イギリスでは道路だけでなく、()が発達していた。運河による水運
産業革命が進むと鉄や()の利用が可能となり、原材料の輸入と商品の輸出の増加によって、より大量の運搬が求められるようになった。石炭
交通分野でも蒸気機関と鉄を利用した()がおきた。技術革新
19世紀はじめに蒸気機関を動力とする汽車()が発明蒸気機関車
蒸気機関車が()によって実用化が可能となった。スティーヴンソン
帆船は風や海流などの影響をうけやすかったが、フルトンによって実用化された()は、燃料の石炭さえあればいかなるときも航行できた。蒸気船
アメリカをはじめ()鉄道の開通とともに、世界規模で人や物資の輸送力は劇的に変化した。大陸横断
1869年に()が開通し、従来のアフリカ南端の喜望峰経由とくらべて、ヨーロッパとアジアの航路は大幅に短縮された。スエズ運河
イギリスは十七世紀半ばに()事業を国営とし、1840年に均一料金郵便制度を採用した。郵便
1874年には()が発足し、加盟国の郵便事業体間であれば信書が送り届けられるようになった。万国郵便連合
1870年代には()らによって電話が発明されたベル
()は、1851年にブレッド兄弟により初めて英仏海峡に敷設されて以降次々と敷設された。海底ケーブル
十八世紀以降、()や商業活動が活発となり、()の整備や()、飛脚制度など、国内の交通・通信網は独自に形成されていた。参勤交代, 五街道, 海運
((時期))には蒸気機関車の模型や蒸気船が作られ、科学技術が積極的に導入された。江戸末期
1872年に()が開業され、政府と民間企業によって鉄道敷設は進められ、明治末期までにほぼ全国の鉄道網が整備された。新橋・横浜間
()が創業した三菱蒸気船会社が1875年に上海・横浜間の定期航路を開設すると、国の保護のもと外国企業と価格競争を繰り広げ、海運業を牽引した。岩崎弥太郎
1871年に()によって()が始まり、1877年に万国郵便連合に加盟した。前島密, 官営郵便制度
()帝国は、十八世紀末から独立運動やロシアの南下政策などによって苦境に陥っていた。オスマン
支援を求められたイギリスは、1838年に()条約(バリタ=リマヌ条約)を結び、帝国内におけるイギリス人の通商・居住の自由や領事裁判権などの特権を獲得した。英土通商
財政難となったオスマン帝国は、憲法制定などの政治改革を取り組んでいった()。タンジマート
イギリスはいんどで麻薬の一種である()を製造し、清へ密輸した。アヘン
1839年、清は()を広州へ派遣し厳しく取り締まった。林則徐
イギリスは抗議したが交渉は決裂し、東洋艦隊を派遣して1840年に軍事衝突となった()。アヘン戦争
アヘン戦争はイギリス軍が圧勝し、1842年に()条約が締結された。南京
清は賠償金を支払うだけではなく、公行を廃止して新たに厦門・福州・寧波・上海を開港し、()した。香港を割譲
1853年、アメリカの()が蒸気船を含む艦隊を率いて、開港を要求した()。ペリー, 黒船来航
1858年()条約を結び、イギリス・フランス・ロシア・オランダとも同様の条約を締結した()。日米修好通商, 安政の五カ国条約
明治になると、新政府が主導して産業の近代化をさらに進めた()。殖産興業
1870年、伊藤博文らが提唱して()を設置し、近代産業育成へ向けた基盤づくりを始めた。工部省
()が設立した()銀行などでの銀行制度の導入渋沢栄一, 第一国立
神戸・ボンベイ間の()が日印共同で開通国際定期遠洋航路
日用雑貨品を東南アジアへ、紡績した綿糸を()や朝鮮に輸出した。中国
浮世絵や陶磁器などの美術が()らに高く評価され、海外へも紹介された。フェノロサ
1648年、ヨーロッパの主要国間で()条約が結ばれた。ウェストファリア
ウェストファリア条約により、国家は国境内の領土では、他国から一切の制約を受けずに権力(統治権)を行使できる主権を持つとされた()主権国家
中間団体を介した専制政治で、官僚制や常備軍、体系的な租税制度を整備し、植民地経営によって貿易拡大をはかった()絶対王政
市民階級が豊かになり自由と権利の意識が高まると、憲法によって国王の権力を制限するべきと考えられるようになった()。立憲体制
イギリスでは、課税問題をめぐって市民階級が国王の横暴に不満を抱き、1628年の()、1640年に始まった()革命(〜1660年)を経て、1689年に()革命をおこして()を定めた。権利の請願, ピューリタン, 名誉, 権利の章典
国王は国民の自由や権利を認め、議会法に制約される()が確立した。立憲君主制
ホッブズや()らは、個人が互いに契約を結ぶことによって国家が成立すると唱えた()。ロック, 社会契約説
1773年、イギリス議会が茶の販売権を東インド会社に独占させたことに抗議し、同社の船に乗り込んで積まれた茶を投げ捨てた事件。ボストン茶会事件
1775年〜1783年に起こった戦争アメリカ独立戦争
ジェファソンらが起草した()宣言を全会一致で採決した。アメリカ独立
連邦議会、大統領を代表とする連邦政府、連邦裁判所による()の原則が定められた。三権分立
1789年には連邦政府が発足し、()が初代大統領に選ばれた。ワシントン
各州に大幅な自治を認めながらも、政府の権限を強化する考え方。連邦主義
奴隷制の存続や、保護貿易と自由貿易の選択などをめぐって対立し、1861年、北部と南部の諸州間で()戦争がおきた。南北
()大統領が1863年に奴隷解放宣言を発布して国内外の世論を味方につけた。北部が勝利して国内を統一すると、以後、アメリカでは工業化が進んだ。リンカーン
フランスでは、ブルボン朝のもとで絶対王政が展開された()アンシャン=レジーム
財政難により1789年、聖職者・貴族・平民の代表を集めた()が招集された。三部会
第三身分の平民たちは()をつくり憲法制定に取り掛かった。国民議会
国王や貴族は反発し、()牢獄の襲撃を機に、争いはフランス全国へ広がった。バスティーユ
国民議会は封建制の廃止を宣言し、自由や平等・諸権利をうたった()宣言を採択し、1791年憲法を制定した。人権
新たに成立した立法議会は王権停止を宣言して解散し、これを引き継いだ()は王政廃止と共和政の樹立を宣言した。国民公会
革命の理想を徹底しようとする()派が国民公会の主導権を握り、1793年に()夫妻を処刑した。ジャコバン, ルイ16世
ルイ16世夫妻を処刑したことによりヨーロッパ各国の王室は危機感を募らせ、イギリスの呼びかけで軍事介入を始めた()。対仏大同盟
文化や言語・自由や権利などの理念を共有する()という共同意識が人々のあいだに普及した。国民
ブルジョワジーによる()が誕生したが、政局は安定しなかった。総裁政府
国民軍を率いてイタリアやエジプトへの遠征で功績をあげた()が、クーデターによって統領となり、のちに皇帝となった。ナポレオン
1804、所有権や経済活動の自由などを盛り込んだ民法典()を制定ナポレオン法典
ナポレオンの大陸支配が崩壊すると1814年、オーストリア外相メッテルニヒの主導で()会ぎが開かれ、ヨーロッパをフランス革命以前の状態に戻すことが決まった()。ウィーン, ウィーン体制
ウィーン体制下では自由主義・()運動が抑圧されたため、諸国で騒乱が頻発した。ナショナリズム
七月革命(1830年)、二月革命(1848年)によって()が成立すると、その影響を受けて各地でナショナリズムや自由主義に基づく国民国家建設を目指す革命・独立運動がおこりウィーン体制は動揺した()。第二共和制, 諸国民の春
イタリア北部はウィーン会議後、オーストリア帝国の支配下に置かれ、イタリア統一と封建制打倒を目指した運動が広がった。()共和国が誕生したがすぐに崩壊し、統一戦争が始まった。ローマ
()らの活躍によって1861年、立憲君主制の()王国が誕生した。ガリバルディ、イタリア
ウィーン会議によって、複数の連邦と自由都市が連合して、()連邦が成立した。ドイツ
各地でドイツ民族の統一が叫ばれ、()運動がおこった。自由主義
プロイセン王国は()を導入し、()が首相兼外相となりドイツ統一を目指した。立憲体制, ビスマルク
軍政改革・軍備増強をすすめ、1866年の()戦争でオーストリア帝国を破り、翌年()連邦を結成した。さらに1870年の()戦争を経て、1871年に()帝国が誕生した。普墺, 北ドイツ, 普仏, ドイツ
ビスマルクはヨーロッパ諸国と同盟を結んで良好関係を築き、フランスを孤立させることに成功した()。ビスマルク外交
日本の自主性を強く打ち出し、外圧に対抗しようとする考え方。攘夷論
武力で開国を迫った欧米列強に対する攘夷論が高まり、()戦争や()戦争などが起きた。薩英、下関
薩摩・長州などを中心とした諸藩は、天皇を中心とする政治体制を目指し、1867年10月の()、12月の()によって、約260年以上つづいた江戸幕府は幕を閉じた大政奉還、王政復古の大号令
大政奉還、王政復古の大号令によって幕を閉じた江戸幕府の一連の政治改革を()(当時は御一新)とよぶ。明治維新
幕府側は薩長の動きへの不満から挙兵し、翌年まで内乱状態がつづいた( (戦争))。戊辰
1868年3月には、()天皇が神々に誓約して()が布告され、抗議世論の尊重や開国和親などを国是にした新政府の大方針が示された。明治、五箇条の御誓文
1868年4月には()を公布し、太政官を中心とする政府機構が整備された。政体書
1868年7月には江戸を東京と改め、9月には元号を明治と改元して天皇一代に同じ元号を用いる()制を採用した。一世一元
地方には依然として大名家を中心とする藩が残っていたので1869年の版籍奉還につづき、1871年に()を断行し、中央集権化を実現させた。廃藩置県
旧大名(大名華族)とその家臣(士族)は実権を失ったが、()(家禄と賞典禄)は保障された。秩禄
1873年に希望者に一時金と交際を与え(()の法)、1876年には対象者すべてに()を発行して、秩禄制度を廃止した()。秩禄奉還, 金禄公債証書, 秩禄処分
1870年に平民が苗字を名乗ることが許可され、翌年には身分制度が廃止され、公卿と大名を()族、武士を()族、その他を()とした。平民と華族・士族の結婚も認められた。華, 士, 平民
1872年、我が国初の近代的戸籍が作成された(()戸籍)。壬申
1871年、金本位制をうたう()条例を定め、十進法による円・銭・厘からなる全国画一の貨幣制度を導入した。新貨
暦については、西洋諸国にならって()暦を採用し、1873年元旦から変更した。太陽
1653年()、護国卿に就任し軍事独裁制へクロムウェル
1673年、国王のカトリック擁護に対抗し、議会は管理を国教徒に限定する()法を制定審査
1680年ごろ、()党(王権)と()党(議会)の2大党派の成立トーリー, ホイッグ
1721年、「王は()すれども統治せず」責任内閣制成立君臨
イギリスでは道路だけでなく、()が発達していた。運河による水運
産業革命が進むと鉄や()の利用が可能となり、原材料の輸入と商品の輸出の増加によって、より大量の運搬が求められるようになった。石炭
交通分野でも蒸気機関と鉄を利用した()がおきた。技術革新
19世紀はじめに蒸気機関を動力とする汽車()が発明蒸気機関車
蒸気機関車が()によって実用化が可能となった。スティーヴンソン
帆船は風や海流などの影響をうけやすかったが、フルトンによって実用化された()は、燃料の石炭さえあればいかなるときも航行できた。蒸気船
アメリカをはじめ()鉄道の開通とともに、世界規模で人や物資の輸送力は劇的に変化した。大陸横断
1869年に()が開通し、従来のアフリカ南端の喜望峰経由とくらべて、ヨーロッパとアジアの航路は大幅に短縮された。スエズ運河
イギリスは十七世紀半ばに()事業を国営とし、1840年に均一料金郵便制度を採用した。郵便
1874年には()が発足し、加盟国の郵便事業体間であれば信書が送り届けられるようになった。万国郵便連合
1870年代には()らによって電話が発明されたベル
()は、1851年にブレッド兄弟により初めて英仏海峡に敷設されて以降次々と敷設された。海底ケーブル
十八世紀以降、()や商業活動が活発となり、()の整備や()、飛脚制度など、国内の交通・通信網は独自に形成されていた。参勤交代, 五街道, 海運
((時期))には蒸気機関車の模型や蒸気船が作られ、科学技術が積極的に導入された。江戸末期
1872年に()が開業され、政府と民間企業によって鉄道敷設は進められ、明治末期までにほぼ全国の鉄道網が整備された。新橋・横浜間
()が創業した三菱蒸気船会社が1875年に上海・横浜間の定期航路を開設すると、国の保護のもと外国企業と価格競争を繰り広げ、海運業を牽引した。岩崎弥太郎
1871年に()によって()が始まり、1877年に万国郵便連合に加盟した。前島密, 官営郵便制度
()帝国は、十八世紀末から独立運動やロシアの南下政策などによって苦境に陥っていた。オスマン
支援を求められたイギリスは、1838年に()条約(バリタ=リマヌ条約)を結び、帝国内におけるイギリス人の通商・居住の自由や領事裁判権などの特権を獲得した。英土通商
財政難となったオスマン帝国は、憲法制定などの政治改革を取り組んでいった()。タンジマート
イギリスはいんどで麻薬の一種である()を製造し、清へ密輸した。アヘン
1839年、清は()を広州へ派遣し厳しく取り締まった。林則徐
イギリスは抗議したが交渉は決裂し、東洋艦隊を派遣して1840年に軍事衝突となった()。アヘン戦争
アヘン戦争はイギリス軍が圧勝し、1842年に()条約が締結された。南京
清は賠償金を支払うだけではなく、公行を廃止して新たに厦門・福州・寧波・上海を開港し、()した。香港を割譲
1853年、アメリカの()が蒸気船を含む艦隊を率いて、開港を要求した()。ペリー, 黒船来航
1858年()条約を結び、イギリス・フランス・ロシア・オランダとも同様の条約を締結した()。日米修好通商, 安政の五カ国条約
明治になると、新政府が主導して産業の近代化をさらに進めた()。殖産興業
1870年、伊藤博文らが提唱して()を設置し、近代産業育成へ向けた基盤づくりを始めた。工部省
()が設立した()銀行などでの銀行制度の導入渋沢栄一, 第一国立
神戸・ボンベイ間の()が日印共同で開通国際定期遠洋航路
日用雑貨品を東南アジアへ、紡績した綿糸を()や朝鮮に輸出した。中国
浮世絵や陶磁器などの美術が()らに高く評価され、海外へも紹介された。フェノロサ
1648年、ヨーロッパの主要国間で()条約が結ばれた。ウェストファリア
ウェストファリア条約により、国家は国境内の領土では、他国から一切の制約を受けずに権力(統治権)を行使できる主権を持つとされた()主権国家
中間団体を介した専制政治で、官僚制や常備軍、体系的な租税制度を整備し、植民地経営によって貿易拡大をはかった()絶対王政
市民階級が豊かになり自由と権利の意識が高まると、憲法によって国王の権力を制限するべきと考えられるようになった()。立憲体制
イギリスでは、課税問題をめぐって市民階級が国王の横暴に不満を抱き、1628年の()、1640年に始まった()革命(〜1660年)を経て、1689年に()革命をおこして()を定めた。権利の請願, ピューリタン, 名誉, 権利の章典
国王は国民の自由や権利を認め、議会法に制約される()が確立した。立憲君主制
ホッブズや()らは、個人が互いに契約を結ぶことによって国家が成立すると唱えた()。ロック, 社会契約説
1773年、イギリス議会が茶の販売権を東インド会社に独占させたことに抗議し、同社の船に乗り込んで積まれた茶を投げ捨てた事件。ボストン茶会事件
1775年〜1783年に起こった戦争アメリカ独立戦争
ジェファソンらが起草した()宣言を全会一致で採決した。アメリカ独立
連邦議会、大統領を代表とする連邦政府、連邦裁判所による()の原則が定められた。三権分立
1789年には連邦政府が発足し、()が初代大統領に選ばれた。ワシントン
各州に大幅な自治を認めながらも、政府の権限を強化する考え方。連邦主義
奴隷制の存続や、保護貿易と自由貿易の選択などをめぐって対立し、1861年、北部と南部の諸州間で()戦争がおきた。南北
()大統領が1863年に奴隷解放宣言を発布して国内外の世論を味方につけた。北部が勝利して国内を統一すると、以後、アメリカでは工業化が進んだ。リンカーン
フランスでは、ブルボン朝のもとで絶対王政が展開された()アンシャン=レジーム
財政難により1789年、聖職者・貴族・平民の代表を集めた()が招集された。三部会
第三身分の平民たちは()をつくり憲法制定に取り掛かった。国民議会
国王や貴族は反発し、()牢獄の襲撃を機に、争いはフランス全国へ広がった。バスティーユ
国民議会は封建制の廃止を宣言し、自由や平等・諸権利をうたった()宣言を採択し、1791年憲法を制定した。人権
新たに成立した立法議会は王権停止を宣言して解散し、これを引き継いだ()は王政廃止と共和政の樹立を宣言した。国民公会
革命の理想を徹底しようとする()派が国民公会の主導権を握り、1793年に()夫妻を処刑した。ジャコバン, ルイ16世
ルイ16世夫妻を処刑したことによりヨーロッパ各国の王室は危機感を募らせ、イギリスの呼びかけで軍事介入を始めた()。対仏大同盟
文化や言語・自由や権利などの理念を共有する()という共同意識が人々のあいだに普及した。国民
ブルジョワジーによる()が誕生したが、政局は安定しなかった。総裁政府
国民軍を率いてイタリアやエジプトへの遠征で功績をあげた()が、クーデターによって統領となり、のちに皇帝となった。ナポレオン
1804、所有権や経済活動の自由などを盛り込んだ民法典()を制定ナポレオン法典
ナポレオンの大陸支配が崩壊すると1814年、オーストリア外相メッテルニヒの主導で()会ぎが開かれ、ヨーロッパをフランス革命以前の状態に戻すことが決まった()。ウィーン, ウィーン体制
ウィーン体制下では自由主義・()運動が抑圧されたため、諸国で騒乱が頻発した。ナショナリズム
七月革命(1830年)、二月革命(1848年)によって()が成立すると、その影響を受けて各地でナショナリズムや自由主義に基づく国民国家建設を目指す革命・独立運動がおこりウィーン体制は動揺した()。第二共和制, 諸国民の春
イタリア北部はウィーン会議後、オーストリア帝国の支配下に置かれ、イタリア統一と封建制打倒を目指した運動が広がった。()共和国が誕生したがすぐに崩壊し、統一戦争が始まった。ローマ
()らの活躍によって1861年、立憲君主制の()王国が誕生した。ガリバルディ、イタリア
ウィーン会議によって、複数の連邦と自由都市が連合して、()連邦が成立した。ドイツ
各地でドイツ民族の統一が叫ばれ、()運動がおこった。自由主義
プロイセン王国は()を導入し、()が首相兼外相となりドイツ統一を目指した。立憲体制, ビスマルク
軍政改革・軍備増強をすすめ、1866年の()戦争でオーストリア帝国を破り、翌年()連邦を結成した。さらに1870年の()戦争を経て、1871年に()帝国が誕生した。普墺, 北ドイツ, 普仏, ドイツ
ビスマルクはヨーロッパ諸国と同盟を結んで良好関係を築き、フランスを孤立させることに成功した()。ビスマルク外交
日本の自主性を強く打ち出し、外圧に対抗しようとする考え方。攘夷論
武力で開国を迫った欧米列強に対する攘夷論が高まり、()戦争や()戦争などが起きた。薩英、下関
薩摩・長州などを中心とした諸藩は、天皇を中心とする政治体制を目指し、1867年10月の()、12月の()によって、約260年以上つづいた江戸幕府は幕を閉じた大政奉還、王政復古の大号令
大政奉還、王政復古の大号令によって幕を閉じた江戸幕府の一連の政治改革を()(当時は御一新)とよぶ。明治維新
幕府側は薩長の動きへの不満から挙兵し、翌年まで内乱状態がつづいた( (戦争))。戊辰
1868年3月には、()天皇が神々に誓約して()が布告され、抗議世論の尊重や開国和親などを国是にした新政府の大方針が示された。明治、五箇条の御誓文
1868年4月には()を公布し、太政官を中心とする政府機構が整備された。政体書
1868年7月には江戸を東京と改め、9月には元号を明治と改元して天皇一代に同じ元号を用いる()制を採用した。一世一元
地方には依然として大名家を中心とする藩が残っていたので1869年の版籍奉還につづき、1871年に()を断行し、中央集権化を実現させた。廃藩置県
旧大名(大名華族)とその家臣(士族)は実権を失ったが、()(家禄と賞典禄)は保障された。秩禄
1873年に希望者に一時金と交際を与え(()の法)、1876年には対象者すべてに()を発行して、秩禄制度を廃止した()。秩禄奉還, 金禄公債証書, 秩禄処分
1870年に平民が苗字を名乗ることが許可され、翌年には身分制度が廃止され、公卿と大名を()族、武士を()族、その他を()とした。平民と華族・士族の結婚も認められた。華, 士, 平民
1872年、我が国初の近代的戸籍が作成された(()戸籍)。壬申
1871年、金本位制をうたう()条例を定め、十進法による円・銭・厘からなる全国画一の貨幣制度を導入した。新貨
暦については、西洋諸国にならって()暦を採用し、1873年元旦から変更した。太陽
1653年()、護国卿に就任し軍事独裁制へクロムウェル
1673年、国王のカトリック擁護に対抗し、議会は管理を国教徒に限定する()法を制定審査
1680年ごろ、()党(王権)と()党(議会)の2大党派の成立トーリー, ホイッグ
1721年、「王は()すれども統治せず」責任内閣制成立君臨