ログイン

世界史 1次大戦・露革命
25問 • 8ヶ月前
  • 一吹
  • 通報

    問題一覧

  • 1

    ★ バルカン戦争から第一次世界大戦までの経緯について、以下の語句を用いて 120 字以内で説明しなさい。 指定語句〔ブルガリア、 ボスニア〕

    ロシアが支援するセルビアは2度のバルカン戦争で勝利。敗北したオスマン帝国とブルガリアは独・墺と同盟し、セルビアを圧迫した。墺のボスニア併合に反発したセルビア人が墺のフランツ大公をサライェヴォで暗殺。墺がセルビアに宣戦し、大戦が勃発した。(118 字)

  • 2

    ★三国協商とは何か40字程度で説明しなさい。

    イギリス・フランス・ロシアが協力してドイツに対抗することを約束した協調体制。(38字)

  • 3

    第一次世界大戦について、空所補充。 1914年7月28日から1918年11月11日の4年3ヶ月続いた、人類最初の世界戦争。帝国主義国家がドイツ・(①)を中心とした同盟国とイギリス・フランス・(②)を中心とした協商国の二陣営に分かれ、ヨーロッパを主戦場として戦い、(③)が同盟国、(④)が協商国側に加わって世界的規模となった。総力戦という戦争の性格や飛行機、潜水艦、(⑤)など新しい武器が出現し、戦争の形態を一変させた。1917年の(⑥)の参戦によって協商側の勝利となったが、戦争の過程で②革命が勃発、ソヴィエト=②の労働者政権が出現し、各地の民族運動も激化した。この大戦によってドイツ帝国・①=ハンガリー帝国・②帝国・③などは消滅した。戦後のパリ講和会議の結果、1919年に(⑦)条約が締結され、(⑧)が発足して集団安全保障を模索することとなったが、対立の根を残したため、20年後には第二次世界大戦が起こった。

    ①オーストリア ②ロシア ③オスマン帝国 ④日本 ⑤毒ガス ⑥アメリカ ⑦ヴェルサイユ ⑧国際連盟

  • 4

    空所補充。 19世紀末から帝国主義諸国はイギリスの(①)政策、ドイツの(②)政策に見られる世界戦略を推し進め、アフリカ、中東、南アジア、中国、太平洋地域で世界分割に狂奔していた。バルカン半島ではロシアの南下政策とオーストリアによる(③)併合による対立がバルカン問題として深刻化していた。当時は、帝国主義国が軍事同盟を結んでバランスを取ることによって抑止されるというビスマルク外交以来の集団的自衛権を根拠とした国際理念が通用しており、世界戦争は回避あるいは抑止されるとみられていたが、それは1914年6月28日、(④)の一発の銃弾でもろくも破綻したといえる。

    ①3C ②3B ③ボスニア・ヘルツェゴビナ ④サライェヴォ

  • 5

    空所補充。 (①)年7月28日、オーストリアが(②)に宣戦布告したことから、ドイツ・オーストリアの同盟国側、ロシア・フランス・イギリスの協商国側との世界戦争に拡大した。ドイツは8月1日にロシア、8月3日にフランスにそれぞれ宣戦布告、8月4日に中立国(③)に侵攻した。それを受けて同日、イギリスがドイツに宣戦した。この日、(④)は中立を宣言した。  戦闘はほとんどヨーロッパのドイツの東西で東部戦線、西部戦線で展開されたが、他にオスマン帝国と(⑤)が同盟国側に参戦したので、バルカン半島から西アジアにかけての広い範囲に戦線がひろがた。さらにドイツ勢力圏の及んだアフリカでの戦闘や、中国・南太平洋のドイツ権益に対して日本が参戦して攻撃するなど、地球的規模で戦争が広がった。また、初期の想定に反して戦争は長期化し、各国とも戦闘力を維持する国内経済、産業、動員態勢の強化を迫られ、一部の専門的な職業軍人・軍隊だけが戦う戦争ではなく、国家を挙げた(⑥)とならざるをえなくなった。

    ①1914 ②セルビア ③ベルギー ④アメリカ ⑤ブルガリア ⑥総力戦体制

  • 6

    空所補充。 1914年9月、ドイツ軍は(①)計画に基づき、大軍を(②)から侵入させ、パリの西方に向かわせた。しかし、現地指揮官クルック将軍は大回り過ぎて補給が途絶えることを避けたか、進路を変えパリの東側に向かった。移動中のドイツ軍をイギリスの偵察飛行機が発見、フランス軍が急襲し、好機を作った(このときパリの(③)600台が兵員輸送に活躍した)。こうしてパリ東方の(④)川付近での④の会戦となったが、ドイツの総司令官モルトケは、当時東部戦線でロシア軍が予想以上に迅速に国境に迫っているとの知らせを受け、兵力を一部移動させるためドイツ軍は戦線を後退させたのである。こうして当初の6週間でパリを陥落させるというドイツの戦略がくずれ、長期戦の様相を呈することとなり、いわゆる西部戦線での膠着した(⑤)に移行していった。  こうしてドイツが当初の戦略である短期決戦策は失敗し、独仏国境線にそって西部戦線が形成され、両軍とも塹壕を掘って対峙する長期戦に突入した。ドイツ軍は⑤での新戦術として(⑥)を開発、1915年4月22日の(⑦)の戦いで初めて使用し、戦争は陰惨な様相を呈していった。

    ①シュリーフェン ②ベルギー ③タクシー ④マルヌ ⑤塹壕戦 ⑥毒ガス ⑦イープル

  • 7

    空所補充。 ドイツの東側の東部戦線で、1914年8月17日、ドイツ領東プロイセンに進撃したロシア軍が、(①)でドイツ軍に敗れた。ロシア軍は当初、ドイツの予想を上回る速さで進撃してきたが、次第に補給と通信の不備が露呈してきて、進撃が停滞した。ドイツの戦線立て直しに派遣された新司令官(②)大将とルーデンドルフ参謀長は、ロシア軍の無線を傍受してその進路を知り、列車で大軍を移動させて、①のロシア軍を急襲して勝利を収めた。このときの戦闘で25万人のロシア兵のうち、12万5千が戦死か捕虜になり、ドイツ側の損害は1万にすぎなかった。①でのロシア軍の敗北は、ツァーリ政府の威信を著しく落とし、(③)革命の勃発の警鐘となった。

    ①タンネンブルク ②ヒンデンブルク ③ロシア

  • 8

    ガリポリの戦いについて、空所補充。 また東部戦線には入らないが、オスマン帝国が1914年10月に参戦したため、ガリポリの戦いなど、中東でもドイツ・オスマン帝国軍とイギリス・フランスなどの連合軍が闘った。(①)海峡がドイツ海軍に押さえられることとなった。これは、ロシアにとって致命的な危機であり、イギリスにとっても(②)運河の防衛にも大きな障害となる。そこでイギリスの海軍大臣(③)は、英仏軍とロシア軍が連絡をつけることができるようにするため、ダーダネルス海峡の入り口にあたるオスマン帝国のガリポリ要塞を攻撃・占領する作戦を立てた。その作戦に基づいて、1915年4月25日、イギリス・フランスの連合軍にオーストラリア連邦とニュージーランドは連合軍(ANZAC)をつくって参戦した。イギリス帝国会議を構成するドミニオンとして参戦した。オーストラリアでは、4月25日をアンザック・デー(A=Australia NZ=New Zealand A=Army C=corps)として戦死者を追悼する日としている。  しかしガリポリの戦いではオスマン帝国軍の守備隊長(④)が指揮して善戦し、容易に陥落しなかった。攻防が続く間、1915年10月14日に(⑤)が同盟国側に参戦し、12月にはセルビア軍がオーストリア軍に敗れたためドイツ・オーストリア軍とオスマン帝国軍が直接連絡を取ることができるようになり、連合国軍のガリポリ作戦は失敗に終わって翌16年1月に撤退した。その代わりに15年10月にギリシア領のサロニカに上陸し橋頭堡を築き、(⑥)を説得して連合国側に参戦させた。

    ①ダーダルネス=ボスフォラス ②スエズ ③ウィンストン=チャーチル ④ムスタファ=ケマル ⑤ブルガリア ⑥ギリシア

  • 9

    空所補充。 戦争の長期化、戦線の拡大、国民生活への犠牲の増大は、次第に各国での厭戦気運を高めていったが、決定的な転換点となったのは、1917年4月6日のアメリカの参戦と1917年11月7日の(①)革命(第2次)であった。アメリカの参戦は西部戦線におけるドイツの前進を阻み、①革命は東部戦線での単独講和の可能性を生み出した。ドイツ国内でも兵士・労働者の(②)革命が起こり、皇帝ヴィルヘルム2世が退位してオランダに亡命、1918年11月11日に停戦協定が結ばれ、戦争は終結した。翌年(③)会議が始まり、1919年にヴェルサイユ条約として講和条約が締結され、新たな国際的平和維持機構として(④)を発足させ、集団安全保障を新たな国際理念とする世界に転換した。しかし、ヴェルサイユ体制と言われる戦後体制は様々な問題点をかかえ、大戦後の(⑤)の台頭、アジアの民族主義の台頭という新たな試練に耐えなければならなくなり、20年後の1939年の第二次世界大戦の勃発を防ぐことはできなかった。

    ①ロシア ②ドイツ ③パリ講和 ④国際連盟 ⑤ファシズム

  • 10

    空所補充。 ドイツ軍は食糧を輸入に依存しているイギリスをたたくための戦略的な海上決戦を挑んだ。それが1915年5月のユトランド沖海戦であった。ドイツ艦隊は善戦し、イギリス艦隊により多い損害を与えたが、海上封鎖網を打開するまでには至らなかった。ドイツ海軍は主力艦ではイギリス海軍より優位に立つことは困難であったので、(①)といわれた潜水艦による攻撃を多用するようになった。無防備の商船に対する攻撃は、1915年5月の(②)事件のように第三国、特にアメリカ人を犠牲にしたことから批判が強まったため、ドイツは一端は潜水艦作戦を停止した。  1916年頃から陸上の戦いが膠着状態に陥ると、戦局を打開するために考えられたのが、(③)であった。イギリスに向かう船に対しては警告なしに商船に対しても魚雷攻撃をするというものであるので、中立国が反発すること、特にアメリカが参戦することが想定されるので反対意見もあったが、ドイツ軍首脳の(④)やルーデンドルフは強くその実施を主張、1917年2月1日をもって実行された。それは想定どおり、アメリカ合衆国の参戦を誘発し、結果的にドイツにとって大きなマイナスとなった。イギリスは潜水艦攻撃から商船を守るため、(⑤)が「護送船団方式(コンボイ=システム)」を考案し、それからは被害を激減させることに成功した。

    ①Uボート ②ルシタニア号 ③無制限潜水艦 ④ヒンデンブルク ⑤ロイド=ジョージ

  • 11

    中東情勢について、空所補充。 オスマン帝国が同盟国側で参戦したためイギリスはいち早く1914年に(①)の保護国化をオスマン帝国に通告してスエズ運河を確保し、カイロを拠点にパレスチナへの進出を図った。1916年6月、アラビアの紅海沿岸のヒジャーズ地方でアラブの族長(②)が反乱を起こしたので、イギリス海軍の情報将校(③)が派遣され、③はアラブ軍の顧問格となってゲリラ戦を指導した。③はアラブのゲリラを率いてオスマン軍の鉄道を破壊するなど後方攪乱に飛び回り、1918年9月まで活動した。これが有名な〝アラビアのロレンス〟である。ところがその一方でイギリス・フランスは1916年5月、(④)で戦後のオスマン帝国領分割について協定し、さらにイギリスは1917年11月に(⑤)宣言を出しユダヤ人のパレスチナ建設を承認するなど、矛盾する外交を展開した。

    ①エジプト ②フセイン ③トーマス=ロレンス ④サイクス=ピコ協定 ⑤バルフォア

  • 12

    日本の参戦について、空所補充。 開戦直後の1914年8月、イギリスは日本に対して東シナ海のドイツ艦隊を攻撃してほしいと要請した。日本は(①)にもとづいてただちに出兵を決定したが、日本の中国・太平洋方面への進出を警戒するアメリカがイギリスに要請を中止するよう申し入れたたため、イギリスはそれに従ってドイツ艦隊攻撃要請を取り消した。  しかし日本は第一次世界大戦への参戦を強行、8月15日にドイツに対する最後通牒を出し、回答がないとして1914年8月23日にドイツに宣戦布告、9月2日に(②)半島の北側渤海湾に面した竜口に上陸、一ヶ月ほどで②省の省都済南に入り、ドイツが管理していた②鉄道を支配下においた。さらに1914年11月7日に膠州湾入口のドイツの(③)要塞を陥落させた。この時、日本の(④)が初めて実戦に参加した。さらにドイツ領太平洋諸島のマーシャル、マリアナ、パラオ、カロリン諸島を占領した。  こうしてドイツの中国・太平洋の利権を接収した日本は、1915年1月、中華民国の袁世凱政府に対し、(⑤)をつきつけ、欧米諸国が世界大戦で動きが取れない中、ドイツ利権の継承を中心として多く権利得ようと試み、中国本土への帝国主義的侵略を開始した。日本の露骨な大陸での利権拡張にはイギリス・アメリカは警戒したが、日本を対ドイツ戦争にとどめておく必要から、その中国に対する要求を黙認し、抗議しなかった。

    ①日英同盟 ②山東 ③青島 ④飛行機 ⑤二十一ヶ条の要求

  • 13

    ロシア革命について、空所補充。 開戦当初、列強の首脳は短期に決戦を挑んで、適当な時期に収束させるつもりであったが、1914年9月のマルヌの戦い以降、その目論見は崩れ、引くに引けない膠着状態に陥ってしまった。そのまま一進一退が続いたが、1917年に入りロシア革命とアメリカの参戦によって一挙に情勢が変化した。  その新情勢の一つはロシア革命(第2次)の勃発である。(①)革命でツァーリ政府が倒され、臨時政府とソヴィエトの二重権力となると、臨時政府は連合国との関係を重視して戦争継続を表明し、ソヴィエトはそれに反対した。ドイツは密かにスイスに亡命中のソヴィエトの指導者(②)がドイツ領内を通行できるように手配(封印列車)し、それによって4月に帰国した②は(③)を提示して、ボリシェヴィキを指導した。②の指導のもとで始まった反戦・反臨時政府の武装蜂起に対しては、臨時政府は前線から軍隊を呼び寄せてそれを弾圧した。7月に権力を掌握した(④)も戦争続行を表明したが、前線の兵士の中には戦争忌避の動きが強くなり、戦線から離脱する兵が多くなった。そのような中、ボリシェヴィキが武装蜂起して(⑤)革命が成功し、④内閣は崩壊、11月8日、②は平和についての布告を発表して、交戦国すべてに対し無併合・無償金による即時平和を提唱した。連合国からはすべて無視されたが、ドイツは好機と考えてソヴィエトとの交渉に応じ、1918年3月、両者は(⑥)条約を締結して単独講和を成立させ、ソヴィエト=ロシアはポーランドの独立その他の大幅な領土縮小を認めた。

    ①二月 ②レーニン ③四月テーゼ ④ケレンスキー ⑤十月 ⑥ブレスト=リトフスク

  • 14

    空所補充。 革命前から予定されていた(①)が、ロシア初めての普通選挙によって議員が選出され、1918年の1月に開催された。この段階ではソヴィエトに参加していた様々な政党が候補者を立てていたが、当選者は(②)が第一党であり、ボリシェヴィキは第2党にとどまった。  憲法制定議会でソヴィエトが提出した労働者人民と被抑圧人民の権利宣言は否決された。ボリシェヴィキは多数を占めることが出来ず、②が反対したためであった。ボリシェヴィキの指導者レーニンはこの事態をソヴィエト政権の危機ととらえ、会議休憩中に全ロシア=ソヴィエト会議の名で議場を封鎖、解散させた。レーニンは、ソヴィエトをブルジョア民主主義の議会制度より高度な政治形態であると考えていたが、ここで①が解散させられてボリシェヴィキ一党独裁政権が成立し、これ以後、ソ連解体までロシアでは選挙と議会制度は封印されることとなる。ここで排除された党派は、各地に反革命政権を樹立、革命政府との激しい内戦に突入する。ボリシェヴィキ政権はこの内戦と外国軍の干渉から革命を防衛するために、(②)の体制を強化していく。  ただし、この段階ですぐにボリシェヴィキ一党独裁が成立したのではなく、政権にはエスエル左派(左翼エスエル)が参加していた。これらの党派が政権から完全に排除されるのは1921年の(③)期からである。

    ①憲法制定議会 ②エスエル ③NEP(新経済政策)

  • 15

    ★ロシア革命の経緯について、以下の語句を用いて 120 字以内で説明しなさい。 指定語句〔十月宣言、 四月テーゼ、ケレンスキー、 憲法制定議会〕

    第一革命中、皇帝ニコライ2世は十月宣言で立憲政治を認めた。三月革命で臨時政府が発足。レーニンの四月テーゼに基づき、ボリシェヴィキは十一月革命でケレンスキーの臨時政府を打倒、憲法制定議会で第1党となった社会革命党を弾圧し、独裁を樹立した。(118字)

  • 16

    戦時共産主義について、空所補充。 第2次ロシア革命の過程で、1917年10月(ロシア暦)の十月革命(十一月革命)で成立したソヴィエト政権であったが、各地に出現した反革命政権との激しい内戦、さらにイギリス、フランス、アメリカ、日本など外国の(①)に悩まされることとなった。この反革命と干渉戦争に勝ち抜くために、1918年から21年にかけてレーニンの指導のもと、ソヴィエト政権がとった経済政策を「戦時共産主義」という。1918年6月11日、貧農委員会を組織して富農に食糧供出を強制するなど、 「(②)」をめざした。  戦時共産主義下では、まず農民に穀物の余剰生産分を強制的に供出させる「(③)」が実施され市民の食糧は配給制となった。生産物を隠匿した農民は、階級の敵の「富農(クラーク)」であるとして、反革命を取り締まる(④)によって逮捕され、シベリアに送られるなどの弾圧を受けた。さらに工場国有化の方針が大工場から小工場にまで拡大さた。その結果、貨幣は必要ないものとされ、労働者の報酬は現物となり、私企業は一切禁止された。これはレーニンによって共産主義への必然的な飛躍と位置づけられたが、現実には農民、労働者の労働意欲をいちじるしく後退させ、生産の停滞を招いた。

    ①対ソ干渉戦争 ②すべてを戦線へ ③穀物独裁 ④チェカ

  • 17

    ★ソヴィエト政権下のロシアにおける土地制度の変遷について、以下の語句を用いて90 字以内で説明しなさい。 指定語句〔土地に関する布告、ネップ〕

    十一月革命に成功したレーニンは、土地に関する布告で土地を国有化した。対ソ干渉戦争中、戦時共産主義による食料徴発が飢饉を招いたためネップに移行、農産物の自由な売買を一部承認した。(84 字)

  • 18

    次の出来事を起きた順に並び替えよ。また、1つだけ違う年に起きたものがある。1つ選べ。 ①ボリシェヴィキ党、共産党に改名。 ②モスクワへ遷都。 ③ブレスト=リトフスク条約により講和成立。 ④コミンテルン創設。 ⑤対ソ干渉戦争開始。

    ③➡️②➡️①➡️⑤➡️④ ④

  • 19

    空所補充。 (①)は、現在のフランスのロレーヌ県北部、ベルギー国境の近くの地点。かつて、①条約が締結されたところ。第一次世界大戦では1916年2月~6月、フランス軍の①要塞に向けて、ドイツ軍が総攻撃を行って、大戦最大の戦闘が行われたところである。①の戦いでは莫大な量の砲弾が使用され、フランスは31万5千、ドイツ軍は28万1千の死傷者を出した。結果的にフランス軍は防衛することに成功し、司令官(②)の名声が上がった。  また、第一次世界大戦で1916年6月~11月、北フランスの(③)でドイツ軍に対するイギリス・フランス連合軍の総攻撃が展開された。イギリス軍のヘイグ将軍は、まだ実験段階だった(④)を初めて実戦に投入した。戦闘は全くの消耗戦となり、イギリス軍に42万、フランス軍に20万、ドイツ軍に45万の犠牲者を出し、勝敗無く終わった。

    ①ヴェルダン ②ペタン ③ソンム ④戦車

  • 20

    空所補充。 もう一つの動きはアメリカ合衆国の参戦である。アメリカは、伝統的な孤立主義の外交原則を守り、大戦勃発当初は中立を表明した。その一方、イギリス・フランス・ロシアには盛んに武器や物資を援助し、実質的には連合国に大きく肩入れしている状態であった。ただ国内にヨーロッパの戦争でアメリカの青年の血を流すべきでないという声も強く、(①)大統領も戦争には踏み切れずにいた。ところが、1915年5月の(②)事件を機にドイツの潜水艦を使った無差別攻撃に非難が強まった。その後も次第に参戦の声が強まり、1917年2月にドイツが無制限潜水艦作戦を宣言したのをうけて、①大統領は、1917年4月に議会の決議を得てアメリカ合衆国の参戦に踏み切った。これ以降、アメリカ軍がヨーロッパ戦線に派遣されたことによって戦局は決定的に連合軍有利に転換した。また①大統領は、1917年11月、ロシア十月革命を成功させたレーニンが「(③)」を発表すると、それに対抗して戦争目的の明確化と戦後処理の原則を示す必要に迫られ、翌1918年1月8日に(④)を発表した。

    ①ウィルソン ②ルシタニア号 ③平和に関する布告 ④十四ヶ条

  • 21

    十四ヶ条の内容について、空所補充。 1.講和交渉の公開・秘密外交の廃止 2.(①)の自由 3.関税障壁の撤廃(平等な通商関係の樹立) 4.軍備縮小 5.植民地の公正な処置 6.ロシアからの撤兵とロシアの政体の自由選択 7.(②)の主権回復 8.(③)のフランスへの返還 9.イタリア国境の再調整 10.オーストリア=ハンガリー帝国内の民族自治 11.バルカン諸国の独立の保障 12.オスマン帝国支配下の民族の自治の保障 13.(④)の独立 14.国際平和機構の設立  以上の内、(1)~(4)は国際協調、(5)~(9)は国境問題の調整、(10)~(13)が民族自決、(14)が戦後処理の具体的提案(国際連盟)にあたる。

    ①公海 ②ベルギー ③アルザス=ロレーヌ ④ポーランド

  • 22

    ★民族自決の原則は、アジアやアフリカでは適用されないとして、朝鮮や中国で日本に対する反乱運動が起きた。どのような運動が起きたか、その背景にも触れながら60字以内で説明しなさい。

    日本の植民地支配にあった朝鮮では三・一独立運動が、二十一カ条要求に対する反発の強まっていた中国では五・四運動が起こった。(60字)

  • 23

    ★ヴェルサイユ条約では、戦争責任はあげてドイツにあるとされた。条約内での取り決めについて、60字程度で説明せよ。 指定語句〔海外領土、アルザス、賠償金〕

    ドイツの海外領土の放棄、アルザス・ロレーヌのフランスへの返還、多額の賠償金支払いが規定され、ドイツの軍備も厳しく制限された。(62字)

  • 24

    1918年11月、第一次世界大戦末期のドイツで起こった水兵の反乱。戦争の即時休戦を要求し、ドイツ革命の口火を切った。この反乱は何か。

    キール軍港の水兵反乱

  • 25

    第一次世界大戦中の1915年にイギリスがアラブ側と結んだ秘密協定。大戦後のアラブの独立を約束する代わりにオスマン帝国への反乱をうながした。イギリスがユダヤ人に示したバルフォア宣言、フランスなどと密約した内容と矛盾する内容だった。 この協定は何か。

    フセイン=マクマホン協定

  • 英作文 重要単語・表現①

    英作文 重要単語・表現①

    一吹 · 40問 · 5ヶ月前

    英作文 重要単語・表現①

    英作文 重要単語・表現①

    40問 • 5ヶ月前
    一吹

    英作文 重要単語・表現②

    英作文 重要単語・表現②

    一吹 · 35問 · 5ヶ月前

    英作文 重要単語・表現②

    英作文 重要単語・表現②

    35問 • 5ヶ月前
    一吹

    英訳せよ。①

    英訳せよ。①

    一吹 · 30問 · 2年前

    英訳せよ。①

    英訳せよ。①

    30問 • 2年前
    一吹

    英訳せよ。②

    英訳せよ。②

    一吹 · 30問 · 2年前

    英訳せよ。②

    英訳せよ。②

    30問 • 2年前
    一吹

    英訳せよ。③

    英訳せよ。③

    一吹 · 30問 · 2年前

    英訳せよ。③

    英訳せよ。③

    30問 • 2年前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(古代)

    世界史共テ対策 正誤問題(古代)

    一吹 · 24問 · 6ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(古代)

    世界史共テ対策 正誤問題(古代)

    24問 • 6ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(~18世紀東南亜)

    世界史共テ対策 正誤問題(~18世紀東南亜)

    一吹 · 18問 · 8ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(~18世紀東南亜)

    世界史共テ対策 正誤問題(~18世紀東南亜)

    18問 • 8ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(イスラーム)

    世界史共テ対策 正誤問題(イスラーム)

    一吹 · 31問 · 8ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(イスラーム)

    世界史共テ対策 正誤問題(イスラーム)

    31問 • 8ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(朝鮮史①)

    世界史共テ対策 正誤問題(朝鮮史①)

    一吹 · 3回閲覧 · 22問 · 6ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(朝鮮史①)

    世界史共テ対策 正誤問題(朝鮮史①)

    3回閲覧 • 22問 • 6ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(中国①)

    世界史共テ対策 正誤問題(中国①)

    一吹 · 3回閲覧 · 36問 · 8ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(中国①)

    世界史共テ対策 正誤問題(中国①)

    3回閲覧 • 36問 • 8ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(19c欧米)

    世界史共テ対策 正誤問題(19c欧米)

    一吹 · 47問 · 7ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(19c欧米)

    世界史共テ対策 正誤問題(19c欧米)

    47問 • 7ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(近代英仏)

    世界史共テ対策 正誤問題(近代英仏)

    一吹 · 41問 · 7ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(近代英仏)

    世界史共テ対策 正誤問題(近代英仏)

    41問 • 7ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 正誤問題(主要な戦争)

    世界史共テ対策 正誤問題(主要な戦争)

    一吹 · 10問 · 8ヶ月前

    世界史共テ対策 正誤問題(主要な戦争)

    世界史共テ対策 正誤問題(主要な戦争)

    10問 • 8ヶ月前
    一吹

    世界史 文化史特化(古代~中世)

    世界史 文化史特化(古代~中世)

    一吹 · 9問 · 9ヶ月前

    世界史 文化史特化(古代~中世)

    世界史 文化史特化(古代~中世)

    9問 • 9ヶ月前
    一吹

    世界史 文化史特化(近現代)

    世界史 文化史特化(近現代)

    一吹 · 9問 · 9ヶ月前

    世界史 文化史特化(近現代)

    世界史 文化史特化(近現代)

    9問 • 9ヶ月前
    一吹

    世界史共テ対策 名言問題

    世界史共テ対策 名言問題

    一吹 · 21問 · 6ヶ月前

    世界史共テ対策 名言問題

    世界史共テ対策 名言問題

    21問 • 6ヶ月前
    一吹

    世界史 頻出小論述①(古代)

    世界史 頻出小論述①(古代)

    一吹 · 8問 · 6ヶ月前

    世界史 頻出小論述①(古代)

    世界史 頻出小論述①(古代)

    8問 • 6ヶ月前
    一吹

    世界史 頻出小論述②(中国朝鮮①)

    世界史 頻出小論述②(中国朝鮮①)

    一吹 · 32問 · 6ヶ月前

    世界史 頻出小論述②(中国朝鮮①)

    世界史 頻出小論述②(中国朝鮮①)

    32問 • 6ヶ月前
    一吹

    問題一覧

  • 1

    ★ バルカン戦争から第一次世界大戦までの経緯について、以下の語句を用いて 120 字以内で説明しなさい。 指定語句〔ブルガリア、 ボスニア〕

    ロシアが支援するセルビアは2度のバルカン戦争で勝利。敗北したオスマン帝国とブルガリアは独・墺と同盟し、セルビアを圧迫した。墺のボスニア併合に反発したセルビア人が墺のフランツ大公をサライェヴォで暗殺。墺がセルビアに宣戦し、大戦が勃発した。(118 字)

  • 2

    ★三国協商とは何か40字程度で説明しなさい。

    イギリス・フランス・ロシアが協力してドイツに対抗することを約束した協調体制。(38字)

  • 3

    第一次世界大戦について、空所補充。 1914年7月28日から1918年11月11日の4年3ヶ月続いた、人類最初の世界戦争。帝国主義国家がドイツ・(①)を中心とした同盟国とイギリス・フランス・(②)を中心とした協商国の二陣営に分かれ、ヨーロッパを主戦場として戦い、(③)が同盟国、(④)が協商国側に加わって世界的規模となった。総力戦という戦争の性格や飛行機、潜水艦、(⑤)など新しい武器が出現し、戦争の形態を一変させた。1917年の(⑥)の参戦によって協商側の勝利となったが、戦争の過程で②革命が勃発、ソヴィエト=②の労働者政権が出現し、各地の民族運動も激化した。この大戦によってドイツ帝国・①=ハンガリー帝国・②帝国・③などは消滅した。戦後のパリ講和会議の結果、1919年に(⑦)条約が締結され、(⑧)が発足して集団安全保障を模索することとなったが、対立の根を残したため、20年後には第二次世界大戦が起こった。

    ①オーストリア ②ロシア ③オスマン帝国 ④日本 ⑤毒ガス ⑥アメリカ ⑦ヴェルサイユ ⑧国際連盟

  • 4

    空所補充。 19世紀末から帝国主義諸国はイギリスの(①)政策、ドイツの(②)政策に見られる世界戦略を推し進め、アフリカ、中東、南アジア、中国、太平洋地域で世界分割に狂奔していた。バルカン半島ではロシアの南下政策とオーストリアによる(③)併合による対立がバルカン問題として深刻化していた。当時は、帝国主義国が軍事同盟を結んでバランスを取ることによって抑止されるというビスマルク外交以来の集団的自衛権を根拠とした国際理念が通用しており、世界戦争は回避あるいは抑止されるとみられていたが、それは1914年6月28日、(④)の一発の銃弾でもろくも破綻したといえる。

    ①3C ②3B ③ボスニア・ヘルツェゴビナ ④サライェヴォ

  • 5

    空所補充。 (①)年7月28日、オーストリアが(②)に宣戦布告したことから、ドイツ・オーストリアの同盟国側、ロシア・フランス・イギリスの協商国側との世界戦争に拡大した。ドイツは8月1日にロシア、8月3日にフランスにそれぞれ宣戦布告、8月4日に中立国(③)に侵攻した。それを受けて同日、イギリスがドイツに宣戦した。この日、(④)は中立を宣言した。  戦闘はほとんどヨーロッパのドイツの東西で東部戦線、西部戦線で展開されたが、他にオスマン帝国と(⑤)が同盟国側に参戦したので、バルカン半島から西アジアにかけての広い範囲に戦線がひろがた。さらにドイツ勢力圏の及んだアフリカでの戦闘や、中国・南太平洋のドイツ権益に対して日本が参戦して攻撃するなど、地球的規模で戦争が広がった。また、初期の想定に反して戦争は長期化し、各国とも戦闘力を維持する国内経済、産業、動員態勢の強化を迫られ、一部の専門的な職業軍人・軍隊だけが戦う戦争ではなく、国家を挙げた(⑥)とならざるをえなくなった。

    ①1914 ②セルビア ③ベルギー ④アメリカ ⑤ブルガリア ⑥総力戦体制

  • 6

    空所補充。 1914年9月、ドイツ軍は(①)計画に基づき、大軍を(②)から侵入させ、パリの西方に向かわせた。しかし、現地指揮官クルック将軍は大回り過ぎて補給が途絶えることを避けたか、進路を変えパリの東側に向かった。移動中のドイツ軍をイギリスの偵察飛行機が発見、フランス軍が急襲し、好機を作った(このときパリの(③)600台が兵員輸送に活躍した)。こうしてパリ東方の(④)川付近での④の会戦となったが、ドイツの総司令官モルトケは、当時東部戦線でロシア軍が予想以上に迅速に国境に迫っているとの知らせを受け、兵力を一部移動させるためドイツ軍は戦線を後退させたのである。こうして当初の6週間でパリを陥落させるというドイツの戦略がくずれ、長期戦の様相を呈することとなり、いわゆる西部戦線での膠着した(⑤)に移行していった。  こうしてドイツが当初の戦略である短期決戦策は失敗し、独仏国境線にそって西部戦線が形成され、両軍とも塹壕を掘って対峙する長期戦に突入した。ドイツ軍は⑤での新戦術として(⑥)を開発、1915年4月22日の(⑦)の戦いで初めて使用し、戦争は陰惨な様相を呈していった。

    ①シュリーフェン ②ベルギー ③タクシー ④マルヌ ⑤塹壕戦 ⑥毒ガス ⑦イープル

  • 7

    空所補充。 ドイツの東側の東部戦線で、1914年8月17日、ドイツ領東プロイセンに進撃したロシア軍が、(①)でドイツ軍に敗れた。ロシア軍は当初、ドイツの予想を上回る速さで進撃してきたが、次第に補給と通信の不備が露呈してきて、進撃が停滞した。ドイツの戦線立て直しに派遣された新司令官(②)大将とルーデンドルフ参謀長は、ロシア軍の無線を傍受してその進路を知り、列車で大軍を移動させて、①のロシア軍を急襲して勝利を収めた。このときの戦闘で25万人のロシア兵のうち、12万5千が戦死か捕虜になり、ドイツ側の損害は1万にすぎなかった。①でのロシア軍の敗北は、ツァーリ政府の威信を著しく落とし、(③)革命の勃発の警鐘となった。

    ①タンネンブルク ②ヒンデンブルク ③ロシア

  • 8

    ガリポリの戦いについて、空所補充。 また東部戦線には入らないが、オスマン帝国が1914年10月に参戦したため、ガリポリの戦いなど、中東でもドイツ・オスマン帝国軍とイギリス・フランスなどの連合軍が闘った。(①)海峡がドイツ海軍に押さえられることとなった。これは、ロシアにとって致命的な危機であり、イギリスにとっても(②)運河の防衛にも大きな障害となる。そこでイギリスの海軍大臣(③)は、英仏軍とロシア軍が連絡をつけることができるようにするため、ダーダネルス海峡の入り口にあたるオスマン帝国のガリポリ要塞を攻撃・占領する作戦を立てた。その作戦に基づいて、1915年4月25日、イギリス・フランスの連合軍にオーストラリア連邦とニュージーランドは連合軍(ANZAC)をつくって参戦した。イギリス帝国会議を構成するドミニオンとして参戦した。オーストラリアでは、4月25日をアンザック・デー(A=Australia NZ=New Zealand A=Army C=corps)として戦死者を追悼する日としている。  しかしガリポリの戦いではオスマン帝国軍の守備隊長(④)が指揮して善戦し、容易に陥落しなかった。攻防が続く間、1915年10月14日に(⑤)が同盟国側に参戦し、12月にはセルビア軍がオーストリア軍に敗れたためドイツ・オーストリア軍とオスマン帝国軍が直接連絡を取ることができるようになり、連合国軍のガリポリ作戦は失敗に終わって翌16年1月に撤退した。その代わりに15年10月にギリシア領のサロニカに上陸し橋頭堡を築き、(⑥)を説得して連合国側に参戦させた。

    ①ダーダルネス=ボスフォラス ②スエズ ③ウィンストン=チャーチル ④ムスタファ=ケマル ⑤ブルガリア ⑥ギリシア

  • 9

    空所補充。 戦争の長期化、戦線の拡大、国民生活への犠牲の増大は、次第に各国での厭戦気運を高めていったが、決定的な転換点となったのは、1917年4月6日のアメリカの参戦と1917年11月7日の(①)革命(第2次)であった。アメリカの参戦は西部戦線におけるドイツの前進を阻み、①革命は東部戦線での単独講和の可能性を生み出した。ドイツ国内でも兵士・労働者の(②)革命が起こり、皇帝ヴィルヘルム2世が退位してオランダに亡命、1918年11月11日に停戦協定が結ばれ、戦争は終結した。翌年(③)会議が始まり、1919年にヴェルサイユ条約として講和条約が締結され、新たな国際的平和維持機構として(④)を発足させ、集団安全保障を新たな国際理念とする世界に転換した。しかし、ヴェルサイユ体制と言われる戦後体制は様々な問題点をかかえ、大戦後の(⑤)の台頭、アジアの民族主義の台頭という新たな試練に耐えなければならなくなり、20年後の1939年の第二次世界大戦の勃発を防ぐことはできなかった。

    ①ロシア ②ドイツ ③パリ講和 ④国際連盟 ⑤ファシズム

  • 10

    空所補充。 ドイツ軍は食糧を輸入に依存しているイギリスをたたくための戦略的な海上決戦を挑んだ。それが1915年5月のユトランド沖海戦であった。ドイツ艦隊は善戦し、イギリス艦隊により多い損害を与えたが、海上封鎖網を打開するまでには至らなかった。ドイツ海軍は主力艦ではイギリス海軍より優位に立つことは困難であったので、(①)といわれた潜水艦による攻撃を多用するようになった。無防備の商船に対する攻撃は、1915年5月の(②)事件のように第三国、特にアメリカ人を犠牲にしたことから批判が強まったため、ドイツは一端は潜水艦作戦を停止した。  1916年頃から陸上の戦いが膠着状態に陥ると、戦局を打開するために考えられたのが、(③)であった。イギリスに向かう船に対しては警告なしに商船に対しても魚雷攻撃をするというものであるので、中立国が反発すること、特にアメリカが参戦することが想定されるので反対意見もあったが、ドイツ軍首脳の(④)やルーデンドルフは強くその実施を主張、1917年2月1日をもって実行された。それは想定どおり、アメリカ合衆国の参戦を誘発し、結果的にドイツにとって大きなマイナスとなった。イギリスは潜水艦攻撃から商船を守るため、(⑤)が「護送船団方式(コンボイ=システム)」を考案し、それからは被害を激減させることに成功した。

    ①Uボート ②ルシタニア号 ③無制限潜水艦 ④ヒンデンブルク ⑤ロイド=ジョージ

  • 11

    中東情勢について、空所補充。 オスマン帝国が同盟国側で参戦したためイギリスはいち早く1914年に(①)の保護国化をオスマン帝国に通告してスエズ運河を確保し、カイロを拠点にパレスチナへの進出を図った。1916年6月、アラビアの紅海沿岸のヒジャーズ地方でアラブの族長(②)が反乱を起こしたので、イギリス海軍の情報将校(③)が派遣され、③はアラブ軍の顧問格となってゲリラ戦を指導した。③はアラブのゲリラを率いてオスマン軍の鉄道を破壊するなど後方攪乱に飛び回り、1918年9月まで活動した。これが有名な〝アラビアのロレンス〟である。ところがその一方でイギリス・フランスは1916年5月、(④)で戦後のオスマン帝国領分割について協定し、さらにイギリスは1917年11月に(⑤)宣言を出しユダヤ人のパレスチナ建設を承認するなど、矛盾する外交を展開した。

    ①エジプト ②フセイン ③トーマス=ロレンス ④サイクス=ピコ協定 ⑤バルフォア

  • 12

    日本の参戦について、空所補充。 開戦直後の1914年8月、イギリスは日本に対して東シナ海のドイツ艦隊を攻撃してほしいと要請した。日本は(①)にもとづいてただちに出兵を決定したが、日本の中国・太平洋方面への進出を警戒するアメリカがイギリスに要請を中止するよう申し入れたたため、イギリスはそれに従ってドイツ艦隊攻撃要請を取り消した。  しかし日本は第一次世界大戦への参戦を強行、8月15日にドイツに対する最後通牒を出し、回答がないとして1914年8月23日にドイツに宣戦布告、9月2日に(②)半島の北側渤海湾に面した竜口に上陸、一ヶ月ほどで②省の省都済南に入り、ドイツが管理していた②鉄道を支配下においた。さらに1914年11月7日に膠州湾入口のドイツの(③)要塞を陥落させた。この時、日本の(④)が初めて実戦に参加した。さらにドイツ領太平洋諸島のマーシャル、マリアナ、パラオ、カロリン諸島を占領した。  こうしてドイツの中国・太平洋の利権を接収した日本は、1915年1月、中華民国の袁世凱政府に対し、(⑤)をつきつけ、欧米諸国が世界大戦で動きが取れない中、ドイツ利権の継承を中心として多く権利得ようと試み、中国本土への帝国主義的侵略を開始した。日本の露骨な大陸での利権拡張にはイギリス・アメリカは警戒したが、日本を対ドイツ戦争にとどめておく必要から、その中国に対する要求を黙認し、抗議しなかった。

    ①日英同盟 ②山東 ③青島 ④飛行機 ⑤二十一ヶ条の要求

  • 13

    ロシア革命について、空所補充。 開戦当初、列強の首脳は短期に決戦を挑んで、適当な時期に収束させるつもりであったが、1914年9月のマルヌの戦い以降、その目論見は崩れ、引くに引けない膠着状態に陥ってしまった。そのまま一進一退が続いたが、1917年に入りロシア革命とアメリカの参戦によって一挙に情勢が変化した。  その新情勢の一つはロシア革命(第2次)の勃発である。(①)革命でツァーリ政府が倒され、臨時政府とソヴィエトの二重権力となると、臨時政府は連合国との関係を重視して戦争継続を表明し、ソヴィエトはそれに反対した。ドイツは密かにスイスに亡命中のソヴィエトの指導者(②)がドイツ領内を通行できるように手配(封印列車)し、それによって4月に帰国した②は(③)を提示して、ボリシェヴィキを指導した。②の指導のもとで始まった反戦・反臨時政府の武装蜂起に対しては、臨時政府は前線から軍隊を呼び寄せてそれを弾圧した。7月に権力を掌握した(④)も戦争続行を表明したが、前線の兵士の中には戦争忌避の動きが強くなり、戦線から離脱する兵が多くなった。そのような中、ボリシェヴィキが武装蜂起して(⑤)革命が成功し、④内閣は崩壊、11月8日、②は平和についての布告を発表して、交戦国すべてに対し無併合・無償金による即時平和を提唱した。連合国からはすべて無視されたが、ドイツは好機と考えてソヴィエトとの交渉に応じ、1918年3月、両者は(⑥)条約を締結して単独講和を成立させ、ソヴィエト=ロシアはポーランドの独立その他の大幅な領土縮小を認めた。

    ①二月 ②レーニン ③四月テーゼ ④ケレンスキー ⑤十月 ⑥ブレスト=リトフスク

  • 14

    空所補充。 革命前から予定されていた(①)が、ロシア初めての普通選挙によって議員が選出され、1918年の1月に開催された。この段階ではソヴィエトに参加していた様々な政党が候補者を立てていたが、当選者は(②)が第一党であり、ボリシェヴィキは第2党にとどまった。  憲法制定議会でソヴィエトが提出した労働者人民と被抑圧人民の権利宣言は否決された。ボリシェヴィキは多数を占めることが出来ず、②が反対したためであった。ボリシェヴィキの指導者レーニンはこの事態をソヴィエト政権の危機ととらえ、会議休憩中に全ロシア=ソヴィエト会議の名で議場を封鎖、解散させた。レーニンは、ソヴィエトをブルジョア民主主義の議会制度より高度な政治形態であると考えていたが、ここで①が解散させられてボリシェヴィキ一党独裁政権が成立し、これ以後、ソ連解体までロシアでは選挙と議会制度は封印されることとなる。ここで排除された党派は、各地に反革命政権を樹立、革命政府との激しい内戦に突入する。ボリシェヴィキ政権はこの内戦と外国軍の干渉から革命を防衛するために、(②)の体制を強化していく。  ただし、この段階ですぐにボリシェヴィキ一党独裁が成立したのではなく、政権にはエスエル左派(左翼エスエル)が参加していた。これらの党派が政権から完全に排除されるのは1921年の(③)期からである。

    ①憲法制定議会 ②エスエル ③NEP(新経済政策)

  • 15

    ★ロシア革命の経緯について、以下の語句を用いて 120 字以内で説明しなさい。 指定語句〔十月宣言、 四月テーゼ、ケレンスキー、 憲法制定議会〕

    第一革命中、皇帝ニコライ2世は十月宣言で立憲政治を認めた。三月革命で臨時政府が発足。レーニンの四月テーゼに基づき、ボリシェヴィキは十一月革命でケレンスキーの臨時政府を打倒、憲法制定議会で第1党となった社会革命党を弾圧し、独裁を樹立した。(118字)

  • 16

    戦時共産主義について、空所補充。 第2次ロシア革命の過程で、1917年10月(ロシア暦)の十月革命(十一月革命)で成立したソヴィエト政権であったが、各地に出現した反革命政権との激しい内戦、さらにイギリス、フランス、アメリカ、日本など外国の(①)に悩まされることとなった。この反革命と干渉戦争に勝ち抜くために、1918年から21年にかけてレーニンの指導のもと、ソヴィエト政権がとった経済政策を「戦時共産主義」という。1918年6月11日、貧農委員会を組織して富農に食糧供出を強制するなど、 「(②)」をめざした。  戦時共産主義下では、まず農民に穀物の余剰生産分を強制的に供出させる「(③)」が実施され市民の食糧は配給制となった。生産物を隠匿した農民は、階級の敵の「富農(クラーク)」であるとして、反革命を取り締まる(④)によって逮捕され、シベリアに送られるなどの弾圧を受けた。さらに工場国有化の方針が大工場から小工場にまで拡大さた。その結果、貨幣は必要ないものとされ、労働者の報酬は現物となり、私企業は一切禁止された。これはレーニンによって共産主義への必然的な飛躍と位置づけられたが、現実には農民、労働者の労働意欲をいちじるしく後退させ、生産の停滞を招いた。

    ①対ソ干渉戦争 ②すべてを戦線へ ③穀物独裁 ④チェカ

  • 17

    ★ソヴィエト政権下のロシアにおける土地制度の変遷について、以下の語句を用いて90 字以内で説明しなさい。 指定語句〔土地に関する布告、ネップ〕

    十一月革命に成功したレーニンは、土地に関する布告で土地を国有化した。対ソ干渉戦争中、戦時共産主義による食料徴発が飢饉を招いたためネップに移行、農産物の自由な売買を一部承認した。(84 字)

  • 18

    次の出来事を起きた順に並び替えよ。また、1つだけ違う年に起きたものがある。1つ選べ。 ①ボリシェヴィキ党、共産党に改名。 ②モスクワへ遷都。 ③ブレスト=リトフスク条約により講和成立。 ④コミンテルン創設。 ⑤対ソ干渉戦争開始。

    ③➡️②➡️①➡️⑤➡️④ ④

  • 19

    空所補充。 (①)は、現在のフランスのロレーヌ県北部、ベルギー国境の近くの地点。かつて、①条約が締結されたところ。第一次世界大戦では1916年2月~6月、フランス軍の①要塞に向けて、ドイツ軍が総攻撃を行って、大戦最大の戦闘が行われたところである。①の戦いでは莫大な量の砲弾が使用され、フランスは31万5千、ドイツ軍は28万1千の死傷者を出した。結果的にフランス軍は防衛することに成功し、司令官(②)の名声が上がった。  また、第一次世界大戦で1916年6月~11月、北フランスの(③)でドイツ軍に対するイギリス・フランス連合軍の総攻撃が展開された。イギリス軍のヘイグ将軍は、まだ実験段階だった(④)を初めて実戦に投入した。戦闘は全くの消耗戦となり、イギリス軍に42万、フランス軍に20万、ドイツ軍に45万の犠牲者を出し、勝敗無く終わった。

    ①ヴェルダン ②ペタン ③ソンム ④戦車

  • 20

    空所補充。 もう一つの動きはアメリカ合衆国の参戦である。アメリカは、伝統的な孤立主義の外交原則を守り、大戦勃発当初は中立を表明した。その一方、イギリス・フランス・ロシアには盛んに武器や物資を援助し、実質的には連合国に大きく肩入れしている状態であった。ただ国内にヨーロッパの戦争でアメリカの青年の血を流すべきでないという声も強く、(①)大統領も戦争には踏み切れずにいた。ところが、1915年5月の(②)事件を機にドイツの潜水艦を使った無差別攻撃に非難が強まった。その後も次第に参戦の声が強まり、1917年2月にドイツが無制限潜水艦作戦を宣言したのをうけて、①大統領は、1917年4月に議会の決議を得てアメリカ合衆国の参戦に踏み切った。これ以降、アメリカ軍がヨーロッパ戦線に派遣されたことによって戦局は決定的に連合軍有利に転換した。また①大統領は、1917年11月、ロシア十月革命を成功させたレーニンが「(③)」を発表すると、それに対抗して戦争目的の明確化と戦後処理の原則を示す必要に迫られ、翌1918年1月8日に(④)を発表した。

    ①ウィルソン ②ルシタニア号 ③平和に関する布告 ④十四ヶ条

  • 21

    十四ヶ条の内容について、空所補充。 1.講和交渉の公開・秘密外交の廃止 2.(①)の自由 3.関税障壁の撤廃(平等な通商関係の樹立) 4.軍備縮小 5.植民地の公正な処置 6.ロシアからの撤兵とロシアの政体の自由選択 7.(②)の主権回復 8.(③)のフランスへの返還 9.イタリア国境の再調整 10.オーストリア=ハンガリー帝国内の民族自治 11.バルカン諸国の独立の保障 12.オスマン帝国支配下の民族の自治の保障 13.(④)の独立 14.国際平和機構の設立  以上の内、(1)~(4)は国際協調、(5)~(9)は国境問題の調整、(10)~(13)が民族自決、(14)が戦後処理の具体的提案(国際連盟)にあたる。

    ①公海 ②ベルギー ③アルザス=ロレーヌ ④ポーランド

  • 22

    ★民族自決の原則は、アジアやアフリカでは適用されないとして、朝鮮や中国で日本に対する反乱運動が起きた。どのような運動が起きたか、その背景にも触れながら60字以内で説明しなさい。

    日本の植民地支配にあった朝鮮では三・一独立運動が、二十一カ条要求に対する反発の強まっていた中国では五・四運動が起こった。(60字)

  • 23

    ★ヴェルサイユ条約では、戦争責任はあげてドイツにあるとされた。条約内での取り決めについて、60字程度で説明せよ。 指定語句〔海外領土、アルザス、賠償金〕

    ドイツの海外領土の放棄、アルザス・ロレーヌのフランスへの返還、多額の賠償金支払いが規定され、ドイツの軍備も厳しく制限された。(62字)

  • 24

    1918年11月、第一次世界大戦末期のドイツで起こった水兵の反乱。戦争の即時休戦を要求し、ドイツ革命の口火を切った。この反乱は何か。

    キール軍港の水兵反乱

  • 25

    第一次世界大戦中の1915年にイギリスがアラブ側と結んだ秘密協定。大戦後のアラブの独立を約束する代わりにオスマン帝国への反乱をうながした。イギリスがユダヤ人に示したバルフォア宣言、フランスなどと密約した内容と矛盾する内容だった。 この協定は何か。

    フセイン=マクマホン協定