アラビア半島では、古くからアラブ人によってラクダの遊牧やオアシスをつなぐ( ? )交易が営まれていた。隊商
血縁的結びつきを重視したアラブ人は、部族の守護神を奉じる多神教を信仰しており、商業都市( ? )のカーバ神殿は巡礼地でもあった。メッカ
7世紀はじめ、メッカの商人であった( ? )は、神の啓示を受けて預言者として自覚し、唯一神( ? )への服従を説いた。ムハンマド, アッラー
しかし、多神教や偶像崇拝を否定し、神のもとの平等を説くムハンマドはメッカの大商人から迫害され622年、信者と共に( ① )に移住した。このことを( ② )という。そこに( ③ )の共同体である( ④ )を形成した。
※③は「イスラームを信仰する人々」を意味したアラビア語。メディナ, ヒジュラ, ムスリム, ウンマ
ムハンマドの死後、諸部族が離反の動きを起こしたが、ウンマの指導者である後継者という意味の( ① )を選出することでこれを抑えたムスリムは、異教徒に対する( ② )によって版図を広げた。
※②は本来ではムスリム個人の内面で「精進」すること。つまり信仰を守るための努力や奮闘を意味したが、やがてイスラーム防衛のための「聖なる戦い」をも示すようになった。カリフ, ジハード
ムスリムは征服地に軍営都市を建設して移住するとともに、征服地の住民から地租でかる( ? )と人頭税( ? )を徴収したが、一方でイスラームへの改宗を強制することはなかった。ハラージュ, ジズヤ
ムスリムの合意によるカリフの選出は、4代目の( ? )まで続いた。この時代を( ? )という。アリー, 正統カリフ時代
アリーが暗殺されると、シリア総督の( ? )がカリフを名乗り、( ? )を開いた。ムアーウィヤ, ウマイヤ朝
ムスリムはアリーとその子孫のみをウンマの指導者とする( ? )派と、ウマイヤ朝を含む歴代のカリフを認める多数派の( ? )派に分かれた。シーア, スンナ
ウマイヤ朝では、アラブ人が支配者集団を形成するとともに、税制などでアラブ人を優遇したため、イスラームに改宗した非アラブ人の不満を招き750年に滅亡した。そして、( ? )が成立した。アッバース朝
アッバース朝では、税制面で民族の枠を超えたムスリム間の平等が実現するとともに、イラン人やトルコ人を官僚や( ? )軍人として積極的に登用した。マムルーク
歴代のカリフは、聖典である( ? )とムハンマドの言行に関する伝承である( ? )を元に作られた、イスラーム法の( ? )に基づいて帝国を統治し、イスラームを基盤とした国家・社会の形成が進んだ。これを「イスラーム帝国」という。クルアーン, ハディース, シャリーア
スペインにある( ? )は、8〜10世紀にかけて建立された大モスク。キリスト教勢力によるイベリア半島統一後、教会に転用された。メスキータ
10世紀以降、アッバース朝の衰退にともなって( ? )を経由するペルシア湾ルートがかつての繁栄を失った後も、( ? )やアレクサンドリアを経由する紅海ルートがその役割を引き継いだ。バグダード, カイロ
アッバース朝の各都市は、イスラーム法に基づいて運営されるとともに、礼拝堂である( ? )や市場のスーク、学院のマドラサが設けられ、商業・学問・文化の中心として繁栄した。モスク
神との一体感を求める神秘主義のことを( ? )という。スーフィズム
イスラーム世界では、様々な地域の説話が集められた( ? )は、そのようなイスラーム帝国文明の特徴をよく表している。※別名:アラビアン=ナイト千夜一夜物語
学問の面では、クルアーンに基づいて発展した神学や法学、ムハンマドの伝承研究に基づく歴史学、アラビア語の言語学などが発達した。知識人である( ? )は、これらの学問を基盤としながらシャリーアの体系化や解釈を担った。ウラマー
中世紀末以降、ヨーロッパでは、国家をこえた普遍的な権威として君臨したローマ=カトリック教会と神聖ローマ帝国で衰えが見え始めた。( ? )による世界観の問い直しは、神と人間を仲介する教会の矛盾にも向けられた。ルネサンス
16世紀の神聖ローマ帝国では、( ? )の教会批判を機に( ? )が始まり、皇帝と対立する有力諸侯がこれを支持して帝国中を巻き込む戦乱となった。ルター, 宗教改革
宗教改革による戦乱は、諸侯や都市に対してカトリックとルター派いずれかを選択することを認めた( ? )で一応の妥協を見た。アウクスブルクの和議
スイスでは( ? )が改革運動を始め、商工業者を中心にヨーロッパ各地に広まった。イギリスでは、国王が自らの離婚問題を機に( ? )を発布してカトリックから独立し、( ? )が成立した。カルヴァン, 国王至上法, イギリス国教会
一方、カトリックは教皇の権威と教義の正当性を再確認するなどプロテスタントと対抗する姿勢を強めた。また、( ? )はスペインやポルトガルの海洋進出と結びつき、多くの宣教師をアジアや中南米などに送り出した。イエズス会
スペイン領ネーデルラントでは、スペイン国王がカトリック化政策を進めたため、カルヴァン派が( ? )戦争を開始した。オランダ独立
フランスでは、カトリックとカルヴァン派が対立し、( ? )戦争が続いたが( ? )で戦争は終結した。ユグノー, ナントの王令
ドイツでは、神聖ローマ帝国領内でプロテスタントの反乱が起こった。当初は宗教対立による争いだったが、皇帝位を世襲する( ? )家と反皇帝勢力との政治的な対立へと変化し、周辺諸国も参戦して長期化した。これを( ? )という。ハプスブルク, 三十年戦争
1648年に結ばれた( ? )条約では、アウクスブルクの和議の内容が再確認されるとともにカルヴァン派も承認された。神聖ローマ帝国の各領邦は主権を認められ、帝国は名ばかりの存在となった。また、( ? )とスイスの独立が正式に承認された。ウェストファリア, オランダ
ウェストファリア条約では、宗派や国の規模が異なる諸国家が外交政策を行うことが制度化され、対等に並び立つ国際秩序が形成された。このような国際秩序を( ? )という。主権国家体制
なかなか進展しない外交交渉のなかで開かれた舞踏会という設定で、三十年戦争の和平交渉を描いた版画を( ? )という。ヨーロッパ大戦舞踏会
( ? )はオランダの法学者・外交官。三十年戦争の惨禍のなか「戦争と平和の法」を著し、「国際法の父」と呼ばれた。グロティウス
カルヴァンの教えを信仰する人々は、イギリスでは( ? )、フランスでは( ? )、オランダでは( ? )と呼ばれた。ピューリタン, ユグノー, ゴイセン
( ? )は国王至上法を制定した父ヘンリ8世の死後に王位につき、統一法を制定するなどイギリス国教会を確立した。エリザベス1世
( ? )戦争は、フランスと神聖ローマ帝国がヨーロッパの覇権をかけて争った。この時期から、小国に分裂していたイタリアでは、利害調整のために外交官を交換する慣行がはじまった。イタリア
イスラームの女性が身体の線を隠す黒衣のことを( ? )という。チャドル
アラビア半島では、古くからアラブ人によってラクダの遊牧やオアシスをつなぐ( ? )交易が営まれていた。隊商
血縁的結びつきを重視したアラブ人は、部族の守護神を奉じる多神教を信仰しており、商業都市( ? )のカーバ神殿は巡礼地でもあった。メッカ
7世紀はじめ、メッカの商人であった( ? )は、神の啓示を受けて預言者として自覚し、唯一神( ? )への服従を説いた。ムハンマド, アッラー
しかし、多神教や偶像崇拝を否定し、神のもとの平等を説くムハンマドはメッカの大商人から迫害され622年、信者と共に( ① )に移住した。このことを( ② )という。そこに( ③ )の共同体である( ④ )を形成した。
※③は「イスラームを信仰する人々」を意味したアラビア語。メディナ, ヒジュラ, ムスリム, ウンマ
ムハンマドの死後、諸部族が離反の動きを起こしたが、ウンマの指導者である後継者という意味の( ① )を選出することでこれを抑えたムスリムは、異教徒に対する( ② )によって版図を広げた。
※②は本来ではムスリム個人の内面で「精進」すること。つまり信仰を守るための努力や奮闘を意味したが、やがてイスラーム防衛のための「聖なる戦い」をも示すようになった。カリフ, ジハード
ムスリムは征服地に軍営都市を建設して移住するとともに、征服地の住民から地租でかる( ? )と人頭税( ? )を徴収したが、一方でイスラームへの改宗を強制することはなかった。ハラージュ, ジズヤ
ムスリムの合意によるカリフの選出は、4代目の( ? )まで続いた。この時代を( ? )という。アリー, 正統カリフ時代
アリーが暗殺されると、シリア総督の( ? )がカリフを名乗り、( ? )を開いた。ムアーウィヤ, ウマイヤ朝
ムスリムはアリーとその子孫のみをウンマの指導者とする( ? )派と、ウマイヤ朝を含む歴代のカリフを認める多数派の( ? )派に分かれた。シーア, スンナ
ウマイヤ朝では、アラブ人が支配者集団を形成するとともに、税制などでアラブ人を優遇したため、イスラームに改宗した非アラブ人の不満を招き750年に滅亡した。そして、( ? )が成立した。アッバース朝
アッバース朝では、税制面で民族の枠を超えたムスリム間の平等が実現するとともに、イラン人やトルコ人を官僚や( ? )軍人として積極的に登用した。マムルーク
歴代のカリフは、聖典である( ? )とムハンマドの言行に関する伝承である( ? )を元に作られた、イスラーム法の( ? )に基づいて帝国を統治し、イスラームを基盤とした国家・社会の形成が進んだ。これを「イスラーム帝国」という。クルアーン, ハディース, シャリーア
スペインにある( ? )は、8〜10世紀にかけて建立された大モスク。キリスト教勢力によるイベリア半島統一後、教会に転用された。メスキータ
10世紀以降、アッバース朝の衰退にともなって( ? )を経由するペルシア湾ルートがかつての繁栄を失った後も、( ? )やアレクサンドリアを経由する紅海ルートがその役割を引き継いだ。バグダード, カイロ
アッバース朝の各都市は、イスラーム法に基づいて運営されるとともに、礼拝堂である( ? )や市場のスーク、学院のマドラサが設けられ、商業・学問・文化の中心として繁栄した。モスク
神との一体感を求める神秘主義のことを( ? )という。スーフィズム
イスラーム世界では、様々な地域の説話が集められた( ? )は、そのようなイスラーム帝国文明の特徴をよく表している。※別名:アラビアン=ナイト千夜一夜物語
学問の面では、クルアーンに基づいて発展した神学や法学、ムハンマドの伝承研究に基づく歴史学、アラビア語の言語学などが発達した。知識人である( ? )は、これらの学問を基盤としながらシャリーアの体系化や解釈を担った。ウラマー
中世紀末以降、ヨーロッパでは、国家をこえた普遍的な権威として君臨したローマ=カトリック教会と神聖ローマ帝国で衰えが見え始めた。( ? )による世界観の問い直しは、神と人間を仲介する教会の矛盾にも向けられた。ルネサンス
16世紀の神聖ローマ帝国では、( ? )の教会批判を機に( ? )が始まり、皇帝と対立する有力諸侯がこれを支持して帝国中を巻き込む戦乱となった。ルター, 宗教改革
宗教改革による戦乱は、諸侯や都市に対してカトリックとルター派いずれかを選択することを認めた( ? )で一応の妥協を見た。アウクスブルクの和議
スイスでは( ? )が改革運動を始め、商工業者を中心にヨーロッパ各地に広まった。イギリスでは、国王が自らの離婚問題を機に( ? )を発布してカトリックから独立し、( ? )が成立した。カルヴァン, 国王至上法, イギリス国教会
一方、カトリックは教皇の権威と教義の正当性を再確認するなどプロテスタントと対抗する姿勢を強めた。また、( ? )はスペインやポルトガルの海洋進出と結びつき、多くの宣教師をアジアや中南米などに送り出した。イエズス会
スペイン領ネーデルラントでは、スペイン国王がカトリック化政策を進めたため、カルヴァン派が( ? )戦争を開始した。オランダ独立
フランスでは、カトリックとカルヴァン派が対立し、( ? )戦争が続いたが( ? )で戦争は終結した。ユグノー, ナントの王令
ドイツでは、神聖ローマ帝国領内でプロテスタントの反乱が起こった。当初は宗教対立による争いだったが、皇帝位を世襲する( ? )家と反皇帝勢力との政治的な対立へと変化し、周辺諸国も参戦して長期化した。これを( ? )という。ハプスブルク, 三十年戦争
1648年に結ばれた( ? )条約では、アウクスブルクの和議の内容が再確認されるとともにカルヴァン派も承認された。神聖ローマ帝国の各領邦は主権を認められ、帝国は名ばかりの存在となった。また、( ? )とスイスの独立が正式に承認された。ウェストファリア, オランダ
ウェストファリア条約では、宗派や国の規模が異なる諸国家が外交政策を行うことが制度化され、対等に並び立つ国際秩序が形成された。このような国際秩序を( ? )という。主権国家体制
なかなか進展しない外交交渉のなかで開かれた舞踏会という設定で、三十年戦争の和平交渉を描いた版画を( ? )という。ヨーロッパ大戦舞踏会
( ? )はオランダの法学者・外交官。三十年戦争の惨禍のなか「戦争と平和の法」を著し、「国際法の父」と呼ばれた。グロティウス
カルヴァンの教えを信仰する人々は、イギリスでは( ? )、フランスでは( ? )、オランダでは( ? )と呼ばれた。ピューリタン, ユグノー, ゴイセン
( ? )は国王至上法を制定した父ヘンリ8世の死後に王位につき、統一法を制定するなどイギリス国教会を確立した。エリザベス1世
( ? )戦争は、フランスと神聖ローマ帝国がヨーロッパの覇権をかけて争った。この時期から、小国に分裂していたイタリアでは、利害調整のために外交官を交換する慣行がはじまった。イタリア
イスラームの女性が身体の線を隠す黒衣のことを( ? )という。チャドル