戊辰戦争の最中、新政府は旧幕府が外交関係をもっていた国々に新政府の成立を通告した。
天皇中心の体制を固めるために、天皇が天地の神々に誓うというかたちで公布した。新政府の方針は、広く意見を聞いて政治をおこない、外国から新しい知識を取り入れて発展させていこうというものであった。五箇条の御誓文
太政官に権力を集中し、その下に立法(法律の制定)・司法(法に基づいて判断を下す)・行政(政治を行う)の三権を分立させた。太政官制
新政府が政治のしくみを改革しようとしたが、新政府の重要な地位のほとんどが一部の公家や薩長土肥の出身者に占められた。このように、三権分立はたてまえとなり、広く意見を聞いて政治をおこなうという精神も忘れられ専制的な政治をおこなった。藩閥政治
版籍奉還したが、以前の体制と変わらなかったため、中央集権国家をつくる上で障害となり、新政府に失望した農民らの間で一揆や打ちこわしが激しくなっていった。1871年、軍事力を背景に藩を廃止し、新しく府県を置き、日本は3府 72県となった。廃藩置県
えた・ひにんの呼び方を廃止して、身分・職業とも平民と同じになったが、差別がなくなることはなかった。解放令
欧米の植民地にされないため、明治政府が近代国家の建設のためにかかげたスローガン。「富国」とは、資本主義経済を進めて国の財政を豊かにすること。「強兵」とは、軍備を充実させて欧米列強に負けない武力をもつこと。富国強兵
富国強兵のため、明治政府が近代産業をおこし、産業の発展を支える制度を整えた政策。外国から機械や技術を取り入れて、兵器・製糸・紡績などの官営工場を建てた。殖産興業
欧米の強大な軍事力に対抗していくために、 各藩の兵力にたよるのでは不十分であり、武士だけでは強い軍隊をつくれないとして、国民皆兵が原則である徴兵令を発布した。しかし、多くの免役規定(役人·一家の主人など)があり、実際に兵になったのは農家の次男.三男たちが多く、 民衆は働き手を取られるため、反対のため一揆を起こした。徴兵令
明治政府の財政は、もともと諸藩から引き
継いだ年貢によって大部分がまかなわれていた。戊辰戦争の時には、大商人から資金を借りるほど財政が厳しく、政府は思うように政策を実行できないので、地租改正に踏み切った。土地の所有者には地券を発行し、米による年貢をやめて地価(土
地の価格)を定め、地価の3%を地租として土地所有者が現金で納めることとなった。政府は地租の総額が年貢を納めていた時より下回らないよう地価を高く定めたため、結局は農民の負担は軽くならず後に地租改正反対一接が起こった。地租改正
6歳以上の全ての男女に小学校教育を受けさせようとしたが、授業料を出さねばならず、 働き手として子どもを取られるので、学制に反対する者が
あらわれ、一揆が起こった。学制
旧暦とよばれるもので、現在でも旧正月やお盆、月見などを行っている。月を基準にした暦で、古くはメンポタミアや中国で使われた。月の満ち欠けの同期(約29.5 日)を1か月、12か月を1年とするもので、1年が約354目となった。数年に一度閏(うるう)月があり、その年は1年が13か月となった。太陰暦
古代エジプトでナイル川の増水の時期を正確に知るために考えられた。太陽が地球を一周する時間を1年とあらわすが、現在ではその時間が約365 日 5時間 49分であることがわかり、 毎年余った時間を調整するために、 4年ごとに関年をもうけている。太陽暦
1872年「学問のすすめ」を出版し、個人の自主独立と学ぶことの大切さを説き、約340万部のベストセラーとなった。
「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらずといえり。されば天より人を生ずるには万人は皆同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく・・。ただ、学問をすすめて物事をよく知る者は貴人となり、無学なる者は貧人となり、下人となるなり」という一節が有名。緒方洪庵の適塾で洋学を学び、幕末には留学し、イギリスの自由主義を学んだ。帰国後、慶應義塾を設立し、欧米思想の紹介と教育に一生をささげた。一万円札のデザインになっていることでも有名。福沢諭吉
ルソーの(社会契約論)を翻訳して、国の主権は国民にあることを説き、「東洋のルソー」と呼ばれた。中江兆民
条約改正の希望を諸外国に知らせ、外国の制度を調査するために、1871~1873年にかけて政府が欧米に派遣した。条約改正には成功しなかったが、欧米の政治·教育制度や近代産業に直接触れて富国強兵の必要性を学んだことは、非常に大きな収穫であった。岩倉使節団
7歳の時、 他の女性4名と日本最初の女子留学生として岩倉使節団とともにアメリカにわたった。英語や英文学を中心とした、女子の教育の発展に尽力し、津田塾大学を設立した。津田梅子
日本と清との最初の条約で、貿易を認め、両国が
助け合うことを定めた。関税率、領事裁判権についても互いに対等な地位を認めた。日清戦争まで有効であった。日清修好条規
鎖国中の朝鮮を武カによって開国させようとする考え。土族の不満を外に向けるため、朝鮮を攻めることを主張したが、欧米から帰国した岩倉具視·大久保利通らは日本の国力を充実させることが最優先だと考え、 征韓論を主張する西郷隆盛や板垣退助らを退け、敗れた彼らは政府を去った。征韓論
朝鮮を独立国と認め、清の属国でないとを確認した。釜山など3港の開港、日本だけ領事裁判権を認める、日本製品には関税をかけられないなど、朝鮮にとって不平等なものであった。日朝修好条規
1879年に強制的に沖縄県を設置したこと。 江戸
時代には琉球王国は薩摩藩と中国の両方に従っていたが、明治政府は琉球王国を日本の領士とするため、1872年に琉球藩を置き、 1879年に琉球藩を廃止して、沖縄県を置いた。琉球処分
古代から中世にかけて、多くの国で行われた納税方法で、能力に関わらずー人あたり一律に同額を納めさせる。沖縄では村単位で行われ、納めるものはお金に限らず収穫物や布といったもので人々は重い税に苦しめられた。1903年に廃止された。人頭税
明治時代初め、北海道の開拓とロシアの南下に対する防備を進めるために置かれた役所。屯田兵を置き、多くの費用をかけて道路·港湾をつくり、札幌農学校を建てるなど、北海道の開拓を進めた。1882 年に廃止された。開拓使
アイヌ民族の保護を名目として、土地·医薬品などの援助を目的に定められた法律。しかし、実際はアイヌの土地を没収したり、日本語使用を義務付けたりしたものであった。また、「旧士人」という差別用語を残しており、1997年にアイヌ文化振興法の成立と共に廃止された。北海道旧土人保護法
板垣退助や後藤象二郎らが政府に提出した国会開設の要求書。政府に時期が早いとして退けられたが、国会開設を要求する自由民権運動が発展するきっかけとなった。民撰議院設立建白書
明治時代前期に、憲法に基づく議会政治を目指した運動。1874年、板垣退助らが民撰議院設立建白書を提出したのがはじまり。 81年、国会開設の勅論が発布されると、自由党·立憲改進党などの政党が結成された。その後、大日本帝国憲法が制定され、国会が開かれることとなった。自由民権運動
西郷隆盛を中心とした、鹿児島でおこった士族の反乱。不平士族におされた西郷は、約3万の軍を率いて熊本城を攻撃したが、政府軍に敗れ戦死。最大にして最後の士族の反乱で、不平士族は武カによる反抗をあきらめ、言論で政府を攻撃するようになった。西南戦争
国会開設運動をすすめる全国組織で、政府に8万7
千人の署名を提出したが拒否された。81 年、国会設の勅諭が出して解し、自由党へと発展していった。国会期成同盟
1400 万円かけて進めた北海道開拓事業を、開拓使長官黒田清隆が同じ薩藩出身の五代友厚らに約39万円と不当に安い値段で売ろうとした事件で、このことが新聞に報道されると、自由民権派は藩
関政治の弊害だと攻撃したので、政府は払い下げを中止した。北海道開拓使払い下げ事件
社会のしくみについて、同じ目的をもつ人たちがつくる団体。政党
自由党員や農民が借金の期限延期や地租の免除を求め、役所や警察を襲った、埼玉で起こった事件。4名が死刑、多くの農民が処罰された。秩父事件
1882 年、憲法調査のためョーロッパに行き、君主権(皇帝が国を統治する)の強いドイツ帝国の憲法を学び、大日本帝国憲法の制定にあたった。初代内閣総理大臣であり、その後、 三度首相となった。また、枢密院議長を務め、憲法の起草にもあたった。日露戦争後に初代韓国統監となり1909年満州のハルピンで国の青年(安重根)に暗殺された。伊藤博文
太政官制にかえて、1885 年に設けられた国の政治のしくみ。内閣総理大臣と国務の各大臣から構成され、天皇を補佐する責任をもった。各大臣には、薩長出身者が多かった内閣制度
1889年2月11日に天皇が国民に与えるという形で発布された。主権は天皇にあり、天皇中心の中央集権国家の柱となった。大日本帝国憲法
国民は天皇に仕え、家では父母に孝行するとしたもので、忠君愛国(天皇のために一身を捨てて国を守ること)を国民道徳の基本とした。
式典の説きに読み上げ、その精神の徹底し、国民の統合を図ろうとした。教育勅語
貴族院と衆議院で構成される。貴族院には選挙はなく、皇族·華族·天皇が任命する議員で構成され、衆議院は国民の選挙で議員が選ばれた。帝国議会
家族関係や財産の相続などについて定めた法律。1898年に公布されたが、
封建的な家制度を認め、戸主に家族を支配する強い権限を与えた。また、女性には同等の権利を認めなかった。民法
欧米諸国では、資本主義の発展に伴い、大企業と結びついた政府や軍隊が、武力で植民地を獲得するようになった。植民地化された国は、欧米諸国の原料の生産地や市場となり、欧米諸国に真大な利益を生み出すこととなった。帝国主義
強い(great power)を持つ国を指し、19Cには英·仏·独·米·露などの資本主義が発達した国を、そう呼んだ。列強
外国との条約改正の話し合いを有利にするため、日本の西洋化を目指した政策。井上馨は制度や風俗などの洋風化を進め、鹿鳴館を建て、舞路会を開いた。しかし、欧米人の関心を得ようとする政府の卑屈な態度は、国民|の反感を買うだけとなった。欧化政策
イギリスのノルマントン号が和歌山県沖で難破し、イギリス船員は救助されたが、日本人乗客25 人は見捨てられ、全員が水死した。この事件に対してイギリス領事が裁判を行ったが、イギリス人船長は無罪となり、それを不満に思った日本国民が、条約改正運動をよりいっそう盛り上げていつた。ノルマントン号事件
幕末に放郷の紀州藩(和歌山県)をはなれ、坂本龍馬の海援隊に入った。明治維新後、兵庫県·神奈川県の知事となり、 地租改正を進めたが、西南戦争で計画に加わったとして投獄された。1892年外務大臣となり、 条約改正に力を注ぎ、日清戦争を避けようとしたが、イギリスとの条約改正 (日米通商航毎条約) が成功すると、清との戦争を決意した。陸奥宗光
日本やアジア諸者国の文明化を主張する福沢論吉は、期待していた朝鮮の政権争いの失敗(更新事変)に失望し、1885年に「脱亜論」を発表した。
朝鮮·中国とおもに文明化して並び立とうとする考えを捨て、日本は単独で西洋化していくべきだと主張した。10年後の日清戦争の際、これを「文明と野蛮の戦い」と呼び、文明化のために野蛮なと戦うのだと吸争を支持し、世論をリードした。脱亜論
東学(キリスト教に対抗しようとする朝鮮の宗
教)を信仰する農民たちが、「外国人の排·税の廃止·耕作地の均等な配分」などを求めて、朝鮮全域に闘争を展開した。朝鮮は清に援軍を求め、日本も朝鮮侵略の好機として出兵したため、日清戦争へのきっかけとなった。甲午農民戦争
朝鮮の支配をめぐって争った戦争で、日本軍の武器が清よりすぐれていたことや、 清の国内が不統一な状態にあったことから、日本軍が勝利した。欧米列強は大国である清を恐れていたが、日本に敗れたことで清への進出が加速し、中国は欧米列強によって分割された状態となった。日清戦争
日清戦争の講和条約で、日本の全権は伊藤博文·陸
奥宗光、清の全権は李鴻章(り·こうしょう)が担った。略償金の金額は、現在のお金で約3億円の価値で、これによって八幡製鉄所が設立された。この条約で領土となった台湾には台湾総督府が置かれ、軍隊の武カによって植民地支配した。下関条約
下関条約が結ばれた6日後、ロシアがフランス·ド
イツとともに、 遊東半島を 清に返還するよう日本に要求してきたこと。「東洋の平和のために」というロ実で干荻され、政府は8国に対抗する実力がなかったため、やむなく受け入れることとなった。三国干渉
日清戦争以降の欧米諸国の侵略に不満をもつ中国の民衆が、義和団(剣術·棒術を習う宗教団体)を中心に山東省で反乱を起こした。「扶清滅洋」(清を助け、西洋をやっつける)を叫んで北京に進み、外国公使館を警った義和団事件
義和団事件後もロシアが満州に居座ったため、ロシアの東アジア進出に対抗するため日本と英との間で結ばれた軍事同盟。英は中国での権利を守るため日本と結ぼうとし、日本は大陸を侵略するためには英と協力することが得策として結ばれた。1921 年、ワシントン会護にて廃止された。日英同盟
日本とロシアとの満州の支配をめぐる帝国主義による戦争。日本は兵士や物資の補給が困難になり、ロシアも国内の革命運動をしずめる方が重要と考え、アメリカの仲介によってポーツマス条約を結んだ。日露戦争
札幌典学校に学び、クラークの影響を受けキリスト教徒となった。「戦争は人を殺すことであり、それは大罪悪だ」として、戦争そのものを批判し、非戦論を主張した。内村鑑三
旅順に出征した弟によせた詩「君死にたまうことなかれ」を発表し、大きな反響をよんだ。与謝野晶子
アメリカのセオドア=ルーズベルト大統領がし、日本全権の小村寿太郎とロシア全権のウィッテが調印した。内容は、①日本の韓国での優越権②旅順·大連の租告権と長春~旅順間の鉄道③棒太の南半分の沿海州の漁業権をゆずるなどであった。ポーツマス条約
ポーツマス条約の内容に反対した民衆が起こした条動。日本が暗償金をとれず、領士もあまり獲得できなかったとして、新聞社や警察署·交番·内閣官邸などを焼き討ちした。日比谷焼き打ち事件
日本政府が韓国支配のために漢城(ソウル)に置いた役所。初代統監は伊藤博文がなり、1905 年に外交権、 1907 年に内政権をうばい、韓国の政治を支配した。韓国併合の後、 朝鮮総督府となった。韓国統監府
朝鮮の青年独立運動家。満州のハルピンで伊藤博文を暗殺し、翌年死刑になった。韓国では英雄として讃えられている。安重根
武力を背景に、韓国を併合した。 国号を韓国から朝鮮に変え、首都の漢城(現在のソウル)を京域と改め、朝鮮総督府を置いて植民地支配を進めた。韓国併合
帝国主義国の植民地のような状態になっていた中国では、清国を倒して中国人の近代国家をつくろうという革命運動が盛んになった。その
中心となったのが孫文で、三民主義(①民族の独立
[満州人の支配からの独立]②民権の伸長〔人権と自由の獲得]③民生の安定[土地制度の改善])を唱え、革命運動を推し進めた。「中国革命の父」といわれ、現在も高く評価されている。孫文
清は衰世凱に革命運動を抑える依頼したが、衰世凱は清に見切りをつけ、孫文と交渉して清の皇帝を退位させる代わりに、中華民国の大総統となることを約束させた。こうして、約 300 年続いた清は滅ぶこととなった。袁世凱
戊辰戦争の最中、新政府は旧幕府が外交関係をもっていた国々に新政府の成立を通告した。
天皇中心の体制を固めるために、天皇が天地の神々に誓うというかたちで公布した。新政府の方針は、広く意見を聞いて政治をおこない、外国から新しい知識を取り入れて発展させていこうというものであった。五箇条の御誓文
太政官に権力を集中し、その下に立法(法律の制定)・司法(法に基づいて判断を下す)・行政(政治を行う)の三権を分立させた。太政官制
新政府が政治のしくみを改革しようとしたが、新政府の重要な地位のほとんどが一部の公家や薩長土肥の出身者に占められた。このように、三権分立はたてまえとなり、広く意見を聞いて政治をおこなうという精神も忘れられ専制的な政治をおこなった。藩閥政治
版籍奉還したが、以前の体制と変わらなかったため、中央集権国家をつくる上で障害となり、新政府に失望した農民らの間で一揆や打ちこわしが激しくなっていった。1871年、軍事力を背景に藩を廃止し、新しく府県を置き、日本は3府 72県となった。廃藩置県
えた・ひにんの呼び方を廃止して、身分・職業とも平民と同じになったが、差別がなくなることはなかった。解放令
欧米の植民地にされないため、明治政府が近代国家の建設のためにかかげたスローガン。「富国」とは、資本主義経済を進めて国の財政を豊かにすること。「強兵」とは、軍備を充実させて欧米列強に負けない武力をもつこと。富国強兵
富国強兵のため、明治政府が近代産業をおこし、産業の発展を支える制度を整えた政策。外国から機械や技術を取り入れて、兵器・製糸・紡績などの官営工場を建てた。殖産興業
欧米の強大な軍事力に対抗していくために、 各藩の兵力にたよるのでは不十分であり、武士だけでは強い軍隊をつくれないとして、国民皆兵が原則である徴兵令を発布した。しかし、多くの免役規定(役人·一家の主人など)があり、実際に兵になったのは農家の次男.三男たちが多く、 民衆は働き手を取られるため、反対のため一揆を起こした。徴兵令
明治政府の財政は、もともと諸藩から引き
継いだ年貢によって大部分がまかなわれていた。戊辰戦争の時には、大商人から資金を借りるほど財政が厳しく、政府は思うように政策を実行できないので、地租改正に踏み切った。土地の所有者には地券を発行し、米による年貢をやめて地価(土
地の価格)を定め、地価の3%を地租として土地所有者が現金で納めることとなった。政府は地租の総額が年貢を納めていた時より下回らないよう地価を高く定めたため、結局は農民の負担は軽くならず後に地租改正反対一接が起こった。地租改正
6歳以上の全ての男女に小学校教育を受けさせようとしたが、授業料を出さねばならず、 働き手として子どもを取られるので、学制に反対する者が
あらわれ、一揆が起こった。学制
旧暦とよばれるもので、現在でも旧正月やお盆、月見などを行っている。月を基準にした暦で、古くはメンポタミアや中国で使われた。月の満ち欠けの同期(約29.5 日)を1か月、12か月を1年とするもので、1年が約354目となった。数年に一度閏(うるう)月があり、その年は1年が13か月となった。太陰暦
古代エジプトでナイル川の増水の時期を正確に知るために考えられた。太陽が地球を一周する時間を1年とあらわすが、現在ではその時間が約365 日 5時間 49分であることがわかり、 毎年余った時間を調整するために、 4年ごとに関年をもうけている。太陽暦
1872年「学問のすすめ」を出版し、個人の自主独立と学ぶことの大切さを説き、約340万部のベストセラーとなった。
「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらずといえり。されば天より人を生ずるには万人は皆同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく・・。ただ、学問をすすめて物事をよく知る者は貴人となり、無学なる者は貧人となり、下人となるなり」という一節が有名。緒方洪庵の適塾で洋学を学び、幕末には留学し、イギリスの自由主義を学んだ。帰国後、慶應義塾を設立し、欧米思想の紹介と教育に一生をささげた。一万円札のデザインになっていることでも有名。福沢諭吉
ルソーの(社会契約論)を翻訳して、国の主権は国民にあることを説き、「東洋のルソー」と呼ばれた。中江兆民
条約改正の希望を諸外国に知らせ、外国の制度を調査するために、1871~1873年にかけて政府が欧米に派遣した。条約改正には成功しなかったが、欧米の政治·教育制度や近代産業に直接触れて富国強兵の必要性を学んだことは、非常に大きな収穫であった。岩倉使節団
7歳の時、 他の女性4名と日本最初の女子留学生として岩倉使節団とともにアメリカにわたった。英語や英文学を中心とした、女子の教育の発展に尽力し、津田塾大学を設立した。津田梅子
日本と清との最初の条約で、貿易を認め、両国が
助け合うことを定めた。関税率、領事裁判権についても互いに対等な地位を認めた。日清戦争まで有効であった。日清修好条規
鎖国中の朝鮮を武カによって開国させようとする考え。土族の不満を外に向けるため、朝鮮を攻めることを主張したが、欧米から帰国した岩倉具視·大久保利通らは日本の国力を充実させることが最優先だと考え、 征韓論を主張する西郷隆盛や板垣退助らを退け、敗れた彼らは政府を去った。征韓論
朝鮮を独立国と認め、清の属国でないとを確認した。釜山など3港の開港、日本だけ領事裁判権を認める、日本製品には関税をかけられないなど、朝鮮にとって不平等なものであった。日朝修好条規
1879年に強制的に沖縄県を設置したこと。 江戸
時代には琉球王国は薩摩藩と中国の両方に従っていたが、明治政府は琉球王国を日本の領士とするため、1872年に琉球藩を置き、 1879年に琉球藩を廃止して、沖縄県を置いた。琉球処分
古代から中世にかけて、多くの国で行われた納税方法で、能力に関わらずー人あたり一律に同額を納めさせる。沖縄では村単位で行われ、納めるものはお金に限らず収穫物や布といったもので人々は重い税に苦しめられた。1903年に廃止された。人頭税
明治時代初め、北海道の開拓とロシアの南下に対する防備を進めるために置かれた役所。屯田兵を置き、多くの費用をかけて道路·港湾をつくり、札幌農学校を建てるなど、北海道の開拓を進めた。1882 年に廃止された。開拓使
アイヌ民族の保護を名目として、土地·医薬品などの援助を目的に定められた法律。しかし、実際はアイヌの土地を没収したり、日本語使用を義務付けたりしたものであった。また、「旧士人」という差別用語を残しており、1997年にアイヌ文化振興法の成立と共に廃止された。北海道旧土人保護法
板垣退助や後藤象二郎らが政府に提出した国会開設の要求書。政府に時期が早いとして退けられたが、国会開設を要求する自由民権運動が発展するきっかけとなった。民撰議院設立建白書
明治時代前期に、憲法に基づく議会政治を目指した運動。1874年、板垣退助らが民撰議院設立建白書を提出したのがはじまり。 81年、国会開設の勅論が発布されると、自由党·立憲改進党などの政党が結成された。その後、大日本帝国憲法が制定され、国会が開かれることとなった。自由民権運動
西郷隆盛を中心とした、鹿児島でおこった士族の反乱。不平士族におされた西郷は、約3万の軍を率いて熊本城を攻撃したが、政府軍に敗れ戦死。最大にして最後の士族の反乱で、不平士族は武カによる反抗をあきらめ、言論で政府を攻撃するようになった。西南戦争
国会開設運動をすすめる全国組織で、政府に8万7
千人の署名を提出したが拒否された。81 年、国会設の勅諭が出して解し、自由党へと発展していった。国会期成同盟
1400 万円かけて進めた北海道開拓事業を、開拓使長官黒田清隆が同じ薩藩出身の五代友厚らに約39万円と不当に安い値段で売ろうとした事件で、このことが新聞に報道されると、自由民権派は藩
関政治の弊害だと攻撃したので、政府は払い下げを中止した。北海道開拓使払い下げ事件
社会のしくみについて、同じ目的をもつ人たちがつくる団体。政党
自由党員や農民が借金の期限延期や地租の免除を求め、役所や警察を襲った、埼玉で起こった事件。4名が死刑、多くの農民が処罰された。秩父事件
1882 年、憲法調査のためョーロッパに行き、君主権(皇帝が国を統治する)の強いドイツ帝国の憲法を学び、大日本帝国憲法の制定にあたった。初代内閣総理大臣であり、その後、 三度首相となった。また、枢密院議長を務め、憲法の起草にもあたった。日露戦争後に初代韓国統監となり1909年満州のハルピンで国の青年(安重根)に暗殺された。伊藤博文
太政官制にかえて、1885 年に設けられた国の政治のしくみ。内閣総理大臣と国務の各大臣から構成され、天皇を補佐する責任をもった。各大臣には、薩長出身者が多かった内閣制度
1889年2月11日に天皇が国民に与えるという形で発布された。主権は天皇にあり、天皇中心の中央集権国家の柱となった。大日本帝国憲法
国民は天皇に仕え、家では父母に孝行するとしたもので、忠君愛国(天皇のために一身を捨てて国を守ること)を国民道徳の基本とした。
式典の説きに読み上げ、その精神の徹底し、国民の統合を図ろうとした。教育勅語
貴族院と衆議院で構成される。貴族院には選挙はなく、皇族·華族·天皇が任命する議員で構成され、衆議院は国民の選挙で議員が選ばれた。帝国議会
家族関係や財産の相続などについて定めた法律。1898年に公布されたが、
封建的な家制度を認め、戸主に家族を支配する強い権限を与えた。また、女性には同等の権利を認めなかった。民法
欧米諸国では、資本主義の発展に伴い、大企業と結びついた政府や軍隊が、武力で植民地を獲得するようになった。植民地化された国は、欧米諸国の原料の生産地や市場となり、欧米諸国に真大な利益を生み出すこととなった。帝国主義
強い(great power)を持つ国を指し、19Cには英·仏·独·米·露などの資本主義が発達した国を、そう呼んだ。列強
外国との条約改正の話し合いを有利にするため、日本の西洋化を目指した政策。井上馨は制度や風俗などの洋風化を進め、鹿鳴館を建て、舞路会を開いた。しかし、欧米人の関心を得ようとする政府の卑屈な態度は、国民|の反感を買うだけとなった。欧化政策
イギリスのノルマントン号が和歌山県沖で難破し、イギリス船員は救助されたが、日本人乗客25 人は見捨てられ、全員が水死した。この事件に対してイギリス領事が裁判を行ったが、イギリス人船長は無罪となり、それを不満に思った日本国民が、条約改正運動をよりいっそう盛り上げていつた。ノルマントン号事件
幕末に放郷の紀州藩(和歌山県)をはなれ、坂本龍馬の海援隊に入った。明治維新後、兵庫県·神奈川県の知事となり、 地租改正を進めたが、西南戦争で計画に加わったとして投獄された。1892年外務大臣となり、 条約改正に力を注ぎ、日清戦争を避けようとしたが、イギリスとの条約改正 (日米通商航毎条約) が成功すると、清との戦争を決意した。陸奥宗光
日本やアジア諸者国の文明化を主張する福沢論吉は、期待していた朝鮮の政権争いの失敗(更新事変)に失望し、1885年に「脱亜論」を発表した。
朝鮮·中国とおもに文明化して並び立とうとする考えを捨て、日本は単独で西洋化していくべきだと主張した。10年後の日清戦争の際、これを「文明と野蛮の戦い」と呼び、文明化のために野蛮なと戦うのだと吸争を支持し、世論をリードした。脱亜論
東学(キリスト教に対抗しようとする朝鮮の宗
教)を信仰する農民たちが、「外国人の排·税の廃止·耕作地の均等な配分」などを求めて、朝鮮全域に闘争を展開した。朝鮮は清に援軍を求め、日本も朝鮮侵略の好機として出兵したため、日清戦争へのきっかけとなった。甲午農民戦争
朝鮮の支配をめぐって争った戦争で、日本軍の武器が清よりすぐれていたことや、 清の国内が不統一な状態にあったことから、日本軍が勝利した。欧米列強は大国である清を恐れていたが、日本に敗れたことで清への進出が加速し、中国は欧米列強によって分割された状態となった。日清戦争
日清戦争の講和条約で、日本の全権は伊藤博文·陸
奥宗光、清の全権は李鴻章(り·こうしょう)が担った。略償金の金額は、現在のお金で約3億円の価値で、これによって八幡製鉄所が設立された。この条約で領土となった台湾には台湾総督府が置かれ、軍隊の武カによって植民地支配した。下関条約
下関条約が結ばれた6日後、ロシアがフランス·ド
イツとともに、 遊東半島を 清に返還するよう日本に要求してきたこと。「東洋の平和のために」というロ実で干荻され、政府は8国に対抗する実力がなかったため、やむなく受け入れることとなった。三国干渉
日清戦争以降の欧米諸国の侵略に不満をもつ中国の民衆が、義和団(剣術·棒術を習う宗教団体)を中心に山東省で反乱を起こした。「扶清滅洋」(清を助け、西洋をやっつける)を叫んで北京に進み、外国公使館を警った義和団事件
義和団事件後もロシアが満州に居座ったため、ロシアの東アジア進出に対抗するため日本と英との間で結ばれた軍事同盟。英は中国での権利を守るため日本と結ぼうとし、日本は大陸を侵略するためには英と協力することが得策として結ばれた。1921 年、ワシントン会護にて廃止された。日英同盟
日本とロシアとの満州の支配をめぐる帝国主義による戦争。日本は兵士や物資の補給が困難になり、ロシアも国内の革命運動をしずめる方が重要と考え、アメリカの仲介によってポーツマス条約を結んだ。日露戦争
札幌典学校に学び、クラークの影響を受けキリスト教徒となった。「戦争は人を殺すことであり、それは大罪悪だ」として、戦争そのものを批判し、非戦論を主張した。内村鑑三
旅順に出征した弟によせた詩「君死にたまうことなかれ」を発表し、大きな反響をよんだ。与謝野晶子
アメリカのセオドア=ルーズベルト大統領がし、日本全権の小村寿太郎とロシア全権のウィッテが調印した。内容は、①日本の韓国での優越権②旅順·大連の租告権と長春~旅順間の鉄道③棒太の南半分の沿海州の漁業権をゆずるなどであった。ポーツマス条約
ポーツマス条約の内容に反対した民衆が起こした条動。日本が暗償金をとれず、領士もあまり獲得できなかったとして、新聞社や警察署·交番·内閣官邸などを焼き討ちした。日比谷焼き打ち事件
日本政府が韓国支配のために漢城(ソウル)に置いた役所。初代統監は伊藤博文がなり、1905 年に外交権、 1907 年に内政権をうばい、韓国の政治を支配した。韓国併合の後、 朝鮮総督府となった。韓国統監府
朝鮮の青年独立運動家。満州のハルピンで伊藤博文を暗殺し、翌年死刑になった。韓国では英雄として讃えられている。安重根
武力を背景に、韓国を併合した。 国号を韓国から朝鮮に変え、首都の漢城(現在のソウル)を京域と改め、朝鮮総督府を置いて植民地支配を進めた。韓国併合
帝国主義国の植民地のような状態になっていた中国では、清国を倒して中国人の近代国家をつくろうという革命運動が盛んになった。その
中心となったのが孫文で、三民主義(①民族の独立
[満州人の支配からの独立]②民権の伸長〔人権と自由の獲得]③民生の安定[土地制度の改善])を唱え、革命運動を推し進めた。「中国革命の父」といわれ、現在も高く評価されている。孫文
清は衰世凱に革命運動を抑える依頼したが、衰世凱は清に見切りをつけ、孫文と交渉して清の皇帝を退位させる代わりに、中華民国の大総統となることを約束させた。こうして、約 300 年続いた清は滅ぶこととなった。袁世凱