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世界史 亜変革、民族運動
38問 • 8ヶ月前
  • 一吹
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    問題一覧

  • 1

    租界について、空所補充。 租借は二国間の取り決めによって成立するので、通常はその期間を定めている。期限には25年などの短い場合から、99年という長期にわたる場合もあった。(①)の租界のように、太平天国の混乱期にイギリスが居留民を守ることを口実に軍隊を駐屯させ、事実上の租借地にしてしまったケースもある。 特に中国に対して列強が租借地を獲得したのが、(②)戦争で清の弱体化が公然となった、1898~99年のイギリス、フランス、ドイツ、ロシアによる中国分割の時であった。このとき、イギリスは(③)と(④)半島北部地域、フランスは(⑤)湾、ドイツは(⑥)湾、ロシアは旅順・大連をそれぞれ租借地として獲得した。日本は②戦争で領有していた台湾の対岸の福建省を外国に割譲しないことを約束させ、その勢力圏とした(福建省不割譲条約)。中国進出が遅れることとなったアメリカ合衆国は、国務長官(⑦)の名で、(⑧)宣言を発表し、中国での⑧・機会均等、さらに中国の領土保全を原則としていく。

    ①上海 ②日清 ③威海衛 ④九竜 ⑤広州 ⑥膠州 ⑦ジョン=ヘイ ⑧門戸開放

  • 2

    租界の消滅について、空所補充。 これらの租借地は第一次世界大戦後の中国のナショナリズムの高揚によって、期限を待たずに返還されたり、租借国が変化したりし、第二次世界大戦でほぼ消滅した。その中でなおも租借として残っていたのが、イギリス領(①)に隣接した九竜半島地区と、ポルトガルの(②)であったが、九竜半島の租借期限が切れた1997年に①返還、1999年には②返還が相次いで実現し、帝国主義時代の遺物である租借地は消滅した。

    ①香港 ②マカオ

  • 3

    空所補充。 日清戦争の敗北後、イギリス・ドイツ・フランス・ロシアの利権獲得競争にさらされ、列強による中国分割が進み、清朝の動揺が激しくなった。それに対して清朝政府の中から、従来の洋務運動(清朝体制をそのままにして西洋の技術だけを取り入れようという運動)の限界を克服し、隣国の日本の明治維新にならった政治体制の変革・近代化が必要であると認識されるようになった。その指導者は公羊学者の(①)であり、その基本思想は清朝の皇帝のもとで、西洋の立憲君主政を取り入れ、議会を開設して国民の声を聞く政治の近代化を目指したものであった。このような祖宗以来の清朝の政治のあり方である「成法」を変えることを「変成法」と言い、その略称として「(②)」と言われた。また、この運動は「②運動」ともいわれ、その精神として掲げられたのが、②自強という言葉だった。  ①が建白書を提出し、運動が始まった1898年の干支が(③)であったので、「③の変法」とも言われ、③維新とも言われた。①ら改革派官僚は(④)帝のもとで清朝政府に登用され、改革が進むかと思われたが、結局、西太后らの保守派の反撃によって失敗し、③の政変といわれる政治的動揺が起こった。  1898年初め、④帝は、①・(⑤)・譚嗣同らの若手改革派官僚を登用した。1886年以来、西太后は引退し④帝の親政となっていたが、西太后の権威と影響力は強く、宮中では保守派が占められていた。宮中で孤立していた④帝は中央官庁の官僚以外にも地方官僚、一般人が意見書を提出することを許し、それを厳封のまま皇帝の手元に届くようにした。

    ①康有為 ②変法 ③戊戌 ④光緒 ⑤梁啓超

  • 4

    戊戌の政変について、空所補充。 1898年9月、清朝の光緒帝のもとで戊戌の変法と言われた近代化路線を進めようとした康有為ら革新的官僚が、宮廷の保守派(①)によって弾圧されたクーデタ事件。  1898年4月に始まった戊戌の変法を推進しようとした光緒帝らは、保守派の中心人物①をその離宮である頤和園に幽閉しようと計画し、実力者(②)に協力を求めたが、②は逆にクーデタ計画を①側に密告したため、光緒帝は逮捕されて幽閉されてしまった。また維新派(改革派)官僚も弾圧され、首謀者として(③)は処刑され、康有為・梁啓超は逃亡して日本に亡命した。

    ①西太后 ②袁世凱 ③譚嗣同

  • 5

    戊戌の政変後の清朝について、空所補充。 戊戌の政変で改革派を葬った西太后は体制の維持に成功、保守派の官僚や宦官勢力を従え、権力の独占を図った。しかし、日清戦後の列強による中国分割が同じ時期に激しくなるとともに、清朝の統治の矛盾が表面化し、各地で反キリスト教運動である(①)運動が頻発するようになって、ついに反キリスト教、反西洋を掲げる最大の勢力(②)が1900年に勃発した。  西太后は一時北京から逃れるなどの危機に陥ったが、外国軍によって②は鎮圧され、清朝は(③)議定書を締結するなど、列強に屈することとなった。その後の東アジア情勢は日本とロシアの対立を軸に進み、清朝は内外ともにその権威を失って行く中でうえからの改革である光緒新政が失敗に終わり、国内での革命運動が台頭して1911年10月、(④)が主導権を握り辛亥革命が始まって清朝は倒壊に向かう。

    ①仇教 ②義和団 ③北京 ④孫文

  • 6

    空所補充。 北京を占領された清朝は(①)が列強と講和交渉に当たり、排外派の大臣を処刑して1901年9月に(②)議定書(辛丑和約、または辛丑条約ともいう)を締結した。これによって、北京と天津への外国軍隊の駐留権などを認め、帝国主義列強の中国分割はさらに進んだ。  北京議定書では、(③)両(テール)という高額な賠償金の義務を負った。この賠償金は利子を付けて39年にわたり、毎年分割払いで支払うこととされた。元金と利子を合わせれば9億両以上となる莫大な負債となった。これはこの年の干支をとって庚子賠款(こうしばいかん)と言われ、清朝にとって日清戦争での(④)両の賠償金と共に非常な財政上の負担となった。

    ①李鴻章 ②北京 ③4億5千万 ④2億

  • 7

    空所補充。 西太后は西安から戻った後、急速に西洋風の文物を取り入れるようになり、清朝最後の改革といわれる(①)を打ち出したが、もはや清朝の権威の衰微を覆い隠すことができなっていった。  1894年に興中会を組織した(②)は、清朝内の改革派官僚に期待して、義和団事変にあわせて挙兵(恵州蜂起)したが、やはり鎮圧されてしまった。その後に誕生した光復会や華興会などの反清団体を結集し、1905年に②を総裁とする(③)が組織され、これが(④)革命による(⑤)の成立を実現させ、そして(⑥)による政権奪取による清朝の滅亡へと一気に進んでいく。  アジアの国際関係は緊迫の度合いを増した。それは義和団事変後もロシアが満洲などから撤兵しなかったことにより、ロシアの東アジア侵出を恐れた日本とイギリスが(⑦)年に日英同盟を締結したことに現れている。しかしイギリスは当時、(⑧)戦争の直後であったため自らは動けず、またアメリカもロシアを警戒していたが(⑨)らの指導するフィリピン共和国とのフィリピン=アメリカ戦争を戦っていたため介入できず、日本は単独でロシアと戦うこととなり、(⑩)年に日露戦争の勃発となる。

    ①光緒新政 ②孫文 ③中国同盟会 ④辛亥 ⑤中華民国 ⑥袁世凱 ⑦1902 ⑧南アフリカ ⑨アギナルド ⑩1904

  • 8

    ★孫文が掲げた三民主義を60字程度で説明しなさい。

    清朝の打倒と民族の独立を目指す民主主義、憲法に基づく共和国建設を目指す民権主義、経済的不平等の改善を目指す民生主義から成る。(62字)

  • 9

    空所補充。 ロシア帝国のツァーリズム政治体制は、(①)のもとで国内の矛盾を深刻化させていたが、(②)鉄道やの敷設などのアジア方面への勢力拡大でそれを解消しようというねらいがあった。日本は明治維新で近代化を開始し、1880年代に富国強兵路線を明確にしながら大陸進出をめざした。日本は1894年の日清戦争で清の(③)への宗主権を排除したものの、その後にロシアは三国干渉、(④)の敷設権獲得、1898年の(⑤2ヶ所)の租借、(⑥)年の義和団事件で出兵した後も満州に駐兵を続けるなど、急速に満州・朝鮮への侵出を進めた。これに対して日本は、同じくロシアの東アジア侵出を危惧するイギリスとの間で1902年、日英同盟を締結してイギリスの支援を得、ロシアとの対決に備えた。

    ①ニコライ2世 ②シベリア ③朝鮮 ④東清鉄道 ⑤旅順・大連 ⑥1900

  • 10

    空所補充。 山県有朋ら主戦論者が警戒していた、ロシアのシベリア鉄道建設は、本線の開通より前、1903年7月に(①)鉄道が開通、(②)へ直行することが可能となった。この開通の直前の5月、大山巌参謀総長は明治天皇に対し、シベリア鉄道・①鉄道が開通し、その軍事的輸送体制が整備される前に、満州のロシア軍を攻撃すべきであると上奏した。

    ①東清 ②ウラジヴォストーク

  • 11

    日露戦争における日本海海戦で、日本海軍が破ったロシア艦隊はなんと呼ばれていたか。

    バルチック艦隊

  • 12

    空所補充。 日本は、日本海海戦の直後に、アメリカ大統領(①)に斡旋を依頼、それを受けて1905年8月から、アメリカ東海岸の(②)で講和会議が開催された。日本代表(③)とロシア代表(④)の交渉は難航したが、1905年9月5日に妥協が成立、②条約を締結し講和した。

    ①セオドア=ローズヴェルト ②ポーツマス ③小村寿太郎 ④ウィッテ

  • 13

    ポーツマス条約について、誤っているものを1つ選べ。 ①韓国保護権 ②遼東半島北部(旅順・大連)租借権 ③南満州鉄道の利権 ④南樺太の割譲 ⑤沿海州などの漁業権

  • 14

    空所補充。 日露戦争は実際には勝敗は決しないまま講和に至ったというのが正しいが、日本国民とアジアの諸民族にとっては勝利そのものであると受け止められた。アジアの新興国がヨーロッパの大国を破ったとされた「日本の勝利」は、ヨーロッパ諸国の経済支配を受けていたトルコ、イランなどアジア諸国に影響を与えた。1906年における(①)革命、1908年のトルコの(②)の運動、また第一次世界大戦後の(③)のトルコ革命などである。またフランス植民地支配下のベトナムではファン=ボイ=チャウの(④)運動が始まる。一方の欧米では日本の台頭は日本人、ひいてはアジアの黄色人種全体への警戒心となって現れ、アメリカでの日本人移民排斥運動やドイツのヴィルヘルム2世の「(⑤)」の提唱などが現れている。

    ①イラン立憲 ②青年トルコ ③ムスタファ=ケマル ④ドンズー ⑤黄禍論

  • 15

    空所補充。 ロシアの一般国民のこの戦争のとらえ方は、はじめは極東で起こった小国日本とのトラブル程度であり、ロマノフ家が勝手に起こした戦争という醒めた見方が多かった。しかし、最終的には敗戦に至らなかったものの、旅順・大連の放棄、日本海海戦での(①)艦隊の敗北は大きな衝撃を与えた。特に、旅順陥落の直後に食糧不足に抗議する(②)の労働者、市民の請願行動を軍隊が弾圧した(③)事件が起こり、そこでの民衆虐殺はツァーリズムに対する幻想を完全に払拭させた。また、黒海海軍の水兵は(④)を起こして革命ののろしを上げた。  こうして戦争継続は困難となったため9月に講和に応じ、1905年10月17日にはウィッテが中心となって(⑤)の名で「(⑥)」を出を出し(⑦)の開設を約束した。これが第1次ロシア革命であるが、12月には労働者のゼネストを押さえ込んだツァーリ政府は、その内部危機をさらなる帝国主義政策・膨張政策によって解消しようとしてバルカン方面への進出を強め、第一次世界大戦へと突入していく。

    ①バルチック ②ペテルブルク ③血の日曜日 ④戦艦ポチョムキンの反乱 ⑤ニコライ2世 ⑥十月宣言 ⑦ドゥーマ(国会)

  • 16

    ★日比谷焼き討ち事件はなぜ起きたのか。90字程度で説明せよ。

    1905年9月5日に締結されたポーツマス条約で、賠償金を獲得できなかったこと、その他の獲得したものが少なかったことは、日本の膨大な犠牲と釣り合いが取れないと受け止められたから。(88字)

  • 17

    空所補充。 日本は日露戦争中から戦後にかけて、3次にわたる(①)協約を締結して朝鮮(大韓帝国)保護国化を進めた。それまで朝鮮に利権を持っていたイギリス・アメリカも日本を支援した手前、日本の朝鮮での優越を認めざるを得なくなった。1905年7月の日本とアメリカの(②)協定ではアメリカは日本の朝鮮での優越権を認め、日本はアメリカのフィリピンでの優越権を認めている。同年8月の第2次日英同盟ではイギリスは日本の朝鮮に対する「指導、監理及び保護」を承認し、日本はイギリスのインドなどでの権益をみとめている。ここに日露戦争が帝国主義的な世界分割の一部であったことが明確に出ている。また、1907年7月には(③)協約(第1次)を締結、満州は日露で南北に分割、外モンゴルはロシア、韓国は日本の勢力圏とすることで合意が成立した。

    ①日韓 ②桂=タフト ③日露

  • 18

    ★1907年の第一次日露協約ではどのようなことが取り決められたのか、50字程度で説明せよ。 指定語句〔外モンゴル、韓国〕

    日本の韓国における優越的地位、ロシアの外モンゴルにおける特殊権益を相互に承認。また満州は両国で分割した。(52字)

  • 19

    空所補充。 日露戦争の講和条約として、(①)年9月5日に締結されたポーツマス条約で、日本はロシアの関東州(旅順・大連)の租借権(25年)を継承した。日本はついで①年12月に清国との間で「満州に関する日清条約」を締結して、ロシア権益の継承を認めさせた。 ポーツマス条約締結直後の9月26日、日本は関東総督府を設置し、関東州の統治にあたらせることを決定した。関東総督府は天皇に直属し、関東州の軍備と治安とともに民政を監督する統治機関であり、遼陽に置かれ初代総督には大島義昌陸軍大将が就任した。関東総督の指揮下に二個師団1万が駐留し、関東州と満鉄沿線の守備にあたった。 その統治のため関東総督府を当初は遼陽に置いたが、翌1906年、関東都督府と改称するとともに旅順に移した。関東都督は武官が任じられ、関東州の駐屯部隊を指揮して治安維持にあたるとともに政務も行い、同年設立された(②)鉄道の業務の監督も行った。

    ①1905 ②南満州

  • 20

    日本は韓国に統監府を起き、その支配を強めた。その初代統監は誰か。

    伊藤博文

  • 21

    ★20世紀初頭、日本は急速に韓国支配を強化していった。とくに日露戦争が始まると、日韓議定書を締結して韓国内における日本軍の自由行動を認めさせた。それ以降も、日本は韓国の主権を段階的に奪っていった。日韓議定書締結後の植民地化の過程を、130字以内で簡潔に述べよ。

    1904年の第一次日韓協約で日本は外交・財政の顧問を派遣し、1905年の第二次日韓協約では韓国を保護国化して統監府を設置した。さらに第三次日韓協約では韓国軍の解散を行った。そして1910年の韓国併合条約で完全に主権を奪い、ソウルに朝鮮総督府を設置した。(126字)

  • 22

    ★1880年代以降から1900年代初期における、日本の産業の変化や東アジアとの貿易について、主要な戦争や産業、輸出入品に着目して160字以内で説明せよ。 指定語句〔生糸輸出、日清戦争、日露戦争、米・砂糖、綿布〕

    日本は軽工業化により生糸輸出が盛えた。日清戦争に勝利し、賠償金を得て重工業発展、綿布などの工業製品をアジア市場へ輸出した。日露戦争後には、工業製品輸出がさらに増大。一方で、植民地となった台湾などからは米・砂糖を輸入し、産業構造と東アジア貿易は大きく変化した。(156字)

  • 23

    空所補充。 四川暴動が起こったとき、孫文はアメリカのデンバーにいた。孫文はすでに1894年に清朝の改革をとなえ、ハワイで(①)を組織し、日清戦争や義和団事件に際して清朝政府内の改革派に呼応する形で挙兵していたが、いずれも鎮圧され、長い亡命生活を送らざるを得なくなっていた。1905年には(②)を結成し、清朝の支配に代わる新たな中国の理念として三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)と(③)を提唱していた。暴動勃発を聞いてヨーロッパ経由で帰国の途に着き、武昌蜂起が起きたことはロンドンで知り、イギリスなど国際世論に支持を訴えた。年末に帰国した孫文はただちに革命の中心人物として指導に当たった。

    ①興中会 ②中国同盟会 ③四大鋼領

  • 24

    ★辛亥革命について、一度は革命派勢力は弱まったが、最終的に革命運動は成功し、中華民国が成立した。孫文らの三民主義を掲げた運動が弱まってから、中華民国が成立するまでの清内部の動きについて、280字程度で説明せよ。 指定語句〔賠償金、反発、立憲派、四川、武昌、独立、南京〕

    清朝末期、多額の義和団戦争の賠償金や度重なる列強からの干渉は、清朝の財政と権威を揺るがした。清は立憲君主制導入を目指す「新政」で体制を立て直そうとしたが、その改革が利権を侵害するとして各地で反発が起こり、特に鉄道国有化政策を巡る四川での暴動は激化した。革命派の運動が一時停滞する中、1911年10月、武昌で新軍が蜂起し、革命運動が再燃。各地の省が清朝からの独立を次々と宣言し、立憲派も革命を支持した。同年末には、独立各省の代表が南京に集まり、1912年1月1日、中華民国臨時政府が成立。孫文が臨時大総統に就任し、清朝の滅亡と中華民国の成立に至った。(274字)

  • 25

    空所補充。  (①)年1月1日、独立を宣言した各省の代表が南京に集まり、孫文を臨時大総統に選出して、中華民国が成立した。  清朝政府はなおも北京に命脈を保っていたが、1912年2月に内閣総理大臣袁世凱は、最後の皇帝(②)帝を退位させ、清王朝は12代297年で滅んだ。同時に革命勢力を取り込もうとして皇帝退位を条件として孫文に臨時大総統の地位の移譲を迫り、3月にそれを実現した。

    ①1912 ②宣統

  • 26

    ★辛亥革命後のモンゴルとチベットの独立運動について、80字程度で説明せよ。(東大)

    外モンゴルは独立を宣言し、1924年、ソヴィエト連邦の影響下で社会主義国を樹立した。チベットはダライ=ラマ13世が独立を宣言したが、中華民国の中にとどまった。(77字)

  • 27

    2010東大 インドでは、ラーム=モーハン=ローイが、女性に対する非人道的なヒンドゥー教の風習を批判するパンフレットを刊行するなどして、近代主義の立場から宗教・社会改革運動を進めた。この風習を何というか答えなさい。

    サティ

  • 28

    18世紀前半のインドの社会と文化の改革を説いた民族独立運動の先駆者。1828年にブラーフマ協会を設立、1829年にはイギリスのベンガル総督にサティ(寡婦殉死)禁止令を出させた。これは誰か。

    ラームモーハン=ローイ

  • 29

    1883年、全インド国民協議会を設立。後に国民会議派と合同した。初期のインド民族運動の指導者で、インド人に対する差別反対、自治の要求などに立ち上がったが、穏健な戦術を主張したのでベンガル分割令では急進派のティラクと対立し分裂した。これは誰か。

    バネルジー

  • 30

    空所補充。 1885年、第1回大会をボンベイ(現ムンバイ)で開催した会議で、はじめはイギリスがインドの名士71名を集め、インド総督の諮問に答えて意見を述べさせ、植民地統治に対する不満のはけ口とするつもりであった。それは1883年に、(①)らが反イギリス的な民族運動組織として(②)を発足させたことを警戒したためであった。ところが、インド国民会議に結集した人々はイギリスの思惑に反して、インドの自治獲得を目指す国民会議派と言われるインド最初の国民的な政党を組織することとなった。  1886年に議長となった(③)は、イギリス植民地支配によってインドの富が奪われているとして「富の流出」論を説き、インド人によるインド統治(自治)の実現をめざす国民会議の運動を理論づけた。また、本国のイギリス人政治家、在インドのイギリス人高等文官などにも一定の影響を与え、国民会議に参加するものもあった。

    ①バネルジー ②全インド国民協議会 ③ナオロジー

  • 31

    空所補充。 1885年に開催された(①)は英語では Indian National Congress であり、直訳すれば、「インド国会」となる。Congress はアメリカでは「議会」を意味している。しかし①は、国会や議会の意味はなく、国民の代表が選出されたわけでもない。イギリス当局によって撰ばれたインド人が、イギリスのインド統治について諮問された件について議論する場に過ぎず、決定する場でもなかった。つまり、単なる話し合いの場に過ぎなかったわけである。いわばイギリスがインド人の不満のガス抜きをするために設けたものであったが、次第にイギリスの思惑から離れて、インドの自治を、さらには独立を要求する場に転換していく。  それが明確になったのが、1905年にイギリスが制定した(②)令に対する反対から1906年12月の(③)を決議した頃からであった。このときはイギリスのてこ入れもあって、急進派と穏健派が分裂して勢いを失ったが、第一次世界大戦後に(④)の指導で運動が再び活発になり、1920年の大会で全国組織を改革して、明確な「政党」となり、Congress Party と称するようになった。厳密にはこのときから政党として「(⑤)」となる。

    ①インド国民議会 ②ベンガル分割 ③カルカッタ四大鋼領 ④ガンディー ⑤国民議会派

  • 32

    カルカッタ四大鋼領について、空所補充。 前年にイギリスのインド総督(①)が出したベンガル分割令に激しく反発した(①)派が、1906年12月26日にカルカッタ(現コルカタ)で開催した大会で決定した4綱領。 1.(②)はイギリス商品(主として綿布)を購買しないこと。 2.(③)は国産品を買うようにしようということ。 3.(④)のスワは「自己」、ラージは「統制」を意味し、「自治」の獲得を求めたもの。 4.(⑤)は、イギリスの教育制度の押し付けはインド人の精神の奴隷化を意味するとし、「民族的統御の下、民族的方針に従い、国の利益に即した」教育を求めたもの。  これらの採択に呼応して、実際にイギリス商品を扱う店先で青年、学生がピケを張り外国商品を焼き捨てるなどの反英闘争が急進化した。  国民会議派でこの採択に尽力したのは、ラージパット=ラーイ、(⑥)、チャンドラ=パールらで、人々からはラール=バール=パールと言われた(⑦)派であった。⑦派の台頭を恐れたイギリスは、バネルジーやナオロジーなどの穏健派の抱き込みを図り、翌年にインド統治法の改正を提案した。穏健派がそれを受け入れて運動を停止しようとしたため⑦派は①派を脱退し、分裂した。さらにイギリスは急進派弾圧に動き、⑥を逮捕して投獄、ラージパット=ラーイはアメリカと日本に亡命した。

    ①国民議会 ②英貨排斥 ③スワデージ ④スワラージ ⑤民族教育 ⑥ティラク ⑦急進

  • 33

    ★ベンガル分割令により急進化した民族蘊奥を鎮めるために、イギリスがとった策を130字程度で説明せよ。

    ベンガル分割令で激化した民族運動を鎮めるため、イギリスは反英ムードの分断を図った。イスラーム教徒を味方につけようと全インド=ムスリム連盟の結成を支援。しかし運動の勢いは止まらず、イギリスは1911年にベンガル分割令を撤回し、首都をカルカッタからデリーへ移した。(130字)

  • 34

    ★20世紀はじめのインドネシア内部の民族運動について、350字程度で説明せよ。 指定語句〔「倫理政策」、学校、専門教育、オランダ語、イスラーム同盟、弾圧〕

    20世紀初頭のインドネシアでは、オランダの植民地政策として「倫理政策」が導入された。これは、現地住民の福祉向上を名目とし、学校教育、特に専門教育の機会を増やし、オランダ語教育も行われた。しかし、この教育を受けたエリート層の中から、民族意識に目覚め、独立を求める動きが生まれた。その代表が、1912年に結成されたイスラーム同盟である。当初は華僑商人の排斥を目的とした互助組織だったが、次第に民族主義的な性格を強め、オランダからの自治・独立を要求する大衆運動へと発展した。彼らは植民地政府に対し、ストライキなどで抵抗したが、オランダは運動を警戒し、厳しく弾圧した。これにより、指導者の逮捕や組織の分裂が起こり、民族運動は一時的に停滞を余儀なくされた。しかし、この時期の活動は、後の独立運動の基盤を築くことになった。(355字)

  • 35

    ★1905年に終結した日露戦争は世界の民族運動に大きな刺激を与えた。そこで、日露戦争直後のインド国民会議派の動きについて、60字以内で述べよ。

    国民会議派は独立急進派が主導権を握り、ベンガル分割令に反発してカルカッタ大会を開き、自治獲得などの4綱領を採択した。(58字)

  • 36

    ★19世紀後半から20世紀はじめにかけての、フィリピンでの民族運動について、300字程度で説明せよ。 指定語句〔ホセ=リサール、アギナルド、スペインからの植民地支配、フィリピン=アメリカ戦争、ムスリム〕

    19世紀後半、フィリピンではスペインからの植民地支配に対し、民族意識が高まった。ホセ=リサールは平和的な改革を目指したが、彼が処刑されると武装闘争が激化。アギナルドは革命政府を樹立し、スペインからの独立を宣言した。しかし、米西戦争で勝利したアメリカは、フィリピンの独立を認めず、領有を宣言。これに対し、フィリピン側はフィリピン=アメリカ戦争で抵抗したが、アメリカの圧倒的な軍事力の前に敗北し、再び植民地となった。この戦争は激しい抵抗戦となり、特に南部ミンダナオのムスリムは、アメリカの支配に対し20世紀初頭まで抵抗を続けた。この民族運動は、平和的改革から武力闘争、そして新たな宗主国との戦いへと変遷を遂げた。(304字)

  • 37

    ★20世紀はじめの、ベトナムでの民族運動について、諸外国の動きも関連付けて300字以内で説明せよ。 指定語句〔ファン=ボイ=チャウ、維新会、ドンズー運動、日本ヘの留学生、辛亥革命、ベトナム光復会〕

    20世紀初め、仏植民地支配下のベトナムで、ファン=ボイ=チャウは民族運動を指導した。彼は、日露戦争に勝利した日本に範をとり、1904年に維新会を結成。青年を日本への留学生として派遣するドンズー運動を展開し、近代化と独立を目指した。しかし、日本が仏との関係を重視し留学生を追放すると、ドンズー運動は挫折。ファン=ボイ=チャウは、中国へ活動拠点を移し、辛亥革命の影響を受ける中で、1912年に共和制を掲げるベトナム光復会を結成し、武力による独立を目指した。諸外国、特に日本の外交方針がベトナム民族運動に大きな影響を与えたのである。(263字)

  • 38

    空所補充。 イランの(①)朝で、1905年3月から、民衆が憲法の制定と議会開設を求めて蜂起すると、その要求に応じて議会の開設を認め、1906年には国会が開設され、同年12月にはイラン憲法が制定された。  その直接の契機となったのは、1904~5年の日露戦争での日本の勝利と、1905年に勃発したロシア革命(第1次)だった。戦争と革命によってロシアからの砂糖などの物資が止まり、民衆生活を圧迫、(②)派の法学者であるウラマーを先頭に政府批判を始め、日露戦争における日本の勝利は、立憲主義をとる国の、専制主義の国に対する勝利として捉えられ、各地に憲法の制定、議会の開設を要求する声が強まった。運動の高揚に押された①朝のシャーは保守派の大臣を罷免、議会を開設し、イラン憲法を制定した。この憲法は(③)憲法をモデルにしたもので、次の(④)朝でも機能し、1979年にイラン革命が起きるまで存続した。

    ①カージャール ②シーア ③ベルギー ④パフレヴィー

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    英作文 重要単語・表現②

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    英訳せよ。①

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    一吹

    英訳せよ。②

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    英訳せよ。②

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    30問 • 2年前
    一吹

    英訳せよ。③

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    英訳せよ。③

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    世界史共テ対策 正誤問題(古代)

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    世界史 頻出小論述②(中国朝鮮①)

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    32問 • 6ヶ月前
    一吹

    問題一覧

  • 1

    租界について、空所補充。 租借は二国間の取り決めによって成立するので、通常はその期間を定めている。期限には25年などの短い場合から、99年という長期にわたる場合もあった。(①)の租界のように、太平天国の混乱期にイギリスが居留民を守ることを口実に軍隊を駐屯させ、事実上の租借地にしてしまったケースもある。 特に中国に対して列強が租借地を獲得したのが、(②)戦争で清の弱体化が公然となった、1898~99年のイギリス、フランス、ドイツ、ロシアによる中国分割の時であった。このとき、イギリスは(③)と(④)半島北部地域、フランスは(⑤)湾、ドイツは(⑥)湾、ロシアは旅順・大連をそれぞれ租借地として獲得した。日本は②戦争で領有していた台湾の対岸の福建省を外国に割譲しないことを約束させ、その勢力圏とした(福建省不割譲条約)。中国進出が遅れることとなったアメリカ合衆国は、国務長官(⑦)の名で、(⑧)宣言を発表し、中国での⑧・機会均等、さらに中国の領土保全を原則としていく。

    ①上海 ②日清 ③威海衛 ④九竜 ⑤広州 ⑥膠州 ⑦ジョン=ヘイ ⑧門戸開放

  • 2

    租界の消滅について、空所補充。 これらの租借地は第一次世界大戦後の中国のナショナリズムの高揚によって、期限を待たずに返還されたり、租借国が変化したりし、第二次世界大戦でほぼ消滅した。その中でなおも租借として残っていたのが、イギリス領(①)に隣接した九竜半島地区と、ポルトガルの(②)であったが、九竜半島の租借期限が切れた1997年に①返還、1999年には②返還が相次いで実現し、帝国主義時代の遺物である租借地は消滅した。

    ①香港 ②マカオ

  • 3

    空所補充。 日清戦争の敗北後、イギリス・ドイツ・フランス・ロシアの利権獲得競争にさらされ、列強による中国分割が進み、清朝の動揺が激しくなった。それに対して清朝政府の中から、従来の洋務運動(清朝体制をそのままにして西洋の技術だけを取り入れようという運動)の限界を克服し、隣国の日本の明治維新にならった政治体制の変革・近代化が必要であると認識されるようになった。その指導者は公羊学者の(①)であり、その基本思想は清朝の皇帝のもとで、西洋の立憲君主政を取り入れ、議会を開設して国民の声を聞く政治の近代化を目指したものであった。このような祖宗以来の清朝の政治のあり方である「成法」を変えることを「変成法」と言い、その略称として「(②)」と言われた。また、この運動は「②運動」ともいわれ、その精神として掲げられたのが、②自強という言葉だった。  ①が建白書を提出し、運動が始まった1898年の干支が(③)であったので、「③の変法」とも言われ、③維新とも言われた。①ら改革派官僚は(④)帝のもとで清朝政府に登用され、改革が進むかと思われたが、結局、西太后らの保守派の反撃によって失敗し、③の政変といわれる政治的動揺が起こった。  1898年初め、④帝は、①・(⑤)・譚嗣同らの若手改革派官僚を登用した。1886年以来、西太后は引退し④帝の親政となっていたが、西太后の権威と影響力は強く、宮中では保守派が占められていた。宮中で孤立していた④帝は中央官庁の官僚以外にも地方官僚、一般人が意見書を提出することを許し、それを厳封のまま皇帝の手元に届くようにした。

    ①康有為 ②変法 ③戊戌 ④光緒 ⑤梁啓超

  • 4

    戊戌の政変について、空所補充。 1898年9月、清朝の光緒帝のもとで戊戌の変法と言われた近代化路線を進めようとした康有為ら革新的官僚が、宮廷の保守派(①)によって弾圧されたクーデタ事件。  1898年4月に始まった戊戌の変法を推進しようとした光緒帝らは、保守派の中心人物①をその離宮である頤和園に幽閉しようと計画し、実力者(②)に協力を求めたが、②は逆にクーデタ計画を①側に密告したため、光緒帝は逮捕されて幽閉されてしまった。また維新派(改革派)官僚も弾圧され、首謀者として(③)は処刑され、康有為・梁啓超は逃亡して日本に亡命した。

    ①西太后 ②袁世凱 ③譚嗣同

  • 5

    戊戌の政変後の清朝について、空所補充。 戊戌の政変で改革派を葬った西太后は体制の維持に成功、保守派の官僚や宦官勢力を従え、権力の独占を図った。しかし、日清戦後の列強による中国分割が同じ時期に激しくなるとともに、清朝の統治の矛盾が表面化し、各地で反キリスト教運動である(①)運動が頻発するようになって、ついに反キリスト教、反西洋を掲げる最大の勢力(②)が1900年に勃発した。  西太后は一時北京から逃れるなどの危機に陥ったが、外国軍によって②は鎮圧され、清朝は(③)議定書を締結するなど、列強に屈することとなった。その後の東アジア情勢は日本とロシアの対立を軸に進み、清朝は内外ともにその権威を失って行く中でうえからの改革である光緒新政が失敗に終わり、国内での革命運動が台頭して1911年10月、(④)が主導権を握り辛亥革命が始まって清朝は倒壊に向かう。

    ①仇教 ②義和団 ③北京 ④孫文

  • 6

    空所補充。 北京を占領された清朝は(①)が列強と講和交渉に当たり、排外派の大臣を処刑して1901年9月に(②)議定書(辛丑和約、または辛丑条約ともいう)を締結した。これによって、北京と天津への外国軍隊の駐留権などを認め、帝国主義列強の中国分割はさらに進んだ。  北京議定書では、(③)両(テール)という高額な賠償金の義務を負った。この賠償金は利子を付けて39年にわたり、毎年分割払いで支払うこととされた。元金と利子を合わせれば9億両以上となる莫大な負債となった。これはこの年の干支をとって庚子賠款(こうしばいかん)と言われ、清朝にとって日清戦争での(④)両の賠償金と共に非常な財政上の負担となった。

    ①李鴻章 ②北京 ③4億5千万 ④2億

  • 7

    空所補充。 西太后は西安から戻った後、急速に西洋風の文物を取り入れるようになり、清朝最後の改革といわれる(①)を打ち出したが、もはや清朝の権威の衰微を覆い隠すことができなっていった。  1894年に興中会を組織した(②)は、清朝内の改革派官僚に期待して、義和団事変にあわせて挙兵(恵州蜂起)したが、やはり鎮圧されてしまった。その後に誕生した光復会や華興会などの反清団体を結集し、1905年に②を総裁とする(③)が組織され、これが(④)革命による(⑤)の成立を実現させ、そして(⑥)による政権奪取による清朝の滅亡へと一気に進んでいく。  アジアの国際関係は緊迫の度合いを増した。それは義和団事変後もロシアが満洲などから撤兵しなかったことにより、ロシアの東アジア侵出を恐れた日本とイギリスが(⑦)年に日英同盟を締結したことに現れている。しかしイギリスは当時、(⑧)戦争の直後であったため自らは動けず、またアメリカもロシアを警戒していたが(⑨)らの指導するフィリピン共和国とのフィリピン=アメリカ戦争を戦っていたため介入できず、日本は単独でロシアと戦うこととなり、(⑩)年に日露戦争の勃発となる。

    ①光緒新政 ②孫文 ③中国同盟会 ④辛亥 ⑤中華民国 ⑥袁世凱 ⑦1902 ⑧南アフリカ ⑨アギナルド ⑩1904

  • 8

    ★孫文が掲げた三民主義を60字程度で説明しなさい。

    清朝の打倒と民族の独立を目指す民主主義、憲法に基づく共和国建設を目指す民権主義、経済的不平等の改善を目指す民生主義から成る。(62字)

  • 9

    空所補充。 ロシア帝国のツァーリズム政治体制は、(①)のもとで国内の矛盾を深刻化させていたが、(②)鉄道やの敷設などのアジア方面への勢力拡大でそれを解消しようというねらいがあった。日本は明治維新で近代化を開始し、1880年代に富国強兵路線を明確にしながら大陸進出をめざした。日本は1894年の日清戦争で清の(③)への宗主権を排除したものの、その後にロシアは三国干渉、(④)の敷設権獲得、1898年の(⑤2ヶ所)の租借、(⑥)年の義和団事件で出兵した後も満州に駐兵を続けるなど、急速に満州・朝鮮への侵出を進めた。これに対して日本は、同じくロシアの東アジア侵出を危惧するイギリスとの間で1902年、日英同盟を締結してイギリスの支援を得、ロシアとの対決に備えた。

    ①ニコライ2世 ②シベリア ③朝鮮 ④東清鉄道 ⑤旅順・大連 ⑥1900

  • 10

    空所補充。 山県有朋ら主戦論者が警戒していた、ロシアのシベリア鉄道建設は、本線の開通より前、1903年7月に(①)鉄道が開通、(②)へ直行することが可能となった。この開通の直前の5月、大山巌参謀総長は明治天皇に対し、シベリア鉄道・①鉄道が開通し、その軍事的輸送体制が整備される前に、満州のロシア軍を攻撃すべきであると上奏した。

    ①東清 ②ウラジヴォストーク

  • 11

    日露戦争における日本海海戦で、日本海軍が破ったロシア艦隊はなんと呼ばれていたか。

    バルチック艦隊

  • 12

    空所補充。 日本は、日本海海戦の直後に、アメリカ大統領(①)に斡旋を依頼、それを受けて1905年8月から、アメリカ東海岸の(②)で講和会議が開催された。日本代表(③)とロシア代表(④)の交渉は難航したが、1905年9月5日に妥協が成立、②条約を締結し講和した。

    ①セオドア=ローズヴェルト ②ポーツマス ③小村寿太郎 ④ウィッテ

  • 13

    ポーツマス条約について、誤っているものを1つ選べ。 ①韓国保護権 ②遼東半島北部(旅順・大連)租借権 ③南満州鉄道の利権 ④南樺太の割譲 ⑤沿海州などの漁業権

  • 14

    空所補充。 日露戦争は実際には勝敗は決しないまま講和に至ったというのが正しいが、日本国民とアジアの諸民族にとっては勝利そのものであると受け止められた。アジアの新興国がヨーロッパの大国を破ったとされた「日本の勝利」は、ヨーロッパ諸国の経済支配を受けていたトルコ、イランなどアジア諸国に影響を与えた。1906年における(①)革命、1908年のトルコの(②)の運動、また第一次世界大戦後の(③)のトルコ革命などである。またフランス植民地支配下のベトナムではファン=ボイ=チャウの(④)運動が始まる。一方の欧米では日本の台頭は日本人、ひいてはアジアの黄色人種全体への警戒心となって現れ、アメリカでの日本人移民排斥運動やドイツのヴィルヘルム2世の「(⑤)」の提唱などが現れている。

    ①イラン立憲 ②青年トルコ ③ムスタファ=ケマル ④ドンズー ⑤黄禍論

  • 15

    空所補充。 ロシアの一般国民のこの戦争のとらえ方は、はじめは極東で起こった小国日本とのトラブル程度であり、ロマノフ家が勝手に起こした戦争という醒めた見方が多かった。しかし、最終的には敗戦に至らなかったものの、旅順・大連の放棄、日本海海戦での(①)艦隊の敗北は大きな衝撃を与えた。特に、旅順陥落の直後に食糧不足に抗議する(②)の労働者、市民の請願行動を軍隊が弾圧した(③)事件が起こり、そこでの民衆虐殺はツァーリズムに対する幻想を完全に払拭させた。また、黒海海軍の水兵は(④)を起こして革命ののろしを上げた。  こうして戦争継続は困難となったため9月に講和に応じ、1905年10月17日にはウィッテが中心となって(⑤)の名で「(⑥)」を出を出し(⑦)の開設を約束した。これが第1次ロシア革命であるが、12月には労働者のゼネストを押さえ込んだツァーリ政府は、その内部危機をさらなる帝国主義政策・膨張政策によって解消しようとしてバルカン方面への進出を強め、第一次世界大戦へと突入していく。

    ①バルチック ②ペテルブルク ③血の日曜日 ④戦艦ポチョムキンの反乱 ⑤ニコライ2世 ⑥十月宣言 ⑦ドゥーマ(国会)

  • 16

    ★日比谷焼き討ち事件はなぜ起きたのか。90字程度で説明せよ。

    1905年9月5日に締結されたポーツマス条約で、賠償金を獲得できなかったこと、その他の獲得したものが少なかったことは、日本の膨大な犠牲と釣り合いが取れないと受け止められたから。(88字)

  • 17

    空所補充。 日本は日露戦争中から戦後にかけて、3次にわたる(①)協約を締結して朝鮮(大韓帝国)保護国化を進めた。それまで朝鮮に利権を持っていたイギリス・アメリカも日本を支援した手前、日本の朝鮮での優越を認めざるを得なくなった。1905年7月の日本とアメリカの(②)協定ではアメリカは日本の朝鮮での優越権を認め、日本はアメリカのフィリピンでの優越権を認めている。同年8月の第2次日英同盟ではイギリスは日本の朝鮮に対する「指導、監理及び保護」を承認し、日本はイギリスのインドなどでの権益をみとめている。ここに日露戦争が帝国主義的な世界分割の一部であったことが明確に出ている。また、1907年7月には(③)協約(第1次)を締結、満州は日露で南北に分割、外モンゴルはロシア、韓国は日本の勢力圏とすることで合意が成立した。

    ①日韓 ②桂=タフト ③日露

  • 18

    ★1907年の第一次日露協約ではどのようなことが取り決められたのか、50字程度で説明せよ。 指定語句〔外モンゴル、韓国〕

    日本の韓国における優越的地位、ロシアの外モンゴルにおける特殊権益を相互に承認。また満州は両国で分割した。(52字)

  • 19

    空所補充。 日露戦争の講和条約として、(①)年9月5日に締結されたポーツマス条約で、日本はロシアの関東州(旅順・大連)の租借権(25年)を継承した。日本はついで①年12月に清国との間で「満州に関する日清条約」を締結して、ロシア権益の継承を認めさせた。 ポーツマス条約締結直後の9月26日、日本は関東総督府を設置し、関東州の統治にあたらせることを決定した。関東総督府は天皇に直属し、関東州の軍備と治安とともに民政を監督する統治機関であり、遼陽に置かれ初代総督には大島義昌陸軍大将が就任した。関東総督の指揮下に二個師団1万が駐留し、関東州と満鉄沿線の守備にあたった。 その統治のため関東総督府を当初は遼陽に置いたが、翌1906年、関東都督府と改称するとともに旅順に移した。関東都督は武官が任じられ、関東州の駐屯部隊を指揮して治安維持にあたるとともに政務も行い、同年設立された(②)鉄道の業務の監督も行った。

    ①1905 ②南満州

  • 20

    日本は韓国に統監府を起き、その支配を強めた。その初代統監は誰か。

    伊藤博文

  • 21

    ★20世紀初頭、日本は急速に韓国支配を強化していった。とくに日露戦争が始まると、日韓議定書を締結して韓国内における日本軍の自由行動を認めさせた。それ以降も、日本は韓国の主権を段階的に奪っていった。日韓議定書締結後の植民地化の過程を、130字以内で簡潔に述べよ。

    1904年の第一次日韓協約で日本は外交・財政の顧問を派遣し、1905年の第二次日韓協約では韓国を保護国化して統監府を設置した。さらに第三次日韓協約では韓国軍の解散を行った。そして1910年の韓国併合条約で完全に主権を奪い、ソウルに朝鮮総督府を設置した。(126字)

  • 22

    ★1880年代以降から1900年代初期における、日本の産業の変化や東アジアとの貿易について、主要な戦争や産業、輸出入品に着目して160字以内で説明せよ。 指定語句〔生糸輸出、日清戦争、日露戦争、米・砂糖、綿布〕

    日本は軽工業化により生糸輸出が盛えた。日清戦争に勝利し、賠償金を得て重工業発展、綿布などの工業製品をアジア市場へ輸出した。日露戦争後には、工業製品輸出がさらに増大。一方で、植民地となった台湾などからは米・砂糖を輸入し、産業構造と東アジア貿易は大きく変化した。(156字)

  • 23

    空所補充。 四川暴動が起こったとき、孫文はアメリカのデンバーにいた。孫文はすでに1894年に清朝の改革をとなえ、ハワイで(①)を組織し、日清戦争や義和団事件に際して清朝政府内の改革派に呼応する形で挙兵していたが、いずれも鎮圧され、長い亡命生活を送らざるを得なくなっていた。1905年には(②)を結成し、清朝の支配に代わる新たな中国の理念として三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)と(③)を提唱していた。暴動勃発を聞いてヨーロッパ経由で帰国の途に着き、武昌蜂起が起きたことはロンドンで知り、イギリスなど国際世論に支持を訴えた。年末に帰国した孫文はただちに革命の中心人物として指導に当たった。

    ①興中会 ②中国同盟会 ③四大鋼領

  • 24

    ★辛亥革命について、一度は革命派勢力は弱まったが、最終的に革命運動は成功し、中華民国が成立した。孫文らの三民主義を掲げた運動が弱まってから、中華民国が成立するまでの清内部の動きについて、280字程度で説明せよ。 指定語句〔賠償金、反発、立憲派、四川、武昌、独立、南京〕

    清朝末期、多額の義和団戦争の賠償金や度重なる列強からの干渉は、清朝の財政と権威を揺るがした。清は立憲君主制導入を目指す「新政」で体制を立て直そうとしたが、その改革が利権を侵害するとして各地で反発が起こり、特に鉄道国有化政策を巡る四川での暴動は激化した。革命派の運動が一時停滞する中、1911年10月、武昌で新軍が蜂起し、革命運動が再燃。各地の省が清朝からの独立を次々と宣言し、立憲派も革命を支持した。同年末には、独立各省の代表が南京に集まり、1912年1月1日、中華民国臨時政府が成立。孫文が臨時大総統に就任し、清朝の滅亡と中華民国の成立に至った。(274字)

  • 25

    空所補充。  (①)年1月1日、独立を宣言した各省の代表が南京に集まり、孫文を臨時大総統に選出して、中華民国が成立した。  清朝政府はなおも北京に命脈を保っていたが、1912年2月に内閣総理大臣袁世凱は、最後の皇帝(②)帝を退位させ、清王朝は12代297年で滅んだ。同時に革命勢力を取り込もうとして皇帝退位を条件として孫文に臨時大総統の地位の移譲を迫り、3月にそれを実現した。

    ①1912 ②宣統

  • 26

    ★辛亥革命後のモンゴルとチベットの独立運動について、80字程度で説明せよ。(東大)

    外モンゴルは独立を宣言し、1924年、ソヴィエト連邦の影響下で社会主義国を樹立した。チベットはダライ=ラマ13世が独立を宣言したが、中華民国の中にとどまった。(77字)

  • 27

    2010東大 インドでは、ラーム=モーハン=ローイが、女性に対する非人道的なヒンドゥー教の風習を批判するパンフレットを刊行するなどして、近代主義の立場から宗教・社会改革運動を進めた。この風習を何というか答えなさい。

    サティ

  • 28

    18世紀前半のインドの社会と文化の改革を説いた民族独立運動の先駆者。1828年にブラーフマ協会を設立、1829年にはイギリスのベンガル総督にサティ(寡婦殉死)禁止令を出させた。これは誰か。

    ラームモーハン=ローイ

  • 29

    1883年、全インド国民協議会を設立。後に国民会議派と合同した。初期のインド民族運動の指導者で、インド人に対する差別反対、自治の要求などに立ち上がったが、穏健な戦術を主張したのでベンガル分割令では急進派のティラクと対立し分裂した。これは誰か。

    バネルジー

  • 30

    空所補充。 1885年、第1回大会をボンベイ(現ムンバイ)で開催した会議で、はじめはイギリスがインドの名士71名を集め、インド総督の諮問に答えて意見を述べさせ、植民地統治に対する不満のはけ口とするつもりであった。それは1883年に、(①)らが反イギリス的な民族運動組織として(②)を発足させたことを警戒したためであった。ところが、インド国民会議に結集した人々はイギリスの思惑に反して、インドの自治獲得を目指す国民会議派と言われるインド最初の国民的な政党を組織することとなった。  1886年に議長となった(③)は、イギリス植民地支配によってインドの富が奪われているとして「富の流出」論を説き、インド人によるインド統治(自治)の実現をめざす国民会議の運動を理論づけた。また、本国のイギリス人政治家、在インドのイギリス人高等文官などにも一定の影響を与え、国民会議に参加するものもあった。

    ①バネルジー ②全インド国民協議会 ③ナオロジー

  • 31

    空所補充。 1885年に開催された(①)は英語では Indian National Congress であり、直訳すれば、「インド国会」となる。Congress はアメリカでは「議会」を意味している。しかし①は、国会や議会の意味はなく、国民の代表が選出されたわけでもない。イギリス当局によって撰ばれたインド人が、イギリスのインド統治について諮問された件について議論する場に過ぎず、決定する場でもなかった。つまり、単なる話し合いの場に過ぎなかったわけである。いわばイギリスがインド人の不満のガス抜きをするために設けたものであったが、次第にイギリスの思惑から離れて、インドの自治を、さらには独立を要求する場に転換していく。  それが明確になったのが、1905年にイギリスが制定した(②)令に対する反対から1906年12月の(③)を決議した頃からであった。このときはイギリスのてこ入れもあって、急進派と穏健派が分裂して勢いを失ったが、第一次世界大戦後に(④)の指導で運動が再び活発になり、1920年の大会で全国組織を改革して、明確な「政党」となり、Congress Party と称するようになった。厳密にはこのときから政党として「(⑤)」となる。

    ①インド国民議会 ②ベンガル分割 ③カルカッタ四大鋼領 ④ガンディー ⑤国民議会派

  • 32

    カルカッタ四大鋼領について、空所補充。 前年にイギリスのインド総督(①)が出したベンガル分割令に激しく反発した(①)派が、1906年12月26日にカルカッタ(現コルカタ)で開催した大会で決定した4綱領。 1.(②)はイギリス商品(主として綿布)を購買しないこと。 2.(③)は国産品を買うようにしようということ。 3.(④)のスワは「自己」、ラージは「統制」を意味し、「自治」の獲得を求めたもの。 4.(⑤)は、イギリスの教育制度の押し付けはインド人の精神の奴隷化を意味するとし、「民族的統御の下、民族的方針に従い、国の利益に即した」教育を求めたもの。  これらの採択に呼応して、実際にイギリス商品を扱う店先で青年、学生がピケを張り外国商品を焼き捨てるなどの反英闘争が急進化した。  国民会議派でこの採択に尽力したのは、ラージパット=ラーイ、(⑥)、チャンドラ=パールらで、人々からはラール=バール=パールと言われた(⑦)派であった。⑦派の台頭を恐れたイギリスは、バネルジーやナオロジーなどの穏健派の抱き込みを図り、翌年にインド統治法の改正を提案した。穏健派がそれを受け入れて運動を停止しようとしたため⑦派は①派を脱退し、分裂した。さらにイギリスは急進派弾圧に動き、⑥を逮捕して投獄、ラージパット=ラーイはアメリカと日本に亡命した。

    ①国民議会 ②英貨排斥 ③スワデージ ④スワラージ ⑤民族教育 ⑥ティラク ⑦急進

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    ★ベンガル分割令により急進化した民族蘊奥を鎮めるために、イギリスがとった策を130字程度で説明せよ。

    ベンガル分割令で激化した民族運動を鎮めるため、イギリスは反英ムードの分断を図った。イスラーム教徒を味方につけようと全インド=ムスリム連盟の結成を支援。しかし運動の勢いは止まらず、イギリスは1911年にベンガル分割令を撤回し、首都をカルカッタからデリーへ移した。(130字)

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    ★20世紀はじめのインドネシア内部の民族運動について、350字程度で説明せよ。 指定語句〔「倫理政策」、学校、専門教育、オランダ語、イスラーム同盟、弾圧〕

    20世紀初頭のインドネシアでは、オランダの植民地政策として「倫理政策」が導入された。これは、現地住民の福祉向上を名目とし、学校教育、特に専門教育の機会を増やし、オランダ語教育も行われた。しかし、この教育を受けたエリート層の中から、民族意識に目覚め、独立を求める動きが生まれた。その代表が、1912年に結成されたイスラーム同盟である。当初は華僑商人の排斥を目的とした互助組織だったが、次第に民族主義的な性格を強め、オランダからの自治・独立を要求する大衆運動へと発展した。彼らは植民地政府に対し、ストライキなどで抵抗したが、オランダは運動を警戒し、厳しく弾圧した。これにより、指導者の逮捕や組織の分裂が起こり、民族運動は一時的に停滞を余儀なくされた。しかし、この時期の活動は、後の独立運動の基盤を築くことになった。(355字)

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    ★1905年に終結した日露戦争は世界の民族運動に大きな刺激を与えた。そこで、日露戦争直後のインド国民会議派の動きについて、60字以内で述べよ。

    国民会議派は独立急進派が主導権を握り、ベンガル分割令に反発してカルカッタ大会を開き、自治獲得などの4綱領を採択した。(58字)

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    ★19世紀後半から20世紀はじめにかけての、フィリピンでの民族運動について、300字程度で説明せよ。 指定語句〔ホセ=リサール、アギナルド、スペインからの植民地支配、フィリピン=アメリカ戦争、ムスリム〕

    19世紀後半、フィリピンではスペインからの植民地支配に対し、民族意識が高まった。ホセ=リサールは平和的な改革を目指したが、彼が処刑されると武装闘争が激化。アギナルドは革命政府を樹立し、スペインからの独立を宣言した。しかし、米西戦争で勝利したアメリカは、フィリピンの独立を認めず、領有を宣言。これに対し、フィリピン側はフィリピン=アメリカ戦争で抵抗したが、アメリカの圧倒的な軍事力の前に敗北し、再び植民地となった。この戦争は激しい抵抗戦となり、特に南部ミンダナオのムスリムは、アメリカの支配に対し20世紀初頭まで抵抗を続けた。この民族運動は、平和的改革から武力闘争、そして新たな宗主国との戦いへと変遷を遂げた。(304字)

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    ★20世紀はじめの、ベトナムでの民族運動について、諸外国の動きも関連付けて300字以内で説明せよ。 指定語句〔ファン=ボイ=チャウ、維新会、ドンズー運動、日本ヘの留学生、辛亥革命、ベトナム光復会〕

    20世紀初め、仏植民地支配下のベトナムで、ファン=ボイ=チャウは民族運動を指導した。彼は、日露戦争に勝利した日本に範をとり、1904年に維新会を結成。青年を日本への留学生として派遣するドンズー運動を展開し、近代化と独立を目指した。しかし、日本が仏との関係を重視し留学生を追放すると、ドンズー運動は挫折。ファン=ボイ=チャウは、中国へ活動拠点を移し、辛亥革命の影響を受ける中で、1912年に共和制を掲げるベトナム光復会を結成し、武力による独立を目指した。諸外国、特に日本の外交方針がベトナム民族運動に大きな影響を与えたのである。(263字)

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    空所補充。 イランの(①)朝で、1905年3月から、民衆が憲法の制定と議会開設を求めて蜂起すると、その要求に応じて議会の開設を認め、1906年には国会が開設され、同年12月にはイラン憲法が制定された。  その直接の契機となったのは、1904~5年の日露戦争での日本の勝利と、1905年に勃発したロシア革命(第1次)だった。戦争と革命によってロシアからの砂糖などの物資が止まり、民衆生活を圧迫、(②)派の法学者であるウラマーを先頭に政府批判を始め、日露戦争における日本の勝利は、立憲主義をとる国の、専制主義の国に対する勝利として捉えられ、各地に憲法の制定、議会の開設を要求する声が強まった。運動の高揚に押された①朝のシャーは保守派の大臣を罷免、議会を開設し、イラン憲法を制定した。この憲法は(③)憲法をモデルにしたもので、次の(④)朝でも機能し、1979年にイラン革命が起きるまで存続した。

    ①カージャール ②シーア ③ベルギー ④パフレヴィー