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世界史 世界恐慌・ヴ体制崩壊
40問 • 8ヶ月前
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  • 1

    ★アメリカで世界恐慌が始まった要因を5つ説明せよ。 指定語句〔生産過剰、有効需要、保護貿易主義、アメリカの市場、失業者〕

    ①1920年代の戦後好況の中で資本・設備への過剰な投機が行われ「生産過剰」に陥った。 ②農産物も過剰生産のために価格の下落する農業不況が起こり、農家収入が激減、国内の有効需要が低下した。 ③各国とも自国産業の保護のため、保護貿易主義に転換したので、世界市場の拡大も阻止されていた。 ④同時にアジアの民族資本の成長、ソ連社会主義圏の成立などで、アメリカの市場が縮小していた。 ⑤企業が生産を減少させたため失業者が増大、さらにそのため購買力は減退し、さらなる生産減少をもたらすという悪循環に陥った。

  • 2

    世界恐慌について、空所補充。 1929年10月にアメリカ合衆国の戦間期で始まり、1933年にかけて世界に広がった経済不況(恐慌)のこと。発端はアメリカ合衆国の(①)にあるニューヨーク株式取引所で1929年10月24日(後に「(②)」といわれる)に株式が大暴落、以後長期にわたり、かつアメリカだけでなく世界中に不況が拡がった。1930年代に入っても景気は回復せず、企業倒産、銀行の閉鎖、経済不況が一挙に深刻になって、1300万人(4人に1人)の失業者がでた。恐慌はおよそ1936年頃まで続いた。またこの恐慌が世界に波及し、ヨーロッパ各国から日本などアジア諸国にも影響を受け、資本主義各国は恐慌からの脱出策を模索する中で対立を深め、第二次世界大戦がもたらされることとなった。

    ①ウォール街 ②暗黒の木曜日

  • 3

    空所補充。 各国はそれぞれ、自国の生き残りのための経済を立て直しに走ることとなった。イギリスでは(①)挙国一致内閣が、1931年の(②)停止に踏み切ると、33年にはアメリカ合衆国も②停止に同調し、世界②は崩壊した。またイギリスが(③)会議でイギリス連邦内の自治領との特恵関税を設けて他地域に対する保護関税政策に踏み切るとともに、(④)を構築すると、フランスのフラン経済圏、アメリカのドル経済圏など資本主義列強は通貨ごとのブロック経済政策を採用することとなった。しかし、各国がブロック経済によって保護貿易主義に転じたため、世界全体の自由貿易が衰退して貿易額が減少し、世界全体の不況にさらに加速させることとなった。  資本主義諸国は危機感を抱き、1933年6月、国際連盟が主催して(⑤)会議を開催し、67カ国が集まり、世界恐慌からの国際的な対応を協議する努力を行った。しかし、この会議では、アメリカの(⑥)大統領は世界経済全体に責任を持つことを怠り、賠償問題についての議論が避けられ、また通貨の安定などにも各国の利害が対立したため、結局まとまらず、戦争による解決へと向かうことになってしまった

    ①マクドナルド ②金本位制 ③オタワ連邦経済 ④スターリング=ブロック ⑤ロンドン世界経済 ⑥ローズヴェルト

  • 4

    空所補充。 1933年3月に登場したアメリカ合衆国のF=ローズヴェルト大統領の(①)政策は農産物の過剰供給を抑え、工業生産の国家管理を強め、大幅な財政出動で公共事業を興して雇用を創出し、国内購買力の回復を図った。また、そのためには労働者の保護や社会保障の充実などにも取り組み、銀行を厳しく監視するなど資本主義の枠内での大胆な改革を実施した。そのような資本主義の原則を守りながら、自由放任ではなく政府が経済を強力にコントロールする必要があるという考えを理論化したのがイギリスの経済学者(②)であった。彼は有効需要を増加させることによって過剰生産を解消するなどをめざし国家の財政政策によって公共事業を興して雇用を創出したり、低金利によって貯蓄を消費に回すことによって購買力をつけることなどを唱えた。しかし景気の回復、雇用の増大(失業の減少)はすぐには解消されず、1939年の第二次世界大戦の開戦を迎えることとなる。

    ①ニューディール ②ケインズ

  • 5

    空所補充。 世界恐慌の影響を最も強く受けたのが(①)であった。また植民地が少なく、国内資源も少ないイタリアも経済が破綻した。アジアでは日本はすでに大陸進出を果たしていたが、国内には地主制度など古い社会構造が残り、農村不況が慢性化し、低い購買力にとどまっていたため、昭和恐慌と言われる状況となり、資源と市場を海外に求める経済界と軍の思惑が強まっていた。このような「持たざる国」である①・イタリア・日本にファシズムが台頭する直接的な契機も世界恐慌にあった。特に、①は第一次世界大戦の莫大な賠償金をフランスなどに支払わなければならず、1924年の(②)で軽減されたものの、アメリカ合衆国の資金援助で経済復興を図るという図式になっていたため、アメリカ発の世界恐慌の影響を最初に受けざるを得なかった。1931年6月の(③)は①経済の悪化を立ち直らすことが出来ず、1933年には失業者は600万に増大した。そのような危機が高まる中で、同年1月(④)が首相に任命され、独裁政治を開始する。同じ年3月には、一方のアメリカでF=ローズヴェルトが大統領となり、ニューディール政策開始される。

    ①ドイツ ②ドーズ案 ③フーヴァー=モラトリアム ④ヒトラー

  • 6

    恐慌期のアメリカについて、空所補充。 1929年春、大統領に就任した(①)は「永遠の繁栄」を国民に約束したが、その年の秋10月24日にはニューヨークのウォール街での株式の大暴落が始まり、世界恐慌に見舞われることとなる。1931年6月には①=モラトリアムを示して、大恐慌の世界への波及を食い止めようとしたが、手遅れとなった。  この資本主義経済の破綻は、英仏のブロック経済体制、独伊日などのファシズム国家の登場をもたらし新たな世界分割戦争を引き起こした。アメリカは民主党のF=ローズヴェルト大統領が1933年3月に打ち出したニューディール政策で、豊かな国内資源を背景にした国内購買力の増強に努め、この危機を乗り切ろうとした。ここでとられた経済政策は、資本主義に一定の修正と制限をかけるもので、経済学者(②)によって理論化され、戦後においても、民主党政権で継承された。  ニューディールが開始された1933年、ヨーロッパではドイツのヒトラーが政権を獲得、イタリアとともに(③)体制をつくりあげ、ヴェルサイユ体制の打破を主張して大きな脅威となっていた。またアジアでは日本はすでに1931年の満州事変によって中国大陸侵略を開始、アメリカの利益と衝突し始めていた。これらの動きに対してF=ローズヴェルト政権は1933年11月に(④)を承認しドイツ、日本を牽制した。また、ラテンアメリカ諸国に対しては(⑤)外交と言われる強調方針に転換し、キューバに対する(⑥)を廃止した。しかし議会は、1935年8月に中立法を制定、従来のアメリカ外交の基本である(⑦)主義を維持した。

    ①フーヴァー ②ケインズ ③ファシズム ④ソ連 ⑤善隣 ⑥プラット条項 ⑦孤立

  • 7

    ニューディール政策について、空所補充。 1933年に始まるニューディール政策の主要な内容は、(①)法(AAA)・(②)法(NIRA)・テネシー川流域開発公社(TVA)・(③)法・社会保障法・金本位制停止など、多岐にわたるが、そのねらいは、従来の自由放任主義の原則を改め、政府の積極的な経済介入によって、(④)などを行って雇用を創設し、労働者保護や社会保障の充実によって弱者を救済して全体的な国内の購買力を回復(内需回復)して、恐慌を克服しようとするものであった。ニューディールについては、おおむね好意的な評価が為されているが、詳細に見ると問題も多かった。また、政府による経済介入については、当時から社会主義的な手法であるという批判、非難が強かったことも見逃してはならない。

    ①農業調整 ②全国産業復興 ③ワグナー ④公共事業

  • 8

    F.ローズヴェルトの外交について、空所補充。 1933年、市場の拡大と日本・ドイツへの牽制の意味から、(①)を承認した。このころ、ヨーロッパにおけるドイツ・イタリア、アジアにおける日本のファシズムの台頭が急激になり、ナチス=ドイツのヒトラーによる(②)、イタリアのムッソリーニ政権による(③)侵入、日本の満州事変から満州国建国と緊迫した情勢が続いた。  しかしアメリカの世論はこの段階でも孤立主義の伝統が根強く、アメリカ議会は1935年に(④)法を制定して参戦を否定し、F=ローズヴェルトもこの段階ではその規定に従って中立を守り、直接介入は慎重に回避した。  その一方で、それまでのアメリカのカリブ海外交の強圧的態度を改め、善隣外交を展開、キューバのプラット条項の廃止などを実現した。また、1934年には議会で(⑤)法が成立し、10年後のフィリピンの独立を認めた。  ファシズム国家の侵略行動は続き、1936年にはドイツのラインラント進駐、イタリアは③併合、さらにスペイン戦争、1937年には日本軍が盧溝橋事件・第2次上海事変で中国本土への侵攻を開始し日中戦争が始まるという世界戦争の危機が高まった。その事態を受けて、F=ローズヴェルトは1937年10月にシカゴで演説し、暗にドイツ・イタリア・日本を危険な感染症にかかった患者にたとえて隔離すべきであるいう「(⑥)」(または防疫演説)を行い、世界の注目を浴びたが、この段階でもアメリカ国内の世論は戦争への参加に批判的であった。

    ①ソ連 ②再軍備 ③エチオピア ④中立 ⑤フィリピン独立 ⑥隔離演説

  • 9

    ★アメリカ合衆国の恐慌対策について、以下の語句を用いて、90 字以内で説明しなさい。 指定語句〔生産統制、ワグナー法〕

    ローズヴェルト政権はニューディール政策を展開。NIRA で工業、AAA で農業における生産統制を行った。失業対策として TVA などの公共事業を行い、ワグナー法で労働者の団結権、団体交渉権を保障した。(89 字)

  • 10

    ★1930年代のアメリカでニューディール政策が行われた背景と、それまでの自由な資本主義との相違点を80字程度で説明しなさい。

    世界恐慌によってアメリカ国内で失業者が大量に発生していた。完全自由放任主義であった資本主義に対して政府が一定の介入を行うという点でそれまでの資本主義と異なっていた。(82字)

  • 11

    ★F=ローズヴェルトの善隣外交について、その主な内容を60字以内で説明せよ。 指定語句〔キューバ、ハイチ〕

    1934年にはキューバに対してプラット条項を撤廃してその完全独立を認め、ハイチからは海兵隊を撤兵させ軍政を終わらせた。(59字)

  • 12

    ★イギリスの恐慌対策について、以下の語句を用いて 120 字以内で説明しなさい。 指定語句〔マクドナルド、オタワ〕

    マクドナルド労働党内閣はロンドン軍縮会議で補助艦を制限。失業手当削減問題で労働党から除名されたが、保守党・自由党と挙国一致内閣を組織。英連邦諸国はオタワ会議でスターリング=ブロックを形成。金本位制を停止して国内産業を守ろうとした。 (115 字)

  • 13

    ★イタリアでファシストが台頭した背景と、ファシスト政権の成立過程について、以下の語句を用いて 120 字以内で説明しなさい。 指定語句〔フィウメ、ロシア革命、国王〕

    パリ講和会議でフィウメが返還されず、植民地も増えなかったことに対する不満、ロシア革命の影響による社会主義者の台頭への地主・資本家の危機感が背景にある。ムッソリーニはローマ進軍を行い、国王から首相に任命され、ファシスト党の独裁体制を樹立した。(120 字)

  • 14

    イタリアで、1928年の最高決議機関となったものは何か。

    ファシズム大評議会

  • 15

    イタリア内部について、空所補充。 1924年に(①)を併合し、1926年には(②)保護国化などを実現して権威を高め、勢力を拡大した。1929年2月にはローマ教皇と(③)条約を締結して(④)を承認し、ローマ=カトリック教会との関係を修復した。  1929年の世界恐慌によってイタリア経済も大きな打撃を受け、ムッソリーニは国民の目をそらそうとし、1934年には第2回のワールドカップをイタリアで開催し、サッカー人気に便乗して人気を高めた。その影響を受けて、36年にはヒトラーが(⑤)を開催した。この両者はスポーツの政治利用でも共通していたといえる。

    ①フィウメ ②アルバニア ③ラテラノ ④ヴァチカン市国 ⑤ベルリン=オリンピック

  • 16

    ナチス=ドイツについて、空所補充。 まず陰謀によって反対党を押さえつける手段を執った。2月27日に(①)事件が起きると、それをドイツ共産党員のしわざと断定してその政治活動を禁止した。3月には、(②)法を国会で可決し、政府に議会の議決を経ずに法律を制定することを可能にした。こうして議会政治が完全に葬り去られただけでなく、国会法か事件の翌日に出された大統領緊急令で、憲法で保障された基本的人権も停止された。ついで社会民主党も活動を禁止されてナチ党以外の政党は7月はじめまでに解散に追い込まれた。さらに、労働運動では労働組合は解散させられ、別に経営者も含む「ドイツ労働戦線」という御用組合に一本化された。宣伝相ゲッベルスが進めた焚書運動によって(③)人学者や文学者の著作や共産主義や自由主義に関する書籍が焼かれた。こうしてナチス=ドイツにおいては、労働組合活動の自由、思想信条の自由、政党活動の自由と言った基本的人権がわずか半年の間に奪われてしまった。  また、(③)の建設など独占資本の利益に添った経済政策を推し進める一方、失業対策にも積極的に取り組んだ。

    ①国会議事堂放火 ②ユダヤ ③アウトバーン

  • 17

    ★ナチス政権成立の経緯について、以下の語句を用いて 120 字以内で説明しなさい。 指定語句〔世界恐慌、大統領緊急令、国会議事堂放火事件、全権委任法〕

    世界恐慌の混乱の中、国会でナチスが第1党、共産党が第2党となった。ヒンデンブルク大統領は、ヴァイマル憲法に基づく大統領緊急令でヒトラーを首相に任命。ヒトラーは国会議事堂放火事件で共産党を弾圧、国会で全権委任法を成立させ、独裁権を握った。(118字)

  • 18

    ★ナチス=ドイツによる大衆娯楽を拡充する政策はドイツ国民に歓迎された。どのようなことを行ったか、50字程度で説明せよ。

    イタリアのファシズムに倣い、団体旅行のレクリエーションを組織したり、福祉事業やラジオ放送などを整備した。(52字)

  • 19

    空所補充。 国内ではナショナリズムを鼓吹するとともに共産主義への恐怖と反ユダヤ主義を巧妙に結びつけた宣伝を繰り返し、ユダヤ人排斥を訴えた。1935年には(①)法を制定し、ユダヤ人の公民権を奪い、差別の徹底化を図った。多くのドイツ人は積極的にユダヤ人差別に同調したわけではなかった。1938年の(②)といわれた、ナチ党員によるユダヤ人商店などに対する破壊活動の際も、ヒトラーは一般市民が協力的でなかったと不満を漏らしている。ナチス権力が強大化と対外戦争に突入するなかで、ユダヤ人虐殺は組織的に進められていったが、民衆の多くは傍観するか、無関係を装うしかなかった。  ユダヤ人迫害の根拠とされた優生思想(優秀な民族を遺伝子で選抜する思想)の対象はユダヤ人に留まらず、精神障害者、身体障害者、同性愛者などにも及び、彼らも劣等遺伝子をもつものとして抹殺の対象となった。またユダヤ人と並んで(③)も迫害の対象とされた。

    ①ニュルンベルク ②水晶の夜 ③ロマ(ジプシー)

  • 20

    空所補充。 ナチスが政権をとると、(①)(SA)による暴力的な強圧の前に批判の声は上げにくくなった。さらに秘密警察である(②)が国民生活を厳しく監視する社会が形成された。しかし、ヒトラーは国民の①に対する恐怖心を逆に利用する巧妙な手を使った。すなわち、1934年6月30日、ヒトラーは①の幹部レームなどを殺害、粛清した。これは突撃隊が暴力行為を繰り返し、正規軍である国防軍に取って代わろうという勢いを示したことに保守派、国防軍が不安を感じたことに対応してヒトラーが断行したテロであったが、これによってヒトラーは果断に国民の敵を排除したとしてその人気がさらに高めたのだった。その後は①に対抗する武装組織として(③)(SS)が作られ、ヒトラーはこれらを巧妙に操りながら、大衆操作を行っていった。その面ではヒトラーの成功はポピュリズム(大衆政治)の性格があると言える。

    ①突撃隊 ②ゲシュタポ ③親衛隊

  • 21

    空所補充。 ヒトラーはかねてヴェルサイユ体制や(①)体制の打破を主張していたが、権力を握ると共にまず1933年に、当時国際連盟で進められていたジュネーヴ軍縮会議を軍備の不平等の解消を主張していれられずに脱退し、さらに10月に国際連盟からの脱退を実行した。こうしてヴェルサイユ体制・①体制に縛られることのない外交を展開する条件を作り、ついで1935年の(②)編入、再軍備(徴兵制=義務兵役制復活)、1936年の(③)進駐を立て続けに強行し、ヨーロッパの安定を脅かした。イギリス・フランスがこれらのヒトラーの強硬姿勢を容認した結果、国民にはヒトラー外交の勝利と受け取られ、歓迎され、まさに英雄視される状況が出てきた。

    ①ロカルノ ②ザール ③ラインラント

  • 22

    2008 東大 世界恐慌によって再び経済危機に直面したドイツでは、失業者対策が重要な問題となった。ヒトラーは政権掌握後、厳しい統制経済体制をしいて、軍需産業の振興と共に高速自動車道路の建設を進めた。この道路の名称を記しなさい。

    アウトバーン

  • 23

    第一次五ヵ年計画について、空所補充。 1928年から1932年の間、ソ連のスターリンの指導で実施された、急激な重工業化と農村集団化を柱とした、社会主義国家建設計画。スターリン政権は一国社会主義論を掲げて敵対する勢力を排除し、それまでの(①)を否定し、社会主義経済建設をめざして立案した。産業の基本部門である鉄鉱・機械・石炭などの重工業の建設と、生産向上のための農業の集団化の推進が柱であった。計画目標は、全工業生産高の250%増、重工業は330%増、そして農業生産は150%増、農地の20%の集団化、という途方もないものであった。この計画の下で工業建設、農業集団化は猛烈なスピードで進み、1932年までにソ連を先進資本主義諸国と並ぶ工業国に仕上げ、集団化の強行による農業生産の増産が進められた。当時アメリカ・イギリスなど資本主義国は、1929年に始まる(②)のただ中にあったが、社会主義経済体制をとったソ連はそれに巻き込まれることがなく、当時は社会主義の計画経済には恐慌は起こりないとこととしてその優位が喧伝され、その成功を足場にスターリンは独裁的な権力を獲得したが、その反面に批判を許さず、五ヶ年計画進行中の1930年代に反対派を排除する(③)を強行していたことも忘れてはいけない。

    ①新経済政策、ネップ ②世界恐慌 ③粛清

  • 24

    1936年、スターリン独裁体制下で制定されたソ連の憲法はなんと呼ばれるか。

    スターリン憲法

  • 25

    正誤判断。 計画経済は、ナチス=ドイツやアメリカ、日本で受け入れられ、満州国では実際に五ヵ年計画が行われた。

  • 26

    空所補充。 満州事変に対してアメリカは強く反発し、1932年1月、(①)大統領は国務長官(②)の名で、日本の満州における軍事行動は九カ国条約(中国の主権尊重、機会均等、門戸開放の原則)と不戦条約に違反しているので承認できないという声明((③))を発表した。しかし経済制裁などの実力行使は行わず、またイギリスも事態が満州に限られている間は黙認するという態度をとった。両国とも世界恐慌のさなかにあって、アジアに干渉する余裕がなかったことが背景にあった。  中国政府(蔣介石)は共産党との内戦を優先する((④漢字4文字))ため、全面的な日本との戦争を避け、もっぱら日本軍の侵略行為を国際連盟規約違反であるとして国際連盟に提訴し、国際世論によって阻止することをめざした。国際連盟では日本も含む常任理事会で中国が提案した撤退勧告が可決されると、日本はなおも自衛行動であること、中国側には治安能力がないこと、などの理由で正当性を主張、調査団を派遣することを提案し、それが実行されることとなった。  ソヴィエト=ロシアでは1924年にレーニンは死んでいたが、1921年から(⑤)が採用されて、経済を立て直し、翌年にはソ連邦が成立していた。この時期にソ連の承認が続き、日本とも1625年1月に日ソ基本条約が締結されていた。ついで1928年からスターリンによる第1次五カ年計画が開始され、満州には力をさけない状況になっていた。そのためスターリンは満州事変勃発に対しては中立不干渉を声明した。なおソ連はまだ国際連盟には加盟していない。

    ①フーヴァー ②スティムソン ③スティムソン=ドクトリン ④安内攘外 ⑤ネップ

  • 27

    空所補充。 満州事変で日本が公然と中国大陸への侵略を開始し、それをアメリカ・イギリスが阻止できなかった(しなかった)ことは、第一次世界大戦後のアジアの国際秩序とされていた、(①)会議(1921~22年)で成立した九カ国条約を柱とする①体制が、事実上崩壊したことを意味している。それは、ヨーロッパにおける(②)体制が、ヒトラーの登場によって破られていくのと時を同じくしており、ヴェルサイユ体制の両輪が崩れたことを意味していた。 問題は国際連盟を舞台とした交渉に委ねられることになったが、第一次世界大戦後に構築された集団安全保障の仕組みが、理事国という立場である日本が引きおこした行動を、アメリカとソ連が加盟していないという状況の下で、機能させることができるかが問われることとなった。

    ①ワシントン ②ロカルノ

  • 28

    満州国について、空所補充。 関東軍首脳は当初は満州を直接統治下におくつもりであったが、国際情勢から行ってそれが困難と判断したか、事変開始直後に独立国家建設の方針に転換した。特務機関長土肥原大佐が動き、清朝の最後の皇帝であった溥儀を担ぎ出し、1932年3月に満州国を建設した(当初は溥儀は執政となった)。日本政府の犬養内閣は、満州国の承認をためらっていたが、5月に海軍軍人らによって首相が暗殺されるという(①)事件が起きて政党政治が終わりを告げ、次の斎藤実内閣が軍部の圧力の下で9月、(②)を締結して満州国を承認、軍部の独断で始まった満州事変は国家によって追認された。多くの国民は関東軍の行為を、日露戦争で明治の日本人が血を流して獲得した満州の権益を不当な中国から守ったものとして歓迎した。  日本政府は、満州国の建国は満州人の自主的な独立国家の建設であると主張したが、中国は不当な侵略行為であると提訴した。国際連盟は(③)を現地に派遣するとともに双方の主張を聞いた上で報告書を提出した。報告書は(④)事件は関東軍の謀略であり、日本の主張である自衛行為であるとは認定できないというものであった。従って日本軍には満州からの撤退が勧告された。ただし満州での日本の一定の権益については認め、満州に自主的な国家が建設されることは容認していた。国際連盟に提出された報告書は、1933年2月の国際連盟総会で審議され、満州国の不承認と日本軍の撤退を42ヵ国の賛成、反対1(日本)、棄権1((⑤))で可決した。1933年3月、日本はそれを不服とする日本は国際連盟を脱退、孤立を深めていく。

    ①五・一五 ②日満議定書 ③リットン調査団 ④柳条湖 ⑤シャム

  • 29

    南京事件について、空所補充。 (①)戦争の中で、1937年12月、日本軍は長江下流の大都市、南京に対する総攻撃を実行、激戦の末に占領した。戦闘は双方の兵力に大きな損耗を出したが、日本軍はその掃討戦においてゲリラ的な抵抗を排除するため、捕虜や非戦闘員に対する殺害を組織的に実行し、さらにその過程で略奪、強姦などの不法行為が行われた。この事実は厳しい情報統制によって戦争中の日本国内では知らされることはなかったが、外国の情報機関により国際的に知られることとなり、日本軍の残虐行為として大きな批判を受けた。戦後の(②)などで軍指導者が処刑されたことで日本国内では初めてその事実が知らされ、大きな衝撃となった。

    ①日中 ②極東軍事裁判

  • 30

    第二次国境合作について、空所補充。 1937年7月に勃発した日中戦争において、中国側の国民党と共産党が日本帝国主義に対する抵抗(抗日)で一致した戦いを組んだ。両者は第1次国共合作が崩壊して以来、対立を深めていたが、1936年の(①)事件で旧東北軍閥の(②)が国民党の蔣介石を軟禁し、中国共産党との内戦停止と国共合作を強く迫った。蔣介石がようやく同意し、共産党の協議に合意した。  1937年7月の(③)事件の勃発によって、日中戦争の全面戦争状態となり、日本軍の中国本土への侵攻が本格化した。それに対し、中国共産党は、それ以前の1935年にコミンテルンの方針により反ファシズム人民戦線結成に転換し、1935年8月1日に(④)の結成を呼びかける八・一宣言を出していた。国民党もようやくその呼びかけに応じ、1937年9月23日に第二次国共合作が成立した。

    ①西安 ②張学良 ③盧溝橋 ④抗日民族統一戦線

  • 31

    ★西安事件の内容とその影響について50字程度で説明しなさい。

    張学良が蔣介石を監禁して内戦の停止を迫った事件。第二次国共合作につながり、対日戦線が張られた。(42字)

  • 32

    第2次国共合作によって紅軍が国民革命軍に組み込まれて編制された軍。中華人民共和国建国後に人民解放軍となる。この名称を答えよ。

    八路軍

  • 33

    重慶について、空所補充。 重慶は中国の長江上流、三国時代には蜀に属した。現在も四川省の最大の都市。日中戦争が勃発し国民政府の首都南京に日本軍が迫る中、(①)首席は国防最高会議を開催、1937年10月30日、首都を重慶に移すことを決定、11月20日に発表した。国民政府の重慶移転は1937年12月1日に実行した。国民政府は(②)を一時的に戦時首都としていたが、1938年10月に②が陥落したので、最終的に重慶に移転したのだった。これ以後、日中戦争の最後まで①の主導する国民政府は重慶を首都として抗日戦争の拠点とした。①の重慶国民政府に対しては、(③)を通してアメリカ・イギリス・ソ連からの援助物資が運び込まれ、抗日戦を継続できた。日本軍は1939年5月から数度にわたって激しい重慶爆撃を行ったが、陸上部隊で攻撃することはできなかった。

    ①蒋介石 ②武漢 ③援蔣ルート

  • 34

    空所補充。 1938年10月、武漢三鎮が日本軍の手に落ち、蔣介石の国民政府は長江上流の(①)に退いた。①に対して日本軍は激しい空爆を加えたが、11月から①の国民政府に対するアメリカ・イギリスなどの支援が強化され、その抵抗はつづいた。この蔣介石政府支援のルートを当時日本では、(②)と言った。  ルートは、アメリカ・イギリス・フランスによる仏印ルート(ハノイ・ルート)とビルマ雲南ルート(ビルマ・ルート)、さらにソ連による共産ルート(赤色ルート)の3ルートがあった。日本軍は日中戦争が膠着する中、これらの②の遮断を大きな課題として掲げ、(③)事件(39年5月)の敗北で北進を断念した後は、フランス領インドシナやビルマ方面への進出を図るようになる。

    ①重慶 ②援蒋ルート ③ノモンハン

  • 35

    汪兆銘について、空所補充。 汪兆銘は古くからの中国(①)党員で、孫文の側近の一人として、三民主義及び、連ソ・容共・扶助工農という国共合作の理念を忠実に守り、その後継者として自認していた。1925年3月に孫文が死去、その遺言の署名者の一人となっている。5月の(②)運動での反帝国主義、民族主義の運動の高まりを受け、1925年7月に広州で広州国民政府が成立すると、汪兆銘は実質的な党主席として国民革命の中枢となった。しかしそのころから、国民政府の軍事面を握った(③)と党の主導権をめぐって対立するようになった。共産党との合作の継承を主張する汪兆銘は①党左派、③は右派と言われるようになった。  国民革命軍を率いた③が北伐を進め、武漢を攻略すると、①政府も広東から北上させて武漢に移り、武漢政府とし、汪兆銘は主席として国共合作の路線を継続しようとした。その頃から共産党の台頭に危機感を持つ右派は、資本家層の要望もあって共産党排除に動くようになり、ついにその動きは③による1927年4月12日の(④)として実行され、共産党勢力に対する大弾圧を決行した。  しかし、武漢政府を握る汪兆銘らは国共合作の維持を掲げて③に反対、両者の対立は決定的となり、③は別に(⑤)を樹立した。汪兆銘はなおも国共合作を維持しようとしたが、政府内部の右派勢力も増大し、コミンテルンの共産党への指示も強硬なものであったことから、汪兆銘は一転して反共の立場に立ち、ついに共産党排除に踏みきり、1927年7月15日に国共合作の破棄を宣言した。  その後、武漢政府は消滅し、⑤に合流したが、汪兆銘は政治の中枢から離れて広東で活動、1931年5月には広東に新たに国民政府を樹立して南京の③に対抗した。

    ①国民 ②五・三〇 ③蒋介石 ④上海クーデタ ⑤南京国民政府

  • 36

    汪兆銘について、空所補充。 しかし、同年、満州事変が起こり、国民政府も一体化を迫られたため、1932年1月、蔣介石と和解し、南京国民政府に参加、行政院長兼外交部長としてナンバー2の地位についた。中国ではナショナリズムが高揚したが、日本の侵略が満州に次いで華北に伸びてくると言う現実を前に、汪兆銘はそれに抵抗する国力が不十分であると考え、「一面抵抗、一面交渉」の方針を打ち出し、日本軍と講和もはかるべきだと提唱した。しかし対日交渉は譲歩であり、売国であるという反対派の非難が激しくなり、1935年11月には白昼、反対派から狙撃され重傷を負った。  1937年、日中戦争が勃発、日本軍が南京に迫ると、蔣介石以下、国民政府は(①)に移り、汪兆銘も従った。日本の(②)内閣(第一次)は1938年1月に「国民政府を相手にせず」と表明、軍事攻勢を強めて屈服させようとした。  日本軍は広州・武漢を攻略したが、戦線は伸びきったまま長期化の様相を呈してきたため、本格的な講和を模索せざるを得なくなってきた。そこで、軍部は秘密裏に工作を進めて国民政府内の反蔣介石派と接触し、その分裂をはかった。その対象となったのが、孫文の後継者を自負しながら、蔣介石と対立していた汪兆銘であった。軍が秘密工作を進める上での効果をねらい、②内閣は、それまでの「国民政府を相手とせず」という方針を捨て1938年11月3日に東亜新秩序を表明し、親日的な政府の出現を促した。 汪兆銘は1938年12月、日本陸軍の軍人によって密かに進められた工作により、①から脱出に成功、(③)に迎えられた。②内閣は講和の三原則「善隣友好、共同防共、経済提携」を示し、汪兆銘もそれに応えて停戦を表明した。日本政府は汪兆銘を南京に迎え、1940年3月、親日政権として(④)を樹立させた。  汪兆銘の④(一般に④とは1927年の上海クーデタ後に蔣介石が南京に建てた政権を言うが、それとは別)は、「反共和平」「純正三民主義」を掲げ、日本と停戦して中国社会の再建をめざした。その間、日本は汪兆銘政権を中国の正統な政府と認めるため、大東亜会議への招聘、1940年11月には日華基本条約の締結を行って汪兆銘の④を中国正統の政権と認め、さらに1943年1月に日華新協定を締結して治外法権の撤廃、租界の返還など不平等条約の撤廃を認めた。

    ①重慶 ②近衛文麿 ③ハノイ ④南京国民政府

  • 37

    空所補充。 「人民戦線」結成の具体的な動きとしては、1934年のイタリアにおける社会党と共産党の統一行動協定の調印、1936年2月の(①)人民戦線内閣の成立と、1934年に運動を開始し、1935年7月14日に広範なフランス人民戦線を成立させ、36年6月に社会党(②)を首班とする内閣を成立させた動きが典型であるが、それら以外にも、チリやハンガリー、イギリスの共産党と労働党左派の共闘などの動きが起こった。

    ①スペイン ②ブルム

  • 38

    スペイン内乱について、空所補充。 1936年1月のスペイン総選挙で共和派・社会主義者・共産党などからなるスペイン(①)派が勝利し、2月に首都マドリードに①内閣が成立すると、ただちに軍部はクーデタの準備に入り、各地の将軍間で連絡を取り、一斉蜂起を計画した。1936年7月17日、モロッコのメリリャで反乱軍が蜂起し、政府軍大佐を銃殺、労働組合・①の指導者を逮捕し、本土にむけて「異常なし」と打電した。これがクーデタ開始の合図だった。18日早朝、カナリア島ラス=パルマスにいた(②)将軍はクーデタ宣言を放送した。これはスペインでそれまでも政治危機の時によく見られた軍部の蜂起宣言((③))であった。それに呼応して19日、スペイン全土で反乱軍が蜂起した。ファシストのファランヘ党などが同時に蜂起したがデモなどの大衆的な反政府運動は起こらなかった。軍の反乱の知らせを聞いた労働者は、「労働者に武器を!」と叫び政府に迫ったが首相キローガは収拾の目途が立たず辞任、次の首相もすぐ辞任した後に首相となったホセ=ヒラールが労働者に武器を与えることを決意、義勇軍が組織された。首都マドリードを初め各地に民兵委員会が生まれ、アナーキストも含む政府支持の民兵が組織された。

    ①人民戦線 ②フランコ ③プロヌンシアミエント

  • 39

    空所補充。 フランコ軍は8月に入るとモロッコのムーア人部隊を本土に上陸させて攻勢に移り、さらにフランコは(①)のヒトラーと(②)のムッソリーニに心情的に近く、その両国に支援を要請、それに応えて積極的な軍事援助が行われた。ヒトラー、ムッソリーニは人民戦線を(③)による謀略と宣伝して、反共産主義の理念を戦争参加の理由としたが、実際にはスペインの鉄鉱石などの地下資源を手に入れること、またフランスとの全面戦争に備えて、特に①では再軍備したばかりの軍隊が実戦訓練をする格好のチャンスだと考えたことが理由としてあげられる。特に空軍を指揮するゲーリングはそのような意図が強かった。  ヒトラーとムッソリーニは実は(④)に対する利害が対立しており、関係は良くなかった。しかしスペイン戦争への支援は、両国を近づける契機となった。②は当時(⑤)併合を開始してイギリス・フランスから非難されていたこともあり、①と協力することを得策と考えるようになっていた。そこで②は④を①が併合することを暗に承認して、提携することとなった。それが1936年10月の(⑥)の成立である。スペイン人民戦線派民兵は、スペインのファシストと戦っただけでなく、①・②のファシスト国家とも戦ったのである。  なお、隣国ポルトガルは、当時(⑦)による独裁政治体制がすでに成立しており、⑦政権は人民戦線を敵視していたので、反乱軍に協力し、反乱軍はポルトガルを経由して内陸に攻め込むことが可能になり、またポルトガルは反乱軍の兵站基地となった。また人民戦線側の兵士がポルトガルに逃れると逮捕され、フランコ軍に送り返された。

    ①ドイツ ②イタリア ③コミンテルン ④オーストリア ⑤エチオピア ⑥ベルリン=ローマ枢軸 ⑦サラザール

  • 40

    ★1917年のロシア革命で成立したソヴィエト政権は、危機的な食糧状況を解決するために新たな経済政策を導入した。この経済政策の内容について、ロシアに危機的な食糧状況が生じた背景と経済政策の結果を明らかにしながら、次の語句を必ず使用して、100字以内で述べなさい。 指定語句〔対ソ干渉戦争〕

    連合国による対ソ干渉戦争の中でソヴィエト政権が行った統制色の強い戦時共産主義は、生産を低下させ、食糧危機を生じさせた。このためレーニンは新経済政策(NEP)を導入して統制を緩めたので、経済は回復した。(100字)

  • 英作文 重要単語・表現①

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    問題一覧

  • 1

    ★アメリカで世界恐慌が始まった要因を5つ説明せよ。 指定語句〔生産過剰、有効需要、保護貿易主義、アメリカの市場、失業者〕

    ①1920年代の戦後好況の中で資本・設備への過剰な投機が行われ「生産過剰」に陥った。 ②農産物も過剰生産のために価格の下落する農業不況が起こり、農家収入が激減、国内の有効需要が低下した。 ③各国とも自国産業の保護のため、保護貿易主義に転換したので、世界市場の拡大も阻止されていた。 ④同時にアジアの民族資本の成長、ソ連社会主義圏の成立などで、アメリカの市場が縮小していた。 ⑤企業が生産を減少させたため失業者が増大、さらにそのため購買力は減退し、さらなる生産減少をもたらすという悪循環に陥った。

  • 2

    世界恐慌について、空所補充。 1929年10月にアメリカ合衆国の戦間期で始まり、1933年にかけて世界に広がった経済不況(恐慌)のこと。発端はアメリカ合衆国の(①)にあるニューヨーク株式取引所で1929年10月24日(後に「(②)」といわれる)に株式が大暴落、以後長期にわたり、かつアメリカだけでなく世界中に不況が拡がった。1930年代に入っても景気は回復せず、企業倒産、銀行の閉鎖、経済不況が一挙に深刻になって、1300万人(4人に1人)の失業者がでた。恐慌はおよそ1936年頃まで続いた。またこの恐慌が世界に波及し、ヨーロッパ各国から日本などアジア諸国にも影響を受け、資本主義各国は恐慌からの脱出策を模索する中で対立を深め、第二次世界大戦がもたらされることとなった。

    ①ウォール街 ②暗黒の木曜日

  • 3

    空所補充。 各国はそれぞれ、自国の生き残りのための経済を立て直しに走ることとなった。イギリスでは(①)挙国一致内閣が、1931年の(②)停止に踏み切ると、33年にはアメリカ合衆国も②停止に同調し、世界②は崩壊した。またイギリスが(③)会議でイギリス連邦内の自治領との特恵関税を設けて他地域に対する保護関税政策に踏み切るとともに、(④)を構築すると、フランスのフラン経済圏、アメリカのドル経済圏など資本主義列強は通貨ごとのブロック経済政策を採用することとなった。しかし、各国がブロック経済によって保護貿易主義に転じたため、世界全体の自由貿易が衰退して貿易額が減少し、世界全体の不況にさらに加速させることとなった。  資本主義諸国は危機感を抱き、1933年6月、国際連盟が主催して(⑤)会議を開催し、67カ国が集まり、世界恐慌からの国際的な対応を協議する努力を行った。しかし、この会議では、アメリカの(⑥)大統領は世界経済全体に責任を持つことを怠り、賠償問題についての議論が避けられ、また通貨の安定などにも各国の利害が対立したため、結局まとまらず、戦争による解決へと向かうことになってしまった

    ①マクドナルド ②金本位制 ③オタワ連邦経済 ④スターリング=ブロック ⑤ロンドン世界経済 ⑥ローズヴェルト

  • 4

    空所補充。 1933年3月に登場したアメリカ合衆国のF=ローズヴェルト大統領の(①)政策は農産物の過剰供給を抑え、工業生産の国家管理を強め、大幅な財政出動で公共事業を興して雇用を創出し、国内購買力の回復を図った。また、そのためには労働者の保護や社会保障の充実などにも取り組み、銀行を厳しく監視するなど資本主義の枠内での大胆な改革を実施した。そのような資本主義の原則を守りながら、自由放任ではなく政府が経済を強力にコントロールする必要があるという考えを理論化したのがイギリスの経済学者(②)であった。彼は有効需要を増加させることによって過剰生産を解消するなどをめざし国家の財政政策によって公共事業を興して雇用を創出したり、低金利によって貯蓄を消費に回すことによって購買力をつけることなどを唱えた。しかし景気の回復、雇用の増大(失業の減少)はすぐには解消されず、1939年の第二次世界大戦の開戦を迎えることとなる。

    ①ニューディール ②ケインズ

  • 5

    空所補充。 世界恐慌の影響を最も強く受けたのが(①)であった。また植民地が少なく、国内資源も少ないイタリアも経済が破綻した。アジアでは日本はすでに大陸進出を果たしていたが、国内には地主制度など古い社会構造が残り、農村不況が慢性化し、低い購買力にとどまっていたため、昭和恐慌と言われる状況となり、資源と市場を海外に求める経済界と軍の思惑が強まっていた。このような「持たざる国」である①・イタリア・日本にファシズムが台頭する直接的な契機も世界恐慌にあった。特に、①は第一次世界大戦の莫大な賠償金をフランスなどに支払わなければならず、1924年の(②)で軽減されたものの、アメリカ合衆国の資金援助で経済復興を図るという図式になっていたため、アメリカ発の世界恐慌の影響を最初に受けざるを得なかった。1931年6月の(③)は①経済の悪化を立ち直らすことが出来ず、1933年には失業者は600万に増大した。そのような危機が高まる中で、同年1月(④)が首相に任命され、独裁政治を開始する。同じ年3月には、一方のアメリカでF=ローズヴェルトが大統領となり、ニューディール政策開始される。

    ①ドイツ ②ドーズ案 ③フーヴァー=モラトリアム ④ヒトラー

  • 6

    恐慌期のアメリカについて、空所補充。 1929年春、大統領に就任した(①)は「永遠の繁栄」を国民に約束したが、その年の秋10月24日にはニューヨークのウォール街での株式の大暴落が始まり、世界恐慌に見舞われることとなる。1931年6月には①=モラトリアムを示して、大恐慌の世界への波及を食い止めようとしたが、手遅れとなった。  この資本主義経済の破綻は、英仏のブロック経済体制、独伊日などのファシズム国家の登場をもたらし新たな世界分割戦争を引き起こした。アメリカは民主党のF=ローズヴェルト大統領が1933年3月に打ち出したニューディール政策で、豊かな国内資源を背景にした国内購買力の増強に努め、この危機を乗り切ろうとした。ここでとられた経済政策は、資本主義に一定の修正と制限をかけるもので、経済学者(②)によって理論化され、戦後においても、民主党政権で継承された。  ニューディールが開始された1933年、ヨーロッパではドイツのヒトラーが政権を獲得、イタリアとともに(③)体制をつくりあげ、ヴェルサイユ体制の打破を主張して大きな脅威となっていた。またアジアでは日本はすでに1931年の満州事変によって中国大陸侵略を開始、アメリカの利益と衝突し始めていた。これらの動きに対してF=ローズヴェルト政権は1933年11月に(④)を承認しドイツ、日本を牽制した。また、ラテンアメリカ諸国に対しては(⑤)外交と言われる強調方針に転換し、キューバに対する(⑥)を廃止した。しかし議会は、1935年8月に中立法を制定、従来のアメリカ外交の基本である(⑦)主義を維持した。

    ①フーヴァー ②ケインズ ③ファシズム ④ソ連 ⑤善隣 ⑥プラット条項 ⑦孤立

  • 7

    ニューディール政策について、空所補充。 1933年に始まるニューディール政策の主要な内容は、(①)法(AAA)・(②)法(NIRA)・テネシー川流域開発公社(TVA)・(③)法・社会保障法・金本位制停止など、多岐にわたるが、そのねらいは、従来の自由放任主義の原則を改め、政府の積極的な経済介入によって、(④)などを行って雇用を創設し、労働者保護や社会保障の充実によって弱者を救済して全体的な国内の購買力を回復(内需回復)して、恐慌を克服しようとするものであった。ニューディールについては、おおむね好意的な評価が為されているが、詳細に見ると問題も多かった。また、政府による経済介入については、当時から社会主義的な手法であるという批判、非難が強かったことも見逃してはならない。

    ①農業調整 ②全国産業復興 ③ワグナー ④公共事業

  • 8

    F.ローズヴェルトの外交について、空所補充。 1933年、市場の拡大と日本・ドイツへの牽制の意味から、(①)を承認した。このころ、ヨーロッパにおけるドイツ・イタリア、アジアにおける日本のファシズムの台頭が急激になり、ナチス=ドイツのヒトラーによる(②)、イタリアのムッソリーニ政権による(③)侵入、日本の満州事変から満州国建国と緊迫した情勢が続いた。  しかしアメリカの世論はこの段階でも孤立主義の伝統が根強く、アメリカ議会は1935年に(④)法を制定して参戦を否定し、F=ローズヴェルトもこの段階ではその規定に従って中立を守り、直接介入は慎重に回避した。  その一方で、それまでのアメリカのカリブ海外交の強圧的態度を改め、善隣外交を展開、キューバのプラット条項の廃止などを実現した。また、1934年には議会で(⑤)法が成立し、10年後のフィリピンの独立を認めた。  ファシズム国家の侵略行動は続き、1936年にはドイツのラインラント進駐、イタリアは③併合、さらにスペイン戦争、1937年には日本軍が盧溝橋事件・第2次上海事変で中国本土への侵攻を開始し日中戦争が始まるという世界戦争の危機が高まった。その事態を受けて、F=ローズヴェルトは1937年10月にシカゴで演説し、暗にドイツ・イタリア・日本を危険な感染症にかかった患者にたとえて隔離すべきであるいう「(⑥)」(または防疫演説)を行い、世界の注目を浴びたが、この段階でもアメリカ国内の世論は戦争への参加に批判的であった。

    ①ソ連 ②再軍備 ③エチオピア ④中立 ⑤フィリピン独立 ⑥隔離演説

  • 9

    ★アメリカ合衆国の恐慌対策について、以下の語句を用いて、90 字以内で説明しなさい。 指定語句〔生産統制、ワグナー法〕

    ローズヴェルト政権はニューディール政策を展開。NIRA で工業、AAA で農業における生産統制を行った。失業対策として TVA などの公共事業を行い、ワグナー法で労働者の団結権、団体交渉権を保障した。(89 字)

  • 10

    ★1930年代のアメリカでニューディール政策が行われた背景と、それまでの自由な資本主義との相違点を80字程度で説明しなさい。

    世界恐慌によってアメリカ国内で失業者が大量に発生していた。完全自由放任主義であった資本主義に対して政府が一定の介入を行うという点でそれまでの資本主義と異なっていた。(82字)

  • 11

    ★F=ローズヴェルトの善隣外交について、その主な内容を60字以内で説明せよ。 指定語句〔キューバ、ハイチ〕

    1934年にはキューバに対してプラット条項を撤廃してその完全独立を認め、ハイチからは海兵隊を撤兵させ軍政を終わらせた。(59字)

  • 12

    ★イギリスの恐慌対策について、以下の語句を用いて 120 字以内で説明しなさい。 指定語句〔マクドナルド、オタワ〕

    マクドナルド労働党内閣はロンドン軍縮会議で補助艦を制限。失業手当削減問題で労働党から除名されたが、保守党・自由党と挙国一致内閣を組織。英連邦諸国はオタワ会議でスターリング=ブロックを形成。金本位制を停止して国内産業を守ろうとした。 (115 字)

  • 13

    ★イタリアでファシストが台頭した背景と、ファシスト政権の成立過程について、以下の語句を用いて 120 字以内で説明しなさい。 指定語句〔フィウメ、ロシア革命、国王〕

    パリ講和会議でフィウメが返還されず、植民地も増えなかったことに対する不満、ロシア革命の影響による社会主義者の台頭への地主・資本家の危機感が背景にある。ムッソリーニはローマ進軍を行い、国王から首相に任命され、ファシスト党の独裁体制を樹立した。(120 字)

  • 14

    イタリアで、1928年の最高決議機関となったものは何か。

    ファシズム大評議会

  • 15

    イタリア内部について、空所補充。 1924年に(①)を併合し、1926年には(②)保護国化などを実現して権威を高め、勢力を拡大した。1929年2月にはローマ教皇と(③)条約を締結して(④)を承認し、ローマ=カトリック教会との関係を修復した。  1929年の世界恐慌によってイタリア経済も大きな打撃を受け、ムッソリーニは国民の目をそらそうとし、1934年には第2回のワールドカップをイタリアで開催し、サッカー人気に便乗して人気を高めた。その影響を受けて、36年にはヒトラーが(⑤)を開催した。この両者はスポーツの政治利用でも共通していたといえる。

    ①フィウメ ②アルバニア ③ラテラノ ④ヴァチカン市国 ⑤ベルリン=オリンピック

  • 16

    ナチス=ドイツについて、空所補充。 まず陰謀によって反対党を押さえつける手段を執った。2月27日に(①)事件が起きると、それをドイツ共産党員のしわざと断定してその政治活動を禁止した。3月には、(②)法を国会で可決し、政府に議会の議決を経ずに法律を制定することを可能にした。こうして議会政治が完全に葬り去られただけでなく、国会法か事件の翌日に出された大統領緊急令で、憲法で保障された基本的人権も停止された。ついで社会民主党も活動を禁止されてナチ党以外の政党は7月はじめまでに解散に追い込まれた。さらに、労働運動では労働組合は解散させられ、別に経営者も含む「ドイツ労働戦線」という御用組合に一本化された。宣伝相ゲッベルスが進めた焚書運動によって(③)人学者や文学者の著作や共産主義や自由主義に関する書籍が焼かれた。こうしてナチス=ドイツにおいては、労働組合活動の自由、思想信条の自由、政党活動の自由と言った基本的人権がわずか半年の間に奪われてしまった。  また、(③)の建設など独占資本の利益に添った経済政策を推し進める一方、失業対策にも積極的に取り組んだ。

    ①国会議事堂放火 ②ユダヤ ③アウトバーン

  • 17

    ★ナチス政権成立の経緯について、以下の語句を用いて 120 字以内で説明しなさい。 指定語句〔世界恐慌、大統領緊急令、国会議事堂放火事件、全権委任法〕

    世界恐慌の混乱の中、国会でナチスが第1党、共産党が第2党となった。ヒンデンブルク大統領は、ヴァイマル憲法に基づく大統領緊急令でヒトラーを首相に任命。ヒトラーは国会議事堂放火事件で共産党を弾圧、国会で全権委任法を成立させ、独裁権を握った。(118字)

  • 18

    ★ナチス=ドイツによる大衆娯楽を拡充する政策はドイツ国民に歓迎された。どのようなことを行ったか、50字程度で説明せよ。

    イタリアのファシズムに倣い、団体旅行のレクリエーションを組織したり、福祉事業やラジオ放送などを整備した。(52字)

  • 19

    空所補充。 国内ではナショナリズムを鼓吹するとともに共産主義への恐怖と反ユダヤ主義を巧妙に結びつけた宣伝を繰り返し、ユダヤ人排斥を訴えた。1935年には(①)法を制定し、ユダヤ人の公民権を奪い、差別の徹底化を図った。多くのドイツ人は積極的にユダヤ人差別に同調したわけではなかった。1938年の(②)といわれた、ナチ党員によるユダヤ人商店などに対する破壊活動の際も、ヒトラーは一般市民が協力的でなかったと不満を漏らしている。ナチス権力が強大化と対外戦争に突入するなかで、ユダヤ人虐殺は組織的に進められていったが、民衆の多くは傍観するか、無関係を装うしかなかった。  ユダヤ人迫害の根拠とされた優生思想(優秀な民族を遺伝子で選抜する思想)の対象はユダヤ人に留まらず、精神障害者、身体障害者、同性愛者などにも及び、彼らも劣等遺伝子をもつものとして抹殺の対象となった。またユダヤ人と並んで(③)も迫害の対象とされた。

    ①ニュルンベルク ②水晶の夜 ③ロマ(ジプシー)

  • 20

    空所補充。 ナチスが政権をとると、(①)(SA)による暴力的な強圧の前に批判の声は上げにくくなった。さらに秘密警察である(②)が国民生活を厳しく監視する社会が形成された。しかし、ヒトラーは国民の①に対する恐怖心を逆に利用する巧妙な手を使った。すなわち、1934年6月30日、ヒトラーは①の幹部レームなどを殺害、粛清した。これは突撃隊が暴力行為を繰り返し、正規軍である国防軍に取って代わろうという勢いを示したことに保守派、国防軍が不安を感じたことに対応してヒトラーが断行したテロであったが、これによってヒトラーは果断に国民の敵を排除したとしてその人気がさらに高めたのだった。その後は①に対抗する武装組織として(③)(SS)が作られ、ヒトラーはこれらを巧妙に操りながら、大衆操作を行っていった。その面ではヒトラーの成功はポピュリズム(大衆政治)の性格があると言える。

    ①突撃隊 ②ゲシュタポ ③親衛隊

  • 21

    空所補充。 ヒトラーはかねてヴェルサイユ体制や(①)体制の打破を主張していたが、権力を握ると共にまず1933年に、当時国際連盟で進められていたジュネーヴ軍縮会議を軍備の不平等の解消を主張していれられずに脱退し、さらに10月に国際連盟からの脱退を実行した。こうしてヴェルサイユ体制・①体制に縛られることのない外交を展開する条件を作り、ついで1935年の(②)編入、再軍備(徴兵制=義務兵役制復活)、1936年の(③)進駐を立て続けに強行し、ヨーロッパの安定を脅かした。イギリス・フランスがこれらのヒトラーの強硬姿勢を容認した結果、国民にはヒトラー外交の勝利と受け取られ、歓迎され、まさに英雄視される状況が出てきた。

    ①ロカルノ ②ザール ③ラインラント

  • 22

    2008 東大 世界恐慌によって再び経済危機に直面したドイツでは、失業者対策が重要な問題となった。ヒトラーは政権掌握後、厳しい統制経済体制をしいて、軍需産業の振興と共に高速自動車道路の建設を進めた。この道路の名称を記しなさい。

    アウトバーン

  • 23

    第一次五ヵ年計画について、空所補充。 1928年から1932年の間、ソ連のスターリンの指導で実施された、急激な重工業化と農村集団化を柱とした、社会主義国家建設計画。スターリン政権は一国社会主義論を掲げて敵対する勢力を排除し、それまでの(①)を否定し、社会主義経済建設をめざして立案した。産業の基本部門である鉄鉱・機械・石炭などの重工業の建設と、生産向上のための農業の集団化の推進が柱であった。計画目標は、全工業生産高の250%増、重工業は330%増、そして農業生産は150%増、農地の20%の集団化、という途方もないものであった。この計画の下で工業建設、農業集団化は猛烈なスピードで進み、1932年までにソ連を先進資本主義諸国と並ぶ工業国に仕上げ、集団化の強行による農業生産の増産が進められた。当時アメリカ・イギリスなど資本主義国は、1929年に始まる(②)のただ中にあったが、社会主義経済体制をとったソ連はそれに巻き込まれることがなく、当時は社会主義の計画経済には恐慌は起こりないとこととしてその優位が喧伝され、その成功を足場にスターリンは独裁的な権力を獲得したが、その反面に批判を許さず、五ヶ年計画進行中の1930年代に反対派を排除する(③)を強行していたことも忘れてはいけない。

    ①新経済政策、ネップ ②世界恐慌 ③粛清

  • 24

    1936年、スターリン独裁体制下で制定されたソ連の憲法はなんと呼ばれるか。

    スターリン憲法

  • 25

    正誤判断。 計画経済は、ナチス=ドイツやアメリカ、日本で受け入れられ、満州国では実際に五ヵ年計画が行われた。

  • 26

    空所補充。 満州事変に対してアメリカは強く反発し、1932年1月、(①)大統領は国務長官(②)の名で、日本の満州における軍事行動は九カ国条約(中国の主権尊重、機会均等、門戸開放の原則)と不戦条約に違反しているので承認できないという声明((③))を発表した。しかし経済制裁などの実力行使は行わず、またイギリスも事態が満州に限られている間は黙認するという態度をとった。両国とも世界恐慌のさなかにあって、アジアに干渉する余裕がなかったことが背景にあった。  中国政府(蔣介石)は共産党との内戦を優先する((④漢字4文字))ため、全面的な日本との戦争を避け、もっぱら日本軍の侵略行為を国際連盟規約違反であるとして国際連盟に提訴し、国際世論によって阻止することをめざした。国際連盟では日本も含む常任理事会で中国が提案した撤退勧告が可決されると、日本はなおも自衛行動であること、中国側には治安能力がないこと、などの理由で正当性を主張、調査団を派遣することを提案し、それが実行されることとなった。  ソヴィエト=ロシアでは1924年にレーニンは死んでいたが、1921年から(⑤)が採用されて、経済を立て直し、翌年にはソ連邦が成立していた。この時期にソ連の承認が続き、日本とも1625年1月に日ソ基本条約が締結されていた。ついで1928年からスターリンによる第1次五カ年計画が開始され、満州には力をさけない状況になっていた。そのためスターリンは満州事変勃発に対しては中立不干渉を声明した。なおソ連はまだ国際連盟には加盟していない。

    ①フーヴァー ②スティムソン ③スティムソン=ドクトリン ④安内攘外 ⑤ネップ

  • 27

    空所補充。 満州事変で日本が公然と中国大陸への侵略を開始し、それをアメリカ・イギリスが阻止できなかった(しなかった)ことは、第一次世界大戦後のアジアの国際秩序とされていた、(①)会議(1921~22年)で成立した九カ国条約を柱とする①体制が、事実上崩壊したことを意味している。それは、ヨーロッパにおける(②)体制が、ヒトラーの登場によって破られていくのと時を同じくしており、ヴェルサイユ体制の両輪が崩れたことを意味していた。 問題は国際連盟を舞台とした交渉に委ねられることになったが、第一次世界大戦後に構築された集団安全保障の仕組みが、理事国という立場である日本が引きおこした行動を、アメリカとソ連が加盟していないという状況の下で、機能させることができるかが問われることとなった。

    ①ワシントン ②ロカルノ

  • 28

    満州国について、空所補充。 関東軍首脳は当初は満州を直接統治下におくつもりであったが、国際情勢から行ってそれが困難と判断したか、事変開始直後に独立国家建設の方針に転換した。特務機関長土肥原大佐が動き、清朝の最後の皇帝であった溥儀を担ぎ出し、1932年3月に満州国を建設した(当初は溥儀は執政となった)。日本政府の犬養内閣は、満州国の承認をためらっていたが、5月に海軍軍人らによって首相が暗殺されるという(①)事件が起きて政党政治が終わりを告げ、次の斎藤実内閣が軍部の圧力の下で9月、(②)を締結して満州国を承認、軍部の独断で始まった満州事変は国家によって追認された。多くの国民は関東軍の行為を、日露戦争で明治の日本人が血を流して獲得した満州の権益を不当な中国から守ったものとして歓迎した。  日本政府は、満州国の建国は満州人の自主的な独立国家の建設であると主張したが、中国は不当な侵略行為であると提訴した。国際連盟は(③)を現地に派遣するとともに双方の主張を聞いた上で報告書を提出した。報告書は(④)事件は関東軍の謀略であり、日本の主張である自衛行為であるとは認定できないというものであった。従って日本軍には満州からの撤退が勧告された。ただし満州での日本の一定の権益については認め、満州に自主的な国家が建設されることは容認していた。国際連盟に提出された報告書は、1933年2月の国際連盟総会で審議され、満州国の不承認と日本軍の撤退を42ヵ国の賛成、反対1(日本)、棄権1((⑤))で可決した。1933年3月、日本はそれを不服とする日本は国際連盟を脱退、孤立を深めていく。

    ①五・一五 ②日満議定書 ③リットン調査団 ④柳条湖 ⑤シャム

  • 29

    南京事件について、空所補充。 (①)戦争の中で、1937年12月、日本軍は長江下流の大都市、南京に対する総攻撃を実行、激戦の末に占領した。戦闘は双方の兵力に大きな損耗を出したが、日本軍はその掃討戦においてゲリラ的な抵抗を排除するため、捕虜や非戦闘員に対する殺害を組織的に実行し、さらにその過程で略奪、強姦などの不法行為が行われた。この事実は厳しい情報統制によって戦争中の日本国内では知らされることはなかったが、外国の情報機関により国際的に知られることとなり、日本軍の残虐行為として大きな批判を受けた。戦後の(②)などで軍指導者が処刑されたことで日本国内では初めてその事実が知らされ、大きな衝撃となった。

    ①日中 ②極東軍事裁判

  • 30

    第二次国境合作について、空所補充。 1937年7月に勃発した日中戦争において、中国側の国民党と共産党が日本帝国主義に対する抵抗(抗日)で一致した戦いを組んだ。両者は第1次国共合作が崩壊して以来、対立を深めていたが、1936年の(①)事件で旧東北軍閥の(②)が国民党の蔣介石を軟禁し、中国共産党との内戦停止と国共合作を強く迫った。蔣介石がようやく同意し、共産党の協議に合意した。  1937年7月の(③)事件の勃発によって、日中戦争の全面戦争状態となり、日本軍の中国本土への侵攻が本格化した。それに対し、中国共産党は、それ以前の1935年にコミンテルンの方針により反ファシズム人民戦線結成に転換し、1935年8月1日に(④)の結成を呼びかける八・一宣言を出していた。国民党もようやくその呼びかけに応じ、1937年9月23日に第二次国共合作が成立した。

    ①西安 ②張学良 ③盧溝橋 ④抗日民族統一戦線

  • 31

    ★西安事件の内容とその影響について50字程度で説明しなさい。

    張学良が蔣介石を監禁して内戦の停止を迫った事件。第二次国共合作につながり、対日戦線が張られた。(42字)

  • 32

    第2次国共合作によって紅軍が国民革命軍に組み込まれて編制された軍。中華人民共和国建国後に人民解放軍となる。この名称を答えよ。

    八路軍

  • 33

    重慶について、空所補充。 重慶は中国の長江上流、三国時代には蜀に属した。現在も四川省の最大の都市。日中戦争が勃発し国民政府の首都南京に日本軍が迫る中、(①)首席は国防最高会議を開催、1937年10月30日、首都を重慶に移すことを決定、11月20日に発表した。国民政府の重慶移転は1937年12月1日に実行した。国民政府は(②)を一時的に戦時首都としていたが、1938年10月に②が陥落したので、最終的に重慶に移転したのだった。これ以後、日中戦争の最後まで①の主導する国民政府は重慶を首都として抗日戦争の拠点とした。①の重慶国民政府に対しては、(③)を通してアメリカ・イギリス・ソ連からの援助物資が運び込まれ、抗日戦を継続できた。日本軍は1939年5月から数度にわたって激しい重慶爆撃を行ったが、陸上部隊で攻撃することはできなかった。

    ①蒋介石 ②武漢 ③援蔣ルート

  • 34

    空所補充。 1938年10月、武漢三鎮が日本軍の手に落ち、蔣介石の国民政府は長江上流の(①)に退いた。①に対して日本軍は激しい空爆を加えたが、11月から①の国民政府に対するアメリカ・イギリスなどの支援が強化され、その抵抗はつづいた。この蔣介石政府支援のルートを当時日本では、(②)と言った。  ルートは、アメリカ・イギリス・フランスによる仏印ルート(ハノイ・ルート)とビルマ雲南ルート(ビルマ・ルート)、さらにソ連による共産ルート(赤色ルート)の3ルートがあった。日本軍は日中戦争が膠着する中、これらの②の遮断を大きな課題として掲げ、(③)事件(39年5月)の敗北で北進を断念した後は、フランス領インドシナやビルマ方面への進出を図るようになる。

    ①重慶 ②援蒋ルート ③ノモンハン

  • 35

    汪兆銘について、空所補充。 汪兆銘は古くからの中国(①)党員で、孫文の側近の一人として、三民主義及び、連ソ・容共・扶助工農という国共合作の理念を忠実に守り、その後継者として自認していた。1925年3月に孫文が死去、その遺言の署名者の一人となっている。5月の(②)運動での反帝国主義、民族主義の運動の高まりを受け、1925年7月に広州で広州国民政府が成立すると、汪兆銘は実質的な党主席として国民革命の中枢となった。しかしそのころから、国民政府の軍事面を握った(③)と党の主導権をめぐって対立するようになった。共産党との合作の継承を主張する汪兆銘は①党左派、③は右派と言われるようになった。  国民革命軍を率いた③が北伐を進め、武漢を攻略すると、①政府も広東から北上させて武漢に移り、武漢政府とし、汪兆銘は主席として国共合作の路線を継続しようとした。その頃から共産党の台頭に危機感を持つ右派は、資本家層の要望もあって共産党排除に動くようになり、ついにその動きは③による1927年4月12日の(④)として実行され、共産党勢力に対する大弾圧を決行した。  しかし、武漢政府を握る汪兆銘らは国共合作の維持を掲げて③に反対、両者の対立は決定的となり、③は別に(⑤)を樹立した。汪兆銘はなおも国共合作を維持しようとしたが、政府内部の右派勢力も増大し、コミンテルンの共産党への指示も強硬なものであったことから、汪兆銘は一転して反共の立場に立ち、ついに共産党排除に踏みきり、1927年7月15日に国共合作の破棄を宣言した。  その後、武漢政府は消滅し、⑤に合流したが、汪兆銘は政治の中枢から離れて広東で活動、1931年5月には広東に新たに国民政府を樹立して南京の③に対抗した。

    ①国民 ②五・三〇 ③蒋介石 ④上海クーデタ ⑤南京国民政府

  • 36

    汪兆銘について、空所補充。 しかし、同年、満州事変が起こり、国民政府も一体化を迫られたため、1932年1月、蔣介石と和解し、南京国民政府に参加、行政院長兼外交部長としてナンバー2の地位についた。中国ではナショナリズムが高揚したが、日本の侵略が満州に次いで華北に伸びてくると言う現実を前に、汪兆銘はそれに抵抗する国力が不十分であると考え、「一面抵抗、一面交渉」の方針を打ち出し、日本軍と講和もはかるべきだと提唱した。しかし対日交渉は譲歩であり、売国であるという反対派の非難が激しくなり、1935年11月には白昼、反対派から狙撃され重傷を負った。  1937年、日中戦争が勃発、日本軍が南京に迫ると、蔣介石以下、国民政府は(①)に移り、汪兆銘も従った。日本の(②)内閣(第一次)は1938年1月に「国民政府を相手にせず」と表明、軍事攻勢を強めて屈服させようとした。  日本軍は広州・武漢を攻略したが、戦線は伸びきったまま長期化の様相を呈してきたため、本格的な講和を模索せざるを得なくなってきた。そこで、軍部は秘密裏に工作を進めて国民政府内の反蔣介石派と接触し、その分裂をはかった。その対象となったのが、孫文の後継者を自負しながら、蔣介石と対立していた汪兆銘であった。軍が秘密工作を進める上での効果をねらい、②内閣は、それまでの「国民政府を相手とせず」という方針を捨て1938年11月3日に東亜新秩序を表明し、親日的な政府の出現を促した。 汪兆銘は1938年12月、日本陸軍の軍人によって密かに進められた工作により、①から脱出に成功、(③)に迎えられた。②内閣は講和の三原則「善隣友好、共同防共、経済提携」を示し、汪兆銘もそれに応えて停戦を表明した。日本政府は汪兆銘を南京に迎え、1940年3月、親日政権として(④)を樹立させた。  汪兆銘の④(一般に④とは1927年の上海クーデタ後に蔣介石が南京に建てた政権を言うが、それとは別)は、「反共和平」「純正三民主義」を掲げ、日本と停戦して中国社会の再建をめざした。その間、日本は汪兆銘政権を中国の正統な政府と認めるため、大東亜会議への招聘、1940年11月には日華基本条約の締結を行って汪兆銘の④を中国正統の政権と認め、さらに1943年1月に日華新協定を締結して治外法権の撤廃、租界の返還など不平等条約の撤廃を認めた。

    ①重慶 ②近衛文麿 ③ハノイ ④南京国民政府

  • 37

    空所補充。 「人民戦線」結成の具体的な動きとしては、1934年のイタリアにおける社会党と共産党の統一行動協定の調印、1936年2月の(①)人民戦線内閣の成立と、1934年に運動を開始し、1935年7月14日に広範なフランス人民戦線を成立させ、36年6月に社会党(②)を首班とする内閣を成立させた動きが典型であるが、それら以外にも、チリやハンガリー、イギリスの共産党と労働党左派の共闘などの動きが起こった。

    ①スペイン ②ブルム

  • 38

    スペイン内乱について、空所補充。 1936年1月のスペイン総選挙で共和派・社会主義者・共産党などからなるスペイン(①)派が勝利し、2月に首都マドリードに①内閣が成立すると、ただちに軍部はクーデタの準備に入り、各地の将軍間で連絡を取り、一斉蜂起を計画した。1936年7月17日、モロッコのメリリャで反乱軍が蜂起し、政府軍大佐を銃殺、労働組合・①の指導者を逮捕し、本土にむけて「異常なし」と打電した。これがクーデタ開始の合図だった。18日早朝、カナリア島ラス=パルマスにいた(②)将軍はクーデタ宣言を放送した。これはスペインでそれまでも政治危機の時によく見られた軍部の蜂起宣言((③))であった。それに呼応して19日、スペイン全土で反乱軍が蜂起した。ファシストのファランヘ党などが同時に蜂起したがデモなどの大衆的な反政府運動は起こらなかった。軍の反乱の知らせを聞いた労働者は、「労働者に武器を!」と叫び政府に迫ったが首相キローガは収拾の目途が立たず辞任、次の首相もすぐ辞任した後に首相となったホセ=ヒラールが労働者に武器を与えることを決意、義勇軍が組織された。首都マドリードを初め各地に民兵委員会が生まれ、アナーキストも含む政府支持の民兵が組織された。

    ①人民戦線 ②フランコ ③プロヌンシアミエント

  • 39

    空所補充。 フランコ軍は8月に入るとモロッコのムーア人部隊を本土に上陸させて攻勢に移り、さらにフランコは(①)のヒトラーと(②)のムッソリーニに心情的に近く、その両国に支援を要請、それに応えて積極的な軍事援助が行われた。ヒトラー、ムッソリーニは人民戦線を(③)による謀略と宣伝して、反共産主義の理念を戦争参加の理由としたが、実際にはスペインの鉄鉱石などの地下資源を手に入れること、またフランスとの全面戦争に備えて、特に①では再軍備したばかりの軍隊が実戦訓練をする格好のチャンスだと考えたことが理由としてあげられる。特に空軍を指揮するゲーリングはそのような意図が強かった。  ヒトラーとムッソリーニは実は(④)に対する利害が対立しており、関係は良くなかった。しかしスペイン戦争への支援は、両国を近づける契機となった。②は当時(⑤)併合を開始してイギリス・フランスから非難されていたこともあり、①と協力することを得策と考えるようになっていた。そこで②は④を①が併合することを暗に承認して、提携することとなった。それが1936年10月の(⑥)の成立である。スペイン人民戦線派民兵は、スペインのファシストと戦っただけでなく、①・②のファシスト国家とも戦ったのである。  なお、隣国ポルトガルは、当時(⑦)による独裁政治体制がすでに成立しており、⑦政権は人民戦線を敵視していたので、反乱軍に協力し、反乱軍はポルトガルを経由して内陸に攻め込むことが可能になり、またポルトガルは反乱軍の兵站基地となった。また人民戦線側の兵士がポルトガルに逃れると逮捕され、フランコ軍に送り返された。

    ①ドイツ ②イタリア ③コミンテルン ④オーストリア ⑤エチオピア ⑥ベルリン=ローマ枢軸 ⑦サラザール

  • 40

    ★1917年のロシア革命で成立したソヴィエト政権は、危機的な食糧状況を解決するために新たな経済政策を導入した。この経済政策の内容について、ロシアに危機的な食糧状況が生じた背景と経済政策の結果を明らかにしながら、次の語句を必ず使用して、100字以内で述べなさい。 指定語句〔対ソ干渉戦争〕

    連合国による対ソ干渉戦争の中でソヴィエト政権が行った統制色の強い戦時共産主義は、生産を低下させ、食糧危機を生じさせた。このためレーニンは新経済政策(NEP)を導入して統制を緩めたので、経済は回復した。(100字)