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世界史
  • きまき

  • 問題数 78 • 2/16/2025

    問題一覧

  • 1

    ヨーロッパ中世の主従関係、農奴制などを軸とした制度をなんというか。

    封建制

  • 2

    ヨーロッパの封建制は中国、日本の封建制とは違い、𓏸𓏸(農奴に賦役や貢納の義務を課し、生産活動を行わせること)と𓏸𓏸(主君が家臣に土地を任せるかわりに、家臣は主君を助けること。これは𓏸𓏸であり、不満があれば𓏸𓏸可能である。)の二本立てである。

    荘園制、主従関係、契約関係、解消

  • 3

    封建制が網の目のように張り巡らされたことで、ヨーロッパは分権的な状況になった。それにより𓏸𓏸の建設が進み、𓏸𓏸が流行した。

    城、騎士道

  • 4

    貴族にとって聖職は箔づけや権益の確保の手段になっていた。教皇の選出にも貴族が介入してくるこの状況を是正するため、教会の改革が行われた。俗人の教会への介入を防ぐため、𓏸𓏸と𓏸𓏸(むしろいいことと言われていたが)を禁止することを目指した。

    聖職売買、聖職者妻帯

  • 5

    𓏸𓏸とは、司教、修道院長を誰(ローマ教皇か神聖ローマ皇帝か)が決めるかについての争いである。この争いの中で起こったのが𓏸𓏸である。教皇𓏸𓏸が𓏸𓏸に破門宣言+廃位宣言を行った。廃位=政治的な力を失うことを意味し、許しを乞うため厳寒の中三日三晩断食した。 廃位と破門は撤回されたが、その後も破門廃位の攻防は続いた。1122年、𓏸𓏸で一旦この争いは解決した。

    叙任権闘争、カノッサの屈辱、グレゴリウス7世、ハインリヒ4世、ヴォルムス協約

  • 6

    叙任権闘争及びヴォルムス協約に至る過程でカトリックの制度整備が行われていた。11世紀半ばには教皇の補佐役である𓏸𓏸の原型が完成し、11世紀末から12世紀に𓏸𓏸や𓏸𓏸が整備され、教皇交代のタイミングでも政策が頓挫しなくなった。

    枢機卿団、教皇庁、教会法

  • 7

    𓏸𓏸とは、「教皇選挙」を意味する言葉で、全カトリック教会の最高司祭たるローマ教皇を枢機卿による投票で選出する手続きである。

    コンクラーベ

  • 8

    また、𓏸𓏸によるカトリック権威の強化も行われていた。正戦→聖戦に理解がかわり、異教徒に対する戦いを𓏸𓏸→𓏸𓏸と正当化するようになった。

    十字軍の派遣、贖宥、救済

  • 9

    𓏸𓏸は、ローマ=カトリック教会の全盛期のローマ教皇である。ローマ教皇のもとで、イングランド、ドイツ、フランスの君主が破門されたり、意のままに操られる事態となり、教皇権は最高潮に達したと言える。

    インノケンティウス3世

  • 10

    しかし、教皇庁をはじめとするカトリック教会の𓏸𓏸により、教皇の業務が多忙化し、指導が弱まる。13世紀には役人への賄賂、課税などの拡大により教皇権が下落した。

    官僚制化

  • 11

    フランス王𓏸𓏸がイングランドとの戦いに備え、𓏸𓏸に課税をするという禁令を破ったことでローマ教皇𓏸𓏸と対立。しかし(カノッサのときとは違い)それでもフランス王は身分制議会である𓏸𓏸を招集し、世論工作に取り組んだ。 フランスが教皇と対決する姿勢になれたのは、中央集権化政策により王国の分権化を是正したためである。 フランス王の側近と教皇の政敵が共謀し𓏸𓏸を引き起こす。フランス王の介入+ローマの政情不安により教皇の居場所は𓏸𓏸へ移転した。これを𓏸𓏸という。

    フィリップ4世、聖職者、ボニファティウス8世、三部会、アナーニ事件、アヴィニョン、教皇のバビロン捕囚

  • 12

    血縁を持つ縁故者を優先させる態度。 社会学の分野においては、同族・同郷者に限らず同じ共同体に属する人間の意見ばかりを尊重し、排他的な思想に偏る内集団偏向のことを指す。

    縁故主義

  • 13

    教皇のバビロン捕囚により移転した先の𓏸𓏸では、未だに汚職+縁故主義が続いた。1377年に教皇庁がローマに帰還したが、教皇や枢機卿らの内部対立により、ローマとアヴィニョン両方に教皇が立つ𓏸𓏸が発生した。両教皇とも𓏸𓏸による選出だったため、混乱に拍車をかけ、カトリック教会を批判する𓏸𓏸や𓏸𓏸などの聖職者もでてきた。神聖ローマ皇帝𓏸𓏸が𓏸𓏸を開催し、(このとき教皇は𓏸𓏸人いた)西方教会全体と世俗君主の参加を得てシスマを終了。

    アヴィニョン教皇庁、大シスマ、枢機卿、フス、ウィクリフ、ジギスムント、コンスタンツ公会議、3

  • 14

    コンスタンツ公会議によって、ウィクリフとフスの異端が決定した。ウィクリフは墓から掘り起こされ、フスは𓏸𓏸に処されるなど、厳罰が下された。フスとウィクリフは後の𓏸𓏸の先駆者とも言われている。

    火刑、宗教改革

  • 15

    ローマに戻った教皇は権力回復のために領地経営、財源確保に没頭。16c頭にかけて教皇は𓏸𓏸のパトロンとしても振る舞った(特に𓏸𓏸の𓏸𓏸の改修計画)これには多額の資金が必要だったため、𓏸𓏸(購入+改悛・告解)を活用した。しかし次第に購入だけでよいというスタンスになり、𓏸𓏸化した。この状態に疑問を感じた𓏸𓏸は1517年に𓏸𓏸を発表し、𓏸𓏸の口火を切った。宗派である𓏸𓏸が生まれた。また、これにより𓏸𓏸が急速に普及した。

    ルネサンス、バチカン、サン・ピエトロ大聖堂、贖宥状、免罪符、マルティン・ルター、九十五箇条の論題、宗教改革、プロテスタント、活版印刷術

  • 16

    ヨーロッパ東欧に生まれたボヘミア王国、ハンガリー王国、ポーランド王国は𓏸𓏸を授与していた。バルカン半島に生まれたブルガリア王国、セルビア王国、ブルガリア帝国、ルーマニアは𓏸𓏸を受容していた

    カトリック、東方正教

  • 17

    13世紀前半に始まったモンゴルのルーシ侵攻とそれにつづくモンゴル人によるルーシ支配を、ロシア側から表現した用語をなんというか

    タタールのくびき

  • 18

    耕地を三分して作物を替えることによって地味の低下を避ける農法。中世ヨーロッパの農村で、二圃制に代わり10~11世紀に普及し、農業生産力向上の原動力となった

    三圃制

  • 19

    𓏸𓏸とは、中世ヨーロッパの11~12世紀の農業生産力の向上を背景に、余剰生産物の交換の場として定期的に開かれた市場。商業都市に成長していった。12~13世紀に最も人々が集まったのが、𓏸𓏸であった

    定期市、シャンパーニュ地方

  • 20

    𓏸𓏸は、十字軍以来流入したアラビア文明の影響を受けて医学や哲学の研究を行う組織として生まれた。当初は教会や修道院に属する教育機関が主体であったが、12世紀になると商業の発展に伴って都市が成立し、都市に医学や法学を学ぶ学生が集まり生まれた。

    大学

  • 21

    𓏸𓏸と小氷期の到来、また𓏸𓏸の大流行、戦乱により14世紀は𓏸𓏸と呼ばれた。

    14世紀の飢饉、ペスト、14世紀の危機

  • 22

    14世紀の危機により、農村では人口が激減し、領地契約が困難に。𓏸𓏸が崩壊した。労働力の欠如により農民の権力が向上し、領主は賦役をやめ農民にある程度の自由を与えた。しかしこの中で農村への支配を逆に強化する領主も現れた。それに対して農民たちも放棄を試みた。仏で𓏸𓏸、英で𓏸𓏸が起こった

    荘園制、ジャックリーの乱、ワット・タイラーの乱

  • 23

    1339~1453年までのイギリス王とフランス王の戦争。王位継承、領有権での対立などが原因であったが、長期化し、その間に農民一揆や黒死病の流行などもあり、両国とも封建領主層が没落し、王権による統合が進み、国民国家形成にすすむという社会と国家の大きな変動がもたらされた。戦いはフランス領内で展開された。

    百年戦争

  • 24

    イベリア半島でのキリスト教勢力がイスラーム勢力を排除する動き。国土回復運動ともいう。

    レコンキスタ

  • 25

    第一次世界大戦は、𓏸𓏸(𓏸𓏸、𓏸𓏸、𓏸𓏸+𓏸𓏸)と𓏸𓏸(𓏸𓏸、𓏸𓏸、𓏸𓏸)の戦いである。勝ったのは𓏸𓏸。

    協商国、イギリス、フランス、ロシア、アメリカ、同盟国、ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、協商国

  • 26

    𓏸𓏸とは、第一次世界大戦末期の1918年11月、キール軍港の水兵反乱を機に全国に広がった運動である。ドイツは帝政から𓏸𓏸へ移行し、同年2月に穏健な議会制と資本主義経済をかかげる𓏸𓏸が成立し、当時世界でもっとも民主主義的な憲法であった𓏸𓏸が制定された。

    ドイツ革命、共和政、ヴァイマル共和国、ヴァイマル憲法

  • 27

    1920年、第一次世界大戦の惨禍を反省し、𓏸𓏸が発足、1925年には𓏸𓏸を締結し第一次世界大戦の戦後処理(独西部ラインラントの𓏸𓏸と連合国軍による占領)を認め、1928年、15カ国の間で𓏸𓏸が締結された。

    国際連盟、ロカルノ条約、非武装化、パリ不戦条約

  • 28

    ナチズムの2大主張は、𓏸𓏸と𓏸𓏸である。

    人種主義的反ユダヤ主義、生存圏構想

  • 29

    ナチ党の正式名称は、𓏸𓏸である。

    国民社会主義ドイツ労働者党

  • 30

    1929年10月24日、NYウォール街の株式市場の株価大暴落により𓏸𓏸が発生。ドイツは国家支出の切りつめによる𓏸𓏸で対応。(米では𓏸𓏸) 議会では党派が分立し、恐慌の危機に対応するため𓏸𓏸という政治を展開した。これが可能だったのは、ワイマール憲法48条の𓏸𓏸があったからである。

    世界恐慌、緊縮措置、ニューディール政策、大統領内閣、緊急事態条項

  • 31

    1932年7月31日、ナチ党は議会第一党になり、ヒトラーは首相職以外認めなかった。大統領𓏸𓏸はヒトラーの就任を拒否。

    パウル・フォン・ヒンデンブルク

  • 32

    パウル・フォン・ヒンデンブルクがヒトラーの首相就任を拒否できたのは、𓏸𓏸を持っていたからである。

    大統領の任免権

  • 33

    パウル・フォン・ヒンデンブルクは貴族出身の𓏸𓏸で、反𓏸𓏸の立ち位置にあり、𓏸𓏸への回帰を望む人である。 対してヒトラーは𓏸𓏸出身の𓏸𓏸階級で、軍では𓏸𓏸であった。

    高級軍人、共和政、権威主義、オーストリア、下層中産、伍長

  • 34

    次第に大統領内閣は大衆的基盤を得る必要があることを認識した。民衆に不満が鬱積すれば反乱やクーデター、内戦状態になりかねないため、国民の意見を反映している党に政治を任せれば民意を反映させることになるという思惑だった。大統領内閣としては、𓏸𓏸の勢力拡大をなによりも危惧していた。当時の大統領周辺はヒトラー政権を𓏸𓏸化できると考えていた。

    共産党、傀儡

  • 35

    ヒトラーは首相に就任し、迅速に体制確立を迅速に進める。1933年2月27日、𓏸𓏸が発生し、ナチ党はこれを𓏸𓏸の仕業と断定し、𓏸𓏸を発令した。

    国会炎上事件、共産党、国民と国家を防衛するための大統領緊急令

  • 36

    𓏸𓏸の停止により警察は司法手続きなしで被疑者の逮捕が可能になった。

    基本権

  • 37

    1933年3月23日、𓏸𓏸が制定された。これは立法権を政府に委譲する法で、権力分立を破壊するものである。

    全権委任法

  • 38

    全権委任法の制定に他の政党が賛成票を投じたのは𓏸𓏸への不介入の約束(𓏸𓏸)、議員の𓏸𓏸を認めないことによる𓏸𓏸の防止、𓏸𓏸の動員による弾圧があったからである。

    教会、ライヒスコンコルダート、欠席、欠席戦術、警察力

  • 39

    1934年6月 30日、ヒトラーが党内の反ヒトラー分子,左派分子を粛清した事件

    レーム事件

  • 40

    また、1934年8月頃、パウル・フォン・ヒンデンブルクが死去し、ヒトラーは名実ともに𓏸𓏸になった。

    総統

  • 41

    ヒトラー当時のドイツの通貨単位をなんというか

    ライヒスマルク

  • 42

    ドイツ全土に張り巡らされる自動車道路網。雇用創出の目的もあった。

    アウトバーン

  • 43

    𓏸𓏸(𓏸𓏸)計画とは、低価格で労働者にも手が届く車を作る「マイカー」計画である。

    国民車、フォルクスワーゲン

  • 44

    𓏸𓏸はナチス・ドイツ時代の労働者組織である。ナチ党の権力掌握後、さまざまな労働組合の後継として設置された。𓏸𓏸を通じて労働環境の改善が行われた。また、同組織の一部局𓏸𓏸が担った旅行事業はレジャー機会の提供を促進した。

    ドイツ労働前線、労働の美局、歓喜力行団

  • 45

    ヒトラーは家族支援的政策を行った。 毎年5月に母の日を国民的祝祭として祝い、39年以降は𓏸𓏸の授与が行われた。また、𓏸𓏸では結婚したカップルに1000RMを無利子で貸し与え、𓏸𓏸では厳しい冬を乗り切るため、ひと鍋料理の日を開催。恵まれない人への支援。

    母親名誉十字賞、結婚奨励貸付制度、冬季救済事業

  • 46

    失業者の減少のカラクリは、𓏸𓏸による18歳の農村補助や公共事業従事、𓏸𓏸による女性就労者の削減、𓏸𓏸の復活による失業者の母数の削減である。

    労働奉仕、結婚奨励貸付制度、一般兵役義務

  • 47

    ナチスは経済維持のため、ユダヤ人の財産を𓏸𓏸し、ドイツ人へ分配したり、外国人や戦争捕虜を𓏸𓏸させるなどしていた。

    アーリア化、強制労働

  • 48

    ナチスの経済政策は𓏸𓏸を見込んでいた。軍需産業を非常にかたよった形で振興していた。その財源は基本的に負債で、侵略で解決する他なかった。

    対外戦争

  • 49

    賃金の増加は起こっていたものの、𓏸𓏸の増加や、各種施策のための𓏸𓏸で相殺されてしまったため、実質的にはなかったことになる。

    労働時間、徴収

  • 50

    ナチスが目指す分裂や対立のない𓏸𓏸は基準を満たす構成員が選別されたうえで維持されているため、排除と包摂が伴う。

    民族共同体

  • 51

    𓏸𓏸とは、1933年7月に定められた、遺伝的な疾患を持つ者に対する不妊化措置である。対象の病気が遺伝性かは怪しく、本人の同意なしに施術が可能であった。

    遺伝病子孫予防法

  • 52

    𓏸𓏸とは、1930年代後半からドイツ国で精神障害者や身体障害者に対して行われた「強制的な𓏸𓏸」政策である。

    T4作戦、安楽死

  • 53

    𓏸𓏸とは、1933年4月7日に発せられた、政治的に不適切な者を公職から追放する法律である。別名𓏸𓏸

    職業官吏再建法、ニュルンベルク法

  • 54

    ドイツ民族は職業官吏再建法以降、𓏸𓏸の作成が義務付けられた。

    血統証明

  • 55

    コロンブスがアメリカに到達した15世紀末、メキシコ中央高原には𓏸𓏸文明、南米のアンデス山脈には𓏸𓏸文明が栄えていました

    アステカ、インカ

  • 56

    1368年、明を建国し、初代皇帝となったのは𓏸𓏸。中国との交易を𓏸𓏸、𓏸𓏸に搾った。

    洪武帝、朝貢、冊封

  • 57

    明は𓏸𓏸の時代に全盛期を迎えた。 彼が行ったのは、積極的な対外政策だった。 それを象徴するのが、南シナ海方面の朝貢貿易を拡大するために行われた𓏸𓏸だった

    永楽帝、鄭和の大遠征

  • 58

    鄭和は、東南アジアの𓏸𓏸や𓏸𓏸の港町を拠点として、アラビア半島やアフリカ東海岸にまで、明への朝貢を促した。

    チャンパー、マラッカ

  • 59

    15世紀前半、アフリカ西岸航路の開拓を航海王子𓏸𓏸が推進。 1488年には𓏸𓏸がアフリカ南端の𓏸𓏸に到達し、1498年には𓏸𓏸が喜望峰を回って、インド西岸のカリカットにたどりついた。 こうして、ヨーロッパとアジアを直結する「インド航路」が開かれたんだ。 同じころ、スペインの援助を得た𓏸𓏸は、インドを目指してアメリカ大陸に到達。 1522年には𓏸𓏸たちが世界一周に成功している。

    エンリケ、ディアス、喜望郷、ヴァスコ・ダ・ガマ、コロンブス、マゼラン

  • 60

    16世紀半ば、スペイン領だった現在のボリビアで𓏸𓏸が発見される。 これをきっかけに、アメリカ大陸では膨大な𓏸𓏸が生産されるようになった。 アメリカ大陸から大量の銀が持ち込まれたことで、ヨーロッパ内での銀の価値が下落し、物価が高騰する𓏸𓏸がおこった

    ポトシ銀山、銀、価格革命

  • 61

    大航海時代、これまでの地中海交易を担っていた地中海側の諸都市にかわって、大西洋沿岸の𓏸𓏸や𓏸𓏸、𓏸𓏸などが国際商業の中心となっていったんだ。

    リスボン、アントウェルペン、アムステルダム

  • 62

    17世紀ごろ、ヨーロッパでは紅茶やコーヒーが一気に普及し、𓏸𓏸の需要が増えた。 サトウキビの栽培は、一つの作物を大量に栽培する𓏸𓏸という大規模農園で行われた。 多くの労働力が必要になったが、先住民の人口は急激に減少していた。そこで、ヨーロッパ人が目をつけたのが、アフリカの𓏸𓏸である。

    砂糖、プランテーション、奴隷

  • 63

    18世紀に行われていた、イギリスやフランスなどの商人がアフリカへ銃器や綿製品などを輸出し、奴隷を買いその奴隷をアメリカのプランテーションに転売し、アメリカから砂糖やタバコ、綿花をヨーロッパに運んだ、大西洋上の3大陸を結んだ貿易のしくみを𓏸𓏸という。

    大西洋三角貿易

  • 64

    農業の一形態で、単一品種の作物を栽培すること

    モノカルチャー

  • 65

    人間本来のあり方を考え、人間性の解放を追求することを𓏸𓏸という。ルネサンス期の基本的な思想。

    人文主義

  • 66

    1536年、フランス出身の𓏸𓏸が、プロテスタントの教義を体系化した𓏸𓏸を出版します。カルヴァンは、“人が神によって救われるか否かは神によって予定されている”という𓏸𓏸をとなえ、利益・蓄財を認め、商工業者の心をつかんだ。

    カルヴァン、キリスト教綱要、予定説

  • 67

    16世紀、西ヨーロッパのキリスト教はカトリックとプロテスタントに分裂した。 そんな中、ドイツではカトリックとルター派の間で𓏸𓏸による宗教的対立に一応の決着がつき、ルター派の信仰が認められた。

    アウクスブルクの和議

  • 68

    一方、プロテスタントに対抗して、カトリック内部にも改革の動きが生まれた。 従来の教義の正しさを確認した上で、自ら聖職者の風紀を正し、ローマ教会の布教に力を入れ始めます。これは𓏸𓏸と呼ばれます。 スペインの貴族で軍人の𓏸𓏸は、パリで𓏸𓏸を結成。新たな布教活動や教育事業を開始した。 イエズス会は厳しい規律のもと、世界へとカトリックの布教に乗り出し、この会の設立者のひとり、𓏸𓏸は日本に布教に訪れた。

    対抗宗教改革、イグナティウス・ロヨラ、イエズス会、フランシスコ・ザビエル

  • 69

    イギリスでも宗教改革が起こり、国王𓏸𓏸が、王妃との離婚を認めないローマ教皇と対立、教皇は国王を破門しました。一方、国王は対抗して“イギリスの教会の首長はイギリス国王である”と宣言し、カトリック世界から離脱します。こうして、𓏸𓏸が成立しました

    ヘンリ8世、イギリス国教会

  • 70

    𓏸𓏸の「人体スケッチ」など、ルネサンスでは物事の観察や実験が重視され、科学や技術が発達した。16世紀には𓏸𓏸が太陽を中心に惑星が回る𓏸𓏸を体系づけた。でも、地球が宇宙の中心とする「天動説」をとるローマ教会は、地動説を唱える学者を弾圧したり処刑したりしたんだよ。

    レオナルド・ダ・ヴィンチ、コペルニクス、地動説

  • 71

    イスラーム世界を経由して中国から伝来し、実用化したもののひとつが𓏸𓏸。改良が加えられた大砲や鉄砲などの武器は、戦闘方法を一変させた。もうひとつは𓏸𓏸。 これによって遠洋航海を可能にした。 「活版印刷術」を改良・実用化したのはドイツ人の𓏸𓏸

    火薬、羅針盤、グーテンベルク

  • 72

    17世紀初め、神聖ローマ帝国内、現在のチェコに位置するベーメンで、プロテスタント派の貴族たちがカトリックを強要する神聖ローマ皇帝に反発した。 この宗教対立にヨーロッパ各国が介入し、のちに𓏸𓏸と呼ばれる国際戦争へと発展した。 長期に及んだ戦争は、1648年にようやく和平会議が開かれ、結ばれた条約が𓏸𓏸である。

    30年戦争、ウェストファリア条約

  • 73

    16世紀後半、ハプスブルク家スペインの全盛期の国王。 カトリック政策を強化し、新教国イギリスと対立、オランダの独立運動を弾圧した。 アメリカ新大陸からアジアにかけて広大な「太陽の沈まぬ国」といわれたスペインを統治した。

    フェリペ二世

  • 74

    フェリペ二世がカトリックの強制と高い税をかけたため、𓏸𓏸が勃発。𓏸𓏸が成立し、独立したオランダに繁栄をもたらしたのは、造船や繊維産業などの、当時世界最先端の技術力だった。さらに、スペインとポルトガルに独占されていた海外の商業貿易にも進出。 1602年には世界で最初の株式会社と言われる、𓏸𓏸を設立。 アジアでの貿易を独占した。

    オランダ独立戦争、ネーデルラント連邦共和国、オランダ東インド会社

  • 75

    国王を頂点にした主権国家を築くことで、オランダの後を追ったのがフランスである。 宗教対立や三十年戦争といった困難な時期を終えて国の統治を引き継いだのは、国王𓏸𓏸。 “朕は国家なり”と言ったといわれる。国王が主権者となり圧倒的な力で君臨する𓏸𓏸をしいた。

    ルイ14世、絶対王政

  • 76

    ルイ14世のもとで経済政策に力を発揮したのが、財務総監の𓏸𓏸である。徹底した𓏸𓏸政策をおしすすめた。 輸入製品に高い関税をかけて国内産業を保護し、国際競争に勝てる製品開発をすすめることで、貿易の振興に努めました。 一方、ルイ14世は豪華な𓏸𓏸を築く。

    コルベール、重商主義、ベルサイユ宮殿

  • 77

    イギリスでは、エリザベス1世がイギリス国教会を再建し、ローマ・カトリック教会の影響を断ち切ると、外交的にも干渉を受けない「孤立主義」をとった。 スペインの無敵艦隊も撃退し、主権国家としての自主性を示した。 しかし、エリザベス1世の没後、統治権を君主に集中させようとする国王(王党派)と、議会(議会派)とがぶつかって内乱状態が続いた。𓏸𓏸を起こし、 17世紀末、国王が議会の定める法に基づいて国を統治する独自の𓏸𓏸を確立した。

    名誉革命、立憲王政

  • 78

    北イタリア商業都市のイタリア商人による、東地中海岸におけるビザンツやイスラーム商人との遠隔地交易を𓏸𓏸という。

    レバント貿易