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歴史と文化 2年学年末

歴史と文化 2年学年末
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    問題一覧

  • 1

    1922年12月に成立したロシアを中心とした社会主義国家の連邦。

    ソヴィエト社会主義共和国連邦

  • 2

    ロシアに対する列国(英米日仏)の革命干渉戦争の一環。1918年、アメリカはチェコスロヴァキア軍教授を名目に日米共同出兵を提唱。これを機に日本は大量の軍隊をロシア領樺太・シベリア・北満州に派遣した。第一次世界大戦終結後、日本だけが1922年まで駐兵を継続を列国から領土的野心を疑われ非難された。

    シベリア出兵

  • 3

    第一次世界大戦の開戦後に起こった好景気。第一次世界大戦によって、日本製品がアジアに大量に輸出され、また交戦国からの需要などによって輸出が急増したことによって引き起こされた。特に世界的な船舶不足から造船業・海運業は発展し、日本はイギリス・アメリカに次いで世界第三位の海運国となり船成金を多く生み出した。アジア市場への輸出拡大で活況を呈した紡績業では、中国に進出して工場を建設する企業も現れた(在華紡)。貿易収支は輸入超過から大幅な輸出超過となり、債務国から債権国へと転じることが出来た。ドイツからの薬品、肥料などの化学製品の輸入が途絶えた結果、国内で化学工業が勃興し、また猪苗代・東京間の送電にも成功して工業原動力の蒸気力から電力への転換が進んだ。こうした工業部門の発展によって、工業生産額が農業生産額を上回り、日本は工業国となった。また、アメリカが交戦諸国への輸出によって好況になり、日本は生糸を中心として対米輸出を急増させた。養蚕業の収益を高め、養蚕経営の拡大を導いた。また、雇用の増大と労働上昇によって、農家の家計が潤うとともに、米をはじめとする農産物の需要が増加し、国内需要も増大した。

    大戦景気

  • 4

    第一次世界大戦中の好景気で巨富を得たものを将棋の駒に例えて言う。とくに第一次世界大戦中は、世界的な船舶不足から、造船・海運業界で巨利を得た者が多かった。〇〇〇などの〇〇は、第一次世界大戦後の恐慌のなかで多くが没落した。

    成金

  • 5

    中国において日本の大紡績企業が経営した紡績会社。第一次世界大戦後に本格化。人件費の安さなどを求めて上海・青島などに進出し、中国の紡績業を圧倒したが、反面反日運動の激化を招いた。

    在華紡

  • 6

    第一次世界大戦の末期、1918年に発生した民衆運動。シベリア出兵にからんだ米の買い占めによる米価急騰を契機に、富山県の漁村の女性たちが行動を起こすと米屋などを襲撃する動きが一気に全国化し労働運動などの社会運動と結びつき大規模化した。寺内内閣は軍隊を出動させて事態を鎮圧したものの、初の本格的な政党内閣原敬内閣に政権を譲った。

    米騒動

  • 7

    盛岡出身の政党政治家。1900年の立憲政友会創立に参画。まもなく党の実権を握り、第3代総裁として米騒動後に本格的政党内閣を組織。小選挙区制導入や、積極制作、国際協調路線を敷いたが、戦後恐慌後に疑獄事件が生じる中東京駅で刺殺された。普選容認しなかった彼は1919年選挙法改正で納税資格を直接国税3円以上とし、同時に小選挙区制を導入。総選挙に大勝した。

    原敬

  • 8

    大正時代に広まった自由主義的・民主主義的な風潮。第一次世界大戦期に産業が大きく発展して経済規模が膨らんだこと、教育の普及により中産階級が増大し知識階級も増えてきたことを背景に、世界的な民主化の風潮の影響も受けて高揚した。吉野作造の民本主義、美濃部達吉の天皇機関説が広まり普通選挙が求められた。また、社会主義運動、労働運動、女性解放運動、部落解放運動など知識人が参加することにより持続的な団体が結成された。教育面でも自由主義的な傾向が見られた。

    大正デモクラシー

  • 9

    美濃部達吉「憲法撮要」で示された考え。統治権の主体は国家にあり天皇はその最高機関であるという国家法人説にもとづき、天皇は憲法により制限されていると考える学説。美濃部達吉の登場以前からこの考えは学界などでは広く受容されていた。明治憲法のもとで政党政治は必然であるという持論を導き出した美濃部の憲法解釈は、政党内閣の慣行を支える理論的基礎とされたが、1935年の国体明徴声明により公的に否認された。

    天皇機関説

  • 10

    憲法学者・貴族院議員。兵庫県出身。「憲法講話」「憲法撮要」などの著作で天皇機関説を唱え、上杉慎吉らの天皇主権説と対立したが、支持を得た。東京帝国大学退官後は勅選で貴族院議員となった。1935年、天皇機関説が国体に反するとして議会で批判され、政治問題化したため、〇〇〇〇〇の著書は発禁処分となり、〇〇〇は貴族院議員を辞職した。

    美濃部達吉

  • 11

    1916年、吉野作造が「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」(「中央公論」)で体系化した政治思想。デモクラシーの訳語として、主権在民を含意する民主主義の語では明治憲法に抵触するため、主権の所在を問わないこの語を採用。明治憲法体制の枠内での政治の民主化を主張。主権の所在を問わず、運用の目的を民衆の福利増進にあるべきと主張し、政党政治・普選を理論面から支えた。

    民本主義

  • 12

    民本主義を提唱した政治学者。1918年、黎明会と東京帝国大学内に新人界を組織するなど、デモクラシー擁護の言論活動や学生の啓蒙運動に積極的に関与した。

    吉野作造

  • 13

    アメリカ合衆国第28代大統領、第一次世界大戦期に大統領を務め、参戦後に14箇条の講和原則を発表し、国際連盟を提唱した。

    ウィルソン

  • 14

    第一次世界大戦の講和に向けてアメリカ合衆国大統領ウィルソンが1918年1月に発表し、戦後の国際政治の原則とされた。

    14ヶ条の原則

  • 15

    1919〜20年、パリで開催された第一次世界大戦の講和国際会議。戦勝国のアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本の5カ国など32ヶ国が参加したが、実質的にはアメリカのウィルソン、イギリスのロイド・ジョージ、フランスのクレマンソーが主導した。敗戦国ドイツと社会主義革命が起こったロシアのソヴィエト政権は参加できなかった。ウィルソンの提唱した14ヵ条に沿って民族自決・国際連盟の設立などの大戦後の国際秩序のあり方も議論されたが、戦勝国の領土と賠償金の確保が優先され、ドイツなど敗戦国に対しては厳しい報復が行われた。1919年6月、ヴェルサイユ宮殿において対ドイツ講和条約が締結され、正式に世界大戦は終結した。

    パリ講和会議

  • 16

    第一次世界大戦終結のための講和条約。1919年にパリ講和会議が開催され、連合国と敗戦国ドイツの間で条約に調印。日本は西園寺公望らを全権とする代表団を派遣した(原内閣)。この条約の成立により、欧州には民族自決などを一応の原則とする新国際秩序(〇〇〇〇〇体制)が形成された。

    ヴェルサイユ条約

  • 17

    第一次世界大戦後、パリ講和会議で1919年に成立した〇〇〇〇〇条約のもとでの国際体制。ドイツ軍国主義の再興を防止するとともに、社会主義の台頭に対する資本主義諸国の約束を意図した。しかし敗戦国ドイツでは領土縮小、軍備制限など苛酷な処置に対する不満が強く、1930年代に〇〇〇〇〇〇〇打倒を掲げるナチスが台頭した。またアメリカ・ソ連が国際連盟に加盟しなかった(ソ連は1934年に加盟)ことにより、軍縮などの課題に取り組むことが不十分であったため、1936年には実質的に崩壊し、1939年には第二次世界大戦が勃発した。

    ヴェルサイユ体制

  • 18

    第一次世界大戦後のヴェルサイユ講和条約の規定によって1920年に設立された。世界最初の国際平和維持機構。集団安全保障の理念による国際協調の推進、地域紛争の解決などで大きな役割を果たしたが、大国アメリカの不参加、ドイツとソ連の不参加(両国は途中で参加)などのため、充分な機能を発揮することが出来ず、特に世界恐慌後のファシズムの台頭の結果、日本・ドイツ・イタリアが脱退、第二次世界大戦を阻止することは出来なかった。しかしその理念は国際連合に引き継がれた。

    国際連盟

  • 19

    アメリカの呼び掛けで1921年11月から翌2年にかけて開催された国際会議。日本側全権は、海相加藤友三郎・貴族院議長徳川家達・駐米大使弊原喜重郎。これによりアメリカが主導する形でヴェルサイユ体制を補完する東アジア・太平洋の新国際秩序が形成された(〇〇〇〇〇体制)。そこには多国間の協調と現状維持により日本の膨張を抑制する意図があると考えられた。とはいえ、しかし、外交専門家は〇〇〇〇〇体制に協力的であり、批判的なのはメディア・国民だった。このずれが後の軍部台頭を招くことにつながっていく。

    ワシントン会議

  • 20

    ワシントン会議に全権として出席し、海軍軍縮を主導。帰国後、内閣を組織したが在任中に死去した海軍軍人。

    加藤友三郎

  • 21

    英米日仏4カ国で太平洋地域の現状維持に合意した条約。日英同盟協約の破棄が明記された。

    四か国条約

  • 22

    1902年から1923年(四か国条約で廃棄決定)まで3次にわたって継続した軍事規定をもつ協約。二十世紀初頭から約20年間日本外交の最大の基軸として機能した。

    日英同盟協約

  • 23

    米・英・日・仏・伊・ベルギー・ポルトガル・オランダ・中国9カ国が中国問題について合意した条約。中国での新権益の獲得などを禁止。これにより石井・ランシング協定が廃棄された。

    九カ国条約

  • 24

    米英日仏伊5カ国で、主力艦の保有量比率と今後10年間の主力艦建造禁止に合意。主力艦の保有比率は米英日仏伊で5:5:3:1.67:1.67となった。

    ワシントン海軍軍縮条約

  • 25

    日本の植民地支配下の朝鮮で、1919年3月に起こった民族独立運動。民族自決の国際世論が高まるなかで、1919年、京城(現ソウル)で開催された集会を機に、朝鮮全土に広がった独立運動。朝鮮総督府は、軍隊・警察を動員して独立運動を弾圧した。この後、朝鮮総督に就任した齋藤実は朝鮮総督資格者を現役軍人から文官にまで拡大、憲兵警察を廃止するなど文治主義的政策に転換した。

    三・一運動

  • 26

    1919年4月、パリ講和会議に反発し日本の二十一ヶ条撤廃を要求した中国の民衆運動。中国の民族運動、そして社会主義運動の出発点となった。

    五・四運動

  • 27

    1919年10月、孫文が中心となって、中華革命党を改組して結成した中国の大衆政党。三民主義を理念としながらも、1924年1月の第1回全国大会でソ連との連携、中国共産党との合作に踏み切り、第1次国共合作を実現した。翌年、孫文が死去すると蒋介石が台頭し、1926年に軍閥勢力を倒すために北伐を開始、翌年、上海クーデタで共産党と決別した。1928年、北伐を完了して中華民国の権力を握った。1931年の満州事変以来、日本の侵略が始まるが共産党討伐を優先、1936年の西安事件を機に共産党の協力に転じ、1937年の日中戦争勃発を機に第2次国共合作成立させ、抗日戦を戦った。

    中国国民党

  • 28

    1894年から清朝支配に対する抵抗を開始、興中会・中国同盟会を組織して運動と展開、蜂起失敗、亡命を繰り返しながら三民主義などの理念をつくりあげ、1911年に辛亥革命を成功させ、翌年中華民国の初代臨時大統領となった。ここまでを〇〇の目ざした革命の前段とすれば、後半は広東を拠点として国民党・中華革命党を率いて北京軍閥政府と戦い、さらに中国国民党を組織して共産党との国共合作に踏み切ることで帝国主義と戦った時期と言える。〇〇は1925年の死去まで30年以上にわたって中国の統一と真の独立を目指す国民革命を指導した人物であった。

    孫文

  • 29

    現代中国の政権党。1921年の結党から、2021年に100年を迎えた。もともとはマルクス=レーニン主義を奉じるコミンテルン中国支部として結成された。主に農村を拠点に解放区をもうけ、封建的な地主制度を廃止するなどで支持を拡げ、国共内戦と日本との戦争を戦った。1949年中華人民共和国を建国したが、〇〇〇の存在意義は現在も抗日戦を勝利に導いた点に置かれている。

    中国共産党

  • 30

    1924年に中国で成立した国民党と共産党の協力関係。孫文の主導により共産党員が個人の資格で国民党に加わる形で実現した。翌25年、広州国民政府を成立させ、26年には実権を握った蒋介石が北京の軍閥政府打倒をめざす北伐を開始したが、1927年の蒋介石による上海クーデタで共産党勢力が排除され、破綻した。

    第1次国共合作

  • 31

    中国国民党の孫文の後継指導者。1926年に北伐を開始、翌年の上海クーデタで共産党を排除。北伐完了後、国共内戦に入る。1931年、満州事変が起きると共産党掃討を優先。1936年の西安事件を受けて内戦を停止、1937年、日中戦争が始まると国共合作に転じ、抗日戦を指導した。南京を占領され、重慶に逃れたが、米英の支援を受け、連合国の一員として戦った。しかし、日本との戦争が終わって再開された国共内戦に敗れて1949年に国民政府を率いて台湾に撤退し、総統として統治した。

    蒋介石

  • 32

    大日本労働総同盟友愛会が組織名を改めた労働者団体。1921年結成。労働者と資本家を対立する物としてとらえず、協調して利益を増大させ、労働者の待遇を改善させようとする労資協調主義から階級闘争主義に転換した。関東大震災後は、現実主義をとる右派が優勢となり、左派が除名された。1940年、新体制運動のもとで解散した。

    日本労働総同盟

  • 33

    労働者と資本家の間で発生する、賃金や労働時間などの労働条件をめぐる対立。暴動では問題解決にならないため、労働者が団結してストライキ・サボタージュなどの行動を起こし、資本家側と交渉した。産業革命やその後の経済発展の進展にともなって、各地の工場などで頻発した。日本労働総同盟などの労働組合の全国組織が指導にあたった。

    労働争議

  • 34

    毎年5月1日に世界で統一して行われる労働者の祭典。日本では、大日本労働総同盟友愛会が中心となって1920年(同年は5月2日の日曜日に実施)に初めて行われ、1936年に政府が禁止し中絶した。第二次世界大戦後は、1946年から再開された。

    メーデー

  • 35

    小作人と地主との間で発生する、小作料や小作権などをめぐる対立。慢性的な不況に陥った1920年代以降頻発し、日本農民組合などが小作人を組織して争議を指導した。大正時代末期から昭和時代初期には小作料の減免や小作条件などの改善などを実現したが、昭和恐慌期には地主の小作地取り上げに反対する闘争へ発展していった。

    小作争議

  • 36

    日本初の全国的な小作人組合。杉山元治郎・賀川豊彦らが1922年に結成。小作人の地位向上、小作料減額などを地主に対して求める小作争議を指導した。普通選挙法が制定されると、無産政党の設立が課題となり、労働農民党を結成した。

    日本農民組合

  • 37

    明治〜昭和期前期の女性の解放と社会改革を求める社会運動。旧来の道徳・価値観で良妻賢母が女性の理想像とされる中、女性の自我を確立し、自立した自由な生き方を選択することを主張する。平塚らいてうらが中心となり、青鞜社の活動などがみられた。

    女性解放運動

  • 38

    女性文芸団体。平塚らいてうらにより1911年に設立され、同人誌「○○」の発行を主な活動とした。女性の解放を訴えた。○○○に参加した女性は「新しい女(女性)」と批判された。

    青鞜社

  • 39

    ○○明(1886〜1971)。大正時代から昭和時代の女性解放運動家。1911年、青鞜社を創設して、女性問題について世に発信し、女性の解放を訴えた。1920年には市川房枝らとともに新婦人協会を設立し、女性の政治活動を禁止する治安警察法第5条改正に尽力した。

    平塚らいてう

  • 40

    ○○社が発行した同人誌。1911年○○社により創刊。平塚らいてうらが発起人となり、与謝野晶子らが寄稿した。平塚らいてうの創刊の辞は「元始、女性は実に太陽であった」で始まる。

    青鞜

  • 41

    旧来の慣習・価値観に従わず、自我に目ざめ自立して生きていこうとする女性。新しい思想を持った女性。男女不平等を打破し、新しい地位を獲得しようと自覚した女性を指す。青鞜社が女性解放運動を起こした当時流行した語で、おもに青鞜社の女性に対して向けられた。平塚らいてうはこの批判を取り込んで、自ら新しい女と宣言して女性の解放と自由な生き方の選択を訴えた。

    新しい女

  • 42

    平塚らいてう・市川房枝らを中心に設立された婦人団体。1920年設立。治安警察法第5条改正による女性の政治活動の解禁、女性参政権の獲得などを求めた。1922年、治安警察法第5条は一部が改正され、女性の政談集会への参加は認められることになり、同年に協会は解散した。

    新婦人協会

  • 43

    大正時代から昭和時代の女性運動家(1893〜1981)。愛知県生まれ。平塚らいてうのよびかけに応えて、新婦人協会の設立に関わった。治安警察法第5条の一部改正が実現したのち、婦人参政権獲得期成同盟会を設立し、婦人参政権獲得運動の先頭に立った。戦時下では大政翼賛会に協力し、敗戦後は参議院議員として活動した。

    市川房枝

  • 44

    財産・生産手段の共有を目指す思想。マルクスやエンゲルスによって体系化され、私有財産を否定し、財産の共有と共有財産に基づく社会・政治体制を実現しようとする思想と運動。社会主義と○○○○は区別せずに用いられることもいいが、分ける場合、社会主義がもっぱら生産手段の社会的所有ないし国有化を唱えたのに対し、○○○○は消費税を含めた財産のより徹底した平等化を主張した、とされる。または、議会政治の中で社会主義が発展した後に、○○○○が成立するとも考えられた。

    共産主義

  • 45

    ソ連共産党の指導の下でコミンテルン日本支部として設立。ロシア革命以降、共産主義者たちの活動も高揚し、非合法政党として堺利彦・山川均らが中心となって1922年に結成。国体の変革(天皇制否定)や私有財産の否認(革命の実現を求めた)により、治安維持法によって弾圧された。三・一五事件、四・一六事件などの共産党弾圧事件により党幹部党員が大量に検挙され、1930年代半ばには活動不能に陥った。

    日本共産党

  • 46

    国際的な共産党組織。世界各国の共産党と連携して、革命運動を指導した。日本では、山川均らにより○○○○○○日本支部として非合法の日本共産党が設立された。

    コミンテルン

  • 47

    被差別部落とその出身者に対する差別を解消しようとする運動。大正時代には全国水平社が設立されて、差別からの解放を求めて運動が展開された。第二次世界大戦中は運動が停滞したが、戦後には全国水平社も○○○○同盟として活動を再開し、現在まで運動が続けられている。

    部落解放運動

  • 48

    江戸時代にえた・非人などといった被差別身分とされた人々が居住する地域。明治時代にえた(穢多)ひにん(非人)の称は廃されて平民身分とされたが、職業・結婚・教育などさまざまな面で差別が拡大していた。明治時代以降、○○○○運動が行われ、差別の解消がはかられている。

    被差別部落

  • 49

    部落解放運動の全国組織。西光万吉らが1922年に結成した。差別からの解放を求めて活動した。第二次世界大戦中は活動を休止していたが、戦後、再開して部落解放同盟となった。

    全国水平社

  • 50

    1923年9月1日に発生した巨大地震。地震とその後の火災のため東京横浜は灰燼に帰し、被害は関東一円に及んだ(死者・行方不明者約14万人。被災者340万人以上。)山本②内閣は事態に対処するため戒厳令を公布。しかし、朝鮮人・中国人の殺害が相次ぎ、亀戸事件(警察・軍隊が亀戸署内で労働運動指揮者を多数虐殺した事件)や甘粕事件(憲兵大尉甘粕正彦が無政府主義者大杉栄・伊藤野枝を殺害した事件)が発生するなど社会的混乱は極まった。震災は経済にも大打撃を与え、この時の救済策が1927年の金融恐慌の原因となった。一方、震災からの復興は東京などを近代的都市としての景観を整えさせることとなった。

    関東大震災

  • 51

    1923年末、摂政官(後の昭和天皇・裕仁)の襲撃事件が発生。事件の首謀者で無政府主義者の難波大助は死刑に処せられた。山本②内閣は責任を取り総辞職した。

    虎の門事件

  • 52

    法相・枢密院議長を歴任し、1924年貴族院を中心に組閣。護憲三派の攻撃を受け(第二次護憲運動)、与党の政友本党は総選挙で大敗、総辞職した官僚・政治家。

    清浦奎吾

  • 53

    議会軽視の態度をとった清浦内閣に対し、護憲三派(憲政会・政友会・革新倶楽部)を中心に展開された倒閣運動。護憲三派は選挙に圧勝し、加藤高明を首相とする連立内閣が成立した。

    第二次護憲運動

  • 54

    1916年立憲同志会を中心に加藤高明を総裁として結成された政党。長期に野党に甘んじた後、1924年に加藤内閣が成立。加藤の死後は若槻礼次郎が総裁となり内閣を組織した。対外的には協調外交(弊原外交)を展開、国内では産業振興政策を進め、特に都市知識人の支持を受けた。1927年、政友本党と合同し立憲民政党となった。

    憲政会

  • 55

    1913年、立憲同志会の総裁となり、犬養②の外相として第一次世界大戦への参戦、二十一ヶ条要求を推進し、元老山県らの批判を受けた。1916年に立憲同志会は憲政会となり、引き続き総裁となった。その後、護憲三派内閣を組織し、普通選挙法・治安維持法を制定、日ソ基本条約を締結(同年ラジオ放送開始)。政友会の離脱後、憲政会単独内閣を組織するが、首相在任中に病死。三菱の創始者岩崎弥太郎の娘婿。

    加藤高明

  • 56

    1925年、加藤内閣により改正された衆議院議員選挙法。○○○○とは納税額を選挙権の要件とする制限を廃止すること。これにより25歳以上のすべての男子に選挙権が与えられた。初めての○○○○は1928年実施。なお婦人参政権は1945年の敗戦後に認められた。

    普通選挙法

  • 57

    1925年公布。国体の変革・私有財産制度の否認を目的とする思想・結社活動を取り締まる法律。初の普通選挙が行われた1928年の緊急勅令により「国体」条項の最高刑を死刑とし、結社員ではなくとも有罪とできる目的遂行罪を新設した。1941年には予防拘禁制を追加。1945年廃止。

    治安維持法

  • 58

    加藤高明内閣。1925年、北樺太からの撤兵、ポーツマス条約の効力確認、ソ連領内(北樺太)での利権開放(石油・石炭開発の利権)などを規定。日ソ国交樹立。

    日ソ基本条約

  • 59

    都市部に居住するサラリーマンなどの中産階級。大正時代から昭和時代前期にかけて、資本主義経済の発展によって工業化・都市化が進展し増加。資本家階級と労働者階級の中間に位置し、従来までの商工業者や自営農民の○○○に対して、東京・大阪などの都市では、会社員・銀行員・公務員などのサラリーマンが層として現れた。都市の景観は変化し、彼らは衣食住の洋風化を進め、子弟の高等教育にも熱心であった。また、都市部を中心に大衆文化の発展を支えた。

    都市中間層

  • 60

    都市部の事務系給与生活者。工場労働者とは異なる、会社員・銀行員・公務員など、事務系のホワイトカラーを指す。都市中間層(新中間層)ともよばれ、大正時代から昭和時代前期には、都市部を中心に近代的(洋風的)な生活を営み大衆文化の発展を支えた。

    サラリーマン

  • 61

    労働者・サラリーマンなどを担い手とする文化。大正時代から昭和戦前期にかけては都市部を中心に、昭和戦後期には地方を含めた全国で発達した文化。労働者やサラリーマンなどの一般勤労者を新たな担い手とする文化で、工業化・都市化とともに、教育の普及、マスメディアの発達などを背景としている。新聞・雑誌の発行部数が増えたり、○○雑誌や文庫本などが出版された。新聞・雑誌には○○文学の小説などが連載された。ラジオ放送も始まり、スポーツ観戦も広まった。映画の上映、歌謡曲の流行とレコード鑑賞など、さまざまな○○娯楽も広まった。他にも、レジャー産業(海水浴場・遊園地・団体旅行をうながす旅行社)、衣食住の変化(女性のファッション・カレーライス、トンカツ、オムライスなどの洋食)や価値観・人間関係の変化(自由恋愛に基づく夫婦とその子どもで構成される近代家族を理想)、匿名的な人間関係(コミュニティの弱体化)、学歴の重視などを特徴とする。

    大衆文化

  • 62

    「遠野物語」などを著した日本民俗学の創始者。兵庫県出身。1900年東京帝国大学卒業。農商務省に入り、官僚として農政学に関心を抱く。1908年旅行で訪れた宮崎県椎葉村の山民の生活に感動し、また同年秋に岩手県遠野地方に残る多くの不思議な伝承を聞いて魅了され、民俗学の研究に踏み込むことになった。1919年退官。翌年朝日新聞社へ入社。1924〜30年論説委員として社説執筆。その傍ら、全国各地を旅行。○○の関心は次第に、日本の平野部でありふれた生活をする農民に移り、彼らを無名の民衆「常民」とよび、その生活史を民間伝承などの調査・研究を通じて明らかにしようとした。1930年代前半には、民俗学の方法論と学問的体系を確立し、後進の指導にも当たった。1951年文化勲章受賞。「遠野物語」(1910)、「明治大正史世相篇」(1931)、「木綿以前の事」(1939)、「海上の道」(1961)の他、多くの著書・論文を残す。

    柳田国男

  • 63

    民衆の風俗習慣や生活を解明する学問。民間伝承や風俗習慣を調査・研究することによって、民衆の生活を明らかにし、古くから伝わる民衆文化を探り、文化の特質を探る学問。柳田国男によって確立された。柳田は、無名の民衆を「常民」とよび、○○○の研究対象とした。

    民俗学

  • 64

    様々な分野の論文・評論・創作などを掲載する雑誌。政治・経済・文化・思想などの広い分野にわたる。明治時代に創刊された「太陽」を先駆とし、大正時代には「中央公論」や「改造」などの雑誌が発刊された。

    総合雑誌

  • 65

    「改造」と並ぶ代表的な総合雑誌。初め浄土真宗系団体の機関誌「反省会雑誌」として刊行されたが、1899年に「○○○○」として改題して宗派から独立した総合雑誌となった。大正時代初期、滝田樗陰を編集長として発展した。島崎藤村・田山花袋・夏目漱石・谷崎潤一郎など多くの作家が連載し、また大正デモクラシー期には吉野作造の民本主義の論考などを掲載して、文芸界・言論界を牽引した。

    中央公論

  • 66

    「中央公論」と並ぶ代表的な総合雑誌。1919年、山本実彦が○○社を創設して発行した。大正デモクラシーの思潮を背景として生まれた社会問題や社会主義思想に関する論文を掲載し、山川均や河上肇などのマルクス主義者らを執筆者として登場させ、社会主義の高揚に大きな役割を果たした。創作欄も充実しており、志賀直哉の「暗夜行路」、芥川龍之介の「河童」なども掲載された。しかし、戦時下の1942年細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」が陸軍に摘発されて発禁となり、編集者や執筆者が特高に検挙される事件(横浜事件)が起こって、1944年廃刊。敗戦後再刊されたが、1955年廃刊。

    改造

  • 67

    石橋湛山らが記者などとして活躍した経済雑誌。1895年、町田忠治(後の立憲民政党総裁)が○○○○○○社を設立して東京で創刊。創業期には、田口卯吉の「○○○○雑誌」と並び称された。軍国主義・帝国主義に対抗し、民主主義・自由主義的な論陣を張った。三浦銕太郎や石橋湛山などが主幹をつとめた。1961年「週間○○○○」と改題。

    東洋経済新報

  • 68

    経済評論家・政治家、第55代内閣総理大臣。東京出身。早稲田大学卒業後、1911年東洋経済新報社に入社。「東洋経済新報」の記者を務め、軍国主義・帝国主義に対抗し、民主主義・自由主義の立場から多くの記事を書いた。同紙社説に「青島は断じて領有すべからず」などの評論を発表するなど、小日本主義を唱えたことで知られる。1939年東洋経済新報社の社長就任。浜口雄幸内閣の金解禁に反対し、満州事変後の戦争拡大にも反対し、言論の自由を唱え続けた。敗戦後は日本自由党に入党。吉田茂内閣の蔵相を務め、傾斜生産方式を実行。1947年衆議院議員に当選直後に占領軍との対立によって公職追放。1952年議員に返り咲き、鳩山一郎を助けて吉田茂と対立し、1954年日本民主党の結成に参加した。自由民主党の総裁選挙では岸信介を破って第2代総裁に就任し、1956年に組閣するものの病のため辞職した。

    石橋湛山

  • 69

    石橋湛山らが唱えた植民地放棄などの主張。雑誌「東洋経済新報」の主幹として活躍した三浦銕太郎・石橋湛山らに代表される見解。日本の発展をはかるためには、欧米先進国並みの資本主義・立憲主義を発展させるとともに、従来の植民地を経営する帝国主義政策から、貿易・資本輸出などによる平和的・経済的な進出へ転換させるべきであるとのような見地から、国内では普通選挙を前提とする政党内閣制の実現、対外的には自由貿易、民族自決や朝鮮満州などの植民地放棄の実現を求めた。

    小日本主義

  • 70

    大衆向けの娯楽雑誌。一般大衆の興味・関心事の情報を提供。大正から昭和時代初期にかけて創刊された。大日本雄弁会講談社が1925年1月号から発刊した「キング」がその代表。

    大衆雑誌

  • 71

    代表的な大衆雑誌。大日本雄弁会講談社が、1925年1月号から発行した。「日本一おもしろい、日本一為になる、日本一安い雑誌」をモットーとする大衆雑誌。当時、雑誌の発行部数は売れている物でも25万部程度であったが、大規模な宣伝によって創刊号は74万部発行し、創刊の翌年には発行部数100万部を突破するという驚異的な売上を誇った。1957年、廃刊。

    キング

  • 72

    1冊1円の安価で発売のした書籍。出版業界の不況を打開するために、改造社社長の山本実彦が創始。「現代日本文学全集」を、1926年末より1冊1円の低価格で販売した。当初の予約読者が23万人にのぼり、大成功を収めた。この成功を見て、新潮社の「世界文学全集」、文芸春秋社の「世界大思想全集」、平凡社の「現代大衆文学全集」など、続々と全集が刊行され、○○時代が到来した。しかし、急速に読者に飽きられ、1930年代頃にはブームは終わった。○○の功績としては、明治・大正時代の文学遺産を系統づけたこと、低価格・大量出版により読者層を広げたこと、作者の生活を安定させたことなどがある。

    円本

  • 73

    文庫本の評価を定着させたもの。1927年より○○書店が刊行。世界的に著名なドイツの「レクラム文庫」をまねて、100頁を1単位として20銭刻みの定価をつけ、それを星印で表示するなどした。書目も厳選し古典的価値のある名著を収録、翻訳は全て原典からの直接訳、省略無しの完全版をうたった。国内外の古典の名著が安価に購入できたことから、学生・知識人層の圧倒的な支持を得た。この成功によって、改造文庫・春陽堂文庫・新潮文庫なども参入し、文庫本ブームが起こった。

    岩波文庫

  • 74

    小型の出版物。国内外の古典の名著などを安価に提供し、学問・思想や文学の普及に貢献した。1927年創刊の岩波○○が大成功を収めて以降、多くの○○○が発刊された。

    文庫本

  • 75

    東京・大阪・名古屋に○○○○○局が設けられ、1925年には東京で本放送も開始された。1926年に放送局3社が統合されて日本放送協会(NHK)が設立された。○○○劇やスポーツ実況放送などが人気を呼び、定時のニュース放送に人々は耳を傾けた。契約者数は、開局の年には36万人であったが、満州事変が始まると100万人を超え、1940年代には○○○の普及率は50%を突破するなど、多くの国民への情報伝達手段として機能した。敗戦後の1951年には民間放送も開始された。

    ラジオ放送

  • 76

    音楽などを録音した円盤。蓄音機・プレーヤーで再生。明治時代後期に円盤式○○○○の国産が開始され、その後、蓄音機とともに普及していった。大衆文化の1事例となった。昭和時代には日本コロムビア・日本ビクターなどが発足。流行歌や浪花節はもとより、映画説明・演説・語学などあらゆる音楽材が○○○○になった。戦争の推移につれて軍歌や国民歌謡ももてはやされた。敗戦後にはアメリカにLPが出現、音質も飛躍的に向上する。○○○○は音楽の普及に大きく貢献したが、1982年のCD登場で○○○○はその地位を失った。

    レコード

  • 77

    大正時代から昭和時代初期にかけて流行した和洋折衷の住宅。増加したサラリーマンの住宅地として開発の進んだ大都市郊外に建設された和洋折衷の住宅。1920年代に流行した。赤瓦の屋根で洋風の外観を持ち、洋風の応接室を設け、子供部屋を作るなどの特徴がある。応接室以外の部屋は座敷の和室で、家族が集まることが出来る茶の間もつくられ、ちゃぶ台で食事をとる形式が定着した。

    文化住宅

  • 78

    三越をはじめとする百貨店。大規模小売店舗。1904年に三越が○○○○(百貨店)と名乗ったことを皮切りに、松屋・高島屋などの呉服店系列の○○○○がつくられた。1920年代には、阪急など鉄道会社の経営で都市部の中心駅に隣接して作られるターミナル○○○○も多くなった。第一次世界大戦後は特に経済発展によって増加したサラリーマン家庭の買い物、娯楽の場所としても発展した。

    デパート

  • 79

    日本的西洋料理の愛称。明治維新以降、本格的な西洋料理が登場したが、大衆(庶民)には程遠いものだった。それを、明治時代末期より町のコックらが工夫し、日本的要素を加味して日本式西洋料理が相次いで作られた。大正時代以降、大衆に広がり、○○として定着するようになった。トンカツ・コロッケ・ライスカレー・オムライスなど、いずれも醤油をベースにした和製ソースと米飯に合わせた料理であった。

    洋食

  • 80

    大正末・昭和初期に現れた○○○○○○の略称。○○は、西洋風に仕立てた断髪に、洋服を着た女性。流行の先端を行く近代的女性を指した。山高帽子にステッキといったいでたちで銀座・心斎橋などの盛り場を歩いたモダンボーイを略したモボもある。

    モガ

  • 81

    都市部で職に就いている女性のこと。工業・農業労働以外の職に従事する女性を指す。とくに第一次世界大戦後は女性の社会進出が進み、教師・タイピスト・電話交換手・バスガール・会社事務員などが、都市部で育った未婚女性の職業として定着した。

    職業婦人

  • 82

    加藤・若槻①・浜口・若槻②内閣の外相○○○○○に代表される外交方針。ワシントン体制の下で、北伐や国共内戦などに対し中国への内政不干渉政策をとり、英米への対立回避に努めた(もっとも過度の不干渉方針は英米の疑惑を招きもした)。軍部・右翼・政友会はこれを軟弱外交として避難した。

    弊原外交

  • 83

    法令関係で「○○」の語を使ったのは教育勅語が最初。○○とは、「万世一系の天皇が統治する万邦無比の国家」といった趣旨。

    国体

  • 84

    国家は個人や国家内のあらゆる社会集団よりも絶対的に優位する、と主張する政治思想。国家を人間社会最高の組織体と考え、国家権力が社会生活の全領域にわたって統制力を発揮することを認める立場。偏狭な民族主義、国粋主義と結びつきやすい。 近代日本では日清戦争後に思想界の主流となっていった。平民主義を唱えていた徳富蘇峰の転向、高山樗牛らの日本主義が事例として挙げられる。しかし、日露戦争後から大正期にかけては国家目標の達成やデモクラシーの思潮を背景に一時後退していた。

    国家主義

  • 85

    細菌学者。熊本の生まれ。ドイツに留学、コッホのもとで研究し、破傷風菌の純粋培養に成功、さらに抗毒素を発見。1892年に帰国しペスト菌を発見し、血清療法を研究。伝染病研究所を創設しその所長を務め志賀潔らを育成した。伝染病研究所の東大移管に反対し、私財を投じて○○研究所を創立した。

    北里柴三郎

  • 86

    近世の中期から明治初年までに作られた、主として散文による俗文芸の総称。明治初年には「安愚楽鍋」などの作品が出たが題材を文明開化においただけで従来の技法や考え方で書かれていた。

    偽作文学

  • 87

    政治問題や政界の人物を主題とした小説。また、政治思想の宣伝や普及を目的とした小説。日本では主として明治10年代の自由民権運動の興隆期から明治20年前後の国会開設運動のころまでに流行した自由民権の理想を小説の形で世に訴えようとした一群の小説をさす。矢野龍渓「経国美談」や東海散士「佳人之奇遇」末広鉄腸「雪中梅」が代表作。

    政治小説

  • 88

    社会の現実および事物の実際をありのまま描写しようとする芸術上の立場。リアリズムの翻訳語。ヨーロッパでは19世紀後半、ロマン主義に対立して起こった。バルザックやフローベールの小説、クールベの絵画など。日本では近世の井原西鶴、式亭三馬、為永春水などの文学にもそのような特徴はみられるが、特にヨーロッパの○○○○の影響は明治20年前後に顕著であり、偽作文学の勧善懲悪、政治小説の政治至上主義に対し、坪内逍遥は「小説神髄」を発表し人間の内面や世相を客観的・○○的に描くことを提唱。二葉亭四迷「浮雲」は言文一致体による最初の本格的○○○○小説となり、近代文学の出発点となった。

    写実主義

  • 89

    情緒や自然の重複、超理性的なものや永遠に向かう傾向、創造的個性の尊重など、普遍的、理性的なものを理想とする古典主義に対立する思潮として発展、広く芸術・文学・哲学・宗教のあらゆる分野に及んだ。文学ではゲーテ、ホフマン、ワーズワース、ユーゴーなど、音楽ではベートーベン、シューベルト、ワーグナーなど。日本では日清戦争前後に高まった文学運動をさす。個人主義・自由主義思想の発展に伴い、封建制からの自我の解放、確率をめざしたが、一方、空想的・唯美的美術をも志向した。北村透谷・高山樗牛の評論、島崎藤村・土井晩翠の詩、与謝野鉄幹・晶子の短歌、泉鏡花・国木田独歩の小説などがその代表。

    ロマン主義

  • 90

    ロマン主義歌人・評論家。大阪府堺市生まれ。本名しょう。旧姓鳳。堺女学校補習科卒業後、家業の菓子商を手伝いながら古典を独習した。1900年「明星」に加入、主宰者○○○寛(鉄幹)と恋愛し、翌年上京、歌集「みだれ髪」を刊行、結婚に至る。同書は「くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる」など大胆で斬新な表現に富み世を驚かした。日露戦争に従軍の弟を思い、04年に発表した長詩「君死にたまふことなかれ」は文壇に論争をうんだ。1912年外遊中の夫の後を追ってパリに赴き、欧州各国を巡った。大正期は作家の他童話、小説、古典の口語訳を試みた。また広く社会問題の評論に取り組んで、「青鞜」の運動を助けたり、母性保護論争に加わったりして積極的に活躍した。

    与謝野晶子

  • 91

    文学で、人間の生態や社会生活を直視して分析し、ありのままの現実を直視して、醜悪なものを避けず理想化を行わないで描写することを本旨とする思潮。自然科学の隆盛に刺激されて、19世紀末にフランスのゾラを中心として起こり、モーバッサン、ゴンクール兄弟、ドーデらにうけつがれた。日本では日露戦争後に文壇の主流となり、自己の内面的心理や動物的側面をありのままに告白したり、また、平凡な人生をあるがままに描写したりする生き方をとるに至った。代表的作家は田山花袋、島崎藤村、岩野泡鳴、徳田秋声、正宗白鳥など。

    自然主義

  • 92

    アメリカの哲学者、東洋美術研究科。ハーバード大学卒業後、来日、東大で哲学・経済学を講じ、かたわら日本美術の研究に従事。弟子の岡倉天心と東京美術学校を創設(1887)するなど、日本画復興およびわが国の美術行政確立に力を尽くす。

    フェノロサ

  • 公共 前期末

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    問題一覧

  • 1

    1922年12月に成立したロシアを中心とした社会主義国家の連邦。

    ソヴィエト社会主義共和国連邦

  • 2

    ロシアに対する列国(英米日仏)の革命干渉戦争の一環。1918年、アメリカはチェコスロヴァキア軍教授を名目に日米共同出兵を提唱。これを機に日本は大量の軍隊をロシア領樺太・シベリア・北満州に派遣した。第一次世界大戦終結後、日本だけが1922年まで駐兵を継続を列国から領土的野心を疑われ非難された。

    シベリア出兵

  • 3

    第一次世界大戦の開戦後に起こった好景気。第一次世界大戦によって、日本製品がアジアに大量に輸出され、また交戦国からの需要などによって輸出が急増したことによって引き起こされた。特に世界的な船舶不足から造船業・海運業は発展し、日本はイギリス・アメリカに次いで世界第三位の海運国となり船成金を多く生み出した。アジア市場への輸出拡大で活況を呈した紡績業では、中国に進出して工場を建設する企業も現れた(在華紡)。貿易収支は輸入超過から大幅な輸出超過となり、債務国から債権国へと転じることが出来た。ドイツからの薬品、肥料などの化学製品の輸入が途絶えた結果、国内で化学工業が勃興し、また猪苗代・東京間の送電にも成功して工業原動力の蒸気力から電力への転換が進んだ。こうした工業部門の発展によって、工業生産額が農業生産額を上回り、日本は工業国となった。また、アメリカが交戦諸国への輸出によって好況になり、日本は生糸を中心として対米輸出を急増させた。養蚕業の収益を高め、養蚕経営の拡大を導いた。また、雇用の増大と労働上昇によって、農家の家計が潤うとともに、米をはじめとする農産物の需要が増加し、国内需要も増大した。

    大戦景気

  • 4

    第一次世界大戦中の好景気で巨富を得たものを将棋の駒に例えて言う。とくに第一次世界大戦中は、世界的な船舶不足から、造船・海運業界で巨利を得た者が多かった。〇〇〇などの〇〇は、第一次世界大戦後の恐慌のなかで多くが没落した。

    成金

  • 5

    中国において日本の大紡績企業が経営した紡績会社。第一次世界大戦後に本格化。人件費の安さなどを求めて上海・青島などに進出し、中国の紡績業を圧倒したが、反面反日運動の激化を招いた。

    在華紡

  • 6

    第一次世界大戦の末期、1918年に発生した民衆運動。シベリア出兵にからんだ米の買い占めによる米価急騰を契機に、富山県の漁村の女性たちが行動を起こすと米屋などを襲撃する動きが一気に全国化し労働運動などの社会運動と結びつき大規模化した。寺内内閣は軍隊を出動させて事態を鎮圧したものの、初の本格的な政党内閣原敬内閣に政権を譲った。

    米騒動

  • 7

    盛岡出身の政党政治家。1900年の立憲政友会創立に参画。まもなく党の実権を握り、第3代総裁として米騒動後に本格的政党内閣を組織。小選挙区制導入や、積極制作、国際協調路線を敷いたが、戦後恐慌後に疑獄事件が生じる中東京駅で刺殺された。普選容認しなかった彼は1919年選挙法改正で納税資格を直接国税3円以上とし、同時に小選挙区制を導入。総選挙に大勝した。

    原敬

  • 8

    大正時代に広まった自由主義的・民主主義的な風潮。第一次世界大戦期に産業が大きく発展して経済規模が膨らんだこと、教育の普及により中産階級が増大し知識階級も増えてきたことを背景に、世界的な民主化の風潮の影響も受けて高揚した。吉野作造の民本主義、美濃部達吉の天皇機関説が広まり普通選挙が求められた。また、社会主義運動、労働運動、女性解放運動、部落解放運動など知識人が参加することにより持続的な団体が結成された。教育面でも自由主義的な傾向が見られた。

    大正デモクラシー

  • 9

    美濃部達吉「憲法撮要」で示された考え。統治権の主体は国家にあり天皇はその最高機関であるという国家法人説にもとづき、天皇は憲法により制限されていると考える学説。美濃部達吉の登場以前からこの考えは学界などでは広く受容されていた。明治憲法のもとで政党政治は必然であるという持論を導き出した美濃部の憲法解釈は、政党内閣の慣行を支える理論的基礎とされたが、1935年の国体明徴声明により公的に否認された。

    天皇機関説

  • 10

    憲法学者・貴族院議員。兵庫県出身。「憲法講話」「憲法撮要」などの著作で天皇機関説を唱え、上杉慎吉らの天皇主権説と対立したが、支持を得た。東京帝国大学退官後は勅選で貴族院議員となった。1935年、天皇機関説が国体に反するとして議会で批判され、政治問題化したため、〇〇〇〇〇の著書は発禁処分となり、〇〇〇は貴族院議員を辞職した。

    美濃部達吉

  • 11

    1916年、吉野作造が「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」(「中央公論」)で体系化した政治思想。デモクラシーの訳語として、主権在民を含意する民主主義の語では明治憲法に抵触するため、主権の所在を問わないこの語を採用。明治憲法体制の枠内での政治の民主化を主張。主権の所在を問わず、運用の目的を民衆の福利増進にあるべきと主張し、政党政治・普選を理論面から支えた。

    民本主義

  • 12

    民本主義を提唱した政治学者。1918年、黎明会と東京帝国大学内に新人界を組織するなど、デモクラシー擁護の言論活動や学生の啓蒙運動に積極的に関与した。

    吉野作造

  • 13

    アメリカ合衆国第28代大統領、第一次世界大戦期に大統領を務め、参戦後に14箇条の講和原則を発表し、国際連盟を提唱した。

    ウィルソン

  • 14

    第一次世界大戦の講和に向けてアメリカ合衆国大統領ウィルソンが1918年1月に発表し、戦後の国際政治の原則とされた。

    14ヶ条の原則

  • 15

    1919〜20年、パリで開催された第一次世界大戦の講和国際会議。戦勝国のアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本の5カ国など32ヶ国が参加したが、実質的にはアメリカのウィルソン、イギリスのロイド・ジョージ、フランスのクレマンソーが主導した。敗戦国ドイツと社会主義革命が起こったロシアのソヴィエト政権は参加できなかった。ウィルソンの提唱した14ヵ条に沿って民族自決・国際連盟の設立などの大戦後の国際秩序のあり方も議論されたが、戦勝国の領土と賠償金の確保が優先され、ドイツなど敗戦国に対しては厳しい報復が行われた。1919年6月、ヴェルサイユ宮殿において対ドイツ講和条約が締結され、正式に世界大戦は終結した。

    パリ講和会議

  • 16

    第一次世界大戦終結のための講和条約。1919年にパリ講和会議が開催され、連合国と敗戦国ドイツの間で条約に調印。日本は西園寺公望らを全権とする代表団を派遣した(原内閣)。この条約の成立により、欧州には民族自決などを一応の原則とする新国際秩序(〇〇〇〇〇体制)が形成された。

    ヴェルサイユ条約

  • 17

    第一次世界大戦後、パリ講和会議で1919年に成立した〇〇〇〇〇条約のもとでの国際体制。ドイツ軍国主義の再興を防止するとともに、社会主義の台頭に対する資本主義諸国の約束を意図した。しかし敗戦国ドイツでは領土縮小、軍備制限など苛酷な処置に対する不満が強く、1930年代に〇〇〇〇〇〇〇打倒を掲げるナチスが台頭した。またアメリカ・ソ連が国際連盟に加盟しなかった(ソ連は1934年に加盟)ことにより、軍縮などの課題に取り組むことが不十分であったため、1936年には実質的に崩壊し、1939年には第二次世界大戦が勃発した。

    ヴェルサイユ体制

  • 18

    第一次世界大戦後のヴェルサイユ講和条約の規定によって1920年に設立された。世界最初の国際平和維持機構。集団安全保障の理念による国際協調の推進、地域紛争の解決などで大きな役割を果たしたが、大国アメリカの不参加、ドイツとソ連の不参加(両国は途中で参加)などのため、充分な機能を発揮することが出来ず、特に世界恐慌後のファシズムの台頭の結果、日本・ドイツ・イタリアが脱退、第二次世界大戦を阻止することは出来なかった。しかしその理念は国際連合に引き継がれた。

    国際連盟

  • 19

    アメリカの呼び掛けで1921年11月から翌2年にかけて開催された国際会議。日本側全権は、海相加藤友三郎・貴族院議長徳川家達・駐米大使弊原喜重郎。これによりアメリカが主導する形でヴェルサイユ体制を補完する東アジア・太平洋の新国際秩序が形成された(〇〇〇〇〇体制)。そこには多国間の協調と現状維持により日本の膨張を抑制する意図があると考えられた。とはいえ、しかし、外交専門家は〇〇〇〇〇体制に協力的であり、批判的なのはメディア・国民だった。このずれが後の軍部台頭を招くことにつながっていく。

    ワシントン会議

  • 20

    ワシントン会議に全権として出席し、海軍軍縮を主導。帰国後、内閣を組織したが在任中に死去した海軍軍人。

    加藤友三郎

  • 21

    英米日仏4カ国で太平洋地域の現状維持に合意した条約。日英同盟協約の破棄が明記された。

    四か国条約

  • 22

    1902年から1923年(四か国条約で廃棄決定)まで3次にわたって継続した軍事規定をもつ協約。二十世紀初頭から約20年間日本外交の最大の基軸として機能した。

    日英同盟協約

  • 23

    米・英・日・仏・伊・ベルギー・ポルトガル・オランダ・中国9カ国が中国問題について合意した条約。中国での新権益の獲得などを禁止。これにより石井・ランシング協定が廃棄された。

    九カ国条約

  • 24

    米英日仏伊5カ国で、主力艦の保有量比率と今後10年間の主力艦建造禁止に合意。主力艦の保有比率は米英日仏伊で5:5:3:1.67:1.67となった。

    ワシントン海軍軍縮条約

  • 25

    日本の植民地支配下の朝鮮で、1919年3月に起こった民族独立運動。民族自決の国際世論が高まるなかで、1919年、京城(現ソウル)で開催された集会を機に、朝鮮全土に広がった独立運動。朝鮮総督府は、軍隊・警察を動員して独立運動を弾圧した。この後、朝鮮総督に就任した齋藤実は朝鮮総督資格者を現役軍人から文官にまで拡大、憲兵警察を廃止するなど文治主義的政策に転換した。

    三・一運動

  • 26

    1919年4月、パリ講和会議に反発し日本の二十一ヶ条撤廃を要求した中国の民衆運動。中国の民族運動、そして社会主義運動の出発点となった。

    五・四運動

  • 27

    1919年10月、孫文が中心となって、中華革命党を改組して結成した中国の大衆政党。三民主義を理念としながらも、1924年1月の第1回全国大会でソ連との連携、中国共産党との合作に踏み切り、第1次国共合作を実現した。翌年、孫文が死去すると蒋介石が台頭し、1926年に軍閥勢力を倒すために北伐を開始、翌年、上海クーデタで共産党と決別した。1928年、北伐を完了して中華民国の権力を握った。1931年の満州事変以来、日本の侵略が始まるが共産党討伐を優先、1936年の西安事件を機に共産党の協力に転じ、1937年の日中戦争勃発を機に第2次国共合作成立させ、抗日戦を戦った。

    中国国民党

  • 28

    1894年から清朝支配に対する抵抗を開始、興中会・中国同盟会を組織して運動と展開、蜂起失敗、亡命を繰り返しながら三民主義などの理念をつくりあげ、1911年に辛亥革命を成功させ、翌年中華民国の初代臨時大統領となった。ここまでを〇〇の目ざした革命の前段とすれば、後半は広東を拠点として国民党・中華革命党を率いて北京軍閥政府と戦い、さらに中国国民党を組織して共産党との国共合作に踏み切ることで帝国主義と戦った時期と言える。〇〇は1925年の死去まで30年以上にわたって中国の統一と真の独立を目指す国民革命を指導した人物であった。

    孫文

  • 29

    現代中国の政権党。1921年の結党から、2021年に100年を迎えた。もともとはマルクス=レーニン主義を奉じるコミンテルン中国支部として結成された。主に農村を拠点に解放区をもうけ、封建的な地主制度を廃止するなどで支持を拡げ、国共内戦と日本との戦争を戦った。1949年中華人民共和国を建国したが、〇〇〇の存在意義は現在も抗日戦を勝利に導いた点に置かれている。

    中国共産党

  • 30

    1924年に中国で成立した国民党と共産党の協力関係。孫文の主導により共産党員が個人の資格で国民党に加わる形で実現した。翌25年、広州国民政府を成立させ、26年には実権を握った蒋介石が北京の軍閥政府打倒をめざす北伐を開始したが、1927年の蒋介石による上海クーデタで共産党勢力が排除され、破綻した。

    第1次国共合作

  • 31

    中国国民党の孫文の後継指導者。1926年に北伐を開始、翌年の上海クーデタで共産党を排除。北伐完了後、国共内戦に入る。1931年、満州事変が起きると共産党掃討を優先。1936年の西安事件を受けて内戦を停止、1937年、日中戦争が始まると国共合作に転じ、抗日戦を指導した。南京を占領され、重慶に逃れたが、米英の支援を受け、連合国の一員として戦った。しかし、日本との戦争が終わって再開された国共内戦に敗れて1949年に国民政府を率いて台湾に撤退し、総統として統治した。

    蒋介石

  • 32

    大日本労働総同盟友愛会が組織名を改めた労働者団体。1921年結成。労働者と資本家を対立する物としてとらえず、協調して利益を増大させ、労働者の待遇を改善させようとする労資協調主義から階級闘争主義に転換した。関東大震災後は、現実主義をとる右派が優勢となり、左派が除名された。1940年、新体制運動のもとで解散した。

    日本労働総同盟

  • 33

    労働者と資本家の間で発生する、賃金や労働時間などの労働条件をめぐる対立。暴動では問題解決にならないため、労働者が団結してストライキ・サボタージュなどの行動を起こし、資本家側と交渉した。産業革命やその後の経済発展の進展にともなって、各地の工場などで頻発した。日本労働総同盟などの労働組合の全国組織が指導にあたった。

    労働争議

  • 34

    毎年5月1日に世界で統一して行われる労働者の祭典。日本では、大日本労働総同盟友愛会が中心となって1920年(同年は5月2日の日曜日に実施)に初めて行われ、1936年に政府が禁止し中絶した。第二次世界大戦後は、1946年から再開された。

    メーデー

  • 35

    小作人と地主との間で発生する、小作料や小作権などをめぐる対立。慢性的な不況に陥った1920年代以降頻発し、日本農民組合などが小作人を組織して争議を指導した。大正時代末期から昭和時代初期には小作料の減免や小作条件などの改善などを実現したが、昭和恐慌期には地主の小作地取り上げに反対する闘争へ発展していった。

    小作争議

  • 36

    日本初の全国的な小作人組合。杉山元治郎・賀川豊彦らが1922年に結成。小作人の地位向上、小作料減額などを地主に対して求める小作争議を指導した。普通選挙法が制定されると、無産政党の設立が課題となり、労働農民党を結成した。

    日本農民組合

  • 37

    明治〜昭和期前期の女性の解放と社会改革を求める社会運動。旧来の道徳・価値観で良妻賢母が女性の理想像とされる中、女性の自我を確立し、自立した自由な生き方を選択することを主張する。平塚らいてうらが中心となり、青鞜社の活動などがみられた。

    女性解放運動

  • 38

    女性文芸団体。平塚らいてうらにより1911年に設立され、同人誌「○○」の発行を主な活動とした。女性の解放を訴えた。○○○に参加した女性は「新しい女(女性)」と批判された。

    青鞜社

  • 39

    ○○明(1886〜1971)。大正時代から昭和時代の女性解放運動家。1911年、青鞜社を創設して、女性問題について世に発信し、女性の解放を訴えた。1920年には市川房枝らとともに新婦人協会を設立し、女性の政治活動を禁止する治安警察法第5条改正に尽力した。

    平塚らいてう

  • 40

    ○○社が発行した同人誌。1911年○○社により創刊。平塚らいてうらが発起人となり、与謝野晶子らが寄稿した。平塚らいてうの創刊の辞は「元始、女性は実に太陽であった」で始まる。

    青鞜

  • 41

    旧来の慣習・価値観に従わず、自我に目ざめ自立して生きていこうとする女性。新しい思想を持った女性。男女不平等を打破し、新しい地位を獲得しようと自覚した女性を指す。青鞜社が女性解放運動を起こした当時流行した語で、おもに青鞜社の女性に対して向けられた。平塚らいてうはこの批判を取り込んで、自ら新しい女と宣言して女性の解放と自由な生き方の選択を訴えた。

    新しい女

  • 42

    平塚らいてう・市川房枝らを中心に設立された婦人団体。1920年設立。治安警察法第5条改正による女性の政治活動の解禁、女性参政権の獲得などを求めた。1922年、治安警察法第5条は一部が改正され、女性の政談集会への参加は認められることになり、同年に協会は解散した。

    新婦人協会

  • 43

    大正時代から昭和時代の女性運動家(1893〜1981)。愛知県生まれ。平塚らいてうのよびかけに応えて、新婦人協会の設立に関わった。治安警察法第5条の一部改正が実現したのち、婦人参政権獲得期成同盟会を設立し、婦人参政権獲得運動の先頭に立った。戦時下では大政翼賛会に協力し、敗戦後は参議院議員として活動した。

    市川房枝

  • 44

    財産・生産手段の共有を目指す思想。マルクスやエンゲルスによって体系化され、私有財産を否定し、財産の共有と共有財産に基づく社会・政治体制を実現しようとする思想と運動。社会主義と○○○○は区別せずに用いられることもいいが、分ける場合、社会主義がもっぱら生産手段の社会的所有ないし国有化を唱えたのに対し、○○○○は消費税を含めた財産のより徹底した平等化を主張した、とされる。または、議会政治の中で社会主義が発展した後に、○○○○が成立するとも考えられた。

    共産主義

  • 45

    ソ連共産党の指導の下でコミンテルン日本支部として設立。ロシア革命以降、共産主義者たちの活動も高揚し、非合法政党として堺利彦・山川均らが中心となって1922年に結成。国体の変革(天皇制否定)や私有財産の否認(革命の実現を求めた)により、治安維持法によって弾圧された。三・一五事件、四・一六事件などの共産党弾圧事件により党幹部党員が大量に検挙され、1930年代半ばには活動不能に陥った。

    日本共産党

  • 46

    国際的な共産党組織。世界各国の共産党と連携して、革命運動を指導した。日本では、山川均らにより○○○○○○日本支部として非合法の日本共産党が設立された。

    コミンテルン

  • 47

    被差別部落とその出身者に対する差別を解消しようとする運動。大正時代には全国水平社が設立されて、差別からの解放を求めて運動が展開された。第二次世界大戦中は運動が停滞したが、戦後には全国水平社も○○○○同盟として活動を再開し、現在まで運動が続けられている。

    部落解放運動

  • 48

    江戸時代にえた・非人などといった被差別身分とされた人々が居住する地域。明治時代にえた(穢多)ひにん(非人)の称は廃されて平民身分とされたが、職業・結婚・教育などさまざまな面で差別が拡大していた。明治時代以降、○○○○運動が行われ、差別の解消がはかられている。

    被差別部落

  • 49

    部落解放運動の全国組織。西光万吉らが1922年に結成した。差別からの解放を求めて活動した。第二次世界大戦中は活動を休止していたが、戦後、再開して部落解放同盟となった。

    全国水平社

  • 50

    1923年9月1日に発生した巨大地震。地震とその後の火災のため東京横浜は灰燼に帰し、被害は関東一円に及んだ(死者・行方不明者約14万人。被災者340万人以上。)山本②内閣は事態に対処するため戒厳令を公布。しかし、朝鮮人・中国人の殺害が相次ぎ、亀戸事件(警察・軍隊が亀戸署内で労働運動指揮者を多数虐殺した事件)や甘粕事件(憲兵大尉甘粕正彦が無政府主義者大杉栄・伊藤野枝を殺害した事件)が発生するなど社会的混乱は極まった。震災は経済にも大打撃を与え、この時の救済策が1927年の金融恐慌の原因となった。一方、震災からの復興は東京などを近代的都市としての景観を整えさせることとなった。

    関東大震災

  • 51

    1923年末、摂政官(後の昭和天皇・裕仁)の襲撃事件が発生。事件の首謀者で無政府主義者の難波大助は死刑に処せられた。山本②内閣は責任を取り総辞職した。

    虎の門事件

  • 52

    法相・枢密院議長を歴任し、1924年貴族院を中心に組閣。護憲三派の攻撃を受け(第二次護憲運動)、与党の政友本党は総選挙で大敗、総辞職した官僚・政治家。

    清浦奎吾

  • 53

    議会軽視の態度をとった清浦内閣に対し、護憲三派(憲政会・政友会・革新倶楽部)を中心に展開された倒閣運動。護憲三派は選挙に圧勝し、加藤高明を首相とする連立内閣が成立した。

    第二次護憲運動

  • 54

    1916年立憲同志会を中心に加藤高明を総裁として結成された政党。長期に野党に甘んじた後、1924年に加藤内閣が成立。加藤の死後は若槻礼次郎が総裁となり内閣を組織した。対外的には協調外交(弊原外交)を展開、国内では産業振興政策を進め、特に都市知識人の支持を受けた。1927年、政友本党と合同し立憲民政党となった。

    憲政会

  • 55

    1913年、立憲同志会の総裁となり、犬養②の外相として第一次世界大戦への参戦、二十一ヶ条要求を推進し、元老山県らの批判を受けた。1916年に立憲同志会は憲政会となり、引き続き総裁となった。その後、護憲三派内閣を組織し、普通選挙法・治安維持法を制定、日ソ基本条約を締結(同年ラジオ放送開始)。政友会の離脱後、憲政会単独内閣を組織するが、首相在任中に病死。三菱の創始者岩崎弥太郎の娘婿。

    加藤高明

  • 56

    1925年、加藤内閣により改正された衆議院議員選挙法。○○○○とは納税額を選挙権の要件とする制限を廃止すること。これにより25歳以上のすべての男子に選挙権が与えられた。初めての○○○○は1928年実施。なお婦人参政権は1945年の敗戦後に認められた。

    普通選挙法

  • 57

    1925年公布。国体の変革・私有財産制度の否認を目的とする思想・結社活動を取り締まる法律。初の普通選挙が行われた1928年の緊急勅令により「国体」条項の最高刑を死刑とし、結社員ではなくとも有罪とできる目的遂行罪を新設した。1941年には予防拘禁制を追加。1945年廃止。

    治安維持法

  • 58

    加藤高明内閣。1925年、北樺太からの撤兵、ポーツマス条約の効力確認、ソ連領内(北樺太)での利権開放(石油・石炭開発の利権)などを規定。日ソ国交樹立。

    日ソ基本条約

  • 59

    都市部に居住するサラリーマンなどの中産階級。大正時代から昭和時代前期にかけて、資本主義経済の発展によって工業化・都市化が進展し増加。資本家階級と労働者階級の中間に位置し、従来までの商工業者や自営農民の○○○に対して、東京・大阪などの都市では、会社員・銀行員・公務員などのサラリーマンが層として現れた。都市の景観は変化し、彼らは衣食住の洋風化を進め、子弟の高等教育にも熱心であった。また、都市部を中心に大衆文化の発展を支えた。

    都市中間層

  • 60

    都市部の事務系給与生活者。工場労働者とは異なる、会社員・銀行員・公務員など、事務系のホワイトカラーを指す。都市中間層(新中間層)ともよばれ、大正時代から昭和時代前期には、都市部を中心に近代的(洋風的)な生活を営み大衆文化の発展を支えた。

    サラリーマン

  • 61

    労働者・サラリーマンなどを担い手とする文化。大正時代から昭和戦前期にかけては都市部を中心に、昭和戦後期には地方を含めた全国で発達した文化。労働者やサラリーマンなどの一般勤労者を新たな担い手とする文化で、工業化・都市化とともに、教育の普及、マスメディアの発達などを背景としている。新聞・雑誌の発行部数が増えたり、○○雑誌や文庫本などが出版された。新聞・雑誌には○○文学の小説などが連載された。ラジオ放送も始まり、スポーツ観戦も広まった。映画の上映、歌謡曲の流行とレコード鑑賞など、さまざまな○○娯楽も広まった。他にも、レジャー産業(海水浴場・遊園地・団体旅行をうながす旅行社)、衣食住の変化(女性のファッション・カレーライス、トンカツ、オムライスなどの洋食)や価値観・人間関係の変化(自由恋愛に基づく夫婦とその子どもで構成される近代家族を理想)、匿名的な人間関係(コミュニティの弱体化)、学歴の重視などを特徴とする。

    大衆文化

  • 62

    「遠野物語」などを著した日本民俗学の創始者。兵庫県出身。1900年東京帝国大学卒業。農商務省に入り、官僚として農政学に関心を抱く。1908年旅行で訪れた宮崎県椎葉村の山民の生活に感動し、また同年秋に岩手県遠野地方に残る多くの不思議な伝承を聞いて魅了され、民俗学の研究に踏み込むことになった。1919年退官。翌年朝日新聞社へ入社。1924〜30年論説委員として社説執筆。その傍ら、全国各地を旅行。○○の関心は次第に、日本の平野部でありふれた生活をする農民に移り、彼らを無名の民衆「常民」とよび、その生活史を民間伝承などの調査・研究を通じて明らかにしようとした。1930年代前半には、民俗学の方法論と学問的体系を確立し、後進の指導にも当たった。1951年文化勲章受賞。「遠野物語」(1910)、「明治大正史世相篇」(1931)、「木綿以前の事」(1939)、「海上の道」(1961)の他、多くの著書・論文を残す。

    柳田国男

  • 63

    民衆の風俗習慣や生活を解明する学問。民間伝承や風俗習慣を調査・研究することによって、民衆の生活を明らかにし、古くから伝わる民衆文化を探り、文化の特質を探る学問。柳田国男によって確立された。柳田は、無名の民衆を「常民」とよび、○○○の研究対象とした。

    民俗学

  • 64

    様々な分野の論文・評論・創作などを掲載する雑誌。政治・経済・文化・思想などの広い分野にわたる。明治時代に創刊された「太陽」を先駆とし、大正時代には「中央公論」や「改造」などの雑誌が発刊された。

    総合雑誌

  • 65

    「改造」と並ぶ代表的な総合雑誌。初め浄土真宗系団体の機関誌「反省会雑誌」として刊行されたが、1899年に「○○○○」として改題して宗派から独立した総合雑誌となった。大正時代初期、滝田樗陰を編集長として発展した。島崎藤村・田山花袋・夏目漱石・谷崎潤一郎など多くの作家が連載し、また大正デモクラシー期には吉野作造の民本主義の論考などを掲載して、文芸界・言論界を牽引した。

    中央公論

  • 66

    「中央公論」と並ぶ代表的な総合雑誌。1919年、山本実彦が○○社を創設して発行した。大正デモクラシーの思潮を背景として生まれた社会問題や社会主義思想に関する論文を掲載し、山川均や河上肇などのマルクス主義者らを執筆者として登場させ、社会主義の高揚に大きな役割を果たした。創作欄も充実しており、志賀直哉の「暗夜行路」、芥川龍之介の「河童」なども掲載された。しかし、戦時下の1942年細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」が陸軍に摘発されて発禁となり、編集者や執筆者が特高に検挙される事件(横浜事件)が起こって、1944年廃刊。敗戦後再刊されたが、1955年廃刊。

    改造

  • 67

    石橋湛山らが記者などとして活躍した経済雑誌。1895年、町田忠治(後の立憲民政党総裁)が○○○○○○社を設立して東京で創刊。創業期には、田口卯吉の「○○○○雑誌」と並び称された。軍国主義・帝国主義に対抗し、民主主義・自由主義的な論陣を張った。三浦銕太郎や石橋湛山などが主幹をつとめた。1961年「週間○○○○」と改題。

    東洋経済新報

  • 68

    経済評論家・政治家、第55代内閣総理大臣。東京出身。早稲田大学卒業後、1911年東洋経済新報社に入社。「東洋経済新報」の記者を務め、軍国主義・帝国主義に対抗し、民主主義・自由主義の立場から多くの記事を書いた。同紙社説に「青島は断じて領有すべからず」などの評論を発表するなど、小日本主義を唱えたことで知られる。1939年東洋経済新報社の社長就任。浜口雄幸内閣の金解禁に反対し、満州事変後の戦争拡大にも反対し、言論の自由を唱え続けた。敗戦後は日本自由党に入党。吉田茂内閣の蔵相を務め、傾斜生産方式を実行。1947年衆議院議員に当選直後に占領軍との対立によって公職追放。1952年議員に返り咲き、鳩山一郎を助けて吉田茂と対立し、1954年日本民主党の結成に参加した。自由民主党の総裁選挙では岸信介を破って第2代総裁に就任し、1956年に組閣するものの病のため辞職した。

    石橋湛山

  • 69

    石橋湛山らが唱えた植民地放棄などの主張。雑誌「東洋経済新報」の主幹として活躍した三浦銕太郎・石橋湛山らに代表される見解。日本の発展をはかるためには、欧米先進国並みの資本主義・立憲主義を発展させるとともに、従来の植民地を経営する帝国主義政策から、貿易・資本輸出などによる平和的・経済的な進出へ転換させるべきであるとのような見地から、国内では普通選挙を前提とする政党内閣制の実現、対外的には自由貿易、民族自決や朝鮮満州などの植民地放棄の実現を求めた。

    小日本主義

  • 70

    大衆向けの娯楽雑誌。一般大衆の興味・関心事の情報を提供。大正から昭和時代初期にかけて創刊された。大日本雄弁会講談社が1925年1月号から発刊した「キング」がその代表。

    大衆雑誌

  • 71

    代表的な大衆雑誌。大日本雄弁会講談社が、1925年1月号から発行した。「日本一おもしろい、日本一為になる、日本一安い雑誌」をモットーとする大衆雑誌。当時、雑誌の発行部数は売れている物でも25万部程度であったが、大規模な宣伝によって創刊号は74万部発行し、創刊の翌年には発行部数100万部を突破するという驚異的な売上を誇った。1957年、廃刊。

    キング

  • 72

    1冊1円の安価で発売のした書籍。出版業界の不況を打開するために、改造社社長の山本実彦が創始。「現代日本文学全集」を、1926年末より1冊1円の低価格で販売した。当初の予約読者が23万人にのぼり、大成功を収めた。この成功を見て、新潮社の「世界文学全集」、文芸春秋社の「世界大思想全集」、平凡社の「現代大衆文学全集」など、続々と全集が刊行され、○○時代が到来した。しかし、急速に読者に飽きられ、1930年代頃にはブームは終わった。○○の功績としては、明治・大正時代の文学遺産を系統づけたこと、低価格・大量出版により読者層を広げたこと、作者の生活を安定させたことなどがある。

    円本

  • 73

    文庫本の評価を定着させたもの。1927年より○○書店が刊行。世界的に著名なドイツの「レクラム文庫」をまねて、100頁を1単位として20銭刻みの定価をつけ、それを星印で表示するなどした。書目も厳選し古典的価値のある名著を収録、翻訳は全て原典からの直接訳、省略無しの完全版をうたった。国内外の古典の名著が安価に購入できたことから、学生・知識人層の圧倒的な支持を得た。この成功によって、改造文庫・春陽堂文庫・新潮文庫なども参入し、文庫本ブームが起こった。

    岩波文庫

  • 74

    小型の出版物。国内外の古典の名著などを安価に提供し、学問・思想や文学の普及に貢献した。1927年創刊の岩波○○が大成功を収めて以降、多くの○○○が発刊された。

    文庫本

  • 75

    東京・大阪・名古屋に○○○○○局が設けられ、1925年には東京で本放送も開始された。1926年に放送局3社が統合されて日本放送協会(NHK)が設立された。○○○劇やスポーツ実況放送などが人気を呼び、定時のニュース放送に人々は耳を傾けた。契約者数は、開局の年には36万人であったが、満州事変が始まると100万人を超え、1940年代には○○○の普及率は50%を突破するなど、多くの国民への情報伝達手段として機能した。敗戦後の1951年には民間放送も開始された。

    ラジオ放送

  • 76

    音楽などを録音した円盤。蓄音機・プレーヤーで再生。明治時代後期に円盤式○○○○の国産が開始され、その後、蓄音機とともに普及していった。大衆文化の1事例となった。昭和時代には日本コロムビア・日本ビクターなどが発足。流行歌や浪花節はもとより、映画説明・演説・語学などあらゆる音楽材が○○○○になった。戦争の推移につれて軍歌や国民歌謡ももてはやされた。敗戦後にはアメリカにLPが出現、音質も飛躍的に向上する。○○○○は音楽の普及に大きく貢献したが、1982年のCD登場で○○○○はその地位を失った。

    レコード

  • 77

    大正時代から昭和時代初期にかけて流行した和洋折衷の住宅。増加したサラリーマンの住宅地として開発の進んだ大都市郊外に建設された和洋折衷の住宅。1920年代に流行した。赤瓦の屋根で洋風の外観を持ち、洋風の応接室を設け、子供部屋を作るなどの特徴がある。応接室以外の部屋は座敷の和室で、家族が集まることが出来る茶の間もつくられ、ちゃぶ台で食事をとる形式が定着した。

    文化住宅

  • 78

    三越をはじめとする百貨店。大規模小売店舗。1904年に三越が○○○○(百貨店)と名乗ったことを皮切りに、松屋・高島屋などの呉服店系列の○○○○がつくられた。1920年代には、阪急など鉄道会社の経営で都市部の中心駅に隣接して作られるターミナル○○○○も多くなった。第一次世界大戦後は特に経済発展によって増加したサラリーマン家庭の買い物、娯楽の場所としても発展した。

    デパート

  • 79

    日本的西洋料理の愛称。明治維新以降、本格的な西洋料理が登場したが、大衆(庶民)には程遠いものだった。それを、明治時代末期より町のコックらが工夫し、日本的要素を加味して日本式西洋料理が相次いで作られた。大正時代以降、大衆に広がり、○○として定着するようになった。トンカツ・コロッケ・ライスカレー・オムライスなど、いずれも醤油をベースにした和製ソースと米飯に合わせた料理であった。

    洋食

  • 80

    大正末・昭和初期に現れた○○○○○○の略称。○○は、西洋風に仕立てた断髪に、洋服を着た女性。流行の先端を行く近代的女性を指した。山高帽子にステッキといったいでたちで銀座・心斎橋などの盛り場を歩いたモダンボーイを略したモボもある。

    モガ

  • 81

    都市部で職に就いている女性のこと。工業・農業労働以外の職に従事する女性を指す。とくに第一次世界大戦後は女性の社会進出が進み、教師・タイピスト・電話交換手・バスガール・会社事務員などが、都市部で育った未婚女性の職業として定着した。

    職業婦人

  • 82

    加藤・若槻①・浜口・若槻②内閣の外相○○○○○に代表される外交方針。ワシントン体制の下で、北伐や国共内戦などに対し中国への内政不干渉政策をとり、英米への対立回避に努めた(もっとも過度の不干渉方針は英米の疑惑を招きもした)。軍部・右翼・政友会はこれを軟弱外交として避難した。

    弊原外交

  • 83

    法令関係で「○○」の語を使ったのは教育勅語が最初。○○とは、「万世一系の天皇が統治する万邦無比の国家」といった趣旨。

    国体

  • 84

    国家は個人や国家内のあらゆる社会集団よりも絶対的に優位する、と主張する政治思想。国家を人間社会最高の組織体と考え、国家権力が社会生活の全領域にわたって統制力を発揮することを認める立場。偏狭な民族主義、国粋主義と結びつきやすい。 近代日本では日清戦争後に思想界の主流となっていった。平民主義を唱えていた徳富蘇峰の転向、高山樗牛らの日本主義が事例として挙げられる。しかし、日露戦争後から大正期にかけては国家目標の達成やデモクラシーの思潮を背景に一時後退していた。

    国家主義

  • 85

    細菌学者。熊本の生まれ。ドイツに留学、コッホのもとで研究し、破傷風菌の純粋培養に成功、さらに抗毒素を発見。1892年に帰国しペスト菌を発見し、血清療法を研究。伝染病研究所を創設しその所長を務め志賀潔らを育成した。伝染病研究所の東大移管に反対し、私財を投じて○○研究所を創立した。

    北里柴三郎

  • 86

    近世の中期から明治初年までに作られた、主として散文による俗文芸の総称。明治初年には「安愚楽鍋」などの作品が出たが題材を文明開化においただけで従来の技法や考え方で書かれていた。

    偽作文学

  • 87

    政治問題や政界の人物を主題とした小説。また、政治思想の宣伝や普及を目的とした小説。日本では主として明治10年代の自由民権運動の興隆期から明治20年前後の国会開設運動のころまでに流行した自由民権の理想を小説の形で世に訴えようとした一群の小説をさす。矢野龍渓「経国美談」や東海散士「佳人之奇遇」末広鉄腸「雪中梅」が代表作。

    政治小説

  • 88

    社会の現実および事物の実際をありのまま描写しようとする芸術上の立場。リアリズムの翻訳語。ヨーロッパでは19世紀後半、ロマン主義に対立して起こった。バルザックやフローベールの小説、クールベの絵画など。日本では近世の井原西鶴、式亭三馬、為永春水などの文学にもそのような特徴はみられるが、特にヨーロッパの○○○○の影響は明治20年前後に顕著であり、偽作文学の勧善懲悪、政治小説の政治至上主義に対し、坪内逍遥は「小説神髄」を発表し人間の内面や世相を客観的・○○的に描くことを提唱。二葉亭四迷「浮雲」は言文一致体による最初の本格的○○○○小説となり、近代文学の出発点となった。

    写実主義

  • 89

    情緒や自然の重複、超理性的なものや永遠に向かう傾向、創造的個性の尊重など、普遍的、理性的なものを理想とする古典主義に対立する思潮として発展、広く芸術・文学・哲学・宗教のあらゆる分野に及んだ。文学ではゲーテ、ホフマン、ワーズワース、ユーゴーなど、音楽ではベートーベン、シューベルト、ワーグナーなど。日本では日清戦争前後に高まった文学運動をさす。個人主義・自由主義思想の発展に伴い、封建制からの自我の解放、確率をめざしたが、一方、空想的・唯美的美術をも志向した。北村透谷・高山樗牛の評論、島崎藤村・土井晩翠の詩、与謝野鉄幹・晶子の短歌、泉鏡花・国木田独歩の小説などがその代表。

    ロマン主義

  • 90

    ロマン主義歌人・評論家。大阪府堺市生まれ。本名しょう。旧姓鳳。堺女学校補習科卒業後、家業の菓子商を手伝いながら古典を独習した。1900年「明星」に加入、主宰者○○○寛(鉄幹)と恋愛し、翌年上京、歌集「みだれ髪」を刊行、結婚に至る。同書は「くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる」など大胆で斬新な表現に富み世を驚かした。日露戦争に従軍の弟を思い、04年に発表した長詩「君死にたまふことなかれ」は文壇に論争をうんだ。1912年外遊中の夫の後を追ってパリに赴き、欧州各国を巡った。大正期は作家の他童話、小説、古典の口語訳を試みた。また広く社会問題の評論に取り組んで、「青鞜」の運動を助けたり、母性保護論争に加わったりして積極的に活躍した。

    与謝野晶子

  • 91

    文学で、人間の生態や社会生活を直視して分析し、ありのままの現実を直視して、醜悪なものを避けず理想化を行わないで描写することを本旨とする思潮。自然科学の隆盛に刺激されて、19世紀末にフランスのゾラを中心として起こり、モーバッサン、ゴンクール兄弟、ドーデらにうけつがれた。日本では日露戦争後に文壇の主流となり、自己の内面的心理や動物的側面をありのままに告白したり、また、平凡な人生をあるがままに描写したりする生き方をとるに至った。代表的作家は田山花袋、島崎藤村、岩野泡鳴、徳田秋声、正宗白鳥など。

    自然主義

  • 92

    アメリカの哲学者、東洋美術研究科。ハーバード大学卒業後、来日、東大で哲学・経済学を講じ、かたわら日本美術の研究に従事。弟子の岡倉天心と東京美術学校を創設(1887)するなど、日本画復興およびわが国の美術行政確立に力を尽くす。

    フェノロサ