問題一覧
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ドイツに対する処分2 軍備の制限 ① ( )の廃止 ② 陸軍は10万、海軍は16500の兵員に制限、 ( )は廃止 ③ 航空機・潜水艦・戦車の保有禁止 ヒトラー 1935/3/16 ヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄し、再軍備を宣言
徴兵制、空軍
2
ドイツに対する処分3 巨額の賠償金 ( ) 億金マルク(1921年に金額が決定) ※ 当時のドイツ政府歳入の25年分。「金マルク」とは金と交換 できるだけの価値があるマルクという意味で、マルクの価値 が下がったら金で払わねばならないということ。 1320億金マルク≒約5万トンの純金 (参考)現在の金価格 金1kg≒850万円 ⇒ 425兆円 1933/5 ドイツが賠償金支払いを拒否(この時点までにドイツ が支払った賠償金の総額は約300億金マルク) おまけ:ドイツ政府は2010年10月3日、ヴェルサイユ条約でド イツに課された賠償金のうち、最後まで残っていた7000万 ユーロ(約80億円)の支払いを終えた。
1320
3
国際連盟の設立が決定された。 大戦の惨禍は、連盟規約に反して戦争をおこした国に、他の加盟国が経済制裁を加える( )の しくみづくりを後押しした。 ドイツ植民地とオスマン帝国のアラブ地域は、連盟のもとで( )とされた。 また中小国は発言権 を高め、( )の原則が立てられた。 さらに日本の( )入りは、新しい国際秩序の現れであった。
集団安全保障、委任統治領、一国一票、常任理事国
4
国際連盟 本部:( ) 常任理事国:( )、( )、( )、( )
ジュネーブ、イギリス、フランス、イタリア、日本
5
どこの国?
アメリカ、ソ連、ドイツ、イタリア、日本、イギリスフランス
6
ワシントン体制とは…( )によって形成された( )・太平洋地域の新秩序
ワシントン会議、東アジア
7
1921/11/12~1922/2/6 ワシントン会議 第29代米大統領(共和党) ↓ ・米大統領( )の提唱でワシントンで開かれた国際会議で、アメリカがこの会議を指導 ・東アジア・太平洋地域に権益を持つ アメリカ イギリス フランス 日 本 イタリア オランダ ベルギー ポルトガル と( ) の9カ国 が参加。 ・アメリカが主催した初の世界規模 の国際会議であり、また世界初の( )会議となった。この会議は、第一次世界大戦後の( )の発言力増大を世界に示すことになった。
ハーディング、中国、軍縮、アメリカ
8
日本の代表団は、( ) という外交方針を掲げる原敬首 相によって選任された。原はこの 会議が始まる8日前に東京駅で 刺殺された。
国際協調
9
ワシントン会議 ①( )条約(「( )に関する九か国条約」) 会議に参加した9カ国が締結 1) ( )の主権尊重(領土保全)と門戸開放(機会均 等)を確認=中国を植民地としない=中国に軍事的侵略ダメだよ! 2) 日本がヴェルサイユ条約で獲得した( )の権益(元々はドイツが保有)の中国への( ) ※日本は( )主義
九か国、中国、中国、山東省、返還、国際協調
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ワシントン会議 ②( )条約(「( )の島嶼に関する四か国条約」)…米・英・日・仏が締結 1) 太平洋上の各国の領土(植民地・委任統治領)を尊重 =( ) 民族自決は適用されず 2) ( )の廃棄←( )の要求
四カ国、太平洋、現状維持、日英同盟、アメリカ
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ワシントン会議 ③ ワシントン( )条約 …米・英・日・仏・伊が 締結 世界初の軍縮条約! 主力艦(戦艦など排水量1万トン以上)の保有を制限し、各国の比率を決定 *補助艦巡洋艦・駆逐艦など 米:英:日:仏:伊=( ):( ):( ):1.67:1.67
海軍軍縮、5、5、3
12
これは19( )年、( )に描かれたもので、題名は( )である
26、戦間期、社会の支柱
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戦間期何年間?
21年間
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戦間期のヨーロッパ イギリス 衰退=「( )の消滅」 イギリスは、第一次世界大戦末期に4回目の選挙法改正を おこない、財産資格制限を撤廃し、( )にも参政権を認めた。 その一方で、大戦に協力したインド・エジプトなどには 独立を認めなかったため、( )運動が激しくなった。他方、同じく戦争に協力した白人のカナダ・オーストラリアなどの 自治領は本国と対等な立場を認められ( )を形成した。
パクス・ブリタニカ、女性、独立、イギリス連邦
15
イギリス連邦 イギリス国王 イギリス本国 アイルランド カナダ オーストラリア ( ) ( ) ・イギリス本国と加盟国(旧自治領)はイギリス国王を君主 (元首)とする。形式的 ・イギリス本国と加盟国の関係は( )。 ・加盟国は内政と外交の権限を有する。(加盟国にイギリ スの法律は適用されず、各加盟国はイギリスの承認な しに外国と条約を締結できる。)
ニュージーランド、南アフリカ、対等
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フランス 荒廃 フランスは大戦中に戦場となり国土が荒廃したため、ドイツに対する警戒心が強く、対独強硬政策をとった。1923年には賠償支払いの 遅れを理由に、鉱工業の中心である( )地方を占領したが、 内外の批判を受けて撤退すると、 その後は対独協調政策に転じた。 カネが払えないなら、モノ で払ってもらおう。
ルール
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イタリア イタリアは戦勝国であったも のの、期待した領土獲得が実現しなかったため、ヴェルサイ ユ条約に不満をもった。 戦後の深刻な経済危機により、 社会主義が拡大するのではないかと恐れる北部の中産階級 や南部の地主層の支持のもと、( )ひきいる( )は、1922年に( )とよばれる クーデタで政権をにぎった。
ムッソリーニ、ファシスト党、ローマ進軍
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イタリアの期待した領土とは? ( )のこと。( )の回収には成功したが、( )はまだだった
未回収のイタリア、南チロル、フィフメ
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ドイツでは、1918年11月、労働者・兵士の評議会(レーテ)権力が成立し、その委任で( )による連立政府が組織された。 ドイツ革命(帝国⇒共和国) 社会民主党は治安維持を優先し、軍部など保守勢力とむす んで、( )を押さえこんだ。 ↑ レーニンの誤算=ドイツでは社会主義革命は おこらなかった。
社会民主党、共産党
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国際連盟の問題は? ①( )は議会の反対で国際連盟に参加せず ②( )は統治国の事実上の植民地 ③国際連盟は( )への有効な対抗手段を持たなかった
アメリカ、委任統治領、侵略行為
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その後、( )Weimar ワイマール で国民議会がひらかれて、 新しい憲法( )が公布された。 これは男女平等の普通選挙権、社会権の保障など、民主的な規定をもつ憲法であった。
ヴァイマル、ヴァイマル憲法
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1919から1933までドイツにあった国は?
ヴァイマル共和国
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ドイツ 1923年にはフランス・ベルギーのルール占領に対して労働者が生産停止で抵抗=ストライキしたため、( )が激化した。=( ) この社会の混乱を利用して、 ( )が行動を起こした。 ミュンヘンで武装蜂起し、ベル リンに進撃して共和国政府を 倒そうとしたのである。しかし、 この行動は国防軍の協力がな く失敗に終わった。(( )1923年11月)
インフレ、ハイパー・インフレーション、ヒトラー、ミュンヘン一揆
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ドイツ 1923 ハイパーインフレーション ↓ ( )内閣は新紙幣を発行してインフレをおさめた。 また、 ( )によりアメリカから資金が流入したため、 1920年代には経済は回復しはじめた。大都市では映画・演劇など現代大衆文化が花ひらき、前衛芸術も登場した。
シュトレーゼマン、ドーズ案件
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ドーズ案とは? ドーズ案とは、ヴェルサイユ条約で定められたドイツの賠償金(1320億金マルク)支払いの新しい案(計画)で、 アメリカ人のドーズを長とす る専門家委員会が作成した。 毎年の賠償金の支払額を抑える内容で、ドイツの経済復興の資金をアメリカが供給した。 アメリカがドイツに投資 ↓ ドイツが( )である( )・( )に賠償金を支払う ↓ ( )・( )が( )であるアメリカに支払う アメリカはhappy
債務国、イギリス、フランス、イギリス、フランス、債権国
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シュトレーゼマンは 1925年( )をむすび ・ヨーロッパ北西部の国境の維持 ・( )非武装化 などを確認し、 1926年ドイツの( )加盟を実現させた さらに、戦争による国境紛争の解決を否認する( )にもかかわった ↑国際紛争解決のための手段としての戦争を放棄する しかし国民の多くはヴェルサイユ条約を屈辱的なものと考え、 条約を受け入れたヴァイマル共和国に批判的なままだった。 ドイツが国際社会に復帰!
ロカルノ条約、ラインラント、国際連盟、不戦条約
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1920年代のアメリカ =「( )」 第一次世界大戦を機に、ヨーロッパ列強に対して( )国となったアメリカは、世界大国への道をあゆみはじめた。国内では、総力戦への協力の見返りに労働組合の力が増し、 移民や黒人の就業機会が増え、女性参政権も認められた。 大量生産された( ) …戦車の会社フォードなどが手掛ける や( )製品(1928( )など)が、( )などを通じた広告を介して普及し、映画(( )など)やジャズ、野球などの プロスポーツ、団体旅行などの娯楽もさかんになった。女性の購買力も高まり、( )社会が登場したのである。
黄金の20年代、債権、自動車、家電、電気冷蔵庫、ラジオ、チャップリン、大量消費
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結局戦争で儲かったのは? 白人中産階級 =( )と呼ばれる こうした娯楽や商品の消費には、移民や労働者に 白人中産階級の規範を受け入 れることをせまり、女性たちには 「良妻賢母」の役割を求める面もあった。( )の制定 にも、移民や労働者に従順で規則正しい生活を強いる意味が あった。 1920年代=( )の全盛期時代 お酒の密売で莫大な利益 アル・カポネなど
ワプス、禁酒法、ギャング
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奴隷制廃止後に強まった人種隔離制度は消えず、大戦 後には社会主義の排除、アジア系・東南欧系移民の排斥や差別、 ( )の強化をもたら した。
人種主義
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○西アジアにおける 第一次世界大戦後の最も大きな変化は1922年に( )が滅んだことである。 ( )により ○この革命によって( )が誕生した 場所は( )
オスマン帝国、トルコ革命、トルコ共和国、E
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トルコを除くオスマン帝国領は戦勝国(英・仏)の( )となった。
委任統治領
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オスマン帝国滅亡後… イギリス ( ) …記号( ) ( )…記号( ) トランスヨルダン…記号I
イラク、H、パレスチナ、G
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フランス ( )・レバノン 記号( )
シリア、F
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そのた 1919 ( )…記号( )がイギリスから独立 1922( )…記号( )がイギリスから独立(ただしイギリス軍駐留) 1925( )…記号( )でパフレヴィー朝が成立 1932( )…記号( )が成立
アフガニスタン、D、エジプト、A、イラン、C、サウジアラビア王国、B
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第一次世界大戦中のイギリスの「三枚舌外交」 ①( ) イギリスが( )、( )に向けて ・この3国による( )領分割を決定 ・パレスティナは国際統治に
サイクス・ピコ協定、フランス、ロシア、オスマン帝国
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②( ) ( )に対して ・↑の( )樹立を約束 私たちと一緒にオスマン帝国と戦ってくれたら、国を認めて支援したげる!
フサイン・マクマホン協定、独立国家
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③( ) ( )に対して ・パレスティナでの( )を承認
バルフォア宣言、ユダヤ人、ユダヤ人国家建設
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エジプト ( )の保護国エジプトは、大戦後の自治を保障されるかわりに多くの兵士を戦場へ送った。 大戦直後、独立をめざしてイギリスと交渉するために( )が結成されたが、交 渉は成立しなかった 1922年、イギリスは( )の経営権などの諸特権を条件に、エジプトの独立を認めた。 しかし、独立は名目的で、スエズ運河一帯におけるイギリス 軍の駐屯権は残された
イギリス、ワフド党、スエズ運河
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アラビア半島 1932年、アラビア半島ではワッハーブ派と協力した( )が中心となり、( )王国を樹立した イギリス委任統治下のイラクは油田も含めて( )を樹立し1932年にイギリスから独立 西アジア地域は、石油資源確保を狙う列強による利権の争奪地と なった
イヴン=サウード、サウジアラビア、イラク王国
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トルコ 第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国は、1920年の( )条約で領土を大幅に縮小され、連合国に分割された 帝国軍人( )(のちの( ))は、祖国解放運動を開始し, オスマン帝国に対抗してアンカラに政府を樹立した。
セーヴル、ムスタファ=ケマル、ケマル=アタテュルク
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アンカラ政府はスルタン制を廃止し、1923年には連合国と( )をむすんで失った領土を回復 ( )を成立させた←( )に政府 初代大統領に就任したケマルは、カリフ制の廃止,政教分離,教育などの諸改革をす すめた(( ))。
ローザンヌ条約、トルコ共和国、アンカラ、トルコ革命
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1918年10月 オスマン帝国は連合国に降伏し、帝国全土を外国軍(英・仏・ギリシア)が占領した 1920年8月 オスマン帝国は連合国と( )条約を締結した。この条約は、領土の大幅な縮小、主権の侵害などを内容とする条約であったが、スルタン(皇帝)は自身の安全と財産保証を条件に受け入れ た。 これに対して、 「こんな条約を認めたら自分たちの国がなくなってしまう」 という危機感を抱いたのが、ムスタファ=ケマルたちであった。彼らはセーヴル条約の破棄を掲げ、アンカラに新政府を樹立した。その後、民衆の支持を受けた新政府軍は侵入していた外国軍を次々と撃退していった 1922年11月、新政府がスルタン制(帝政)の廃止を決議した。 これにより600年以上続いてきたオスマン帝国が滅亡した。 オスマン帝国の側には新政府と戦う力はなく、最後のスルタン (皇帝)メフメト6世はイギリスに亡命した。 1923年7月、新政府は連合国と( )条約を締結し、セーヴル条約で失った領土の多くを回復した。しかし、アラブ 「人地域であるイラク・シリア・パレスティナは放棄した。 10月 トルコ共和国の成立が正式に宣言され、ムスタファ=ケマルが初代大統領に就任した。首都はオスマン帝国の都イスタンブルではなく、アンカラに置かれた。
セーヴル、ローザンヌ
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補足3】 ムスタファ=ケマルの近代化(西欧化)政策 国民の大多数はムスリムなんだけど ①( )(世俗主義) ② 文字改革(アラビア文字⇒( )字) ③女性解放(一夫多妻制の禁止、女性のチャドル廃止) ④( )の廃止 ※「ムハンマドの後継者」という意味で、イスラム世界の宗教的指導者を意味 した。オスマン帝国のスルタンは、カリフを兼ねていた。オスマン帝国滅亡後、最後の スルタンの子がカリフになっていたが、ケマルはカリフ制も廃止し、最後のカリフを国 外に追放した。その意図はオスマン帝国の復活の阻止である。 ⑤ その他 イスラーム暦 ⇒ グレゴリオ暦 (太陽暦)、国際連盟に加盟 (1932)
政教分離、ローマ、カリフ制
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第一次世界大戦後、アラブ人との約束(フサイン・マクマホン協定)は果たされず、イラク・パレスティナは( )の、シリア、レバノンは( )の委任統治領とされた
イギリス、フランス
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イラン 第一次世界大戦中、中立を宣言したイランにはイギリス軍とロシア軍が進駐した。 1925年に( )がカージャール朝を倒して( )をひらき、みずからが 国王(シャー)となり、政教分離など近代化政策を推進した。
レザー=ハーン、パフレヴィー朝
46
アフガニスタン アフガニスタンは,19世紀なかごろから( )と3度にわたって戦争をおこない、1919年に完全独立を果たした。
イギリス
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第一次世界大戦 イギリスとインド 1914戦争勃発 イギリス:インドに対し、戦後の自治を約束 ↓ インド:約( )万人の兵士と軍需品・戦費を提供※戦死者( )万4000人
140、8
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1918 戦争終結 イギリス:インド統治を継続する ↓ インド:イギリスに対する失望と反発 ( )の再開 ↓ イギリス:1919 ( )…反英運動弾圧のために逮捕状なしに逮捕し、裁判抜きに投獄できる権限をインド総督に付与
反英運動、ローラット法
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インド:反英運動の激化 指導者…( ) 運動方針…( ) ※工場のストライキ、商店の一斉休業、休校 ↓ イギリス:暴力による( ) ↓ 反英運動から( )へ =( )
ガンディー、サティヤーグラハ、弾圧、独立、プールナ=スワラージ
50
朝鮮では、ウィルソンが提唱した( )主義の影響を受け、海外在住の朝鮮人独立運動家が独立を計画しはじめた 1919年3月1日 朝鮮の宗教界代表らが独立宣言書を発表し、また、学生や市民が「( )」をさけんでソウル市内で大規模な示威活動をおこなった(( ))。 💢朝鮮←←武断←←日本 この影響を受け、日本は朝鮮人の言論・集会・結社などの 制限を緩和するなど統治方針を変更した。 集会参加者延べ約202万、 死傷者が7509名、 逮捕・起訴された総数は 26865人、 受刑者が22275名
民族自決、独立万歳、三・一独立運動
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中国では、海外の思想や文化を 受容した知識人が、民主と科学を スローガンにして、儒教に代表さ れる伝統文化を批判する( )を展開した ↑新しい文化作る! 新しい国( )にふさわしい新しい文化を作りだそう
新文化運動、中華民国
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『藤野先生』 1904~09 日本留学 ( ) 新文化運動の中心人物の一人で、「狂人日記」や「阿Q正伝」をあらわし、 中国社会の現実を批判した
魯迅
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また、中国はパリ講和会議で、日本による二十一か条の要求の取り消しを求めたが、これが無視されると 1919年5月4日 北京で学生が抗議行動をおこした。 これは全国に波及し、労働者・学生による日本製品ボイコットなど反日運動がひろがった( )。第一次世界大戦中に成長した紡績業などの民族資本もこの動きに加わり、政府はヴェルサイユ条約への調印を拒否した。
五・四運動
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第一次世界大戦後の中華民国 袁世凱が1916年に没した のち、( )(中華民国政府)をその後継者が継承したが、その力は全国に及ばす、軍隊を有する( )が各地を支配した。 第一次世界大戦後は、日本を含む列強が各地の軍閥とつながり、影響力の拡 大を図っていった。つまり、 中華民国は一つにまとまった共和国とは言えない状 態であった。
北京政府、軍閥
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民族主義が高揚するな か、孫文は( )を組織 民主主義、資本主義!↑ し、( )を樹立して北京政府に対抗した また、ロシア革命の影響のもと 1921年に( )が結成された。 コミンテルンの指導のもとで、1924年、北京政府 に対抗するため国民党と共産党との提携が実現した(第1次( ))。 合作・・・共通の目標のた めの協力
中国国民党、広州政府、中国共産党、国共合作
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孫文の死後,国民党の指導者となった( )は、中国統一をめざして( )を開始した。 上海で民族資本の支持を受けた蔣介石は、1927年の( )によって 共産党勢力を一掃し、南京に( )をたてた。 翌年には北伐を再開し、山東権益の確保をねらう日本の山東出兵をしりぞけ、日本と提携していた( )を北京から追放して再統一を実現した( )
蔣介石、北伐、上海クーデタ、国民政府、張作霖、国民革命
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一方、共産党は農村地域でゲリラ活動を展開したが、蔣介石の攻撃を受け、 1934年に( )から 移動し=( ),延安へと根拠地を移 した。その過程で ( )が実権をにぎった。
瑞金、長征、毛沢東
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オランダ領東インド =( ) 東南アジア諸国では、大戦後に独立を求める運動がさかんになっていった。 オランダ領東インドでは、サレカット=イスラムや( )による民族運動が弾圧された。 その後、 ( )の指導で1927年成された( )も弾圧 され、解散させられた。 1945 インドネシア独立宣言
インドネシア、インドネシア共産党、スカルノ、インドネシア国民党
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フランス領 インドシナ =( )・( )・( ) フランス領インドシナでは、大戦後に投資が拡大して産業 が発達したため、新たな知識人層がうまれるなど社会変化が生じた。 ( )は、世界恐慌の影響を受けて貧困化した民衆の支持を得て( )を結成し、反フランス民族運動を展開した。
ベトナム、ラオス、カンボジア、ホー=チミン、インドシナ共産党
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イギリス領 ビルマ 「ビルマの主人(タキン)はビルマ人である」 インド帝国領ビルマでは,1930年に( )が結成 され、1937年にビルマがインドから分離したのちも、 ( )の指導下にイギリスからの独立を要求した。
タキン党、アウン=サン
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( )統治下の( )は1934年に10年の準備期間後の独立が約束された。実際1946年独立
アメリカ、フィリピン