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歴総 1年学期末
  • ゆうみ

  • 問題数 100 • 12/16/2024

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    問題一覧

  • 1

    ー戦間期の日本ー 大正時代(1912-1926) 第一次世界大戦 1914 ( )政権…( ) ↕︎ →中国への進出をはかる 1918 ( )政権…( ) このころの景気は? ( )…輸出>輸入  成金が出ていたり…

    大隈重信、二十一か条の要求、寺内正毅、借款、大戦景気

  • 2

    1918 寺内正毅政権…借款          シベリア出兵も    社会運動   ↓これが原因で       ( )県から( )が勃発          ↓         辞職

    富山、米騒動

  • 3

    米騒動で辞職した寺内正毅の次は?

    原敬

  • 4

    原敬…( )    →外務・陸・海以外全て( )の党員

    本格的政党内閣、立憲政友会

  • 5

    原敬は普通選挙肯定的?否定的?

    否定的

  • 6

    原敬政権の頃 1920 ( )…不景気  これがずっと続いていく    ↓ また  ↓  原敬暗殺   社会運動が活発に         ↑      ロシア革命の影響も

    戦後恐慌

  • 7

    《戦後恐慌からの社会運動》 労働者 ・( ) 1920年5月2日の日曜日、東京の上野公園で行われ、8時間労働制の実施や最低賃金法の制定などを訴えた ・( ) 全国組織結成 農民 ・( ) 全国組織結成

    第1回メーデー、日本労働総同盟、日本農民組合

  • 8

    《戦後恐慌からの社会運動》 女性 ・( ) この人たちが発刊した『( )』(1991) …「( )」と言う考え方に対抗し、女性としての自覚を促そうとする     ↓     ↓ ・( ) この人たちは1920年に( )を組織し、女性参政権と治安警察法の改正を要求

    平塚らいてう、青鞜、良妻賢母、市川房枝、婦人協会

  • 9

    平塚らいてうらが創刊した青鞜の有名な言葉は?

    元始、女性は太陽であった

  • 10

    《戦後恐慌からの社会運動》 被差別部落 ・( )(1922年結成) …( )を出して被差別部落に対する差別の撤廃を訴え、人間の尊厳や自由と平等を求める

    全国水平社、水平社宣言

  • 11

    水平社宣言で、1922年3月3日全国水平社の 創立大会において、読み上げられた有名な言葉は?

    人の世に熱あれ、人間に光あれ。

  • 12

    《戦後恐慌からの社会運動》 ロシア革命の影響によりマルクス主義の思想と運動が日本でもひろがる  ↓ 1922年( )がひそかに結成される ( )のように植民地であった朝鮮の人々と連帯する動きもみられた

    日本共産党、金子文子

  • 13

    《戦後恐慌からの社会運動》       ⇩   普通選挙にしようよ!!        1923 ( )        1924清浦奎吾政権…非政党内閣    特権内閣だ!と批判       ↓ ・( )党首の会談 1924年1月 立憲政友会: 高橋是清←原敬の次の人  憲政会 : 加藤高明 革新倶楽部: 犬養毅 3党首が会談して( )を結成    ↓  ( )にたちあがった

    関東大震災、護憲三派、護憲三派、第ニ次護憲運動

  • 14

    第2次護憲運動(1924年)以降、日本の政治は衆議院で多数を占める政党の 総裁が首相として政権を担当する政党内閣の時代が続いた(1932年まで) この時代を( )という

    憲政の常道

  • 15

    1925 ( )①内閣 ←清浦反対! ( )内閣        ( )制定→有権者増大    ( )制定→社会運動を抑える

    加藤高明、護憲三派、普通選挙法、治安維持法

  • 16

    治安維持法とは? 天皇を中心とする秩序である「( )」の変革や、( )の否認を目的とする結社を禁止し、取り締まるための法律 社会運動を取り締まる 地主たち→社会運動が広まりすぎたら共産主義なってしまう!それはだめ 背景には、1925年の( )締結(ソ連との国交樹立)に伴う社会主義思想の国内は旧への強い警戒心

    国体、私有財産、日ソ基本条約

  • 17

    大衆化の文化=( ) 学校教育の普及→人々が読み書きの能力を有する→大衆雑誌「キング」や「主婦之友」などの女性雑誌が発行部数をのばし、1冊1円の( )も登場 ・・・広告による大々的な宣伝=大衆化の特徴 ・1925年には( )開始 ・・・ニュースや天気予報のほか、相撲や野球の中継、音楽や朗読などの番組増加

    大衆文化、円本、ラジオ放送

  • 18

    1925.8-1926.1 加藤高明② 憲政会内閣 1926.1–1927.4 ( )①内閣   憲政会内閣 →( )(協調外交=中国に手を出さない)          ↑ この頃の中国は( )を行っていた

    若槻礼次郎、幣原外交、北伐

  • 19

    若槻礼次郎① ↓ 1927.4–1929.7 ( )内閣 立憲政友会内閣 幣原外交への不満→積極的外交政策 [背景] 不景気→中国への進出を求める産業界の要請→中国情勢の混乱→日本人の保護 中国への出兵 ・( ) 蒋介石の( )に対して、居留民保護を名目に出兵 これののち、 ・( )(1928)…日中両軍が衝突し済南城を日本軍が占領 ・( )(1928) …負けたから殺す→後始末内閣辞職 ※欧米に対しては、「国家の政策の手段としての戦争」をほうきする( )条約に調印

    田中義一、山東出兵、北伐、済南事件、張作霖爆殺事件、パリ不戦

  • 20

    田中義一 ↓ 1929.7–1931.4 ( )内閣    立憲民政党内閣 外交…幣原外交へ戻すことを目ざす ・( )(1930) →積極的な中国政策を求める勢力はこの外交に反対=( ) 経済…不景気の克服を目指す     ↓ ( )にして為替を安定させることで、輸出を伸ばすそのために、まず国内の産業を合理化しよう=( )=さらに不景気になる     ↓     ↓     ↓1929〜 ( )     ↓     ↓ 1930.1 ( )=( )に戻す しかし、輸出は伸びずさらに深刻な不況 浜口雄幸内閣つづく

    浜口雄幸、ロンドン海軍軍縮条約、統帥権干犯問題、金本位制、デフレ政策、世界恐慌、金輸出解禁、金本位制

  • 21

    浜口雄幸内閣 批判が高まる 1931.4–1931.12 ( )内閣② 立憲民政党内閣 1931 ( )勃発 1931.12–1932.5 ( )内閣 1932 ( )により暗殺

    若槻礼次郎、満洲事変、犬養毅、五・一五事件

  • 22

    1929.10.24 は何と呼ばれている?

    暗黒の木曜日

  • 23

    アメリカにおける大恐慌発生のメカニズム      「( )」という幻想      ↓ ↓ ↓ 企業の積極的 銀行の 農業の機械化の な設備投資 ← ( ) 進行  ↓ ↓  ( ) ( )  ↓ ↓ 企業倒産 →銀行倒産  農作物価格低下  ↓ ↓ による農業不況 大量の失業者   ↓ ↓  ↓ ↓ ↓     大恐慌(長期の不況)

    永遠の繁栄、過剰融資、過剰生産、過剰生産

  • 24

    アメリカの大恐慌の原因は?

    過剰生産

  • 25

    各国の工業生産の推移 アメリカ ドイツ イギリス 日本 ソ連 1から順番に当てはまるものをかけ

    ソ連、イギリス、日本、ドイツ、アメリカ

  • 26

    各国の失業率の推移 アメリカ ドイツ イギリス 日本 1から順番に当てはまるものをかけ

    ドイツ、アメリカ、イギリス、日本

  • 27

    日本は世界恐慌の時に金本位制にしたことで大失敗し、( )が起こった

    昭和恐慌

  • 28

    アメリカの大恐慌なぜ世界恐慌に? ドイツ ( )以降、アメリカ資本(企業)が進出し、この国の経済復興を支えていたが、恐慌の開始と共にアメリカ資本 (企業)が一斉に引きあげた。その結果、この国の失業率はアメリカを上回ることになった。政府の税収も落ち込み、賠償金の支払いが困難になった。

    ドーズ案

  • 29

    アメリカの大恐慌なぜ世界恐慌に? ( )、( ) ドーズ案によってアメリカがドイツの代わりに賠償金を払っていた。これに依存していたため、深刻な影響を受けた

    イギリス、フランス

  • 30

    アメリカの大恐慌なぜ世界恐慌に? 日本 アメリカ向け輸出が激減(特に生糸)し、深刻な不況に=( )

    昭和恐慌

  • 31

    世界恐慌後日本のアメリカへの輸出品である( )が特に減少

    生糸

  • 32

    日本にとって生糸とは 明治時代の最大の輸出品 →なぜ? 原料を輸入しなくても国内で生産が可能だから 特に( )で多く作られる

    富岡製糸場

  • 33

    世界恐慌の対策 ①ブロック経済 自国産業を保護するため( )政策への転換(輸入品に対する高関税) ↓ 自国本位の解決策を追求 ↓ 排他的経済圏( )の構築 ブロック内…無税、低関税 ブロック外…高関税

    保護貿易、ブロック

  • 34

    ブロック経済 例:( )会議(( )会議)(1932)…カナダで行われた、連邦内の商品に無税もしくは低関税→閉鎖的な( )が形成される

    イギリス連邦経済、オタワ、スターリング=ブロック

  • 35

    ブロック経済 ( )=ブロック (金ブロック) フランス フランスの植民地 オランダなど

    フラン

  • 36

    ブロック経済 ( )=ブロック アメリカ 中南米諸国

    ドル

  • 37

    ブロック経済 ( )ブロック 日本 台湾・朝鮮 満州

  • 38

    世界恐慌の対策② フーヴァ…自由主義経済 当時の大統領 ↓ ↓ ↓ ( )…フランクリン・( )  政府が積極的に経済活動に介入することで  経済を立て直す イギリス:ケインズ( )

    ニューディール、ローズヴェルト、修正資本主義

  • 39

    ニューディールの内容 ①( ) (( ) National Industrial Recovery Act 1933) …過剰生産を抑え、国内の購買力回復することをねらい、各産業を政府が指導し、生産量や価格を調整する。同時に労働者の権利を保護し、労働組合結成および団体交渉の権利を認めた。 ※2年後、最高裁判所の違憲判決 (1935)によりこの法律は停止された。

    全国産業復興法、NIRA

  • 40

    ニューディールの内容 ②( )(( ) Agricultural Adjustment Act 1933) 農産物の生産を解消するために、農業の作付け制限し、 農産物価格を引き上げをはかった。作付け制限により収入が不足する農家には補助金を支給した。

    農業調整法、AAA

  • 41

    ニューディールの内容 ③( )設立(( ) Tennessee Valley Authority 1933) ... 政府が成立した公社によって、テネシー川流域のダム建設=公共事業、 治水事業、植林、など総合的開発を行い、地域産業を興し、 雇用を増大させることを意図した。これによって42のダムが 造られ、電力供給は安定し、流域の農業生産性は向上し、 成功を収めた。

    テネシー渓谷開発公社、TVA

  • 42

    ④( )制定(Social Security Act 1935) ...自由放任(自己責任)を修正し、失業保険・退職金制度・年金制度 などを整備。 ⑤( )制定(1935) ・・・労働者の団結権・団体交渉権・団体行動権を保障し、企業の「不当労働行為」(組合に 対する干渉、抑圧、強制、援助、妨害、雇用条件による差別、 組合活動を理由とした解雇、団体交渉の拒否)を禁止。

    社会保障法、ワグナー法

  • 43

    世界各国が恐慌にまきこまれるなか、ソ連では レーニンのあとをついで指導者となっていた( )が、第1次( )という形で、急速な( )による社会主義建設をおしすすめていた。 ソ連は、資本主義国との経済関係が少なかったこともあり、恐慌の影響をあまり受けなかった。 スターリンは、そのころ強制的な( )を推進した。それに反対する農民を大量に追放したことは、農村の混乱をまねき、農業生産自体が停滞したほか、過酷な穀物調達による飢饉で多くの犠牲者をうんだ。また、1934年から大規模な( )をおこない、多数の無実の民衆をふくむ反対者を処刑・処罰し、独裁体制を確立した。

    スターリン、五か年計画、工業化、農業集団化、粛正

  • 44

    農業集団化とは? 農民の小経営を、( )(集団農場)や( )(国営農場)にまとめていくこと。

    コルホーズ、ソフホーズ

  • 45

    ( )…WW2前 ( )からヨーロッパ各地へ ( )をあおるいっぽう、↓や議会主義は否定 共産主義…ソ連で労働者を中心に 資本家と労働者を分断←ファシズムの考え

    ファシズム、イタリア、ナショナリズム

  • 46

    ミュンヘンに戻ったヒトラーは、兵士が社会主義に感化されるのを防ぐ工作員(スパイ)となり 1919年7月 「ドイツ労働者党」に入党した。 彼は( )で頭角を表し、党の幹部にのし上がっ た。 1920年「ドイツ労働者党」が「( )」 (Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei→ Naziナチ、複数形でNazisナチス) に改称され、 1921年ヒトラーはこの政党の主導権を握った。 1923年、ヒトラーはムッソリーニの真似をして、ミュンヘンでワイマール共和国打倒の武装蜂起( )を実行したが、期待していた軍隊の協力が得られず簡単に鎮圧され、禁錮5年の判決を受け服役することになった。(1924年4月~ 12月) 釈放後、ヒトラーは方針を転換した。選挙での議席獲得によって権力を握ってやろう。

    演説のうまさ、国民社会主義ドイツ労働者党、ミュンヘン一揆

  • 47

    国民社会主義ドイツ労働者党の議席数の推移 国会選挙 1928年5月20日     12 —————1929.10 世界恐慌開始—————— 1930年9月14日    107 1932年7月31日    230         第1党 1932年11月6日    196 —————1933.1 ( )首相就任———————- 1933年3月5日. 288

    ヒトラー

  • 48

    これはなに? ナチ党のレクリエーション組織「( )」

    歓喜力行団

  • 49

    1920国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党) ↓ 1921ヒトラーが主導権を握る ↓ ↓イタリア:( )を真似て ↓ 1923/11 ミュンヘン一揆(ミュンヘンで政権奪取の武装蜂起) ⇒ 失敗 選挙で権力を握ってやる! ↓ 1928/05 国会議員選挙で12名が当選 ↓ 1929/10世界恐慌開始 ↓ ↓これを利用して議席を増やす ↓ 個人のためが重要視→( )も議席数を増やす ↓ 1933 ヒンデンブルク大統領がヒトラーを( )に任命

    ムッソリーニ、共産党、首相

  • 50

    ナチ党が議席数を増やしているとき(まだヒトラー首相じゃない) このころドイツの中心は 政治家、資本家 …他の国とヴェルサイユ体制を守って経済復興 ( )…資本主義なため共産党はいや!ナチの方がいい!

    社会民主党

  • 51

    1920-30年代のドイツ 主力だった3つの政党答えて

    ナチ党、共産党、社会民主党

  • 52

    ヒトラー首相 政策 ( ) 軍事インフラ整備が目的。仕事が与えられるのはヒトラーのおかげだという考えが広まる

    アウトバーン

  • 53

    ヒトラー首相 共産党を倒そう! 1933.2 ( )→共産党を弾圧 ※ヒトラーが最大限活用したのが、ヴァイマル憲法の「( )」であった。これは緊急事態にに際して大統領が国民の権利を停止できる権限で、ヒトラーは大統領に集会・デモや言論を統制する統領緊急令を出させ、ナチ党に反対する政党やメディアの活動を抑え込んだ。

    国会議事堂放火事件、緊急事態要項

  • 54

    1933/03/05 国会議員選挙で288名が当選 大統領緊急令で共産党を非合法化し、共産党が獲得した 81 議席を剥奪したため、ナチ党だけで会議員の( )を占めることになった。

    過半数

  • 55

    1933/03/23 ( )制定 ①ドイツ国の法律はドイツ政府(ヒトラー内閣のこと)によっても制定されうる ②ドイツ政府によって制定された法律は憲法に違反することができる。 ↓ ヴァイマル憲法の( )…憲法は残っているが、憲法としての効力がなくなった ヒトラーが率いる政府に無制限の権力 ヒトラーの時代がはじまる

    全権委任法、死文化

  • 56

    1933/4/7 ( )人の公職追放    5/2労働組合の解散 6/22 社会民主党の活動禁止 10/14 国際連盟から脱退 12/1 ナチ党以外の政党の活動禁止(独裁の完成) 1944 ( )がポーランドに作られる

    ユダヤ、アウシュビッツ

  • 57

    ドイツ・イタリアの対外侵略 1934/08 ヒンデンブルク大統領死去し、ヒトラーが大統領と首相を兼ねる国家元首( ) に就任 ※総統就任に関する国民投票が実施されが、投票率は96%で、賛成票の割合は90%であった。 ヴェルサイユ体制打破をめざすナチ党は、1935年に( )宣言・徴兵制復活を断行 1936年にはロカルノ条約を破棄して、ドイツ軍隊による軍備禁止区域の( )に進駐をおこなった

    総統、再軍備、ラインラント

  • 58

    イギリス・フランスはドイツのラインラント進駐に抗議したが、それ以上の行動は取らず黙認=( )

    宥和政策

  • 59

    イタリア 1935年に( )侵略をはじめた(ドイツの再軍備宣言の年) しかし国際連盟は効果的な制裁措置をとれず ↓ 1936年イタリアはエチオピアを併合した 同年に( )がおこると、ドイツ・イタリアは右翼勢力・軍部の支持するフランコ将軍の側に立って軍事介入をおこなった。

    エチオピア、スペイン内戦

  • 60

    スペイン内戦…ファシズムVS反ファシズム ↓ ↓ 「( )」( )作…バスク地方の街( )へのドイツ空軍の無差別空爆劇に抗議して描かれた

    ゲルニカ、ピカソ、ゲルニカ

  • 61

    スペインでも、ドイツやイタリアの影響を受けて、保守勢力(軍部・地主・資本家・教会) の間にファシズムを支持する者が増大していた。しかし、1936年3月の選挙でファシズムに 反対する勢力が勝利し、( )が誕生した。これに対し、人民戦線政府に反対する軍部 が反乱を起こした。その中心が( )であった。

    人民戦線政府、フランコ将軍

  • 62

    スペイン内戦 イギリス・フランス…宥和政策のため( ) ソ連…( )側を支援 世界各地…( )側を支援 ↓ 国がしないから個人での支援→( ) VS ドイツ・イタリア…( )側を支援

    不干渉政策、人民戦線政府、人民戦線政府、国際義勇軍、反乱軍

  • 63

    ゲルニカの場所は?

    ドイツの上らへん

  • 64

    1938/03 ( )を併合 ※翌月にオーストリアで行われた国民投票で99.9%が賛成 /04 チェコスロヴァキアに( )地方の割譲を要求 ドイツ人が住んでいる

    オーストリア、ズデーテン

  • 65

    /09 ( )会談(英・仏・独・伊)開催 *ヒトラー「領土要求はこれが最後だ」 チェンバレン(英首相)「わかった。それなら併合を認めよう」 /10 ズデーテン地方を併合

    ミュンヘン

  • 66

    1939/03 チェコスロヴァキアを解体 ※チェコをドイツに併合(保護領)、自治を認めるが国として扱わない スロヴァキアを保護国に国として扱うが外交・軍事はドイツが握る /08 独ソ不可侵条約締結 /09/01 ( )に侵攻→第二次世界大戦勃発

    ポーランド

  • 67

    スペイン内戦は第二次世界大戦前?あと?

  • 68

    満州事変 ①背景…世界恐慌の影響→( )の構築=満州進出 中国では民族資本が活発化=( )建設 ・中国では( )党と( )党が対立

    円ブロック、満洲並行線、国民、共産

  • 69

    満州事変 ②( )(1931.9.18) 若槻礼次郎② 立憲民政会 不拡大→なぜ? 幣原外交だから ・世論は戦争賛成

    柳条湖事件

  • 70

    満州事変 ③( )(1932)→国際連盟により派遣 調査の結果 日本は撤退してください 満州は傀儡国家! 関東軍の工作で、清の最後の皇帝( )を執政とする( )の建国が宣言 ↓ 1932 日本政府は( )により承認

    リットン調査団、溥儀、満洲国、日満議定書

  • 71

    リットン調査団の報告書をふまえ、国際連盟は日本軍の撤収を求める勧告案を採択 →日本は反発、国際連盟脱退を通告 1922年主力艦制限  ↓ →( )の廃棄を通告するなど、国際的孤立の道をたどる ・国際連盟の無力をみた( )も国際連盟を脱退(1933年10月)

    ワシントン海軍軍縮条約、ドイツ

  • 72

    リットン調査団の調査を経て 1933 日本の国際連盟脱退 この時の外交は( )

    松岡洋右

  • 73

    恐慌からの脱出 ( )内閣の蔵相( ) ↑ 統帥権干犯問題では浜口内閣の外交を批判 {行ったこと} 金輸出再禁止を断行 =日本は金本位制に戻すと貿易が活発になり輸出が伸び で景気が回復すると考えて金解禁をしたが、世界恐慌 になったのでやめた ↓ 財政支出増大で景気回復をはかる =満洲事変の勃発 ↓ 政府が軍需産業にテコ入れ

    犬養毅、高橋是清

  • 74

    1933 ( )輸出世界一 金本位制廃止→( )に 満州事変ののち景気回復

    綿織物、変動相場制

  • 75

    このグラフをみると、( )の発生にともな い日本の輸出額は急減するが、1931年ごろから回復して いく。この背景には満洲事変のさなかに成立した犬養毅内 閣の蔵相 ( )により( )が断行されたため、円の価値が暴落し、いわゆる円安状態 になったことがある。とくに ( ) 輸出は1933 年に( )を抜いて世界第1位となった。この め↑との間に深刻な貿易摩擦が生じるようになった。 また、重化学工業化の進展は、日本が原材料の確保を求めて( )にのりだす一因となった。

    世界恐慌、高橋是清、金輸出再禁止、綿織物、イギリス、華北分離

  • 76

    ■軍部の発言力の増大 満洲事変前後に、軍人や右翼=保守派に政党内閣への不満が高まる 不況失業 格差 貧困 低賃金などなど →( )(1932年5月15日)・・・海軍青年将校らが( )首相を射殺 =政党内閣(選挙の結果を反映した内閣)が終わり、軍人出身の首相の内閣になった事件 =戦前における政党内閣の最後 →海軍大将の斎藤実と岡田啓介があいついで ( )内閣を組織 挙国一致とは 国家の危機に際して諸党派が協力する この時は、穏健派軍人を首班とし軍部や 政党の要人を取り入れた内閣がつくら

    五・一五事件、犬養毅、挙国一致

  • 77

    政党政治への不信は深く・・・ ・陸軍内部では( )将校と( )将校の対立が激化

    皇道派青年、統制派

  • 78

    ( )青年将校 …急進的な国家改造を目指す 実力行動により、天皇中心の軍国主義国家を形成し、国家の矛盾を解決しよう ( )将校 …合法的に総力戦体制を構築 資本家らの支持を得て、選挙によって国政を掌握し、軍事国家を形成する

    皇道派、統制派

  • 79

    →( )(1936年2月26日) ……皇道派青年将校が高橋是清蔵相らを殺害 →反乱軍として鎮圧される =皇道派の敗北 陸軍の主導権争いの中で起こった事件。この結果、 統制派が軍の実権を握り、政治家や官僚、財界と結んで大きく政治に関与するように

    二・二六事件

  • 80

    →( )内閣: 膨大な軍備拡張計画 ドイツと接近し( )締結 二・二六事件のあと、軍部の意向を重視した内閣 ( )を復活させた 中国への進出や東南アジアへの進出の方針を定めた

    広田弘毅、日独防共協定、軍部大臣現役武官制

  • 81

    →のちにイタリアが加わり( )に発展 1937( )内閣の時

    日独伊三国防共協定、近衛文麿

  • 82

    溥儀 ラストエンペラー  わずか2歳で清の第12代皇帝( ) に即位したが、 やがて辛亥革命がおこり在位3年で退位した 1924年には、退位後も暮らしていた( )を追われ、天津の( )に保護された。溥儀が関東軍に協力したのは、彼の願いである清の復活を満洲国に期待したためであった。

    宣統帝、紫禁城、日本租界

  • 83

    ソ連が共産党を広めるために作ったのは?

    コミンテルン

  • 84

    日独防共協定の目的について 首相:( )のとき ソ連の( )による共産主義運動が日独に広まらないようにしようという協定

    広田弘毅、コミンテルン

  • 85

    日本の輸出額の推移 1、2の出来事 3の年代を答えよ

    金解禁、金輸出再禁止、1931

  • 86

    満州の駅の名前答えて 左右下

    柳条湖、長春、奉天

  • 87

    満州の地名上から

    黒竜江、遼寧、吉林

  • 88

    盧溝橋への道 ■日本 1933 日本は満州国の支配を確立し、中華民国と停戦→( )への軍事行動の拡大をはかる ■中国 日本軍の華北支配に対する批判が高まる ↓ 社会主義の( )と資本主義の( )が抗日で一致   共産党   1934 瑞金から延安への( )→→   1935 ( )で抗日統一戦線提唱 ↓              ↓ 終了し、( )に抗日本拠地を築く←   国民党   1936 ( )…( )による蒋介石を監禁    軍備拡張もしつつ

    華北、共産党、国民党、長征、八・一宣言、延安、西安事件、張学良

  • 89

    中国の国民政府 また、アメリカイギリスの支援による( )が行われ、経済は発展しつつあった

    通貨統一

  • 90

    ( )(1936年12月) ( )が蔣介石を監禁し抗日の実施をせまる ↓ 張作霖の息子。父の死後、日本の反対を排除して満州を国民政府のもとに統一し副主席となった。満州では抵抗せず、将軍の任を解かれた。1935年以後は中国共産党の討伐にあたったが、成果を上げられないまま西安に入った。そのころから同じ中国人と戦うことへの疑問の声が強くなった。秘密裏に共産党のエ作員と接触するようになった。1936年12月、張学良は西安に視察にきた蔣介石を監禁し、内戦の停止と( )と協力して日本軍と戦うことを要求した。張学良は事件後、自ら国民政府の裁判を受けその拘束下に入り、2001年に100歳で亡くなるまで、軟禁状態で生涯を送った。

    西安事件、張学良、中国共産党

  • 91

    ( ) 1937年7月 7日、北京郊外の盧溝橋付近で日中両軍が武力衝突した。 日本は1901 年の北京議定書により、 北京周辺に軍隊を駐留していた

    盧溝橋事件

  • 92

    ( )…1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中間の全面戦争 →中国共産党と国民政府は、( )により( )を結成 →抗日を支持する人々を組織し抗戦体制をととのえる

    日中戦争、第二次国共合作、抗日民族統一戦線

  • 93

    日中戦争の経過 1937年12月 日本軍は( )を占領 →( )首相は声明。和平の道をとざす (1938年1月) ・中国国民政府は( )に移って抗戦続行 ↓ 日本軍は1939年から↑に無差別爆擊 ↓ 日本の兵力動員は限界 ↓ 戦争終結の見通しを失い、中国の抵抗により戦争が長期化

    南京、近衛文麿、重慶

  • 94

    南京占領の時 中国国民政府は南京にあったのでは? 日本は国民政府を南京から( )へと移していた また、近衛文麿が言ったのはなに?

    重慶、国民政府を対手とせず

  • 95

    近衛文麿「国民政府を対手とせず」 ↓ 日本は、蔣介石政権を中華民国政府として認めない。日本は、東アジアの新秩序をつくろうとしており、それに賛同する政権が出てくることを期待するという立場。東アジアの新秩序とは、日本の特別な権益が容認され、日本が中心となる国際社会のことである。 英米そはこのような動きに反発し、国民政府を応援=( ) →日本は蔣介石との交渉を断つ→親日派の( )政権と交渉

    援蒋ルート、汪兆銘

  • 96

    1から5の地名

    盧溝橋、延安、西安、重慶、南京

  • 97

    張学良が蔣介石を監禁し、抗日の実施をせまった場所…( ) 日本と中国が全面戦争を開始するきっかけとなる事 件がおこった場所…( ) 拠点を移して抗戦を続ける国民政府に対し、日本軍 が無差別爆撃をおこなった場所…( ) 国民政府の有力者であった汪兆銘に日本がつくらせ た新たな国民政府の根拠地…( ) 長征を終えた中国共産党が抗日の拠点とした場所…( )

    西安、盧溝橋、重慶、南京、延安

  • 98

    日中戦争下の日本 ・( )内閣が中心となって、戦時体制の構築を進めた ・挙国一致、尽忠報国、堅忍持久 ・近代社会につくられた自発的組織は解散させられた ・労働と生活をささえるための勤労奉仕や共同作業 ・メディアを組織した( )の展開 …戦争の遂行に即した生活態度が求められる

    近衛文麿、国民精神総動員法

  • 99

    ( )(1938年公布)・・・人とモノを動員するしくみをつくる 議会の承認なしに政府が人・物を動員する権限を持つ →( )…1939年から工場への動員開始 →1941年から米が配給制に ・政党はすべて解散→( )発足(1940年)

    国家総動員法、国民徴用令、大政翼賛会

  • 100

    ( )……大政翼賛会の末端組織。近隣の家々を組織。回覧板により改府の意向を伝達。種々の訓練や物資の配給等の分配事務なども行った

    隣組