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世界遺産 説明から名前 韓国 北朝鮮

世界遺産 説明から名前 韓国 北朝鮮
24問 • 2年前
  • とんかつ
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    問題一覧

  • 1

    韓国南東部にある。紀元前57年から新羅の首都金城(クムソン)として栄えた。仏教の聖地である南山(ナムサン)地区、新羅の王宮があった月城(ウォルソン)地区、王族の古墳群がある大陵苑(テヌンウォン)地区、新羅最大の寺院だった皇龍寺(ファンニョンサ)の跡地が残る皇龍寺地区、首都防衛の東の拠点となった明活山城がある山城(サンソン)地区の5つに大別できる。南山地区には、110を超す寺院跡のほか、80に迫る石仏、60以上の石塔が山中に残る。月城地区には、人工池の雁鴨池(アナプチ)や臨海殿(イムへジョン)が残る。大陵苑地区には、約41万㎡の古墳公園がある。

    慶州の歴史地区

  • 2

    韓国中西部の山地に位置する。475年から660年にかけての8つの考古遺跡から構成される。公山城(コンサンソン)跡、宋山里(ソンサンニ)古墳群、扶蘇山城(プソサンソン)跡、陵山里(ヌンサンニ)古墳群などは、紀元前18年から後660年までの時代に朝鮮半島で興った3つの王朝の1つの後期を代表するものである。朝鮮半島や中国、日本といった東アジアの古代王朝間における技術や仏教、文化、芸術の交流を証明している。

    百済の歴史地区

  • 3

    14〜15世紀につくられた安東市と慶州市にある村は、韓国における最も歴史的な氏族社会の村で、代表的な氏族村(同族集落)である。村落は山々に守られるように配置され、川と田畑に面している。村内の館や住居は風水と儒教の礼法を考慮した家屋構成になっているほか、朝鮮王朝初期における儒教主義の文化が表れており、朝鮮時代の支配者である両班(ヤンバン)の農村における伝統的な生活様式を今に伝える。村内には荒壁土の壁を持つ藁葺き屋根の平屋家屋などが残っている。周囲の山、木、水、隠れ家のような家々に囲まれた景観は、17〜18世紀の詩人たちに賞賛された。

    河回村と良洞村の歴史的集落群

  • 4

    統一新羅王朝の都だった慶州の吐含山(トハムサン)中にある。新羅が残した仏教芸術及び極東の仏教芸術を代表する傑作。統一新羅中期の宰相であった金大城(キムテソン)が751年、前世の父母のためにaを、現世の父母のためにbの建立を開始したと伝えられている。吐含山の山頂近くにあるaは、自然の岩壁を掘ったものではなく、削った山の斜面に花崗岩を積み上げた人工石窟。主室中央には如来坐像が安座する。bは、金の死後の774年に完成。当初は現在の10倍の規模を誇ったとされるが、1592年の文禄の役の際に多くが焼き払われてしまった。

    石窟庵と仏国寺

  • 5

    韓国南部、伽倻山の山麓にある。802年に僧の順応(スヌン)と理貞(リジェン)によって創建された名刹。仏教の経典の集大成である版木を保管する蔵経板殿が登録されている。大蔵経版木が8万枚以上あることに由来する名で呼ばれている版木は、13世紀の高麗時代(918〜1392)に、モンゴル軍侵攻という国難克服のため発願された。版木の初彫は1232年で、モンゴル軍に襲撃された際に焼失したが、15年の歳月をかけて復刻、1251年に完成した。版木が納められている蔵経板殿の床には板が敷かれていない。木炭と石灰、塩を重ねた土間になっており、湿気を調節する働きがある。建物は角材を横に重ねて外壁とする校倉造りで建てられている。

    『八萬大蔵経』版木所蔵の海印寺

  • 6

    仏教の山岳僧院で、7〜9世紀にかけて創建された7つの寺院(通度寺(トンドサ)、浮石寺(プソクサ)、鳳停寺(ポンジョンサ)、法住寺(ポプチュサ)、麻谷寺(マゴクサ)、仙岩寺(ソナムサ)、大興寺(テフンサ))からなる。これらの寺院は韓国仏教の歴史的な発展を伝えており、宗教的・精神的な実践、修道生活の中心として機能してきた。4つの建造物(仏殿、あずまや、講堂、宿舎)に囲まれた「マダン(屋根のない中庭)」という韓国特有の庭園を持っており、優れた固有の建築構造や聖廟を含んでいる。現在も生きた信仰の中心であり、日々の宗教的実践の場として利用されている。

    山寺(サンサ):韓国の山岳僧院群

  • 7

     ソウル市の北東にある。1405年、朝鮮王朝の第3代太宗(テジョン)により、法宮(正宮)である景福宮(キョンボックン)の離宮として建設された。1592年の文禄の役の際、豊臣秀吉が派遣した遠征軍により景福宮や庭園などとともに消失したが、この遺産は再建され、その後約270年にわたって法宮として使用された。  現存する韓国最古の木造二層式門といわれる正門の敦化門(トンファムン)、重層入母屋造りの正殿の仁政殿(インジョンジョン)、国王が執務をしていた宣政殿(ソンジョンジョン)など13棟の木造建築が現存している。宮殿の北に広がる秘苑(ピウォン)と呼ばれる庭園は、周囲の自然環境を見事に取り入れている。

    昌徳宮

  • 8

    ソウルの南、京畿道にある。朝鮮王朝の第22代王正祖(チョンジョ)がつくらせ、1796年に完成した。正祖が非業の死を遂げた父の荘献世子(チャンホンセジャ)を郊外の華山に改葬するとともに、築城。実学を重視した正祖が理想都市として築いたもので、一時は遷都も検討された。周囲約5.5㎞を高さ約7mの石造りの城壁が囲み、城壁内には王の臨時の宿である行宮なども造られた。他にも4つの城門、水門、見張り塔、楼閣、弓射塔、稜堡、狼煙塔など48の建造物が当時の姿のまま残されている。また、北にある長安門、南にある八達門、東にある蒼龍門、西にある華西門の4つの城門の他にも、隠し門がある。地形の有効利用という韓国建築の伝統を踏襲しつつ、使用資材の規格化など当時のヨーロッパ城郭建築の技術を導入した城は軍事施設として高く評価された。  一部は、第二次世界大戦における日本軍の占領と朝鮮戦争時に破壊された。しかし、『華城城役儀軌』という詳細な築城記録の原本が残されており、それに基づき41の建造物の復元・修復が行われたため、世界遺産委員会においてもその真正性が認められた。

    水原の華城

  • 9

     ソウルの南東25㎞の山岳地帯にあり、非常時に朝鮮王朝(1392-1910)の臨時首都が置かれた要塞である。ソウルの北に位置する北漢山城とあわせて、南北から首都を防御する要塞として機能した。最古のものは7世紀に築かれ、その後再建を繰り返し、17世紀初期に満州と清からの攻撃に備えて完成した。  日本と中国の築城技術を反映し、西洋式の火薬を使用した武器の導入にあわせて軍事防御技術が変化している。この要塞の建造は山城の築城の転換点にあたり、その後の要塞の建設に影響を与えた。4,000人が収容可能であり、行政と軍事における重要な拠点として韓国の主権の象徴となった。築城や防御に僧兵が関わった点も特徴である。  朝鮮戦争の際には、城壁や城内の建造物などが大きな被害を受けた。1970年代より修復・復元作業が進められ、現在は京畿道立公園として保護されている。

    南漢山城

  • 10

     韓国全羅北道にあるa、全羅南道にあるb、仁川市にあるcに数多く残されている支石墓群は、先史時代の巨石文化の遺跡である。支石墓とは、巨大な石板を石塊で支えた墓のことでドルメンともいい、全世界に残る支石墓の約半数にあたる3万基ほどが韓国に密集している。そのうちaの442基、bの287基、cの約60基が登録された。  地域によって形状が異なり、cでは2枚の垂直な岩板で天井岩を支える北方式、bのものは4個の支石の上に蓋石を置く碁盤形の南方式、aのものは2つの混合式である。

    高敞、和順、江華の支石墓跡

  • 11

     この遺産は李氏朝鮮時代(15〜19世紀)の性理学教育機関の典型を示す7つの書院から構成されている。学ぶことと、学者を敬うこと、環境と相互交流をはかることが書院の主な目的で、それはデザインにも表れている。建物は山や水源の近くに位置していて、彼らは自然を鑑賞して心身を修養することを好んだ。あずまや風の建物は景観との繋がりを促進させる狙いがある。性理学が中国から韓国へ受容される歴史的経過を示している。

    書院:韓国の性理学教育機関群

  • 12

     李氏朝鮮王朝の王墓群は、18ヶ所に点在する40の王墓から形成される。15〜20世紀にかけて造営された王墓群は、儒教信仰に基づく祖先崇拝を示している。朝鮮王朝時代、王や王妃は死去後、遺体は王墓に安置され、霊魂は『宗廟』に祀られた。王墓の建築は自然美を取り入れることが重視され、南方は水に臨み、背後から山々の稜線に抱かれるように設計された。また祖先の霊魂を悪霊から守り、墓自体も破壊を防ぐように考慮されている。

    朝鮮王朝の王墓群

  • 13

     ソウルにある、1395年に朝鮮王朝(1392〜1910年)の太祖(テジョ)李成桂(イソンゲ)が造営した霊廟である。李成桂は、1394年に漢陽(現在のソウル)に都を遷すとこの霊廟の建造を開始し、祖先4世代の位牌を納めた。1592年の文禄の役の際には、豊臣秀吉が派遣した軍によって一部が破壊されたが、1608年に再建された。  国教である儒教の思想に基づいて造られた正殿や永寧殿(ヨンニョンジョン)には、歴代の王、王妃の位牌が安置されており、敷地にはほかにも、祭器などの保管庫である典祀庁、楽師の待機場である楽工庁、李氏朝鮮の83人の功臣を祀る功臣堂などが残る。正殿は左右の幅約150m、外廊には柱身が膨らんだエンタシスの柱が並び、同時代の単一木造建築物としては世界最大規模とされる。永寧殿は、2代国王の定宗(チョンジョン)を祀る際に増築された別廟で、当初本廟に納められていた李成桂の祖先4代の位牌や、正殿から移された王や王妃の位牌が祀られている。  15世紀から伝わる祭礼、宗廟大祭(チョンミョデジェ)は現在も毎年5月に行われ、伝統的な民族衣装をまとった李王家末裔の人々が、祖霊を拝み、歴代王の功績を讃える。位牌が安置された各部屋の扉は、普段は閉じられており、宗廟大祭の時にだけ開かれる。2001年、ユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作」に選定され、2009年には無形文化遺産に登録された。

    宗廟

  • 14

     韓国の最南端、済州島にある。韓国の最高峰である標高1,950mの漢拏山(ハルラサン)を中心とした漢拏山自然保護区と、城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)、拒文岳(コムンオルム)溶岩洞窟群の3つの地域からなる。海底噴火により誕生した要塞のような姿の城山日出峰は、海面に盛り上がっており、山頂には大きな噴火口が残っている。約30万〜10万万年前の噴火によって生まれた拒文岳溶岩洞窟群は、世界で最も複雑な溶岩洞窟と見なされている。

    済州火山島と溶岩洞窟群

  • 15

     北朝鮮南部にある、10世紀から14世紀まで栄えた高麗王朝の都が置かれた都市。市内にある12の歴史的建造物が、高麗王朝の歴史と文化を証明する遺産として登録された。王宮、王陵と関連建造物、城壁、門など、旧都の風水的な配置は、地域の歴史において重大な意味を持つ高麗王朝の政治的価値や文化的価値、哲学的価値、精神的価値などを体現している。他にも、天文台や気象台、役人を育てる学校を含む2つの教育機関、記念石碑などが含まれている。

    開城歴史遺跡地区

  • 16

     北朝鮮の首都平壌周辺にある。高句麗王国の中・後期にあたる4〜7世紀頃に建造された63基からなる古墳群で、その多くに美しい壁画が残されており、その図柄は、青龍、白虎、朱雀、玄武を描いた四神図や狩猟図、女性像など多岐にわたる。日本の高松塚古墳やキトラ古墳の壁画との関連性も指摘されており、高句麗王国が日本を含む東アジアに大きな影響を与えていたことを示唆している。

    高句麗古墳群

  • 17

     ペルー南部にあるは、標高2,370mの高地にスペイン人が築いた植民都市。インカ時代から存在し、1540年以降、スペインが整備を進めて現在は人口90万人というペルー第2の都市となった。アルマス広場を中心に、1579年に創建された壮麗なサンタ・カタリーナ修道院などが立ち並ぶ。建物の素材として近郊で採れる白、ピンク色の火山岩が用いられているため、別名「白い街」とも呼ばれる。頻繁に起こる地震対策として、聖堂には2m以上、住宅には1mの厚さの壁が設けられている。

    アレキパの歴史地区

  • 18

     ペルー中央部、リマック川南岸にある現在のペルーの首都で、インカ帝国を滅ぼしたフランシスコ・ピサロによって1535年に築かれた。ピサロの母国スペインのマドリードがモデルになっており、アルマス広場を中心にして碁盤目状に道路が配されている。ピサロが太平洋沿岸のこの地を選んだのは、南米各地で収集した財宝をスペインに運ぶのに都合が良かったためである。だが1541年、ピサロは支配地をめぐる争いのさなか、同地で暗殺された。  建設から7年後の1542年にペルー副王領の首都となると、南米諸国が独立するまで、スペインの南米植民地支配の中心地としていくつもの重要な建築物がつくられた。アルマス広場前にある大聖堂は、1535年の起工時にピサロ自らが礎石を据えたといわれる。地震などにより工事が遅れ、完成したのは約90年後の1624年。礼拝堂は、過剰なまでの装飾を施したチュリゲラ様式で造られ、ピサロの遺骨を納めた石棺が安置されている。一方、南米の建築史上最高傑作とされるサン・フランシスコ修道院は、1574年に完成したものの後に地震で損傷したため、バロック様式や、イスラム教とキリスト教のスタイルが融合したムデハル様式で改築された。外壁の装飾タイルはスペインのセビーリャ産のもの。付属する図書室は、宗教、文化の研究施設となり、現在も総革製の書籍約2万5,000冊、羊皮紙製の書籍約6,000冊が収蔵されている。また、院内のカタコンベ(地下墓地)は1810年まで市の墓地として使用され、およそ7万体の遺骨が埋葬されている。  幾度も大地震に襲われたため、多くの歴史的建造物は再建された。だが、18世紀頃に建てられたコロニアル調のトーレ・タグレ邸や、1549年に建設された当時の姿を残すサント・ドミンゴ教会堂、19世紀初頭まで異端者追及の場として使われたラ・インキシシオンなどが現存している。

    リマの歴史地区

  • 19

     ペルー北西部にあり、12〜15世紀にかけて南北1,000㎞を支配し、人口約10万を誇ったチムー王国の首都であった場所。総面積約20㎢にわたる。1470年頃にインカ帝国に滅ぼされ、廃墟となった。遺跡には、アドベの高い壁で区切られたラ・シウダデラと呼ばれる方形の区画が9つあり、それぞれの区画内に神殿、広場、住居や倉庫などの都市機能が備えられていた。  沿岸地域に位置することや素材の問題で、風化による破壊が進んでいるため、世界遺産登録と同時に危機遺産リストにも記載された。

    チャンチャンの考古地区

  • 20

     砂漠の大地を見下ろすスペ川の谷に位置するこの都市は、アメリカ大陸に興った文明のなかでも最も古いものの1つであり、約1,200年間続いた。この地の石碑、土壇、窪地にある円形広場などは建築技法も特徴的で、保存状態も良い。18の都市遺跡の1つカラルは、6つの巨大ピラミッドを含む複合建築物群である。この地で発見されたキープからは、カラルの発展と文明の複雑さが明らかになった。ピラミッドや指導者の住居を含む都市計画や建築物の配置からも、強力な宗教指導者のいる文明であったことが判明している。

    聖都カラル・スペ

  • 21

     ペルー中部にあるブランカ山群の東斜面、標高3,200m付近の高地に残されている。およそ紀元前1,500〜前300年の間に形成された、最も古く、最も有名な石造祭祀遺跡である。  初期に造られた旧神殿と後期の新神殿からなり、縦横にめぐらされた地下回廊や獣形の精巧な彫刻、旧神殿最奥部のジャガーを擬人化した主神体ランソン像など、この地の文化の重要な遺跡が神殿内に点在している。同様の文様を持つ出土品が周辺のアンデス各地でも多く見られるため、この地がアンデス文明の起源と考えられている。

    チャビンの考古遺跡

  • 22

     ペルー南部、アンデスの東山脈と中央山脈の谷間にあるは、インカ帝国の首都として栄えた地である。  アンデス地方の言葉、ケチュア語で「へそ」を意味するその街は、インカ帝国において宇宙の中心とみなされていた。1200年頃、インカ帝国の基礎となる王国を興したマンコ・カパックは、太陽神インティの息子として自らを神格化していた。インカの伝説によると、太陽神インティは息子マンコ・カパックに黄金の杖を手渡し、それが地中深く沈む場所に神殿を築くよう命じた。そこで、神殿を築く場所を求める長旅に出たマンコ・カパックは、洞窟を抜けてある地を通りかかった際、杖が突如、地中に吸い込まれたため、この地に神殿を建築。さらに自身がインカ帝国の初代皇帝の座に就いたとされる。  標高3,400mの高地に街が建設されたのは、11〜12世紀頃。インカ人は13世紀頃から周辺部族の征服を進め、15世紀の9代皇帝パチャクテクの時代に絶頂期を迎え、現在のエクアドルからチリにいたる南北2,000kmの地域に、約1,200万人もの人々が暮らす大帝国へと発展した。同時期に、インカ人にとって神聖な動物だったピューマの形を模して市街整備が進められた。黄金に彩られた宮殿や神殿が立ち並ぶ街は、大帝国の首都として栄華を極めた。また帝国内に張り巡らされた総延長4万㎞を超えるとされるインカ道を通じて、各地の特産品が集まった。  1533年、スペイン人フランシスコ・ピサロがわずか168人の兵士を連れてこの地を占領し、インカ帝国は破滅の時を迎える。征服者(コンキスタドール)たちは、会談中に不意打ちで皇帝アタワルパを人質に取り処刑すると、インカの神々に捧げられた黄金を略奪し、宮殿や神殿を破壊した。ヨーロッパ人がもたらした天然痘がインカの人々に大きな被害を与えていたことも、征服者に対する抵抗力を奪ったと考えられている。  スペイン人たちは、インカの神殿や宮殿で用いられた石などを再利用し、大聖堂や修道院、ラ・コンパニーア聖堂などを築いたが、インカの建造物があまりに精巧かつ堅牢な石積みで造られていたため、土台部分は破壊できず、その上にキリスト教を象徴する建物やスペイン風の建物が建設された。そのため、この地はインカ的なものとスペイン的なものが入り混じった、独特の雰囲気を持っている。地震が多いペルーでは、大地震によって何度も大聖堂などが大きな被害を受けたが、インカの石積みが崩れることはなかった。  こうした優れた石積み技術はインカ文明の特徴で、近郊の巨大な宗教儀礼の場サクサイワマンなどでも見られるが、鉄器や車輪を持たなかったインカ文明がどのように石を切り出し運んだのか、謎も多い。サクサイワマンでは、現在でも現地の人々によってインティ・ライミ(太陽神インティの祭り)が開かれている。

    クスコの市街

  • 23

     ペルーのアンデス中央部、コルディリェーラ・ブランカ山群のほぼ全域に広がる、ペルー最高峰の山(6,768m)をはじめとする6,000m級の山が連なる山脈地帯。南緯10度前後の熱帯地域に位置しながらも、氷河や万年雪、ツンドラの荒れ地などが点在し、250の湖のうち氷河湖はトルコブルーの美しいヤンガヌコ湖など120に上る。高度によって気候が異なるため、変化に富んだ景色が広がり、プヤ・ライモンディなど様々な動植物の姿が見られる。

    ウアスカラン国立公園

  • 24

     ペルー南部の台地およびその近郊の地区には世界的に有名な地上絵が残る。地上絵は、太平洋からアンデス山脈の約450㎢にもわたる範囲に広がる。この地域は、年間平均降水量が10㎜以下の乾燥地帯である。台地の表面は酸化によって褐色に変化した小石が広がっているが、すぐ下には白い砂の層があるため、褐色の小石を取り除くと、白い砂が露出する。この色の違いを利用して地上絵が制作された。  地上絵の大部分は、紀元前2〜後6世紀頃に発展した社会によって制作されたと考えられている。地上絵を制作した目的については諸説ある。地上絵には、サルなどの動物やハチドリなどの鳥、クモなどの昆虫、花や木の他、直線や三角形、螺旋模様、波模様などがある。以前は、動物などの地上絵が当時の星座であり、直線の地上絵は天体の出没方向を示しているという説が唱えられたが、現在では、動物などが儀礼場で、直線などは道であるという説が主張されている。  これらの地上絵は、1926年に米国の人類学者アルフレッド・クローバーたちによって発見された。当時発見されたのは、放射状に広がる直線の地上絵だけであった。一方、有名な動物や昆虫の形をした地上絵は、1940年代以降に米国の歴史学者ポール・コソックとドイツの研究者マリア・ライへによって発見された。また1946年にはドイツ人考古学者ハンス・ホルクハイマーによって、幾何学図形の地上絵が調査された。その後も続けられた研究調査によって、1500点以上の地上絵の存在が明らかになった。  近年も新しい地上絵が発見されており、2019年には山形大学の研究グループが紀元前100年〜紀元後300年頃に描かれたと考えられる143点の地上絵を発見したと報告した。山形大学は現地に研究所を設置し、地上絵の研究と保護に主導的な役割を果たしている。

    ナスカとパルパの地上絵

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    問題一覧

  • 1

    韓国南東部にある。紀元前57年から新羅の首都金城(クムソン)として栄えた。仏教の聖地である南山(ナムサン)地区、新羅の王宮があった月城(ウォルソン)地区、王族の古墳群がある大陵苑(テヌンウォン)地区、新羅最大の寺院だった皇龍寺(ファンニョンサ)の跡地が残る皇龍寺地区、首都防衛の東の拠点となった明活山城がある山城(サンソン)地区の5つに大別できる。南山地区には、110を超す寺院跡のほか、80に迫る石仏、60以上の石塔が山中に残る。月城地区には、人工池の雁鴨池(アナプチ)や臨海殿(イムへジョン)が残る。大陵苑地区には、約41万㎡の古墳公園がある。

    慶州の歴史地区

  • 2

    韓国中西部の山地に位置する。475年から660年にかけての8つの考古遺跡から構成される。公山城(コンサンソン)跡、宋山里(ソンサンニ)古墳群、扶蘇山城(プソサンソン)跡、陵山里(ヌンサンニ)古墳群などは、紀元前18年から後660年までの時代に朝鮮半島で興った3つの王朝の1つの後期を代表するものである。朝鮮半島や中国、日本といった東アジアの古代王朝間における技術や仏教、文化、芸術の交流を証明している。

    百済の歴史地区

  • 3

    14〜15世紀につくられた安東市と慶州市にある村は、韓国における最も歴史的な氏族社会の村で、代表的な氏族村(同族集落)である。村落は山々に守られるように配置され、川と田畑に面している。村内の館や住居は風水と儒教の礼法を考慮した家屋構成になっているほか、朝鮮王朝初期における儒教主義の文化が表れており、朝鮮時代の支配者である両班(ヤンバン)の農村における伝統的な生活様式を今に伝える。村内には荒壁土の壁を持つ藁葺き屋根の平屋家屋などが残っている。周囲の山、木、水、隠れ家のような家々に囲まれた景観は、17〜18世紀の詩人たちに賞賛された。

    河回村と良洞村の歴史的集落群

  • 4

    統一新羅王朝の都だった慶州の吐含山(トハムサン)中にある。新羅が残した仏教芸術及び極東の仏教芸術を代表する傑作。統一新羅中期の宰相であった金大城(キムテソン)が751年、前世の父母のためにaを、現世の父母のためにbの建立を開始したと伝えられている。吐含山の山頂近くにあるaは、自然の岩壁を掘ったものではなく、削った山の斜面に花崗岩を積み上げた人工石窟。主室中央には如来坐像が安座する。bは、金の死後の774年に完成。当初は現在の10倍の規模を誇ったとされるが、1592年の文禄の役の際に多くが焼き払われてしまった。

    石窟庵と仏国寺

  • 5

    韓国南部、伽倻山の山麓にある。802年に僧の順応(スヌン)と理貞(リジェン)によって創建された名刹。仏教の経典の集大成である版木を保管する蔵経板殿が登録されている。大蔵経版木が8万枚以上あることに由来する名で呼ばれている版木は、13世紀の高麗時代(918〜1392)に、モンゴル軍侵攻という国難克服のため発願された。版木の初彫は1232年で、モンゴル軍に襲撃された際に焼失したが、15年の歳月をかけて復刻、1251年に完成した。版木が納められている蔵経板殿の床には板が敷かれていない。木炭と石灰、塩を重ねた土間になっており、湿気を調節する働きがある。建物は角材を横に重ねて外壁とする校倉造りで建てられている。

    『八萬大蔵経』版木所蔵の海印寺

  • 6

    仏教の山岳僧院で、7〜9世紀にかけて創建された7つの寺院(通度寺(トンドサ)、浮石寺(プソクサ)、鳳停寺(ポンジョンサ)、法住寺(ポプチュサ)、麻谷寺(マゴクサ)、仙岩寺(ソナムサ)、大興寺(テフンサ))からなる。これらの寺院は韓国仏教の歴史的な発展を伝えており、宗教的・精神的な実践、修道生活の中心として機能してきた。4つの建造物(仏殿、あずまや、講堂、宿舎)に囲まれた「マダン(屋根のない中庭)」という韓国特有の庭園を持っており、優れた固有の建築構造や聖廟を含んでいる。現在も生きた信仰の中心であり、日々の宗教的実践の場として利用されている。

    山寺(サンサ):韓国の山岳僧院群

  • 7

     ソウル市の北東にある。1405年、朝鮮王朝の第3代太宗(テジョン)により、法宮(正宮)である景福宮(キョンボックン)の離宮として建設された。1592年の文禄の役の際、豊臣秀吉が派遣した遠征軍により景福宮や庭園などとともに消失したが、この遺産は再建され、その後約270年にわたって法宮として使用された。  現存する韓国最古の木造二層式門といわれる正門の敦化門(トンファムン)、重層入母屋造りの正殿の仁政殿(インジョンジョン)、国王が執務をしていた宣政殿(ソンジョンジョン)など13棟の木造建築が現存している。宮殿の北に広がる秘苑(ピウォン)と呼ばれる庭園は、周囲の自然環境を見事に取り入れている。

    昌徳宮

  • 8

    ソウルの南、京畿道にある。朝鮮王朝の第22代王正祖(チョンジョ)がつくらせ、1796年に完成した。正祖が非業の死を遂げた父の荘献世子(チャンホンセジャ)を郊外の華山に改葬するとともに、築城。実学を重視した正祖が理想都市として築いたもので、一時は遷都も検討された。周囲約5.5㎞を高さ約7mの石造りの城壁が囲み、城壁内には王の臨時の宿である行宮なども造られた。他にも4つの城門、水門、見張り塔、楼閣、弓射塔、稜堡、狼煙塔など48の建造物が当時の姿のまま残されている。また、北にある長安門、南にある八達門、東にある蒼龍門、西にある華西門の4つの城門の他にも、隠し門がある。地形の有効利用という韓国建築の伝統を踏襲しつつ、使用資材の規格化など当時のヨーロッパ城郭建築の技術を導入した城は軍事施設として高く評価された。  一部は、第二次世界大戦における日本軍の占領と朝鮮戦争時に破壊された。しかし、『華城城役儀軌』という詳細な築城記録の原本が残されており、それに基づき41の建造物の復元・修復が行われたため、世界遺産委員会においてもその真正性が認められた。

    水原の華城

  • 9

     ソウルの南東25㎞の山岳地帯にあり、非常時に朝鮮王朝(1392-1910)の臨時首都が置かれた要塞である。ソウルの北に位置する北漢山城とあわせて、南北から首都を防御する要塞として機能した。最古のものは7世紀に築かれ、その後再建を繰り返し、17世紀初期に満州と清からの攻撃に備えて完成した。  日本と中国の築城技術を反映し、西洋式の火薬を使用した武器の導入にあわせて軍事防御技術が変化している。この要塞の建造は山城の築城の転換点にあたり、その後の要塞の建設に影響を与えた。4,000人が収容可能であり、行政と軍事における重要な拠点として韓国の主権の象徴となった。築城や防御に僧兵が関わった点も特徴である。  朝鮮戦争の際には、城壁や城内の建造物などが大きな被害を受けた。1970年代より修復・復元作業が進められ、現在は京畿道立公園として保護されている。

    南漢山城

  • 10

     韓国全羅北道にあるa、全羅南道にあるb、仁川市にあるcに数多く残されている支石墓群は、先史時代の巨石文化の遺跡である。支石墓とは、巨大な石板を石塊で支えた墓のことでドルメンともいい、全世界に残る支石墓の約半数にあたる3万基ほどが韓国に密集している。そのうちaの442基、bの287基、cの約60基が登録された。  地域によって形状が異なり、cでは2枚の垂直な岩板で天井岩を支える北方式、bのものは4個の支石の上に蓋石を置く碁盤形の南方式、aのものは2つの混合式である。

    高敞、和順、江華の支石墓跡

  • 11

     この遺産は李氏朝鮮時代(15〜19世紀)の性理学教育機関の典型を示す7つの書院から構成されている。学ぶことと、学者を敬うこと、環境と相互交流をはかることが書院の主な目的で、それはデザインにも表れている。建物は山や水源の近くに位置していて、彼らは自然を鑑賞して心身を修養することを好んだ。あずまや風の建物は景観との繋がりを促進させる狙いがある。性理学が中国から韓国へ受容される歴史的経過を示している。

    書院:韓国の性理学教育機関群

  • 12

     李氏朝鮮王朝の王墓群は、18ヶ所に点在する40の王墓から形成される。15〜20世紀にかけて造営された王墓群は、儒教信仰に基づく祖先崇拝を示している。朝鮮王朝時代、王や王妃は死去後、遺体は王墓に安置され、霊魂は『宗廟』に祀られた。王墓の建築は自然美を取り入れることが重視され、南方は水に臨み、背後から山々の稜線に抱かれるように設計された。また祖先の霊魂を悪霊から守り、墓自体も破壊を防ぐように考慮されている。

    朝鮮王朝の王墓群

  • 13

     ソウルにある、1395年に朝鮮王朝(1392〜1910年)の太祖(テジョ)李成桂(イソンゲ)が造営した霊廟である。李成桂は、1394年に漢陽(現在のソウル)に都を遷すとこの霊廟の建造を開始し、祖先4世代の位牌を納めた。1592年の文禄の役の際には、豊臣秀吉が派遣した軍によって一部が破壊されたが、1608年に再建された。  国教である儒教の思想に基づいて造られた正殿や永寧殿(ヨンニョンジョン)には、歴代の王、王妃の位牌が安置されており、敷地にはほかにも、祭器などの保管庫である典祀庁、楽師の待機場である楽工庁、李氏朝鮮の83人の功臣を祀る功臣堂などが残る。正殿は左右の幅約150m、外廊には柱身が膨らんだエンタシスの柱が並び、同時代の単一木造建築物としては世界最大規模とされる。永寧殿は、2代国王の定宗(チョンジョン)を祀る際に増築された別廟で、当初本廟に納められていた李成桂の祖先4代の位牌や、正殿から移された王や王妃の位牌が祀られている。  15世紀から伝わる祭礼、宗廟大祭(チョンミョデジェ)は現在も毎年5月に行われ、伝統的な民族衣装をまとった李王家末裔の人々が、祖霊を拝み、歴代王の功績を讃える。位牌が安置された各部屋の扉は、普段は閉じられており、宗廟大祭の時にだけ開かれる。2001年、ユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作」に選定され、2009年には無形文化遺産に登録された。

    宗廟

  • 14

     韓国の最南端、済州島にある。韓国の最高峰である標高1,950mの漢拏山(ハルラサン)を中心とした漢拏山自然保護区と、城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)、拒文岳(コムンオルム)溶岩洞窟群の3つの地域からなる。海底噴火により誕生した要塞のような姿の城山日出峰は、海面に盛り上がっており、山頂には大きな噴火口が残っている。約30万〜10万万年前の噴火によって生まれた拒文岳溶岩洞窟群は、世界で最も複雑な溶岩洞窟と見なされている。

    済州火山島と溶岩洞窟群

  • 15

     北朝鮮南部にある、10世紀から14世紀まで栄えた高麗王朝の都が置かれた都市。市内にある12の歴史的建造物が、高麗王朝の歴史と文化を証明する遺産として登録された。王宮、王陵と関連建造物、城壁、門など、旧都の風水的な配置は、地域の歴史において重大な意味を持つ高麗王朝の政治的価値や文化的価値、哲学的価値、精神的価値などを体現している。他にも、天文台や気象台、役人を育てる学校を含む2つの教育機関、記念石碑などが含まれている。

    開城歴史遺跡地区

  • 16

     北朝鮮の首都平壌周辺にある。高句麗王国の中・後期にあたる4〜7世紀頃に建造された63基からなる古墳群で、その多くに美しい壁画が残されており、その図柄は、青龍、白虎、朱雀、玄武を描いた四神図や狩猟図、女性像など多岐にわたる。日本の高松塚古墳やキトラ古墳の壁画との関連性も指摘されており、高句麗王国が日本を含む東アジアに大きな影響を与えていたことを示唆している。

    高句麗古墳群

  • 17

     ペルー南部にあるは、標高2,370mの高地にスペイン人が築いた植民都市。インカ時代から存在し、1540年以降、スペインが整備を進めて現在は人口90万人というペルー第2の都市となった。アルマス広場を中心に、1579年に創建された壮麗なサンタ・カタリーナ修道院などが立ち並ぶ。建物の素材として近郊で採れる白、ピンク色の火山岩が用いられているため、別名「白い街」とも呼ばれる。頻繁に起こる地震対策として、聖堂には2m以上、住宅には1mの厚さの壁が設けられている。

    アレキパの歴史地区

  • 18

     ペルー中央部、リマック川南岸にある現在のペルーの首都で、インカ帝国を滅ぼしたフランシスコ・ピサロによって1535年に築かれた。ピサロの母国スペインのマドリードがモデルになっており、アルマス広場を中心にして碁盤目状に道路が配されている。ピサロが太平洋沿岸のこの地を選んだのは、南米各地で収集した財宝をスペインに運ぶのに都合が良かったためである。だが1541年、ピサロは支配地をめぐる争いのさなか、同地で暗殺された。  建設から7年後の1542年にペルー副王領の首都となると、南米諸国が独立するまで、スペインの南米植民地支配の中心地としていくつもの重要な建築物がつくられた。アルマス広場前にある大聖堂は、1535年の起工時にピサロ自らが礎石を据えたといわれる。地震などにより工事が遅れ、完成したのは約90年後の1624年。礼拝堂は、過剰なまでの装飾を施したチュリゲラ様式で造られ、ピサロの遺骨を納めた石棺が安置されている。一方、南米の建築史上最高傑作とされるサン・フランシスコ修道院は、1574年に完成したものの後に地震で損傷したため、バロック様式や、イスラム教とキリスト教のスタイルが融合したムデハル様式で改築された。外壁の装飾タイルはスペインのセビーリャ産のもの。付属する図書室は、宗教、文化の研究施設となり、現在も総革製の書籍約2万5,000冊、羊皮紙製の書籍約6,000冊が収蔵されている。また、院内のカタコンベ(地下墓地)は1810年まで市の墓地として使用され、およそ7万体の遺骨が埋葬されている。  幾度も大地震に襲われたため、多くの歴史的建造物は再建された。だが、18世紀頃に建てられたコロニアル調のトーレ・タグレ邸や、1549年に建設された当時の姿を残すサント・ドミンゴ教会堂、19世紀初頭まで異端者追及の場として使われたラ・インキシシオンなどが現存している。

    リマの歴史地区

  • 19

     ペルー北西部にあり、12〜15世紀にかけて南北1,000㎞を支配し、人口約10万を誇ったチムー王国の首都であった場所。総面積約20㎢にわたる。1470年頃にインカ帝国に滅ぼされ、廃墟となった。遺跡には、アドベの高い壁で区切られたラ・シウダデラと呼ばれる方形の区画が9つあり、それぞれの区画内に神殿、広場、住居や倉庫などの都市機能が備えられていた。  沿岸地域に位置することや素材の問題で、風化による破壊が進んでいるため、世界遺産登録と同時に危機遺産リストにも記載された。

    チャンチャンの考古地区

  • 20

     砂漠の大地を見下ろすスペ川の谷に位置するこの都市は、アメリカ大陸に興った文明のなかでも最も古いものの1つであり、約1,200年間続いた。この地の石碑、土壇、窪地にある円形広場などは建築技法も特徴的で、保存状態も良い。18の都市遺跡の1つカラルは、6つの巨大ピラミッドを含む複合建築物群である。この地で発見されたキープからは、カラルの発展と文明の複雑さが明らかになった。ピラミッドや指導者の住居を含む都市計画や建築物の配置からも、強力な宗教指導者のいる文明であったことが判明している。

    聖都カラル・スペ

  • 21

     ペルー中部にあるブランカ山群の東斜面、標高3,200m付近の高地に残されている。およそ紀元前1,500〜前300年の間に形成された、最も古く、最も有名な石造祭祀遺跡である。  初期に造られた旧神殿と後期の新神殿からなり、縦横にめぐらされた地下回廊や獣形の精巧な彫刻、旧神殿最奥部のジャガーを擬人化した主神体ランソン像など、この地の文化の重要な遺跡が神殿内に点在している。同様の文様を持つ出土品が周辺のアンデス各地でも多く見られるため、この地がアンデス文明の起源と考えられている。

    チャビンの考古遺跡

  • 22

     ペルー南部、アンデスの東山脈と中央山脈の谷間にあるは、インカ帝国の首都として栄えた地である。  アンデス地方の言葉、ケチュア語で「へそ」を意味するその街は、インカ帝国において宇宙の中心とみなされていた。1200年頃、インカ帝国の基礎となる王国を興したマンコ・カパックは、太陽神インティの息子として自らを神格化していた。インカの伝説によると、太陽神インティは息子マンコ・カパックに黄金の杖を手渡し、それが地中深く沈む場所に神殿を築くよう命じた。そこで、神殿を築く場所を求める長旅に出たマンコ・カパックは、洞窟を抜けてある地を通りかかった際、杖が突如、地中に吸い込まれたため、この地に神殿を建築。さらに自身がインカ帝国の初代皇帝の座に就いたとされる。  標高3,400mの高地に街が建設されたのは、11〜12世紀頃。インカ人は13世紀頃から周辺部族の征服を進め、15世紀の9代皇帝パチャクテクの時代に絶頂期を迎え、現在のエクアドルからチリにいたる南北2,000kmの地域に、約1,200万人もの人々が暮らす大帝国へと発展した。同時期に、インカ人にとって神聖な動物だったピューマの形を模して市街整備が進められた。黄金に彩られた宮殿や神殿が立ち並ぶ街は、大帝国の首都として栄華を極めた。また帝国内に張り巡らされた総延長4万㎞を超えるとされるインカ道を通じて、各地の特産品が集まった。  1533年、スペイン人フランシスコ・ピサロがわずか168人の兵士を連れてこの地を占領し、インカ帝国は破滅の時を迎える。征服者(コンキスタドール)たちは、会談中に不意打ちで皇帝アタワルパを人質に取り処刑すると、インカの神々に捧げられた黄金を略奪し、宮殿や神殿を破壊した。ヨーロッパ人がもたらした天然痘がインカの人々に大きな被害を与えていたことも、征服者に対する抵抗力を奪ったと考えられている。  スペイン人たちは、インカの神殿や宮殿で用いられた石などを再利用し、大聖堂や修道院、ラ・コンパニーア聖堂などを築いたが、インカの建造物があまりに精巧かつ堅牢な石積みで造られていたため、土台部分は破壊できず、その上にキリスト教を象徴する建物やスペイン風の建物が建設された。そのため、この地はインカ的なものとスペイン的なものが入り混じった、独特の雰囲気を持っている。地震が多いペルーでは、大地震によって何度も大聖堂などが大きな被害を受けたが、インカの石積みが崩れることはなかった。  こうした優れた石積み技術はインカ文明の特徴で、近郊の巨大な宗教儀礼の場サクサイワマンなどでも見られるが、鉄器や車輪を持たなかったインカ文明がどのように石を切り出し運んだのか、謎も多い。サクサイワマンでは、現在でも現地の人々によってインティ・ライミ(太陽神インティの祭り)が開かれている。

    クスコの市街

  • 23

     ペルーのアンデス中央部、コルディリェーラ・ブランカ山群のほぼ全域に広がる、ペルー最高峰の山(6,768m)をはじめとする6,000m級の山が連なる山脈地帯。南緯10度前後の熱帯地域に位置しながらも、氷河や万年雪、ツンドラの荒れ地などが点在し、250の湖のうち氷河湖はトルコブルーの美しいヤンガヌコ湖など120に上る。高度によって気候が異なるため、変化に富んだ景色が広がり、プヤ・ライモンディなど様々な動植物の姿が見られる。

    ウアスカラン国立公園

  • 24

     ペルー南部の台地およびその近郊の地区には世界的に有名な地上絵が残る。地上絵は、太平洋からアンデス山脈の約450㎢にもわたる範囲に広がる。この地域は、年間平均降水量が10㎜以下の乾燥地帯である。台地の表面は酸化によって褐色に変化した小石が広がっているが、すぐ下には白い砂の層があるため、褐色の小石を取り除くと、白い砂が露出する。この色の違いを利用して地上絵が制作された。  地上絵の大部分は、紀元前2〜後6世紀頃に発展した社会によって制作されたと考えられている。地上絵を制作した目的については諸説ある。地上絵には、サルなどの動物やハチドリなどの鳥、クモなどの昆虫、花や木の他、直線や三角形、螺旋模様、波模様などがある。以前は、動物などの地上絵が当時の星座であり、直線の地上絵は天体の出没方向を示しているという説が唱えられたが、現在では、動物などが儀礼場で、直線などは道であるという説が主張されている。  これらの地上絵は、1926年に米国の人類学者アルフレッド・クローバーたちによって発見された。当時発見されたのは、放射状に広がる直線の地上絵だけであった。一方、有名な動物や昆虫の形をした地上絵は、1940年代以降に米国の歴史学者ポール・コソックとドイツの研究者マリア・ライへによって発見された。また1946年にはドイツ人考古学者ハンス・ホルクハイマーによって、幾何学図形の地上絵が調査された。その後も続けられた研究調査によって、1500点以上の地上絵の存在が明らかになった。  近年も新しい地上絵が発見されており、2019年には山形大学の研究グループが紀元前100年〜紀元後300年頃に描かれたと考えられる143点の地上絵を発見したと報告した。山形大学は現地に研究所を設置し、地上絵の研究と保護に主導的な役割を果たしている。

    ナスカとパルパの地上絵