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中国の流れ
59問 • 1年前
  • ゆうみ
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    問題一覧

  • 1

    長州藩士の( )は、奇兵隊結成の前年の1862年、上海に約2か月間滞在した。江戸幕府の役人が上海での貿易を視察するための船に、晋作は従者の一人として乗りこめたからだった。当時の上海は欧米列強の租界に大きな商館が立ち並び、港には軍艦が数多く 待機していた。晋作は、言葉にならないと驚きを表現した。繁栄し活気ある上海だったが、利益は( )だけが受けとっており、( )は貧しいままであることにも晋作は気がついた。日本もすぐに( )をしなければ、そのような中国人と同じ状況になるのではないかと危機感をいだいて帰国した。 ⇒ ( )

    高杉晋作、欧米人、中国人、攘夷、明治維新

  • 2

    これは、( )後、上海の( )人居留置の公園に建てられた看板

    アヘン戦争、イギリス

  • 3

    清の動揺 1616 建国( ) 1644 中国支配開始 1683 中国統一( ) 1722 ( )即位 1735 ( )即位 1795↑退位 1796-1804 ( ) 1840 アヘン戦争 1851 太平天国 1856 アロー戦争 1894 日清戦争 1911.23 辛亥革命→滅亡

    ヌルハチ、康煕帝、雍正帝、乾隆帝、白蓮教徒の乱

  • 4

    ( ) 四川を中心とする地域で起こった大規模な( )反乱。 白蓮教は12世紀に起こった仏教の一派で、近い将来弥勒菩薩が降臨して、新しい世界がはじまるという教えで、 信者は弥勒菩薩の降臨に備えて、この世を正さなければならないと信じ、反乱を起こした。 背景には、人口の急増による( )の不足と農民の生活の悪化があった。 清の正規軍ではこの反乱を鎮圧できず、地域 の有力者に指導された自衛組織( )の協力 によってようやく鎮圧された。この反乱をきっか けに清の衰退が始まる。

    白蓮教徒の乱、農民、土地、団練

  • 5

    清は( )を押さえて( )が支配していた

    漢民族、満州族

  • 6

    清の貿易政策 18世紀後半 清→→→→→イギリス   ( )・絹・陶磁器など イギリス→→→→清      ( )

    茶、銀

  • 7

    清の貿易政策 18世紀後半 ①外国貿易は( )一港に限定 1757〜 ②外国貿易は、清の特許を得た商人の組合である( )が独占し管理。イギリスはイギリス製品を中国に輸出しようとしたが拒否された。

    広州、公行

  • 8

    広州はどこ?

    8

  • 9

    清は西洋との貿易を広州に限定 →イギリスは( )やアマーストを使節として清に派遣、貿易条件改善や常駐使節交換などを要求 →清は従来の方式の変更を認めず

    マカートニー

  • 10

    ( )…中国・インド・イギリス本国間の貿易 →中国からの茶の輸入量が激増したイギリスが銀の中国への流出を是正するため、インド産アヘンを中国に密輸

    三角貿易

  • 11

    清はアヘンの密輸禁令を発するが密輸はやまず ↓ 大量の銀が国外に流出 ↓ 財政危機と社会不安 ↓ 清は( )を広州に派遣しアヘンを没収・処分(1839年) ↓ ( )(1840~42年)…イギリスは艦隊を送って清をやぶる ↓ ( )(1842年)…( )の割譲、上海など( )の開港、自由貿易の実施(公行の廃止) ↓ 翌年、領事裁判権や協定関税、片務的な最恵国待遇などの不平等条約 ↓ 清はアメリカやフランスとも同様の条約をむすぶ

    林則徐、アヘン戦争、南京条約、香港島、五港

  • 12

    マカートニーの後 1816 ( )が派遣 しかし、( )を拒否したため面会すらできなかった

    アマースト、三跪九叩の礼

  • 13

    アヘンはインドの( )で製造されていた

    ベンガル地方

  • 14

    林則徐 ( )を主張

    アヘン厳禁策

  • 15

    1839年3月 アヘンを全て没収し、 処分。イギリスとの貿易を禁止 ↓ 1839年10月 イギリス議会がイギリ ス人の財産が侵害されたことを口 実に清との( )を決議 (賛成271票、反対262票)         ↓ これほど恥知らずの戦争は聞いたことがない( )

    開戦、グラッドストン

  • 16

    1840.6 イギリス海軍の軍艦16隻、輸送船27隻、 東インド会社の武装船4隻。4000人のイギリス陸軍が★澳門(マカオ)に到着 ※シパーヒーが8割 ↓ イギリスは貿易再開を迫ったが、林は拒否 ↓ イギリス軍は、★広州を封鎖し、北上して★厦門(ア モイ)・★寧波(ニンポー)を封 鎖。さらに北上し、★天津 (テンシン)の沖に現れ、北京を威圧。 今出てきた港★を順に選べ

    98651

  • 17

    皇帝が林則徐を罷免。 その後、清とイギリスとの交渉がおこなわれたが、 イギリスが★( )の割譲 を要求したため、戦争再開 ↓ 1841.1 イギリス軍が広州を砲撃、陸軍が上陸し広州を占領 北上し、★厦門・ ★寧波・★上海を占領 また、★の場所順に選べ 4の上に4ダッシュがあるよ

    香港島、7644ダッシュ

  • 18

    1842.7 イギリス軍が長江 を遡り、( )を封鎖。 南京に対する攻撃を通告 ↓ 1842.8 清は敗北を認め、 ( )を締結

    大運河、南京条約

  • 19

    南京条約 ①( )のイギリスへの割譲

    香港島

  • 20

    南京条約 ②五港の開港(広州・厦門・福州 ・寧波・( ))

    上海

  • 21

    南京条約 ③公行の解散→( )貿易 ④賠償金2,100両 ※アヘン貿易については? 合法化 or 何も記されてない

    自由、何も記されてない

  • 22

    南京条約の1年後 追加条約 ①( ) *イギリス人が清で犯罪を犯しても、イギリスの法律に基づきイギリスの領事が裁く ②( )(関税自主権の放棄) * イギリスからの輸入品にかかる関税を5%とする。 ③( ) *一方だけが義務を負うこと⇔双務的 *清が関税などについて他国に有利な条件を与えた場合、 イギリスにもその条件を与えること ④ 土地を租借し、行政権・警察権を行使する権利 1845年の上海のイギリス租界が最初 ※しかし、イギリス人が自由に中国国内を移動することは認 められなかった。

    領事裁判権、協定関税、片務的最恵国待遇

  • 23

    1842南京条約 1843追加条約 1844アメリカと( )条約   フランスと( )条約

    望厦、黄埔

  • 24

    1856年10月 ( ) 広州港に停泊中のイギリス船籍のアロー号が海賊船の容疑を受けて、清の役人が検査を行い、中国人船員を逮捕した。イギリスは、イギリス国旗が引きずり下ろされた(?)ことはイギリスへの侮辱であるとし、船員の釈 「放と賠償を要求。清側は、アロー号が海賊船であることが明白であったため、イギリスの要求を拒否した。 イギリスはこの時を待っていた。 アヘン戦争後、貿易はイギリスが 期待以上に増加した or 期待したほど増加しなかった からである。 開港された港が中国の南に片寄り都の北京に遠いこと、イギリス人が中国を自由に移動できないとことに理由があるとイギリス は考えた。そこで、もう一度中国と戦争をおこない、中国に打撃を与え、貿易の拡大をはかりたいと考えていた。しかし、戦争をするためには( )がいる。アロー号事件が口実となった。 1856年、中国の広西省でフランス人の宣教師が、逮捕され殺害されるという事件が起こっていた。( )の( )は、 イギリスに便乗して、中国に対し武力行使することを決断した。

    アロー号事件、期待したほど増加しなかった、口実、フランス、ナポレオン3世

  • 25

    アロー戦争 1857.12 英仏連合軍(イギリ ス軍1万・フランス軍6300)が 広州を砲撃し、占領 ↓ 1858.2 英仏米露4か国が条約改正を求めたが清は拒否 *米露は英仏に便乗した ↓ 英仏連合軍が北上し、天津を占領 ↓ 1858.6 ( )を締結

    天津条約

  • 26

    天津条約 ( )と( )、便乗した( )と( )と締結 ①外交官の( )常駐 ②( )教普及の自由と宣教師の保護

    イギリス、フランス、アメリカ、ロシア、北京、キリスト

  • 27

    天津条約 ③( )港の開港  牛荘、登州、漢口、九江、鎮江、台 南、淡水、潮州(⇒汕頭に変更)、瓊州、南京 ④ 国内旅行と商業活動の自由、 河川航行の自由 ⑤ 賠償金の支払い ⑥アヘン貿易の合法化、公文 書において「夷」の文字を使 用しない

    10

  • 28

    1858.6( )を締結 *条約締結後、清の宮廷ではこの条約に対する不満が噴出 野蛮人が北京にやってくる。 我慢できない。 1859.6 条約批准のため、北京に向かった英仏の使節を、 清の軍隊が攻撃 ↓ 1860 戦争再開 ↓ 英仏連合軍が( )、( )を占領。(皇帝は北京を脱出)

    天津条約、天津、北京

  • 29

    1860 戦争再開⇒英仏連合軍が天津、北京を占領。(皇帝は北京を脱出) *英仏両軍は、北京郊外の( )(皇帝の離宮)で略奪をおこない、宮殿を破壊 ↓ 1860.11 ( )を締 結

    円明園、北京条約

  • 30

    北京条約 *イギリス、フランスと締結 ① 天津条約の実施 ② 賠償金の増額 (英仏に合計800万両) ③ ( )の開港 *天津条約と合わせて11港 ④ 中国人の海外渡航の解陸横断鉄道の建設 ⑤ イギリスに対しては、 香港島対岸の( )半島の南部を割譲

    天津、九竜

  • 31

    ロシア 1858 ( )条約 =天津条約と同じ年 アロー戦争で窮地に立つ清に圧力をかけ締結 ①黒竜江(アムール川)以北の地(A)を清がロシアに割譲。 ②ウスリー川以東の地(B)は ロシアと清の共同管理とする 1860 北京条約 アロー戦争の調停の見返りに清に圧力をかけ締結 ウスリー川以東の地(B)を清がロシアに割譲。(ロシアの沿海州となる。ロシアは( )を建設し、東アジア進出の拠点)

    愛琿、ウラジオストク

  • 32

    清がアロー戦争で苦しんでいた頃、中国では大規模な農民、 貧民による反乱が起こっていた。 アヘン戦争の賠償金支払いのための重税が人々を苦しめて いたのである。 反乱軍は、「( )」 を掲げ、独立国家の樹立を宣言した。これが( )である。 指導者が( )

    滅満興漢、太平天国、洪秀全

  • 33

    洪秀全  洪秀全は1813年広州近郊の農村に生まれた。彼は村一番の秀才で、彼の親は彼が科挙に合格し、高級官僚になることを願った。 だから、彼の少年期は受験勉強に明け暮れる毎日 であった。 青年になった彼は、彼は科挙の第一関門である郷 試を広州で受験した。結果は不合格。4度挑戦したが不合格。 失意の彼を救ったのが( )だった。キリスト教の影響を受けて彼は故郷の友人と新しい宗教結社( )をつくった。 秀全は、人々に神(上帝)の前の万人の平等を説き、清を倒 してこの地上に平等で平和な理想国家をつくろうと呼びかけ た。彼のもとに、役人や地主に痛めつけられていた者たち (貧農、炭焼き人夫、賤民など)が集まった。

    キリスト教、排上帝会

  • 34

    1851 洪秀全が金田村で挙兵し、「滅満興漢」を掲げ、太平天国を樹立(兵力1万) *清は「長髪賊の乱」と呼んだ ↓ 1853 太平天国軍が( )を占領(兵力50万) *ここを首都と定め、( )と改名 *洪秀全は「天王」という称号を用いる

    南京、天京

  • 35

    1854 太平天国軍が( )に向かって北上。(兵力300万) ( )にまで迫ったが、清の反撃で退却     失敗      ↓ 1856 太平天国で内部抗争が 勃発し、弱体化      ↓ 1864 太平天国滅亡 *洪秀全はその直前に病死(自殺?) 14年間

    北京、天津

  • 36

    誰が太平天国を滅ぼしたのか? ①から③で答えて ① 清朝の正規軍 ② 漢人官僚が組織した義勇軍 *有力な漢人官僚が故郷で農民たちを集めて組織した義勇軍(volunteer army)で、 その代表が( )が組織した湘軍と ( )が組織した淮軍である。 ③ 外国勢力が組織した軍隊 *外国勢力は、1860年を境に、太平天国攻 撃開始した。イギリス人のゴードンは西洋式訓 練を受けた中国人からなる常勝軍を組織し た。

    ②、③、曾国藩、李鴻章

  • 37

    アロー戦争で敗北した清は、屈辱的な講和条約を締結した。(天津条約・北京条約) また、太平天国は、清が国内の反乱さえ簡単に鎮圧できないほど弱体化していることを露呈した。 太平天国鎮圧に活躍した漢人官僚たちは、清の政界で大きか力を持つことになり、彼らによって清の改革(近代化)がおこなわれた。これが( )である。

    洋務運動

  • 38

    洋務運動 ① 推進者 ( )・( )が中心となって1860年代に開始 ② 理念 ( )…中国の制度や文化・学問を本体(中心、根本、基礎)とし、西洋の科学や技術を用いる(導入する) *政治体制に変更なし(憲法・議会・選挙は採用せず、科挙も続行) ③ 内容 軍事 ・・・ 欧米的な( )の創設(北洋艦 隊など)、 兵器工場の建設 産業 ・・・ 紡績工場・鉱山事業・電信事業の育成 教育 ・・・ 近代的な学校の建設

    曾国藩、李鴻章、中体西用、海軍

  • 39

    洋務運動は成功したの? ④ 限界 政治制度、社会制度の根本的な改革はできず、表面的な改革に終わった。 日清 *だから、( )戦争で敗れたともいえる。

    日清

  • 40

    イギリス使節マカートニーが派遣された目的は?

    貿易条件の改善など対等な主権国家として近代的な国際関係を結ぶこと

  • 41

    当時の清はどのような貿易の方式を取っていた? 生徒B:( )貿易が原則で、西洋との貿易は( )1港のみで特許商人組合の( )を通しておこなっていました。 先生:当時のイギリスでは、( )を飲む習慣が広がって輸入量が増加していた。でも要求は拒否され、中国式の儀礼も求められて交渉は決裂したんだ。 生徒A:そうか、だからイギリス人は乾隆帝を( )イメージで描いたんですね。

    朝貢、広州、公行、茶、尊大な

  • 42

    列強の中国進出 国名   租借地 ロシア ( )・( ) ドイツ ( ) イギリス ( )・( ) フランス ( ) 日本   ( ) アメリカ ( )の( )

    旅順、大連、膠州湾、威海衛、九竜半島、広州湾、遼東半島南部、ジョン=ケイ、門戸解放通牒

  • 43

    アメリカの門戸開放通牒 ( )・( )・領土保全

    門戸開放、機会均等

  • 44

    日清戦争後の中国 ( )らが中国分割の危機を感じる…清を立憲君主制に改め、近代化の推進を主張 →( )(1898年)・・・( )を動かして、中央政府を改革 →( )…( )ら保守派が変法を弾圧し( )を幽閉

    康有為、戊戌の変法、光緒帝、戊戌の政変、西太后、光緒帝

  • 45

    西太后…光緒帝を擁立し、( )として実権を握った

    摂政

  • 46

    この頃朝鮮では( )がおこり、事件後朝鮮はロシアにより接近していた。ロシアの影響下で、1897大韓帝国と改称

    閔妃暗殺事件

  • 47

    戊戌の変法 明治維新に倣って憲法制定・( )制を目指す ↓協力依頼 ( ) ↓密告 戊戌の政変

    立憲君主、袁世凱

  • 48

    勢力を拡大する列強の存在に民衆が反発 ↓ 宗教的武装集団の( )は「( )」をとなえて排外運動をおこす ↓ ( )は1900年に北京に入り外国公使館を包囲 ↓ 清の保守派はこの運動 を利用して列強に対抗しようとし、各国に宣戦布告 →( )…日本とロシアを主力とする8か国連合軍が北京を占領 →( )(1901年)・・・清は巨額の賠償金の支払いや外国軍隊の北京駐留を認める

    義和団、扶清滅洋、義和団、義和団事件、北京議定書

  • 49

    ( )…1866~1925 「中国革命の父」 現在の中国でも「国父」と呼ばれる 中国では孫文よりも孫中山が一般的であり、孫中山先生と呼ばれている。 広東省香山県翠亨村(現中山市)の農家に 生まれる。9歳にして父を失い、14才で兄を頼ってハワイに渡りカレッジで学んだ。西洋思想に目覚めるが、兄や母が西洋思想に傾倒する孫文を心配し、19歳で中国に戻された。 帰国後、香港で医学を学び、マカオで医師として開業した。しかし、個人を救う医師より も危機の中国を救うほうが大切だとして、革命運動に飛び込んだ。1894年、27歳の時にハワイで「( )」を掲げて( )を組 織した。

    孫文、滅満興漢、興中会

  • 50

    翌年、広州に戻り武装蜂起を企てたが、密告され日本に亡命した。以後、革命資金を集める為、世界中を巡った。 1905年,宮崎滔天 ( )らの援助で東京池 袋にて清朝打倒をめざす興中会、光復会、華興会を合同して( )を結成した。この時、孫文は日本留学中の( )と出会った。1911年10月に辛亥革命 が始まった時、孫文はアメリカにいたが、急ぎ中国に戻った。

    トウテン、中国同盟会、蔣介石

  • 51

    ( )…義和団戦争以後,清がはじめた近代国家建設に向けた改革 1901( )〜1908 ①( )主導により清朝が推進した政治改革 *光緒帝は幽閉状態 *西太后自身がつぶした「戊戌の変法」の改訂版 *袁世凱らにより推進 ②改革の内容 (1) 1300年続いてきた( )の廃止(1905) ⇒ 留学生の外国、特に( )への派遣による新型官僚の育成 (2)憲法大綱を制定し、9年後の( )の開設の公約 (3)西洋式軍隊(「( )」)の創設など

    光緒新政、光緒新政、西太后、科挙、日本、議会、新軍

  • 52

    1904~05 日露戦争 1905興中会、光復会、華興会 →( )が結成(東京) ( )が総理  合同 ( ) ①( )の独立・・・ 満州族の支配を打倒、漢民族の独立 ②( )の伸長・・・国民の権利の伸長、共和政の樹立 ③( )の安定・・・ 国民生活の安定、大土地所有の制限 ※中国同盟会には、日本に留学していた中国人留学生300名も参加した。彼らの帰国によって革命運動は全国に広がり、軍隊や民衆の間に支持を広げ、各地で武装蜂起が実行された。これらの武装蜂起は失敗したが、清朝打倒の機運は全国に広がっていった。また、この頃になると、工場を経営す る中国人(民族資本家)が多数生まれており、彼らは地方の有力者(郷神)と ともに鉄道や鉱山などの権利を外国資本から買い戻す運動を進めていた。

    中国同盟会、孫文、三民主義、民族、民権、民生

  • 53

    1908 光緒帝没、第12代宣統帝(( )・2歳)即位、西太后没

    溥儀

  • 54

    1911 5/9 清朝政府が鉄道国有化と外国資本による鉄道敷設を発表 *国有化の対象となったのが、中国の民族資本により建設された粤漢(エツカン)線A、川漢(センカン)線Bであった。 *国有化した鉄道を担保に列強から借金する計画であった ↓ ↓ 中国人が建設した鉄道なのに!!! ↓ 6/17 ( )省で国有化反対運動が発生 ↓ ↓ もう我慢できない、清では絶対にだめだ ↓ 9/8 反対運動が激化し(20万)、軍隊 と衝突(「( )」)

    四川、四川暴動

  • 55

    9/8 反対運動が激化し(20万)、軍隊 と衝突(「四川暴動」) ↓ 「10/10 「四川暴動」鎮圧に向かった軍隊が革命派に転じて( ) で蜂起( ) ↓ 流れが変わった ↓ 中国各地で革命派の武装蜂起が起こ り、華北華中華南の 18 省のうち 14 省が清からの( )を宣言

    武昌、武昌蜂起、独立

  • 56

    革命派 孫文ら 1912 1/1( )建国が宣言 首都:( ) 臨時大總統:( ) *アジア初の( )

    中華民国、南京、孫文、共和国

  • 57

    清朝 軍の実権を握る( )を総理大臣につけ、革命鎮圧を命令

    袁世凱

  • 58

    しかし、袁世凱率いる清軍との戦争(内乱)は避けなければならない。内乱になれば列強が介入し、列強の中国支配が進んでしまう ↑ 取引 ↓ 袁世凱 俺を大総統にするなら、宣統帝を退位させ清を滅ぼしてやる 選挙が実施されたらその結果に俺は従うよ 共和制は維持するから心配するな 2/12 宣統帝( )が退位 *6歳 ⇒ ( )

    溥儀、清滅亡

  • 59

    袁世凱 1912 2/15 ( )に就任 *1913年に正式に大総統に就任 ↓ ↓弾圧 ↓ 革命派孫文ら *1913年9月、孫文は日本に亡命 1915 12/12 ( ) 復活を宣言( ) ↓ ↓国内で猛反発、列強も反対 ↓ 1916 3 帝政復活を断念    6/6 死去 以後、中国は地方政権( )が各地に乱立

    臨時大統領、帝政、中華帝国、軍閥

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    28問 • 2年前
    ゆうみ

    理科I 三年 二学期中間

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    理科I 三年 二学期中間

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    38問 • 2年前
    ゆうみ

    問題一覧

  • 1

    長州藩士の( )は、奇兵隊結成の前年の1862年、上海に約2か月間滞在した。江戸幕府の役人が上海での貿易を視察するための船に、晋作は従者の一人として乗りこめたからだった。当時の上海は欧米列強の租界に大きな商館が立ち並び、港には軍艦が数多く 待機していた。晋作は、言葉にならないと驚きを表現した。繁栄し活気ある上海だったが、利益は( )だけが受けとっており、( )は貧しいままであることにも晋作は気がついた。日本もすぐに( )をしなければ、そのような中国人と同じ状況になるのではないかと危機感をいだいて帰国した。 ⇒ ( )

    高杉晋作、欧米人、中国人、攘夷、明治維新

  • 2

    これは、( )後、上海の( )人居留置の公園に建てられた看板

    アヘン戦争、イギリス

  • 3

    清の動揺 1616 建国( ) 1644 中国支配開始 1683 中国統一( ) 1722 ( )即位 1735 ( )即位 1795↑退位 1796-1804 ( ) 1840 アヘン戦争 1851 太平天国 1856 アロー戦争 1894 日清戦争 1911.23 辛亥革命→滅亡

    ヌルハチ、康煕帝、雍正帝、乾隆帝、白蓮教徒の乱

  • 4

    ( ) 四川を中心とする地域で起こった大規模な( )反乱。 白蓮教は12世紀に起こった仏教の一派で、近い将来弥勒菩薩が降臨して、新しい世界がはじまるという教えで、 信者は弥勒菩薩の降臨に備えて、この世を正さなければならないと信じ、反乱を起こした。 背景には、人口の急増による( )の不足と農民の生活の悪化があった。 清の正規軍ではこの反乱を鎮圧できず、地域 の有力者に指導された自衛組織( )の協力 によってようやく鎮圧された。この反乱をきっか けに清の衰退が始まる。

    白蓮教徒の乱、農民、土地、団練

  • 5

    清は( )を押さえて( )が支配していた

    漢民族、満州族

  • 6

    清の貿易政策 18世紀後半 清→→→→→イギリス   ( )・絹・陶磁器など イギリス→→→→清      ( )

    茶、銀

  • 7

    清の貿易政策 18世紀後半 ①外国貿易は( )一港に限定 1757〜 ②外国貿易は、清の特許を得た商人の組合である( )が独占し管理。イギリスはイギリス製品を中国に輸出しようとしたが拒否された。

    広州、公行

  • 8

    広州はどこ?

    8

  • 9

    清は西洋との貿易を広州に限定 →イギリスは( )やアマーストを使節として清に派遣、貿易条件改善や常駐使節交換などを要求 →清は従来の方式の変更を認めず

    マカートニー

  • 10

    ( )…中国・インド・イギリス本国間の貿易 →中国からの茶の輸入量が激増したイギリスが銀の中国への流出を是正するため、インド産アヘンを中国に密輸

    三角貿易

  • 11

    清はアヘンの密輸禁令を発するが密輸はやまず ↓ 大量の銀が国外に流出 ↓ 財政危機と社会不安 ↓ 清は( )を広州に派遣しアヘンを没収・処分(1839年) ↓ ( )(1840~42年)…イギリスは艦隊を送って清をやぶる ↓ ( )(1842年)…( )の割譲、上海など( )の開港、自由貿易の実施(公行の廃止) ↓ 翌年、領事裁判権や協定関税、片務的な最恵国待遇などの不平等条約 ↓ 清はアメリカやフランスとも同様の条約をむすぶ

    林則徐、アヘン戦争、南京条約、香港島、五港

  • 12

    マカートニーの後 1816 ( )が派遣 しかし、( )を拒否したため面会すらできなかった

    アマースト、三跪九叩の礼

  • 13

    アヘンはインドの( )で製造されていた

    ベンガル地方

  • 14

    林則徐 ( )を主張

    アヘン厳禁策

  • 15

    1839年3月 アヘンを全て没収し、 処分。イギリスとの貿易を禁止 ↓ 1839年10月 イギリス議会がイギリ ス人の財産が侵害されたことを口 実に清との( )を決議 (賛成271票、反対262票)         ↓ これほど恥知らずの戦争は聞いたことがない( )

    開戦、グラッドストン

  • 16

    1840.6 イギリス海軍の軍艦16隻、輸送船27隻、 東インド会社の武装船4隻。4000人のイギリス陸軍が★澳門(マカオ)に到着 ※シパーヒーが8割 ↓ イギリスは貿易再開を迫ったが、林は拒否 ↓ イギリス軍は、★広州を封鎖し、北上して★厦門(ア モイ)・★寧波(ニンポー)を封 鎖。さらに北上し、★天津 (テンシン)の沖に現れ、北京を威圧。 今出てきた港★を順に選べ

    98651

  • 17

    皇帝が林則徐を罷免。 その後、清とイギリスとの交渉がおこなわれたが、 イギリスが★( )の割譲 を要求したため、戦争再開 ↓ 1841.1 イギリス軍が広州を砲撃、陸軍が上陸し広州を占領 北上し、★厦門・ ★寧波・★上海を占領 また、★の場所順に選べ 4の上に4ダッシュがあるよ

    香港島、7644ダッシュ

  • 18

    1842.7 イギリス軍が長江 を遡り、( )を封鎖。 南京に対する攻撃を通告 ↓ 1842.8 清は敗北を認め、 ( )を締結

    大運河、南京条約

  • 19

    南京条約 ①( )のイギリスへの割譲

    香港島

  • 20

    南京条約 ②五港の開港(広州・厦門・福州 ・寧波・( ))

    上海

  • 21

    南京条約 ③公行の解散→( )貿易 ④賠償金2,100両 ※アヘン貿易については? 合法化 or 何も記されてない

    自由、何も記されてない

  • 22

    南京条約の1年後 追加条約 ①( ) *イギリス人が清で犯罪を犯しても、イギリスの法律に基づきイギリスの領事が裁く ②( )(関税自主権の放棄) * イギリスからの輸入品にかかる関税を5%とする。 ③( ) *一方だけが義務を負うこと⇔双務的 *清が関税などについて他国に有利な条件を与えた場合、 イギリスにもその条件を与えること ④ 土地を租借し、行政権・警察権を行使する権利 1845年の上海のイギリス租界が最初 ※しかし、イギリス人が自由に中国国内を移動することは認 められなかった。

    領事裁判権、協定関税、片務的最恵国待遇

  • 23

    1842南京条約 1843追加条約 1844アメリカと( )条約   フランスと( )条約

    望厦、黄埔

  • 24

    1856年10月 ( ) 広州港に停泊中のイギリス船籍のアロー号が海賊船の容疑を受けて、清の役人が検査を行い、中国人船員を逮捕した。イギリスは、イギリス国旗が引きずり下ろされた(?)ことはイギリスへの侮辱であるとし、船員の釈 「放と賠償を要求。清側は、アロー号が海賊船であることが明白であったため、イギリスの要求を拒否した。 イギリスはこの時を待っていた。 アヘン戦争後、貿易はイギリスが 期待以上に増加した or 期待したほど増加しなかった からである。 開港された港が中国の南に片寄り都の北京に遠いこと、イギリス人が中国を自由に移動できないとことに理由があるとイギリス は考えた。そこで、もう一度中国と戦争をおこない、中国に打撃を与え、貿易の拡大をはかりたいと考えていた。しかし、戦争をするためには( )がいる。アロー号事件が口実となった。 1856年、中国の広西省でフランス人の宣教師が、逮捕され殺害されるという事件が起こっていた。( )の( )は、 イギリスに便乗して、中国に対し武力行使することを決断した。

    アロー号事件、期待したほど増加しなかった、口実、フランス、ナポレオン3世

  • 25

    アロー戦争 1857.12 英仏連合軍(イギリ ス軍1万・フランス軍6300)が 広州を砲撃し、占領 ↓ 1858.2 英仏米露4か国が条約改正を求めたが清は拒否 *米露は英仏に便乗した ↓ 英仏連合軍が北上し、天津を占領 ↓ 1858.6 ( )を締結

    天津条約

  • 26

    天津条約 ( )と( )、便乗した( )と( )と締結 ①外交官の( )常駐 ②( )教普及の自由と宣教師の保護

    イギリス、フランス、アメリカ、ロシア、北京、キリスト

  • 27

    天津条約 ③( )港の開港  牛荘、登州、漢口、九江、鎮江、台 南、淡水、潮州(⇒汕頭に変更)、瓊州、南京 ④ 国内旅行と商業活動の自由、 河川航行の自由 ⑤ 賠償金の支払い ⑥アヘン貿易の合法化、公文 書において「夷」の文字を使 用しない

    10

  • 28

    1858.6( )を締結 *条約締結後、清の宮廷ではこの条約に対する不満が噴出 野蛮人が北京にやってくる。 我慢できない。 1859.6 条約批准のため、北京に向かった英仏の使節を、 清の軍隊が攻撃 ↓ 1860 戦争再開 ↓ 英仏連合軍が( )、( )を占領。(皇帝は北京を脱出)

    天津条約、天津、北京

  • 29

    1860 戦争再開⇒英仏連合軍が天津、北京を占領。(皇帝は北京を脱出) *英仏両軍は、北京郊外の( )(皇帝の離宮)で略奪をおこない、宮殿を破壊 ↓ 1860.11 ( )を締 結

    円明園、北京条約

  • 30

    北京条約 *イギリス、フランスと締結 ① 天津条約の実施 ② 賠償金の増額 (英仏に合計800万両) ③ ( )の開港 *天津条約と合わせて11港 ④ 中国人の海外渡航の解陸横断鉄道の建設 ⑤ イギリスに対しては、 香港島対岸の( )半島の南部を割譲

    天津、九竜

  • 31

    ロシア 1858 ( )条約 =天津条約と同じ年 アロー戦争で窮地に立つ清に圧力をかけ締結 ①黒竜江(アムール川)以北の地(A)を清がロシアに割譲。 ②ウスリー川以東の地(B)は ロシアと清の共同管理とする 1860 北京条約 アロー戦争の調停の見返りに清に圧力をかけ締結 ウスリー川以東の地(B)を清がロシアに割譲。(ロシアの沿海州となる。ロシアは( )を建設し、東アジア進出の拠点)

    愛琿、ウラジオストク

  • 32

    清がアロー戦争で苦しんでいた頃、中国では大規模な農民、 貧民による反乱が起こっていた。 アヘン戦争の賠償金支払いのための重税が人々を苦しめて いたのである。 反乱軍は、「( )」 を掲げ、独立国家の樹立を宣言した。これが( )である。 指導者が( )

    滅満興漢、太平天国、洪秀全

  • 33

    洪秀全  洪秀全は1813年広州近郊の農村に生まれた。彼は村一番の秀才で、彼の親は彼が科挙に合格し、高級官僚になることを願った。 だから、彼の少年期は受験勉強に明け暮れる毎日 であった。 青年になった彼は、彼は科挙の第一関門である郷 試を広州で受験した。結果は不合格。4度挑戦したが不合格。 失意の彼を救ったのが( )だった。キリスト教の影響を受けて彼は故郷の友人と新しい宗教結社( )をつくった。 秀全は、人々に神(上帝)の前の万人の平等を説き、清を倒 してこの地上に平等で平和な理想国家をつくろうと呼びかけ た。彼のもとに、役人や地主に痛めつけられていた者たち (貧農、炭焼き人夫、賤民など)が集まった。

    キリスト教、排上帝会

  • 34

    1851 洪秀全が金田村で挙兵し、「滅満興漢」を掲げ、太平天国を樹立(兵力1万) *清は「長髪賊の乱」と呼んだ ↓ 1853 太平天国軍が( )を占領(兵力50万) *ここを首都と定め、( )と改名 *洪秀全は「天王」という称号を用いる

    南京、天京

  • 35

    1854 太平天国軍が( )に向かって北上。(兵力300万) ( )にまで迫ったが、清の反撃で退却     失敗      ↓ 1856 太平天国で内部抗争が 勃発し、弱体化      ↓ 1864 太平天国滅亡 *洪秀全はその直前に病死(自殺?) 14年間

    北京、天津

  • 36

    誰が太平天国を滅ぼしたのか? ①から③で答えて ① 清朝の正規軍 ② 漢人官僚が組織した義勇軍 *有力な漢人官僚が故郷で農民たちを集めて組織した義勇軍(volunteer army)で、 その代表が( )が組織した湘軍と ( )が組織した淮軍である。 ③ 外国勢力が組織した軍隊 *外国勢力は、1860年を境に、太平天国攻 撃開始した。イギリス人のゴードンは西洋式訓 練を受けた中国人からなる常勝軍を組織し た。

    ②、③、曾国藩、李鴻章

  • 37

    アロー戦争で敗北した清は、屈辱的な講和条約を締結した。(天津条約・北京条約) また、太平天国は、清が国内の反乱さえ簡単に鎮圧できないほど弱体化していることを露呈した。 太平天国鎮圧に活躍した漢人官僚たちは、清の政界で大きか力を持つことになり、彼らによって清の改革(近代化)がおこなわれた。これが( )である。

    洋務運動

  • 38

    洋務運動 ① 推進者 ( )・( )が中心となって1860年代に開始 ② 理念 ( )…中国の制度や文化・学問を本体(中心、根本、基礎)とし、西洋の科学や技術を用いる(導入する) *政治体制に変更なし(憲法・議会・選挙は採用せず、科挙も続行) ③ 内容 軍事 ・・・ 欧米的な( )の創設(北洋艦 隊など)、 兵器工場の建設 産業 ・・・ 紡績工場・鉱山事業・電信事業の育成 教育 ・・・ 近代的な学校の建設

    曾国藩、李鴻章、中体西用、海軍

  • 39

    洋務運動は成功したの? ④ 限界 政治制度、社会制度の根本的な改革はできず、表面的な改革に終わった。 日清 *だから、( )戦争で敗れたともいえる。

    日清

  • 40

    イギリス使節マカートニーが派遣された目的は?

    貿易条件の改善など対等な主権国家として近代的な国際関係を結ぶこと

  • 41

    当時の清はどのような貿易の方式を取っていた? 生徒B:( )貿易が原則で、西洋との貿易は( )1港のみで特許商人組合の( )を通しておこなっていました。 先生:当時のイギリスでは、( )を飲む習慣が広がって輸入量が増加していた。でも要求は拒否され、中国式の儀礼も求められて交渉は決裂したんだ。 生徒A:そうか、だからイギリス人は乾隆帝を( )イメージで描いたんですね。

    朝貢、広州、公行、茶、尊大な

  • 42

    列強の中国進出 国名   租借地 ロシア ( )・( ) ドイツ ( ) イギリス ( )・( ) フランス ( ) 日本   ( ) アメリカ ( )の( )

    旅順、大連、膠州湾、威海衛、九竜半島、広州湾、遼東半島南部、ジョン=ケイ、門戸解放通牒

  • 43

    アメリカの門戸開放通牒 ( )・( )・領土保全

    門戸開放、機会均等

  • 44

    日清戦争後の中国 ( )らが中国分割の危機を感じる…清を立憲君主制に改め、近代化の推進を主張 →( )(1898年)・・・( )を動かして、中央政府を改革 →( )…( )ら保守派が変法を弾圧し( )を幽閉

    康有為、戊戌の変法、光緒帝、戊戌の政変、西太后、光緒帝

  • 45

    西太后…光緒帝を擁立し、( )として実権を握った

    摂政

  • 46

    この頃朝鮮では( )がおこり、事件後朝鮮はロシアにより接近していた。ロシアの影響下で、1897大韓帝国と改称

    閔妃暗殺事件

  • 47

    戊戌の変法 明治維新に倣って憲法制定・( )制を目指す ↓協力依頼 ( ) ↓密告 戊戌の政変

    立憲君主、袁世凱

  • 48

    勢力を拡大する列強の存在に民衆が反発 ↓ 宗教的武装集団の( )は「( )」をとなえて排外運動をおこす ↓ ( )は1900年に北京に入り外国公使館を包囲 ↓ 清の保守派はこの運動 を利用して列強に対抗しようとし、各国に宣戦布告 →( )…日本とロシアを主力とする8か国連合軍が北京を占領 →( )(1901年)・・・清は巨額の賠償金の支払いや外国軍隊の北京駐留を認める

    義和団、扶清滅洋、義和団、義和団事件、北京議定書

  • 49

    ( )…1866~1925 「中国革命の父」 現在の中国でも「国父」と呼ばれる 中国では孫文よりも孫中山が一般的であり、孫中山先生と呼ばれている。 広東省香山県翠亨村(現中山市)の農家に 生まれる。9歳にして父を失い、14才で兄を頼ってハワイに渡りカレッジで学んだ。西洋思想に目覚めるが、兄や母が西洋思想に傾倒する孫文を心配し、19歳で中国に戻された。 帰国後、香港で医学を学び、マカオで医師として開業した。しかし、個人を救う医師より も危機の中国を救うほうが大切だとして、革命運動に飛び込んだ。1894年、27歳の時にハワイで「( )」を掲げて( )を組 織した。

    孫文、滅満興漢、興中会

  • 50

    翌年、広州に戻り武装蜂起を企てたが、密告され日本に亡命した。以後、革命資金を集める為、世界中を巡った。 1905年,宮崎滔天 ( )らの援助で東京池 袋にて清朝打倒をめざす興中会、光復会、華興会を合同して( )を結成した。この時、孫文は日本留学中の( )と出会った。1911年10月に辛亥革命 が始まった時、孫文はアメリカにいたが、急ぎ中国に戻った。

    トウテン、中国同盟会、蔣介石

  • 51

    ( )…義和団戦争以後,清がはじめた近代国家建設に向けた改革 1901( )〜1908 ①( )主導により清朝が推進した政治改革 *光緒帝は幽閉状態 *西太后自身がつぶした「戊戌の変法」の改訂版 *袁世凱らにより推進 ②改革の内容 (1) 1300年続いてきた( )の廃止(1905) ⇒ 留学生の外国、特に( )への派遣による新型官僚の育成 (2)憲法大綱を制定し、9年後の( )の開設の公約 (3)西洋式軍隊(「( )」)の創設など

    光緒新政、光緒新政、西太后、科挙、日本、議会、新軍

  • 52

    1904~05 日露戦争 1905興中会、光復会、華興会 →( )が結成(東京) ( )が総理  合同 ( ) ①( )の独立・・・ 満州族の支配を打倒、漢民族の独立 ②( )の伸長・・・国民の権利の伸長、共和政の樹立 ③( )の安定・・・ 国民生活の安定、大土地所有の制限 ※中国同盟会には、日本に留学していた中国人留学生300名も参加した。彼らの帰国によって革命運動は全国に広がり、軍隊や民衆の間に支持を広げ、各地で武装蜂起が実行された。これらの武装蜂起は失敗したが、清朝打倒の機運は全国に広がっていった。また、この頃になると、工場を経営す る中国人(民族資本家)が多数生まれており、彼らは地方の有力者(郷神)と ともに鉄道や鉱山などの権利を外国資本から買い戻す運動を進めていた。

    中国同盟会、孫文、三民主義、民族、民権、民生

  • 53

    1908 光緒帝没、第12代宣統帝(( )・2歳)即位、西太后没

    溥儀

  • 54

    1911 5/9 清朝政府が鉄道国有化と外国資本による鉄道敷設を発表 *国有化の対象となったのが、中国の民族資本により建設された粤漢(エツカン)線A、川漢(センカン)線Bであった。 *国有化した鉄道を担保に列強から借金する計画であった ↓ ↓ 中国人が建設した鉄道なのに!!! ↓ 6/17 ( )省で国有化反対運動が発生 ↓ ↓ もう我慢できない、清では絶対にだめだ ↓ 9/8 反対運動が激化し(20万)、軍隊 と衝突(「( )」)

    四川、四川暴動

  • 55

    9/8 反対運動が激化し(20万)、軍隊 と衝突(「四川暴動」) ↓ 「10/10 「四川暴動」鎮圧に向かった軍隊が革命派に転じて( ) で蜂起( ) ↓ 流れが変わった ↓ 中国各地で革命派の武装蜂起が起こ り、華北華中華南の 18 省のうち 14 省が清からの( )を宣言

    武昌、武昌蜂起、独立

  • 56

    革命派 孫文ら 1912 1/1( )建国が宣言 首都:( ) 臨時大總統:( ) *アジア初の( )

    中華民国、南京、孫文、共和国

  • 57

    清朝 軍の実権を握る( )を総理大臣につけ、革命鎮圧を命令

    袁世凱

  • 58

    しかし、袁世凱率いる清軍との戦争(内乱)は避けなければならない。内乱になれば列強が介入し、列強の中国支配が進んでしまう ↑ 取引 ↓ 袁世凱 俺を大総統にするなら、宣統帝を退位させ清を滅ぼしてやる 選挙が実施されたらその結果に俺は従うよ 共和制は維持するから心配するな 2/12 宣統帝( )が退位 *6歳 ⇒ ( )

    溥儀、清滅亡

  • 59

    袁世凱 1912 2/15 ( )に就任 *1913年に正式に大総統に就任 ↓ ↓弾圧 ↓ 革命派孫文ら *1913年9月、孫文は日本に亡命 1915 12/12 ( ) 復活を宣言( ) ↓ ↓国内で猛反発、列強も反対 ↓ 1916 3 帝政復活を断念    6/6 死去 以後、中国は地方政権( )が各地に乱立

    臨時大統領、帝政、中華帝国、軍閥