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世界史 西亜・阿民族運動
11問 • 8ヶ月前
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  • 1

    空所補充。 トルコ革命の一環として実施された近代化政策には次のようなことがある。 ・(①)制廃止 ・文字革命  (②)語を国語として制定し、文字はアラビア語を廃止して(③)字をもとに新たに制定。 ・婦人解放  多妾制を禁止し(④)制とする、女性のチャドル(顔を隠すヴェール)を廃止など。 ・イスラーム暦を廃して(⑤)暦を採用する。 ・その他、トルコ帽(フェズ)の廃止。  など多岐にわたる。トルコ革命の政教分離の原則と世俗主義は、その後もトルコ共和国の基本政策として継承されているが、1990年代からトルコでもイスラーム原理主義が台頭し、揺らいできている。

    ①カリフ ②トルコ ③ローマ ④一夫一婦 ⑤太陽

  • 2

    ★トルコ革命について、70字以内で簡単に説明せよ。

    ムスタファ=ケマルがオスマン帝国を倒しトルコ共和国を樹立した。ケマルはイスラーム国家色を否定して世俗化を図り、文字改革や婦人解放を実行した。(70字)

  • 3

    空所補充。 (第一次大戦について)1918年10月、スルタンのメフメト6世は連合軍に降伏、イスタンブルはイギリス、フランス、イタリア、ギリシアの連合軍に占領され、(①)などは国外に逃亡し青年トルコ政権は崩壊した。一方、シリアのアレッポでは、(②)の率いるオスマン帝国軍は連合軍に対する降伏を拒否して抵抗を続けた。翌1919年5月、ギリシア軍はイギリスの(③)首相の支持を受けて、突然アナトリア西部の(④)地方に侵入し、ギリシア=トルコ戦争が勃発した。②は20年4月にアンカラに(⑤)を招集し、トルコ国民軍を組織してゲリラ戦で抵抗した。

    ①エンヴェル=パシャ ②ムスタファ=ケマル ③ロイド=ジョージ ④イズミル ⑤トルコ大国民議会

  • 4

    オスマン帝国滅亡について、空所補充。 一方スルタン政府は1920年8月、連合国に強要された(①)条約を承認し、オスマン帝国は領土の大半を失うこととなった。しかしギリシア軍との戦いを続けていたムスタファ=ケマルのトルコ国民軍は1921年8月のサカリャ川の戦いでギリシア軍を破って形勢を逆転させ、またフランスやソヴィエト政権の支援を受けて1922年、(②)講和会議で新たな講和条約の交渉に入った。  この間、1922年11月、大国民議会は満場一致でスルタン制の廃止を可決、メフメト6世はイギリス軍艦でマルタ島に亡命し、オスマン帝国の滅亡が現実のこととなった。  1923年7月、改めて連合国と②条約を締結して(③)の領土と独立を回復し、同年10月29日、アンカラの大国民議会はトルコ共和国を宣言し、ムスタファ=ケマルを初代大統領に選出した。ムスタファ=ケマルは次々と内政改革を実行し、トルコ革命が進展することとなった。トルコ共和国の世俗化政策の象徴として、1924年には(④)も廃止され、最後のカリフ、(⑤)は国外追放となった。

    ①セーヴル ②ローザンヌ ③アナトリア ④カリフ制 ⑤アブデュルメジト2世

  • 5

    ★ギリシア=トルコ戦争の開戦からトルコ共和国が成立すまでの流れについて、310字程度で具体的に説明せよ。 指定語句〔イズミル、アンカラ、ムスタファ=ケマル、トルコ大国民会議、ゲリラ戦、スルタン〕

    第一次世界大戦後、オスマン帝国はセーヴル条約で大幅な領土喪失を強いられた。特にギリシアは、イズミル地方への進出を連合国から承認され、1919年に侵攻を開始。これに対し、オスマン帝国軍人のムスタファ=ケマルは、アンカラにトルコ大国民会議を組織し、民族主義勢力を結集して抵抗した。トルコ国民軍は、ギリシア軍に対して徹底したゲリラ戦を展開し、反撃に成功。1922年にはイズミルを奪還し、ギリシア軍を小アジアから駆逐した。この勝利により、ムスタファ=ケマルの指導力が確立され、スルタン制が廃止された。翌1923年、ローザンヌ条約が締結されてトルコの主権と領土が国際的に承認され、同年、ムスタファ=ケマルを初代大統領とするトルコ共和国が成立した。(318字)

  • 6

    エジプトについて、空所補充。 イギリスの保護国となったエジプトでも、第一次世界大戦後の民族自決の動きに刺激され、民族主義が高まってきた。エジプト人の手による議会の開設や政府の樹立を要求する(①)党が組織され、(②)年に彼らは代表をパリ講和会議に送ってエジプトの独立を世界に訴えた。国王によって代表団派遣が拒否されると、①党は②年3月に蜂起した。この②年革命は指導者サアド=ザグルールが逮捕され、マルタ島に追放されて終わったが、エジプトにおける反英民族運動として重要な意義を喪あった。  ①党の②年革命運動は、同年起こった朝鮮の(③)運動、インドの非暴力・不服従運動(第1次)、中国の五・四運動と並んで民族自決を求めるアジアの広範な動きの一つであった。  イギリスはその後、一定の妥協を図り、大戦後の1922年2月28日に、エジプトを保護国とすることをやめ、正式にムハンマド=アリー朝のものでの「エジプト王国」として独立を認めた。これはイギリスが一方的に宣言したもので、しかもこの時点では、イギリスはエジプトの防衛権、スエズ運河の支配権、(④)への駐兵権をそのまま維持していたので、完全な独立とは言いがたかった。

    ①ワフド ②1919 ③三・一独立 ④スーダン

  • 7

    第三次アフガン戦争について、空所補充。 1919年5月にイギリス領インドに侵攻し、第3次アフガン戦争となった。アフガン軍がインドに侵攻しイギリス軍と1ヶ月にわたる戦闘を行い、イギリスとアフガニスタンは1919年8月8日に(①)条約を締結し、イギリスがアフガニスタンの外交権回復を認め、アフガニスタンは独立を回復した。  しかしアフガン王国は国境を(②)人の居住地域であるインダス川までと主張したが、従来のスレイマン山脈稜線のデュランド・ラインとすることをイギリスは譲らなかった。これは後にパキスタンとの間の国境紛争として尾を引く。  こうしてアフガニスタンは広くイスラーム圏の民族的自立を達成した最初の国となったが、その内部は多民族国家であり、さらに部族対立もあり、王政ではあるが国王は有力な首長の一人に過ぎない状況が続いた。それでも1920年代に立憲君主政国家の建設が進んだ。

    ①ラワルピンディー ②パシュトゥーン

  • 8

    空所補充。 18世紀末からイランを支配したトルコ系の(①)朝はロシアとイギリスの帝国主義諸国の侵略を受け、1907年に両国は英露協商で勢力圏を分割した。1908年にイラン南部の(②)州で最初の油田が発見され、翌年にはイギリス系のアングロ=イラニアン石油会社が設立され、その利権を所有した。イランは石油の産出地として注目されるようになり、さらに1913年、イギリス海軍が艦船の燃料を石炭から石油に変えたため、イギリスはイランへの支配を強めた。  第一次世界大戦が始まるとオスマン帝国軍が侵入、ドイツ軍も諜報活動を展開し、イギリスも中立地帯に出兵した。これらの情勢に①朝政府は対応出来ず、無政府状態が続く中、1921年に(③)がクーデターを起こして実権を握り、1925年には自らシャー(国王)を称し、パフレヴィー朝を創始した。これはイギリスの意向があったといわれる。  パフレヴィー朝は、1935年3月には正式な国号をイランとした。これはゾロアスター教の聖典(④)からとったことばであった。  イランは石油の産出国であったため、列強の関心を強めていた。第二次世界大戦中、パフレヴィー朝イランは首都(⑤)を中立地帯として、北方の5州をソ連が、南方の諸州をイギリスが管理するという、南北分割下に置かれた。しかし、独ソ戦の開始によってイギリスとソ連は提携することとなり、連合国はイランを通ってソ連に援助物資を送って、その対独戦争を支援していた。1943年、アメリカのF=ローズヴェルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンの三巨頭がはじめて顔を合わせた⑤会談が、イランで開催されたのはそのような事情があった。

    ①ガージャール ②フーゼスタン ③レザー=ハーン ④アヴェスター ⑤テヘラン

  • 9

    ★パレスチナ問題の起源について、簡単に説明せよ。

    イギリスの、アラブ人に対しての1915年のフセイン・マクマホン協定、ユダヤ人に対しての1917年のバルフォア宣言といった二枚舌外交に加え、大戦後にパレスチナがイギリスの委任党地領となり、アラブ人とユダヤ人は権利を主張して対立した。

  • 10

    イブン=サウードについて、空所補充。 イブン=サウードは、ワッハーブ派の信仰によって部族を超えて結束した(①)軍団(①とは同胞の意味)という強力な軍隊を組織し、強力な軍事力を持つようになった。一方、西部アラビアでは第一次世界大戦中にオスマン帝国の支配に対して(②)(紅海沿岸地方)のハーシム家のフセインが独立運動(「砂漠の反乱」)を起こし(それを支援したのがイギリスのロレンスだった)、1918年に②王国として独立宣言をした。これに対してリヤドを中心としたイブン=サウードが対立、大戦が終わった後の1918~20年にたびたび対戦した。

    ①イフワーン ②ヒジャーズ

  • 11

    空所補充。 1924年にフセインがカリフを称すると宣言したことに対してアラブ各地で反発が生じ、その期にイブン=サウードはヒジャーズ王国攻撃を決意、メッカはイフワーン軍団への恐怖心からほとんど戦わず開城してフセインは退去し、港町(①)は約1年の抗戦の結果投降した。  ヒジャーズ王国のフセイン国王は退位してアカバに退き、その長子アリーが国王となったが、メッカの防衛を放棄し港町①に引きこもった。1925年1月、イブン=サウードは①攻撃を開始、1年ほどの包囲戦の末、12月にアリーは降伏、イブン=サウードのヒジャース平定は終わりを告げ、1926年1月8日に正式に(②)王国を樹立した。イエメン・オマーンなどを除くアラビア半島をサウード家が支配することとなり、こうした事実をイギリスも認めざるを得ず、イブン=サウードはその支持も受けて、1932年9月には(③)王国として初代の国王となった。

    ①ジェッダ ②ヒジャーズ=ネジド ③サウジアラビア

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    ①カリフ ②トルコ ③ローマ ④一夫一婦 ⑤太陽

  • 2

    ★トルコ革命について、70字以内で簡単に説明せよ。

    ムスタファ=ケマルがオスマン帝国を倒しトルコ共和国を樹立した。ケマルはイスラーム国家色を否定して世俗化を図り、文字改革や婦人解放を実行した。(70字)

  • 3

    空所補充。 (第一次大戦について)1918年10月、スルタンのメフメト6世は連合軍に降伏、イスタンブルはイギリス、フランス、イタリア、ギリシアの連合軍に占領され、(①)などは国外に逃亡し青年トルコ政権は崩壊した。一方、シリアのアレッポでは、(②)の率いるオスマン帝国軍は連合軍に対する降伏を拒否して抵抗を続けた。翌1919年5月、ギリシア軍はイギリスの(③)首相の支持を受けて、突然アナトリア西部の(④)地方に侵入し、ギリシア=トルコ戦争が勃発した。②は20年4月にアンカラに(⑤)を招集し、トルコ国民軍を組織してゲリラ戦で抵抗した。

    ①エンヴェル=パシャ ②ムスタファ=ケマル ③ロイド=ジョージ ④イズミル ⑤トルコ大国民議会

  • 4

    オスマン帝国滅亡について、空所補充。 一方スルタン政府は1920年8月、連合国に強要された(①)条約を承認し、オスマン帝国は領土の大半を失うこととなった。しかしギリシア軍との戦いを続けていたムスタファ=ケマルのトルコ国民軍は1921年8月のサカリャ川の戦いでギリシア軍を破って形勢を逆転させ、またフランスやソヴィエト政権の支援を受けて1922年、(②)講和会議で新たな講和条約の交渉に入った。  この間、1922年11月、大国民議会は満場一致でスルタン制の廃止を可決、メフメト6世はイギリス軍艦でマルタ島に亡命し、オスマン帝国の滅亡が現実のこととなった。  1923年7月、改めて連合国と②条約を締結して(③)の領土と独立を回復し、同年10月29日、アンカラの大国民議会はトルコ共和国を宣言し、ムスタファ=ケマルを初代大統領に選出した。ムスタファ=ケマルは次々と内政改革を実行し、トルコ革命が進展することとなった。トルコ共和国の世俗化政策の象徴として、1924年には(④)も廃止され、最後のカリフ、(⑤)は国外追放となった。

    ①セーヴル ②ローザンヌ ③アナトリア ④カリフ制 ⑤アブデュルメジト2世

  • 5

    ★ギリシア=トルコ戦争の開戦からトルコ共和国が成立すまでの流れについて、310字程度で具体的に説明せよ。 指定語句〔イズミル、アンカラ、ムスタファ=ケマル、トルコ大国民会議、ゲリラ戦、スルタン〕

    第一次世界大戦後、オスマン帝国はセーヴル条約で大幅な領土喪失を強いられた。特にギリシアは、イズミル地方への進出を連合国から承認され、1919年に侵攻を開始。これに対し、オスマン帝国軍人のムスタファ=ケマルは、アンカラにトルコ大国民会議を組織し、民族主義勢力を結集して抵抗した。トルコ国民軍は、ギリシア軍に対して徹底したゲリラ戦を展開し、反撃に成功。1922年にはイズミルを奪還し、ギリシア軍を小アジアから駆逐した。この勝利により、ムスタファ=ケマルの指導力が確立され、スルタン制が廃止された。翌1923年、ローザンヌ条約が締結されてトルコの主権と領土が国際的に承認され、同年、ムスタファ=ケマルを初代大統領とするトルコ共和国が成立した。(318字)

  • 6

    エジプトについて、空所補充。 イギリスの保護国となったエジプトでも、第一次世界大戦後の民族自決の動きに刺激され、民族主義が高まってきた。エジプト人の手による議会の開設や政府の樹立を要求する(①)党が組織され、(②)年に彼らは代表をパリ講和会議に送ってエジプトの独立を世界に訴えた。国王によって代表団派遣が拒否されると、①党は②年3月に蜂起した。この②年革命は指導者サアド=ザグルールが逮捕され、マルタ島に追放されて終わったが、エジプトにおける反英民族運動として重要な意義を喪あった。  ①党の②年革命運動は、同年起こった朝鮮の(③)運動、インドの非暴力・不服従運動(第1次)、中国の五・四運動と並んで民族自決を求めるアジアの広範な動きの一つであった。  イギリスはその後、一定の妥協を図り、大戦後の1922年2月28日に、エジプトを保護国とすることをやめ、正式にムハンマド=アリー朝のものでの「エジプト王国」として独立を認めた。これはイギリスが一方的に宣言したもので、しかもこの時点では、イギリスはエジプトの防衛権、スエズ運河の支配権、(④)への駐兵権をそのまま維持していたので、完全な独立とは言いがたかった。

    ①ワフド ②1919 ③三・一独立 ④スーダン

  • 7

    第三次アフガン戦争について、空所補充。 1919年5月にイギリス領インドに侵攻し、第3次アフガン戦争となった。アフガン軍がインドに侵攻しイギリス軍と1ヶ月にわたる戦闘を行い、イギリスとアフガニスタンは1919年8月8日に(①)条約を締結し、イギリスがアフガニスタンの外交権回復を認め、アフガニスタンは独立を回復した。  しかしアフガン王国は国境を(②)人の居住地域であるインダス川までと主張したが、従来のスレイマン山脈稜線のデュランド・ラインとすることをイギリスは譲らなかった。これは後にパキスタンとの間の国境紛争として尾を引く。  こうしてアフガニスタンは広くイスラーム圏の民族的自立を達成した最初の国となったが、その内部は多民族国家であり、さらに部族対立もあり、王政ではあるが国王は有力な首長の一人に過ぎない状況が続いた。それでも1920年代に立憲君主政国家の建設が進んだ。

    ①ラワルピンディー ②パシュトゥーン

  • 8

    空所補充。 18世紀末からイランを支配したトルコ系の(①)朝はロシアとイギリスの帝国主義諸国の侵略を受け、1907年に両国は英露協商で勢力圏を分割した。1908年にイラン南部の(②)州で最初の油田が発見され、翌年にはイギリス系のアングロ=イラニアン石油会社が設立され、その利権を所有した。イランは石油の産出地として注目されるようになり、さらに1913年、イギリス海軍が艦船の燃料を石炭から石油に変えたため、イギリスはイランへの支配を強めた。  第一次世界大戦が始まるとオスマン帝国軍が侵入、ドイツ軍も諜報活動を展開し、イギリスも中立地帯に出兵した。これらの情勢に①朝政府は対応出来ず、無政府状態が続く中、1921年に(③)がクーデターを起こして実権を握り、1925年には自らシャー(国王)を称し、パフレヴィー朝を創始した。これはイギリスの意向があったといわれる。  パフレヴィー朝は、1935年3月には正式な国号をイランとした。これはゾロアスター教の聖典(④)からとったことばであった。  イランは石油の産出国であったため、列強の関心を強めていた。第二次世界大戦中、パフレヴィー朝イランは首都(⑤)を中立地帯として、北方の5州をソ連が、南方の諸州をイギリスが管理するという、南北分割下に置かれた。しかし、独ソ戦の開始によってイギリスとソ連は提携することとなり、連合国はイランを通ってソ連に援助物資を送って、その対独戦争を支援していた。1943年、アメリカのF=ローズヴェルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンの三巨頭がはじめて顔を合わせた⑤会談が、イランで開催されたのはそのような事情があった。

    ①ガージャール ②フーゼスタン ③レザー=ハーン ④アヴェスター ⑤テヘラン

  • 9

    ★パレスチナ問題の起源について、簡単に説明せよ。

    イギリスの、アラブ人に対しての1915年のフセイン・マクマホン協定、ユダヤ人に対しての1917年のバルフォア宣言といった二枚舌外交に加え、大戦後にパレスチナがイギリスの委任党地領となり、アラブ人とユダヤ人は権利を主張して対立した。

  • 10

    イブン=サウードについて、空所補充。 イブン=サウードは、ワッハーブ派の信仰によって部族を超えて結束した(①)軍団(①とは同胞の意味)という強力な軍隊を組織し、強力な軍事力を持つようになった。一方、西部アラビアでは第一次世界大戦中にオスマン帝国の支配に対して(②)(紅海沿岸地方)のハーシム家のフセインが独立運動(「砂漠の反乱」)を起こし(それを支援したのがイギリスのロレンスだった)、1918年に②王国として独立宣言をした。これに対してリヤドを中心としたイブン=サウードが対立、大戦が終わった後の1918~20年にたびたび対戦した。

    ①イフワーン ②ヒジャーズ

  • 11

    空所補充。 1924年にフセインがカリフを称すると宣言したことに対してアラブ各地で反発が生じ、その期にイブン=サウードはヒジャーズ王国攻撃を決意、メッカはイフワーン軍団への恐怖心からほとんど戦わず開城してフセインは退去し、港町(①)は約1年の抗戦の結果投降した。  ヒジャーズ王国のフセイン国王は退位してアカバに退き、その長子アリーが国王となったが、メッカの防衛を放棄し港町①に引きこもった。1925年1月、イブン=サウードは①攻撃を開始、1年ほどの包囲戦の末、12月にアリーは降伏、イブン=サウードのヒジャース平定は終わりを告げ、1926年1月8日に正式に(②)王国を樹立した。イエメン・オマーンなどを除くアラビア半島をサウード家が支配することとなり、こうした事実をイギリスも認めざるを得ず、イブン=サウードはその支持も受けて、1932年9月には(③)王国として初代の国王となった。

    ①ジェッダ ②ヒジャーズ=ネジド ③サウジアラビア