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世界史 中世欧
52問 • 11ヶ月前
  • 一吹
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  • 1

    叙任権闘争について、空所補充。 ローマ=カトリック教会の(①)組織上の大司教・司教・修道院長など高位聖職者の任免権は、オットー大帝以来の(②)政策に基づき、世俗の権力である神聖ローマ皇帝が有し、下位聖職者任免権もイギリス、フランスなどの国王や領主ににぎられていた。それに対して、10世紀に(③)修道院から始まった修道院運動が強まるなかで、俗権による支配が教会堕落の原因であると自覚したカトリックの改革派のローマ教皇レオ9世や(④)7世によって、11~12世紀にかけて聖職者叙任権を教皇以下教会の手に奪回する運動が進められた。それが叙任権闘争といわれる歴史的な動きであり、教皇と皇帝の政治的な対立にまで深刻化し、中世ヨーロッパの動きに重大な影響を与えた。

    ①階層制 ②帝国教会 ③クリュニー ④グレゴリウス

  • 2

    空所補充。 この闘争は1075年、グレゴリウス7世が神聖ローマ皇帝以下の世俗権力の聖職者叙任権を否定する決定を出してから本格化し、それに反発した皇帝(①)4世を破門としたことから起こった1077年の「(②)」事件で頂点に達した。このときは皇帝が教皇に謝罪し、聖職叙任権の否定を認めた上で破門を解かれたことによって教皇の優位が明確となった。

    ①ハインリヒ ②カノッサの屈辱

  • 3

    空所補充。 その後、ハインリヒ4世はドイツ諸侯をまとめて反撃に転じ、グレゴリウス7世はローマを追われるなど、しばらく両陣営の対立が続いたが、皇帝位がドイツ諸侯の内紛のため弱体化したこともあって、次第に教皇側が優勢となり、1095年、(①)宗教会議を召集した(②)2世が、聖職者叙任権を改めて否定し、同時に十字軍運動を提唱、派遣された十字軍が当初の勝利によって聖地回復を実現したことなどから教皇の権威が高まり、1122年、(③)協約が成立、皇帝が教皇の聖職叙任権を認める妥協が成立して叙任権闘争は終わりを告げることになる。

    ①クレルモン ②ウルバヌス ③ヴォルムス

  • 4

    空所補充。  ローマ教皇には1088年にクリュニー修道院出身の(①)2世が即位、(②)年に十字軍運動を提唱、西ヨーロッパキリスト教世界の主導権を握ることとなった。  1122年、神聖ローマ帝国皇帝(③)5世((③)4世の子)と、改革派のローマ教皇カリクストゥス2世との間で(④)協約が成立して、叙任権闘争は終わりを告げ、ローマ教皇の権威が確立、13世紀の(⑤)3世のとき、その最盛期を迎えることとなる。一方、神聖ローマ帝国ではハインリヒ5世に継嗣がなく、(⑥)朝は断絶、代わって(⑦)朝が成立する。

    ①ウルバヌス ②1095 ③ハインリヒ ④ヴォルムス ⑤インノケンティウス ⑥ザーリアー ⑦シュタウフェン

  • 5

    インノケンティウス3世について、空所補充。  ローマ=カトリック教会の全盛期のローマ教皇。在位1198~1216年。ドイツ国王の選出に干渉し、ローマ教皇による採決権を主張、意のままにならないドイツ王(神聖ローマ皇帝オットー4世)を破門にしてしまった。また、王妃離婚問題からフランスの(①)2世を、さらにカンタベリー大司教叙任問題でイギリス王(②)をそれぞれ破門し、屈服させた。ローマ教皇のもとで、英独仏の君主が破門されたり、意のままに操られる事態となり、教皇権は最高潮に達したと言える。このような事態を示す言葉が、「(③)」という彼自身の言葉である。

    ①フィリップ ②ジョン ③教皇は太陽、皇帝は月

  • 6

    十字軍運動について、空所補充。 1095年にウルバヌス2世により提唱され、(①)の治世まで7回にわたり行われた。第1回十字軍運動では、1099年に(②)を占領して②王国をはじめとする十字軍国家をたてた。しかし、1187年にはアイユーブ朝の(③人名)によりイェルサレムは奪われた。第4回では、(④)の要求に迫られ、聖地回復の目標を捨て、商業上のライバルの(⑤)を占領し、(⑥)帝国がたてられた。結局、聖地回復は果たされなかった。

    ①ルイ9世 ②イェルサレム ③サラディン ④ヴェネチア商人 ⑤コンスタンティノープル ⑥ラテン

  • 7

    ★幾度に及ぶ十字軍遠征の失敗がもたらした西欧社会構造の変化を、50字以内で説明しなさい。

    教皇の権威は低下、封建社会は没落した一方で、国王権力は強まり都市と商人の影響力が増大した。(45字)

  • 8

    遠隔地貿易について、空所補充。 遠隔地貿易は、(①)商業圏で発達した。ヴェネチアやジェノヴァ、ピサなど、イタリアの(②漢字2文字)には、ムスリム商人を通じた東方貿易によって、(③)産の小麦や砂糖、南アジア、東南アジア産の(④漢字3文字)、(⑤)産の絹織物、陶磁器など奢侈品がもたらされた。また、ミラノ、フィレンツェなどの内陸都市も、毛織物産業や金融業で栄えた。

    ①地中海 ②港子 ③エジプト ④香辛料 ⑤中国

  • 9

    北ヨーロッパ商業圏について、空所補充。 リューベック、ブレーメン、ハンブルクなど、(①国名)の諸都市では、海産物や穀物、木材を取引し、ガン、ブリュージュなどの(②)地方の都市は、毛織物産業で栄えた。イギリスでは、(③都市名)が北海貿易の中心で、②へ羊毛を輸出した。また、内陸の通商路にも都市が発展し、フランス東部の(④)地方は定期市で栄えた。

    ①ドイツ ②フランドル ③ロンドン ④シャンパーニュ

  • 10

    ★地中海を代表する遠隔地交易を代表する地中海貿易について60字以内で述べよ。

    十字軍遠征を機にヴェネチアなど北イタリアの港市が銀や毛織物を輸出、エジプトシリアから更新料や絹を輸入した。(60字)

  • 11

    ★中世ドイツやイタリアでは、互いに異なる形態をとった自治都市が出現した。その経緯と形態を3行以内で記述せよ。

    前者では、有力都市が神聖ローマ皇帝から特許状を得て皇帝に直属することで、事実上の自治が実現する帝国都市が成立した。一方後者では、富裕化した有力市民層を中心に、教皇の支持を受けながら封建領主から独立を武力で勝ち取り、都市国家へ発展した。(117字)

  • 12

    空所補充。 12~13世紀、神聖ローマ皇帝は、(①)政策と言われるように、イタリアに統治権を及ぼす事に努めた。それは、皇帝の庇護下にある封建領主の実権が、(②簡潔に)によって次々と奪われ、周辺農村の支配権も失っていった事に対する反撃でもあった。そのような皇帝側の攻勢に対して、北イタリアのコムーネ(自治都市)は都市同盟である(③)同盟を結成して対抗した。皇帝(④)は皇帝大権を復活させるためにも北イタリア遠征を行ったが、1176年、③同盟軍との(⑤)の戦いに敗れ、1183年、(⑥和議の名前)で都市の農村支配権を認めた。これによって事実上、都市(コムーネ)が皇帝大権を行使する「国家」となった。

    ①イタリア ②都市の住民自治 ③ロンバルディア ④フリードリヒ1世 ⑤レニャーノ ⑥コンスタンツの和議

  • 13

    リューベックを盟主とする北ドイツ諸都市の都市同盟は何か。

    ハンザ同盟

  • 14

    ★北イタリアに結成された都市同盟について、60字以内で述べよ。

    ミラノを中心にロンバルディア同盟を結成。皇帝フリードリヒ1世のイタリア政策に対抗、教皇派の中心として自治を認めさせた。(59字)

  • 15

     ギルドについて、空所補充。 11世紀ごろから西ヨーロッパで形成されてきた都市において、その中核となって定住した商人たちが結成した相互扶助のための団体から始まる。初めは都市の有力な商人が中心となってつくられた「(①)ギルド」が、都市の自治を獲得する上で大きな働きをし、次第に彼らは都市貴族として支配層を形成する。  13世紀以降は、手工業者が職種別に「(②)ギルド」を結成し営業権を独占するようになった。②ギルドの手工業者は、都市の支配権をめぐって①ギルドと対立し、(③)を展開する。以後、ギルドは中世都市の中核として続くが、中世末期には生産力の高まりから資本主義的な生産が始まると、自由な生産と流通の障害となるギルドは次第に衰退し、市民革命期に廃止される。  なお、中世ヨーロッパの教会付属の教育機関から発展した(④)も、教授と学生の一種のギルドとして形成された。

    ①商人 ②同職 ③ツンフト闘争 ④大学

  • 16

    ★同職ギルドについて、その制度や影響を60字程度で説明しなさい。

    親方を中心に徒弟・職人を組織、ギルド外の競争を排し排他的独占を行った。技術と品質は維持されたが、自由な経済発展は阻害された。(61字)

  • 17

    ドイツのアウクスブルクを拠点とした豪商で、銀鉱山を支配、金融業も営み、15世紀にハプスブルク家を支えたが、16世紀の大航海時代で始まった商業革命のによって17世紀に衰退した富豪は誰か。

    フッガー家

  • 18

    イタリアのフィレンツェの大富豪で、共和政で強い発言力を持ち、15世紀にはルネサンスの芸術・学問の保護者となった。共和政が衰えた後はトスカナ大公としてヨーロッパの貴族の一員となる。この富豪は誰か。

    メディチ家

  • 19

    正誤判断。 ビザンツ帝国では、7世紀以降、軍役奉仕と引き換えに貴族に領地を与えるテマ制が行われた。

    誤。

  • 20

    正誤判断。 テマ制では、軍管区において、農民に土地を与える代わりに兵役義務を課す屯田兵制度が行われていた。

  • 21

    ドームとモザイク壁画を特色とする、ある様式の教会の内部である。この教会の名前と、その様式名を答えなさい。

    サン=ヴィターレ聖堂 ビザンツ様式

  • 22

    東スラヴ人について、空所補充。  ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ(白ロシア)人。9世紀にスウェーデン系のノルマン人(彼らはルーシと言われた)が移住してきて東スラヴ人と同化して(①)国、ついで(②)国を作った。これがロシアの起源となった。ロシア人など東スラヴ人の多くは、(③)教を受容した。ビザンツ帝国滅亡後はロシア教会が③教の正統を継承したとしている。

    ①ノヴゴロド国 ②キエフ公 ③ギリシア正

  • 23

    南スラヴ人について、空所補充。 (①カタカナ4文字)人・クロアティア人・スロヴェニア人・マケドニア人・モンテネグロ人・ブルガール人(本来はトルコ系だが南スラヴ人に同化)。このうち、ブルガール人=ブルガリア人以外の南スラヴ人は近代に連邦国家であるユーゴスラヴィア(「南スラヴ人の国」の意味)をつくったが、現在は分裂して個別の国家を作っている。南スラヴ人の中の①人は、初めはビザンツ帝国に服属し、(②)教の信者となったが、オスマン帝国の支配、がバルカン半島に及んだことによって、(③)教徒(ムスリム)となった人々も多い。また、クロアティア・スロヴェニアはフランク王国に接していたので、(④)教会を受け入れ、カトリック信者が多い。

    ①セルビア ②ギリシア正 ③イスラーム ④ローマ=カトリック

  • 24

    西スラヴ人について、空所補充。  (①カタカナ5文字)人・(②カタカナ4文字)人・スロヴァキア・ソルブ人(ドイツ東部の少数民族)・カシューブ人(ポーランドのグダンスク西方に住む少数民族)。西スラヴ人の居住地には、12世紀ごろから西方のドイツ人による東方植民が行われ、ポーランドやチェコにはドイツの領土的野心の対象となっていく。西スラヴ人は西ヨーロッパの(③)教会圏と接していたので、その影響を受け、(④)信者となる人が多かった。

    ①ポーランド ②チェック ③ローマ=カトリック ④カトリック

  • 25

    ロシアの起源について、空所補充。 2次民族移動と言われるノルマン人の移動の一部として、9世紀の中ごろ、(①)に率いられたノルマン系の(②)と言われた人々(彼らはヴァリャーグとも言われた)が、バルト海沿岸から内陸に入り、スラヴ人の居住地域に入って行き、862年に(③)国を建設した。ここからロシアが始まるとされており、②から「ロシア」の名称が生まれたという。

    ①リューリク ②ルーシ ③ノヴゴロド

  • 26

    空所補充。 キエフ公国は、(①)以来の王を戴いていたので、①朝ともいうが、そのもとでスラヴ化が進んだ。その最盛期の988年、キエフ大公(②)1世は(③)教に改宗し、ビザンツ帝国の制度や文化を取り入れて中世国家としての形態を整えた。  しかし、その社会は(④)が進み、大土地所有者となった諸侯が地方に分立する状態が続いた。キエフ公国はその後、南の黒海北岸に進出したトルコ系ポロヴェツ人の侵攻を受けたり、一族の内紛が起こってキエフの東方のウラディミルを都としたウラディミル大公国が分離するなど、弱体化した。そのような状況の下で13世紀の(⑤)軍の侵攻を受け、1240年に滅亡することとなった。

    ①リューリク ②ウラディミル ③ギリシア正 ④農民の農奴化 ⑤モンゴル

  • 27

    空所補充。 モスクワ大公国はロシアのいくつかの公国を併合し、(①)の時にはノヴゴロドなどを併合してロシアの統一を進めた。1472年、①は滅亡したビザンツ帝国の皇帝の姪と結婚して、その国章である「双頭の鷲」を受けつぎ、後継国家としての権威を得た。これによって都の(②)は「第三のローマ」と言われることになる。また1480年、(③)国への貢納を拒否した①は、ハン軍を戦わずして退却させて「(④)」からのロシアを解放を実現した。次のヴァシーリー3世は、プスコフ、スモレンスク、リャザンなどの公国を併合、ほぼロシア国家の統一を達成し、周辺のカザン=ハン国、クリミア=ハン国、リトアニア、ポーランドなどの周辺諸国に対抗できる国力をつけた。  しかし、その戦力である騎士に与える封土が不足し、修道院の領地を没収しようとしたが、それは修道院の土地領有を否定する清廉派とそれを擁護する保守派の宗教的対立を生み、実行できなかった。また、①の法令で農奴制が強化され、農民への拘束を嫌って南部に逃れる農民が多くなり、彼らは(⑤)となって一定の力を持つようになっていった。

    ①イヴァン3世 ②モスクワ ③キプチャク=ハン ④タタールのくびき ⑤コサック

  • 28

    モスクワ大公国について空所補充 (①)は1547年に正式に(②)として戴冠式を行った。②は親衛隊を組織し、残虐な手法によって大貴族層を抑圧して恐怖政治を行い、(③)と言われた。さらに農奴制を強化して増税を強行し、軍事力を強めてカザン=ハン国・アストラハン=ハン国などの征服を成功させた。ポーランド・スウェーデンという西方からの圧力に対して、バルト海への進出を目指したが、その戦争は得るもの無く終わった。ただその晩年の1581年にイェルマークによるシベリア遠征が行われ、ロシア商人が(④)などを求めて東方進出の発端となった。

    ①イヴァン4世 ②ツァーリ ③雷帝 ④毛皮

  • 29

    正誤判断。 南スラヴ人のセルビア人は、はじめビザンツ帝国に服属し、ギリシア正教に改宗したが、12世紀末に独立し、17世紀末にはバルカン半島南部を支配する強国になった。

    誤。

  • 30

    ブルガリア帝国について、空所補充。 トルコ系のブルガール人と(①)人が同化して成立したブルガリア王国(新課程の教科書山川詳説世界史では、第1次・第2次とも「ブルガリア帝国」とされているが一般には「王国」とされることが多い)は、8世紀には(②)帝国と戦うまでに強大になった。その過程でブルガリア王国はスラヴ人の国家となったといえる。  この第1次ブルガリア王国(681年から1018年まで)は11世紀初めに②帝国に併合されて滅亡。続いて②帝国の衰退に乗じて12世紀の終わりに第2次ブルガリア王国(1187年から1396年の間)を立てるが、13世紀にはモンゴル帝国の侵入を受けて衰え、次いで14世紀末には(③)帝国の支配を受けることになる。 宗教では、(④)教を信仰した。

    ①南スラヴ ②ビザンツ ③オスマン ④ギリシア正

  • 31

    正誤判断。 クロアティア人は、フランク王国の影響でローマ=カトリックを受け入れた。

  • 32

    正誤判断。 チェック人は、10世紀にベーメン(ボヘミア)王国を統一したが、ドイツとの関係が密接で、神聖ローマ帝国に編入された。

  • 33

    正誤判断。 キエフ公国を建てたウラディミル1世は、ギリシア正教を国教とし、ビザンツ風の専制君主政を取り入れた。

  • 34

    ポーランド王国について、空所補充。 14世紀にピアスト朝(①)3世(カシミール大王)の時、ベーメン王国(チェコ)と(②)の干渉をはねのけて、官僚制、法律、地方制度の整備に努めて中央集権化をはかり、農民を保護して国力を充実させた。1364年には首都(③)に大学を創設した。①3世はポーランド史上で唯一、「大王」と言われる。

    ①カジミェシュ ②ドイツ騎士団 ③クラクフ

  • 35

    イヴァン4世が、16世紀半ばにカザン=ハン国を征服したことを記念して建立した、モスクワにある聖堂は何か。

    聖ワシーリー聖堂

  • 36

    正誤判断。 マジャール人は、黒海北岸からパンノニア平原に移動し、10世紀末にハンガリー王国を建て、ギリシア正教を受け入れた。

  • 37

    経済的に困窮した領主が、再び農民への束縛を強めようとする動きを漢字でなんと呼ぶか。

    封建反動

  • 38

    イギリスで起きたワット=タイラーの乱での思想的指導者で、「アダムが耕し、イヴが紡いだ時、誰が貴族だったか」という説教で有名な人物は誰か。

    ジョン=ボール

  • 39

    空所補充。 十字軍時代が終わり、ローマ教皇の権威は下降線を取り始めていたが、ローマ教皇(①)8世(在位1294~1303年)は、あいかわらず国王たちを自由に動かせると過信していた。フランス王(②)が、国内統一とイギリスとの戦費調達のため、国内の教会、修道院領に課税する方針を固めると、聖職者の訴えを受けた教皇はただちに②に厳重に抗議し、課税を認めないと通告した。両者の対立はエスカレートし、②は初めての(③)を開催して国内の支持を取りつけ、①8世はローマに聖職者会議を開いて教皇権の絶対を決議した。

    ①ボニファティウス ②フィリップ4世 ③三部会

  • 40

    空所補充。 1303年の(①)事件では教皇ボニファティウス8世はフランス王フィリップ4世に幽閉された上で退位を迫られて憤死し、さらに1309年からはフランス王によって教皇クレメンス5世がアヴィニヨンに移されるという「(②)」が起こり、教皇の権威の動揺は表面化した。その後アヴィニヨンの教皇はフランス王の監視下に置かれたが、ローマではその帰還を望む声がなおも続いた。  1377年に神聖ローマ帝国の皇帝カール4世はアヴィニヨンの教皇(③)のローマ帰還を支援し、実現させた。

    ①アナーニ ②教皇のバビロン捕囚 ③グレゴリウス11世

  • 41

    空所補充。 これによって教皇のバビロン捕囚は終わり、ローマ教皇がローマに戻ったが、グレゴリウス11世が急死し、後継教皇の選出に当たってフランス人の枢機卿とイタリア人の枢機卿が対立、翌1378年にフランス人枢機卿は(①地名)に独自の教皇を擁立したため、ローマと①に教皇が同時に二人存在するということになった。これを(②)(~1417年)といい、キリスト教世界は二人の最高指導者の下で聖職者も教会も二分されるという事態となった。終盤ではさらに三つに分裂する。このような教皇以下の協会の分裂はその権威を著しく低下させ、イギリスの(③)やベーメンの(④)のような先駆的な宗教改革者が現れ、教皇と教会のあり方に対する批判が始まった。

    ①アヴィニョン ②教会大分裂 ③ウィクリフ ④フス

  • 42

    コンスタンツ公会議について空所補充。 1414年11月1日から1418年まで、ドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝、兼ハンガリー王・ボヘミア王)(①)の提唱で公会議が召集された。開催地(②)はドイツ南部、スイスとの国境にある(③)湖に面した都市。会議には枢機卿33名、司教900名、学者2千人、世俗諸侯多数が参加した。

    ①ジギスムント ②コンスタンツ ③ボーデン

  • 43

    ジョン王について、空所補充。 リチャードの弟。彼はカンタベリ大司教の任命問題でローマ教皇(①)に破門され、さらにフランス王(②)と争ってフランス内の領土の多くを失い、貴族の離反を招いた。1215年、貴族たちはジョンに迫って国王の課税には貴族の同意が必要であることなどを定めた大憲章((③カタカナで))を認めさせた。

    ①インノケンティウス3世 ②フィリップ2世 ③マグナ=カルタ

  • 44

    ヘンリ3世について、空所補充。 ジョンの子で、再び大陸に出兵しようとして、(①)を無視し課税したため、貴族の反発を受ける。貴族を率いた(②)は武力でヘンリ3世を屈服させて1265年に初めて議会を開催し、国王の課税には議会の同意が必要であるという原則を作った。この諮問議会は近代の国民が選挙によって議員を選ぶ議会とは異なり、貴族・僧侶の代表と州の騎士(農村の有力な土地所有者)の代表という身分ごとの「団体」の代表者が、国王の諮問に答えるもので、「(③)」の前身となった。

    ①マグナ=カルタ ②シモン=ド=モンフォール ③模範議会

  • 45

    空所補充。 1295年のいわゆる(①)が招集され、さらに14世紀半ばには、議会は高位聖職者と大貴族を代表する(②)と、州と都市を代表する(③)とにわかれ、法律の制定や新課税には③の承認が必要になった。イギリスでは早くから(④)階層が軍事的性格を失い地方の地主である(⑤)(郷紳)となり、州を代表して都市の市民と並ぶ③の勢力となった。

    ①模範議会 ②上院 ③下院 ④騎士 ⑤ジェントリ

  • 46

    アルビジョワ十字軍について、空所補充。 1209年、フランス王国の(①)の時に始まった、南フランスのキリスト教異端派のひとつアルビジョワ派(カタリ派ともいう)を殲滅するための十字軍。ローマ教皇(②)の要請で始まり、北フランスの諸侯の多くが参加し、指揮官が(③)(イギリスで国王に反旗を翻し議会の開設に貢献した同名の人物の父親)のもとで激しい攻撃が行われた。  アルビジョワ派は20年にわたって抵抗を続けたが、(④)の時の1229年にアルビジョワ十字軍の勝利に終わった。これによってフランス国内の異端は殲滅され、南フランスまでフランス王権が拡大され、フランスの統一が進んだ。その反面、トゥルバドゥール(吟遊詩人)などの南フランスの独自の文化も失われた。

    ①フィリップ2世 ②インノケンティウス3世 ③シモン=ド=モンフォール ④ルイ9世

  • 47

    100年戦争について、空所補充。 14世紀の中ごろから15世紀中ごろまで、約百年にわたって断続的に続いたので百年戦争という。1337年、イギリス国王(①)が、フランス王位の継承権を主張して(②)朝の(③)に挑戦状を発し、両国は戦争状態となる。イギリス王のフランス遠征は1339年に始まったが、実際の戦闘は1340年に始まり、以後、断続的に約100年間続き、1453年に終結し、フランス内のイギリス王領は(④)を残して消滅した。

    ①エドワード3世 ②ヴァロワ ③フィリップ6世 ④カレー

  • 48

    100年戦争について、空所補充。 実際に戦闘が始まるのは1339年9月末、(①)は北フランスに侵入してからで、以後百年にわたり、途中中断しながら、フランスを戦場として戦争が展開される。戦争の初期には、イギリスがそのヨーマンを中核とした(②)の活躍があり陸上でフランス軍を圧倒、制海権も獲得して有利に戦いを進めた。1346年の(③)の戦いではイギリスの歩兵部隊がフランスの騎士軍を破り、戦術の転換によるイギリスの有利な戦いが明白となった。1347年はイギリス軍が(④)を占領し、長く支配することになる。また1356年のポワティエの戦いでもの活躍でイギリス軍が勝利した。

    ①エドワード3世 ②長弓隊 ③クレシー ④カレー

  • 49

    100年戦争について、空所補充。 百年戦争の後半に、1428年に攻勢をかけたイギリス軍は(①)を包囲した。フランス王(②)は①を救援することが出来ず、イギリス軍による「①の包囲」は長期化した。その危機を救ったのが一人の少女(③)だった。神の声を聞いたという③は②を鼓舞して軍を起こさせ、みずから指揮に加わり①の救出にあたり、1429年5月8日、解放に成功した。ここからフランス軍の反撃が始まり、1453年までにイギリス軍を国内から一掃、フランスの国家的統合が始まる。

    ①オルレアン ②シャルル7世 ③ジャンヌ=ダルク

  • 50

    正誤判断。 ヨーク派のヘンリが1485年に即位し(ヘンリ7世)、テューダー朝を開いた。

  • 51

    空所補充 (①)を推し進めたキリスト教国カスティリャ王国と(②)王国が1479年に合同し(③)王国が成立した。その年、②王国の王子(④)が即位し、その妻(1469年に結婚)(⑤)女王のカスティリャ王国と合同して③王国となった。「⑤と④は同権」の王として二人で統治した(③王としては⑤2世・④5世と称した)。このふたりには、1496年にローマ教皇アレクサンデル6世(スペインのボルジア家出身)から「(⑥)」の称号が贈られた

    ①レコンキスタ ②アラゴン ③スペイン ④フェルナンド ⑤イサベル ⑥カトリック両王

  • 52

    あるポルトガル国王について空所補充。 15世紀末の大航海時代、遠洋航海路の開拓を進めたポルトガル王国王(在位1481~95年)。航海王子といわれた(①)(15世紀前半)に続いて、アフリカ西岸探検を進めた。1482年には黄金海岸にエルミナ要塞を建て、(②)貿易を開始している。1488年に喜望峰に到達した(③)を派遣したのも(④)であった

    ①エンリケ ②奴隷 ③バルトロメウ=ディアス ④ジョアン2世

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    問題一覧

  • 1

    叙任権闘争について、空所補充。 ローマ=カトリック教会の(①)組織上の大司教・司教・修道院長など高位聖職者の任免権は、オットー大帝以来の(②)政策に基づき、世俗の権力である神聖ローマ皇帝が有し、下位聖職者任免権もイギリス、フランスなどの国王や領主ににぎられていた。それに対して、10世紀に(③)修道院から始まった修道院運動が強まるなかで、俗権による支配が教会堕落の原因であると自覚したカトリックの改革派のローマ教皇レオ9世や(④)7世によって、11~12世紀にかけて聖職者叙任権を教皇以下教会の手に奪回する運動が進められた。それが叙任権闘争といわれる歴史的な動きであり、教皇と皇帝の政治的な対立にまで深刻化し、中世ヨーロッパの動きに重大な影響を与えた。

    ①階層制 ②帝国教会 ③クリュニー ④グレゴリウス

  • 2

    空所補充。 この闘争は1075年、グレゴリウス7世が神聖ローマ皇帝以下の世俗権力の聖職者叙任権を否定する決定を出してから本格化し、それに反発した皇帝(①)4世を破門としたことから起こった1077年の「(②)」事件で頂点に達した。このときは皇帝が教皇に謝罪し、聖職叙任権の否定を認めた上で破門を解かれたことによって教皇の優位が明確となった。

    ①ハインリヒ ②カノッサの屈辱

  • 3

    空所補充。 その後、ハインリヒ4世はドイツ諸侯をまとめて反撃に転じ、グレゴリウス7世はローマを追われるなど、しばらく両陣営の対立が続いたが、皇帝位がドイツ諸侯の内紛のため弱体化したこともあって、次第に教皇側が優勢となり、1095年、(①)宗教会議を召集した(②)2世が、聖職者叙任権を改めて否定し、同時に十字軍運動を提唱、派遣された十字軍が当初の勝利によって聖地回復を実現したことなどから教皇の権威が高まり、1122年、(③)協約が成立、皇帝が教皇の聖職叙任権を認める妥協が成立して叙任権闘争は終わりを告げることになる。

    ①クレルモン ②ウルバヌス ③ヴォルムス

  • 4

    空所補充。  ローマ教皇には1088年にクリュニー修道院出身の(①)2世が即位、(②)年に十字軍運動を提唱、西ヨーロッパキリスト教世界の主導権を握ることとなった。  1122年、神聖ローマ帝国皇帝(③)5世((③)4世の子)と、改革派のローマ教皇カリクストゥス2世との間で(④)協約が成立して、叙任権闘争は終わりを告げ、ローマ教皇の権威が確立、13世紀の(⑤)3世のとき、その最盛期を迎えることとなる。一方、神聖ローマ帝国ではハインリヒ5世に継嗣がなく、(⑥)朝は断絶、代わって(⑦)朝が成立する。

    ①ウルバヌス ②1095 ③ハインリヒ ④ヴォルムス ⑤インノケンティウス ⑥ザーリアー ⑦シュタウフェン

  • 5

    インノケンティウス3世について、空所補充。  ローマ=カトリック教会の全盛期のローマ教皇。在位1198~1216年。ドイツ国王の選出に干渉し、ローマ教皇による採決権を主張、意のままにならないドイツ王(神聖ローマ皇帝オットー4世)を破門にしてしまった。また、王妃離婚問題からフランスの(①)2世を、さらにカンタベリー大司教叙任問題でイギリス王(②)をそれぞれ破門し、屈服させた。ローマ教皇のもとで、英独仏の君主が破門されたり、意のままに操られる事態となり、教皇権は最高潮に達したと言える。このような事態を示す言葉が、「(③)」という彼自身の言葉である。

    ①フィリップ ②ジョン ③教皇は太陽、皇帝は月

  • 6

    十字軍運動について、空所補充。 1095年にウルバヌス2世により提唱され、(①)の治世まで7回にわたり行われた。第1回十字軍運動では、1099年に(②)を占領して②王国をはじめとする十字軍国家をたてた。しかし、1187年にはアイユーブ朝の(③人名)によりイェルサレムは奪われた。第4回では、(④)の要求に迫られ、聖地回復の目標を捨て、商業上のライバルの(⑤)を占領し、(⑥)帝国がたてられた。結局、聖地回復は果たされなかった。

    ①ルイ9世 ②イェルサレム ③サラディン ④ヴェネチア商人 ⑤コンスタンティノープル ⑥ラテン

  • 7

    ★幾度に及ぶ十字軍遠征の失敗がもたらした西欧社会構造の変化を、50字以内で説明しなさい。

    教皇の権威は低下、封建社会は没落した一方で、国王権力は強まり都市と商人の影響力が増大した。(45字)

  • 8

    遠隔地貿易について、空所補充。 遠隔地貿易は、(①)商業圏で発達した。ヴェネチアやジェノヴァ、ピサなど、イタリアの(②漢字2文字)には、ムスリム商人を通じた東方貿易によって、(③)産の小麦や砂糖、南アジア、東南アジア産の(④漢字3文字)、(⑤)産の絹織物、陶磁器など奢侈品がもたらされた。また、ミラノ、フィレンツェなどの内陸都市も、毛織物産業や金融業で栄えた。

    ①地中海 ②港子 ③エジプト ④香辛料 ⑤中国

  • 9

    北ヨーロッパ商業圏について、空所補充。 リューベック、ブレーメン、ハンブルクなど、(①国名)の諸都市では、海産物や穀物、木材を取引し、ガン、ブリュージュなどの(②)地方の都市は、毛織物産業で栄えた。イギリスでは、(③都市名)が北海貿易の中心で、②へ羊毛を輸出した。また、内陸の通商路にも都市が発展し、フランス東部の(④)地方は定期市で栄えた。

    ①ドイツ ②フランドル ③ロンドン ④シャンパーニュ

  • 10

    ★地中海を代表する遠隔地交易を代表する地中海貿易について60字以内で述べよ。

    十字軍遠征を機にヴェネチアなど北イタリアの港市が銀や毛織物を輸出、エジプトシリアから更新料や絹を輸入した。(60字)

  • 11

    ★中世ドイツやイタリアでは、互いに異なる形態をとった自治都市が出現した。その経緯と形態を3行以内で記述せよ。

    前者では、有力都市が神聖ローマ皇帝から特許状を得て皇帝に直属することで、事実上の自治が実現する帝国都市が成立した。一方後者では、富裕化した有力市民層を中心に、教皇の支持を受けながら封建領主から独立を武力で勝ち取り、都市国家へ発展した。(117字)

  • 12

    空所補充。 12~13世紀、神聖ローマ皇帝は、(①)政策と言われるように、イタリアに統治権を及ぼす事に努めた。それは、皇帝の庇護下にある封建領主の実権が、(②簡潔に)によって次々と奪われ、周辺農村の支配権も失っていった事に対する反撃でもあった。そのような皇帝側の攻勢に対して、北イタリアのコムーネ(自治都市)は都市同盟である(③)同盟を結成して対抗した。皇帝(④)は皇帝大権を復活させるためにも北イタリア遠征を行ったが、1176年、③同盟軍との(⑤)の戦いに敗れ、1183年、(⑥和議の名前)で都市の農村支配権を認めた。これによって事実上、都市(コムーネ)が皇帝大権を行使する「国家」となった。

    ①イタリア ②都市の住民自治 ③ロンバルディア ④フリードリヒ1世 ⑤レニャーノ ⑥コンスタンツの和議

  • 13

    リューベックを盟主とする北ドイツ諸都市の都市同盟は何か。

    ハンザ同盟

  • 14

    ★北イタリアに結成された都市同盟について、60字以内で述べよ。

    ミラノを中心にロンバルディア同盟を結成。皇帝フリードリヒ1世のイタリア政策に対抗、教皇派の中心として自治を認めさせた。(59字)

  • 15

     ギルドについて、空所補充。 11世紀ごろから西ヨーロッパで形成されてきた都市において、その中核となって定住した商人たちが結成した相互扶助のための団体から始まる。初めは都市の有力な商人が中心となってつくられた「(①)ギルド」が、都市の自治を獲得する上で大きな働きをし、次第に彼らは都市貴族として支配層を形成する。  13世紀以降は、手工業者が職種別に「(②)ギルド」を結成し営業権を独占するようになった。②ギルドの手工業者は、都市の支配権をめぐって①ギルドと対立し、(③)を展開する。以後、ギルドは中世都市の中核として続くが、中世末期には生産力の高まりから資本主義的な生産が始まると、自由な生産と流通の障害となるギルドは次第に衰退し、市民革命期に廃止される。  なお、中世ヨーロッパの教会付属の教育機関から発展した(④)も、教授と学生の一種のギルドとして形成された。

    ①商人 ②同職 ③ツンフト闘争 ④大学

  • 16

    ★同職ギルドについて、その制度や影響を60字程度で説明しなさい。

    親方を中心に徒弟・職人を組織、ギルド外の競争を排し排他的独占を行った。技術と品質は維持されたが、自由な経済発展は阻害された。(61字)

  • 17

    ドイツのアウクスブルクを拠点とした豪商で、銀鉱山を支配、金融業も営み、15世紀にハプスブルク家を支えたが、16世紀の大航海時代で始まった商業革命のによって17世紀に衰退した富豪は誰か。

    フッガー家

  • 18

    イタリアのフィレンツェの大富豪で、共和政で強い発言力を持ち、15世紀にはルネサンスの芸術・学問の保護者となった。共和政が衰えた後はトスカナ大公としてヨーロッパの貴族の一員となる。この富豪は誰か。

    メディチ家

  • 19

    正誤判断。 ビザンツ帝国では、7世紀以降、軍役奉仕と引き換えに貴族に領地を与えるテマ制が行われた。

    誤。

  • 20

    正誤判断。 テマ制では、軍管区において、農民に土地を与える代わりに兵役義務を課す屯田兵制度が行われていた。

  • 21

    ドームとモザイク壁画を特色とする、ある様式の教会の内部である。この教会の名前と、その様式名を答えなさい。

    サン=ヴィターレ聖堂 ビザンツ様式

  • 22

    東スラヴ人について、空所補充。  ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ(白ロシア)人。9世紀にスウェーデン系のノルマン人(彼らはルーシと言われた)が移住してきて東スラヴ人と同化して(①)国、ついで(②)国を作った。これがロシアの起源となった。ロシア人など東スラヴ人の多くは、(③)教を受容した。ビザンツ帝国滅亡後はロシア教会が③教の正統を継承したとしている。

    ①ノヴゴロド国 ②キエフ公 ③ギリシア正

  • 23

    南スラヴ人について、空所補充。 (①カタカナ4文字)人・クロアティア人・スロヴェニア人・マケドニア人・モンテネグロ人・ブルガール人(本来はトルコ系だが南スラヴ人に同化)。このうち、ブルガール人=ブルガリア人以外の南スラヴ人は近代に連邦国家であるユーゴスラヴィア(「南スラヴ人の国」の意味)をつくったが、現在は分裂して個別の国家を作っている。南スラヴ人の中の①人は、初めはビザンツ帝国に服属し、(②)教の信者となったが、オスマン帝国の支配、がバルカン半島に及んだことによって、(③)教徒(ムスリム)となった人々も多い。また、クロアティア・スロヴェニアはフランク王国に接していたので、(④)教会を受け入れ、カトリック信者が多い。

    ①セルビア ②ギリシア正 ③イスラーム ④ローマ=カトリック

  • 24

    西スラヴ人について、空所補充。  (①カタカナ5文字)人・(②カタカナ4文字)人・スロヴァキア・ソルブ人(ドイツ東部の少数民族)・カシューブ人(ポーランドのグダンスク西方に住む少数民族)。西スラヴ人の居住地には、12世紀ごろから西方のドイツ人による東方植民が行われ、ポーランドやチェコにはドイツの領土的野心の対象となっていく。西スラヴ人は西ヨーロッパの(③)教会圏と接していたので、その影響を受け、(④)信者となる人が多かった。

    ①ポーランド ②チェック ③ローマ=カトリック ④カトリック

  • 25

    ロシアの起源について、空所補充。 2次民族移動と言われるノルマン人の移動の一部として、9世紀の中ごろ、(①)に率いられたノルマン系の(②)と言われた人々(彼らはヴァリャーグとも言われた)が、バルト海沿岸から内陸に入り、スラヴ人の居住地域に入って行き、862年に(③)国を建設した。ここからロシアが始まるとされており、②から「ロシア」の名称が生まれたという。

    ①リューリク ②ルーシ ③ノヴゴロド

  • 26

    空所補充。 キエフ公国は、(①)以来の王を戴いていたので、①朝ともいうが、そのもとでスラヴ化が進んだ。その最盛期の988年、キエフ大公(②)1世は(③)教に改宗し、ビザンツ帝国の制度や文化を取り入れて中世国家としての形態を整えた。  しかし、その社会は(④)が進み、大土地所有者となった諸侯が地方に分立する状態が続いた。キエフ公国はその後、南の黒海北岸に進出したトルコ系ポロヴェツ人の侵攻を受けたり、一族の内紛が起こってキエフの東方のウラディミルを都としたウラディミル大公国が分離するなど、弱体化した。そのような状況の下で13世紀の(⑤)軍の侵攻を受け、1240年に滅亡することとなった。

    ①リューリク ②ウラディミル ③ギリシア正 ④農民の農奴化 ⑤モンゴル

  • 27

    空所補充。 モスクワ大公国はロシアのいくつかの公国を併合し、(①)の時にはノヴゴロドなどを併合してロシアの統一を進めた。1472年、①は滅亡したビザンツ帝国の皇帝の姪と結婚して、その国章である「双頭の鷲」を受けつぎ、後継国家としての権威を得た。これによって都の(②)は「第三のローマ」と言われることになる。また1480年、(③)国への貢納を拒否した①は、ハン軍を戦わずして退却させて「(④)」からのロシアを解放を実現した。次のヴァシーリー3世は、プスコフ、スモレンスク、リャザンなどの公国を併合、ほぼロシア国家の統一を達成し、周辺のカザン=ハン国、クリミア=ハン国、リトアニア、ポーランドなどの周辺諸国に対抗できる国力をつけた。  しかし、その戦力である騎士に与える封土が不足し、修道院の領地を没収しようとしたが、それは修道院の土地領有を否定する清廉派とそれを擁護する保守派の宗教的対立を生み、実行できなかった。また、①の法令で農奴制が強化され、農民への拘束を嫌って南部に逃れる農民が多くなり、彼らは(⑤)となって一定の力を持つようになっていった。

    ①イヴァン3世 ②モスクワ ③キプチャク=ハン ④タタールのくびき ⑤コサック

  • 28

    モスクワ大公国について空所補充 (①)は1547年に正式に(②)として戴冠式を行った。②は親衛隊を組織し、残虐な手法によって大貴族層を抑圧して恐怖政治を行い、(③)と言われた。さらに農奴制を強化して増税を強行し、軍事力を強めてカザン=ハン国・アストラハン=ハン国などの征服を成功させた。ポーランド・スウェーデンという西方からの圧力に対して、バルト海への進出を目指したが、その戦争は得るもの無く終わった。ただその晩年の1581年にイェルマークによるシベリア遠征が行われ、ロシア商人が(④)などを求めて東方進出の発端となった。

    ①イヴァン4世 ②ツァーリ ③雷帝 ④毛皮

  • 29

    正誤判断。 南スラヴ人のセルビア人は、はじめビザンツ帝国に服属し、ギリシア正教に改宗したが、12世紀末に独立し、17世紀末にはバルカン半島南部を支配する強国になった。

    誤。

  • 30

    ブルガリア帝国について、空所補充。 トルコ系のブルガール人と(①)人が同化して成立したブルガリア王国(新課程の教科書山川詳説世界史では、第1次・第2次とも「ブルガリア帝国」とされているが一般には「王国」とされることが多い)は、8世紀には(②)帝国と戦うまでに強大になった。その過程でブルガリア王国はスラヴ人の国家となったといえる。  この第1次ブルガリア王国(681年から1018年まで)は11世紀初めに②帝国に併合されて滅亡。続いて②帝国の衰退に乗じて12世紀の終わりに第2次ブルガリア王国(1187年から1396年の間)を立てるが、13世紀にはモンゴル帝国の侵入を受けて衰え、次いで14世紀末には(③)帝国の支配を受けることになる。 宗教では、(④)教を信仰した。

    ①南スラヴ ②ビザンツ ③オスマン ④ギリシア正

  • 31

    正誤判断。 クロアティア人は、フランク王国の影響でローマ=カトリックを受け入れた。

  • 32

    正誤判断。 チェック人は、10世紀にベーメン(ボヘミア)王国を統一したが、ドイツとの関係が密接で、神聖ローマ帝国に編入された。

  • 33

    正誤判断。 キエフ公国を建てたウラディミル1世は、ギリシア正教を国教とし、ビザンツ風の専制君主政を取り入れた。

  • 34

    ポーランド王国について、空所補充。 14世紀にピアスト朝(①)3世(カシミール大王)の時、ベーメン王国(チェコ)と(②)の干渉をはねのけて、官僚制、法律、地方制度の整備に努めて中央集権化をはかり、農民を保護して国力を充実させた。1364年には首都(③)に大学を創設した。①3世はポーランド史上で唯一、「大王」と言われる。

    ①カジミェシュ ②ドイツ騎士団 ③クラクフ

  • 35

    イヴァン4世が、16世紀半ばにカザン=ハン国を征服したことを記念して建立した、モスクワにある聖堂は何か。

    聖ワシーリー聖堂

  • 36

    正誤判断。 マジャール人は、黒海北岸からパンノニア平原に移動し、10世紀末にハンガリー王国を建て、ギリシア正教を受け入れた。

  • 37

    経済的に困窮した領主が、再び農民への束縛を強めようとする動きを漢字でなんと呼ぶか。

    封建反動

  • 38

    イギリスで起きたワット=タイラーの乱での思想的指導者で、「アダムが耕し、イヴが紡いだ時、誰が貴族だったか」という説教で有名な人物は誰か。

    ジョン=ボール

  • 39

    空所補充。 十字軍時代が終わり、ローマ教皇の権威は下降線を取り始めていたが、ローマ教皇(①)8世(在位1294~1303年)は、あいかわらず国王たちを自由に動かせると過信していた。フランス王(②)が、国内統一とイギリスとの戦費調達のため、国内の教会、修道院領に課税する方針を固めると、聖職者の訴えを受けた教皇はただちに②に厳重に抗議し、課税を認めないと通告した。両者の対立はエスカレートし、②は初めての(③)を開催して国内の支持を取りつけ、①8世はローマに聖職者会議を開いて教皇権の絶対を決議した。

    ①ボニファティウス ②フィリップ4世 ③三部会

  • 40

    空所補充。 1303年の(①)事件では教皇ボニファティウス8世はフランス王フィリップ4世に幽閉された上で退位を迫られて憤死し、さらに1309年からはフランス王によって教皇クレメンス5世がアヴィニヨンに移されるという「(②)」が起こり、教皇の権威の動揺は表面化した。その後アヴィニヨンの教皇はフランス王の監視下に置かれたが、ローマではその帰還を望む声がなおも続いた。  1377年に神聖ローマ帝国の皇帝カール4世はアヴィニヨンの教皇(③)のローマ帰還を支援し、実現させた。

    ①アナーニ ②教皇のバビロン捕囚 ③グレゴリウス11世

  • 41

    空所補充。 これによって教皇のバビロン捕囚は終わり、ローマ教皇がローマに戻ったが、グレゴリウス11世が急死し、後継教皇の選出に当たってフランス人の枢機卿とイタリア人の枢機卿が対立、翌1378年にフランス人枢機卿は(①地名)に独自の教皇を擁立したため、ローマと①に教皇が同時に二人存在するということになった。これを(②)(~1417年)といい、キリスト教世界は二人の最高指導者の下で聖職者も教会も二分されるという事態となった。終盤ではさらに三つに分裂する。このような教皇以下の協会の分裂はその権威を著しく低下させ、イギリスの(③)やベーメンの(④)のような先駆的な宗教改革者が現れ、教皇と教会のあり方に対する批判が始まった。

    ①アヴィニョン ②教会大分裂 ③ウィクリフ ④フス

  • 42

    コンスタンツ公会議について空所補充。 1414年11月1日から1418年まで、ドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝、兼ハンガリー王・ボヘミア王)(①)の提唱で公会議が召集された。開催地(②)はドイツ南部、スイスとの国境にある(③)湖に面した都市。会議には枢機卿33名、司教900名、学者2千人、世俗諸侯多数が参加した。

    ①ジギスムント ②コンスタンツ ③ボーデン

  • 43

    ジョン王について、空所補充。 リチャードの弟。彼はカンタベリ大司教の任命問題でローマ教皇(①)に破門され、さらにフランス王(②)と争ってフランス内の領土の多くを失い、貴族の離反を招いた。1215年、貴族たちはジョンに迫って国王の課税には貴族の同意が必要であることなどを定めた大憲章((③カタカナで))を認めさせた。

    ①インノケンティウス3世 ②フィリップ2世 ③マグナ=カルタ

  • 44

    ヘンリ3世について、空所補充。 ジョンの子で、再び大陸に出兵しようとして、(①)を無視し課税したため、貴族の反発を受ける。貴族を率いた(②)は武力でヘンリ3世を屈服させて1265年に初めて議会を開催し、国王の課税には議会の同意が必要であるという原則を作った。この諮問議会は近代の国民が選挙によって議員を選ぶ議会とは異なり、貴族・僧侶の代表と州の騎士(農村の有力な土地所有者)の代表という身分ごとの「団体」の代表者が、国王の諮問に答えるもので、「(③)」の前身となった。

    ①マグナ=カルタ ②シモン=ド=モンフォール ③模範議会

  • 45

    空所補充。 1295年のいわゆる(①)が招集され、さらに14世紀半ばには、議会は高位聖職者と大貴族を代表する(②)と、州と都市を代表する(③)とにわかれ、法律の制定や新課税には③の承認が必要になった。イギリスでは早くから(④)階層が軍事的性格を失い地方の地主である(⑤)(郷紳)となり、州を代表して都市の市民と並ぶ③の勢力となった。

    ①模範議会 ②上院 ③下院 ④騎士 ⑤ジェントリ

  • 46

    アルビジョワ十字軍について、空所補充。 1209年、フランス王国の(①)の時に始まった、南フランスのキリスト教異端派のひとつアルビジョワ派(カタリ派ともいう)を殲滅するための十字軍。ローマ教皇(②)の要請で始まり、北フランスの諸侯の多くが参加し、指揮官が(③)(イギリスで国王に反旗を翻し議会の開設に貢献した同名の人物の父親)のもとで激しい攻撃が行われた。  アルビジョワ派は20年にわたって抵抗を続けたが、(④)の時の1229年にアルビジョワ十字軍の勝利に終わった。これによってフランス国内の異端は殲滅され、南フランスまでフランス王権が拡大され、フランスの統一が進んだ。その反面、トゥルバドゥール(吟遊詩人)などの南フランスの独自の文化も失われた。

    ①フィリップ2世 ②インノケンティウス3世 ③シモン=ド=モンフォール ④ルイ9世

  • 47

    100年戦争について、空所補充。 14世紀の中ごろから15世紀中ごろまで、約百年にわたって断続的に続いたので百年戦争という。1337年、イギリス国王(①)が、フランス王位の継承権を主張して(②)朝の(③)に挑戦状を発し、両国は戦争状態となる。イギリス王のフランス遠征は1339年に始まったが、実際の戦闘は1340年に始まり、以後、断続的に約100年間続き、1453年に終結し、フランス内のイギリス王領は(④)を残して消滅した。

    ①エドワード3世 ②ヴァロワ ③フィリップ6世 ④カレー

  • 48

    100年戦争について、空所補充。 実際に戦闘が始まるのは1339年9月末、(①)は北フランスに侵入してからで、以後百年にわたり、途中中断しながら、フランスを戦場として戦争が展開される。戦争の初期には、イギリスがそのヨーマンを中核とした(②)の活躍があり陸上でフランス軍を圧倒、制海権も獲得して有利に戦いを進めた。1346年の(③)の戦いではイギリスの歩兵部隊がフランスの騎士軍を破り、戦術の転換によるイギリスの有利な戦いが明白となった。1347年はイギリス軍が(④)を占領し、長く支配することになる。また1356年のポワティエの戦いでもの活躍でイギリス軍が勝利した。

    ①エドワード3世 ②長弓隊 ③クレシー ④カレー

  • 49

    100年戦争について、空所補充。 百年戦争の後半に、1428年に攻勢をかけたイギリス軍は(①)を包囲した。フランス王(②)は①を救援することが出来ず、イギリス軍による「①の包囲」は長期化した。その危機を救ったのが一人の少女(③)だった。神の声を聞いたという③は②を鼓舞して軍を起こさせ、みずから指揮に加わり①の救出にあたり、1429年5月8日、解放に成功した。ここからフランス軍の反撃が始まり、1453年までにイギリス軍を国内から一掃、フランスの国家的統合が始まる。

    ①オルレアン ②シャルル7世 ③ジャンヌ=ダルク

  • 50

    正誤判断。 ヨーク派のヘンリが1485年に即位し(ヘンリ7世)、テューダー朝を開いた。

  • 51

    空所補充 (①)を推し進めたキリスト教国カスティリャ王国と(②)王国が1479年に合同し(③)王国が成立した。その年、②王国の王子(④)が即位し、その妻(1469年に結婚)(⑤)女王のカスティリャ王国と合同して③王国となった。「⑤と④は同権」の王として二人で統治した(③王としては⑤2世・④5世と称した)。このふたりには、1496年にローマ教皇アレクサンデル6世(スペインのボルジア家出身)から「(⑥)」の称号が贈られた

    ①レコンキスタ ②アラゴン ③スペイン ④フェルナンド ⑤イサベル ⑥カトリック両王

  • 52

    あるポルトガル国王について空所補充。 15世紀末の大航海時代、遠洋航海路の開拓を進めたポルトガル王国王(在位1481~95年)。航海王子といわれた(①)(15世紀前半)に続いて、アフリカ西岸探検を進めた。1482年には黄金海岸にエルミナ要塞を建て、(②)貿易を開始している。1488年に喜望峰に到達した(③)を派遣したのも(④)であった

    ①エンリケ ②奴隷 ③バルトロメウ=ディアス ④ジョアン2世