ログイン

戦国武将 2

戦国武将 2
117問 • 3年前
  • Naoyuki Shimizu
  • 通報

    問題一覧

  • 1

    Ⅰ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 慶長9年(1604年)、家康より黒印制書を得てアイヌ交易の独占権を公認され、さらに従五位下伊豆守に叙位・任官された。これらを以って、大名格とみなされ、松前藩の初代藩主とされるが、正式な家格は交代寄合である。 慶長15年(1610年)と慶長17年(1612年)の二回にわたり、徳川家康に海狗腎(オットセイ)を献上している。

    蠣崎慶広

  • 2

    Ⅱ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 関ヶ原の戦いでは領国の周囲がすべて東軍という状況から三男・信枚と共に、東軍として参加した。しかし、嫡男・信建は豊臣秀頼の小姓衆として大坂城にあり、西軍が壊滅すると三成の子・重成らを連れて帰国している。これらを考えると、つまりは真田氏らと同様の、両軍生き残り策を狙ったとも考えられる。そのためか戦後の行賞では上野国大舘2,000石の加増に留まった。

    津軽為信

  • 3

    Ⅲ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 一族同士で争うようになったうえ、津軽為信の独立を止めることができずに、津軽地方を失うことになった。 さらに1582年、争いが起こり、彼の家は完全に分裂してしまう。 そこで、新たに当主と なった彼は、豊臣秀吉に従うことで分裂した家を再建しようとした。 1591年、 一族の九戸政実が反乱を起こすが、 秀吉から援軍を受けるなどして鎮めた。

    南部信直

  • 4

    Ⅳ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 残した連歌の数は現存33巻・248句にのぼり、これは同時代諸侯の中では細川幽斎に次ぐ多さである。同席者も里村紹巴をはじめとする錚々たる顔ぶれであり、後陽成天皇から発句を賜ったこともあった。天正20年(1592年)2月には、京の連歌師たちの求めに応じて江口光清に発句を届けさせている。また、連歌の研究書『連歌新式注』一巻も執筆しており、同時代の連歌の主要作家とされる。代表作に「梅咲きて 匂い外なる 四方もなし」などがある。和歌や手紙の文体・書体も秀でている。

    最上義光

  • 5

    Ⅰ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 独眼竜の三代前の当主。分国法として有名な塵芥集を制定したことでもよく知られている。十四男七女という多くの子どもに恵まれ、政略結婚や養子縁組を通じて奥州の宗主として君臨した。

    伊達稙宗

  • 6

    Ⅱ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである」という料理観が残されている。この金言は和・洋・中を問わず後世の多くの料理人に感銘を与え、宮城調理製菓専門学校のほか、服部栄養専門学校などでも校訓に引用されている。こうした料理に対する情熱から、今日の仙台名物が彼による考案によるものだとする説がある。ずんだ餅や笹かまぼこが代表例だが、笹かまぼこについては、宮城県水産試験場の資料では江戸時代中期に生まれたものとされている。

    伊達政宗

  • 7

    Ⅲ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 一度隠退して会津黒川城から大沼郡岩ケ崎城に移り止々斎と号したが,その子盛興の死に伴い再び政務をみた。天正5年ごろから佐竹氏と協調して大連合し,伊達,田村勢力と対抗する構図を形成。領国政策では徳政令の発布や流通統制によって領内支配を強化した。墓は会津若松市宗英寺。

    蘆名盛氏

  • 8

    Ⅳ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 北条氏と関東の覇権を巡って争った。領内の金山に最新の冶金技術を導入して豊富な資金力を実現した。関東一の鉄砲隊を備えたという。彼は智勇に優れていた。かつて北条軍と戦ったときなどは、7人の敵を一瞬で斬り伏せたとまで言われている。

    佐竹義重

  • 9

    Ⅰ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、西軍敗北後、父・義重はただちに家康に戦勝を祝賀する使者を送り、さらに上洛して家康に不戦を謝罪した。これに対する秀忠からの礼状は届いたが、家康からの礼状があったか否かは不明である。しかし彼は居城である水戸城を動かず、そのまま2年が経過した。上杉氏、島津氏の処分も決定し、処分が済んでいないのは彼のみとなった。その上、謝罪すら行っていなかったが、それでも動かなかった。しかし、義重の説得により1602年4月に上洛し、ようやく家康に謝罪した。

    佐竹義宣

  • 10

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 古河公方側の有力武将である房総の千葉氏を抑えるため、両勢力の境界である当時の利根川下流域に城を築く必要があった。武蔵国豊嶋郡に築城した。日枝神社をはじめ、築土神社や平河天満宮など今に残る多くの神社を周辺に勧請、造営した。城主となってからは、ここで兵士の鍛錬に勤しみ、城内に弓場を設けて士卒に日々稽古をさせて、怠ける者からは罰金を取りそれを兵たちへの茶代に充てたという。

    太田道灌

  • 11

    Ⅲ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 永禄4年(1561年)越後国の上杉謙信の北条氏康攻めに呼応したり、永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦で北条綱成と戦うなど、父と同様に後北条氏と徹底して対立した。しかし、この第二次国府台合戦で北条軍に大敗して安房国に退却し、更に北条水軍などの攻撃と正木時忠、土岐為頼、酒井敏房ら上総国の有力領主の離反によって上総国の大半を喪失してしまう。

    里見義弘

  • 12

    Ⅳ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 1491年(延徳3)堀越(ほりこし)公方足利茶々丸(ちゃちゃまる)を討って韮山(にらやま)城(静岡県伊豆の国市)に移り自立、伊豆国を制圧した。ついで95年(明応4)扇谷上杉氏の重臣大森藤頼(ふじより)の小田原城(神奈川県小田原市)を攻略して相模(さがみ)に進んだ。彼はある時、ねずみが2本の大杉を食い倒してのち虎になった夢をみ、ねずみを子(ね)年生まれの自分自身に、2本の大杉を山内と扇谷の両上杉氏になぞらえて、めでたい夢と喜んだという。

    北条早雲

  • 13

    Ⅰ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 小田原の城下町のさらなる発展のため全国から職人や文化人を呼び寄せ大規模な都市開発を行い清掃にも気を配り、その結果、小田原の城下町は東の小田原・西の山口と称される東国最大の都市となった。上水道(小田原早川上水)を造り上げ、町はゴミ一つ落ちていないとまで評されるほどの清潔な都市であった。

    北条氏康

  • 14

    Ⅱ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 越後を統一したほか、関東や北信地方、北陸地方(越中国以西)に度々出兵した。戦国時代でも戦上手とされ、その戦績から後世、軍神や、「越後の龍」 などと称された。内乱続きであった越後国を統一し、安定と繁栄をもたらした。戦った戦国大名・武将は数多く、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、小田氏治、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に、武田信玄との5回にわたる川中島の戦いが知られている。

    上杉謙信

  • 15

    Ⅲ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 越後国と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え、信濃・駿河・西上野および遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領した。次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いたものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。

    武田信玄

  • 16

    Ⅳ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 「99箇条家訓」と呼ばれるものを残している。 徳川家のあいだでは江戸時代にこの家訓が武士の心得として広まっていった。 江戸時代には、藩士や儒学者などから、まことの武士と言われるまで、人気を博している。1561年に36歳の若さで他界した。敵であった上杉謙信もその死を惜しんだ。

    武田信繫 (典厩)

  • 17

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 長篠の戦いで織田軍や徳川軍と戦い、仲間に裏切られて最後を迎える。

    武田勝頼

  • 18

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 戦国時代の武将で、武田信玄の伝説的軍師として広く知られている。諸国を巡って兵法や築城術などを極めたが、色黒で隻眼、背が低く、手指や足が不自由と、ひどく風采の上がらない見た目だったため、40歳を過ぎても牢人のままであった。

    山本勘助

  • 19

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 清和源氏流れをくむ、北信濃最大勢力の国人である。 1541年に武田信玄の父親の信虎と同盟を組み、真田幸隆を追い出して、佐久、小県、更級、植科、高井、水内郡を支配する。 その後,真田幸隆が、昔の領土を、返してもらおうと武田晴信(信玄)に近づき、武田家とは、当主が、武田晴信(信玄)に代が替わってから、対立した。

    村上義清

  • 20

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 公領や公家領・寺社領の押領を多く行ったため、当時の権力層である「寺社」「公家」(寺社本所領)にとってはまさに仇敵だった。当時、寺社が得意としていた人々の信仰心を利用した呪殺目的の護摩祈祷も、改名など呪詛回避を熟知する彼には通じず、一例として、寛正5年に発生した興福寺が荘園として越前領内に所有していた河口・坪江荘を巡る争いでは、一度は興福寺の安位寺経覚を通じて謝罪の起請文を提出するも、その後も侵犯を繰り返し、2つの荘園を半済することに成功している。公卿の1人で前中納言だった甘露寺親長は、日記の中で「天下悪事始行の張本」と評している。

    朝倉敏景

  • 21

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 子宝に恵まれず、他に兄弟もいなかったため、外交などの立場は非常に弱く、他国に人質を送る際にも家臣の子を送らざるを得なかった。また、後継ぎが不在なことが同族争いを勃発させる要因にもなっていた。戦よりも文芸に凝っていたようで、歌道・和歌・連歌・猿楽・作庭・絵画・茶道など多くの芸事を好んで行っていた記録が残る。特に茶道には凝っていたようで、一乗谷からは現在も多くの茶器(当時は高価な輸入品であった唐物茶碗や青磁花瓶、タイ製の壷など)が出土している。

    朝倉義景

  • 22

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 「うつけ者」と評されていた信長が、多数の鉄砲を護衛に装備させ正装で訪れたことに大変驚き、信長を見込むと同時に、家臣の猪子兵助に対して「我が子たちはあのうつけの門前に馬をつなぐようになる」と述べた。 岐阜のまちづくりの基礎を成した道三の遺徳を偲び、昭和47年(1972年)から岐阜市にて毎年4月上旬に道三まつりが開催されている。なお、岐阜城内に展示されている道三の画像には、信長室寄進の文字が確認される。

    斎藤道三

  • 23

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 積極的に領国経営を進め、土地と農民を直接掌握する検地を実施するなど守護大名から戦国大名に脱皮していった。そしてそれらを具体化した法典は、後に武田信玄がつくった「甲州法度之次第」に深い影響を与えるなど画期的なものであった。 大栄6年6月23日(1526年8月1日)駿府にて死去。葬儀は増善寺にて盛大に執行され、7000人の僧侶が参加。

    今川氏親

  • 24

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者。 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させた。戦国時代における最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長軍に敗れて毛利良勝に討ち取られた。

    今川義元

  • 25

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 斎藤道三との対立で苦戦する織田家の間隙をついて、8千名余りと称する軍で尾張に侵攻。天文4年(1535年)12月、尾張に侵入し織田信秀の弟の信光の守る守山城を攻めたが、初戦に大敗し野営を張る。この守山滞在の最中の12月5日(12月29日)大手門付近で突如、家臣の阿部正豊(弥七郎)に両断され即死した。これを「森山崩れ(守山崩れとも)」という。享年25。徳川家康の祖父にあたる。

    松平清康

  • 26

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 家督相続からまもなく、天文元年(1532年)主家の織田達勝と清州三奉行の一人の小田井城の織田藤左衛門と争ったが、講和した。この和議を固めるのと自らの威勢を示すため、翌、天文2年(1533年)7月京都から蹴鞠の宗家飛鳥井雅綱を招き、山科言継も同道してまず7月8日勝幡城で蹴鞠会を開催し、賓客たちと数100人の見物衆も含め多くが集まり、7月27日には清州城に舞台を移し、連日蹴鞠会を実施した。 織田信長の父。

    織田信秀

  • 27

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 戦国時代の武将織田信長の妹を娶 (めと) る。 六角氏の内紛に乗じ信長に協力して近江南部を平定し,足利義昭 (よしあき) の上洛を護衛した。 のち1570年姉川の戦いでは朝倉義景に味方して信長と戦って敗れ,'73年小谷城で自刃した。

    浅井長政

  • 28

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 室町幕府を支える有力大名細川氏の重臣として畿内で力をたくわえ、やがて主君の細川氏、さらには室町将軍をもしのぐ権力者へとのぼり詰める。 その勢力圏は、最盛期には山城・大和・摂津・河内・和泉の五畿内、そして阿波・淡路・讃岐・丹波・丹後・播磨東部にまで及んだ。

    三好長慶

  • 29

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 信長が徳川家康に紹介する際に、このようにいった。 「この老人は常人では一つとして為せないことを三つもしておる。主家(三好家)を乗っ取り、将軍(足利義輝)を誅殺し、そして奈良の大仏を焼いた。まったく油断のならぬ人よ」 松虫を飼育し、育て方を工夫したところ三年も生かすことができた。 そのことから「松虫でさえ飼い方次第ではこのように長生きする。人間は日々養生を心掛ければ長生きできるに違いない」といい、日々の養生に気を配った。また中風(脳血管障害などによる麻痺や半身不随)を予防するために、毎日決まった時間に頭のてっぺんに灸を据え、この習慣は自害する直前までやっていた。

    松永久秀

  • 30

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 戦国時代随一の文化人ともいわれ、歌道、茶道はもちろん、蹴鞠もたしなむ。 『耳底記(にていき)』の中では、太鼓を披露し、包丁さばきも凄かったと記されているほど。 鯉、鱸(すずき)、鷺(サギ)などを、幽斎自らがさばいて披露した記述もある。

    細川幽斎 (藤孝)

  • 31

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 人生のほぼすべてを、キリスト教に捧げた戦国武将。「キリシタン大名」と呼ばれた人物は数多くいるが、家や領地を犠牲にしてまで信仰を貫いた大名は、彼ただひとり。その強烈な信仰心と影響力から、「伴天連の大旦那」(ばてれんのおおだんな)と呼ばれ、当時の日本におけるキリシタンの中で、中心的役割を担った。キリスト教に入信したのは、1564年(永禄7年)の12歳の頃。父親が、イエズス会の修道士「ロレンソ了斎」(ロレンソりょうさい)と仏僧の討論会を聞いたのが発端である。ロレンソ了斎は、仏僧による疑問を整然と論破。深く感銘を受けて、即座に洗礼を受けた。

    高山右近

  • 32

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせ、さらに荒木村重の謀反や毛利氏の援軍などの好条件も続いて、一度は織田軍を撃退したものの、やがて秀吉の有名な「三木の干し殺し」戦法に遭い、神吉城や志方城などの支城も落とされ、毛利氏からの援軍も途絶えて、遂に籠城してから二年後の1580年(天正8年)、城兵達の命を助ける事と引き替えに妻子兄弟と共に自害して果てたという。介錯は家臣の三宅治忠が行った。

    別所長治

  • 33

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 82年本能寺の変で明智光秀から誘われたが郡山を動かず、山崎の合戦後羽柴秀吉に参じた。そのため洞ヶ峠で山崎の合戦の形勢を観望し、日和見をしたという俗説を生んだ。日和見することを洞ヶ峠あるいは洞ヶ峠を決め込むと表現することがある。しかし、彼が洞ヶ峠に布陣したということについては、良質の史料では全く確認することができない。

    筒井順慶

  • 34

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 家臣に対しては非常に気を使う優しい人物であった。『塵塚物語』によれば、家臣が持ち物を褒めるとたいそう喜び、どんな高価なものでもすぐにその者に与えてしまうため、家臣たちは気を使って、褒めずに眺めているだけにしたと伝えている。ある時、家臣が庭の松の木なら大丈夫だろうと思い、松の枝ぶりをほめたところ、その松を掘り起こして渡そうとしたため、周囲の者が慌てて止めたという。それでも諦めず、とうとう切って薪にして渡したという。世人は「もったいないことだ」と話したが、全く気にもしなかったという。また、冬には着ている着物を脱いでは家臣に与えていたため、薄綿の小袖一枚で過ごしていたともいわれる。『塵塚物語』は「天性無欲正直の人」と評している。

    尼子経久

  • 35

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 尼子氏の家臣として活躍し“山陰の麒麟児”の異名をとり、存命中から「楠木正成より勝る」と言われたほど卓越した武勇のセンスをもっていた。 三日月の前立てに、鹿の角の脇立てをつけた冑を身につけた姿で知られ、美男子でもあったとされる。

    山中鹿介 (幸盛)

  • 36

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 その梟雄(きょうゆう)ぶりは、弟をして「兄は腹黒く、何をたくらんでいるか分からない。会うときは服の下に鎖帷子(くさりかたびら)を付けたものだ」と語るほど。常套手段は娘の婚姻を利用して信頼関係を結び、相手を安心させたあとに暗殺。かと思いきや、譜代の家臣を手にかけることはなく大切にしたという一面も見せた。

    宇喜多直家

  • 37

    Ⅰ 以下の文章の中で備中高松城主とは誰か、選択肢から選べ。 備中高松城の周りは湖のようになり、城は孤立。総大将の毛利輝元ほか、小早川隆景、吉川元春らが、着陣したときには既に時遅し。一面水びだしで、手が出せない状況だったという。一方で、秀吉からの降伏の勧めにも応じることなく、籠城を続けていた。そんな折、秀吉のところへ、6月2日に織田信長自刃したとの知らせが届く。本能寺の変である。秀吉は明智光秀を討つべく和睦を一気に進める姿勢を見せる。ただし、和睦の条件が合わない。合意できずにいたのが、備中高松城主の切腹であった。秀吉側は直接交渉する。すると、なんの躊躇もなく切腹に応じた。

    清水宗治

  • 38

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 戦国時代に郡山城を拠点として中国地方のほぼ全域を制覇し、一代で大国を築き上げた「戦国の雄」と称された戦国大名。 75歳で病死するまで二百数十回におよぶ合戦をくぐりぬけた。長男・隆元、次男・元春、三男・隆景に与えた教訓を与えた「三矢の訓」の逸話が有名。

    毛利元就

  • 39

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 戦国時代の武将毛利元就 (もとなり) の2男。 吉川氏の養子となる。 尼子氏平定など山陰の経略に名をあげ,弟小早川隆景とともに「毛利の両川 (りようせん) 」といわれた。 のち豊臣秀吉の九州征討に参加し,小倉の陣中で没した。正室の新庄局は不美人であったという逸話がある。宣阿の『陰徳太平記』巻十六「元春娶熊谷信直之女事」によると、児玉就忠が縁談を薦めた際に不美人と評判だった熊谷信直の娘を自ら望み、驚いた就忠が確認すると「信直の娘は醜く誰も結婚しようとはしないので、もし、娶れば信直は喜び、命がけで尽くすだろう」と話したとある。この嫁取りは勇猛で知られる熊谷信直の勢力を味方につけるための政略結婚であったと言われているが、その一方で自らを女色に溺れさせないように戒める意味もあったとされている。

    吉川元春

  • 40

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 1550年8月、フランシスコ・ザビエルを引見。ザビエルが汚れた旅装のままで面会に臨む、ろくな進物も持たない、また彼の放蕩ぶり・仏教の保護・男色などを非難したため、布教の許可は下さなかった。1551年4月下旬、ザビエルを再び引見。ザビエルは一行を美麗な服装で飾り、珍しい文物を献上した。この時は、ザビエルに対して布教の許可を与え、拠点として大道寺を与えた。 また、彼の時代には領土的に文化が爛熟した。しかし、文治政治に不満を抱いた家臣の陶隆房に謀反を起こされ、自害。

    大内義隆

  • 41

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 戦国時代の武将で、大内氏の家臣。 大内義隆への不満から反乱をおこし、大内義長を後継ぎにして、大内家の実権をにぎる。その後、毛利元就と対立。 2人の武将の対立は折敷畑の戦い(おしきばたのたたかい)を経て、厳島の戦いへと連なっていく。厳島の戦いは日本三大奇襲のひとつに数えられ、元就の智謀によって合戦は即座に片が付き、毛利の圧勝に終わった。

    陶晴賢 / 隆房(すえ はるかた / すえ たかふさ)

  • 42

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 国司家一条氏を追い出し、土佐を統一した。その後各地の土豪を倒して四国を統一した。しかし豊臣秀吉の四国征伐に降伏し、土佐一国の領有を許された。秀吉の九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役に従軍した。 天正19年(1591年)1月、浦戸湾に迷い込んだ体長9尋の鯨を数十隻の船団と100人余の人夫でもって大坂城内へ丸ごと持ち込み、秀吉や大坂の町人を大いに驚かせた。

    長宗我部元親

  • 43

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 朝鮮との交渉は結果的に失敗し、1592年からの文禄の役では舅・小西行長の一番隊に属して日本軍の最先鋒として戦った。文禄・慶長の役のために悪化した朝鮮との関係を修復するように徳川家康から命じられ、1609年に朝鮮との和平条約を成立させた(己酉約条または慶長条約)この功績を家康から賞され、幕府から独立した機関で朝鮮と貿易を行なうことも許されている。  義父の小西行長の影響を受けてキリシタンにもなっていた。洗礼名はダリオである。朝鮮の日本軍を慰問したグレゴリオ・デ・セスペデス神父は「極めて慎み深い若者で、学識があり、立派な性格の持ち主」と評している。

    宗義智

  • 44

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 文禄・慶長の役では、まず前進基地のひとつとして壱岐国に勝本城の築城を指示された後、宗氏と共に朝鮮通として期待され、嚮導役を任された。弟信実、子の久信と共に出征し、大村喜前(純忠の子)、有馬晴信、五島純玄ら肥前の諸将は小西行長の一番隊に属して渡海し、緒戦より7年間に渡って活躍した。鵲院関の戦い、蔚山城の戦い、順天城の戦い、露梁海戦などで功を挙げている。朝鮮の役では24戦無敗であり、あまり注目されていないが、抜群の戦歴を残している。慶長19年(1614年)に没した。享年66。熱心な真言宗徒で、領内におけるキリシタンの排除も行なった。自ら建立して葬られた最教寺には彼の像がある。

    松浦鎮信

  • 45

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 「五州二島の太守」の称号を自らは好んで用いたが、肥前の熊の異名をとった。1580年、島津と通謀した筑後の蒲池鎮漣を謀殺し、次いで柳川の鎮漣の一族を皆殺しにし、また天正11年(1583年)に赤星統家が隆信の命に背いた際、人質として預かっていた赤星の幼い息子と娘を殺したため、隆信は麾下の諸将の一部からも冷酷な印象で見られるようになる。 ポルトガル宣教師のルイス・フロイスは「余りの肥満体のため、馬にも乗れず、6人かつぎの山駕籠にのって指揮していた」と記している。 「分別も久しくすればねまる」という言葉を残している。「ねまる」とは「腐る」の意で、熟慮も過ぎると却って期を逃したり、悪い結果になる事もあるので、ここぞという時は迅速な決断力が必要である、という意味である。

    龍造寺隆信

  • 46

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 龍造寺隆信とは義兄弟にあたり、そのため隆信を諫言することが多かったといわれる。はじめのうちは隆信と仲が良く、隆信と並んで「龍造寺の仁王門」とまで称されたが、晩年の隆信が酒色に溺れると次第に疎まれて遠ざけられたという。秀吉に「天下を取るには知恵も勇気もあるが、大気(覇気)が足りない」と評されたという。

    鍋島直茂

  • 47

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 当初はキリシタンを嫌悪していたが、1580年に洗礼を受けてドン・プロタジオの洗礼名を持ち、以後は熱心なキリシタンとなった。1582年には天正遣欧少年使節を派遣。沖田畷の戦いにおいては、教皇から贈られた「聖遺物」を胸に懸け「大きな十字架を描いた上に我らの文字で聖なるイエズスの名を記した」軍旗を掲げて勇戦した。またこの合戦に先立って誓願を立て、長崎近傍の浦上の地をイエズス会に寄進した。1587年に秀吉が禁教令が出すまで、数万を超えるキリシタンを保護していたという。その後も個人的にはキリスト教信仰を守り続けていた。    

    有馬晴信

  • 48

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 当初は禅宗に帰依していたが、後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州6か国を支配して版図を拡げた。しかし、薩摩から北上した島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名となった。

    大友宗麟

  • 49

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 法号の由来は「道に落ちた雪は消えるまで場所を変えない。武士も一度主君を得たならば、死ぬまで節を曲げず、尽くし抜くのが、武士の本懐である」というものである[。このため現在「義」に篤い武人として評価されている。ある時、大友宗麟が凶暴な猿を手元に置き、これが家臣に飛び掛るのが面白くて何度もけしかけた事があった。毎日のように迷惑を掛けられた家臣は辟易し、大変困り果てた。これを聞いて、他の家臣と同じように宗麟の前へ出向いた。案の定、宗麟が猿をけしかけてきたので、鉄扇で叩き殺してしまった。驚く宗麟に「人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う」と諫言したので、宗麟は大変反省した。

    立花道雪

  • 50

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 徳川家康は本多忠勝に命じて、彼を大坂に招き、耳川の戦いの顛末を聞いた。かくかくしかじかと話をし、やがて退出した後、家康は「いやはや、かねて聞いていたより恐ろしい大将である、いにしえの楠木正成に勝るとも劣らない采配ぶりである」と感心したという。 また、ある時、彼は家康に合戦での手柄話を乞われた。「弟たちや家臣団を遣わせて合戦し、勝利をおさめたというだけであって、自分の働きなどひとつもない」と答え、家康は「自ら手を砕くことなく勝利を得ることこそ源頼朝に並ぶ大将の道」と感心している。

    島津義久

  • 51

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 江戸時代初期に国分地方(現鹿児島県霧島市国分)においてタバコの生産を奨励したといわれる(『大日本農功伝』) 貧しい土地柄で換金性の高い農産物の乏しかった南九州において、タバコの収入は以後貴重な薩摩藩の収入源となった。

    島津義久

  • 52

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 自室に歴史上の大悪人の肖像画を飾っていた。不思議に思った家臣が、なぜ悪人の肖像画を飾っているか問うと、「良い行いは、自らがしようと思えば出来る。だが、悪い行いというのは知らず知らずのうちにしてしまうものだ。常にこの連中の顔を見て、こいつらと同じ真似はするまい、そう心がければ、道を誤まることはない」と答えている。この時代の武将には珍しく、本人の当時の肖像画は残存していない。『要用集』下巻に「御画像・御影・御牌所は妙谷寺で、御廟所は福昌寺」とあり存在していたのは間違いないようだが、廃仏毀釈により同寺が廃寺となった際、またはそれに伴い大平神社へ移管された際に失われたようである。そのため容貌に関しては不明である。鹿児島県薩摩川内市の泰平寺に銅像がある。

    島津義久

  • 53

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 許三官仕込みの医術や茶の湯、学問にも秀でた才能を持つ文化人でもあった。また、家臣を大切にしていたので多くの家臣から慕われ、死後には殉死禁止令下であったにも関わらず13名の殉死者も出すに至っている。敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山に建設している。愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格だったといわれている。朝鮮在陣中に妻に送った手紙の中に、「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、家族を心から愛する人となりが窺える。

    島津義弘

  • 54

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 1543年、ポルトガル商人が乗った明船が種子島に漂着した。この南蛮商人は、日本人がはじめて見る鉄砲を持っていた。16歳だった彼は射撃の実演を見てその威力に着目し購入を決断する。そして購入した二挺のうち一挺を鍛冶職人八板金兵衛に調べさせて国産化を命じ、金兵衛は苦心の末に、日本人の手による銃の製造に成功した(もう一挺は島津氏を通して、室町幕府将軍足利義晴に献上)。伝来の場所から鉄炮は種子島銃とも呼ばれ、戦国期の日本の戦場に革命をもたらした。

    種子島時尭

  • 55

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 在位中の1609年(万暦37年、慶長14年)に薩摩藩の島津氏に侵攻され、降伏した。以後、琉球は日本(薩摩藩)に属し、日本の意向で貿易のため明にも属している形をとらされることになる。彼は薩摩藩によって江戸に連行され、征夷大将軍の徳川秀忠に、駿府(すんぷ)では徳川家康に謁見、後に琉球に戻された。 琉球では彼の統治の時代、浦添から首里までの道が整備され、西原間切と首里の境界である平良川に石造の太平橋が築かれた。

    尚寧

  • 56

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 ルイス・フロイスのは評価は以下の通りである。 「信長の重立ちたる将軍二人中の一人」 「はなはだ勇猛な武将であり、一生を軍事に費やした人」「信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人」 「彼は禅宗であるが、他の宗旨を憎まず」 フロイスたちの越前でのキリスト教の布教については、いっさい妨害はしないが手助けもしない、教えが広まるかどうかは宣教師たちの「テガラシダイ(手柄次第)」だと述べたという。

    柴田勝家

  • 57

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 この人物は名刀「あざ丸」を所有していたことがあった。しかし、それを手に入れてからというものの眼病に悩まされるようになった。実はこの刀はかつて熱田神宮の神職でもあった織田方の武将である千秋季光の所有していたものであり、加納口の戦いで千秋が戦死した際に斎藤道三の家臣である陰山一景(掃部助)が「あざ丸」を鹵獲したものの、直後の織田方との戦いで陰山は両目を射抜かれてしまった、といういわくつきの刀剣であった。そこで周囲の人々の助言に従って熱田神宮へ「あざ丸」を奉納し、以降は眼病に悩まされなくなったという。

    丹羽長秀

  • 58

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 夜が更けるのを待って少数の近臣と共に勝龍寺城を脱け出し、近江坂本城を目指して落ち延びようとした。 坂本城には光秀の妻子もいた。 しかし、山科小栗栖にさしかかった時、竹薮から突き出された竹槍に刺されて重傷を負い、その場で自刃して果てた。三日天下という四字熟語は、短期間権力を握ったことに由来した言葉。 たった13日間という短い期間だけ権力を握る。 3日というのは短期間を表す言葉。

    明智光秀

  • 59

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 豊臣秀吉が覇権を握ってからは、大坂で茶人として復帰し、千利休らと親交をもった。しかし、有岡城の戦いでキリシタンに恨みを持っていたため、小西行長や高山右近を讒訴して失敗。秀吉の勘気を受けて長く引見を許されなかった。さらに、秀吉が出陣中、秀吉の悪口を言っていたことが北政所に露見したため、処刑を恐れて出家した。

    荒木村重

  • 60

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 『絵本太閤記』が何らかの史実に基づいてこの場面を描いたのかは不明であるが、これによると、織田信長に拝謁した時に「摂津国は13郡分国にて、城を構え兵士を集めており、それがしに切り取りを申し付ければ身命をとして鎮め申す」と言上した。これに対して、信長は腰刀を抜き、その剣先を饅頭を盛っている皿に向けて饅頭3、5個を突き刺して、「食してみろ」と目の前につき出した。周りにいたものは青ざめてしまったが「ありがたくちょうだいします」と大きな口を開け剣先が貫いた饅頭を一口で食べ、それを見ていた信長は大きな声を上げて笑い、その胆力を賞して摂津国を任せたという。

    荒木村重

  • 61

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 鉄砲の名手であることを聞き付けた織田信長は、自身立会いのもと、射撃の検分を実施。この時、約50m離れた約30cm四方の的に、火縄銃の弾丸を100発撃ち込み、72発が命中。これにより、織田信長に召し抱えられるようになった。なお、堺は当時、鉄砲の生産地であった。1575年の長篠の戦いでは、織田信長と徳川家康の連合軍が武田信玄の後継者武田勝頼の騎馬隊と設楽原(したらがはら・現在の愛知県新城市)で激突。騎馬の侵入を防ぐ馬防柵(ばぼうさく)を築き、3,000丁もの鉄砲を擁する圧倒的な兵力で、武田軍を大敗させる。このとき、鉄砲隊の総指揮にあたったのが、鉄砲を知り尽くした彼であった。

    滝川一益

  • 62

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長や豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍し、志摩国を支配して3万5000石の禄を得た。こうした経歴とその勢威から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称をとった。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、戦後家康に許されたが、答志島で自害した。海賊の大将として荒々しい人物のイメージが強いが、茶道に造詣が深く、津田宗及の茶会にしばしば参加したり、逆に自身が宗及を招いて幾度も茶会を催すなどしており、数寄者としての側面もあったようである(『宗及記』)

    九鬼嘉隆

  • 63

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 石山本願寺攻めでは、大砲をのせた鉄張りの船を製造して、毛利軍を打ち破った。この時堺港で鉄張り船を見た南蛮人は大変驚いた。九鬼水軍は小田原城の北条氏攻めと豊臣秀吉の朝鮮出兵の時も活躍した。朝鮮出兵の時は伊勢国大湊で製造した日本丸と云う巨大船団を率いて九鬼水軍の長として戦った。日本の船団の中心となった日本丸は長さ33メートル・漕ぎ手100人だった。日本丸は豊臣秀吉が名づけた。 子孫に九鬼隆一、九鬼隆義、九鬼周造、九鬼隆平(福岡ソフトバンクホークス捕手)、九鬼紋七(九鬼産業創業者)などがいる。

    九鬼嘉隆

  • 64

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 槍術に優れ、その秀でた武勇から、「鬼武蔵」と称された。武名に似合わず小兵と伝わり、赤穂大石神社に伝わる甲冑の大きさは極めて小さく、それを裏付けている。 非常に気性の激しい人物で、他の織田家臣団の奉公人を些細なことで怒りに任せて槍で突き殺したり、同僚に暴言を吐くなどして諍いを起こすことも少なくなかった。「人間無骨」の銘が彫られた二代目和泉守兼定(之定)作の大身の十文字槍を愛用していた。これは、この槍の前では「人間の骨など無いも同然」という鋭い突き味を持っていた事から名付けられたとされ、事実、初陣でこの槍を振るい、27にも及ぶ首級を挙げたという。

    森長可

  • 65

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 1587年の九州征伐で功をあげたことを契機に、その後の九州国分では肥後一国を与えられた。秀吉は早急な改革を慎むように指示したとも言われるが、病を得ていたために、早速に検地を行おうとするが、それに反発する隈部親永を中心とする国人が一斉蜂起し、これを自力で鎮めることができなかった(肥後国人一揆)。 1588年2月、謝罪のため大坂に出向いたが、秀吉に面会を拒否され尼崎に幽閉される。秀吉は安国寺恵瓊による助命嘆願に耳をかすこともなく、加藤清正を検使として、切腹を命じた。切腹の時、短刀を横一文字に引いたあと、臓腑をつかみ出して天井に投げつけたといわれる。

    佐々成政

  • 66

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 「早百合(さゆり)」と言う美しい側室がいたとされる。この早百合を深く寵愛してはばからず、早百合は懐妊する。それが嫉妬を呼んだか、ある時、城を留守にした時に、「早百合が密通している。お腹の中にいる子どもは彼の子ではない」と言う噂が流れた。帰城して、これを聞くと、烈火の如く怒り、有無を言わさず早百合を神通川の川沿いまで引きずり、髪を逆手に取り宙に引き上げ、殺してしまった。それだけでなく、早百合の一族18人全ての首をはね、獄門に磔にしてしまう。

    佐々成政

  • 67

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 三間半柄(約6m30cm)の長く派手な造りの槍を持ち歩き、初陣以降、緒戦で槍先による功を挙げた武辺者であったため、槍の又左の異名で称えられた。 初陣した萱津の戦いでは、合戦の際に目立つ様、自ら朱色に塗った上記の三間半柄の槍を持って首級ひとつを挙げる功を立て、信長からは「肝に毛が生えておるわ」賞賛された。元服直後に参戦した稲生の戦いでは、合戦中に敵方の宮井勘兵衛により右目の下に矢を受け、味方が引くことを促すも「まだ一つも首級を挙げてない」と顔に矢が刺さったまま敵陣に飛び込み、弓を射た宮井本人を討ち取る功を立てた。 細身で端正な顔立ちの美貌で知られた。その容姿のために信長から寵愛を受けていた。 男性の平均身長が157cm程度の時代に6尺(約182cm)を誇る類稀なる恵まれた体格の持ち主で、前述のように顔も端正であったことから、非常に見栄えのいい武将であったと言われている。

    前田利家

  • 68

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 本能寺の変の後、豊臣秀吉に仕え、茶人として頭角を現す。ついには「わび茶」の完成者・千利休の高弟「利休十哲」に数えられるまでになり、武家茶道「有楽流」を確立。さらには彼の屋敷があったとされる町に「有楽町」(東京都千代田区)という名まで付けられた。

    織田長益(有楽斎)

  • 69

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている。また、本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという。また、指が1本多い多指症だったという記録がある。右手の親指が1本多く、信長からは「六ツめ」とも呼ばれていた。多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、周囲から奇異な目で見られても生涯六指のままで、天下人になるまではその事実を隠すこともなかったという。しかし天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせたりした。

    豊臣秀吉

  • 70

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 ルイス・フロイスは、外見以外については、 優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。 極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。 抜け目なき策略家であった。 彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた。 ほとんど全ての者を汝(うぬ)、彼奴(きゃつ)呼ばわりした。 などと記している。

    豊臣秀吉

  • 71

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 通称の「小六」の名で広く知られる。 尾張統一を果たした織田信長の配下となり、自分より11歳も若い豊臣秀吉の側近として軍事面で活躍。 一方で優れた政治手腕を発揮し、秀吉の天下取りに大きく貢献した。  彼の子孫のひとりが明治天皇に拝謁するため宮中に参内して応接室で天皇を待っていた際、愛煙家だった彼は卓上に置いてあった煙草を一本失敬した。 その後入室した明治天皇は煙草が1本なくなっていることに気づき「先祖は争えぬのう」と「盗賊」だったといわれる先祖を引き合いにしたジョークを言ったという。

    蜂須賀正勝

  • 72

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 天才軍師の人物像が固まり、現在の人気に至っている。しかしながら『信長公記』などに記されている記述は少なく実態はよく分かっていない。また、秀吉の正式な家臣であるという記述も一次史料には見当たらず織田家から秀吉に付けられた与力武将の一人であると見られている。 『太閤記』や『常山紀談』などによると、体が弱く見た目は痩身で女性のようであり、出陣するときも静かに馬に乗っているだけだったという。容貌が婦人のようであったことから、主君の斎藤龍興をはじめとする斎藤家臣団から侮られ、龍興の寵臣である斎藤飛騨守に櫓の上から嘲弄され、小便を顔にかけられたことがあった。数日後、飛騨守が龍興居室の宿直を務めていたとき、稲葉山城に詰めていた弟・重矩の看病のためと称して武具を隠した箱などをもって入城し、そして重矩の居室で武装して宿直部屋に居た飛騨守を斬殺して稲葉山城を乗っ取ったとされている。

    竹中重治 (半兵衛)

  • 73

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という3人の天下人に仕えた。 戦わず交渉で敵を降伏させるという希有な才能に長け、軍師として秀吉の天下統一に大きく貢献した。 また、福岡城の築城や町の区画整理に関わるなど、福岡にゆかりがある。 高山右近や蒲生氏郷らの勧めによってキリスト教に入信し「シメオン」の洗礼名を与えられた。

    黒田如水(官兵衛)

  • 74

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 頭部に醜い瘡があったと言われる。これは有岡城にて投獄されていたときに患ったものとされる。長期に渡って劣悪な環境の土牢に押し込められていたため、救出された際に足腰が立たず、背負われて城を脱出したとされる。なお、左脚の関節に障害が残り、歩行や騎行がやや不自由になり、以後は合戦の指揮も輿に乗って行なうようになったとも言われるが、これの最も古い出典は大正時代の『黒田如水傳』である。 また、風流人で和歌や連歌などをたしなんでおり、幼い頃から源氏物語などを読み母親の明石氏などの影響もあり教養深かったとされる。

    黒田如水(官兵衛)

  • 75

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 幼少期から数々の武勇伝をもつ。 子どもの頃に大人と喧嘩をしたときは鑿で相手を叩きのめしたことや、無類の大酒呑みで酒癖が悪かった。泥酔して家臣に切腹を命じ、翌朝になって間違いに気付いたがもはや取り返しがつかず、その家臣の首に泣いて詫びたという逸話もある。 安芸広島に入国する際に船に地嵐と呼ばれる風が吹いたため、「国入りの初めに地が荒れてよきものか」として何の罪もない水主(船頭)を斬り捨てた。

    福島正則

  • 76

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 藤堂高虎や黒田孝高と並ぶ築城の名手として知られ、熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わった。また飯田直景、大木土佐らと穴太衆を用いて領内の治水事業にも意欲的に取り組んだ。この結果、現在も遺構が多く存在する。その土木技術は非常に優れており400年以上経った現在も実用として使われている遺構も少なくない。このとき莫大な人手をまかなうため男女の別なく動員したが、給金を払い必要以上の労役を課すことなく、事業の多くを農閑期に行う事によって農事に割く時間を確保したという。

    加藤清正

  • 77

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 キリスト教宣教師たちは「この若者は叔父とはまったく異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった」「穏やかで思慮深い性質である」などと記している。また、古筆を愛し、多くの公家とも交流を持つ当代一流の教養人でもあった。天正16年以前に『源氏物語』を書写させて所持していた。学問の上達ぶりを賞賛する公家の手記が現存する。一方、在野の学者である藤原惺窩などは彼を低く評価し「学問が穢れる」と相手にしなかったといわれている。

    豊臣秀次

  • 78

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 茶湯に深い理解があり、千利休に師事し、利休七哲の一人(筆頭)にまで数えられており、利休からは「文武二道の御大将にて、日本におゐて一人、二人の御大名」と評された。千利休の影響を強く受けており、桑田忠親は「彼が如何に利休に私淑していたかは、その筆跡が利休のそれに酷似していることによっても分かるであろう」と指摘している。利休が処罰された時、利休の子・千少庵は彼のもとに逃れて、一年半ほど庇護を受けた。 またある時、1万石の約束で召し抱えた橋本惣兵衛という家臣が酒宴の際に「自分は子を多くもっておる。10万石をくれるとあらば、1人くらい川に捨てても構わん」と豪語した。彼はこの発言を耳にして激怒し、惣兵衛を呼び出し「そんなことを言う人間は人間の道から外れている。お前の給与は1000石に減らす」と言い、取り分を1000石に減らしたという。

    蒲生氏郷

  • 79

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 中国地方を治めた武将毛利元就の三男。 毛利家の発展に尽力した人物。 水軍の指揮官としての能力に秀でていた彼は「厳島の戦い」で陶晴賢(すえはるかた)の水軍を破り、毛利家の勝利に大きく貢献した。「分別とは何か」と質問した黒田長政に対し「長く思案して遅く決断する。分別の肝要は仁愛で、仁愛を本として分別すれば、万一思慮が外れてもそう大きくは間違わない」と答えた。

    小早川隆景

  • 80

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 豊臣秀吉、徳川家康らに仕え、関ヶ原の戦いの小山評定において率先して徳川方に従った功績により、土佐国9万8千石を与えられた。その後、高直しにより20万2,600石に加増された。身体は太り過ぎで、目が少し赤く、志は広く、性質は温和で、自分のことは語らず、諸士に対して情け深く、礼儀正しく会釈をし、遊学を事とせず、部下を愛し、常に言葉は和やかで、口数は少ない。しかし戦場では多弁になり、大声で叱咤し、言葉もはっきりしている。平常食事をする時、箸先をつけられるが、まことに上品である。酒は盃に二、三杯を限度として、茶の湯や能はわずかにもて玩ぶ程度であったといわれている。

    山内一豊

  • 81

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 室町・戦国時代の日本の医師。後世派医学の開祖であり、広く医聖と称された。 曲直瀬道三・永田徳本などと並んで日本における中医学の中興の祖である。関東一円を往来して医療を行い多くの庶民を病苦から救った。足利学校で医学を学び、23歳の時に明国へ12年間留学し、李医学や朱医学を学んだ。 名医・曲直瀬(まなせ)道三は彼から医学の手ほどきを受けた。

    田代三喜斎

  • 82

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 日本医学中興の祖として田代三喜・永田徳本などと並んで「医聖」と称される。1584年、豊後国府内でイエズス会宣教師オルガンティノを診察したことがきっかけでキリスト教に入信し、洗礼を受ける(洗礼名はベルショール)当代第一流の文化人でもあり、特に茶の湯のたしなみが深かった。宮本義己は道三の茶の湯執心の一因が禁裏や当世の有力者との交際を確保するための必要な手段であったと分析している。著書は『啓迪集』以外にも『薬性能毒』『百腹図説』『正心集』『指南鍼灸集』『弁証配剤医灯』『黄素妙論』『雲陣夜話』など数多く、数百人の門人に医術を教え、名医として諸国にその名を知られた。

    曲直瀬道三

  • 83

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 本草学にも通じ、103歳の頃に甲斐における葡萄栽培法の改良(ぶどうの棚架け法)も行ったとする伝説もある。江戸時代に入ったのち、将軍徳川秀忠の病を治癒し、その際も報酬を受けずに立ち去ったと言われるなど、その人生は謎と伝説に包まれている。一時、友人の林信時の子である、若き日の林羅山を弟子としていたが、羅山の非凡な才能を視て他の職に進むように勧めたとされる。

    永田徳本

  • 84

    Ⅱ 実学を好み「『論語』『中庸』『史記』『貞観政要』『延喜式』『吾妻鑑』を好んだ」と記されている。これらの書物を関ヶ原以前より木版(伏見版)で、大御所になってからは銅活字版(駿府版)で印刷・刊行していた。特に『吾妻鑑』は散逸した史料を集めて後の「北条本」を開板し、また林羅山に抄出本を作成させており、吾妻鑑研究の草分け的存在と言える。また『源氏物語』の教授を受けたり、三浦按針から幾何学や数学を学ぶなど、その興味は幅広かった。 古典籍の蒐集に努め、駿府城に「駿河文庫」を作り、約一万点の蔵書があったという。これらは御三家に譲られ、「駿河御譲本」と呼ばれ伝わっている。

    徳川家康

  • 85

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 愛槍は「甕通槍」といい、甕もろとも突き抜けて敵を倒したという逸話がある。長篠の戦いを前にした軍議では、鳶巣山の攻略を提案したが、信長に嘲笑された。しかし軍議が終わった後に信長は彼を呼び戻し、鳶巣山の夜襲を命じた。これは信長が秘密の漏洩を恐れていたためであり、軍議が終わって諸将が退出した後、信長は密かに呼び出し「先ほどは、作戦の情報が武田方に漏れる恐れがあったゆえ、わざとお前の発案を却下したが、お前の発案は理にかなった最善の作戦だ。作戦の指揮はお前に任せるから、直ちに作戦を実行せよ」と命じた。戦いが終わった後、信長は活躍を賞して「前に目あるのみにあらず、後にも目あり(前だけでなく後ろにも目があるかのような活躍ぶりだ)」と述べた。

    酒井忠次

  • 86

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 「容顔美麗にして、心優にやさしければ、家康卿親しく寵愛し給い」との記録があるように、美男子として知られ(『甫庵太閤記』、『塩尻』、『徳川実紀』など)、家康が豊臣秀吉に従属する前に、家康に懐柔策のため人質として送られてきた秀吉の母・大政所やその侍女達が、惚れ込んだという。また、もてなしがとても丁寧だったという理由もある。 家康の寵童だったといわれている。また、家康は自邸の庭近くに家居を作らせて折々通っていた(『徳川実紀』、『天元実紀』) 気性が激しく、家臣のわずかな失敗も許さずに手討ちにすることも少なくなかったため、「人斬り兵部」とも称されたという。また、家臣に気安く声を掛けることも殆ど無かったという(元来、寡黙な性格ではある)しかし、政治的手腕は非常に優れていたため、箕輪城主の頃は、城下の民衆から慕われていた。

    井伊直政

  • 87

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 三河大樹寺で学んだ能筆家としても知られ、行政能力に長けており、家康の書状もよく代筆したとされる。小牧・長久手の戦いの際に前年に信長の三男・織田信孝を殺害したという秀吉非難の文言も、達筆な文字であちこちに記された。家康の嫡男・松平信康は勇猛だが乱暴な一面もあった。このため信康にたびたび諫言したため遂に信康は激怒して弓で射殺しようとした。だが、少しも動じず泰然としていたため、逆に信康のほうがその態度に気圧されて諫言に従った。

    榊原康政

  • 88

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられている。織田信長はその並はずれた武勇を武田征伐後「花も実も兼ね備えた武将である」と侍臣に紹介した。 豊臣秀吉には「日本第一、古今独歩の勇士」と称された。 関ヶ原の戦い終了後、福島正則は武勇を褒め称えた。彼は「采配が良かったのではない、敵が弱すぎたのだ」と答えたという。榊原康政とは同年齢ということもあり、仲が良く親友同士だった。 戦場に出て敵と戦う時の槍働きは古今無双だったが、教練などでの槍術は甚だ不器用で戦場での彼を知らぬ人が見ると意外と思ったという

    本多忠勝

  • 89

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 秀吉が築いた姫路城を大幅に改築し、今日、白鷺城と称えられる優美な城郭を築き上げた。 芹が好きで、備前国御野郡に生えるものを上物としその芹を取ることを禁じていた。しかしある士がこれを盗んでしまったので百姓たちは家臣の萩田庄助に訴えた。そのことを聞かされて「それはただ取ったのか、あるいは盗んだのか」と問うと、庄助は「盗んだのです」と答えたので「芹を強引に取ったのなら憎いが、盗んだということならきっと私と同じ芹好きではないだろうか。そのままにせよ」と許したという。

    池田輝政

  • 90

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 父と同じくキリシタン大名であった。バテレン追放令により、秀吉から改宗を迫られ、父が率先してキリスト教を棄教すると自らも改宗した。徳川政権下では迫害者に転じ、領内でキリシタンを厳しく処罰したという。また、戦後、家臣の黒田一成に命じ、当時一流の絵師を集めて自らも参陣した『大坂夏の陣図屏風』(通称『黒田屏風』)を描かせたが、その絵の中には徳川軍の乱妨取りも詳細に描かれており、何故徳川方の彼が、味方の残酷極まりない有り様をこの大作に描かせたのか現在も論争が絶えない。また、藩主となって以降、数々の産業を奨励し博多人形や博多織、高取焼など伝統工芸の復興に力を入れ、現在に至るまで福岡の名産品となっている。

    黒田長政

  • 91

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 黒田孝高、加藤清正と並び、「築城三名人」の一人と称される。数多くの築城の縄張りを担当し、層塔式天守を考案。高石垣の技術をはじめ、石垣上には多聞櫓を巡らす築城の巧みさは、その第一人者といっても過言ではない。阿閉氏の元を出奔し浪人生活を送っていた若き日に空腹のあまり、三河吉田宿(現・豊橋市)の吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食し、そのことを店主の吉田屋彦兵衛に正直に白状して謝罪した。だが彦兵衛に「故郷に帰って親孝行するように」と諭され路銀まで与えられる。吉田屋の細君もたまたま近江の出であったという。後日、大名として出世した際に、参勤交代の折に立ち寄り、餅代を返したという人情話が伝えられている。

    藤堂高虎

  • 92

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 近江国のある寺院に、鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り、寺小姓に茶を所望した際、寺小姓は最初に大きめの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな心遣いに感服した秀吉は彼を家臣としたという逸話がある。これが俗に「三杯の茶(三献茶)」と呼ばれる逸話である。息子が記した寿聖院『霊牌日鑑』では彼が秀吉に仕えたのは18歳の時に姫路においてと記されていること等から、後世の創作であるとする説もある。

    石田三成

  • 93

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 大坂城の天守で城下を見下ろしながら、石田三成は「秀吉公のおかげで町が繁栄したので、人々には豊臣家の繁栄を願わないものはいないだろう」と話した。これを聞くと「権力者のところには誰でも集まってくるもの。城下には貧しい人々も大勢おり、軍備にばかりお金をつぎ込むのはもってのほかです」と進言した。関ヶ原合戦での戦いぶりは、徳川方をして「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」と恐れさせたことが『常山紀談』に記されている。江戸初期、筑前福岡城において、関ヶ原に出陣した武将達がその服装について若侍相手に語り合ったが、指物、陣羽織、具足に至るまでそれぞれ記憶が違い、理由をその恐ろしさに記憶が曖昧であったとしている。

    島左近 (清興)

  • 94

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 慶長の役で日本軍の捕虜となった朝鮮の官人・姜沆は『看羊録』の中で「つつしみ深く、ゆったりと大らかで、わが国(朝鮮)人の性質によく似ている」と記しており「朝鮮人の鼻削ぎなどの残虐行為を見て、哀れだと思う心を持っていた」と、敵ながら彼の人格を称えている。織田信長との戦いを長期にわたり繰り広げたが、それを可能にしたのは強力な海軍力と、石見銀山(大森銀山)からの富によるものであった。織田信長と天下を競うほどの勢力を誇った要因に、この石見銀山に支えられた経済力があったのである。曲直瀬道三とは格別に親密な交流があった。

    毛利輝元

  • 95

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 1581年、父の病没により9歳で家督を相続。翌年毛利征伐のため出陣してきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)に気に入られ、養子扱いの厚遇を受ける。本能寺の変ののち、秀吉の天下取りの戦いに積極的に参戦、数々の戦功を挙げ、天下統一後は備前国・美作国・播磨国西部と備中国東半の57万4千石を知行する大大名に躍進した。1589年には、前田利家の娘で秀吉の養女となった豪姫を正室に迎えている。

    宇喜多秀家

  • 96

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 一生のうちに一度だけ笑ったという伝説がある。あるとき飼っていた猿が、近くに置いた頭巾を取って、樹にのぼった。枝に腰をかけて頭巾をかぶり、手をそろえて座敷の彼に向かっておじぎをした。その途端に、思わず笑ったとされる。 秀吉に招かれて上洛するとき、数百の供を連れた。兵は将兵共によく威信が行き届いており、行軍中は無駄口を叩かず粛然としており、人馬の歩む音がするだけだったという。

    上杉景勝

  • 97

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 伏見城にて、伊達政宗が同席していた諸大名に金銭を回覧させ、これ見られよと言った時に、それを素手ではなく扇子で受け撥ねるようにして表裏を見た。政宗は「遠慮をすることはない」と直接手に触れて見るように勧めたところ「賎しき物を取れば汚れるので扇に載せています」と、政宗の下へ投げ返した。 徳川政権下の頃、あるとき江戸城の廊下で伊達政宗とすれ違うも、会釈すらせず素知らぬ顔で素通りした。政宗がこれを咎めると「政宗公とは戦場では幾度もお目にかかっておりましたが、いつも(負けて逃げる)後ろ姿しか拝見したことが無かったため、一向に気がつきませんでした」と返答をした。

    直江兼続

  • 98

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 関ヶ原の戦いの翌年、1601年に京都の伏見から米沢へ下向した時の事跡を自ら日記に記しているが、和歌や漢詩、伝説に対する個人的な見解がちりばめられるなど、高い教養をうかがわせる。道中日記の記述から、少なくとも3人の朝鮮人を召使いとして従えていたことが分かる。その親が病にかかってしまったため、菩提山城の城主(竹中重門か)に書状を送って預け、子2人と旅を続けた。

    前田慶次

  • 99

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 最初の主君である武田信玄を生涯において敬愛し、絶対の忠誠を誓っていた。天正13年(1585年)12月に信玄の墓所を自領である真田郷内に再興しようとした。また、信玄に幼少期から仕え、信玄全盛期の軍略や外交を見て模範にしていたとされる。秀吉と碁を打っていた際、秀吉が「信玄は身構えばかりする人だった」と評した。それに対して「信玄公は敵を攻めて多くの城を取ったが、合戦に手を取る事なくして勝ちを取ったもので、敵に押しつけをした事は一度もない」と答えたと伝わる。

    真田昌幸

  • 100

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 8歳の時、見世物があった。見物中、群集の中で争論が起り、ついには殺される者がでた。人々は慌てふためき逃げ散る中、少しも恐れる様子もなく「今日の見世物はこれで終わりか」と付き添いの者に尋ねた。早く逃げましょうという付き添いに対し、笑って「お前たちが慌てるとはおかしな事だ。我々はあの争論の相手ではないのだから、どうしてこちらに切りかかってくることがあろうか。まだ見世物も終わっていないのに、ここから立ち去る必要もあるまい」といい、すべてを見終ってから帰ったという。

    立花宗茂

  • English Words

    English Words

    Naoyuki Shimizu · 104問 · 3年前

    English Words

    English Words

    104問 • 3年前
    Naoyuki Shimizu

    English Words 3

    English Words 3

    Naoyuki Shimizu · 104問 · 3年前

    English Words 3

    English Words 3

    104問 • 3年前
    Naoyuki Shimizu

    English Words 2

    English Words 2

    Naoyuki Shimizu · 119問 · 3年前

    English Words 2

    English Words 2

    119問 • 3年前
    Naoyuki Shimizu

    英語・単数と複数の使い分け

    英語・単数と複数の使い分け

    Naoyuki Shimizu · 55問 · 3年前

    英語・単数と複数の使い分け

    英語・単数と複数の使い分け

    55問 • 3年前
    Naoyuki Shimizu

    英語・冠詞

    英語・冠詞

    Naoyuki Shimizu · 101問 · 3年前

    英語・冠詞

    英語・冠詞

    101問 • 3年前
    Naoyuki Shimizu

    英語・定冠詞と不定冠詞の使い分け

    英語・定冠詞と不定冠詞の使い分け

    Naoyuki Shimizu · 81問 · 3年前

    英語・定冠詞と不定冠詞の使い分け

    英語・定冠詞と不定冠詞の使い分け

    81問 • 3年前
    Naoyuki Shimizu

    English Words 4

    English Words 4

    Naoyuki Shimizu · 102問 · 3年前

    English Words 4

    English Words 4

    102問 • 3年前
    Naoyuki Shimizu

    戦国武将

    戦国武将

    Naoyuki Shimizu · 171問 · 3年前

    戦国武将

    戦国武将

    171問 • 3年前
    Naoyuki Shimizu

    ◦ 第二次世界大戦

    ◦ 第二次世界大戦

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 6ヶ月前

    ◦ 第二次世界大戦

    ◦ 第二次世界大戦

    30問 • 6ヶ月前
    Naoyuki Shimizu

    世界恐慌とファシズム諸国の侵略・補足 1 

    世界恐慌とファシズム諸国の侵略・補足 1 

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 6ヶ月前

    世界恐慌とファシズム諸国の侵略・補足 1 

    世界恐慌とファシズム諸国の侵略・補足 1 

    30問 • 6ヶ月前
    Naoyuki Shimizu

    ◦ 戦後世界秩序の形成とアジア諸地域の独立

    ◦ 戦後世界秩序の形成とアジア諸地域の独立

    Naoyuki Shimizu · 33問 · 2年前

    ◦ 戦後世界秩序の形成とアジア諸地域の独立

    ◦ 戦後世界秩序の形成とアジア諸地域の独立

    33問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ◦ 米ソ冷戦の激化と西欧・日本の経済復 1

    ◦ 米ソ冷戦の激化と西欧・日本の経済復 1

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    ◦ 米ソ冷戦の激化と西欧・日本の経済復 1

    ◦ 米ソ冷戦の激化と西欧・日本の経済復 1

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ◦ 第三世界の台頭と米・ソの歩み寄り

    ◦ 第三世界の台頭と米・ソの歩み寄り

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    ◦ 第三世界の台頭と米・ソの歩み寄り

    ◦ 第三世界の台頭と米・ソの歩み寄り

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ◦ 第三世界の台頭と米・ソの歩み寄り 4

    ◦ 第三世界の台頭と米・ソの歩み寄り 4

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    ◦ 第三世界の台頭と米・ソの歩み寄り 4

    ◦ 第三世界の台頭と米・ソの歩み寄り 4

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ◦ 石油危機と経済の再編

    ◦ 石油危機と経済の再編

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    ◦ 石油危機と経済の再編

    ◦ 石油危機と経済の再編

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ◦ 社会主義世界の変容とグローバリゼーションの進展

    ◦ 社会主義世界の変容とグローバリゼーションの進展

    Naoyuki Shimizu · 29問 · 2年前

    ◦ 社会主義世界の変容とグローバリゼーションの進展

    ◦ 社会主義世界の変容とグローバリゼーションの進展

    29問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    第一次世界大戦とロシア革命 4 25問付け足す

    第一次世界大戦とロシア革命 4 25問付け足す

    Naoyuki Shimizu · 5問 · 2年前

    第一次世界大戦とロシア革命 4 25問付け足す

    第一次世界大戦とロシア革命 4 25問付け足す

    5問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ◦ 途上国の民主化と独裁政権の誕生

    ◦ 途上国の民主化と独裁政権の誕生

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    ◦ 途上国の民主化と独裁政権の誕生

    ◦ 途上国の民主化と独裁政権の誕生

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ◦ 戦後世界秩序の形成とアジア諸地域の独立 2

    ◦ 戦後世界秩序の形成とアジア諸地域の独立 2

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    ◦ 戦後世界秩序の形成とアジア諸地域の独立 2

    ◦ 戦後世界秩序の形成とアジア諸地域の独立 2

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ヨーロッパ諸国の海外進出 1

    ヨーロッパ諸国の海外進出 1

    Naoyuki Shimizu · 27問 · 2年前

    ヨーロッパ諸国の海外進出 1

    ヨーロッパ諸国の海外進出 1

    27問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ヨーロッパ諸国の海外進出 2

    ヨーロッパ諸国の海外進出 2

    Naoyuki Shimizu · 29問 · 2年前

    ヨーロッパ諸国の海外進出 2

    ヨーロッパ諸国の海外進出 2

    29問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ◦ 第一次世界大戦とロシア革命 2

    ◦ 第一次世界大戦とロシア革命 2

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    ◦ 第一次世界大戦とロシア革命 2

    ◦ 第一次世界大戦とロシア革命 2

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ◦ 第一次世界大戦とロシア革命 3

    ◦ 第一次世界大戦とロシア革命 3

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    ◦ 第一次世界大戦とロシア革命 3

    ◦ 第一次世界大戦とロシア革命 3

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    地域紛争の激化と深刻化する貧困 1

    地域紛争の激化と深刻化する貧困 1

    Naoyuki Shimizu · 31問 · 2年前

    地域紛争の激化と深刻化する貧困 1

    地域紛争の激化と深刻化する貧困 1

    31問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    地域紛争の激化と深刻化する貧困 2 4問何か付け足す。

    地域紛争の激化と深刻化する貧困 2 4問何か付け足す。

    Naoyuki Shimizu · 26問 · 2年前

    地域紛争の激化と深刻化する貧困 2 4問何か付け足す。

    地域紛争の激化と深刻化する貧困 2 4問何か付け足す。

    26問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ◦ 現代文明の諸相 1

    ◦ 現代文明の諸相 1

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    ◦ 現代文明の諸相 1

    ◦ 現代文明の諸相 1

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ◦ 現代文明の諸相 2

    ◦ 現代文明の諸相 2

    Naoyuki Shimizu · 29問 · 2年前

    ◦ 現代文明の諸相 2

    ◦ 現代文明の諸相 2

    29問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ◦ 現代文明の諸相 3

    ◦ 現代文明の諸相 3

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    ◦ 現代文明の諸相 3

    ◦ 現代文明の諸相 3

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    世界恐慌とファシズム諸国の侵略 1

    世界恐慌とファシズム諸国の侵略 1

    Naoyuki Shimizu · 28問 · 2年前

    世界恐慌とファシズム諸国の侵略 1

    世界恐慌とファシズム諸国の侵略 1

    28問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    世界恐慌とファシズム諸国の侵略 2

    世界恐慌とファシズム諸国の侵略 2

    Naoyuki Shimizu · 27問 · 2年前

    世界恐慌とファシズム諸国の侵略 2

    世界恐慌とファシズム諸国の侵略 2

    27問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    世界恐慌とファシズム諸国の侵略 3

    世界恐慌とファシズム諸国の侵略 3

    Naoyuki Shimizu · 37問 · 2年前

    世界恐慌とファシズム諸国の侵略 3

    世界恐慌とファシズム諸国の侵略 3

    37問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    世界恐慌とファシズム諸国の侵略 4 16問付け足す

    世界恐慌とファシズム諸国の侵略 4 16問付け足す

    Naoyuki Shimizu · 14問 · 2年前

    世界恐慌とファシズム諸国の侵略 4 16問付け足す

    世界恐慌とファシズム諸国の侵略 4 16問付け足す

    14問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    第二次世界大戦 2

    第二次世界大戦 2

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    第二次世界大戦 2

    第二次世界大戦 2

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    第二次世界大戦 3 

    第二次世界大戦 3 

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    第二次世界大戦 3 

    第二次世界大戦 3 

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    重商主義と啓蒙専制主義

    重商主義と啓蒙専制主義

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    重商主義と啓蒙専制主義

    重商主義と啓蒙専制主義

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    重商主義と啓蒙専制主義 2 4問付け足す

    重商主義と啓蒙専制主義 2 4問付け足す

    Naoyuki Shimizu · 26問 · 2年前

    重商主義と啓蒙専制主義 2 4問付け足す

    重商主義と啓蒙専制主義 2 4問付け足す

    26問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    重商主義と啓蒙専制主義 3

    重商主義と啓蒙専制主義 3

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    重商主義と啓蒙専制主義 3

    重商主義と啓蒙専制主義 3

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    重商主義と啓蒙専制主義 4

    重商主義と啓蒙専制主義 4

    Naoyuki Shimizu · 28問 · 2年前

    重商主義と啓蒙専制主義 4

    重商主義と啓蒙専制主義 4

    28問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    西ヨーロッパ世界の成立

    西ヨーロッパ世界の成立

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    西ヨーロッパ世界の成立

    西ヨーロッパ世界の成立

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    西ヨーロッパ世界の成立 2

    西ヨーロッパ世界の成立 2

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    西ヨーロッパ世界の成立 2

    西ヨーロッパ世界の成立 2

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    西ヨーロッパ世界の成立 3

    西ヨーロッパ世界の成立 3

    Naoyuki Shimizu · 31問 · 2年前

    西ヨーロッパ世界の成立 3

    西ヨーロッパ世界の成立 3

    31問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    西ヨーロッパ世界の成立 4

    西ヨーロッパ世界の成立 4

    Naoyuki Shimizu · 29問 · 2年前

    西ヨーロッパ世界の成立 4

    西ヨーロッパ世界の成立 4

    29問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    西ヨーロッパ世界の成立 5

    西ヨーロッパ世界の成立 5

    Naoyuki Shimizu · 32問 · 2年前

    西ヨーロッパ世界の成立 5

    西ヨーロッパ世界の成立 5

    32問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    西ヨーロッパ世界の成立 6 18問付け足す

    西ヨーロッパ世界の成立 6 18問付け足す

    Naoyuki Shimizu · 12問 · 2年前

    西ヨーロッパ世界の成立 6 18問付け足す

    西ヨーロッパ世界の成立 6 18問付け足す

    12問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    東ヨーロッパの成立 7問付け足す

    東ヨーロッパの成立 7問付け足す

    Naoyuki Shimizu · 23問 · 2年前

    東ヨーロッパの成立 7問付け足す

    東ヨーロッパの成立 7問付け足す

    23問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    東ヨーロッパ世界の成立 2

    東ヨーロッパ世界の成立 2

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    東ヨーロッパ世界の成立 2

    東ヨーロッパ世界の成立 2

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    東ヨーロッパ世界の成立 3 23問付け足す。

    東ヨーロッパ世界の成立 3 23問付け足す。

    Naoyuki Shimizu · 7問 · 2年前

    東ヨーロッパ世界の成立 3 23問付け足す。

    東ヨーロッパ世界の成立 3 23問付け足す。

    7問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ルネサンス

    ルネサンス

    Naoyuki Shimizu · 31問 · 2年前

    ルネサンス

    ルネサンス

    31問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ルネサンス 2

    ルネサンス 2

    Naoyuki Shimizu · 29問 · 2年前

    ルネサンス 2

    ルネサンス 2

    29問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ルネサンス 3 

    ルネサンス 3 

    Naoyuki Shimizu · 29問 · 2年前

    ルネサンス 3 

    ルネサンス 3 

    29問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ルネサンス 4

    ルネサンス 4

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    ルネサンス 4

    ルネサンス 4

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ルネサンス 5 12問付け足す。

    ルネサンス 5 12問付け足す。

    Naoyuki Shimizu · 18問 · 2年前

    ルネサンス 5 12問付け足す。

    ルネサンス 5 12問付け足す。

    18問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ヨーロッパ諸国の抗争と主権国家の体制の形成 補足

    ヨーロッパ諸国の抗争と主権国家の体制の形成 補足

    Naoyuki Shimizu · 29問 · 2年前

    ヨーロッパ諸国の抗争と主権国家の体制の形成 補足

    ヨーロッパ諸国の抗争と主権国家の体制の形成 補足

    29問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ヨーロッパ諸国の抗争と主権国家の体制の形成 補足 2

    ヨーロッパ諸国の抗争と主権国家の体制の形成 補足 2

    Naoyuki Shimizu · 29問 · 2年前

    ヨーロッパ諸国の抗争と主権国家の体制の形成 補足 2

    ヨーロッパ諸国の抗争と主権国家の体制の形成 補足 2

    29問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    重商主義と啓蒙専制主義 補足5

    重商主義と啓蒙専制主義 補足5

    Naoyuki Shimizu · 17問 · 2年前

    重商主義と啓蒙専制主義 補足5

    重商主義と啓蒙専制主義 補足5

    17問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    重商主義と啓蒙専制主義 補足6

    重商主義と啓蒙専制主義 補足6

    Naoyuki Shimizu · 27問 · 2年前

    重商主義と啓蒙専制主義 補足6

    重商主義と啓蒙専制主義 補足6

    27問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    重商主義と啓蒙専制主義 補足1

    重商主義と啓蒙専制主義 補足1

    Naoyuki Shimizu · 33問 · 2年前

    重商主義と啓蒙専制主義 補足1

    重商主義と啓蒙専制主義 補足1

    33問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    重商主義と啓蒙専制主義 補足2

    重商主義と啓蒙専制主義 補足2

    Naoyuki Shimizu · 33問 · 2年前

    重商主義と啓蒙専制主義 補足2

    重商主義と啓蒙専制主義 補足2

    33問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    重商主義と啓蒙専制主義 補足3

    重商主義と啓蒙専制主義 補足3

    Naoyuki Shimizu · 33問 · 2年前

    重商主義と啓蒙専制主義 補足3

    重商主義と啓蒙専制主義 補足3

    33問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    重商主義と啓蒙専制主義 補足4

    重商主義と啓蒙専制主義 補足4

    Naoyuki Shimizu · 32問 · 2年前

    重商主義と啓蒙専制主義 補足4

    重商主義と啓蒙専制主義 補足4

    32問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ローマ世界 1

    ローマ世界 1

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    ローマ世界 1

    ローマ世界 1

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ローマ世界 2 

    ローマ世界 2 

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    ローマ世界 2 

    ローマ世界 2 

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ローマ世界 3  

    ローマ世界 3  

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    ローマ世界 3  

    ローマ世界 3  

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ローマ世界 4

    ローマ世界 4

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    ローマ世界 4

    ローマ世界 4

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ローマ世界 5 4問付け足す

    ローマ世界 5 4問付け足す

    Naoyuki Shimizu · 26問 · 2年前

    ローマ世界 5 4問付け足す

    ローマ世界 5 4問付け足す

    26問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ギリシア世界 1

    ギリシア世界 1

    Naoyuki Shimizu · 31問 · 2年前

    ギリシア世界 1

    ギリシア世界 1

    31問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ギリシア世界 2 6問付け足す

    ギリシア世界 2 6問付け足す

    Naoyuki Shimizu · 24問 · 2年前

    ギリシア世界 2 6問付け足す

    ギリシア世界 2 6問付け足す

    24問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ギリシア世界 3 9問付け足す

    ギリシア世界 3 9問付け足す

    Naoyuki Shimizu · 21問 · 2年前

    ギリシア世界 3 9問付け足す

    ギリシア世界 3 9問付け足す

    21問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ギリシア世界 4

    ギリシア世界 4

    Naoyuki Shimizu · 31問 · 2年前

    ギリシア世界 4

    ギリシア世界 4

    31問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ギリシア世界 5 16問付け足す。

    ギリシア世界 5 16問付け足す。

    Naoyuki Shimizu · 14問 · 2年前

    ギリシア世界 5 16問付け足す。

    ギリシア世界 5 16問付け足す。

    14問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    古代オリエント世界 1 6問付け足す

    古代オリエント世界 1 6問付け足す

    Naoyuki Shimizu · 24問 · 2年前

    古代オリエント世界 1 6問付け足す

    古代オリエント世界 1 6問付け足す

    24問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    古代オリエント世界 2 (エジプトの統一国家)

    古代オリエント世界 2 (エジプトの統一国家)

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    古代オリエント世界 2 (エジプトの統一国家)

    古代オリエント世界 2 (エジプトの統一国家)

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    古代オリエント世界 3 (エジプトの統一国家)

    古代オリエント世界 3 (エジプトの統一国家)

    Naoyuki Shimizu · 14問 · 2年前

    古代オリエント世界 3 (エジプトの統一国家)

    古代オリエント世界 3 (エジプトの統一国家)

    14問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    古代オリエント世界 4 5問付け足す

    古代オリエント世界 4 5問付け足す

    Naoyuki Shimizu · 25問 · 2年前

    古代オリエント世界 4 5問付け足す

    古代オリエント世界 4 5問付け足す

    25問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    古代オリエント世界 2問付け足す

    古代オリエント世界 2問付け足す

    Naoyuki Shimizu · 28問 · 2年前

    古代オリエント世界 2問付け足す

    古代オリエント世界 2問付け足す

    28問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    古代オリエント世界 6 10問付け足す

    古代オリエント世界 6 10問付け足す

    Naoyuki Shimizu · 20問 · 2年前

    古代オリエント世界 6 10問付け足す

    古代オリエント世界 6 10問付け足す

    20問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ヴェルサイユ体制下の欧米諸国 1

    ヴェルサイユ体制下の欧米諸国 1

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    ヴェルサイユ体制下の欧米諸国 1

    ヴェルサイユ体制下の欧米諸国 1

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ヴェルサイユ体制下の欧米諸国 2

    ヴェルサイユ体制下の欧米諸国 2

    Naoyuki Shimizu · 32問 · 2年前

    ヴェルサイユ体制下の欧米諸国 2

    ヴェルサイユ体制下の欧米諸国 2

    32問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ヴェルサイユ体制下の欧米諸国 3

    ヴェルサイユ体制下の欧米諸国 3

    Naoyuki Shimizu · 28問 · 2年前

    ヴェルサイユ体制下の欧米諸国 3

    ヴェルサイユ体制下の欧米諸国 3

    28問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ヴェルサイユ体制下の欧米諸国 4 14問付け足す。

    ヴェルサイユ体制下の欧米諸国 4 14問付け足す。

    Naoyuki Shimizu · 16問 · 2年前

    ヴェルサイユ体制下の欧米諸国 4 14問付け足す。

    ヴェルサイユ体制下の欧米諸国 4 14問付け足す。

    16問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    アジア・アフリカ地域の民族運動 1

    アジア・アフリカ地域の民族運動 1

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    アジア・アフリカ地域の民族運動 1

    アジア・アフリカ地域の民族運動 1

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    アジア・アフリカ地域の民族運動 2

    アジア・アフリカ地域の民族運動 2

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    アジア・アフリカ地域の民族運動 2

    アジア・アフリカ地域の民族運動 2

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    アジア・アフリカ地域の民族運動 3

    アジア・アフリカ地域の民族運動 3

    Naoyuki Shimizu · 28問 · 2年前

    アジア・アフリカ地域の民族運動 3

    アジア・アフリカ地域の民族運動 3

    28問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    アジア・アフリカ地域の民族運動 4

    アジア・アフリカ地域の民族運動 4

    Naoyuki Shimizu · 32問 · 2年前

    アジア・アフリカ地域の民族運動 4

    アジア・アフリカ地域の民族運動 4

    32問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    西ヨーロッパ中世世界の変容 1

    西ヨーロッパ中世世界の変容 1

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    西ヨーロッパ中世世界の変容 1

    西ヨーロッパ中世世界の変容 1

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    西ヨーロッパ中世世界の変容 2 3問付け足す

    西ヨーロッパ中世世界の変容 2 3問付け足す

    Naoyuki Shimizu · 27問 · 2年前

    西ヨーロッパ中世世界の変容 2 3問付け足す

    西ヨーロッパ中世世界の変容 2 3問付け足す

    27問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    西ヨーロッパ中世世界の変容 3

    西ヨーロッパ中世世界の変容 3

    Naoyuki Shimizu · 23問 · 2年前

    西ヨーロッパ中世世界の変容 3

    西ヨーロッパ中世世界の変容 3

    23問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    西ヨーロッパ中世世界の変容 4

    西ヨーロッパ中世世界の変容 4

    Naoyuki Shimizu · 30問 · 2年前

    西ヨーロッパ中世世界の変容 4

    西ヨーロッパ中世世界の変容 4

    30問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    西ヨーロッパ中世世界の変容 5 2問付け足す

    西ヨーロッパ中世世界の変容 5 2問付け足す

    Naoyuki Shimizu · 28問 · 2年前

    西ヨーロッパ中世世界の変容 5 2問付け足す

    西ヨーロッパ中世世界の変容 5 2問付け足す

    28問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    西ヨーロッパ中世世界の変容 6

    西ヨーロッパ中世世界の変容 6

    Naoyuki Shimizu · 29問 · 2年前

    西ヨーロッパ中世世界の変容 6

    西ヨーロッパ中世世界の変容 6

    29問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    西ヨーロッパの中世文化 1 +3

    西ヨーロッパの中世文化 1 +3

    Naoyuki Shimizu · 27問 · 2年前

    西ヨーロッパの中世文化 1 +3

    西ヨーロッパの中世文化 1 +3

    27問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    西ヨーロッパの中世文化 2 +8

    西ヨーロッパの中世文化 2 +8

    Naoyuki Shimizu · 22問 · 2年前

    西ヨーロッパの中世文化 2 +8

    西ヨーロッパの中世文化 2 +8

    22問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    宗教改革 1 +11

    宗教改革 1 +11

    Naoyuki Shimizu · 19問 · 2年前

    宗教改革 1 +11

    宗教改革 1 +11

    19問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ヨーロッパ世界の拡大 1  +1 

    ヨーロッパ世界の拡大 1  +1 

    Naoyuki Shimizu · 29問 · 2年前

    ヨーロッパ世界の拡大 1  +1 

    ヨーロッパ世界の拡大 1  +1 

    29問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ヨーロッパ世界の拡大 2 +1 

    ヨーロッパ世界の拡大 2 +1 

    Naoyuki Shimizu · 29問 · 2年前

    ヨーロッパ世界の拡大 2 +1 

    ヨーロッパ世界の拡大 2 +1 

    29問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    ヨーロッパ諸国の抗争と主権国家の体制の形成 1 +4

    ヨーロッパ諸国の抗争と主権国家の体制の形成 1 +4

    Naoyuki Shimizu · 26問 · 2年前

    ヨーロッパ諸国の抗争と主権国家の体制の形成 1 +4

    ヨーロッパ諸国の抗争と主権国家の体制の形成 1 +4

    26問 • 2年前
    Naoyuki Shimizu

    問題一覧

  • 1

    Ⅰ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 慶長9年(1604年)、家康より黒印制書を得てアイヌ交易の独占権を公認され、さらに従五位下伊豆守に叙位・任官された。これらを以って、大名格とみなされ、松前藩の初代藩主とされるが、正式な家格は交代寄合である。 慶長15年(1610年)と慶長17年(1612年)の二回にわたり、徳川家康に海狗腎(オットセイ)を献上している。

    蠣崎慶広

  • 2

    Ⅱ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 関ヶ原の戦いでは領国の周囲がすべて東軍という状況から三男・信枚と共に、東軍として参加した。しかし、嫡男・信建は豊臣秀頼の小姓衆として大坂城にあり、西軍が壊滅すると三成の子・重成らを連れて帰国している。これらを考えると、つまりは真田氏らと同様の、両軍生き残り策を狙ったとも考えられる。そのためか戦後の行賞では上野国大舘2,000石の加増に留まった。

    津軽為信

  • 3

    Ⅲ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 一族同士で争うようになったうえ、津軽為信の独立を止めることができずに、津軽地方を失うことになった。 さらに1582年、争いが起こり、彼の家は完全に分裂してしまう。 そこで、新たに当主と なった彼は、豊臣秀吉に従うことで分裂した家を再建しようとした。 1591年、 一族の九戸政実が反乱を起こすが、 秀吉から援軍を受けるなどして鎮めた。

    南部信直

  • 4

    Ⅳ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 残した連歌の数は現存33巻・248句にのぼり、これは同時代諸侯の中では細川幽斎に次ぐ多さである。同席者も里村紹巴をはじめとする錚々たる顔ぶれであり、後陽成天皇から発句を賜ったこともあった。天正20年(1592年)2月には、京の連歌師たちの求めに応じて江口光清に発句を届けさせている。また、連歌の研究書『連歌新式注』一巻も執筆しており、同時代の連歌の主要作家とされる。代表作に「梅咲きて 匂い外なる 四方もなし」などがある。和歌や手紙の文体・書体も秀でている。

    最上義光

  • 5

    Ⅰ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 独眼竜の三代前の当主。分国法として有名な塵芥集を制定したことでもよく知られている。十四男七女という多くの子どもに恵まれ、政略結婚や養子縁組を通じて奥州の宗主として君臨した。

    伊達稙宗

  • 6

    Ⅱ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである」という料理観が残されている。この金言は和・洋・中を問わず後世の多くの料理人に感銘を与え、宮城調理製菓専門学校のほか、服部栄養専門学校などでも校訓に引用されている。こうした料理に対する情熱から、今日の仙台名物が彼による考案によるものだとする説がある。ずんだ餅や笹かまぼこが代表例だが、笹かまぼこについては、宮城県水産試験場の資料では江戸時代中期に生まれたものとされている。

    伊達政宗

  • 7

    Ⅲ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 一度隠退して会津黒川城から大沼郡岩ケ崎城に移り止々斎と号したが,その子盛興の死に伴い再び政務をみた。天正5年ごろから佐竹氏と協調して大連合し,伊達,田村勢力と対抗する構図を形成。領国政策では徳政令の発布や流通統制によって領内支配を強化した。墓は会津若松市宗英寺。

    蘆名盛氏

  • 8

    Ⅳ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 北条氏と関東の覇権を巡って争った。領内の金山に最新の冶金技術を導入して豊富な資金力を実現した。関東一の鉄砲隊を備えたという。彼は智勇に優れていた。かつて北条軍と戦ったときなどは、7人の敵を一瞬で斬り伏せたとまで言われている。

    佐竹義重

  • 9

    Ⅰ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、西軍敗北後、父・義重はただちに家康に戦勝を祝賀する使者を送り、さらに上洛して家康に不戦を謝罪した。これに対する秀忠からの礼状は届いたが、家康からの礼状があったか否かは不明である。しかし彼は居城である水戸城を動かず、そのまま2年が経過した。上杉氏、島津氏の処分も決定し、処分が済んでいないのは彼のみとなった。その上、謝罪すら行っていなかったが、それでも動かなかった。しかし、義重の説得により1602年4月に上洛し、ようやく家康に謝罪した。

    佐竹義宣

  • 10

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 古河公方側の有力武将である房総の千葉氏を抑えるため、両勢力の境界である当時の利根川下流域に城を築く必要があった。武蔵国豊嶋郡に築城した。日枝神社をはじめ、築土神社や平河天満宮など今に残る多くの神社を周辺に勧請、造営した。城主となってからは、ここで兵士の鍛錬に勤しみ、城内に弓場を設けて士卒に日々稽古をさせて、怠ける者からは罰金を取りそれを兵たちへの茶代に充てたという。

    太田道灌

  • 11

    Ⅲ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 永禄4年(1561年)越後国の上杉謙信の北条氏康攻めに呼応したり、永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦で北条綱成と戦うなど、父と同様に後北条氏と徹底して対立した。しかし、この第二次国府台合戦で北条軍に大敗して安房国に退却し、更に北条水軍などの攻撃と正木時忠、土岐為頼、酒井敏房ら上総国の有力領主の離反によって上総国の大半を喪失してしまう。

    里見義弘

  • 12

    Ⅳ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 1491年(延徳3)堀越(ほりこし)公方足利茶々丸(ちゃちゃまる)を討って韮山(にらやま)城(静岡県伊豆の国市)に移り自立、伊豆国を制圧した。ついで95年(明応4)扇谷上杉氏の重臣大森藤頼(ふじより)の小田原城(神奈川県小田原市)を攻略して相模(さがみ)に進んだ。彼はある時、ねずみが2本の大杉を食い倒してのち虎になった夢をみ、ねずみを子(ね)年生まれの自分自身に、2本の大杉を山内と扇谷の両上杉氏になぞらえて、めでたい夢と喜んだという。

    北条早雲

  • 13

    Ⅰ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 小田原の城下町のさらなる発展のため全国から職人や文化人を呼び寄せ大規模な都市開発を行い清掃にも気を配り、その結果、小田原の城下町は東の小田原・西の山口と称される東国最大の都市となった。上水道(小田原早川上水)を造り上げ、町はゴミ一つ落ちていないとまで評されるほどの清潔な都市であった。

    北条氏康

  • 14

    Ⅱ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 越後を統一したほか、関東や北信地方、北陸地方(越中国以西)に度々出兵した。戦国時代でも戦上手とされ、その戦績から後世、軍神や、「越後の龍」 などと称された。内乱続きであった越後国を統一し、安定と繁栄をもたらした。戦った戦国大名・武将は数多く、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、小田氏治、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に、武田信玄との5回にわたる川中島の戦いが知られている。

    上杉謙信

  • 15

    Ⅲ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 越後国と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え、信濃・駿河・西上野および遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領した。次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いたものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。

    武田信玄

  • 16

    Ⅳ 以下の文章に合う人物を、選択肢から選べ。 「99箇条家訓」と呼ばれるものを残している。 徳川家のあいだでは江戸時代にこの家訓が武士の心得として広まっていった。 江戸時代には、藩士や儒学者などから、まことの武士と言われるまで、人気を博している。1561年に36歳の若さで他界した。敵であった上杉謙信もその死を惜しんだ。

    武田信繫 (典厩)

  • 17

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 長篠の戦いで織田軍や徳川軍と戦い、仲間に裏切られて最後を迎える。

    武田勝頼

  • 18

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 戦国時代の武将で、武田信玄の伝説的軍師として広く知られている。諸国を巡って兵法や築城術などを極めたが、色黒で隻眼、背が低く、手指や足が不自由と、ひどく風采の上がらない見た目だったため、40歳を過ぎても牢人のままであった。

    山本勘助

  • 19

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 清和源氏流れをくむ、北信濃最大勢力の国人である。 1541年に武田信玄の父親の信虎と同盟を組み、真田幸隆を追い出して、佐久、小県、更級、植科、高井、水内郡を支配する。 その後,真田幸隆が、昔の領土を、返してもらおうと武田晴信(信玄)に近づき、武田家とは、当主が、武田晴信(信玄)に代が替わってから、対立した。

    村上義清

  • 20

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 公領や公家領・寺社領の押領を多く行ったため、当時の権力層である「寺社」「公家」(寺社本所領)にとってはまさに仇敵だった。当時、寺社が得意としていた人々の信仰心を利用した呪殺目的の護摩祈祷も、改名など呪詛回避を熟知する彼には通じず、一例として、寛正5年に発生した興福寺が荘園として越前領内に所有していた河口・坪江荘を巡る争いでは、一度は興福寺の安位寺経覚を通じて謝罪の起請文を提出するも、その後も侵犯を繰り返し、2つの荘園を半済することに成功している。公卿の1人で前中納言だった甘露寺親長は、日記の中で「天下悪事始行の張本」と評している。

    朝倉敏景

  • 21

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 子宝に恵まれず、他に兄弟もいなかったため、外交などの立場は非常に弱く、他国に人質を送る際にも家臣の子を送らざるを得なかった。また、後継ぎが不在なことが同族争いを勃発させる要因にもなっていた。戦よりも文芸に凝っていたようで、歌道・和歌・連歌・猿楽・作庭・絵画・茶道など多くの芸事を好んで行っていた記録が残る。特に茶道には凝っていたようで、一乗谷からは現在も多くの茶器(当時は高価な輸入品であった唐物茶碗や青磁花瓶、タイ製の壷など)が出土している。

    朝倉義景

  • 22

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 「うつけ者」と評されていた信長が、多数の鉄砲を護衛に装備させ正装で訪れたことに大変驚き、信長を見込むと同時に、家臣の猪子兵助に対して「我が子たちはあのうつけの門前に馬をつなぐようになる」と述べた。 岐阜のまちづくりの基礎を成した道三の遺徳を偲び、昭和47年(1972年)から岐阜市にて毎年4月上旬に道三まつりが開催されている。なお、岐阜城内に展示されている道三の画像には、信長室寄進の文字が確認される。

    斎藤道三

  • 23

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 積極的に領国経営を進め、土地と農民を直接掌握する検地を実施するなど守護大名から戦国大名に脱皮していった。そしてそれらを具体化した法典は、後に武田信玄がつくった「甲州法度之次第」に深い影響を与えるなど画期的なものであった。 大栄6年6月23日(1526年8月1日)駿府にて死去。葬儀は増善寺にて盛大に執行され、7000人の僧侶が参加。

    今川氏親

  • 24

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者。 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させた。戦国時代における最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長軍に敗れて毛利良勝に討ち取られた。

    今川義元

  • 25

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 斎藤道三との対立で苦戦する織田家の間隙をついて、8千名余りと称する軍で尾張に侵攻。天文4年(1535年)12月、尾張に侵入し織田信秀の弟の信光の守る守山城を攻めたが、初戦に大敗し野営を張る。この守山滞在の最中の12月5日(12月29日)大手門付近で突如、家臣の阿部正豊(弥七郎)に両断され即死した。これを「森山崩れ(守山崩れとも)」という。享年25。徳川家康の祖父にあたる。

    松平清康

  • 26

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 家督相続からまもなく、天文元年(1532年)主家の織田達勝と清州三奉行の一人の小田井城の織田藤左衛門と争ったが、講和した。この和議を固めるのと自らの威勢を示すため、翌、天文2年(1533年)7月京都から蹴鞠の宗家飛鳥井雅綱を招き、山科言継も同道してまず7月8日勝幡城で蹴鞠会を開催し、賓客たちと数100人の見物衆も含め多くが集まり、7月27日には清州城に舞台を移し、連日蹴鞠会を実施した。 織田信長の父。

    織田信秀

  • 27

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 戦国時代の武将織田信長の妹を娶 (めと) る。 六角氏の内紛に乗じ信長に協力して近江南部を平定し,足利義昭 (よしあき) の上洛を護衛した。 のち1570年姉川の戦いでは朝倉義景に味方して信長と戦って敗れ,'73年小谷城で自刃した。

    浅井長政

  • 28

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 室町幕府を支える有力大名細川氏の重臣として畿内で力をたくわえ、やがて主君の細川氏、さらには室町将軍をもしのぐ権力者へとのぼり詰める。 その勢力圏は、最盛期には山城・大和・摂津・河内・和泉の五畿内、そして阿波・淡路・讃岐・丹波・丹後・播磨東部にまで及んだ。

    三好長慶

  • 29

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 信長が徳川家康に紹介する際に、このようにいった。 「この老人は常人では一つとして為せないことを三つもしておる。主家(三好家)を乗っ取り、将軍(足利義輝)を誅殺し、そして奈良の大仏を焼いた。まったく油断のならぬ人よ」 松虫を飼育し、育て方を工夫したところ三年も生かすことができた。 そのことから「松虫でさえ飼い方次第ではこのように長生きする。人間は日々養生を心掛ければ長生きできるに違いない」といい、日々の養生に気を配った。また中風(脳血管障害などによる麻痺や半身不随)を予防するために、毎日決まった時間に頭のてっぺんに灸を据え、この習慣は自害する直前までやっていた。

    松永久秀

  • 30

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 戦国時代随一の文化人ともいわれ、歌道、茶道はもちろん、蹴鞠もたしなむ。 『耳底記(にていき)』の中では、太鼓を披露し、包丁さばきも凄かったと記されているほど。 鯉、鱸(すずき)、鷺(サギ)などを、幽斎自らがさばいて披露した記述もある。

    細川幽斎 (藤孝)

  • 31

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 人生のほぼすべてを、キリスト教に捧げた戦国武将。「キリシタン大名」と呼ばれた人物は数多くいるが、家や領地を犠牲にしてまで信仰を貫いた大名は、彼ただひとり。その強烈な信仰心と影響力から、「伴天連の大旦那」(ばてれんのおおだんな)と呼ばれ、当時の日本におけるキリシタンの中で、中心的役割を担った。キリスト教に入信したのは、1564年(永禄7年)の12歳の頃。父親が、イエズス会の修道士「ロレンソ了斎」(ロレンソりょうさい)と仏僧の討論会を聞いたのが発端である。ロレンソ了斎は、仏僧による疑問を整然と論破。深く感銘を受けて、即座に洗礼を受けた。

    高山右近

  • 32

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせ、さらに荒木村重の謀反や毛利氏の援軍などの好条件も続いて、一度は織田軍を撃退したものの、やがて秀吉の有名な「三木の干し殺し」戦法に遭い、神吉城や志方城などの支城も落とされ、毛利氏からの援軍も途絶えて、遂に籠城してから二年後の1580年(天正8年)、城兵達の命を助ける事と引き替えに妻子兄弟と共に自害して果てたという。介錯は家臣の三宅治忠が行った。

    別所長治

  • 33

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 82年本能寺の変で明智光秀から誘われたが郡山を動かず、山崎の合戦後羽柴秀吉に参じた。そのため洞ヶ峠で山崎の合戦の形勢を観望し、日和見をしたという俗説を生んだ。日和見することを洞ヶ峠あるいは洞ヶ峠を決め込むと表現することがある。しかし、彼が洞ヶ峠に布陣したということについては、良質の史料では全く確認することができない。

    筒井順慶

  • 34

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 家臣に対しては非常に気を使う優しい人物であった。『塵塚物語』によれば、家臣が持ち物を褒めるとたいそう喜び、どんな高価なものでもすぐにその者に与えてしまうため、家臣たちは気を使って、褒めずに眺めているだけにしたと伝えている。ある時、家臣が庭の松の木なら大丈夫だろうと思い、松の枝ぶりをほめたところ、その松を掘り起こして渡そうとしたため、周囲の者が慌てて止めたという。それでも諦めず、とうとう切って薪にして渡したという。世人は「もったいないことだ」と話したが、全く気にもしなかったという。また、冬には着ている着物を脱いでは家臣に与えていたため、薄綿の小袖一枚で過ごしていたともいわれる。『塵塚物語』は「天性無欲正直の人」と評している。

    尼子経久

  • 35

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 尼子氏の家臣として活躍し“山陰の麒麟児”の異名をとり、存命中から「楠木正成より勝る」と言われたほど卓越した武勇のセンスをもっていた。 三日月の前立てに、鹿の角の脇立てをつけた冑を身につけた姿で知られ、美男子でもあったとされる。

    山中鹿介 (幸盛)

  • 36

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 その梟雄(きょうゆう)ぶりは、弟をして「兄は腹黒く、何をたくらんでいるか分からない。会うときは服の下に鎖帷子(くさりかたびら)を付けたものだ」と語るほど。常套手段は娘の婚姻を利用して信頼関係を結び、相手を安心させたあとに暗殺。かと思いきや、譜代の家臣を手にかけることはなく大切にしたという一面も見せた。

    宇喜多直家

  • 37

    Ⅰ 以下の文章の中で備中高松城主とは誰か、選択肢から選べ。 備中高松城の周りは湖のようになり、城は孤立。総大将の毛利輝元ほか、小早川隆景、吉川元春らが、着陣したときには既に時遅し。一面水びだしで、手が出せない状況だったという。一方で、秀吉からの降伏の勧めにも応じることなく、籠城を続けていた。そんな折、秀吉のところへ、6月2日に織田信長自刃したとの知らせが届く。本能寺の変である。秀吉は明智光秀を討つべく和睦を一気に進める姿勢を見せる。ただし、和睦の条件が合わない。合意できずにいたのが、備中高松城主の切腹であった。秀吉側は直接交渉する。すると、なんの躊躇もなく切腹に応じた。

    清水宗治

  • 38

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 戦国時代に郡山城を拠点として中国地方のほぼ全域を制覇し、一代で大国を築き上げた「戦国の雄」と称された戦国大名。 75歳で病死するまで二百数十回におよぶ合戦をくぐりぬけた。長男・隆元、次男・元春、三男・隆景に与えた教訓を与えた「三矢の訓」の逸話が有名。

    毛利元就

  • 39

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 戦国時代の武将毛利元就 (もとなり) の2男。 吉川氏の養子となる。 尼子氏平定など山陰の経略に名をあげ,弟小早川隆景とともに「毛利の両川 (りようせん) 」といわれた。 のち豊臣秀吉の九州征討に参加し,小倉の陣中で没した。正室の新庄局は不美人であったという逸話がある。宣阿の『陰徳太平記』巻十六「元春娶熊谷信直之女事」によると、児玉就忠が縁談を薦めた際に不美人と評判だった熊谷信直の娘を自ら望み、驚いた就忠が確認すると「信直の娘は醜く誰も結婚しようとはしないので、もし、娶れば信直は喜び、命がけで尽くすだろう」と話したとある。この嫁取りは勇猛で知られる熊谷信直の勢力を味方につけるための政略結婚であったと言われているが、その一方で自らを女色に溺れさせないように戒める意味もあったとされている。

    吉川元春

  • 40

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 1550年8月、フランシスコ・ザビエルを引見。ザビエルが汚れた旅装のままで面会に臨む、ろくな進物も持たない、また彼の放蕩ぶり・仏教の保護・男色などを非難したため、布教の許可は下さなかった。1551年4月下旬、ザビエルを再び引見。ザビエルは一行を美麗な服装で飾り、珍しい文物を献上した。この時は、ザビエルに対して布教の許可を与え、拠点として大道寺を与えた。 また、彼の時代には領土的に文化が爛熟した。しかし、文治政治に不満を抱いた家臣の陶隆房に謀反を起こされ、自害。

    大内義隆

  • 41

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 戦国時代の武将で、大内氏の家臣。 大内義隆への不満から反乱をおこし、大内義長を後継ぎにして、大内家の実権をにぎる。その後、毛利元就と対立。 2人の武将の対立は折敷畑の戦い(おしきばたのたたかい)を経て、厳島の戦いへと連なっていく。厳島の戦いは日本三大奇襲のひとつに数えられ、元就の智謀によって合戦は即座に片が付き、毛利の圧勝に終わった。

    陶晴賢 / 隆房(すえ はるかた / すえ たかふさ)

  • 42

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 国司家一条氏を追い出し、土佐を統一した。その後各地の土豪を倒して四国を統一した。しかし豊臣秀吉の四国征伐に降伏し、土佐一国の領有を許された。秀吉の九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役に従軍した。 天正19年(1591年)1月、浦戸湾に迷い込んだ体長9尋の鯨を数十隻の船団と100人余の人夫でもって大坂城内へ丸ごと持ち込み、秀吉や大坂の町人を大いに驚かせた。

    長宗我部元親

  • 43

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 朝鮮との交渉は結果的に失敗し、1592年からの文禄の役では舅・小西行長の一番隊に属して日本軍の最先鋒として戦った。文禄・慶長の役のために悪化した朝鮮との関係を修復するように徳川家康から命じられ、1609年に朝鮮との和平条約を成立させた(己酉約条または慶長条約)この功績を家康から賞され、幕府から独立した機関で朝鮮と貿易を行なうことも許されている。  義父の小西行長の影響を受けてキリシタンにもなっていた。洗礼名はダリオである。朝鮮の日本軍を慰問したグレゴリオ・デ・セスペデス神父は「極めて慎み深い若者で、学識があり、立派な性格の持ち主」と評している。

    宗義智

  • 44

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 文禄・慶長の役では、まず前進基地のひとつとして壱岐国に勝本城の築城を指示された後、宗氏と共に朝鮮通として期待され、嚮導役を任された。弟信実、子の久信と共に出征し、大村喜前(純忠の子)、有馬晴信、五島純玄ら肥前の諸将は小西行長の一番隊に属して渡海し、緒戦より7年間に渡って活躍した。鵲院関の戦い、蔚山城の戦い、順天城の戦い、露梁海戦などで功を挙げている。朝鮮の役では24戦無敗であり、あまり注目されていないが、抜群の戦歴を残している。慶長19年(1614年)に没した。享年66。熱心な真言宗徒で、領内におけるキリシタンの排除も行なった。自ら建立して葬られた最教寺には彼の像がある。

    松浦鎮信

  • 45

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 「五州二島の太守」の称号を自らは好んで用いたが、肥前の熊の異名をとった。1580年、島津と通謀した筑後の蒲池鎮漣を謀殺し、次いで柳川の鎮漣の一族を皆殺しにし、また天正11年(1583年)に赤星統家が隆信の命に背いた際、人質として預かっていた赤星の幼い息子と娘を殺したため、隆信は麾下の諸将の一部からも冷酷な印象で見られるようになる。 ポルトガル宣教師のルイス・フロイスは「余りの肥満体のため、馬にも乗れず、6人かつぎの山駕籠にのって指揮していた」と記している。 「分別も久しくすればねまる」という言葉を残している。「ねまる」とは「腐る」の意で、熟慮も過ぎると却って期を逃したり、悪い結果になる事もあるので、ここぞという時は迅速な決断力が必要である、という意味である。

    龍造寺隆信

  • 46

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 龍造寺隆信とは義兄弟にあたり、そのため隆信を諫言することが多かったといわれる。はじめのうちは隆信と仲が良く、隆信と並んで「龍造寺の仁王門」とまで称されたが、晩年の隆信が酒色に溺れると次第に疎まれて遠ざけられたという。秀吉に「天下を取るには知恵も勇気もあるが、大気(覇気)が足りない」と評されたという。

    鍋島直茂

  • 47

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 当初はキリシタンを嫌悪していたが、1580年に洗礼を受けてドン・プロタジオの洗礼名を持ち、以後は熱心なキリシタンとなった。1582年には天正遣欧少年使節を派遣。沖田畷の戦いにおいては、教皇から贈られた「聖遺物」を胸に懸け「大きな十字架を描いた上に我らの文字で聖なるイエズスの名を記した」軍旗を掲げて勇戦した。またこの合戦に先立って誓願を立て、長崎近傍の浦上の地をイエズス会に寄進した。1587年に秀吉が禁教令が出すまで、数万を超えるキリシタンを保護していたという。その後も個人的にはキリスト教信仰を守り続けていた。    

    有馬晴信

  • 48

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 当初は禅宗に帰依していたが、後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州6か国を支配して版図を拡げた。しかし、薩摩から北上した島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名となった。

    大友宗麟

  • 49

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 法号の由来は「道に落ちた雪は消えるまで場所を変えない。武士も一度主君を得たならば、死ぬまで節を曲げず、尽くし抜くのが、武士の本懐である」というものである[。このため現在「義」に篤い武人として評価されている。ある時、大友宗麟が凶暴な猿を手元に置き、これが家臣に飛び掛るのが面白くて何度もけしかけた事があった。毎日のように迷惑を掛けられた家臣は辟易し、大変困り果てた。これを聞いて、他の家臣と同じように宗麟の前へ出向いた。案の定、宗麟が猿をけしかけてきたので、鉄扇で叩き殺してしまった。驚く宗麟に「人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う」と諫言したので、宗麟は大変反省した。

    立花道雪

  • 50

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 徳川家康は本多忠勝に命じて、彼を大坂に招き、耳川の戦いの顛末を聞いた。かくかくしかじかと話をし、やがて退出した後、家康は「いやはや、かねて聞いていたより恐ろしい大将である、いにしえの楠木正成に勝るとも劣らない采配ぶりである」と感心したという。 また、ある時、彼は家康に合戦での手柄話を乞われた。「弟たちや家臣団を遣わせて合戦し、勝利をおさめたというだけであって、自分の働きなどひとつもない」と答え、家康は「自ら手を砕くことなく勝利を得ることこそ源頼朝に並ぶ大将の道」と感心している。

    島津義久

  • 51

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 江戸時代初期に国分地方(現鹿児島県霧島市国分)においてタバコの生産を奨励したといわれる(『大日本農功伝』) 貧しい土地柄で換金性の高い農産物の乏しかった南九州において、タバコの収入は以後貴重な薩摩藩の収入源となった。

    島津義久

  • 52

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 自室に歴史上の大悪人の肖像画を飾っていた。不思議に思った家臣が、なぜ悪人の肖像画を飾っているか問うと、「良い行いは、自らがしようと思えば出来る。だが、悪い行いというのは知らず知らずのうちにしてしまうものだ。常にこの連中の顔を見て、こいつらと同じ真似はするまい、そう心がければ、道を誤まることはない」と答えている。この時代の武将には珍しく、本人の当時の肖像画は残存していない。『要用集』下巻に「御画像・御影・御牌所は妙谷寺で、御廟所は福昌寺」とあり存在していたのは間違いないようだが、廃仏毀釈により同寺が廃寺となった際、またはそれに伴い大平神社へ移管された際に失われたようである。そのため容貌に関しては不明である。鹿児島県薩摩川内市の泰平寺に銅像がある。

    島津義久

  • 53

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 許三官仕込みの医術や茶の湯、学問にも秀でた才能を持つ文化人でもあった。また、家臣を大切にしていたので多くの家臣から慕われ、死後には殉死禁止令下であったにも関わらず13名の殉死者も出すに至っている。敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山に建設している。愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格だったといわれている。朝鮮在陣中に妻に送った手紙の中に、「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、家族を心から愛する人となりが窺える。

    島津義弘

  • 54

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 1543年、ポルトガル商人が乗った明船が種子島に漂着した。この南蛮商人は、日本人がはじめて見る鉄砲を持っていた。16歳だった彼は射撃の実演を見てその威力に着目し購入を決断する。そして購入した二挺のうち一挺を鍛冶職人八板金兵衛に調べさせて国産化を命じ、金兵衛は苦心の末に、日本人の手による銃の製造に成功した(もう一挺は島津氏を通して、室町幕府将軍足利義晴に献上)。伝来の場所から鉄炮は種子島銃とも呼ばれ、戦国期の日本の戦場に革命をもたらした。

    種子島時尭

  • 55

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 在位中の1609年(万暦37年、慶長14年)に薩摩藩の島津氏に侵攻され、降伏した。以後、琉球は日本(薩摩藩)に属し、日本の意向で貿易のため明にも属している形をとらされることになる。彼は薩摩藩によって江戸に連行され、征夷大将軍の徳川秀忠に、駿府(すんぷ)では徳川家康に謁見、後に琉球に戻された。 琉球では彼の統治の時代、浦添から首里までの道が整備され、西原間切と首里の境界である平良川に石造の太平橋が築かれた。

    尚寧

  • 56

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 ルイス・フロイスのは評価は以下の通りである。 「信長の重立ちたる将軍二人中の一人」 「はなはだ勇猛な武将であり、一生を軍事に費やした人」「信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人」 「彼は禅宗であるが、他の宗旨を憎まず」 フロイスたちの越前でのキリスト教の布教については、いっさい妨害はしないが手助けもしない、教えが広まるかどうかは宣教師たちの「テガラシダイ(手柄次第)」だと述べたという。

    柴田勝家

  • 57

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 この人物は名刀「あざ丸」を所有していたことがあった。しかし、それを手に入れてからというものの眼病に悩まされるようになった。実はこの刀はかつて熱田神宮の神職でもあった織田方の武将である千秋季光の所有していたものであり、加納口の戦いで千秋が戦死した際に斎藤道三の家臣である陰山一景(掃部助)が「あざ丸」を鹵獲したものの、直後の織田方との戦いで陰山は両目を射抜かれてしまった、といういわくつきの刀剣であった。そこで周囲の人々の助言に従って熱田神宮へ「あざ丸」を奉納し、以降は眼病に悩まされなくなったという。

    丹羽長秀

  • 58

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 夜が更けるのを待って少数の近臣と共に勝龍寺城を脱け出し、近江坂本城を目指して落ち延びようとした。 坂本城には光秀の妻子もいた。 しかし、山科小栗栖にさしかかった時、竹薮から突き出された竹槍に刺されて重傷を負い、その場で自刃して果てた。三日天下という四字熟語は、短期間権力を握ったことに由来した言葉。 たった13日間という短い期間だけ権力を握る。 3日というのは短期間を表す言葉。

    明智光秀

  • 59

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 豊臣秀吉が覇権を握ってからは、大坂で茶人として復帰し、千利休らと親交をもった。しかし、有岡城の戦いでキリシタンに恨みを持っていたため、小西行長や高山右近を讒訴して失敗。秀吉の勘気を受けて長く引見を許されなかった。さらに、秀吉が出陣中、秀吉の悪口を言っていたことが北政所に露見したため、処刑を恐れて出家した。

    荒木村重

  • 60

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 『絵本太閤記』が何らかの史実に基づいてこの場面を描いたのかは不明であるが、これによると、織田信長に拝謁した時に「摂津国は13郡分国にて、城を構え兵士を集めており、それがしに切り取りを申し付ければ身命をとして鎮め申す」と言上した。これに対して、信長は腰刀を抜き、その剣先を饅頭を盛っている皿に向けて饅頭3、5個を突き刺して、「食してみろ」と目の前につき出した。周りにいたものは青ざめてしまったが「ありがたくちょうだいします」と大きな口を開け剣先が貫いた饅頭を一口で食べ、それを見ていた信長は大きな声を上げて笑い、その胆力を賞して摂津国を任せたという。

    荒木村重

  • 61

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 鉄砲の名手であることを聞き付けた織田信長は、自身立会いのもと、射撃の検分を実施。この時、約50m離れた約30cm四方の的に、火縄銃の弾丸を100発撃ち込み、72発が命中。これにより、織田信長に召し抱えられるようになった。なお、堺は当時、鉄砲の生産地であった。1575年の長篠の戦いでは、織田信長と徳川家康の連合軍が武田信玄の後継者武田勝頼の騎馬隊と設楽原(したらがはら・現在の愛知県新城市)で激突。騎馬の侵入を防ぐ馬防柵(ばぼうさく)を築き、3,000丁もの鉄砲を擁する圧倒的な兵力で、武田軍を大敗させる。このとき、鉄砲隊の総指揮にあたったのが、鉄砲を知り尽くした彼であった。

    滝川一益

  • 62

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長や豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍し、志摩国を支配して3万5000石の禄を得た。こうした経歴とその勢威から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称をとった。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、戦後家康に許されたが、答志島で自害した。海賊の大将として荒々しい人物のイメージが強いが、茶道に造詣が深く、津田宗及の茶会にしばしば参加したり、逆に自身が宗及を招いて幾度も茶会を催すなどしており、数寄者としての側面もあったようである(『宗及記』)

    九鬼嘉隆

  • 63

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 石山本願寺攻めでは、大砲をのせた鉄張りの船を製造して、毛利軍を打ち破った。この時堺港で鉄張り船を見た南蛮人は大変驚いた。九鬼水軍は小田原城の北条氏攻めと豊臣秀吉の朝鮮出兵の時も活躍した。朝鮮出兵の時は伊勢国大湊で製造した日本丸と云う巨大船団を率いて九鬼水軍の長として戦った。日本の船団の中心となった日本丸は長さ33メートル・漕ぎ手100人だった。日本丸は豊臣秀吉が名づけた。 子孫に九鬼隆一、九鬼隆義、九鬼周造、九鬼隆平(福岡ソフトバンクホークス捕手)、九鬼紋七(九鬼産業創業者)などがいる。

    九鬼嘉隆

  • 64

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 槍術に優れ、その秀でた武勇から、「鬼武蔵」と称された。武名に似合わず小兵と伝わり、赤穂大石神社に伝わる甲冑の大きさは極めて小さく、それを裏付けている。 非常に気性の激しい人物で、他の織田家臣団の奉公人を些細なことで怒りに任せて槍で突き殺したり、同僚に暴言を吐くなどして諍いを起こすことも少なくなかった。「人間無骨」の銘が彫られた二代目和泉守兼定(之定)作の大身の十文字槍を愛用していた。これは、この槍の前では「人間の骨など無いも同然」という鋭い突き味を持っていた事から名付けられたとされ、事実、初陣でこの槍を振るい、27にも及ぶ首級を挙げたという。

    森長可

  • 65

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 1587年の九州征伐で功をあげたことを契機に、その後の九州国分では肥後一国を与えられた。秀吉は早急な改革を慎むように指示したとも言われるが、病を得ていたために、早速に検地を行おうとするが、それに反発する隈部親永を中心とする国人が一斉蜂起し、これを自力で鎮めることができなかった(肥後国人一揆)。 1588年2月、謝罪のため大坂に出向いたが、秀吉に面会を拒否され尼崎に幽閉される。秀吉は安国寺恵瓊による助命嘆願に耳をかすこともなく、加藤清正を検使として、切腹を命じた。切腹の時、短刀を横一文字に引いたあと、臓腑をつかみ出して天井に投げつけたといわれる。

    佐々成政

  • 66

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 「早百合(さゆり)」と言う美しい側室がいたとされる。この早百合を深く寵愛してはばからず、早百合は懐妊する。それが嫉妬を呼んだか、ある時、城を留守にした時に、「早百合が密通している。お腹の中にいる子どもは彼の子ではない」と言う噂が流れた。帰城して、これを聞くと、烈火の如く怒り、有無を言わさず早百合を神通川の川沿いまで引きずり、髪を逆手に取り宙に引き上げ、殺してしまった。それだけでなく、早百合の一族18人全ての首をはね、獄門に磔にしてしまう。

    佐々成政

  • 67

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 三間半柄(約6m30cm)の長く派手な造りの槍を持ち歩き、初陣以降、緒戦で槍先による功を挙げた武辺者であったため、槍の又左の異名で称えられた。 初陣した萱津の戦いでは、合戦の際に目立つ様、自ら朱色に塗った上記の三間半柄の槍を持って首級ひとつを挙げる功を立て、信長からは「肝に毛が生えておるわ」賞賛された。元服直後に参戦した稲生の戦いでは、合戦中に敵方の宮井勘兵衛により右目の下に矢を受け、味方が引くことを促すも「まだ一つも首級を挙げてない」と顔に矢が刺さったまま敵陣に飛び込み、弓を射た宮井本人を討ち取る功を立てた。 細身で端正な顔立ちの美貌で知られた。その容姿のために信長から寵愛を受けていた。 男性の平均身長が157cm程度の時代に6尺(約182cm)を誇る類稀なる恵まれた体格の持ち主で、前述のように顔も端正であったことから、非常に見栄えのいい武将であったと言われている。

    前田利家

  • 68

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 本能寺の変の後、豊臣秀吉に仕え、茶人として頭角を現す。ついには「わび茶」の完成者・千利休の高弟「利休十哲」に数えられるまでになり、武家茶道「有楽流」を確立。さらには彼の屋敷があったとされる町に「有楽町」(東京都千代田区)という名まで付けられた。

    織田長益(有楽斎)

  • 69

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている。また、本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという。また、指が1本多い多指症だったという記録がある。右手の親指が1本多く、信長からは「六ツめ」とも呼ばれていた。多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、周囲から奇異な目で見られても生涯六指のままで、天下人になるまではその事実を隠すこともなかったという。しかし天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせたりした。

    豊臣秀吉

  • 70

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 ルイス・フロイスは、外見以外については、 優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。 極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。 抜け目なき策略家であった。 彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた。 ほとんど全ての者を汝(うぬ)、彼奴(きゃつ)呼ばわりした。 などと記している。

    豊臣秀吉

  • 71

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 通称の「小六」の名で広く知られる。 尾張統一を果たした織田信長の配下となり、自分より11歳も若い豊臣秀吉の側近として軍事面で活躍。 一方で優れた政治手腕を発揮し、秀吉の天下取りに大きく貢献した。  彼の子孫のひとりが明治天皇に拝謁するため宮中に参内して応接室で天皇を待っていた際、愛煙家だった彼は卓上に置いてあった煙草を一本失敬した。 その後入室した明治天皇は煙草が1本なくなっていることに気づき「先祖は争えぬのう」と「盗賊」だったといわれる先祖を引き合いにしたジョークを言ったという。

    蜂須賀正勝

  • 72

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 天才軍師の人物像が固まり、現在の人気に至っている。しかしながら『信長公記』などに記されている記述は少なく実態はよく分かっていない。また、秀吉の正式な家臣であるという記述も一次史料には見当たらず織田家から秀吉に付けられた与力武将の一人であると見られている。 『太閤記』や『常山紀談』などによると、体が弱く見た目は痩身で女性のようであり、出陣するときも静かに馬に乗っているだけだったという。容貌が婦人のようであったことから、主君の斎藤龍興をはじめとする斎藤家臣団から侮られ、龍興の寵臣である斎藤飛騨守に櫓の上から嘲弄され、小便を顔にかけられたことがあった。数日後、飛騨守が龍興居室の宿直を務めていたとき、稲葉山城に詰めていた弟・重矩の看病のためと称して武具を隠した箱などをもって入城し、そして重矩の居室で武装して宿直部屋に居た飛騨守を斬殺して稲葉山城を乗っ取ったとされている。

    竹中重治 (半兵衛)

  • 73

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という3人の天下人に仕えた。 戦わず交渉で敵を降伏させるという希有な才能に長け、軍師として秀吉の天下統一に大きく貢献した。 また、福岡城の築城や町の区画整理に関わるなど、福岡にゆかりがある。 高山右近や蒲生氏郷らの勧めによってキリスト教に入信し「シメオン」の洗礼名を与えられた。

    黒田如水(官兵衛)

  • 74

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 頭部に醜い瘡があったと言われる。これは有岡城にて投獄されていたときに患ったものとされる。長期に渡って劣悪な環境の土牢に押し込められていたため、救出された際に足腰が立たず、背負われて城を脱出したとされる。なお、左脚の関節に障害が残り、歩行や騎行がやや不自由になり、以後は合戦の指揮も輿に乗って行なうようになったとも言われるが、これの最も古い出典は大正時代の『黒田如水傳』である。 また、風流人で和歌や連歌などをたしなんでおり、幼い頃から源氏物語などを読み母親の明石氏などの影響もあり教養深かったとされる。

    黒田如水(官兵衛)

  • 75

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 幼少期から数々の武勇伝をもつ。 子どもの頃に大人と喧嘩をしたときは鑿で相手を叩きのめしたことや、無類の大酒呑みで酒癖が悪かった。泥酔して家臣に切腹を命じ、翌朝になって間違いに気付いたがもはや取り返しがつかず、その家臣の首に泣いて詫びたという逸話もある。 安芸広島に入国する際に船に地嵐と呼ばれる風が吹いたため、「国入りの初めに地が荒れてよきものか」として何の罪もない水主(船頭)を斬り捨てた。

    福島正則

  • 76

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 藤堂高虎や黒田孝高と並ぶ築城の名手として知られ、熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わった。また飯田直景、大木土佐らと穴太衆を用いて領内の治水事業にも意欲的に取り組んだ。この結果、現在も遺構が多く存在する。その土木技術は非常に優れており400年以上経った現在も実用として使われている遺構も少なくない。このとき莫大な人手をまかなうため男女の別なく動員したが、給金を払い必要以上の労役を課すことなく、事業の多くを農閑期に行う事によって農事に割く時間を確保したという。

    加藤清正

  • 77

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 キリスト教宣教師たちは「この若者は叔父とはまったく異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった」「穏やかで思慮深い性質である」などと記している。また、古筆を愛し、多くの公家とも交流を持つ当代一流の教養人でもあった。天正16年以前に『源氏物語』を書写させて所持していた。学問の上達ぶりを賞賛する公家の手記が現存する。一方、在野の学者である藤原惺窩などは彼を低く評価し「学問が穢れる」と相手にしなかったといわれている。

    豊臣秀次

  • 78

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 茶湯に深い理解があり、千利休に師事し、利休七哲の一人(筆頭)にまで数えられており、利休からは「文武二道の御大将にて、日本におゐて一人、二人の御大名」と評された。千利休の影響を強く受けており、桑田忠親は「彼が如何に利休に私淑していたかは、その筆跡が利休のそれに酷似していることによっても分かるであろう」と指摘している。利休が処罰された時、利休の子・千少庵は彼のもとに逃れて、一年半ほど庇護を受けた。 またある時、1万石の約束で召し抱えた橋本惣兵衛という家臣が酒宴の際に「自分は子を多くもっておる。10万石をくれるとあらば、1人くらい川に捨てても構わん」と豪語した。彼はこの発言を耳にして激怒し、惣兵衛を呼び出し「そんなことを言う人間は人間の道から外れている。お前の給与は1000石に減らす」と言い、取り分を1000石に減らしたという。

    蒲生氏郷

  • 79

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 中国地方を治めた武将毛利元就の三男。 毛利家の発展に尽力した人物。 水軍の指揮官としての能力に秀でていた彼は「厳島の戦い」で陶晴賢(すえはるかた)の水軍を破り、毛利家の勝利に大きく貢献した。「分別とは何か」と質問した黒田長政に対し「長く思案して遅く決断する。分別の肝要は仁愛で、仁愛を本として分別すれば、万一思慮が外れてもそう大きくは間違わない」と答えた。

    小早川隆景

  • 80

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 豊臣秀吉、徳川家康らに仕え、関ヶ原の戦いの小山評定において率先して徳川方に従った功績により、土佐国9万8千石を与えられた。その後、高直しにより20万2,600石に加増された。身体は太り過ぎで、目が少し赤く、志は広く、性質は温和で、自分のことは語らず、諸士に対して情け深く、礼儀正しく会釈をし、遊学を事とせず、部下を愛し、常に言葉は和やかで、口数は少ない。しかし戦場では多弁になり、大声で叱咤し、言葉もはっきりしている。平常食事をする時、箸先をつけられるが、まことに上品である。酒は盃に二、三杯を限度として、茶の湯や能はわずかにもて玩ぶ程度であったといわれている。

    山内一豊

  • 81

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 室町・戦国時代の日本の医師。後世派医学の開祖であり、広く医聖と称された。 曲直瀬道三・永田徳本などと並んで日本における中医学の中興の祖である。関東一円を往来して医療を行い多くの庶民を病苦から救った。足利学校で医学を学び、23歳の時に明国へ12年間留学し、李医学や朱医学を学んだ。 名医・曲直瀬(まなせ)道三は彼から医学の手ほどきを受けた。

    田代三喜斎

  • 82

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 日本医学中興の祖として田代三喜・永田徳本などと並んで「医聖」と称される。1584年、豊後国府内でイエズス会宣教師オルガンティノを診察したことがきっかけでキリスト教に入信し、洗礼を受ける(洗礼名はベルショール)当代第一流の文化人でもあり、特に茶の湯のたしなみが深かった。宮本義己は道三の茶の湯執心の一因が禁裏や当世の有力者との交際を確保するための必要な手段であったと分析している。著書は『啓迪集』以外にも『薬性能毒』『百腹図説』『正心集』『指南鍼灸集』『弁証配剤医灯』『黄素妙論』『雲陣夜話』など数多く、数百人の門人に医術を教え、名医として諸国にその名を知られた。

    曲直瀬道三

  • 83

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 本草学にも通じ、103歳の頃に甲斐における葡萄栽培法の改良(ぶどうの棚架け法)も行ったとする伝説もある。江戸時代に入ったのち、将軍徳川秀忠の病を治癒し、その際も報酬を受けずに立ち去ったと言われるなど、その人生は謎と伝説に包まれている。一時、友人の林信時の子である、若き日の林羅山を弟子としていたが、羅山の非凡な才能を視て他の職に進むように勧めたとされる。

    永田徳本

  • 84

    Ⅱ 実学を好み「『論語』『中庸』『史記』『貞観政要』『延喜式』『吾妻鑑』を好んだ」と記されている。これらの書物を関ヶ原以前より木版(伏見版)で、大御所になってからは銅活字版(駿府版)で印刷・刊行していた。特に『吾妻鑑』は散逸した史料を集めて後の「北条本」を開板し、また林羅山に抄出本を作成させており、吾妻鑑研究の草分け的存在と言える。また『源氏物語』の教授を受けたり、三浦按針から幾何学や数学を学ぶなど、その興味は幅広かった。 古典籍の蒐集に努め、駿府城に「駿河文庫」を作り、約一万点の蔵書があったという。これらは御三家に譲られ、「駿河御譲本」と呼ばれ伝わっている。

    徳川家康

  • 85

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 愛槍は「甕通槍」といい、甕もろとも突き抜けて敵を倒したという逸話がある。長篠の戦いを前にした軍議では、鳶巣山の攻略を提案したが、信長に嘲笑された。しかし軍議が終わった後に信長は彼を呼び戻し、鳶巣山の夜襲を命じた。これは信長が秘密の漏洩を恐れていたためであり、軍議が終わって諸将が退出した後、信長は密かに呼び出し「先ほどは、作戦の情報が武田方に漏れる恐れがあったゆえ、わざとお前の発案を却下したが、お前の発案は理にかなった最善の作戦だ。作戦の指揮はお前に任せるから、直ちに作戦を実行せよ」と命じた。戦いが終わった後、信長は活躍を賞して「前に目あるのみにあらず、後にも目あり(前だけでなく後ろにも目があるかのような活躍ぶりだ)」と述べた。

    酒井忠次

  • 86

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 「容顔美麗にして、心優にやさしければ、家康卿親しく寵愛し給い」との記録があるように、美男子として知られ(『甫庵太閤記』、『塩尻』、『徳川実紀』など)、家康が豊臣秀吉に従属する前に、家康に懐柔策のため人質として送られてきた秀吉の母・大政所やその侍女達が、惚れ込んだという。また、もてなしがとても丁寧だったという理由もある。 家康の寵童だったといわれている。また、家康は自邸の庭近くに家居を作らせて折々通っていた(『徳川実紀』、『天元実紀』) 気性が激しく、家臣のわずかな失敗も許さずに手討ちにすることも少なくなかったため、「人斬り兵部」とも称されたという。また、家臣に気安く声を掛けることも殆ど無かったという(元来、寡黙な性格ではある)しかし、政治的手腕は非常に優れていたため、箕輪城主の頃は、城下の民衆から慕われていた。

    井伊直政

  • 87

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 三河大樹寺で学んだ能筆家としても知られ、行政能力に長けており、家康の書状もよく代筆したとされる。小牧・長久手の戦いの際に前年に信長の三男・織田信孝を殺害したという秀吉非難の文言も、達筆な文字であちこちに記された。家康の嫡男・松平信康は勇猛だが乱暴な一面もあった。このため信康にたびたび諫言したため遂に信康は激怒して弓で射殺しようとした。だが、少しも動じず泰然としていたため、逆に信康のほうがその態度に気圧されて諫言に従った。

    榊原康政

  • 88

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられている。織田信長はその並はずれた武勇を武田征伐後「花も実も兼ね備えた武将である」と侍臣に紹介した。 豊臣秀吉には「日本第一、古今独歩の勇士」と称された。 関ヶ原の戦い終了後、福島正則は武勇を褒め称えた。彼は「采配が良かったのではない、敵が弱すぎたのだ」と答えたという。榊原康政とは同年齢ということもあり、仲が良く親友同士だった。 戦場に出て敵と戦う時の槍働きは古今無双だったが、教練などでの槍術は甚だ不器用で戦場での彼を知らぬ人が見ると意外と思ったという

    本多忠勝

  • 89

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 秀吉が築いた姫路城を大幅に改築し、今日、白鷺城と称えられる優美な城郭を築き上げた。 芹が好きで、備前国御野郡に生えるものを上物としその芹を取ることを禁じていた。しかしある士がこれを盗んでしまったので百姓たちは家臣の萩田庄助に訴えた。そのことを聞かされて「それはただ取ったのか、あるいは盗んだのか」と問うと、庄助は「盗んだのです」と答えたので「芹を強引に取ったのなら憎いが、盗んだということならきっと私と同じ芹好きではないだろうか。そのままにせよ」と許したという。

    池田輝政

  • 90

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 父と同じくキリシタン大名であった。バテレン追放令により、秀吉から改宗を迫られ、父が率先してキリスト教を棄教すると自らも改宗した。徳川政権下では迫害者に転じ、領内でキリシタンを厳しく処罰したという。また、戦後、家臣の黒田一成に命じ、当時一流の絵師を集めて自らも参陣した『大坂夏の陣図屏風』(通称『黒田屏風』)を描かせたが、その絵の中には徳川軍の乱妨取りも詳細に描かれており、何故徳川方の彼が、味方の残酷極まりない有り様をこの大作に描かせたのか現在も論争が絶えない。また、藩主となって以降、数々の産業を奨励し博多人形や博多織、高取焼など伝統工芸の復興に力を入れ、現在に至るまで福岡の名産品となっている。

    黒田長政

  • 91

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 黒田孝高、加藤清正と並び、「築城三名人」の一人と称される。数多くの築城の縄張りを担当し、層塔式天守を考案。高石垣の技術をはじめ、石垣上には多聞櫓を巡らす築城の巧みさは、その第一人者といっても過言ではない。阿閉氏の元を出奔し浪人生活を送っていた若き日に空腹のあまり、三河吉田宿(現・豊橋市)の吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食し、そのことを店主の吉田屋彦兵衛に正直に白状して謝罪した。だが彦兵衛に「故郷に帰って親孝行するように」と諭され路銀まで与えられる。吉田屋の細君もたまたま近江の出であったという。後日、大名として出世した際に、参勤交代の折に立ち寄り、餅代を返したという人情話が伝えられている。

    藤堂高虎

  • 92

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 近江国のある寺院に、鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り、寺小姓に茶を所望した際、寺小姓は最初に大きめの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな心遣いに感服した秀吉は彼を家臣としたという逸話がある。これが俗に「三杯の茶(三献茶)」と呼ばれる逸話である。息子が記した寿聖院『霊牌日鑑』では彼が秀吉に仕えたのは18歳の時に姫路においてと記されていること等から、後世の創作であるとする説もある。

    石田三成

  • 93

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 大坂城の天守で城下を見下ろしながら、石田三成は「秀吉公のおかげで町が繁栄したので、人々には豊臣家の繁栄を願わないものはいないだろう」と話した。これを聞くと「権力者のところには誰でも集まってくるもの。城下には貧しい人々も大勢おり、軍備にばかりお金をつぎ込むのはもってのほかです」と進言した。関ヶ原合戦での戦いぶりは、徳川方をして「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」と恐れさせたことが『常山紀談』に記されている。江戸初期、筑前福岡城において、関ヶ原に出陣した武将達がその服装について若侍相手に語り合ったが、指物、陣羽織、具足に至るまでそれぞれ記憶が違い、理由をその恐ろしさに記憶が曖昧であったとしている。

    島左近 (清興)

  • 94

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 慶長の役で日本軍の捕虜となった朝鮮の官人・姜沆は『看羊録』の中で「つつしみ深く、ゆったりと大らかで、わが国(朝鮮)人の性質によく似ている」と記しており「朝鮮人の鼻削ぎなどの残虐行為を見て、哀れだと思う心を持っていた」と、敵ながら彼の人格を称えている。織田信長との戦いを長期にわたり繰り広げたが、それを可能にしたのは強力な海軍力と、石見銀山(大森銀山)からの富によるものであった。織田信長と天下を競うほどの勢力を誇った要因に、この石見銀山に支えられた経済力があったのである。曲直瀬道三とは格別に親密な交流があった。

    毛利輝元

  • 95

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 1581年、父の病没により9歳で家督を相続。翌年毛利征伐のため出陣してきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)に気に入られ、養子扱いの厚遇を受ける。本能寺の変ののち、秀吉の天下取りの戦いに積極的に参戦、数々の戦功を挙げ、天下統一後は備前国・美作国・播磨国西部と備中国東半の57万4千石を知行する大大名に躍進した。1589年には、前田利家の娘で秀吉の養女となった豪姫を正室に迎えている。

    宇喜多秀家

  • 96

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 一生のうちに一度だけ笑ったという伝説がある。あるとき飼っていた猿が、近くに置いた頭巾を取って、樹にのぼった。枝に腰をかけて頭巾をかぶり、手をそろえて座敷の彼に向かっておじぎをした。その途端に、思わず笑ったとされる。 秀吉に招かれて上洛するとき、数百の供を連れた。兵は将兵共によく威信が行き届いており、行軍中は無駄口を叩かず粛然としており、人馬の歩む音がするだけだったという。

    上杉景勝

  • 97

    Ⅲ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 伏見城にて、伊達政宗が同席していた諸大名に金銭を回覧させ、これ見られよと言った時に、それを素手ではなく扇子で受け撥ねるようにして表裏を見た。政宗は「遠慮をすることはない」と直接手に触れて見るように勧めたところ「賎しき物を取れば汚れるので扇に載せています」と、政宗の下へ投げ返した。 徳川政権下の頃、あるとき江戸城の廊下で伊達政宗とすれ違うも、会釈すらせず素知らぬ顔で素通りした。政宗がこれを咎めると「政宗公とは戦場では幾度もお目にかかっておりましたが、いつも(負けて逃げる)後ろ姿しか拝見したことが無かったため、一向に気がつきませんでした」と返答をした。

    直江兼続

  • 98

    Ⅳ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 関ヶ原の戦いの翌年、1601年に京都の伏見から米沢へ下向した時の事跡を自ら日記に記しているが、和歌や漢詩、伝説に対する個人的な見解がちりばめられるなど、高い教養をうかがわせる。道中日記の記述から、少なくとも3人の朝鮮人を召使いとして従えていたことが分かる。その親が病にかかってしまったため、菩提山城の城主(竹中重門か)に書状を送って預け、子2人と旅を続けた。

    前田慶次

  • 99

    Ⅰ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 最初の主君である武田信玄を生涯において敬愛し、絶対の忠誠を誓っていた。天正13年(1585年)12月に信玄の墓所を自領である真田郷内に再興しようとした。また、信玄に幼少期から仕え、信玄全盛期の軍略や外交を見て模範にしていたとされる。秀吉と碁を打っていた際、秀吉が「信玄は身構えばかりする人だった」と評した。それに対して「信玄公は敵を攻めて多くの城を取ったが、合戦に手を取る事なくして勝ちを取ったもので、敵に押しつけをした事は一度もない」と答えたと伝わる。

    真田昌幸

  • 100

    Ⅱ 以下の文章の内容に合う人物を、選択肢から選べ。 8歳の時、見世物があった。見物中、群集の中で争論が起り、ついには殺される者がでた。人々は慌てふためき逃げ散る中、少しも恐れる様子もなく「今日の見世物はこれで終わりか」と付き添いの者に尋ねた。早く逃げましょうという付き添いに対し、笑って「お前たちが慌てるとはおかしな事だ。我々はあの争論の相手ではないのだから、どうしてこちらに切りかかってくることがあろうか。まだ見世物も終わっていないのに、ここから立ち去る必要もあるまい」といい、すべてを見終ってから帰ったという。

    立花宗茂