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世界史 中国朝鮮民族運動
22問 • 8ヶ月前
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  • 1

    大正デモクラシーについて、空所補充。 大正は1912年から26年までの15年間。明治末の1911年に条約改正を達成し、それまでに日露戦争に勝利し、日本は近代的国家に移行することに成功した。政治上では藩閥政府の流れをくむ超然主義内閣を民衆の抗議行動で倒した護憲運動の高まりがあり、(①)内閣が成立して①政治が実現した。また第一次世界大戦では欧州諸国が戦争のため生産力が低下したのを尻目に工業化を進め、世界の「大国」の一角を占めるに至った。また資本主義経済の進展に伴い労働運動、社会主義運動も活発となり、とくに1917年のロシア革命後はそれらの運動も激しくなっていった。そのような中で(②)の「民本主義」や(③)の「天皇機関説」などに見られるようなデモクラシーの風潮が一般化していった時代であった。  しかし、1923(大正12)年の関東大震災を機に、経済は深刻な不況に突入し、次第に軍国主義の風潮が強くなっていく。大正末年の1925(大正14)年には(④)選挙が実現し、大正デモクラシーは一つの頂点に達したが、同時に(⑤)法が制定され、労働運動や社会主義運動に対しては厳しい取り締まりが行われることとなる。  またすでに明治末年の1910年に朝鮮植民地支配を開始していたが、大正時代には国内での民主主義の発展の一方、第一次世界大戦に参戦して、中国におけるドイツ権益の継承を狙い、二十一カ条の要求を中国に強要して受諾させ、またロシア革命に際してはそれを抑えるために(⑥)出兵を行うなど、大陸への帝国主義的進出をさらに強めていた。

    ①政党 ②吉野作造 ③美濃部達吉 ④男性普通 ⑤治安維持 ⑥シベリア

  • 2

    文学革命について、空所補充。 1915年、中華民国成立後の中国で始まった(①)運動とも言われる文化の革新運動が、文学革命とも言われている。辛亥革命で清朝が滅亡したが、誕生した中華民国は安定せず、袁世凱の独裁政権を許し、民主的な近代国家への移行はならなかった。さらになお列強の圧力は強まり、民族の危機は一層きびしいものがあった。このような状況に危機感を募らせた若い知識人の中から、まず思想面での改革を必要と考える人々が現れた。その中から(②)主義の受容もはじまり、中国共産党の結成にもつながっていく。  この新しい運動では、かつての洋務運動が、「中体西用」を掲げ、中国の伝統的な儒教思想を保持しようとしたことに限界を感じ、儒教そのものを批判し、克服することを掲げたのである。この時期に新しい知識を求めたのは1905年に(③)が廃止された結果、新しい教育をうけた人々だった。

    ①新文化 ②マルクス ③科挙

  • 3

    文学革命について、空所補充。 文学革命の端緒となったのは、1915年の(①)による雑誌『新青年』の刊行であった。ついで1917年1月、北京大学の学長となった蔡元培は、学制の改革を行うとともに、若い改革派の文化人を招き、新文化の発信地とした。文学者の①・(②)、学者の李大釗・周作人((③)の弟)などが招かれ、彼らは雑誌『新青年』を舞台に新しい文学と思想を提唱していった。特にそのなかで、文学における(④)の考え、つまり口語文学による新しい表現の追求と、古来の儒教道徳への批判が文学革命の中心となった。新しい文学の代表作とされるのが、③の『狂人日記』『阿Q正伝』などである。

    ①陳独秀 ②胡適 ③魯迅 ④白話文学

  • 4

    陳独秀について、空所補充。 1919年の(①)運動で政治への関心を強めた陳独秀はマルクス主義に傾倒し、上海で(②)と連絡を取りながら準備を進め、1921年7月に中国(③)党を創設し、その初代委員長(総書記)となった。その後、初期の中国③党の指導者として、第1次国共合作を進めた。それは②の指導が、当時まだ③党は発足直後で党員も少なく、独自の軍事力も持たない状況であったので、当面、孫文らの提唱する三民主義に協力し、帝国主義との戦いをともに進めるという判断であった。この段階ではブルジョワ民主主義とも妥協し、労働組合運動の指導を通じて勢力を伸ばすことを目指し、②から派遣されたロシア人政治顧問ボロディンに協力した。

    ①五・四 ②コミンテルン ③共産

  • 5

    空所補充。 しかし、国民党右派で広東国民政府の軍事力を押さえた(①)は、北伐を開始するとともに秘かに民族資本家や外国資本の要請を受け、徐々に共産党排除の姿勢を強め、1927年4月12日には(②)によって共産党排除に踏み切った。それより先、陳独秀の指導する中国共産党は上海でゼネストに起ち上がり軍閥権力を倒し、北伐軍を迎えようとしていたが、この①の変化を見抜くことが出来ず、大きな犠牲が生じた。

    ①蒋介石 ②上海クーデター

  • 6

    2020 関西学院大 空所補充。 1891年に生まれた胡適は、台湾や安徽省などですごしたのちアメリカに留学、同地で(①)の代表的思想家として知られているデューイの指導を受け、研鑽を深めた。帰国後、20代の若さで北京大学教授に就任した胡適は、研究・教育に従事しつつ『(②)』にも健筆をふるい、同誌に『狂人日記』を発表した(③)らとともにその名を大いに知られるようになり、かれらの交互による文学表現は(④)といわれた。しかし②を創刊し、後にマルクス主義に傾倒して中国共産党を結成するに至る(⑤)とは次第に離れていった。  高い知名度ゆえに胡適の行動はたびたび注目を集め、たとえば辛亥革命により退位した(⑥)との会見は大いに物議を醸した。また現実の政治にも深い関心をしめした胡適は、抗日戦争時期に特に外交面で(⑦)を支えたが、その独裁的な政権運営をしばしば批判したため、疎まれることもあった。とはいえ、胡適が最終的な選択したのは⑦統治下の台湾での生活であり、中央研究所院長として学術の発展に貢献、在職中の1962年に台北でその生涯を閉じている。

    ①プラグマティズム ②新青年 ③魯迅 ④白話文学 ⑤陳独秀 ⑥溥儀 ⑦蔣介石

  • 7

    中国最初のマルクス主義者の一人とされ、中国共産党の創設に関わった。国共合作(第1次)で孫文に協力。1927年、張作霖に殺害された。これは誰か。

    李大釗

  • 8

    空所補充。 日本の朝鮮植民地支配が続く中、1919年に朝鮮で(①)運動が起こると、原敬内閣は朝鮮総督と台湾総督の官制を変更し、現役武官制を改め、文官任用に改めた。朝鮮総督は陸軍元帥長谷川好道から海軍大将斎藤実に交替した。結局敗戦まで文官の総督が任命されることはなかったが、新総督はそれまでの憲兵による強圧的な「武断政治」を改め、ソフトな「(②)」と言われる統治方式を採用し、憲兵制度をやめて普通警察制度を導入し、地方制度では朝鮮人を登用することとした。この新しい統治方式を進めたのは、原敬(平民宰相と言われた日本最初の政党内閣の首相)につながる朝鮮総督府の官僚たちであった。

    ①三・一独立 ②文化政治

  • 9

    ★20世紀前半の朝鮮での民族運動とそれに対する日本の対応について、60字程度で説明せよ。

    ソウルで三・一独立運動が始まり、朝鮮全土に広まった。朝鮮総督府は運動を徹底的に弾圧したが、武断政治を緩め同化政策に転換した。(62字)

  • 10

    1919年パリ講和会議で、日本はどのような権利を得たか、簡単に答えよ。

    山東のドイツ権益の継承や赤道以北の南洋諸島の委任統治権を得た。

  • 11

    ソ連の接近について、空所補充。 世界大戦中の1917年10月に起こった十月革命でボリシェヴィキ政権が樹立され、世界最初の社会主義国家が出現したことに、孫文は強く影響を受けた。孫文は世界各国で活動する中で、帝国主義こそが戦うべき相手だと考えるようになっていたので、ソヴィエト=ロシアの登場に強い刺激を受けたものと思われる。1919年7月と1920年10月の二度、ソヴィエト=ロシアは(①)宣言を出し、中国に対する旧ロシア時代の権益の放棄と国交の樹立の呼びかけを行い、ヴェルサイユ条約に強い不満を持った中国民衆に歓迎されていた。1921年、マルクス主義を実践する中国共産党が(②)らによって上海で結成された。中国国民党も中国共産党も当時はまだ弱小組織に過ぎなかったが、北京の軍閥政府に対する政治勢力として共闘する契機が少しずつ高まっていった。それを主に推進したのも、自らがソ連に接近するようになった孫文だった。

    ①カラハン ②陳独秀

  • 12

    ソヴィエト=ロシア政権が中国に対し、不平等条約の撤廃、旧ロシア権益の放棄などを宣言、国交樹立などをを求めた。1919年の第1次、1920年の第2次宣言がある。日本と欧米の列強の中国進出が図られている中で、中国側に歓迎され、広東の孫文は国共合作に動き、北京政府は1924年5月にソ連と国交を樹立した。 これは何と呼ばれるか。

    カラハン宣言

  • 13

    第一次国境合作について、空所補充。 1924年1月に(①)で中国国民党一全大会が開催され、孫文の主導する中国国民党が中国共産党との連繋に踏み切り、「連ソ・容共・扶助工農」を加えた(②)を掲げ、中国国民党への共産党員の加入を認める国民党改組を認めることによって成立した。  帝国主義列強の侵略が強まる中、民衆の中に中国統一の気運も高まり、翌年、孫文は北京に乗り込んで訴えたが、1925年3月、北京で急死し、統一はならなかった。直後の1925年5月30日、上海の日本人経営の紡績会社でストライキの中国労働者への暴行をきっかけに(③)運動が始まり、帝国主義に反対する民衆の声が強まった。  広東の中国国民党は孫文の死後、1925年7月、国共合作の維持をめざす汪兆銘(汪精衛)を中心に①国民政府(たんに国民政府ともいう)を成立させ、ここに中華民国は北京の軍閥政権との間で分裂したことが明白となった。この①国民政府・中国国民党では軍事権をにぎった(④)の勢力が強まり、そのもとで軍閥を打倒し、列強の植民地支配に対する中国の統一と独立を図る戦いが進められることになった。しかし、中国国民党内には共産党を排除しようという動きも強く、国共合作は困難な情勢となっていった。  1926年7月、蒋介石は北京軍閥打倒を目指し(⑤)を開始した。翌1927年2月、国民政府は①から(⑥)に移動して、⑥政府となった。しかし北伐の進行中の1927年、(⑦)によって共産党を排除し、さらに⑥政府も共産党を排除することに踏みきり、1927年7月15日に第一次国共合作は決裂した。その後、国民党による⑤が再開され、1928年6月9日に北京に入り、国民政府による中国統一が達成される。国民党と共産党は国共内戦に突入、1930年代の日本の侵略を許すこととなった。

    ①広州 ②新三民主義 ③五・三〇 ④蒋介石 ⑤北伐 ⑥武漢 ⑦上海クーデタ

  • 14

    空所補充。 武漢政府(主席汪兆銘)はなおも国共合作を維持し、(①)を除名したが、①はすかさず独自の南京国民政府を樹立、中国は武漢政府と南京政府の二つの政府が存在することとなった。武漢政府内部にも①に同調する右派が力を付け、国共合作を維持しようとする国民党左派と共産党は次第に苦しい立場に追いこまれた。スターリンは(②)を通じて国共合作の維持と同時に共産党が武装し主導権を取れと訓令したが、それを知った汪兆銘は共産党排除を決意、1927年7月15日に第1次国共合作の解消を宣言した。これによって3年半以上にわたった国共合作は分裂した。

    ①蒋介石 ②コミンテルン

  • 15

    空所補充。 この時期のソ連は、1924年にレーニンが死去し、スターリンと(①)の激しい路線対立が始まった時期であった。その対立は、コミンテルンの中国政策にも持ち込まれ、スターリンは中国国民党との第1次国共合作を推進することを指導し、①は中国国民党は反動的なブルジョア勢力であるからそれと決別して労働者農民の(②)を建設すべきであると主張していた。スターリンの主張が通りコミンテルンはさらに国民党への支援を強めたが、孫文死後の国民政府の実権を握った蔣介石による上海クーデタで大きな犠牲を出すこととなった。

    ①トロツキー ②ソヴィエト

  • 16

    済南事件について、空所補充。 1928年5月、北伐中の中国の国民革命軍に対し、(①)を口実に日本軍の山東出兵に際し、日中両軍が衝突した事件。日中戦争以前の衝突で、双方に犠牲者が出たが、中国国民の反日感情を増幅させた。  済南事件の事後処理は、日本と中国との間で紛糾して長びいた。それは日本側が賠償にこだわったことが理由であったが、中国側は(②)権を回復し、綿布・雑貨など日本の主要輸出品目に保護関税をかけようとしたことも日本が消極的になった要因だった。日本側には「暴支膺懲」(暴虐な支那をこらしめよう)という世論が強かったことも背景にあった。  この間、蔣介石の国民革命軍は北上を続け、1928年6月9日には(③)に入城、軍閥を一掃して中国統一を完成した。すでに共産党とも決別していた蔣介石が軍閥を押さえて中国を統一したことを歓迎したアメリカは、国民政府(南京政府)を承認、1928年7月に②権の回復を認め、ドイツ、イギリス、フランスなどが同年中にそれに続いた。

    ①日本人居留民保護 ②関税自主 ③北京

  • 17

    満州について、空所補充。 19世紀になるとロシアの東アジア侵出が強まり、さらに大陸進出を目指した日本との間の対立は、日露戦争に発展、その勝利をもとに日本は遼東半島への進出を果たし、南満州鉄道の権益を守るために(①)を置き、軍閥刊の抗争に介入しながら地歩を築いていった。  一方、清朝末期から中華民国初期に、この地に(②)が生まれ、(③)がその支配者として台頭し、北京の軍閥政権と抗争した。日本は1928年に③爆殺事件を起こして、②の排除を策したが失敗し、かえって③の息子で軍閥を継承した(④)が同1928年12月29日に国民政府の蔣介石に従う声明を出し、東三省を含めた国民政府の中国統一が完成することとなった。  ③爆殺の陰謀も成果がなかったことから、①はさらに1931年に再び南満州鉄道を爆破される(⑤)事件を口実に軍事行動を行い、満州事変を起こして東三省への出兵・占領、1932年には傀儡政権「満州国」を建国することとなる。

    ①関東軍 ②奉天軍閥 ③張作霖 ④張学良 ⑤柳条湖

  • 18

    蒋介石の国民政府を支えた上海の民族資本。上海の租界で外国商人との取り引きを行い、蔣介石政権と深く結びついていた。主な財閥2つを挙げよ。

    浙江、江蘇

  • 19

    1999 東大 アヘン戦争後に結ばれた南京条約で、清朝はイギリス人が開港場に居留することを認めた。その後、こうした外国人の居留地は清朝の行政権が及ばない特別な地域として拡大し、対外関係の窓口として特殊な発展を遂げた。 (1)このような地域は何と呼ばれるか。 (2)又、こうした地域では外国商社と特に関係の深い中国人商人が成長した。彼らは何と呼ばれるか。それぞれ漢字二字で名称を記せ。

    (1)租界 (2)買弁

  • 20

    毛沢東について、空所補充。 中国の長江中流、長沙の師範学校に学び、五・四運動の頃農民運動にはいる。1921年の中国共産党創立大会に参加したが、当初の主導権は陳独秀や李大釗などの知識人(インテリ)がもっていた。1924年の第1次国共合作の成立により、(①)党に入党、農民運動に関わるようになり、地主支配に苦しむ中国農民の解放を強く意識するようになった(1927年の「湖南農民運動視察報告」)1927年の蔣介石による(②)で国共分裂した後は国民党軍との戦闘で苦戦を強いられ、1927年10月、江西省の山岳地帯の(③)を拠点として抵抗を続けた。

    ①中国国民 ②上海クーデタ ③井崗山

  • 21

    1934~35年、国共内戦で中国共産党が本拠の瑞金を国民党に追われ、そこから陝西省の延安まで大移動して逃れ、新たな拠点を築いた。その途中の遵義会議で毛沢東が主導権を握った。 これは何と呼ばれるか。

    長征

  • 22

    孫文が1924年の第1次国共合作で掲げた三大政策を全て挙げよ。

    「連ソ・容共・扶助工農」

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  • 1

    大正デモクラシーについて、空所補充。 大正は1912年から26年までの15年間。明治末の1911年に条約改正を達成し、それまでに日露戦争に勝利し、日本は近代的国家に移行することに成功した。政治上では藩閥政府の流れをくむ超然主義内閣を民衆の抗議行動で倒した護憲運動の高まりがあり、(①)内閣が成立して①政治が実現した。また第一次世界大戦では欧州諸国が戦争のため生産力が低下したのを尻目に工業化を進め、世界の「大国」の一角を占めるに至った。また資本主義経済の進展に伴い労働運動、社会主義運動も活発となり、とくに1917年のロシア革命後はそれらの運動も激しくなっていった。そのような中で(②)の「民本主義」や(③)の「天皇機関説」などに見られるようなデモクラシーの風潮が一般化していった時代であった。  しかし、1923(大正12)年の関東大震災を機に、経済は深刻な不況に突入し、次第に軍国主義の風潮が強くなっていく。大正末年の1925(大正14)年には(④)選挙が実現し、大正デモクラシーは一つの頂点に達したが、同時に(⑤)法が制定され、労働運動や社会主義運動に対しては厳しい取り締まりが行われることとなる。  またすでに明治末年の1910年に朝鮮植民地支配を開始していたが、大正時代には国内での民主主義の発展の一方、第一次世界大戦に参戦して、中国におけるドイツ権益の継承を狙い、二十一カ条の要求を中国に強要して受諾させ、またロシア革命に際してはそれを抑えるために(⑥)出兵を行うなど、大陸への帝国主義的進出をさらに強めていた。

    ①政党 ②吉野作造 ③美濃部達吉 ④男性普通 ⑤治安維持 ⑥シベリア

  • 2

    文学革命について、空所補充。 1915年、中華民国成立後の中国で始まった(①)運動とも言われる文化の革新運動が、文学革命とも言われている。辛亥革命で清朝が滅亡したが、誕生した中華民国は安定せず、袁世凱の独裁政権を許し、民主的な近代国家への移行はならなかった。さらになお列強の圧力は強まり、民族の危機は一層きびしいものがあった。このような状況に危機感を募らせた若い知識人の中から、まず思想面での改革を必要と考える人々が現れた。その中から(②)主義の受容もはじまり、中国共産党の結成にもつながっていく。  この新しい運動では、かつての洋務運動が、「中体西用」を掲げ、中国の伝統的な儒教思想を保持しようとしたことに限界を感じ、儒教そのものを批判し、克服することを掲げたのである。この時期に新しい知識を求めたのは1905年に(③)が廃止された結果、新しい教育をうけた人々だった。

    ①新文化 ②マルクス ③科挙

  • 3

    文学革命について、空所補充。 文学革命の端緒となったのは、1915年の(①)による雑誌『新青年』の刊行であった。ついで1917年1月、北京大学の学長となった蔡元培は、学制の改革を行うとともに、若い改革派の文化人を招き、新文化の発信地とした。文学者の①・(②)、学者の李大釗・周作人((③)の弟)などが招かれ、彼らは雑誌『新青年』を舞台に新しい文学と思想を提唱していった。特にそのなかで、文学における(④)の考え、つまり口語文学による新しい表現の追求と、古来の儒教道徳への批判が文学革命の中心となった。新しい文学の代表作とされるのが、③の『狂人日記』『阿Q正伝』などである。

    ①陳独秀 ②胡適 ③魯迅 ④白話文学

  • 4

    陳独秀について、空所補充。 1919年の(①)運動で政治への関心を強めた陳独秀はマルクス主義に傾倒し、上海で(②)と連絡を取りながら準備を進め、1921年7月に中国(③)党を創設し、その初代委員長(総書記)となった。その後、初期の中国③党の指導者として、第1次国共合作を進めた。それは②の指導が、当時まだ③党は発足直後で党員も少なく、独自の軍事力も持たない状況であったので、当面、孫文らの提唱する三民主義に協力し、帝国主義との戦いをともに進めるという判断であった。この段階ではブルジョワ民主主義とも妥協し、労働組合運動の指導を通じて勢力を伸ばすことを目指し、②から派遣されたロシア人政治顧問ボロディンに協力した。

    ①五・四 ②コミンテルン ③共産

  • 5

    空所補充。 しかし、国民党右派で広東国民政府の軍事力を押さえた(①)は、北伐を開始するとともに秘かに民族資本家や外国資本の要請を受け、徐々に共産党排除の姿勢を強め、1927年4月12日には(②)によって共産党排除に踏み切った。それより先、陳独秀の指導する中国共産党は上海でゼネストに起ち上がり軍閥権力を倒し、北伐軍を迎えようとしていたが、この①の変化を見抜くことが出来ず、大きな犠牲が生じた。

    ①蒋介石 ②上海クーデター

  • 6

    2020 関西学院大 空所補充。 1891年に生まれた胡適は、台湾や安徽省などですごしたのちアメリカに留学、同地で(①)の代表的思想家として知られているデューイの指導を受け、研鑽を深めた。帰国後、20代の若さで北京大学教授に就任した胡適は、研究・教育に従事しつつ『(②)』にも健筆をふるい、同誌に『狂人日記』を発表した(③)らとともにその名を大いに知られるようになり、かれらの交互による文学表現は(④)といわれた。しかし②を創刊し、後にマルクス主義に傾倒して中国共産党を結成するに至る(⑤)とは次第に離れていった。  高い知名度ゆえに胡適の行動はたびたび注目を集め、たとえば辛亥革命により退位した(⑥)との会見は大いに物議を醸した。また現実の政治にも深い関心をしめした胡適は、抗日戦争時期に特に外交面で(⑦)を支えたが、その独裁的な政権運営をしばしば批判したため、疎まれることもあった。とはいえ、胡適が最終的な選択したのは⑦統治下の台湾での生活であり、中央研究所院長として学術の発展に貢献、在職中の1962年に台北でその生涯を閉じている。

    ①プラグマティズム ②新青年 ③魯迅 ④白話文学 ⑤陳独秀 ⑥溥儀 ⑦蔣介石

  • 7

    中国最初のマルクス主義者の一人とされ、中国共産党の創設に関わった。国共合作(第1次)で孫文に協力。1927年、張作霖に殺害された。これは誰か。

    李大釗

  • 8

    空所補充。 日本の朝鮮植民地支配が続く中、1919年に朝鮮で(①)運動が起こると、原敬内閣は朝鮮総督と台湾総督の官制を変更し、現役武官制を改め、文官任用に改めた。朝鮮総督は陸軍元帥長谷川好道から海軍大将斎藤実に交替した。結局敗戦まで文官の総督が任命されることはなかったが、新総督はそれまでの憲兵による強圧的な「武断政治」を改め、ソフトな「(②)」と言われる統治方式を採用し、憲兵制度をやめて普通警察制度を導入し、地方制度では朝鮮人を登用することとした。この新しい統治方式を進めたのは、原敬(平民宰相と言われた日本最初の政党内閣の首相)につながる朝鮮総督府の官僚たちであった。

    ①三・一独立 ②文化政治

  • 9

    ★20世紀前半の朝鮮での民族運動とそれに対する日本の対応について、60字程度で説明せよ。

    ソウルで三・一独立運動が始まり、朝鮮全土に広まった。朝鮮総督府は運動を徹底的に弾圧したが、武断政治を緩め同化政策に転換した。(62字)

  • 10

    1919年パリ講和会議で、日本はどのような権利を得たか、簡単に答えよ。

    山東のドイツ権益の継承や赤道以北の南洋諸島の委任統治権を得た。

  • 11

    ソ連の接近について、空所補充。 世界大戦中の1917年10月に起こった十月革命でボリシェヴィキ政権が樹立され、世界最初の社会主義国家が出現したことに、孫文は強く影響を受けた。孫文は世界各国で活動する中で、帝国主義こそが戦うべき相手だと考えるようになっていたので、ソヴィエト=ロシアの登場に強い刺激を受けたものと思われる。1919年7月と1920年10月の二度、ソヴィエト=ロシアは(①)宣言を出し、中国に対する旧ロシア時代の権益の放棄と国交の樹立の呼びかけを行い、ヴェルサイユ条約に強い不満を持った中国民衆に歓迎されていた。1921年、マルクス主義を実践する中国共産党が(②)らによって上海で結成された。中国国民党も中国共産党も当時はまだ弱小組織に過ぎなかったが、北京の軍閥政府に対する政治勢力として共闘する契機が少しずつ高まっていった。それを主に推進したのも、自らがソ連に接近するようになった孫文だった。

    ①カラハン ②陳独秀

  • 12

    ソヴィエト=ロシア政権が中国に対し、不平等条約の撤廃、旧ロシア権益の放棄などを宣言、国交樹立などをを求めた。1919年の第1次、1920年の第2次宣言がある。日本と欧米の列強の中国進出が図られている中で、中国側に歓迎され、広東の孫文は国共合作に動き、北京政府は1924年5月にソ連と国交を樹立した。 これは何と呼ばれるか。

    カラハン宣言

  • 13

    第一次国境合作について、空所補充。 1924年1月に(①)で中国国民党一全大会が開催され、孫文の主導する中国国民党が中国共産党との連繋に踏み切り、「連ソ・容共・扶助工農」を加えた(②)を掲げ、中国国民党への共産党員の加入を認める国民党改組を認めることによって成立した。  帝国主義列強の侵略が強まる中、民衆の中に中国統一の気運も高まり、翌年、孫文は北京に乗り込んで訴えたが、1925年3月、北京で急死し、統一はならなかった。直後の1925年5月30日、上海の日本人経営の紡績会社でストライキの中国労働者への暴行をきっかけに(③)運動が始まり、帝国主義に反対する民衆の声が強まった。  広東の中国国民党は孫文の死後、1925年7月、国共合作の維持をめざす汪兆銘(汪精衛)を中心に①国民政府(たんに国民政府ともいう)を成立させ、ここに中華民国は北京の軍閥政権との間で分裂したことが明白となった。この①国民政府・中国国民党では軍事権をにぎった(④)の勢力が強まり、そのもとで軍閥を打倒し、列強の植民地支配に対する中国の統一と独立を図る戦いが進められることになった。しかし、中国国民党内には共産党を排除しようという動きも強く、国共合作は困難な情勢となっていった。  1926年7月、蒋介石は北京軍閥打倒を目指し(⑤)を開始した。翌1927年2月、国民政府は①から(⑥)に移動して、⑥政府となった。しかし北伐の進行中の1927年、(⑦)によって共産党を排除し、さらに⑥政府も共産党を排除することに踏みきり、1927年7月15日に第一次国共合作は決裂した。その後、国民党による⑤が再開され、1928年6月9日に北京に入り、国民政府による中国統一が達成される。国民党と共産党は国共内戦に突入、1930年代の日本の侵略を許すこととなった。

    ①広州 ②新三民主義 ③五・三〇 ④蒋介石 ⑤北伐 ⑥武漢 ⑦上海クーデタ

  • 14

    空所補充。 武漢政府(主席汪兆銘)はなおも国共合作を維持し、(①)を除名したが、①はすかさず独自の南京国民政府を樹立、中国は武漢政府と南京政府の二つの政府が存在することとなった。武漢政府内部にも①に同調する右派が力を付け、国共合作を維持しようとする国民党左派と共産党は次第に苦しい立場に追いこまれた。スターリンは(②)を通じて国共合作の維持と同時に共産党が武装し主導権を取れと訓令したが、それを知った汪兆銘は共産党排除を決意、1927年7月15日に第1次国共合作の解消を宣言した。これによって3年半以上にわたった国共合作は分裂した。

    ①蒋介石 ②コミンテルン

  • 15

    空所補充。 この時期のソ連は、1924年にレーニンが死去し、スターリンと(①)の激しい路線対立が始まった時期であった。その対立は、コミンテルンの中国政策にも持ち込まれ、スターリンは中国国民党との第1次国共合作を推進することを指導し、①は中国国民党は反動的なブルジョア勢力であるからそれと決別して労働者農民の(②)を建設すべきであると主張していた。スターリンの主張が通りコミンテルンはさらに国民党への支援を強めたが、孫文死後の国民政府の実権を握った蔣介石による上海クーデタで大きな犠牲を出すこととなった。

    ①トロツキー ②ソヴィエト

  • 16

    済南事件について、空所補充。 1928年5月、北伐中の中国の国民革命軍に対し、(①)を口実に日本軍の山東出兵に際し、日中両軍が衝突した事件。日中戦争以前の衝突で、双方に犠牲者が出たが、中国国民の反日感情を増幅させた。  済南事件の事後処理は、日本と中国との間で紛糾して長びいた。それは日本側が賠償にこだわったことが理由であったが、中国側は(②)権を回復し、綿布・雑貨など日本の主要輸出品目に保護関税をかけようとしたことも日本が消極的になった要因だった。日本側には「暴支膺懲」(暴虐な支那をこらしめよう)という世論が強かったことも背景にあった。  この間、蔣介石の国民革命軍は北上を続け、1928年6月9日には(③)に入城、軍閥を一掃して中国統一を完成した。すでに共産党とも決別していた蔣介石が軍閥を押さえて中国を統一したことを歓迎したアメリカは、国民政府(南京政府)を承認、1928年7月に②権の回復を認め、ドイツ、イギリス、フランスなどが同年中にそれに続いた。

    ①日本人居留民保護 ②関税自主 ③北京

  • 17

    満州について、空所補充。 19世紀になるとロシアの東アジア侵出が強まり、さらに大陸進出を目指した日本との間の対立は、日露戦争に発展、その勝利をもとに日本は遼東半島への進出を果たし、南満州鉄道の権益を守るために(①)を置き、軍閥刊の抗争に介入しながら地歩を築いていった。  一方、清朝末期から中華民国初期に、この地に(②)が生まれ、(③)がその支配者として台頭し、北京の軍閥政権と抗争した。日本は1928年に③爆殺事件を起こして、②の排除を策したが失敗し、かえって③の息子で軍閥を継承した(④)が同1928年12月29日に国民政府の蔣介石に従う声明を出し、東三省を含めた国民政府の中国統一が完成することとなった。  ③爆殺の陰謀も成果がなかったことから、①はさらに1931年に再び南満州鉄道を爆破される(⑤)事件を口実に軍事行動を行い、満州事変を起こして東三省への出兵・占領、1932年には傀儡政権「満州国」を建国することとなる。

    ①関東軍 ②奉天軍閥 ③張作霖 ④張学良 ⑤柳条湖

  • 18

    蒋介石の国民政府を支えた上海の民族資本。上海の租界で外国商人との取り引きを行い、蔣介石政権と深く結びついていた。主な財閥2つを挙げよ。

    浙江、江蘇

  • 19

    1999 東大 アヘン戦争後に結ばれた南京条約で、清朝はイギリス人が開港場に居留することを認めた。その後、こうした外国人の居留地は清朝の行政権が及ばない特別な地域として拡大し、対外関係の窓口として特殊な発展を遂げた。 (1)このような地域は何と呼ばれるか。 (2)又、こうした地域では外国商社と特に関係の深い中国人商人が成長した。彼らは何と呼ばれるか。それぞれ漢字二字で名称を記せ。

    (1)租界 (2)買弁

  • 20

    毛沢東について、空所補充。 中国の長江中流、長沙の師範学校に学び、五・四運動の頃農民運動にはいる。1921年の中国共産党創立大会に参加したが、当初の主導権は陳独秀や李大釗などの知識人(インテリ)がもっていた。1924年の第1次国共合作の成立により、(①)党に入党、農民運動に関わるようになり、地主支配に苦しむ中国農民の解放を強く意識するようになった(1927年の「湖南農民運動視察報告」)1927年の蔣介石による(②)で国共分裂した後は国民党軍との戦闘で苦戦を強いられ、1927年10月、江西省の山岳地帯の(③)を拠点として抵抗を続けた。

    ①中国国民 ②上海クーデタ ③井崗山

  • 21

    1934~35年、国共内戦で中国共産党が本拠の瑞金を国民党に追われ、そこから陝西省の延安まで大移動して逃れ、新たな拠点を築いた。その途中の遵義会議で毛沢東が主導権を握った。 これは何と呼ばれるか。

    長征

  • 22

    孫文が1924年の第1次国共合作で掲げた三大政策を全て挙げよ。

    「連ソ・容共・扶助工農」