ログイン

世界史 印・東南亜民族運動
11問 • 8ヶ月前
  • 一吹
  • 通報

    問題一覧

  • 1

    空所補充(復習)。 イギリスは1857年5月に起こったインド大反乱(シパーヒーの乱)をほぼ鎮圧した翌1858年8月に「インド統治改善法」(一般にこれをインド統治法という)を制定し、インド統治を東インド会社を通しての間接統治から、「国王の名の下に、国王の名による」直接統治に改めた。そのため、内閣に新たに「インド担当国務大臣」を置き、現地のインド総督に「副王(Viceroy)」の称号を与えて、本国政府から直接指揮される機関に改めた。  同年11月1日には、(①)の宣言によって、イギリスはインドを直接統治することを改めて表明、その中で東インド会社とインド諸侯との取り決めや法令はそのまま継続すること、インド人の土地所有権や慣習、慣例は尊重すること、キリスト教の強制は行わず、インドの宗教の諸派の信仰の継承を認め、また宗派による差別待遇は行わない、と約束した。  1877年1月1日、(②)首相は①がインド皇帝として戴冠することによってインド帝国を成立させ、インドを大英帝国の中に取り込んだ。

    ①ヴィクトリア女王 ②ディズレーリ

  • 2

    空所補充(復習)。 イギリスは1858年の女王の宣言ではインドの宗教や文化の尊重、インド人への対等な扱いを掲げていたが、実際には統治は末端までイギリス人のみで行われてインド人が採用されることは少なく、またインドの伝統や文化の尊重がうたわれていたにもかかわらず公用語は英語とされて土着語は使用が許されなかった。また宗教についても、イギリスは統治のためにカースト間の対立やヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用した(いわゆる分割して統治せよ)ので、宗教的対立が始まった。 これらの差別的な統治にたいするインド人の不満は次第に強くなり、1883年、(①)らが指導する全インド国民協議会が結成された。イギリスはその動きに対抗して、イギリスに協力する勢力を結集して(②)を開催し、そこに結集した人びとは1885年、国民会議派を結成した。インド国民会派は当初はイギリスに協力的であったが、次第に植民地支配の矛盾が深まり、イギリスが統治を強化するために1905年に(③)を制定しようとしたことから、国民懐疑派もイギリス植民地統治に反対する運動に立ち上がった。これがインドの反英闘争の本格的な段階へと入ることとなった。

    ①バネルジー ②全インド国民会議 ③ヴェンガル分割令

  • 3

    空所補充。 第一次世界大戦でインドの協力が必要となったイギリスは、インド担当国務大臣モンタギューの名でインドの戦後自治を約束した。またそれは(①)革命(第2次)の波及を警戒したものでもあった。イギリスは一方で(②)法を1919年3月に施行して反英闘争を厳しく取り締まる姿勢を示したが、それは却ってインド人の強い反発を受け、1919年4月には(③)の指導する第1次非暴力・不服従運動(第1次(④)運動)が開始された。その過程で1919年4月13日、(⑤)事件が起こり、イギリス軍によって多数の市民が虐殺されたことで、③はいったん運動を中断した。しかし、大衆の中に巻き起こった自治実現への願いは強く、またイスラーム教徒の(⑥)運動(カリフ擁護運動)が起きると、③はそれとの協調による、寄り幅広い反英闘争として(⑦)運動提唱、再び民衆運動が活気づいた。これをきっかけに1920年代にインド民族運動は「自治を与えよ」という運動から「完全な自治、つまり独立を認めよ」という要求に深化した。

    ①ロシア ②ローラット ③ガンディー ④サティヤーグラハ ⑤アムリットサール ⑥ヒラーファト ⑦非協力

  • 4

    ネルーについて、空所補充。 ネルーは国民会議派内では左派のリーダーとして、1929年12月29日のラホールでの国民会議派大会では議長を務め「完全独立」((①))を運動方針として掲げることに力を尽くした。1930年からはガンディーを再び指導者として第2次(②)運動を展開し、協力した。しかしこの間、イギリス当局によってたびたび逮捕され、獄中生活を送った。

    ①プールナ=スワラージ ②非暴力・不服従

  • 5

    空所補充。 1927年、インド統治法は1929年に10年後の改定期を迎えるため、イギリスは(①)(サイモン委員会)を設けて検討に入ることとしたが、それにインド人委員を加えなかったためインドで激しい抗議行動が起こった。その第2次非暴力・不服従運動は、1930年3月に始まった(②)などの大衆運動として盛り上がり、イギリスも追い込まれていった。イギリスは(③)を提唱、 第2回にはガンディーも参加させ運動の鎮静化を図った。1932年8月にはマクドナルド挙国一致内閣が「コミュナル裁定」を行い、宗派別・社会集団別の代表権を求めると、ガンディーは獄中にありながら「死にいたる断食」を決行して反対した。このときはアンベードカルが妥協し、1932年9月24日にガンディーとの間で「プーナ協定」を締結、不可触民の分離選挙区は見送られた。その代わり不可触民に立候補の留保枠が設けられるという妥協が図られた。この経過の結論として制定されたのが、1935年のいわゆる(④)であった。

    ①憲政改革調査委員会 ②塩の行進 ③英印円卓会議 ④新インド統一法

  • 6

    空所補充。 パンジャーブ地方の(①)で開催された全インド=イスラム連盟の①大会で議長となった(②)は開会あいさつで「ムスリムはいかなる意味でも国民 Nation である。だから自分の故郷、領土、国家を必要とする」と演説、1940年3月23日、続いて次のような決議が採択された。 ・地理的に隣接している地域単位は必要なら領域的な調整をしたうえで、諸地方にまとめる。 ・インド亜大陸の北西部や東部のようなムスリム人口多住地域は独立諸国家 independent states を創るよう集められる。 ・その構成単位は自治権と主権を持つ。 というものであり、この意義は、イギリスが進めようとしていた(また最終的には国民会議派も同調すると思われた)「統一インドの連邦制構想」に真っ向から異議を唱えたものであった。(③)という言葉こそ用いられなかったものの、②の演説がムスリムを国民とし、ヒンドゥーとイスラームの二国民論(二民族論とも言われる)をうちだしたこととあいまって分離要求はここでインド政治問題の最優先課題にのしあがってしまった。

    ①ラホール ②ジンナー ③パキスタン

  • 7

    1920年代からベトナム独立運動・共産主義運動を開始し、1941年にベトナム独立同盟を結成、1945年に八月革命を指導して、阮朝を倒しベトナム民主共和国を樹立、大統領となった。介入したフランスとのインドシナ戦争となり、1954年にはディエンビエンフーの戦いに勝利した。その後は南ベトナムに成立したアメリカ傀儡政府と戦い、1960年代のベトナム戦争に突入。勝利をまたず69年に死去したが、「ベトナム建国の父」として絶大な尊敬を集めている。 これは誰か。

    ホー=チ=ミン

  • 8

    1930年代にビルマで結成された、反英組織。「我らビルマ人協会」のこと。アウンサンなどが指導し、独立運動の母体となった。この名称を答えよ。

    タキン党

  • 9

    空所補充。 アメリカ合衆国の統治下にあったフィリピンでは、独立を要求する運動が続いていたが、1930年代にアメリカ国内でもフィリピン分離論がおこってきた。その理由は、フィリピンからの安価な砂糖とタバコの輸入がそれぞれ国内産業を圧迫していたこと、低賃金のフィリピン人労働者の流入を労働界が恐れたことなどがあった。フィリピン内部でも米軍基地の存続を認めるかどうかで意見が対立し、何度かの法案の否決を経て1934年に成立した。時のF=ローズヴェルト大統領のカリブ海での(①)外交、あるいはソ連の承認などの流れの中で実現した。この独立法によって、翌年自治政府である(②)が発足し、41年からの日本軍の支配の後、1946年7月4日にフィリピン共和国が成立した。

    ①善隣 ②フィリピン独立準備政府

  • 10

    タイの軍人・政治家で1932年のタイ立憲革命を指導、38年から首相を務め、39年に国号をシャムからタイに改めた。第二次世界大戦では日本に協力したため戦後に退陣、48年に復帰して再び首相となり、独裁的な政治を行った。1957年、軍部クーデタで失脚した。 これは誰か。

    ピブン

  • 11

    ★世界恐慌後のタイ王国の政治体制の変化について、簡単に説明せよ。 指定語句〔ピブン、プリーディー、立憲君主制〕

    フランス留学中にパリで秘密結社人民党を結成した軍人のピブンや官僚のプリーディーらが帰国後、1929年の世界恐慌で疲弊したタイで立憲王政を樹立する古尾を目指し、1932年6月に立憲革命を実行、国王ラーマ7世もそれを受け入れ、タイは王制から立憲君主制となった。

  • 英作文 重要単語・表現①

    英作文 重要単語・表現①

    一吹 · 40問 · 5ヶ月前

    英作文 重要単語・表現①

    英作文 重要単語・表現①

    40問 • 5ヶ月前
    一吹

    英作文 重要単語・表現②

    英作文 重要単語・表現②

    一吹 · 35問 · 5ヶ月前

    英作文 重要単語・表現②

    英作文 重要単語・表現②

    35問 • 5ヶ月前
    一吹

    英訳せよ。①

    英訳せよ。①

    一吹 · 30問 · 2年前

    英訳せよ。①

    英訳せよ。①

    30問 • 2年前
    一吹

    英訳せよ。②

    英訳せよ。②

    一吹 · 30問 · 2年前

    英訳せよ。②

    英訳せよ。②

    30問 • 2年前
    一吹

    英訳せよ。③

    英訳せよ。③

    一吹 · 30問 · 2年前

    英訳せよ。③

    英訳せよ。③

    30問 • 2年前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(古代)

    世界史共テ対策 正誤問題(古代)

    一吹 · 24問 · 6ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(古代)

    世界史共テ対策 正誤問題(古代)

    24問 • 6ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(~18世紀東南亜)

    世界史共テ対策 正誤問題(~18世紀東南亜)

    一吹 · 18問 · 8ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(~18世紀東南亜)

    世界史共テ対策 正誤問題(~18世紀東南亜)

    18問 • 8ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(イスラーム)

    世界史共テ対策 正誤問題(イスラーム)

    一吹 · 31問 · 8ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(イスラーム)

    世界史共テ対策 正誤問題(イスラーム)

    31問 • 8ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(朝鮮史①)

    世界史共テ対策 正誤問題(朝鮮史①)

    一吹 · 3回閲覧 · 22問 · 6ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(朝鮮史①)

    世界史共テ対策 正誤問題(朝鮮史①)

    3回閲覧 • 22問 • 6ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(中国①)

    世界史共テ対策 正誤問題(中国①)

    一吹 · 3回閲覧 · 36問 · 8ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(中国①)

    世界史共テ対策 正誤問題(中国①)

    3回閲覧 • 36問 • 8ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(19c欧米)

    世界史共テ対策 正誤問題(19c欧米)

    一吹 · 47問 · 7ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(19c欧米)

    世界史共テ対策 正誤問題(19c欧米)

    47問 • 7ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(近代英仏)

    世界史共テ対策 正誤問題(近代英仏)

    一吹 · 41問 · 7ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(近代英仏)

    世界史共テ対策 正誤問題(近代英仏)

    41問 • 7ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(主要な戦争)

    世界史共テ対策 正誤問題(主要な戦争)

    一吹 · 10問 · 8ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(主要な戦争)

    世界史共テ対策 正誤問題(主要な戦争)

    10問 • 8ヶ月前
    一吹

    世界史 文化史特化(古代~中世)

    世界史 文化史特化(古代~中世)

    一吹 · 9問 · 9ヶ月前

    世界史 文化史特化(古代~中世)

    世界史 文化史特化(古代~中世)

    9問 • 9ヶ月前
    一吹

    世界史 文化史特化(近現代)

    世界史 文化史特化(近現代)

    一吹 · 9問 · 9ヶ月前

    世界史 文化史特化(近現代)

    世界史 文化史特化(近現代)

    9問 • 9ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 名言問題

    世界史共テ対策 名言問題

    一吹 · 21問 · 6ヶ月前

    世界史共テ対策 名言問題

    世界史共テ対策 名言問題

    21問 • 6ヶ月前
    一吹

    世界史 頻出小論述①(古代)

    世界史 頻出小論述①(古代)

    一吹 · 8問 · 6ヶ月前

    世界史 頻出小論述①(古代)

    世界史 頻出小論述①(古代)

    8問 • 6ヶ月前
    一吹

    世界史 頻出小論述②(中国朝鮮①)

    世界史 頻出小論述②(中国朝鮮①)

    一吹 · 32問 · 6ヶ月前

    世界史 頻出小論述②(中国朝鮮①)

    世界史 頻出小論述②(中国朝鮮①)

    32問 • 6ヶ月前
    一吹

    問題一覧

  • 1

    空所補充(復習)。 イギリスは1857年5月に起こったインド大反乱(シパーヒーの乱)をほぼ鎮圧した翌1858年8月に「インド統治改善法」(一般にこれをインド統治法という)を制定し、インド統治を東インド会社を通しての間接統治から、「国王の名の下に、国王の名による」直接統治に改めた。そのため、内閣に新たに「インド担当国務大臣」を置き、現地のインド総督に「副王(Viceroy)」の称号を与えて、本国政府から直接指揮される機関に改めた。  同年11月1日には、(①)の宣言によって、イギリスはインドを直接統治することを改めて表明、その中で東インド会社とインド諸侯との取り決めや法令はそのまま継続すること、インド人の土地所有権や慣習、慣例は尊重すること、キリスト教の強制は行わず、インドの宗教の諸派の信仰の継承を認め、また宗派による差別待遇は行わない、と約束した。  1877年1月1日、(②)首相は①がインド皇帝として戴冠することによってインド帝国を成立させ、インドを大英帝国の中に取り込んだ。

    ①ヴィクトリア女王 ②ディズレーリ

  • 2

    空所補充(復習)。 イギリスは1858年の女王の宣言ではインドの宗教や文化の尊重、インド人への対等な扱いを掲げていたが、実際には統治は末端までイギリス人のみで行われてインド人が採用されることは少なく、またインドの伝統や文化の尊重がうたわれていたにもかかわらず公用語は英語とされて土着語は使用が許されなかった。また宗教についても、イギリスは統治のためにカースト間の対立やヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用した(いわゆる分割して統治せよ)ので、宗教的対立が始まった。 これらの差別的な統治にたいするインド人の不満は次第に強くなり、1883年、(①)らが指導する全インド国民協議会が結成された。イギリスはその動きに対抗して、イギリスに協力する勢力を結集して(②)を開催し、そこに結集した人びとは1885年、国民会議派を結成した。インド国民会派は当初はイギリスに協力的であったが、次第に植民地支配の矛盾が深まり、イギリスが統治を強化するために1905年に(③)を制定しようとしたことから、国民懐疑派もイギリス植民地統治に反対する運動に立ち上がった。これがインドの反英闘争の本格的な段階へと入ることとなった。

    ①バネルジー ②全インド国民会議 ③ヴェンガル分割令

  • 3

    空所補充。 第一次世界大戦でインドの協力が必要となったイギリスは、インド担当国務大臣モンタギューの名でインドの戦後自治を約束した。またそれは(①)革命(第2次)の波及を警戒したものでもあった。イギリスは一方で(②)法を1919年3月に施行して反英闘争を厳しく取り締まる姿勢を示したが、それは却ってインド人の強い反発を受け、1919年4月には(③)の指導する第1次非暴力・不服従運動(第1次(④)運動)が開始された。その過程で1919年4月13日、(⑤)事件が起こり、イギリス軍によって多数の市民が虐殺されたことで、③はいったん運動を中断した。しかし、大衆の中に巻き起こった自治実現への願いは強く、またイスラーム教徒の(⑥)運動(カリフ擁護運動)が起きると、③はそれとの協調による、寄り幅広い反英闘争として(⑦)運動提唱、再び民衆運動が活気づいた。これをきっかけに1920年代にインド民族運動は「自治を与えよ」という運動から「完全な自治、つまり独立を認めよ」という要求に深化した。

    ①ロシア ②ローラット ③ガンディー ④サティヤーグラハ ⑤アムリットサール ⑥ヒラーファト ⑦非協力

  • 4

    ネルーについて、空所補充。 ネルーは国民会議派内では左派のリーダーとして、1929年12月29日のラホールでの国民会議派大会では議長を務め「完全独立」((①))を運動方針として掲げることに力を尽くした。1930年からはガンディーを再び指導者として第2次(②)運動を展開し、協力した。しかしこの間、イギリス当局によってたびたび逮捕され、獄中生活を送った。

    ①プールナ=スワラージ ②非暴力・不服従

  • 5

    空所補充。 1927年、インド統治法は1929年に10年後の改定期を迎えるため、イギリスは(①)(サイモン委員会)を設けて検討に入ることとしたが、それにインド人委員を加えなかったためインドで激しい抗議行動が起こった。その第2次非暴力・不服従運動は、1930年3月に始まった(②)などの大衆運動として盛り上がり、イギリスも追い込まれていった。イギリスは(③)を提唱、 第2回にはガンディーも参加させ運動の鎮静化を図った。1932年8月にはマクドナルド挙国一致内閣が「コミュナル裁定」を行い、宗派別・社会集団別の代表権を求めると、ガンディーは獄中にありながら「死にいたる断食」を決行して反対した。このときはアンベードカルが妥協し、1932年9月24日にガンディーとの間で「プーナ協定」を締結、不可触民の分離選挙区は見送られた。その代わり不可触民に立候補の留保枠が設けられるという妥協が図られた。この経過の結論として制定されたのが、1935年のいわゆる(④)であった。

    ①憲政改革調査委員会 ②塩の行進 ③英印円卓会議 ④新インド統一法

  • 6

    空所補充。 パンジャーブ地方の(①)で開催された全インド=イスラム連盟の①大会で議長となった(②)は開会あいさつで「ムスリムはいかなる意味でも国民 Nation である。だから自分の故郷、領土、国家を必要とする」と演説、1940年3月23日、続いて次のような決議が採択された。 ・地理的に隣接している地域単位は必要なら領域的な調整をしたうえで、諸地方にまとめる。 ・インド亜大陸の北西部や東部のようなムスリム人口多住地域は独立諸国家 independent states を創るよう集められる。 ・その構成単位は自治権と主権を持つ。 というものであり、この意義は、イギリスが進めようとしていた(また最終的には国民会議派も同調すると思われた)「統一インドの連邦制構想」に真っ向から異議を唱えたものであった。(③)という言葉こそ用いられなかったものの、②の演説がムスリムを国民とし、ヒンドゥーとイスラームの二国民論(二民族論とも言われる)をうちだしたこととあいまって分離要求はここでインド政治問題の最優先課題にのしあがってしまった。

    ①ラホール ②ジンナー ③パキスタン

  • 7

    1920年代からベトナム独立運動・共産主義運動を開始し、1941年にベトナム独立同盟を結成、1945年に八月革命を指導して、阮朝を倒しベトナム民主共和国を樹立、大統領となった。介入したフランスとのインドシナ戦争となり、1954年にはディエンビエンフーの戦いに勝利した。その後は南ベトナムに成立したアメリカ傀儡政府と戦い、1960年代のベトナム戦争に突入。勝利をまたず69年に死去したが、「ベトナム建国の父」として絶大な尊敬を集めている。 これは誰か。

    ホー=チ=ミン

  • 8

    1930年代にビルマで結成された、反英組織。「我らビルマ人協会」のこと。アウンサンなどが指導し、独立運動の母体となった。この名称を答えよ。

    タキン党

  • 9

    空所補充。 アメリカ合衆国の統治下にあったフィリピンでは、独立を要求する運動が続いていたが、1930年代にアメリカ国内でもフィリピン分離論がおこってきた。その理由は、フィリピンからの安価な砂糖とタバコの輸入がそれぞれ国内産業を圧迫していたこと、低賃金のフィリピン人労働者の流入を労働界が恐れたことなどがあった。フィリピン内部でも米軍基地の存続を認めるかどうかで意見が対立し、何度かの法案の否決を経て1934年に成立した。時のF=ローズヴェルト大統領のカリブ海での(①)外交、あるいはソ連の承認などの流れの中で実現した。この独立法によって、翌年自治政府である(②)が発足し、41年からの日本軍の支配の後、1946年7月4日にフィリピン共和国が成立した。

    ①善隣 ②フィリピン独立準備政府

  • 10

    タイの軍人・政治家で1932年のタイ立憲革命を指導、38年から首相を務め、39年に国号をシャムからタイに改めた。第二次世界大戦では日本に協力したため戦後に退陣、48年に復帰して再び首相となり、独裁的な政治を行った。1957年、軍部クーデタで失脚した。 これは誰か。

    ピブン

  • 11

    ★世界恐慌後のタイ王国の政治体制の変化について、簡単に説明せよ。 指定語句〔ピブン、プリーディー、立憲君主制〕

    フランス留学中にパリで秘密結社人民党を結成した軍人のピブンや官僚のプリーディーらが帰国後、1929年の世界恐慌で疲弊したタイで立憲王政を樹立する古尾を目指し、1932年6月に立憲革命を実行、国王ラーマ7世もそれを受け入れ、タイは王制から立憲君主制となった。