問題一覧
1
前700~前221年を𓏸𓏸という。
春秋戦国時代
2
春秋時代、周王朝は後継者問題などで信頼が低下していた。𓏸𓏸が周を攻撃し、王が殺害された。𓏸𓏸の支援を受けた親王がたち、𓏸𓏸に遷都した。これを周の𓏸𓏸という。
犬戎、晋、洛邑、東遷
3
春秋時代、周が洛邑に遷都したあとは、周王朝の権威のみで諸侯を従えることが出来なくなり、各諸侯の突出した力をもつ𓏸𓏸が断続した。(俗に言う𓏸𓏸)
覇者、春秋の五覇
4
戦国時代の前453年、𓏸𓏸が有力三臣下によって分裂した。(𓏸𓏸、𓏸𓏸、𓏸𓏸の3つ) 諸侯は𓏸𓏸を自称し自立を始めた。特に有力な七国を𓏸𓏸という。
晋、韓、魏、趙、王、戦国の七雄
5
春秋戦国時代では𓏸𓏸の浸透によって開墾地が拡大した。経済が活性化し、𓏸𓏸が普及した。 また、個人の能力が重んじられ、新たな思想を提起するものが現れた。𓏸𓏸を祖とする𓏸𓏸等の𓏸𓏸。
鉄器、青銅貨幣、孔子、儒家、諸子百家
6
戦国時代には、周の諸侯が治める範囲をひとつのまとまった世界としてみなす意識が強まり、𓏸𓏸といわれた。のち、𓏸𓏸の𓏸𓏸の時代以降ここは𓏸𓏸と称される。この地域以外に住むものたちを生活習慣等の異なる者(𓏸𓏸)として蔑む思想が始まった。(𓏸𓏸)
天下、漢、武帝、中国、夷狄、華夷思想
7
秦の始皇帝は遊牧国家𓏸𓏸の対策として、𓏸𓏸を建設した。しかし、𓏸𓏸の導入などから人々の不満が増え、秦は滅亡した。
匈奴、万里の長城、徴兵制
8
漢の𓏸𓏸は遊牧国家𓏸𓏸を𓏸𓏸に活路した。オアシス都市で取引される𓏸𓏸を狙い、漢からは𓏸𓏸を対価にだした。これは𓏸𓏸交易のはじまりである。
武帝、匈奴、交易、汗血馬、シルク、シルクロード
9
遊牧国家は定住民、𓏸𓏸業の民の𓏸𓏸体であった。人工的池の遺跡から漢字の使用が発見された(𓏸𓏸=匈奴の君主の称号)ことで、匈奴が𓏸𓏸人を登用していたことがわかる。
商、複合的な連合、単于、漢
10
寒冷化により、中国本土へ南下してきた遊牧民である𓏸𓏸の国家、𓏸𓏸が形成された。雲岡石窟などにみる𓏸𓏸の信仰が特徴。
鮮卑族、北魏、仏教
11
𓏸𓏸王朝は元々遊牧民であり、帝室の𓏸𓏸氏も鮮卑族出身である。
唐、李
12
7c半ばから後半、唐が突厥をを圧倒し、𓏸𓏸が農耕、遊牧の両地域で君主として認められた。
李世民
13
𓏸𓏸系商業民である𓏸𓏸人は唐の交易活動を狙い、情報提供、資金源、𓏸𓏸として活躍した。
イラン、ソグド、軍人
14
𓏸𓏸支配は唐の統治政策のひとつである。遊牧民や服属民に対して一定の統治権を付与する緩やかな支配であり、突厥とソグド人にルーツをもつ𓏸𓏸らによる𓏸𓏸の乱では機能不全もみられた。この鎮圧には遊牧民の𓏸𓏸が貢献した。
覊縻、安禄山、安史、ウイグル
15
𓏸𓏸の時代に仏教が東アジアに伝播した。仏教は生まれを問わず誰でも救う教えである。
北魏
16
10世紀頃、𓏸𓏸中流域の都𓏸𓏸が発展した。これにより北宋は𓏸𓏸、商業が活性化した。 北方の𓏸𓏸による圧迫があったため、𓏸𓏸という盟約を結び、経済力による共存体制になった。
黄河、開封、貨幣経済、契丹、澶淵の盟
17
イスラームとは、唯一神へ絶対的に帰依、服従するという意味の𓏸𓏸語である。イスラームにおける唯一神は𓏸𓏸という。
アラビア、アッラー
18
6世紀半ばまでは𓏸𓏸と𓏸𓏸の関係は平穏だった。前者はユーラシアの𓏸𓏸と𓏸𓏸の西部を抑え交易で栄え、後者も対立が激化するまではこの恩恵を受けていた。(後者は紅海ルートも活用)
ササン朝、ビザンツ帝国、オアシスの道、海の道
19
6世紀後半にはササン朝とビザンツ帝国の軍事衝突が本格化し、東西の貿易路の安全が喪失た。それにより𓏸𓏸南端を回る𓏸𓏸からのルート、特に𓏸𓏸地方の通商路が活発化した。
アラビア半島、イェメン、ヒジャーズ
20
ヒジャーズ地方の都市𓏸𓏸を経由した𓏸𓏸へのルートが脚光。中継貿易の拠点として活況した。アラビア半島は大部分が砂漠地帯で、安定した農耕は半島𓏸𓏸部地域。
メッカ、シリア、南
21
5世紀末以降𓏸𓏸がメッカに定着。交易活動に従事。同部族の𓏸𓏸出身のムハンマドも青少年時に商売などでシリアに赴いた。
クライシュ族、ハーシム家
22
アラブの遊牧民は血縁者が一族の有力者の元に守られる社会を形成し、生活していた。略奪も武勇の発揮として是とされ、これは𓏸𓏸という部族間対立が続くことにも繋がった。
血の復讐
23
ムハンマドはおじに育てられ、610年、40歳のとき神からの掲示を受けた。それを家族や友人に伝え共鳴者が増えていった。それに伴い自己を𓏸𓏸と自覚した。 メッカ社会の指導層を中心に迫害を受けた。
神の使徒
24
おじと妻を無くしたことでハーシム家から追放され、622年、北方のオアシスの街𓏸𓏸()へ移住。これを𓏸𓏸という。(𓏸𓏸)
メディナ、ヤスリブ、ヒジュラ、聖遷
25
メディナのアラブ人とユダヤ教徒と協定締結した。(𓏸𓏸)、メッカからのムスリム移住者とメディナの援助者はひとつの共同体、𓏸𓏸を建設した。
メディナ憲章、ウンマ
26
624年、メッカと戦いを開始、徐々に形勢を逆転し、628年に元はムハンマドを否定していた𓏸𓏸族と締結し翌年メッカの巡礼に成功。630年にはメッカを征服し𓏸𓏸内部の偶像を破壊しイスラームの聖地とした。
クライシュ、カーべ神殿
27
ムスリムの信ずべきことと行うべき義務を𓏸𓏸という。 前者は、𓏸𓏸、𓏸𓏸、𓏸𓏸、𓏸𓏸、𓏸𓏸、𓏸𓏸 後者は、𓏸𓏸、𓏸𓏸、𓏸𓏸、𓏸𓏸、𓏸𓏸 を表す。
六信五行、アッラー、天使、啓典、預言者、来世、天命、信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼
28
ムハンマドの代理人を𓏸𓏸という。𓏸𓏸時代、ムスリムの合意により𓏸𓏸を初代後継者に選出。以後、𓏸𓏸、𓏸𓏸、𓏸𓏸の治世が続いた。、
カリフ、正統カリフ、アブー・バクル、ウエル、ウスマーン、アリー
29
カリフとは、アラビア語の𓏸𓏸の𓏸𓏸訛りである。
ハリーファ、ヨーロッパ
30
イスラームは𓏸𓏸の戦い、𓏸𓏸の戦いにおいてササン朝ペルシアを圧倒し、滅亡させた。
カーディシーヤ、ニハーヴァンド
31
イスラームは𓏸𓏸の戦いでシリアを獲得し、641-2年に𓏸𓏸等𓏸𓏸地域を掌握した。
ヤルムーク、アレクサンドリア、エジプト
32
神のために行う聖戦を𓏸𓏸という。
ジハード
33
太陰暦は1年が𓏸𓏸日である。
354
34
7世紀半ばには制服が一段落したため、戦士に報酬を支給したが、下級兵士は不満を感じ、急進分子がウスマーンを暗殺した。ムハンマドの従弟である𓏸𓏸が4代カリフに。これにシリア総督の𓏸𓏸が反旗し、和解に向けて話し合うことになった。アリーの妥協的な姿勢により、アリーは急進派に暗殺された。
ムアーウィア、ウマイヤ
35
661年から730年、𓏸𓏸を首都とする𓏸𓏸朝がたち、𓏸𓏸派と𓏸𓏸派が形成された。前者はアリーの覚派という意味であり、後者はそれに属さない人々である。
ダマスクス、ウマイヤ、シーア、スンナ
36
ウマイヤ朝はイベリア半島において、711年に𓏸𓏸を滅亡させたが、𓏸𓏸で敗北した。
西ゴート王国、トゥール・ポワティエ間の戦い
37
ムハンマドの言行についての伝承を𓏸𓏸という。ウマイヤ朝ではこれが学問の基礎となった。
ハディース
38
非アラブ人改宗者を𓏸𓏸とよぶ。
マワーリー
39
ウマイヤ朝が批判された要因のひとつとして、𓏸𓏸がある。ウマイヤ朝ではマワーリーはアラブ人より税が高く、有権者もアラブ人が多かった。
アラブ人第一主義
40
マワーリー、シーア派、地方のアラブ人からの不満が募る中、ムハンマドのおじの1人の系統をひく𓏸𓏸がカリフの正統後継者だと主張し、前者の勢力が集い軍事衝突に発展した。
アッバース家
41
ウマイヤ朝は倒れ、𓏸𓏸朝が成立。750年、𓏸𓏸が新カリフに就任。政権の安定のため、𓏸𓏸に貢献したイラン地域のアラブ人とシーア派を制圧した。人種を問わず、ムスリムの土地所有者には地租𓏸𓏸のみ徴収した。
アッバース、アブー・アルアッバース、アッバース革命、ハラージュ
42
アッバース朝第2代カリフ𓏸𓏸により帝都𓏸𓏸が建設された。ほかにも、𓏸𓏸が整備され、情報伝達網が強化された。
マンスール、バグダード、駅伝制
43
アッバース朝の最盛期を気づいたのは第5代目カリフ、𓏸𓏸である。
ハールーン・アルラシード
44
イスラームの社会が複雑化したため、イスラーム法の整備が懸案となった。イスラーム法は𓏸𓏸、𓏸𓏸、𓏸𓏸、𓏸𓏸によって作られ、8世紀から9世紀半ば、スンナ派に4つの𓏸𓏸が登場した。アッバース朝はこの4法学派を統一せず、個々のムスリムの属する法学派で判定が下された。
コーラン、スンナ、イジュマー、キヤース、法学派
45
8世紀末以降、イスラームの学問が活発化し、𓏸𓏸と外来の学問が研究された。9世紀以降、𓏸𓏸においてギリシア語文献の翻訳作業が行われた。また、唐王朝との𓏸𓏸によって𓏸𓏸が伝播された。
アラブの学問、知恵の館、タラス河畔の戦い、製紙法
46
政治、日常がイスラームを基本として作り上げられたため、支配下のムスリムが増えた。𓏸𓏸はトルコ系の人々で、奴隷として購入されイスラームの教えを施され、軍人として育てられる。
マムルーク
47
756年から1031年、𓏸𓏸半島に𓏸𓏸が成立した。これはアッバース朝がイラクを制圧する中、ウマイヤ家の青年、𓏸𓏸が同半島に逃げのび、混乱していた𓏸𓏸で支持者を集め、アッバース朝に服さない独立政権の樹立を宣言したものである。
イベリア、後ウマイヤ朝、アブド・アッラフマーン、アンダルス
48
アラビア語で米は𓏸𓏸、砂糖は𓏸𓏸とよぶ。
ルッズ、スッカル
49
1031年に後ウマイヤ朝は宮廷の混乱によって消滅し、アンダルスは分裂状態となった。しかしベルベル人の𓏸𓏸が勢力を拡大し、アンダルスを含めた統一的なイスラーム政権が復活した。ただ、キリスト教徒との戦いが落ち着くと同王朝は王朝の部族間同士の結び付きの低下が原因となり、𓏸𓏸に崩壊させられた。以後マリーン朝などイスラーム政権が交代したが、𓏸𓏸ではキリスト教徒が支配権を取り戻していた。
ムラービト朝、ムワッヒド朝、イベリア半島
50
11から12世紀のヨーロッパは𓏸𓏸においてイスラームの学術的成果を吸収した。これを𓏸𓏸といい、これの最大の成果は𓏸𓏸の𓏸𓏸である。
イベリア半島、12世紀ルネサンス、トマス・アクィナス、神学大全
51
809年、ハールーン・アルラシードが病死し、アッバース朝の影響力は低下。ホラーサーン地域にカリフへの服従を拒否する王朝や、マーワラーアンナフルでイラン系イスラム改宗者が𓏸𓏸を樹立。この王朝は後にホラーサーン地域も掌握した。
サーマーン朝
52
このような独立王朝が出現したことでアッバース朝の収入は減少した。 イラン系シーア派の𓏸𓏸は946年から𓏸𓏸の職に命じられ、カリフから王国統治を任された。
ブワイフ、大アミール
53
ブワイフ王朝では、𓏸𓏸を採用した。これは各地の軍人に対してその土地の徴税権を付与する制度である。
イクター制
54
𓏸𓏸がイラン東部二シャープールで成立した。中央アジアアラル海東岸を原住地とするトルコ系𓏸𓏸族の王朝である。同部族はスンナ派であり、中央アジアに到来する𓏸𓏸やイスラーム𓏸𓏸らとの接触を通じて𓏸𓏸化した。
セルジューク朝、セルジューク、ムスリム商人、神秘主義者、イスラーム
55
セルジューク朝は西進を進め、アッバース朝カリフに認められてバグダードに入場した。君主のトゥグリル・ベグは𓏸𓏸の称号を得た。
スルタン
56
セルジューク朝は、第3代スルタンの頃までが最盛期で、有能な宰相𓏸𓏸の手腕もあり、イクター制の維持に成功。しかし第3代スルタンと同宰相が没したことにより統一が失われた。
ニザーム・アルムルク
57
10世紀初頭、シーア派はベルベル人に支持者を求め、第4代正統カリフ、アリーの系譜を称するものをカリフに推薦。𓏸𓏸の誕生。 同王朝は西はモロッコ、東はエジプト、ヒジャーズ地方まで掌握し、𓏸𓏸を建設した。
ファーティマ朝、カイロ
58
セルジューク朝とファーティマ朝はそれぞれスンナ派とシーア派を信奉していたので対立が絶えなかった。シリア・パレスチナ、ヒジャーズ地方を奪い合う中、11世紀に𓏸𓏸が到来した。
十字軍
59
𓏸𓏸とは、ヨーロッパのキリスト教勢力による聖地奪還運動である。𓏸𓏸による𓏸𓏸の圧迫に対抗するため同帝国が𓏸𓏸に支援を要請したことによる。
十字軍、セルジューク朝、ビザンツ帝国、ローマ教皇
60
1099にエルサレムに入った十字軍は数万のムスリムを殺害し、𓏸𓏸という西欧式の国家を建設。当時シリア・パレスチナ地域は宗派のことなる𓏸𓏸と𓏸𓏸2つのイスラム王朝が鎬を削っていた。さらに𓏸𓏸は内部勢力により不安定だったため、キリスト教徒を対処できず、𓏸𓏸はキリスト教会に転用された。
エルサレム王国、セルジューク朝、ファーティマ朝、セルジューク朝、岩のドーム
61
地方政権の𓏸𓏸初代君主𓏸𓏸(ルーツは𓏸𓏸系𓏸𓏸)は1144年、十字軍国家の1つを崩壊させ、𓏸𓏸をキリスト教から奪還した。
ザンギー朝、ザンギー、トルコ、マムルーク、シリア
62
まず、𓏸𓏸の将軍である𓏸𓏸(𓏸𓏸の象徴)がファーティマ朝への援軍としてエジプトに入るが、実権を握り独立してしまう(𓏸𓏸。同王朝は𓏸𓏸)。ザンギー朝シリア地域を奪取し力を蓄えてエルサレム攻撃。サラディン軍は1187年にエルサレムを奪還。しかしそれにより𓏸𓏸を誘発。サラディンはこれをもちこたえ、キリスト教徒は𓏸𓏸を得ればエルサレムを巡礼できるという講和条約を結んだ。
ザンギー朝、サラディン、異教徒打倒、アイユーブ朝、スンナ派、第3回十字軍、通行証
63
12・13世紀のエジプト地域は豊かで、エジプトの農業生産は𓏸𓏸の戦争遂行の基盤であった。また、𓏸𓏸の活躍があった。海の交易路がペルシア湾経由から紅海経由になったことで𓏸𓏸の𓏸𓏸を経由していた。ここで香辛料、木材、絹織物、陶磁器を買いつけていた。
アイユーブ朝、カーリミー商人、イエメン、アデン
64
13世紀半ば、キリスト教を敬うフランス王𓏸𓏸(𓏸𓏸)が𓏸𓏸を指揮し、エジプトへ向かうが、マムルーク軍団が活躍したことでアイユーブ朝は制圧に成功。この失敗から前者はイスラーム挟撃のために𓏸𓏸へ使節𓏸𓏸を派遣した。
ルイ9世、聖王ルイ、第6回十字軍、モンゴル帝国、ルブルク
65
第6回十字軍の最中アイユーブ朝のスルタンが死去していた。次のスルタンはマムルーク軍の𓏸𓏸と折り合いが悪かったため、マムルーク軍はクーデタを起こし、次期スルタンを暗殺。マムルーク軍の𓏸𓏸、𓏸𓏸がスルタンに就任。しかし前者は外来のトルコ人なため、反乱が起こった。→「𓏸𓏸」を重視
有力者、司令官、アイバク、政権の正統性
66
モンゴル帝国の𓏸𓏸は西方へ中央アジアまで遠征。第2代皇帝𓏸𓏸のとき、東イランの𓏸𓏸を制圧、第4代𓏸𓏸期には第4代皇帝の弟𓏸𓏸の軍が𓏸𓏸年遂にバグダードに達し、𓏸𓏸の𓏸𓏸を殺害。同朝終焉。さらにモンゴル軍は西へ進み、シリアで𓏸𓏸と激突(𓏸𓏸)。しかし𓏸𓏸の活躍によりイスラームが勝利。これによりモンゴル帝国の進行はメソポタミア地域で停止。
チンギス、オゴタイ、ホラズム・シャー朝、モンケ、フレグ、1258、アッバース朝、カリフ、マムルーク朝、アイン・ジャールートの戦い、バイバルス
67
𓏸𓏸は、現トルクメニスタンからメソポタミア地域にかけて𓏸𓏸を建設。第7代𓏸𓏸の時に𓏸𓏸化
フレグ、イル・ハン国、カザン・ハン、イスラーム
68
第5代スルタンの𓏸𓏸は、1261年アッバース朝カリフの血縁者と称するものがダマスクスへ逃げ延びてきたという情報をしり、これをカリフに任命。スルタンはカリフの代理だとして、正統性をアピールした。
バイバルス
69
𓏸𓏸は、中央アジア南部から現アフガニスタン、パキスタンにかけてのトルコ系イスラーム王朝。この王朝は実力をのばした内部勢力により𓏸𓏸となった。
ガズナ朝、ゴール朝
70
𓏸𓏸は印パ地域で𓏸𓏸を促進。首都を𓏸𓏸におき、4つめの王朝まで王家、支配層は𓏸𓏸系であった。1206年にゴール朝に変わる新たな国家𓏸𓏸を建設したのは、𓏸𓏸の𓏸𓏸である。
デリー・スルタン朝、イスラーム化、デリー、トルコ、奴隷王朝、マムルーク軍人、アイバク
71
ゲルマン人のヨーロッパ進出において、特に𓏸𓏸では、イタリア半島に𓏸𓏸というゲルマン系国家が存在。国王は𓏸𓏸で、𓏸𓏸に改宗したことで旧ローマ帝国住民たちの指示とローマ教会の助力を獲得。
西ゴート王国、フランク王国、クローヴィス、カトリック
72
カトリックとは普遍、世界と言った意味で、第1使徒の𓏸𓏸の後継者が司るローマ教会が主導する宗派。
ペトロ
73
732年、宮宰の𓏸𓏸がトゥール・ボワティエ間の戦いでイスラーム勢力を撃退。この家系が力をつけ、𓏸𓏸が751年にフランク王に即位(教皇に𓏸𓏸された上での王朝交代)→彼はランゴバルド王国に遠征し𓏸𓏸を奪って教皇に寄進→ローマ教領に
カール・マルテル、ピピン、承認、ラヴェンナ地方
74
𓏸𓏸(位 768~814)フランク王国最盛期を現出。→800年、教皇レオ3世により、𓏸𓏸の戴冠を受ける。形式的とはいえ西ローマ帝国復活→!!:フランク王国と教皇の両者にとってWin-Win・・・𓏸𓏸と𓏸𓏸の二元体制
カール大帝、ローマ皇帝、世俗君主、政界指導者
75
カール大帝後のフランク王国では、9cの前半、カールの孫の代で継承に関しての紛争や後継者の死没などが重なった。𓏸𓏸、𓏸𓏸(843・870)を経て西フランク王国、イタリア王国、東フランク王国へ分裂→現在の𓏸𓏸、𓏸𓏸、𓏸𓏸の原形に
ヴェルダン条約、メルセン条約、フランス、イタリア、ドイツ
76
𓏸𓏸とは、ゲルマン人のうち北方の𓏸𓏸等に居住する集団。略奪、襲撃、交易など多様な活動に従事しながら各地へ進出。(別名𓏸𓏸) 一南西へ・・・ブリテン島に散発的に侵入し、当地のグルマン人国家と衝突。西フランクにも攻撃。911年、ロロを首領とする/ルマン人勢力が西フランク王への臣従を条件に領地を取得した。これにより𓏸𓏸が成立。→ここからプリテン島へ進出。1066年、当地のゲルマン人の指導者を倒す。同公国ギヨーム公が𓏸𓏸(イングランド王)として即位。 →𓏸𓏸という。 𓏸𓏸イングランドの樹立(1066~1154)。 ・※英語にフランス系単語が混入する一因に。またイングランド王がフランス領を持つ原因。 ノルマン人襲撃を上手く対処したパリ伯が力をつけ、フランス王に(𓏸𓏸)
ノルマン人、スカンディナヴィア半島、ヴァイキング、ノルマンディー公国、ウィリアム一世、ノルマン・コンクエスト、ノルマン朝、カペー朝
77
ノルマン人は南西の次に南東(𓏸𓏸、𓏸𓏸地域)に進行した。当地へ到来したノルマン人首領の𓏸𓏸は𓏸𓏸を建国。一族がその後𓏸𓏸も樹立。スラブ人と混ざり、今の𓏸𓏸、𓏸𓏸人(東スラブ人)の原型になった。12世紀初めにはシチリア島及び南イタリアまで進出し、𓏸𓏸を建国。
ロシア、ウクライナ、リューリク、ノヴゴロド国、キエフ公国、ロシア、ウクライナ、シチリア王国
78
𓏸𓏸とは、現在の𓏸𓏸地域に定着していたアジア系の騎馬遊牧民族である。東のフランク人勢力圏を攻撃するが、955年ドイツ王𓏸𓏸によって制圧され、同王はローマ教皇から戴冠。ローマ皇帝へ→𓏸𓏸
マジャール人、ハンガリー、オットー一世、神聖ローマ帝国