問題一覧
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インドだよ 16世紀前半 1526 ( )帝国が建国 ※建国者のバーブルはアフガニスタンから北 インドに侵入し建国 ※スンナ派( )な国教 ※都( ) 17世紀 1658 アウラングゼーブ帝即位式 ※最大領域 ※イスラームを強制し、ヒンドゥー教徒などを弾圧 ↓ 18世紀〜 ヒンドゥー教徒の反発 (( )らへんにいる) ( )などの各地の勢力がムガル帝国から離反し自立し、分裂状態になっていた
ムガル、イスラーム、デリー、デカン高原、マラーター同盟
2
ムガル帝国が分裂してる時の ( ) 1600 ( )の設立 →この会社は単なる貿易会社ではなく、( )を有し、支配した地域の徴税権や司法権をも有した 1623 ( )との争いに敗れ、東南アジアから撤退 1639( )(チュンナイ)獲得 1661( )(ムンバイ)獲得 1690( ) (コルカタ)獲得
イギリス、東インド会社、軍隊、オランダ東インド会社、マドラス、ボンベイ、カルカッタ
3
イギリスが獲得したとこの名称順に答えて
マドラス、ボンベイ、カルカッタ
4
ムガル帝国が分裂してる時の ( ) 1664 東インド会社設立 1673 ( )獲得 1674 ( )獲得
フランス、シャンデルナゴル、ポンディシェリ
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フランスが獲得したところ
ポンディシェリ、シャンデルナゴル
6
1757 ( )の戦い 「インドの関ヶ原の戦い」 ( )東インド会社軍 VS ベンガル太守 ← ( )東インド会社軍 支援
プラッシー、イギリス、フランス
7
1757 プラッシーの戦い ベンガル太守とは、ムガル皇帝かベンガル地方の支配を任されていた( )の支配者 ↓ イギリス東インド会社がムガル皇帝から( )の( )・( )を獲得 (インドにおけるイギリスの優位が決定的となり、インドの植民地化スタート)
ベンガル地方、ベンガル地方、徴税権、司法権
8
ベンガル地方はフランスが獲得した( )や、イギリスが獲得した( )のところである
シャンデルナゴル、カルカッタ
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18世紀後半〜19世紀初頭 1767-1799 ( )戦争 →( )を植民地化 1775-1818 ( )戦争 →( )を植民地化 1845-1849 ( )戦争 →( )を植民地化
マイソール、南インド、マラーター、中部インド、シク、西北インド
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インドにおいてイギリスの支配がインドのほぼ( )におよぶ ムガル帝国は( )
全域、有名無実
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インド貿易の変化 18世紀 インドは東インド会社を通じてイギリスに綿織物を輸出し、その綿織物でイギリスが産業革命 ↓ 19世紀 1813年に東インド会社のインド貿易独占権が廃止され、インドとの貿易は( )になった。その結果、多くの貿易会社がインド貿易に進出し、東インド会社は貿易会社としての役割を終え、インドを統治する機関となった
自由貿易
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*19世紀には、藩王国の数は約600で、 面積ではインド全体の45%、人口では約 24%を占めた。 *藩王国の君主である藩王( )は、 イギリス(イギリス東インド会社)の統治に服することを条件に 自治が認められた。 直接統治( )と 間接統治( )に 分けて支配する方法 は東インド会社解散 後も続いた。
マハラージャ、直轄地、藩王国
13
東インド会社によるインド統治は何をもたらした? ( )の壊滅、( ) ↓ ( )の蔓延
綿織物業、重税、貧困
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イギリス人による本国イギリスへのインドの報告
織工たちの骨によってインドの平原は白色に化した
15
イギリス東インド会社は、農民に対し、小麦などの穀物ではなく( )(( )・( )・ケシ(( )の原料)・( ))の栽培を強制した
輸出用作物、綿花、藍、アヘン、茶
16
19世紀初頭 インドは( )を輸出し、( )を輸入する立場に転落。東インド会社はインド亜大陸を直轄地および( )として統治する機関となる
一次産品、工業製品、藩王国
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インド大反乱 かつては、イギリス東インド会社のインド人傭兵であった( )(( ))たちの反乱がきっかけであったことから、( )と呼ばれた。インドでは( )ともいう。
シパーヒー、セポイ、シパーヒーの乱、第一次インド独立戦争
18
シパーヒーは、インド人社会の上位層(( )に属するヒンドゥー教徒と富裕層のムスリム)者が多く、彼らは自尊心が強かった
上級カースト
19
インド大反乱の経過 ( )年5月10日 デリー郊外の東インド会社軍( )のシパーヒーたちが蜂起 ※新しい銃を使った演習で、シパーヒー85名がエンフィールド銃の使用を拒否したことに対し、 イギリス兵の上官が見せしめのため、他の兵士たちの前で軍服をはぎ取り、足かせをして牢屋にほりこんだ。翌日、牢屋に入れられたシパーヒーたちを救出するため、残りのシ パーヒーたちが蜂起した。
1857、駐屯地
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1857 シパーヒーたちの蜂起 ※デリー郊外でのシパーヒーの反乱の知らせは、全インドに拡散し、都市では棍棒をもった群衆が、農村ではイギリスの搾取に苦しむ農民が役所・税務署・教会・イギリス人邸宅を襲撃した。反乱には、裕福なインド人もイギリス人に対する反感から反乱に加わった。 「( )から100年目に、イギリスはインドから追い出される」という神のお告げの流布 *反乱軍は、ムガル皇帝を最高指導者に擁立し、 ( )の復活を宣言した。 *北インドで始まった反乱は中部インドにも広がっていった。 反乱はインドの( )の地域に及び、神のお告げが 成就されるかのように見えたのだが・・・
プラッシーの戦い、ムガル帝国、3分の2
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1857年9月 イギリスの反撃開始 イギリス ・各地の軍隊をインドへ ・周辺諸民族の動員 短期間で鎮圧? インド ・反乱の指揮者がいない ・地域間、カースト間、 ・宗教対立=まとまらない 1858年6月 反乱がほぼ終結 インド大反乱は185( )年には完全終結した。
9
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銃の仕組み 弾丸の上に詰められた火薬の上に( )が着いており、それを噛みちぎることで銃の中に火薬を入れ弾を飛ばす
油紙
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大反乱鎮圧後のインド ①ムガル帝国皇帝を国外追放→( )滅亡1858 ②( )を解散→代わりに( )が統治する
ムガル帝国、東インド会社、イギリス政府
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1877 イギリス領( )成立 〜1947 ※インド皇帝=( )
インド帝国、ヴィクトリア女王
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イギリスの植民地支配の基本方針 インド大反乱の反省から→( ) ①宗教(ヒンドゥーとイスラー ム)対立やカーストの対立を 台) あおり、インド人が団結しないようにした。 ② 藩王国のとりつぶしをやめ、 藩王を優遇することでイギリ スに従わせた。
分割統治
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③インド人の役人育成のため、英語教育を行う大学を建設し、イギリスに従順なインド人エリート層をつくろうとした ※イギリスはインドに対する植民地支配が民主主義的であることをアピールするために、インド人エリート層を集めた( )を創設した ↓ ( )(インド初の国民的な政党) あの( )もこの政党のうちの一人
インド国民会議、国民会議派、ガンディー
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1877 インド帝国 1885 ( )開催(( )で) ↓ この会議の参加者がインド初の政治団体である( )を結成 ※特にベンガル地方は反英運動が盛んであった
インド国民会議、ボンベイ、国民会議派
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1885 インド国民会議 1905 イギリスが( )を発表 ※人口が8000万人のベンガル州を分割して行政を効率化するというのが表向きの理由だが、本音は反英運動が盛んなベンガル州を2つに分けすることで、反英運動を分断し、ヒンドゥー教徒とイスラーム教 徒の対立をあおることであった。
ベンガル分割令
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1905 ベンガル分割令 1906 ( )→四つの綱領(方針)を採択し、ベンガル分割例に反対
国民会議派カルカッタ大会
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国民会議派カルカッタ大会の四つの方針 ①( )…国産品愛用 ②( )…インド人の自治 ③英貨排斥…イギリス製品のボイコット ④民族教育…イギリスの教育制度の押し付け反対
スワデージ、スワラージ
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イギリスは反英運動を弾圧する一方で、イスラーム教徒に対しては1906末に( )の結成を働きかけ、( )と( )の分断を進めた
全インド=ムスリム連盟