ボリシェヴィキ, メンシェヴィキ, エスエル, レーニン, マルトフ, プレハーノフ, 社会革命党
32
第1次ロシア革命と呼ばれるA年の革命は、皇帝Bの治世で行われた。この最大の要因となったのが1904年から行われたCである。露仏同盟を結んでいたフランスがイギリスと対ドイツ政策のために英仏協商を結び、自国を助けてくれなかったため、国民生活は異常なほどの困窮を招いた。こうして、A年の1月、国民は教会に殺到し、教父Dはその原因が国家にあると説いた。首都Eの冬宮でのデモに対し、軍隊は発砲を余儀なくされ、結果Fと呼ばれる悲劇が起きてしまう。これが、A年革命と呼ばれる大規模革命の兆しとなった。この際に都市で発生した労働者の評議会(兵士はいない。だって撃ってるからね)がFである。軍内部にも不満は募り、戦艦G号の反乱が起きた。(エカチェリーナの愛人の名前。クリミアを取った将軍でもある。) 政治家Hはこの一連の事態への対抗策としてIを起草し、Bもこれを認め同年中にIが発布された。このIによって、国会開設と憲法制定を約束し、帝政ロシア国会Jを開設した。その上、ブルジョワ政党Kも結成されたが、これらを全て合算したところで、Bの権力は抑えられておらず、革命の結果としては小さいものとなってしまった。
1905, ニコライ2世, 日露戦争, ガポン, ペテルブルク, 血の日曜日事件, ポチョムキン, ウィッテ, 十月勅令, ドゥーマ, 立憲民主党
33
第1次革命後のロシアでは、まず1905年から2年、十月勅令を起草したAが首相になった。彼は自由主義改革を行おうとしたが、保守派の反発をくらい、日露戦争終結とともにニコライ2世に解任させられた。そして、Bもまたわずか2ヶ月で解散させられた。続いて首相になったCは反動的に革命、自由の弾圧を始めた。土地改革を行なったCは、自由運動の原因は農民にあるということから、Dを解体することとなった。これによって、社会不安を増大し、貧困階層の窮乏化を招いたが、一方、共同体解散によって一部の農民はE(富農)になった。彼は皇帝一筋だったが、国会での内容を全て無しにすることもしばしばあったため、F主義者によって暗殺された。
ウィッテ, ドゥーマ, ストルイピン, ミール, クラーク, 無政府
34
【補足内容】少し前の話 1855年から81年までロシア帝位についたAは、積極的なアジア進出で知られる。 彼はまず、ネルチンスク条約、キャフタ条約を経て3度目となる大きな中国との条約を発布する。(1858)ロシアの東シベリア総督・Bが締結したC条約はD江(E川)以北をロシア領にした。1860年には、F条約を発布し、清はG州(H川以東)をロシアに割譲し、これが現在のロシアと中国の国境画定した。ロシアは沿海州にIを建設し、極東経営の基地となった。こうしてネルチンスク条約の際より大きな領土を獲得したロシアだったが、続いて1871年に新疆トルコ系イスラームの反乱が発生したJ地方を、ロシアがとってしまうJ事件が起きてしまうのだった。 また、ロシアはK国と呼ばれる、L国、M国、N国を支配することとなる。これらはL国が1868年に保護国化、1873年にM国が保護国化、そして1876年にN国が併合された。こうしてロシア領Oが形成された。 続いて帝位についたPは、ペテルブルクでQ条約を結んだ。これにより、ロシアは新疆での貿易特権を得て、逆にQ地方の一部を清に返還した。
アレクサンドル2世, ムラヴィヨフ, アイグン, 黒竜, アムール, 北京, 沿海, ウスリー, ウラジヴォストク, イリ, ウズベク3ハン, ブハラ=ハン, ヒヴァ=ハン, コーカンド=ハン, トルキスタン, アレクサンドル3世, イリ
35
南北戦争後、アメリカ北部では急速に工業が発展する。移民や解放黒人が、工業発展を支えた。1869年、アメリカではAが開通する。これはアメリカの政治的・経済的統一をもたらした。自由競争は衰退し、独占資本(巨大企業)が登場したのもこの頃である。1870年、B、C、Dといった独占資本が現れる。BはEを設立し、のちに大トラストを形成した。石油王と呼ばれた。Cは、今日ではCホールで有名な名前だが、アメリカ鉄鋼業界の覇者となり鉄鋼王と呼ばれた人物である。そしてAなどの投資に成功し、のちにCを買収するDは、1901年にFを設立した。 このような動きから、G年代にはイギリスを抜いて世界一位の工業生産額になった。 (この頃の独占資本と政治界の癒着による政治腐敗をH時代は皮肉られた)
大陸横断鉄道, ロックフェラー, カーネギー, モーガン, スタンダード石油会社, USスティール, 1890, 金ぴか
36
セオドア=ローズヴェルトやウィルソンが推進したA主義は、独占資本を抑えようとする動きである。あくまで、独占資本を潰す気はないのが特徴である。1887年からはB法が始まる。ハリソン大統領の時代に出されたC法が最も有名である。 セオドア=ローズヴェルト大統領の時代にもB法を掲げたものの、そこまでうまくいかず、ウィルソンの時代には、彼が当選時に掲げていた「D」のとおり、中小企業救済が行われ、1914年には独占資本の不当競争防止のため、連邦取引委員会を創設するE法が制定された。
革新, 反トラスト, シャーマン反トラスト, 新しい自由, クレイトン
37
アメリカでも社会運動は発生する。1886年、サミュエル=ゴンパーズを初代会長としたA(AFL)は、Bによる職業別連合組織である。 1905年のC(IWW)は、社会主義者が中心となり、Bとは異なりDを中心に組織が拡大した。が、急進的な労働は弾圧され消滅した。
アメリカ労働総同盟, 熟練労働者, 世界産業労働者同盟, 非熟練労働者
38
アメリカはA法により白人農民による西部開拓が急激に進行する。インディアン最後の反抗となったアパッチ族のBの反抗、スー族インディアンの虐殺で、フロンティアは消滅する。このフロンティア消滅宣言が行われたのは、C年だった。 1889年からはDでEが開催され、これを機にラテン進出が始まる。この時、ボリバルのF主義がアメリカによって利用された。
ホームステッド, ジェロニモ, 1890, ワシントン, パン=アメリカ会議, パン=アメリカ
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砲艦外交で知られるA大統領は、B戦争を行なった。Cの独立運動支援(Dが中心。メーン号爆破)を口実に行われたB戦争は、アメリカの大勝で終わった。1898年、E条約でCは独立するが、のちにF条項でアメリカは保護国化に成功する。また、G、H、Iをゲットした。1898年、年を同じくしてアメリカは(B戦争のさなか)J王朝のKが治めていたLを併合した。 アメリカはこのLの前に、ペリーによるM条約、N条約で日本、H、I、Mの太平洋航路を確保した。 1899年には国務長官ジョン=ヘイがO宣言を出し、O、P、Qの3つを原則とした。
マッキンリー, 米西, キューバ, ホセ=マルティ, パリ, プラット, フィリピン, グアム, プエルトリコ, カメハメハ, リリウオカラニ, ハワイ, 日米和親, 日米修好通商, 門戸開放, 機会均等, 領土保全
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マッキンリーののち、大統領に就任したセオドア=ローズヴェルトはカリブ海政策を行い、その外交の仕方は棍棒外交と呼ばれた。1905年にはAの関税管理権を掌握し、またBからCを独立させ1904年からDの建設を始めた。(E年完成) ドイツへの動きを懸念し、F、Gにも干渉した。 1905年には、日本の動きを警戒し、H条約の調停をすることで日本の動きを朝鮮側に逸らした。 続いて就任したタフトはドル外交を、ウィルソンは宣教師外交を行い、メキシコ革命にも関与した。
ドミニカ, コロンビア, パナマ, パナマ運河, 1914, ニカラグア, ハイチ, ポーツマス
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アメリカ移民は旧移民と新移民に分けられる。旧移民として1840年から1850年にアメリカに来たのが、Aを原因とするB移民や、C系移民で、新移民として1880年以降に訪れたのが、南D出身者や、Eから逃れたF系移民(ロシア)がいる。 中国系やインド系は、Gと呼ばれ蔑まれた。
ジャガイモ飢饉, アイルランド, ドイツ, イタリア, ポグロム, ユダヤ, クーリー
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ドイツ皇帝Aは、日清戦争における日本の勝利を機に、黄色人種抑圧論、Bを唱えた。これはスペンサーのCによる。(弱者は強者によって淘汰されなければならない。ダーウィンは奴隷制廃止論者であったから、主張は大きく異なる。スペンサー本人も、こうなることは望んでいなかった。適者生存→強者生存という曲解)
ヴィルヘルム2世, 黄禍論, 社会進化論
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アメリカ=メキシコ戦争は、メキシコに大きな損害をもたらした。先住民、黒人を含め全ての人種が独立を求めたメキシコでは、インディオ出身のAが1858年に台頭する。彼は土地改革(B)を行なったが、地主による反対を受け内戦に突入する。この頃、フランス皇帝Cはこの内戦に便乗しDを行う。オーストリア皇族Eは、メキシコ帝位についたものの、メキシコは怒涛の抵抗で退け、Eを殺した。この10年後、Aが死亡し軍人Fがクーデターで大統領に就任すると、対米従属路線へとメキシコは進む。この対米従属へと不満を唱えたのがG、H、Iで、こうしてメキシコ革命が起こる事態となった。結果としてFは殺されたが、大統領に就任したG(地主階級)とH、I(農民)との間でまたもや内戦が起こる。今度はGがウェルタ将軍によって殺され、1914年にはJ大統領の干渉を受けるなど、国内はぐちゃぐちゃに。様々あったものの、1917年からは3年間、地主のKがH、Iを退け大統領として就任する。しかし、最終的にはKもHもIもみんな殺され、1934年、アメリカが善隣外交を行いLが改革を行うと、やっと近代化への道を歩むこととなった。
フアレス, レフォルマ, ナポレオン3世, メキシコ出兵, マクシミリアン, ディアス, マデロ, サパタ, ビリャ, ウィルソン, カランサ, カルデナス