ログイン

世界史 欧大移動、大国形成
30問 • 1年前
  • 一吹
  • 通報

    問題一覧

  • 1

    前6世紀からヨーロッパに広く住み着いていた民族はなにか。

    ケルト人

  • 2

    5世紀前半にアッティラは、どこを中心に帝国を建てたか。

    パンノニア

  • 3

    フン人について、空欄補充。 2世紀頃、バイカル湖方面から西方に移動を開始し、4世紀には南ロシアのステップ地帯に入り、370年ごろ、ゲルマンの一部族(①)人の居住地に侵攻した。それを契機として①人はそれを逃れるためローマ領内に移動、(②)の引き金となった。 フン人はその後、パンノニア(現在のハンガリー)を中心に現在のドイツ、ポーランドを含む地位に帝国を建設、5世紀前半の(③)王の時全盛期となる。③王は東ローマ、西ローマと戦って領土を拡大したが、451年の(④)の戦いで西ローマ・(⑤)の連合軍に敗れ、翌年イタリアに侵入したが疫病のため撤退、その死後は急速に衰え、滅亡した。

    ①東ゴート ②ゲルマン人の大移動 ③アッティラ ④カタラウヌム ⑤西ゴート

  • 4

    ヴァンダル人について、空欄補充 ヴァンダル人ははじめ現在のドイツ・ポーランドの国境地帯、オーデル川流域に居住していたが、(①)人に圧迫されて406年に移動を開始、ガリア(現在のフランス)を通り、イベリア半島(イスパニア)に入った。さらに(②)人に追われて、429年に(③)海峡を超え、北アフリカにわたり、さらに現在のチュニジア、かつてカルタゴが繁栄したところに王国を建設した。

    ①フン ②西ゴート ③ジブラルタル

  • 5

    アングロ=サクソン人について、空欄補充。 ゲルマン人の一派であるアングロ人=サクソン人はともにエルベ川下流域の北海沿岸にいたが、ゲルマン人の大移動の過程で、5世紀中頃から北海を超えて(①)島に侵入し、先住の(②)人を征服し、そこに7つの王国をつくった。なお、大陸にとどまったザクセン人は、8世紀にフランク王国の(③)に征服され、(④)に改宗した。フランク王国分裂後は東フランクのザクセン家が有力となり、ザクセン朝に(⑤)1世が出現、ドイツ国家の中核となっていく。

    ①大ブリテン ②ケルト ③カール大帝 ④ローマ=カトリック教会 ⑤オットー

  • 6

    東ゴート人を率いた(①)大王は東ローマ帝国の要請を受けて北イタリアに入り、(②)帝国を滅ぼしてイタリアを支配ていた(③)を493年に暗殺して、東ゴート王国を建国した。都は(④)に置いた。

    ①テオドリック ②西ローマ ③オドアケル ④ラヴェンナ

  • 7

    ランゴバルド人について、空欄補充。 現ドイツのエルベ川上流域にいたゲルマン人の一派での一部族。ゲルマン人の大移動の中でドナウ川流域などに移動した後、東ローマ帝国領内に居住していた。6世紀に東ローマ帝国の(①)大帝が次々と地中海岸のゲルマン諸国を滅ぼす中、ランゴバルド族は東ローマ帝国が(②)王国を滅ぼすのに協力した。しかし大帝の死後、東ローマが衰退すると反旗をひるがえし、(③)王はイタリアに侵入、(④)年に(⑤)を首都としてランゴバルド王国を建国した。これが(第1次)民族大移動の終幕と言われている

    ①ユスティニアヌス ②東ゴート ③アルボイン ④568 ⑤パヴィア

  • 8

    ユスティニアヌス大帝が建てたこの聖堂の名前は何か。

    ハギア=ソフィア聖堂

  • 9

    ★西ローマ帝国滅亡後の、西方のゲルマン諸国の東ローマ帝国に対する態度について、簡単に説明しなさい。 指定語句〔唯一の後継者、服従〕

    ビザンツ皇帝をローマ帝国唯一の後継者と認め、服従した。

  • 10

    ユスティニアヌス大帝の事績について、空欄補充。 北アフリカの(①)王国やイタリアの(②)王国を滅ぼし、一時的に地中海全域の支配を実現した。 他方内政では、(③)の編纂や(④)の建立などの事業に注力し、また、中国から(⑤)技術を取り入れ、(⑥)産業発展の基礎を築いた。

    ①ヴァンダル ②東ゴート ③「ローマ法大全」 ④ハギア=ソフィア聖堂 ⑤養蚕 ⑥絹織物

  • 11

    ★5世紀から7世紀のフランク王国について、国内の動きに着目して170字程度で説明せよ。 指定語句〔クローヴィス、アリウス派、全ガリア、マヨル=ドムス、ヴルグンド王国〕

    5世紀に成立したメロヴィング朝フランク王国は、クロヴィスがアリウス派からカトリックへ改宗したことで、ローマ系住民との融和が進み、全ガリアを支配下に置いた。しかし、7世紀には王権が弱体化し、宮宰であるマヨル=ドムスが実権を握るようになった。特に、ヴルグンド王国など周辺ゲルマン国家を併合しつつ、フランク王国内の豪族が台頭し、地方分権化が進んだ。(171字)

  • 12

    ★レオン3世が聖像禁止令を出した目的について30字程度で説明せよ。また、何年に出したかを答えよ。

    イスラーム勢力に対抗し、修道院勢力を抑圧するため。(35字) 726年

  • 13

    ★レオン3世による聖像禁止令がもたらした、東西の教会の関係及びローマ教会の姿勢の変化を60字程度で答えよ。 指定語句〔ゲルマン人、対立、保護者〕

    レオン3世の聖像禁止令は東西教会を対立させ、ローマ教会はビザンツ皇帝への不信から、ゲルマン人フランク王国を新たな保護者とした。(63字)

  • 14

    カロリング朝カール大帝の治世におけるフランク王国について、外政と内政、文化の側面から具体的に説明せよ。 指定語句(内政)① 〔州、伯、巡察使〕 指定語句(外政)② 〔ランゴバルド王国、ザクセン人、アヴァール人、イスラーム勢力〕 指定語句(文化)③ 〔アルクイン、宮廷〕

    ①全国を州にわけ、地方の有力豪族を各州の代表である伯に任命し、巡察使を派遣し伯を監視させた。 ②ランゴバルド王国を征服し、北東のザクセン人を服従させ、東ではアヴァール人を南ではイスラーム勢力を撃退し、西ヨーロッパの大部分を統一した。 ③宮廷にアルクインらの学者を多数招き、文芸復興のきっかけをつくった。

  • 15

    カールの戴冠について、空欄補充。 ローマ=カトリック教会の教皇(①)の要請で、大軍を率いてローマに来ていたフランク国王カールは、(②)年のクリスマスを祝うためサン=ピエトロ大聖堂におもむいたところ、思いがけず、レオ3世が突然祭壇にひざまずいているカールに近づき、皇帝の冠を彼の頭上においた。教会にいた群衆は、いっせいにカールの戴冠を祝った。このようにカールの戴冠はハプニングとして演出されていたが、ローマ教皇としてビザンツ帝国と一体である(③)(=東方教会、コンスタンティノープル教会)と対抗するためには必要なことであった。

    ①レオ3世 ②800 ③ギリシア正教会

  • 16

    ヴェルダン条約について、空欄補充。 フランク王国のカロリング朝のカール大帝の子ルイ(敬虔王、ルートヴィヒ1世)が死ぬと、その子たちは分割相続を主張し、843年のこの条約(協定)によって、中部フランク(イタリアおよびロレーヌ)、東フランク、西フランクに三分され、それぞれ(①)、(②)、(③)(禿頭王)が継承した。

    ①ロタール1世 ②ルートヴィヒ ③シャルル

  • 17

    メルセン条約はどんな条約か。何年に結ばれたかも答えよ。

    870年に、ロタール1世の死後、その領地をルートヴィヒとシャルルで分割し、東フランク、西フランクに編入し、残りはイタリア王国とした条約。

  • 18

    空欄補充。  911年、東フランク王国で(①)家の国王ルートヴィヒが死去し、その家系が途絶えると、東フランクの諸侯(部族大公)はフランケン大公のコンラート1世に続いて、(②)大公の(③)を国王に選出した。カール大帝の時、フランク王国に征服された②人の中から国王が出たわけであるが、それは①家の諸王がノルマン人や(④)人の侵攻に対処できなかったためであり、諸侯がより強力な王権を求めたためであった。②はその期待に応え、933年に④人との戦いに勝利した。その子でザクセン朝第2代国王となったのが(⑤)1世であった。①はバイエルンなどの有力部族を抑え、936年にアーヘンで東フランク国王(ドイツ王)に即位し、外敵の侵入を防止して勢力を東方に拡大しながら、有力諸侯を抑え、国内統一につとめた。その際、教会勢力に対して保護と同時に統制に努め、(⑥)を通じて教会を支配する(⑦)政策を推進した。

    ①カロリング ②ザクセン ③ハインリヒ1世 ④マジャール ⑤オットー ⑥聖職叙任 ⑦帝国教会

  • 19

    帝国教会政策について、空欄補充。 フランク(実質的にはドイツ)のザクセン朝の国王(①)1世は、国内の有力諸侯(部族大公ともいわれるフランケンやバイエルンなどの諸部族)の力を抑えるために、教会の力を利用しようとした。彼は教会に土地を寄進する代わりに、自分の一族や関係者を司教などの聖職者に叙任し、教会を統制した。聖職者であれば、その地位は世襲されないので、諸侯がその地位を世襲することは出来なくなり、また聖職者は文書の作成などに通じているので、彼らに国家官僚を兼ねさせることによって政府による統治にも利用できた。962年にオットー1世は、ローマでローマ教皇(②)から西ローマ帝国皇帝の帝冠を授けられて皇帝となった。この①の戴冠によって成立した(③)帝国(その名称の定着は13世紀ごろ)において、帝国教会政策は皇帝の(④)政策(ローマ皇帝としてイタリアに進出して経営に当たる政策)とともに後の③皇帝に継承されていく。

    ①オットー ②ヨハネス12世 ③神聖ローマ ④イタリア

  • 20

    空欄補充。 11世紀からキリスト教の内部に、(①)修道院を中心とした修道院運動が始まり、自らの力で規律の回復をめざすようになると、その中心となった改革派聖職者の間から、(②)政策に対する批判が起こってきた。聖職売買の背景にはその任命権が俗人に握られているところにあると考えた彼らは、特に皇帝の(③)権を否定し教会が奪回することを主張するようになった。そこから起こったのが叙任権闘争であり、その最も顕著な対立が1077年の教皇(④)7世による皇帝(⑤)4世の破門と、それに伴う「カノッサの屈辱」の事件であった。この事件の後、同じく改革派教皇の(⑥)は十字軍運動を提唱し、第1回が成功に終わったことから教皇の権威が高まり、1122年に(⑦)協約で皇帝と教皇の妥協が成立、皇帝は②政策を破棄して、③権を基本的には放棄することとなった。

    ①クリュニー ②帝国教会 ③聖職叙任 ④グレゴリウス ⑤ハインリヒ ⑥ウルバヌス2世 ⑦ヴォルムス

  • 21

    空欄補充。 王位は一応世襲されたが、カペー家の支配の及んだのはその所領のあるパリ周辺とオルレアン付近だけであり、実態は地方政権にすぎなかった。また(①)人からの侵入から身を守るべく、諸侯たちは城塞を築き、それぞれ主従関係を結んで自己の所領を護りながら自立を強め、フランス各地には、多くの(②)領主が分立し、②社会が形成された。また国土の約半分のノルマンディやギエンヌ地方の領主であったアンジュー伯(③)がイギリス王位を継承し、1154年、プランタジネット朝の(④)2世となり、カペー家領をはるかにしのぐプランタジネット家国家が英仏海峡にまたがって出現した。このため、封建領主としてはフランス王に臣従するプランタジネット家が、イギリス王としてはフランス王と対等であるという、現代ではあり得ない両者の関係ができあがり、カペー朝は国内のイギリス領地を奪回することに心血を注ぐこととなった。またカペー家の拠点であった(⑤)は、次第に首都として機能するようになり、12世紀から発展が始まり、13世紀には⑤大学・ノートルダム大聖堂を有するフランスの政治・経済・文化の中心地として繁栄するようになる。また(⑥)地方はヨーロッパの遠隔地貿易のちょうど十字路にあたる地域として経済が発展した。

    ①ノルマン ②封建 ③アンリ ④ヘンリ ⑤パリ ⑥シャンパーニュ

  • 22

    空欄補充。 911年、(①)に率いられたノルマン人の一派は、フランス(西フランク)に侵攻、フランス王(②)は、キリスト教への改宗などを条件に、彼らにセーヌ川下流域の定住を認めなければならなかった。その地はその後、ノルマンディーと言われ、①の子孫はノルマン貴族としてフランス王(後にカペー朝のフランス)の家臣となって「(③)」と称した(ノルマンディーの領主は「伯(コント)」であったが、11世紀には一段上の「公((④))」を自称するようになり、1204年に正式に公に叙せられた)

    ①ロロ ②シャルル3世 ③ノルマンディー公 ④デューク

  • 23

    空欄補充。 1066年にはノルマンディ公(①)(ギヨーム)がイングランドを征服((②))し、ノルマンディーとイングランドを併せた(③)朝イギリスが成立した。

    ①ウィリアム ②ノルマン=コンクェスト ③ノルマン

  • 24

    空欄補充。 イタリアからシチリア島一帯はイスラーム教勢力の侵攻が続き、苦慮したローマ教皇は、ノルマンディーの(①)人の武力を利用しようとした。ノルマンディーの①人は土地不足から海外発展の機会を狙っていたので、教皇の意向に沿う形でまず(②)として南イタリアに赴き、そこで土地を与えられ領主として力を付けた者のなかには地中海進出を図るものも現れた。まず、ノルマンディーのオートヴィル出身の(③)(ロベルト=イル=グィスカルド)と(④)の兄弟らはノルマン人の南イタリア進出をはかり、④の子の④2世が1130年には(⑤)王国を建設した。

    ①ノルマン ②傭兵 ③ロベルト=ギスカルト ④ルッジェーロ ⑤両シチリア

  • 25

    アルフレッド大王について、空欄補充。 イングランド王国の国王(在位871~899年)。アングロ=サクソン人の七王国の一つ(①)王エグバートの孫。父はエゼルウルフ。父や兄たちはそのころ強まっていたデーン人((②)とも呼ばれた)の侵攻と死闘を繰り返し、次々と倒れ、末子のアルフレッドが871年に即位した。デーン人は850年にブリテン島に定住を開始していたが、アルフレッドはサクソン人諸国をまとめることに成功し、デーン人との間で支配領域の協定を結んだ(878年)。その後もデーン人との衝突は続き、886年にはロンドンを奪回し、デーン人との戦闘に勝利した。  アルフレッドはデーン人との間でイングランド北東部の統治権((③))を認める条約を結び、戦闘を終結させて、自らはイングランド南西部の支配権を保持した。これによってイングランド王国は滅亡を免れた。アルフレッドはまたラテン語の英訳などの学問の保護に熱心であったので、「イギリスの(④)大帝」と言われ、「大王」と称された

    ①ウェセックス ②ヴァイキング ③デーンロー ④カール

  • 26

    ノヴゴロド国について、空欄補充。 ノブゴロド国と表記され、公国と言うこともある。ゴロドは「(①)」の意味。もともとスラヴ人が居住していたが、862年、バルト海方面からノルマン人の(②)(ルス)が、(③)に率いられてこの地に侵入、ノヴゴロドを占領し、スラヴ人を支配する国家を建設した。ノルマン人はスラヴ人に同化していき、やがて②からロシアという名が起こり、これがロシア国家の起源とされている。ノヴゴロド国は後にキエフに建国された(④)公国に併合される。

    ①城塞 ②ルース ③リューリク ④キエフ

  • 27

    以下のヒントから、当時高価だった交易品を答えよ。 ①ロシアの森林産の重要な交易品となった。近代ではカナダでも主要な交易品となった。 ②ドニエプル川中流のキエフは、この交易品の中継地点だった。 ③イスラーム世界でも、絹とならんで富の象徴とされた。

    毛皮

  • 28

    毛皮について、空欄補充。 毛皮はロシアの重要な国際商品だったので、モスクワ大公国の(①)(雷帝)の時のイェルマークの遠征に代表されるような積極的な(②)進出を行った。またロマノフ朝のピョートル1世時代に清朝とのあいだに国境紛争が起きネルチンスク条約を締結したが、それもクロテンを追って毛皮商人がシベリアの東端に達したために起こったことであった。ロシア以外にも、(③)もシベリア東南部で毛皮を重要な産物としていた。

    ①イヴァン4世 ②シベリア ③女真

  • 29

    ★西欧でみられる封建的主従関係の特徴について、双務的契約関係という言葉を用いて、70字程度で説明しなさい。

    西欧の封建的主従関係は、双務的契約関係に基づき、主君は保護を、家臣は軍役奉仕の義務を負った。双方が義務を果たすことで関係が成立した。(66字)

  • 30

    空欄補充。 農民の多くは、(①)と呼ばれる不自由身分で、移住の自由はなく、領主直営地で労働する義務((②))と、自分の保有地から生産物を納める義務((③))を負った。彼らは結婚税や死亡税、パン焼き釜戸や水車の使用料を領主に取り立てられた。荘園には手工業者も住み、原始的な(④)経済が主流だった。領主は、国王の役人が荘園に立ち入ったり課税したりするのを拒む(⑤)を持ち、農民を領事裁判権で自由に裁くことができた。

    ①農奴 ②賦役 ③貢納 ④現物 ⑤不輸不入権、インムニテート

  • 英作文 重要単語・表現①

    英作文 重要単語・表現①

    一吹 · 40問 · 5ヶ月前

    英作文 重要単語・表現①

    英作文 重要単語・表現①

    40問 • 5ヶ月前
    一吹

    英作文 重要単語・表現②

    英作文 重要単語・表現②

    一吹 · 35問 · 5ヶ月前

    英作文 重要単語・表現②

    英作文 重要単語・表現②

    35問 • 5ヶ月前
    一吹

    英訳せよ。①

    英訳せよ。①

    一吹 · 30問 · 2年前

    英訳せよ。①

    英訳せよ。①

    30問 • 2年前
    一吹

    英訳せよ。②

    英訳せよ。②

    一吹 · 30問 · 2年前

    英訳せよ。②

    英訳せよ。②

    30問 • 2年前
    一吹

    英訳せよ。③

    英訳せよ。③

    一吹 · 30問 · 2年前

    英訳せよ。③

    英訳せよ。③

    30問 • 2年前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(古代)

    世界史共テ対策 正誤問題(古代)

    一吹 · 24問 · 6ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(古代)

    世界史共テ対策 正誤問題(古代)

    24問 • 6ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(~18世紀東南亜)

    世界史共テ対策 正誤問題(~18世紀東南亜)

    一吹 · 18問 · 8ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(~18世紀東南亜)

    世界史共テ対策 正誤問題(~18世紀東南亜)

    18問 • 8ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(イスラーム)

    世界史共テ対策 正誤問題(イスラーム)

    一吹 · 31問 · 8ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(イスラーム)

    世界史共テ対策 正誤問題(イスラーム)

    31問 • 8ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(朝鮮史①)

    世界史共テ対策 正誤問題(朝鮮史①)

    一吹 · 3回閲覧 · 22問 · 6ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(朝鮮史①)

    世界史共テ対策 正誤問題(朝鮮史①)

    3回閲覧 • 22問 • 6ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(中国①)

    世界史共テ対策 正誤問題(中国①)

    一吹 · 3回閲覧 · 36問 · 8ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(中国①)

    世界史共テ対策 正誤問題(中国①)

    3回閲覧 • 36問 • 8ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(19c欧米)

    世界史共テ対策 正誤問題(19c欧米)

    一吹 · 47問 · 7ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(19c欧米)

    世界史共テ対策 正誤問題(19c欧米)

    47問 • 7ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(近代英仏)

    世界史共テ対策 正誤問題(近代英仏)

    一吹 · 41問 · 7ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(近代英仏)

    世界史共テ対策 正誤問題(近代英仏)

    41問 • 7ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(主要な戦争)

    世界史共テ対策 正誤問題(主要な戦争)

    一吹 · 10問 · 8ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(主要な戦争)

    世界史共テ対策 正誤問題(主要な戦争)

    10問 • 8ヶ月前
    一吹

    世界史 文化史特化(古代~中世)

    世界史 文化史特化(古代~中世)

    一吹 · 9問 · 9ヶ月前

    世界史 文化史特化(古代~中世)

    世界史 文化史特化(古代~中世)

    9問 • 9ヶ月前
    一吹

    世界史 文化史特化(近現代)

    世界史 文化史特化(近現代)

    一吹 · 9問 · 9ヶ月前

    世界史 文化史特化(近現代)

    世界史 文化史特化(近現代)

    9問 • 9ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 名言問題

    世界史共テ対策 名言問題

    一吹 · 21問 · 6ヶ月前

    世界史共テ対策 名言問題

    世界史共テ対策 名言問題

    21問 • 6ヶ月前
    一吹

    世界史 頻出小論述①(古代)

    世界史 頻出小論述①(古代)

    一吹 · 8問 · 6ヶ月前

    世界史 頻出小論述①(古代)

    世界史 頻出小論述①(古代)

    8問 • 6ヶ月前
    一吹

    世界史 頻出小論述②(中国朝鮮①)

    世界史 頻出小論述②(中国朝鮮①)

    一吹 · 32問 · 6ヶ月前

    世界史 頻出小論述②(中国朝鮮①)

    世界史 頻出小論述②(中国朝鮮①)

    32問 • 6ヶ月前
    一吹

    問題一覧

  • 1

    前6世紀からヨーロッパに広く住み着いていた民族はなにか。

    ケルト人

  • 2

    5世紀前半にアッティラは、どこを中心に帝国を建てたか。

    パンノニア

  • 3

    フン人について、空欄補充。 2世紀頃、バイカル湖方面から西方に移動を開始し、4世紀には南ロシアのステップ地帯に入り、370年ごろ、ゲルマンの一部族(①)人の居住地に侵攻した。それを契機として①人はそれを逃れるためローマ領内に移動、(②)の引き金となった。 フン人はその後、パンノニア(現在のハンガリー)を中心に現在のドイツ、ポーランドを含む地位に帝国を建設、5世紀前半の(③)王の時全盛期となる。③王は東ローマ、西ローマと戦って領土を拡大したが、451年の(④)の戦いで西ローマ・(⑤)の連合軍に敗れ、翌年イタリアに侵入したが疫病のため撤退、その死後は急速に衰え、滅亡した。

    ①東ゴート ②ゲルマン人の大移動 ③アッティラ ④カタラウヌム ⑤西ゴート

  • 4

    ヴァンダル人について、空欄補充 ヴァンダル人ははじめ現在のドイツ・ポーランドの国境地帯、オーデル川流域に居住していたが、(①)人に圧迫されて406年に移動を開始、ガリア(現在のフランス)を通り、イベリア半島(イスパニア)に入った。さらに(②)人に追われて、429年に(③)海峡を超え、北アフリカにわたり、さらに現在のチュニジア、かつてカルタゴが繁栄したところに王国を建設した。

    ①フン ②西ゴート ③ジブラルタル

  • 5

    アングロ=サクソン人について、空欄補充。 ゲルマン人の一派であるアングロ人=サクソン人はともにエルベ川下流域の北海沿岸にいたが、ゲルマン人の大移動の過程で、5世紀中頃から北海を超えて(①)島に侵入し、先住の(②)人を征服し、そこに7つの王国をつくった。なお、大陸にとどまったザクセン人は、8世紀にフランク王国の(③)に征服され、(④)に改宗した。フランク王国分裂後は東フランクのザクセン家が有力となり、ザクセン朝に(⑤)1世が出現、ドイツ国家の中核となっていく。

    ①大ブリテン ②ケルト ③カール大帝 ④ローマ=カトリック教会 ⑤オットー

  • 6

    東ゴート人を率いた(①)大王は東ローマ帝国の要請を受けて北イタリアに入り、(②)帝国を滅ぼしてイタリアを支配ていた(③)を493年に暗殺して、東ゴート王国を建国した。都は(④)に置いた。

    ①テオドリック ②西ローマ ③オドアケル ④ラヴェンナ

  • 7

    ランゴバルド人について、空欄補充。 現ドイツのエルベ川上流域にいたゲルマン人の一派での一部族。ゲルマン人の大移動の中でドナウ川流域などに移動した後、東ローマ帝国領内に居住していた。6世紀に東ローマ帝国の(①)大帝が次々と地中海岸のゲルマン諸国を滅ぼす中、ランゴバルド族は東ローマ帝国が(②)王国を滅ぼすのに協力した。しかし大帝の死後、東ローマが衰退すると反旗をひるがえし、(③)王はイタリアに侵入、(④)年に(⑤)を首都としてランゴバルド王国を建国した。これが(第1次)民族大移動の終幕と言われている

    ①ユスティニアヌス ②東ゴート ③アルボイン ④568 ⑤パヴィア

  • 8

    ユスティニアヌス大帝が建てたこの聖堂の名前は何か。

    ハギア=ソフィア聖堂

  • 9

    ★西ローマ帝国滅亡後の、西方のゲルマン諸国の東ローマ帝国に対する態度について、簡単に説明しなさい。 指定語句〔唯一の後継者、服従〕

    ビザンツ皇帝をローマ帝国唯一の後継者と認め、服従した。

  • 10

    ユスティニアヌス大帝の事績について、空欄補充。 北アフリカの(①)王国やイタリアの(②)王国を滅ぼし、一時的に地中海全域の支配を実現した。 他方内政では、(③)の編纂や(④)の建立などの事業に注力し、また、中国から(⑤)技術を取り入れ、(⑥)産業発展の基礎を築いた。

    ①ヴァンダル ②東ゴート ③「ローマ法大全」 ④ハギア=ソフィア聖堂 ⑤養蚕 ⑥絹織物

  • 11

    ★5世紀から7世紀のフランク王国について、国内の動きに着目して170字程度で説明せよ。 指定語句〔クローヴィス、アリウス派、全ガリア、マヨル=ドムス、ヴルグンド王国〕

    5世紀に成立したメロヴィング朝フランク王国は、クロヴィスがアリウス派からカトリックへ改宗したことで、ローマ系住民との融和が進み、全ガリアを支配下に置いた。しかし、7世紀には王権が弱体化し、宮宰であるマヨル=ドムスが実権を握るようになった。特に、ヴルグンド王国など周辺ゲルマン国家を併合しつつ、フランク王国内の豪族が台頭し、地方分権化が進んだ。(171字)

  • 12

    ★レオン3世が聖像禁止令を出した目的について30字程度で説明せよ。また、何年に出したかを答えよ。

    イスラーム勢力に対抗し、修道院勢力を抑圧するため。(35字) 726年

  • 13

    ★レオン3世による聖像禁止令がもたらした、東西の教会の関係及びローマ教会の姿勢の変化を60字程度で答えよ。 指定語句〔ゲルマン人、対立、保護者〕

    レオン3世の聖像禁止令は東西教会を対立させ、ローマ教会はビザンツ皇帝への不信から、ゲルマン人フランク王国を新たな保護者とした。(63字)

  • 14

    カロリング朝カール大帝の治世におけるフランク王国について、外政と内政、文化の側面から具体的に説明せよ。 指定語句(内政)① 〔州、伯、巡察使〕 指定語句(外政)② 〔ランゴバルド王国、ザクセン人、アヴァール人、イスラーム勢力〕 指定語句(文化)③ 〔アルクイン、宮廷〕

    ①全国を州にわけ、地方の有力豪族を各州の代表である伯に任命し、巡察使を派遣し伯を監視させた。 ②ランゴバルド王国を征服し、北東のザクセン人を服従させ、東ではアヴァール人を南ではイスラーム勢力を撃退し、西ヨーロッパの大部分を統一した。 ③宮廷にアルクインらの学者を多数招き、文芸復興のきっかけをつくった。

  • 15

    カールの戴冠について、空欄補充。 ローマ=カトリック教会の教皇(①)の要請で、大軍を率いてローマに来ていたフランク国王カールは、(②)年のクリスマスを祝うためサン=ピエトロ大聖堂におもむいたところ、思いがけず、レオ3世が突然祭壇にひざまずいているカールに近づき、皇帝の冠を彼の頭上においた。教会にいた群衆は、いっせいにカールの戴冠を祝った。このようにカールの戴冠はハプニングとして演出されていたが、ローマ教皇としてビザンツ帝国と一体である(③)(=東方教会、コンスタンティノープル教会)と対抗するためには必要なことであった。

    ①レオ3世 ②800 ③ギリシア正教会

  • 16

    ヴェルダン条約について、空欄補充。 フランク王国のカロリング朝のカール大帝の子ルイ(敬虔王、ルートヴィヒ1世)が死ぬと、その子たちは分割相続を主張し、843年のこの条約(協定)によって、中部フランク(イタリアおよびロレーヌ)、東フランク、西フランクに三分され、それぞれ(①)、(②)、(③)(禿頭王)が継承した。

    ①ロタール1世 ②ルートヴィヒ ③シャルル

  • 17

    メルセン条約はどんな条約か。何年に結ばれたかも答えよ。

    870年に、ロタール1世の死後、その領地をルートヴィヒとシャルルで分割し、東フランク、西フランクに編入し、残りはイタリア王国とした条約。

  • 18

    空欄補充。  911年、東フランク王国で(①)家の国王ルートヴィヒが死去し、その家系が途絶えると、東フランクの諸侯(部族大公)はフランケン大公のコンラート1世に続いて、(②)大公の(③)を国王に選出した。カール大帝の時、フランク王国に征服された②人の中から国王が出たわけであるが、それは①家の諸王がノルマン人や(④)人の侵攻に対処できなかったためであり、諸侯がより強力な王権を求めたためであった。②はその期待に応え、933年に④人との戦いに勝利した。その子でザクセン朝第2代国王となったのが(⑤)1世であった。①はバイエルンなどの有力部族を抑え、936年にアーヘンで東フランク国王(ドイツ王)に即位し、外敵の侵入を防止して勢力を東方に拡大しながら、有力諸侯を抑え、国内統一につとめた。その際、教会勢力に対して保護と同時に統制に努め、(⑥)を通じて教会を支配する(⑦)政策を推進した。

    ①カロリング ②ザクセン ③ハインリヒ1世 ④マジャール ⑤オットー ⑥聖職叙任 ⑦帝国教会

  • 19

    帝国教会政策について、空欄補充。 フランク(実質的にはドイツ)のザクセン朝の国王(①)1世は、国内の有力諸侯(部族大公ともいわれるフランケンやバイエルンなどの諸部族)の力を抑えるために、教会の力を利用しようとした。彼は教会に土地を寄進する代わりに、自分の一族や関係者を司教などの聖職者に叙任し、教会を統制した。聖職者であれば、その地位は世襲されないので、諸侯がその地位を世襲することは出来なくなり、また聖職者は文書の作成などに通じているので、彼らに国家官僚を兼ねさせることによって政府による統治にも利用できた。962年にオットー1世は、ローマでローマ教皇(②)から西ローマ帝国皇帝の帝冠を授けられて皇帝となった。この①の戴冠によって成立した(③)帝国(その名称の定着は13世紀ごろ)において、帝国教会政策は皇帝の(④)政策(ローマ皇帝としてイタリアに進出して経営に当たる政策)とともに後の③皇帝に継承されていく。

    ①オットー ②ヨハネス12世 ③神聖ローマ ④イタリア

  • 20

    空欄補充。 11世紀からキリスト教の内部に、(①)修道院を中心とした修道院運動が始まり、自らの力で規律の回復をめざすようになると、その中心となった改革派聖職者の間から、(②)政策に対する批判が起こってきた。聖職売買の背景にはその任命権が俗人に握られているところにあると考えた彼らは、特に皇帝の(③)権を否定し教会が奪回することを主張するようになった。そこから起こったのが叙任権闘争であり、その最も顕著な対立が1077年の教皇(④)7世による皇帝(⑤)4世の破門と、それに伴う「カノッサの屈辱」の事件であった。この事件の後、同じく改革派教皇の(⑥)は十字軍運動を提唱し、第1回が成功に終わったことから教皇の権威が高まり、1122年に(⑦)協約で皇帝と教皇の妥協が成立、皇帝は②政策を破棄して、③権を基本的には放棄することとなった。

    ①クリュニー ②帝国教会 ③聖職叙任 ④グレゴリウス ⑤ハインリヒ ⑥ウルバヌス2世 ⑦ヴォルムス

  • 21

    空欄補充。 王位は一応世襲されたが、カペー家の支配の及んだのはその所領のあるパリ周辺とオルレアン付近だけであり、実態は地方政権にすぎなかった。また(①)人からの侵入から身を守るべく、諸侯たちは城塞を築き、それぞれ主従関係を結んで自己の所領を護りながら自立を強め、フランス各地には、多くの(②)領主が分立し、②社会が形成された。また国土の約半分のノルマンディやギエンヌ地方の領主であったアンジュー伯(③)がイギリス王位を継承し、1154年、プランタジネット朝の(④)2世となり、カペー家領をはるかにしのぐプランタジネット家国家が英仏海峡にまたがって出現した。このため、封建領主としてはフランス王に臣従するプランタジネット家が、イギリス王としてはフランス王と対等であるという、現代ではあり得ない両者の関係ができあがり、カペー朝は国内のイギリス領地を奪回することに心血を注ぐこととなった。またカペー家の拠点であった(⑤)は、次第に首都として機能するようになり、12世紀から発展が始まり、13世紀には⑤大学・ノートルダム大聖堂を有するフランスの政治・経済・文化の中心地として繁栄するようになる。また(⑥)地方はヨーロッパの遠隔地貿易のちょうど十字路にあたる地域として経済が発展した。

    ①ノルマン ②封建 ③アンリ ④ヘンリ ⑤パリ ⑥シャンパーニュ

  • 22

    空欄補充。 911年、(①)に率いられたノルマン人の一派は、フランス(西フランク)に侵攻、フランス王(②)は、キリスト教への改宗などを条件に、彼らにセーヌ川下流域の定住を認めなければならなかった。その地はその後、ノルマンディーと言われ、①の子孫はノルマン貴族としてフランス王(後にカペー朝のフランス)の家臣となって「(③)」と称した(ノルマンディーの領主は「伯(コント)」であったが、11世紀には一段上の「公((④))」を自称するようになり、1204年に正式に公に叙せられた)

    ①ロロ ②シャルル3世 ③ノルマンディー公 ④デューク

  • 23

    空欄補充。 1066年にはノルマンディ公(①)(ギヨーム)がイングランドを征服((②))し、ノルマンディーとイングランドを併せた(③)朝イギリスが成立した。

    ①ウィリアム ②ノルマン=コンクェスト ③ノルマン

  • 24

    空欄補充。 イタリアからシチリア島一帯はイスラーム教勢力の侵攻が続き、苦慮したローマ教皇は、ノルマンディーの(①)人の武力を利用しようとした。ノルマンディーの①人は土地不足から海外発展の機会を狙っていたので、教皇の意向に沿う形でまず(②)として南イタリアに赴き、そこで土地を与えられ領主として力を付けた者のなかには地中海進出を図るものも現れた。まず、ノルマンディーのオートヴィル出身の(③)(ロベルト=イル=グィスカルド)と(④)の兄弟らはノルマン人の南イタリア進出をはかり、④の子の④2世が1130年には(⑤)王国を建設した。

    ①ノルマン ②傭兵 ③ロベルト=ギスカルト ④ルッジェーロ ⑤両シチリア

  • 25

    アルフレッド大王について、空欄補充。 イングランド王国の国王(在位871~899年)。アングロ=サクソン人の七王国の一つ(①)王エグバートの孫。父はエゼルウルフ。父や兄たちはそのころ強まっていたデーン人((②)とも呼ばれた)の侵攻と死闘を繰り返し、次々と倒れ、末子のアルフレッドが871年に即位した。デーン人は850年にブリテン島に定住を開始していたが、アルフレッドはサクソン人諸国をまとめることに成功し、デーン人との間で支配領域の協定を結んだ(878年)。その後もデーン人との衝突は続き、886年にはロンドンを奪回し、デーン人との戦闘に勝利した。  アルフレッドはデーン人との間でイングランド北東部の統治権((③))を認める条約を結び、戦闘を終結させて、自らはイングランド南西部の支配権を保持した。これによってイングランド王国は滅亡を免れた。アルフレッドはまたラテン語の英訳などの学問の保護に熱心であったので、「イギリスの(④)大帝」と言われ、「大王」と称された

    ①ウェセックス ②ヴァイキング ③デーンロー ④カール

  • 26

    ノヴゴロド国について、空欄補充。 ノブゴロド国と表記され、公国と言うこともある。ゴロドは「(①)」の意味。もともとスラヴ人が居住していたが、862年、バルト海方面からノルマン人の(②)(ルス)が、(③)に率いられてこの地に侵入、ノヴゴロドを占領し、スラヴ人を支配する国家を建設した。ノルマン人はスラヴ人に同化していき、やがて②からロシアという名が起こり、これがロシア国家の起源とされている。ノヴゴロド国は後にキエフに建国された(④)公国に併合される。

    ①城塞 ②ルース ③リューリク ④キエフ

  • 27

    以下のヒントから、当時高価だった交易品を答えよ。 ①ロシアの森林産の重要な交易品となった。近代ではカナダでも主要な交易品となった。 ②ドニエプル川中流のキエフは、この交易品の中継地点だった。 ③イスラーム世界でも、絹とならんで富の象徴とされた。

    毛皮

  • 28

    毛皮について、空欄補充。 毛皮はロシアの重要な国際商品だったので、モスクワ大公国の(①)(雷帝)の時のイェルマークの遠征に代表されるような積極的な(②)進出を行った。またロマノフ朝のピョートル1世時代に清朝とのあいだに国境紛争が起きネルチンスク条約を締結したが、それもクロテンを追って毛皮商人がシベリアの東端に達したために起こったことであった。ロシア以外にも、(③)もシベリア東南部で毛皮を重要な産物としていた。

    ①イヴァン4世 ②シベリア ③女真

  • 29

    ★西欧でみられる封建的主従関係の特徴について、双務的契約関係という言葉を用いて、70字程度で説明しなさい。

    西欧の封建的主従関係は、双務的契約関係に基づき、主君は保護を、家臣は軍役奉仕の義務を負った。双方が義務を果たすことで関係が成立した。(66字)

  • 30

    空欄補充。 農民の多くは、(①)と呼ばれる不自由身分で、移住の自由はなく、領主直営地で労働する義務((②))と、自分の保有地から生産物を納める義務((③))を負った。彼らは結婚税や死亡税、パン焼き釜戸や水車の使用料を領主に取り立てられた。荘園には手工業者も住み、原始的な(④)経済が主流だった。領主は、国王の役人が荘園に立ち入ったり課税したりするのを拒む(⑤)を持ち、農民を領事裁判権で自由に裁くことができた。

    ①農奴 ②賦役 ③貢納 ④現物 ⑤不輸不入権、インムニテート