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世界史 東亜宋元
43問 • 11ヶ月前
  • 一吹
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  • 1

    キタイについて、空欄補充。 10世紀に中国東北のモンゴル高原東部で活動した契丹人のこと。キタイの複数形がキタンであり、その中国語表記が契丹である。彼らは(①)系の遊牧民で①高原東部で遊牧生活を送り、唐や突厥の支配を受けていたが10世紀に急速に有力となり、916年に(②)が契丹国を建設した(後に(③)と称する)。契丹国は東では(④)を滅ぼし、五代十国の争乱に乗じて中国本土の(⑤)を獲得するなど、①高原から中国東北部、華北に及ぶ大帝国を建設した。13世紀に中国東北部に台頭した(⑥)の金によって攻撃されて帝国は滅亡したが、その一族耶律大石は西方に大移動し、中央アジアのトルキスタン一帯に(⑦)を建国した。このようなキタイ帝国の成立と西方への大移動は、西方諸民族にも知られ、キタイという名はヨーロッパでも中国を意味するようになった。現在、英語で、China と並んで「中国」を意味する Cathay の語源はこのキタイであるとされている。

    ①モンゴル ②耶律阿保機 ③遼 ④渤海 ⑤燕雲十六州 ⑥女真 ⑦カラ=キタイ、西遼

  • 2

    ★キタイがしいた二重統治体制とはどんなものか、簡単に説明しなさい。

    北方民族に対しては従来からの部族制によって支配したが、華北で支配下にある漢民族に対しては中国的な州県制で統治するもの。

  • 3

    漢字から独自の文字を作り、仏典の翻訳などをすすめた西夏を建てた民族は、何系で何という名前か。

    チベット系タングート

  • 4

    宋について空欄補充。 960年に後周の部将であった(①)が宋を建国、唐以来の節度使(藩鎮)勢力を抑え、皇帝の独裁制を樹立することに成功し、五代十国の争乱を終わらせ、第2代の(②)は979年に中国の統一を回復した。都は(③)。これは東京(とうけい)③府と言われ、これ以外に西京(せいけい)河南府、南京(なんけい)応天府、北京(ほくけい)大名府の4都が置かれていた((④)制)。  宋は五代十国の争乱を終わらせた、漢民族による中国統一王朝であるが、華北の一部の(⑤)はなお遼(契丹)に支配され、その圧迫を常に受けていた。また西方の西夏、後には遼に代わって台頭した女真の建てた(⑥)の圧迫を常に受け、その防衛のための軍事費は常に宋王朝の財政を圧迫した。

    ①趙匡胤 ②太宗 ③開封 ④四都 ⑤燕雲十六州 ⑥金

  • 5

    ★宋の官僚制度の特微について、以下の語句を用いて 60 字以内で説明しなさい。 指定語句〔門下省 禁軍〕

    貴族の拠点だった門下省を廃止して中書省と宰相の権限を強め、節度使を廃止して地方軍を皇帝直属の禁軍として再編成した。(57字)

  • 6

    ★宋がとった文治主義がどんなものか、簡単に説明しなさい。 指定語句〔親衛軍、科挙〕

    皇帝の親衛軍を強化し、科挙によって選ばれた文人官僚に政治を任せるもの。

  • 7

    ★宋の統治方法の特徴とその弊害を120字以内で説明しなさい。

    州県の長官を中央から派遣して中央には枢密院を置き、管理の登用試験に皇帝が試問を行う殿試を設けて徹底した中央集権による文治体制を敷いた。その一方で軍事力の低下を招き、周辺諸民族からの圧迫には常に消極的な姿勢を取らざるを得なかった。(114字)

  • 8

    ★遼の中国支配の特微について、北魏と比較しつつ、以下の語句を用いて 60 字以内で説明しなさい。 指定語句〔漢化 燕雲十六州 部族制〕

    北魏は漢化政策で漢人と同化した。遼は、遊牧民を部族制で、燕雲十六州の漢人を州県制で管理する二重統治体制をとった。(56字)

  • 9

    ★キタイと宋が結んだ和議の内容を、その名前をあげて簡単に説明せよ。

    澶淵の盟は、宋が毎年多額の銀や絹をキタイに贈る和議だった。

  • 10

    王安石について、空欄補充。 1070年に始まった王安石の改革は、青苗法・募役法・方田均税法・保甲法など一連の「(①)」を打ち出した。その眼目は、宋王朝の財政を安定させ、(②)を図ることにあった。新法の施行とともに各地で水利工事が行われ、農業生産は増加し、租税収入も増収となって財政は安定に向かい、軍備も増強された。  しかし、新法の強行は守旧派の官僚や大地主の利益を損なうことになったので、王安石に反対する勢力も大きく、彼らは王安石の①党に対して(③)党といわれ、その中心にはやはり有能な官僚だった(④)がいた。また、文人としても知られた(⑤)と弟の蘇轍も有力な③党であった。(⑥)の在位中の新法党が有声であった時期には、これら③党の官吏は、地方に飛ばされるか、辞任するか、あるいは些細な罪名で獄につながれるかのいずれかであった。

    ①新法 ②富国強兵 ③旧法 ④司馬光 ⑤蘇軾 ⑥神宗

  • 11

    王安石が実施した新法5つの名前をあげよ。また、その目的ごとに5つを複数のグループに大別せよ。

    ①青苗法 ②募役法 ③均輸法 ④市易法 ⑤保甲法 ⑥保馬法  など ①②農民の生産力を高めるとともに政府の財源確保をねらった。 ③④大商人の利益を抑え、政府が流通に直接関与することで物資流通の促進と価格安定をはかった。 ⑤⑥民兵を充実させることで軍事費の削減をはかった。

  • 12

    1127年、金軍が宋(北宋)の都開封(汴京)を占領し、宋の上皇(前皇帝)徽宗・皇帝欽宗などを捕らえ、拉致したことをなんというか。

    靖康の変

  • 13

    高宗について、空欄補充。 1127年、(①)を逃れた徽宗の子で、欽宗の弟であった高宗は、金軍の追跡を逃れながら、1138年に臨安(杭州)に入り、宋を再建した。これが(②)である。  南宋では金に対する和平派の(③)と主戦論の(④)が対立したが、高宗は和平論をとり、1142年、(⑤)といわれる和平を成立させ、(⑥)を境に境界を定め、多額の貢納と、金の皇帝に臣礼をとることを約束した。金に捕らえられていた兄欽宗はまだ生きていたので、解放されることになったが、前皇帝が帰国すると現皇帝である②にとっては不都合なので、その帰国は認めなかった。金の都から生還したのは母の皇后だけであった。

    ①靖康の変 ②南宋 ③秦檜 ④岳飛 ⑤紹興の和 ⑥淮河

  • 14

    ★宋・遼の外交関係の推移について、以下の語句を用いて 90 字以内で説明しなさい。 指定語句〔澶淵の盟 靖康の変 淮河〕

    澶淵の盟で宋への歳幣を強いられた北宋は、金と問題を抱え、裏を西来させた。しかし金への歳幣を拒否。金は靖康の変で北宋を滅ぼし、南宋と講和して淮河以北を獲得し、歳幣支払いを約束させた。(90字)

  • 15

    長江下流の蘇湖(江浙ともいう)地方が実れば中国全土の食料は足りる」という意味で、宋から南宋時代にかけての長江下流域の生産力と経済力が中国の中心となったことを意味する流行語を答えよ。

    「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」

  • 16

    南宋について空欄補充。 和平を実現した後、南宋は江南の開発に努め、囲田・圩田などで耕地を広げ、(①)の伝来によって農業生産力が高まり、米の他にも茶(中国)・甘蔗(サトウキビ)などの農作物の栽培が広がった。このような農業生産力の向上は、他産業の成長を促し、(②)の陶磁器をはじめ、絹織物、製紙業、木版印刷などが盛んになった。紙幣として(③)も流通するようになり、遠隔地との取引も盛んになった。陶磁器、織物、書籍などは金、朝鮮、日本などに輸出され、また東南アジア、インドをへて西アジア、アフリカ、地中海諸国とも交易が行われた。その都(④)は世界的な大都市として発展した。日本の平清盛、鎌倉幕府も南宋との日宋貿易を行い、宋銭を輸入し、多くの僧侶が宋に学んで帰国後に鎌倉仏教の創始に加わった。また南宋で発達した朱子学は、日本でも受容され、(⑤)と言われた。

    ①占城稲 ②景徳鎮 ③会子 ④臨安 ⑤宋学

  • 17

    空欄補充。 宋代に、地方の有力地主で大土地所有者を(①)と言った。唐の後半から、没落した貴族層に代わって成長した地主層が五代から宋にかけてさらに有力となったものを、税制上①と言った。彼らは私有地を小作人の(②)に耕作させ地代をとっていた。彼らの中から科挙の合格者で官吏となるものも多く、官吏となって徭役の免除になった戸を(③)という。また知識人としては文化の担い手となり、(④)と言われた。

    ①形勢戸 ②佃戸 ③官戸 ④士大夫

  • 18

    科挙で行われる第一段階試験から第三段階試験までの名称をそれぞれ答えよ。

    州試、省試、殿試

  • 19

    ★唐と宋の科挙制の違いについて、以下の語句を用いて60字以内で説明しなさい。 指定語句〔吏部 殿試〕

    唐は、科挙後に吏部が行う官吏採用面接で貴族を優遇した。宋はこれを廃し、皇帝臨席の殿試を創設して皇帝への忠誠心を高めた。(59字)

  • 20

    宋代の手工業者の同業者組合、商人の同業者組合の名称を漢字1文字でそれぞれ答えよ。

    作、行

  • 21

    ★唐宋変革期の都市と商業について、以下の語句を用いて 90 字以内で説明しなさい。 指定語句〔草市 飛銭〕

    唐代、城外に生まれた民間市場・草市が、宋代には商業都市の城市に発達し、商人組合の行、同組合の作が生まれた。銅銭とともに手形の飛銭が流通し、宋代には紙幣の交子・会子が生れた。(88字)

  • 22

    中国で海外との貿易を管理し、徴税するためにおかれた役所で、唐の中ごろに広州に始まり、宋代に常置・拡充されて主要海港におかれた。元、明代まで続き、海外貿易が盛んになるに伴い、重要な官庁となった。この名称は何か。

    市舶司

  • 23

    空欄補充。  宋文化の主な担い手は(①)であるが、(②)や雑劇のような庶民文化が興った。また仏教では官僚層には(③)が支持されたのに対して、民間には(④)が広がり、木版印刷による出版など文化の受容は庶民層にまでひろがった。また華北の金の支配領域では儒教・仏教を取り入れた道教の新しい動きとして(⑤)が成立し、それに対して宋の支配領域では正一教が道教の正統を主張した。

    ①士大夫 ②詞 ③禅宗 ④浄土宗 ⑤全真教

  • 24

    ①全真教を起こしたのは誰か。 ②2004 東大 韓国の海印寺には、13世紀に作られ、ユネスコの世界文化遺産に登録された8万枚をこえる版木がある。この版木による印刷物の名称を記せ。 ③1270年、朝鮮の高麗における元の支配に対して起こった抵抗の名は何か。 ④高麗の都はどこか。 ⑤1279年、元軍が南宋の残党を広州の厓山で全滅させた戦いの名前は何か。

    ①王重陽 ②高麗版大蔵経 ③三別抄の乱 ④開城 ⑤厓山の戦い

  • 25

    2004 センター追試 次の文の空欄(ア)(イ)に入る語句をあげ、さらに〔 〕部に関する下の問に答えよ。  1487年、足利義政は大蔵経を入手するため使者を朝鮮に送った。朝鮮国王への書簡には「わが国にはいまだ大蔵経の版木がなく、大蔵経を入手しようとするときは必ず貴国に求め、これまで少なからず頂いております。」とある。大蔵経とは、仏教聖典を集成したもので、中国では〔木版印刷〕の普及した( ア )の時代に刊行されている。同じころ、朝鮮半島を支配した( イ )でも、11世紀には大蔵経の版木が作られた。この版木は13世紀にモンゴルの侵攻によって焼失したが、まもなく再彫され、義政の書簡にあるように、それを用いて印刷された大蔵経がしばしば日本にもたらされた。8万枚を超える大蔵経の版木は現在も韓国に残っている。〈下図参照〉 問 〔 〕部に関連して、東アジアの印刷・出版文化について述べた次の文a~cの正誤を判定しなさい。  a 唐では、世界最古とされる金属活字が作られた。  b 朝鮮王朝(李朝)では、銅活字による印刷が行われた。  c 清末に刊行された雑誌『新青年』は、辛亥革命に大きな役割を果たした。

    空欄 ア 宋(北宋)   イ 高麗  問 a 誤   b 正   c 誤

  • 26

    空欄補充。 「桃鳩図」は、宮廷画家による写実性が特徴である(①)画に分類され、「風流天子」と呼ばれた(②)によって描かれた。

    ①院体 ②徽宗

  • 27

    空欄補充。 「墨竹図」は、水墨あるいは淡い色彩で描かれた(①)画に分類され、旧法党の中心人物でもあった(②)によって描かれた。

    ①文人 ②蘇軾

  • 28

    周敦頤について空欄補充。 後に大きな影響を与える宋学の創始者の一人として重要。儒教のテキストとしては『易経』と『中庸』をもとにし、老荘以来の(①)の思想も取り入れ、また仏教の理念との統合も試みた。主著の『(②)』で陰陽五行説を展開させた(③)論を提示した。これは単なる形式論ではなく、儒教の理念を③観、哲学に高める役割を果たした。その思想は、南宋の(④)がさらに深化させ、宋学として体系化される。

    ①道家 ②太極図説 ③宇宙 ④朱子

  • 29

    大モンゴル国について、空欄補充。 モンゴル高原東部の遊牧部族であったモンゴル部にあらわれた(①)が、1206年に建設した大帝国。①の時にモンゴル高原から中国北部、中央アジア、西トルキスタンにおよぶ大帝国を建設した。その形態は、チンギスの一族が支配する遊牧民や都市民、農民を含む国家としての(②)が複合した、連合体であった。かれら自身はこの国家を「イェケ・モンゴル・②(大モンゴル国)」と呼んだ。また、①は軍事組織として(③)制を編成、それがモンゴル帝国の行政単位ともなった。

    ①チンギス=カン ②ウルス ③千戸

  • 30

    大モンゴル国について、空欄補充。 第2代の(①)は1234年、(②)を滅ぼし、都を(③)に定め、(④)をヨーロッパ遠征に派遣した。④の軍はロシアの地に侵入して1240年に(⑤)国を滅ぼし、さらに部隊をポーランドやハンガリーにまで進め、キリスト教世界に大きな脅威を与え、1241年には(⑥)の戦いでポーランド・ドイツ連合軍を撃破した。しかし、①が死去したため④は帰途につき、モンゴルの支配はロシアまでにとどまった。  第4代の(⑦)の時には、弟のフビライをチベット、さらに雲南方面に派遣して(⑧)を滅ぼした。

    ①オゴタイ ②金 ③カラコルム ④バトゥ ⑤キエフ公 ⑥ワールシュタット ⑦モンケ ⑧大理

  • 31

    フラグの西アジア攻略について、空欄補充。 フラグはまず1256年には北部イランの暗殺教団を制圧、さらに南下してイラクに入り、1258年にバクダードを占領し、(①)朝を滅ぼした。こうしてイラン高原からメソポタミアを制圧し、敵対する勢力はエジプトのマムルーク朝の勢力の及ぶシリアだけとなった。  しかし、1259年にモンケが急死したため、フラグはシリア計略は部将(②)にまかせモンゴル帰還をめざしたが、フビライの大ハーン選出の知らせを受けてイラン北方にとどまり、1260年、(③)国を建国した。  ②は第6回十字軍とも協力して1260年、ダマスクスを占領。さらにエジプトのマムルーク朝遠征に向かったが、同年、(④)の戦いで、クトゥズとバイバルスの率いるマムルーク朝軍に敗れ後退、モンゴル帝国の西アジア攻略は終わり、イランからメソポタミアにかけては③国が支配することとなった。

    ①アッバース ②キトブカ ③イル=ハン ④アインジャールート

  • 32

    空欄補充。  フビライは1271年にモンゴルと中国にまたがる領土を、中国風の王朝名として(①)と称することとし、翌年には中都を(②)と改めた(現在の北京)。モンゴル帝国全体では、元は正式には大元ウルスと言われ、その他のウルス(ハン国)を統合する権力が与えられた。この時点ではその支配はもと金の支配した華北に限られ、華南は南宋が支配していた。また都は②(現北京)であったが、これは冬の間の都であり、夏の間は内モンゴルの上都を都とする(③)制であった

    ①元 ②大都 ③両京

  • 33

    ★2007 東大 中国では古くから、天体観測に基づく暦が作られていたが、支配者の権威を示したり、日食など天文事象の予告の正確さを期するため、暦法が改変されていった。元~清の中国における暦法の変遷について、120字以内で説明しなさい。

    元ではイスラーム天文学に刺激された郭守敬が精密な天体観測を行って授時暦を作成し、明の大統暦に受け継がれた。明末には宣教師アダム=シャールと徐光啓が西洋暦法を取り入れて崇禎暦書を作成し、清朝がそれをもとに時憲暦を施行し、辛亥革命で現行の暦に転換した。(124字)

  • 34

    その社会は、駅伝制((①カタカナで))や大運河の整備などで交通網が発達し、前代の南宋の商工業を継承して経済が盛んであり、紙幣として(②)が流通した。農村では郷村のなかに漢人の大土地所有者が成長してきた。文化面ではモンゴル文化の独自性は薄れ、宮廷では(③)仏教が保護され、公文書には(④)文字が使われた。科挙は中断されたが、儒教や漢文学は特に衰えを見せず、民衆には(⑤)や通俗的な文学が流行した。この時代の文化の大きな特徴は、モンゴル帝国の成立という政治的統一を受けて盛んになった東西交流の結果、キリスト教やイスラームの文化が流入したことである。

    ①ジャムチ ②交鈔 ③チベット ④パスパ ⑤元曲

  • 35

    各問に答えよ。 ①元の統治において、経済面で力を振るった西アジア出身者の総称は何か。 ②元の時代、契丹人や女真人の総称は何か。 ③元の時代、南宋にあたる地域にいた人の総称は何か。 ④元のフビライ=ハンに仕えた官僚であり、科学者であった。大都(現在の北京)に通じる運河の通恵河を開通させる業績を上げ、さらに、厳密な観測により完成させた新暦法は。フビライから授時暦という名前を授かった。この人物は誰か。 ⑤元代の戯曲である元曲の代表的作品。王実甫の作。張君瑞と崔鶯鶯の男女二人を主人公とした恋愛物語で、心理描写に富み、また元代の社会を知る史料となっている。この元曲の名前は何か。 ⑥元末の長編戯曲である元曲の作品。高明(則誠)の作。伝奇的な南曲(江南で盛んになった元曲)の代表的な作品。後漢の豪族生活を舞台にし、元代の地主(士大夫)階級を批判的に描いている。この元曲は何か。

    ①色目人 ②漢人 ③南人 ④郭守敬 ⑤西廂記 ⑥琵琶記

  • 36

    ★ 元朝の統治体制の特徴について、以下の語句を用いて 90 字以内で説明しなさい。 指定語句〔色目人、漢人、科挙〕

    チンギスが征服した西域諸民族の色目人を高級官僚に、オゴタイが征服した金の住民・漢人を下級官僚に採用した。フビライが征服した南宋の住民・南人は官吏に採用せず、科挙も中止した。(86字)

  • 37

    インノケンティウス4世の命令で1246年にカラコルムに着いた使節の代表は誰か。

    プラノ=カルピニ

  • 38

    1254年、ルイ9世の命令でカラコルムに至った使節の代表は誰か。

    ルブルック

  • 39

    1289年にニコラウス4世に面会し、モンゴル皇帝への手紙を携えて1294年に大都へ到達した修道士は誰か。

    モンテ=コルヴィノ

  • 40

    ★モンゴル帝国と西欧諸国との交渉について、以下の語句を用いて、90 字以内で説明しなさい。 指定語句〔ワールシュタット、プラノ=カルピニ、マムルーク朝〕

    ワールシュタットの戦いのあと、教皇使節プラノ=カルピニ、仏王ルイ 9 世の使節ルブルックがカラコルムを訪問。仏王の十字軍に続き、フラグのモンゴル軍がマムルーク朝エジプトに侵攻した。(88字)

  • 41

    マルコ=ポーロの「世界の記述」で、日本は黄金や真珠に満ちた島として紹介されているが、その島の名前をカタカナで何というか。

    ジパング

  • 42

    正誤判断。 ①15世紀初期に朝鮮半島で作られた世界地図には、アフリカ大陸南端の喜望峰が描かれている。 ②全真教は、王重陽により東北地方で隆盛した。 ③13世紀半ばにモンゴルへ派遣されたプラノ=カルピニやルブルックは、13世紀後半にそれぞれ帰国し、中国本土の情報を持ち帰った。 ④1275年、マルコ=ポーロはカラコルムに到着した。 ⑤イル=ハン国の宰相であったラシード=アッディーンはペルシア文字で「集史」を記した。

    ①正 ②誤 ③正 ④誤 ⑤正

  • 43

    正誤判断。 ①景徳鎮では西方伝来の顔料を利用した陶磁器が生まれ、「絹の道」を利用して大量に輸出された。 ②元では、交鈔の濫発や専売の強化が、経済混乱や国内での反乱に繋がった。 ③オスマン帝国のバヤジット1世は、コソヴォの戦いでティムールに敗れ、捕虜になった。 ④ティムール朝4代君主のウルグ=ベクは、都サマルカンド近郊のブハラに天文台を設置した。

    ①誤 ②正 ③誤 ④誤

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    世界史 頻出小論述②(中国朝鮮①)

    一吹 · 32問 · 6ヶ月前

    世界史 頻出小論述②(中国朝鮮①)

    世界史 頻出小論述②(中国朝鮮①)

    32問 • 6ヶ月前
    一吹

    問題一覧

  • 1

    キタイについて、空欄補充。 10世紀に中国東北のモンゴル高原東部で活動した契丹人のこと。キタイの複数形がキタンであり、その中国語表記が契丹である。彼らは(①)系の遊牧民で①高原東部で遊牧生活を送り、唐や突厥の支配を受けていたが10世紀に急速に有力となり、916年に(②)が契丹国を建設した(後に(③)と称する)。契丹国は東では(④)を滅ぼし、五代十国の争乱に乗じて中国本土の(⑤)を獲得するなど、①高原から中国東北部、華北に及ぶ大帝国を建設した。13世紀に中国東北部に台頭した(⑥)の金によって攻撃されて帝国は滅亡したが、その一族耶律大石は西方に大移動し、中央アジアのトルキスタン一帯に(⑦)を建国した。このようなキタイ帝国の成立と西方への大移動は、西方諸民族にも知られ、キタイという名はヨーロッパでも中国を意味するようになった。現在、英語で、China と並んで「中国」を意味する Cathay の語源はこのキタイであるとされている。

    ①モンゴル ②耶律阿保機 ③遼 ④渤海 ⑤燕雲十六州 ⑥女真 ⑦カラ=キタイ、西遼

  • 2

    ★キタイがしいた二重統治体制とはどんなものか、簡単に説明しなさい。

    北方民族に対しては従来からの部族制によって支配したが、華北で支配下にある漢民族に対しては中国的な州県制で統治するもの。

  • 3

    漢字から独自の文字を作り、仏典の翻訳などをすすめた西夏を建てた民族は、何系で何という名前か。

    チベット系タングート

  • 4

    宋について空欄補充。 960年に後周の部将であった(①)が宋を建国、唐以来の節度使(藩鎮)勢力を抑え、皇帝の独裁制を樹立することに成功し、五代十国の争乱を終わらせ、第2代の(②)は979年に中国の統一を回復した。都は(③)。これは東京(とうけい)③府と言われ、これ以外に西京(せいけい)河南府、南京(なんけい)応天府、北京(ほくけい)大名府の4都が置かれていた((④)制)。  宋は五代十国の争乱を終わらせた、漢民族による中国統一王朝であるが、華北の一部の(⑤)はなお遼(契丹)に支配され、その圧迫を常に受けていた。また西方の西夏、後には遼に代わって台頭した女真の建てた(⑥)の圧迫を常に受け、その防衛のための軍事費は常に宋王朝の財政を圧迫した。

    ①趙匡胤 ②太宗 ③開封 ④四都 ⑤燕雲十六州 ⑥金

  • 5

    ★宋の官僚制度の特微について、以下の語句を用いて 60 字以内で説明しなさい。 指定語句〔門下省 禁軍〕

    貴族の拠点だった門下省を廃止して中書省と宰相の権限を強め、節度使を廃止して地方軍を皇帝直属の禁軍として再編成した。(57字)

  • 6

    ★宋がとった文治主義がどんなものか、簡単に説明しなさい。 指定語句〔親衛軍、科挙〕

    皇帝の親衛軍を強化し、科挙によって選ばれた文人官僚に政治を任せるもの。

  • 7

    ★宋の統治方法の特徴とその弊害を120字以内で説明しなさい。

    州県の長官を中央から派遣して中央には枢密院を置き、管理の登用試験に皇帝が試問を行う殿試を設けて徹底した中央集権による文治体制を敷いた。その一方で軍事力の低下を招き、周辺諸民族からの圧迫には常に消極的な姿勢を取らざるを得なかった。(114字)

  • 8

    ★遼の中国支配の特微について、北魏と比較しつつ、以下の語句を用いて 60 字以内で説明しなさい。 指定語句〔漢化 燕雲十六州 部族制〕

    北魏は漢化政策で漢人と同化した。遼は、遊牧民を部族制で、燕雲十六州の漢人を州県制で管理する二重統治体制をとった。(56字)

  • 9

    ★キタイと宋が結んだ和議の内容を、その名前をあげて簡単に説明せよ。

    澶淵の盟は、宋が毎年多額の銀や絹をキタイに贈る和議だった。

  • 10

    王安石について、空欄補充。 1070年に始まった王安石の改革は、青苗法・募役法・方田均税法・保甲法など一連の「(①)」を打ち出した。その眼目は、宋王朝の財政を安定させ、(②)を図ることにあった。新法の施行とともに各地で水利工事が行われ、農業生産は増加し、租税収入も増収となって財政は安定に向かい、軍備も増強された。  しかし、新法の強行は守旧派の官僚や大地主の利益を損なうことになったので、王安石に反対する勢力も大きく、彼らは王安石の①党に対して(③)党といわれ、その中心にはやはり有能な官僚だった(④)がいた。また、文人としても知られた(⑤)と弟の蘇轍も有力な③党であった。(⑥)の在位中の新法党が有声であった時期には、これら③党の官吏は、地方に飛ばされるか、辞任するか、あるいは些細な罪名で獄につながれるかのいずれかであった。

    ①新法 ②富国強兵 ③旧法 ④司馬光 ⑤蘇軾 ⑥神宗

  • 11

    王安石が実施した新法5つの名前をあげよ。また、その目的ごとに5つを複数のグループに大別せよ。

    ①青苗法 ②募役法 ③均輸法 ④市易法 ⑤保甲法 ⑥保馬法  など ①②農民の生産力を高めるとともに政府の財源確保をねらった。 ③④大商人の利益を抑え、政府が流通に直接関与することで物資流通の促進と価格安定をはかった。 ⑤⑥民兵を充実させることで軍事費の削減をはかった。

  • 12

    1127年、金軍が宋(北宋)の都開封(汴京)を占領し、宋の上皇(前皇帝)徽宗・皇帝欽宗などを捕らえ、拉致したことをなんというか。

    靖康の変

  • 13

    高宗について、空欄補充。 1127年、(①)を逃れた徽宗の子で、欽宗の弟であった高宗は、金軍の追跡を逃れながら、1138年に臨安(杭州)に入り、宋を再建した。これが(②)である。  南宋では金に対する和平派の(③)と主戦論の(④)が対立したが、高宗は和平論をとり、1142年、(⑤)といわれる和平を成立させ、(⑥)を境に境界を定め、多額の貢納と、金の皇帝に臣礼をとることを約束した。金に捕らえられていた兄欽宗はまだ生きていたので、解放されることになったが、前皇帝が帰国すると現皇帝である②にとっては不都合なので、その帰国は認めなかった。金の都から生還したのは母の皇后だけであった。

    ①靖康の変 ②南宋 ③秦檜 ④岳飛 ⑤紹興の和 ⑥淮河

  • 14

    ★宋・遼の外交関係の推移について、以下の語句を用いて 90 字以内で説明しなさい。 指定語句〔澶淵の盟 靖康の変 淮河〕

    澶淵の盟で宋への歳幣を強いられた北宋は、金と問題を抱え、裏を西来させた。しかし金への歳幣を拒否。金は靖康の変で北宋を滅ぼし、南宋と講和して淮河以北を獲得し、歳幣支払いを約束させた。(90字)

  • 15

    長江下流の蘇湖(江浙ともいう)地方が実れば中国全土の食料は足りる」という意味で、宋から南宋時代にかけての長江下流域の生産力と経済力が中国の中心となったことを意味する流行語を答えよ。

    「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」

  • 16

    南宋について空欄補充。 和平を実現した後、南宋は江南の開発に努め、囲田・圩田などで耕地を広げ、(①)の伝来によって農業生産力が高まり、米の他にも茶(中国)・甘蔗(サトウキビ)などの農作物の栽培が広がった。このような農業生産力の向上は、他産業の成長を促し、(②)の陶磁器をはじめ、絹織物、製紙業、木版印刷などが盛んになった。紙幣として(③)も流通するようになり、遠隔地との取引も盛んになった。陶磁器、織物、書籍などは金、朝鮮、日本などに輸出され、また東南アジア、インドをへて西アジア、アフリカ、地中海諸国とも交易が行われた。その都(④)は世界的な大都市として発展した。日本の平清盛、鎌倉幕府も南宋との日宋貿易を行い、宋銭を輸入し、多くの僧侶が宋に学んで帰国後に鎌倉仏教の創始に加わった。また南宋で発達した朱子学は、日本でも受容され、(⑤)と言われた。

    ①占城稲 ②景徳鎮 ③会子 ④臨安 ⑤宋学

  • 17

    空欄補充。 宋代に、地方の有力地主で大土地所有者を(①)と言った。唐の後半から、没落した貴族層に代わって成長した地主層が五代から宋にかけてさらに有力となったものを、税制上①と言った。彼らは私有地を小作人の(②)に耕作させ地代をとっていた。彼らの中から科挙の合格者で官吏となるものも多く、官吏となって徭役の免除になった戸を(③)という。また知識人としては文化の担い手となり、(④)と言われた。

    ①形勢戸 ②佃戸 ③官戸 ④士大夫

  • 18

    科挙で行われる第一段階試験から第三段階試験までの名称をそれぞれ答えよ。

    州試、省試、殿試

  • 19

    ★唐と宋の科挙制の違いについて、以下の語句を用いて60字以内で説明しなさい。 指定語句〔吏部 殿試〕

    唐は、科挙後に吏部が行う官吏採用面接で貴族を優遇した。宋はこれを廃し、皇帝臨席の殿試を創設して皇帝への忠誠心を高めた。(59字)

  • 20

    宋代の手工業者の同業者組合、商人の同業者組合の名称を漢字1文字でそれぞれ答えよ。

    作、行

  • 21

    ★唐宋変革期の都市と商業について、以下の語句を用いて 90 字以内で説明しなさい。 指定語句〔草市 飛銭〕

    唐代、城外に生まれた民間市場・草市が、宋代には商業都市の城市に発達し、商人組合の行、同組合の作が生まれた。銅銭とともに手形の飛銭が流通し、宋代には紙幣の交子・会子が生れた。(88字)

  • 22

    中国で海外との貿易を管理し、徴税するためにおかれた役所で、唐の中ごろに広州に始まり、宋代に常置・拡充されて主要海港におかれた。元、明代まで続き、海外貿易が盛んになるに伴い、重要な官庁となった。この名称は何か。

    市舶司

  • 23

    空欄補充。  宋文化の主な担い手は(①)であるが、(②)や雑劇のような庶民文化が興った。また仏教では官僚層には(③)が支持されたのに対して、民間には(④)が広がり、木版印刷による出版など文化の受容は庶民層にまでひろがった。また華北の金の支配領域では儒教・仏教を取り入れた道教の新しい動きとして(⑤)が成立し、それに対して宋の支配領域では正一教が道教の正統を主張した。

    ①士大夫 ②詞 ③禅宗 ④浄土宗 ⑤全真教

  • 24

    ①全真教を起こしたのは誰か。 ②2004 東大 韓国の海印寺には、13世紀に作られ、ユネスコの世界文化遺産に登録された8万枚をこえる版木がある。この版木による印刷物の名称を記せ。 ③1270年、朝鮮の高麗における元の支配に対して起こった抵抗の名は何か。 ④高麗の都はどこか。 ⑤1279年、元軍が南宋の残党を広州の厓山で全滅させた戦いの名前は何か。

    ①王重陽 ②高麗版大蔵経 ③三別抄の乱 ④開城 ⑤厓山の戦い

  • 25

    2004 センター追試 次の文の空欄(ア)(イ)に入る語句をあげ、さらに〔 〕部に関する下の問に答えよ。  1487年、足利義政は大蔵経を入手するため使者を朝鮮に送った。朝鮮国王への書簡には「わが国にはいまだ大蔵経の版木がなく、大蔵経を入手しようとするときは必ず貴国に求め、これまで少なからず頂いております。」とある。大蔵経とは、仏教聖典を集成したもので、中国では〔木版印刷〕の普及した( ア )の時代に刊行されている。同じころ、朝鮮半島を支配した( イ )でも、11世紀には大蔵経の版木が作られた。この版木は13世紀にモンゴルの侵攻によって焼失したが、まもなく再彫され、義政の書簡にあるように、それを用いて印刷された大蔵経がしばしば日本にもたらされた。8万枚を超える大蔵経の版木は現在も韓国に残っている。〈下図参照〉 問 〔 〕部に関連して、東アジアの印刷・出版文化について述べた次の文a~cの正誤を判定しなさい。  a 唐では、世界最古とされる金属活字が作られた。  b 朝鮮王朝(李朝)では、銅活字による印刷が行われた。  c 清末に刊行された雑誌『新青年』は、辛亥革命に大きな役割を果たした。

    空欄 ア 宋(北宋)   イ 高麗  問 a 誤   b 正   c 誤

  • 26

    空欄補充。 「桃鳩図」は、宮廷画家による写実性が特徴である(①)画に分類され、「風流天子」と呼ばれた(②)によって描かれた。

    ①院体 ②徽宗

  • 27

    空欄補充。 「墨竹図」は、水墨あるいは淡い色彩で描かれた(①)画に分類され、旧法党の中心人物でもあった(②)によって描かれた。

    ①文人 ②蘇軾

  • 28

    周敦頤について空欄補充。 後に大きな影響を与える宋学の創始者の一人として重要。儒教のテキストとしては『易経』と『中庸』をもとにし、老荘以来の(①)の思想も取り入れ、また仏教の理念との統合も試みた。主著の『(②)』で陰陽五行説を展開させた(③)論を提示した。これは単なる形式論ではなく、儒教の理念を③観、哲学に高める役割を果たした。その思想は、南宋の(④)がさらに深化させ、宋学として体系化される。

    ①道家 ②太極図説 ③宇宙 ④朱子

  • 29

    大モンゴル国について、空欄補充。 モンゴル高原東部の遊牧部族であったモンゴル部にあらわれた(①)が、1206年に建設した大帝国。①の時にモンゴル高原から中国北部、中央アジア、西トルキスタンにおよぶ大帝国を建設した。その形態は、チンギスの一族が支配する遊牧民や都市民、農民を含む国家としての(②)が複合した、連合体であった。かれら自身はこの国家を「イェケ・モンゴル・②(大モンゴル国)」と呼んだ。また、①は軍事組織として(③)制を編成、それがモンゴル帝国の行政単位ともなった。

    ①チンギス=カン ②ウルス ③千戸

  • 30

    大モンゴル国について、空欄補充。 第2代の(①)は1234年、(②)を滅ぼし、都を(③)に定め、(④)をヨーロッパ遠征に派遣した。④の軍はロシアの地に侵入して1240年に(⑤)国を滅ぼし、さらに部隊をポーランドやハンガリーにまで進め、キリスト教世界に大きな脅威を与え、1241年には(⑥)の戦いでポーランド・ドイツ連合軍を撃破した。しかし、①が死去したため④は帰途につき、モンゴルの支配はロシアまでにとどまった。  第4代の(⑦)の時には、弟のフビライをチベット、さらに雲南方面に派遣して(⑧)を滅ぼした。

    ①オゴタイ ②金 ③カラコルム ④バトゥ ⑤キエフ公 ⑥ワールシュタット ⑦モンケ ⑧大理

  • 31

    フラグの西アジア攻略について、空欄補充。 フラグはまず1256年には北部イランの暗殺教団を制圧、さらに南下してイラクに入り、1258年にバクダードを占領し、(①)朝を滅ぼした。こうしてイラン高原からメソポタミアを制圧し、敵対する勢力はエジプトのマムルーク朝の勢力の及ぶシリアだけとなった。  しかし、1259年にモンケが急死したため、フラグはシリア計略は部将(②)にまかせモンゴル帰還をめざしたが、フビライの大ハーン選出の知らせを受けてイラン北方にとどまり、1260年、(③)国を建国した。  ②は第6回十字軍とも協力して1260年、ダマスクスを占領。さらにエジプトのマムルーク朝遠征に向かったが、同年、(④)の戦いで、クトゥズとバイバルスの率いるマムルーク朝軍に敗れ後退、モンゴル帝国の西アジア攻略は終わり、イランからメソポタミアにかけては③国が支配することとなった。

    ①アッバース ②キトブカ ③イル=ハン ④アインジャールート

  • 32

    空欄補充。  フビライは1271年にモンゴルと中国にまたがる領土を、中国風の王朝名として(①)と称することとし、翌年には中都を(②)と改めた(現在の北京)。モンゴル帝国全体では、元は正式には大元ウルスと言われ、その他のウルス(ハン国)を統合する権力が与えられた。この時点ではその支配はもと金の支配した華北に限られ、華南は南宋が支配していた。また都は②(現北京)であったが、これは冬の間の都であり、夏の間は内モンゴルの上都を都とする(③)制であった

    ①元 ②大都 ③両京

  • 33

    ★2007 東大 中国では古くから、天体観測に基づく暦が作られていたが、支配者の権威を示したり、日食など天文事象の予告の正確さを期するため、暦法が改変されていった。元~清の中国における暦法の変遷について、120字以内で説明しなさい。

    元ではイスラーム天文学に刺激された郭守敬が精密な天体観測を行って授時暦を作成し、明の大統暦に受け継がれた。明末には宣教師アダム=シャールと徐光啓が西洋暦法を取り入れて崇禎暦書を作成し、清朝がそれをもとに時憲暦を施行し、辛亥革命で現行の暦に転換した。(124字)

  • 34

    その社会は、駅伝制((①カタカナで))や大運河の整備などで交通網が発達し、前代の南宋の商工業を継承して経済が盛んであり、紙幣として(②)が流通した。農村では郷村のなかに漢人の大土地所有者が成長してきた。文化面ではモンゴル文化の独自性は薄れ、宮廷では(③)仏教が保護され、公文書には(④)文字が使われた。科挙は中断されたが、儒教や漢文学は特に衰えを見せず、民衆には(⑤)や通俗的な文学が流行した。この時代の文化の大きな特徴は、モンゴル帝国の成立という政治的統一を受けて盛んになった東西交流の結果、キリスト教やイスラームの文化が流入したことである。

    ①ジャムチ ②交鈔 ③チベット ④パスパ ⑤元曲

  • 35

    各問に答えよ。 ①元の統治において、経済面で力を振るった西アジア出身者の総称は何か。 ②元の時代、契丹人や女真人の総称は何か。 ③元の時代、南宋にあたる地域にいた人の総称は何か。 ④元のフビライ=ハンに仕えた官僚であり、科学者であった。大都(現在の北京)に通じる運河の通恵河を開通させる業績を上げ、さらに、厳密な観測により完成させた新暦法は。フビライから授時暦という名前を授かった。この人物は誰か。 ⑤元代の戯曲である元曲の代表的作品。王実甫の作。張君瑞と崔鶯鶯の男女二人を主人公とした恋愛物語で、心理描写に富み、また元代の社会を知る史料となっている。この元曲の名前は何か。 ⑥元末の長編戯曲である元曲の作品。高明(則誠)の作。伝奇的な南曲(江南で盛んになった元曲)の代表的な作品。後漢の豪族生活を舞台にし、元代の地主(士大夫)階級を批判的に描いている。この元曲は何か。

    ①色目人 ②漢人 ③南人 ④郭守敬 ⑤西廂記 ⑥琵琶記

  • 36

    ★ 元朝の統治体制の特徴について、以下の語句を用いて 90 字以内で説明しなさい。 指定語句〔色目人、漢人、科挙〕

    チンギスが征服した西域諸民族の色目人を高級官僚に、オゴタイが征服した金の住民・漢人を下級官僚に採用した。フビライが征服した南宋の住民・南人は官吏に採用せず、科挙も中止した。(86字)

  • 37

    インノケンティウス4世の命令で1246年にカラコルムに着いた使節の代表は誰か。

    プラノ=カルピニ

  • 38

    1254年、ルイ9世の命令でカラコルムに至った使節の代表は誰か。

    ルブルック

  • 39

    1289年にニコラウス4世に面会し、モンゴル皇帝への手紙を携えて1294年に大都へ到達した修道士は誰か。

    モンテ=コルヴィノ

  • 40

    ★モンゴル帝国と西欧諸国との交渉について、以下の語句を用いて、90 字以内で説明しなさい。 指定語句〔ワールシュタット、プラノ=カルピニ、マムルーク朝〕

    ワールシュタットの戦いのあと、教皇使節プラノ=カルピニ、仏王ルイ 9 世の使節ルブルックがカラコルムを訪問。仏王の十字軍に続き、フラグのモンゴル軍がマムルーク朝エジプトに侵攻した。(88字)

  • 41

    マルコ=ポーロの「世界の記述」で、日本は黄金や真珠に満ちた島として紹介されているが、その島の名前をカタカナで何というか。

    ジパング

  • 42

    正誤判断。 ①15世紀初期に朝鮮半島で作られた世界地図には、アフリカ大陸南端の喜望峰が描かれている。 ②全真教は、王重陽により東北地方で隆盛した。 ③13世紀半ばにモンゴルへ派遣されたプラノ=カルピニやルブルックは、13世紀後半にそれぞれ帰国し、中国本土の情報を持ち帰った。 ④1275年、マルコ=ポーロはカラコルムに到着した。 ⑤イル=ハン国の宰相であったラシード=アッディーンはペルシア文字で「集史」を記した。

    ①正 ②誤 ③正 ④誤 ⑤正

  • 43

    正誤判断。 ①景徳鎮では西方伝来の顔料を利用した陶磁器が生まれ、「絹の道」を利用して大量に輸出された。 ②元では、交鈔の濫発や専売の強化が、経済混乱や国内での反乱に繋がった。 ③オスマン帝国のバヤジット1世は、コソヴォの戦いでティムールに敗れ、捕虜になった。 ④ティムール朝4代君主のウルグ=ベクは、都サマルカンド近郊のブハラに天文台を設置した。

    ①誤 ②正 ③誤 ④誤