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日本史探究
67問 • 5ヶ月前
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    問題一覧

  • 1

    人類が他の動物と異なる点は、道具をつくり自然に働きかけ、火を使用し、共同生活のなかで(①)を発達させていったことである。 初期の人類は、石を打ちかいつくった(②)をおもな道具として、狩りや漁、植物の採集を行っていた。 この時代を(③)という。

    ①言葉②打製石器③旧石器時代

  • 2

    いまから約1万1500年前に温暖な完新世が始まると、木を加工しやすいよう表面をみがいた(①)が使われるようになり、人々は木造の(②)に住むようになった。 食料を煮たり貯蔵したりできるように土器がつくられ、食生活が豊かになった。 この時代を(③)という。

    ①磨製石器②竪穴住居③縄文時代

  • 3

    紀元前4世紀ごろになると、大陸から水稲耕作と金属器が伝わり、 食料生産をおもな生業とする(①)時代が始まった。 この時代には、収穫物を湿気や害虫から守りたくわえておく(②)もつくられるようになった。 8世紀前半の日本には、(③)という女王を立てた(④)という国も成立した。

    ①弥生②高床倉庫③卑弥呼④邪馬台国

  • 4

    以下の説明のうち、正しいものを1つ選び、 記号で答えなさい。 ア 時代区分については、資料が文字であろうと非文字であろうと、自然科学的手法を用いて年代が、正確に特定できたとして   も、時代から時代への移行期の理解しだいで、時代の区切りは変化する。 イ 文字資料のない時代の実年代の決定には、放射性酸素C14を用いた年代測定法など、 自然科学のを借りる必要がある。 ウ 文字資料で歴史を組み立てられる 時代を歴史時代、 それよりも前を前史時代という。

  • 5

    3世紀後半ごろ、近畿地方から瀬戸内海沿岸各地に(①)とよばれる大きな墳丘を持つ古墳がつくられるようになった。 4世紀初めには、古墳をつくった各地の王が大和地方の王を盟主として(②)といわれる政治的な連合体を形成していたと考えられる。 盟主となった王は、のちに(③)とよばれた。 5世紀初めからほぼ1世紀のあいだ、(②)の5代の王(④)は、軍事的支配権を示す高い称号をえようと中国南朝に朝貢した。 5 世紀前半には大阪平野に誉田御廟山古墳や(⑤)のような巨大な古墳がつくられた。

    ①前方後円墳②大和王権③大王④倭の五王⑤大仙陵古墳

  • 6

    6世紀末、物部氏を倒し政権をにぎった大臣(①)は、 (②)とともに国政改革を開始した。 やがて中国に(③)が送られるようになり、とだえていた国交が再開した。 国内では人材登用や外交上の必要性から(④)が、天皇中心の国家秩序確立のため官僚としての心構えを豪族たちに説く(⑤)がそれぞれ定められた。

    ①蘇我馬子②厩戸王③遣隋使④冠位十二階⑤憲法十七条

  • 7

    平安時代、 ときの天皇の外戚が幼少の天の摂政となって、天皇の成人後は関自となって、 政治の実権をにぎるのが慣例となった。 こうした政治のありかたを(①)といい、あいつぎ摂政・関自を出した家柄は摂関家とよばれる。 摂関家の勢いが最もさかんだったのは、(②)と、その子頼通の時代だった。 平安時代には、貴族の住居の建て方として(③)が発達した。 また、文学の世界では、字が音を表す(④)の考案から創作活動が活発化し、紫式部の『(⑤)』など多くの名作が世に出た。

    ①摂関政治②藤原道長③寝殿造④仮名文字⑤源氏物語

  • 8

    中大皇子、中臣鎌足(のちの藤原鎌足)らによって開始され、公地公民、中央集権的な政治体制、戸箱・計帳の作成、統一的税制の導入などを内容とした一連の政治改革を(①)という。 中大兄皇子は即位して天智天皇となり、その死後、皇位継承をめぐり、子の大友皇子と弟の大海人皇子が争い、大海人皇子が大友皇子を倒した。 このできごとを(②)という。 大海人皇子は、やがて即位して天武天皇となった。 公されるという制度を(①)という。 701 年、藤原鎌足の子、不比等と刑部親王らにより完成された、刑割と統治組織や政治運用に関する諸規定を(③)という。 律令制のもと、戸籍にもとづき実施きれた、 6歳以上の男女に口分田を班給、死後は収公されるという制度を(④)という。 710 年、元明天皇により、藤原京から移された奈良の都を(⑤)という。政府は、日分田不足で土地政策 の 転換を迫られ、743年(⑥)を出して一定範囲で塾田の私有を認めた。これをきっかけに中央の貴族や 大寺社は大規模な開墾を進め、墾田を農民に貸して経営を始めた。こうした私有地を(⑦)という。

    ①大化の改新②壬申の乱③大宝律令④班田収授法⑤平城京⑥墾田永年私財法⑦初期荘園

  • 9

    東国を拠点にしていた源氏は、前九年合戦と後三年合戦を通じ、各地の武士と主従関係を結び、武家の(①)とあおがれるようになった。 一方、保元・平治の乱を経て勢力を伸ばした平氏の長、平清盛は 1167(仁安 2)年、武士として初めて(②)となった。 1180年、以仁王の令旨に呼応した源氏一族は、 平氏打倒の声をあげ、伊豆の(③)や木普の源義仲らが挙兵した。 幾度かの戦いを経て平氏を誠ぼした(③)は、鎌倉に御所を新造し、鎌倉殿とよばれ関東を支配した。 鎌倉の家末は特に(④)といわれ、鎌倉殿と御思と奉公の関係を結んだ。 やがて鎌倉には(④)を統制する(⑤)や公文所、問注所などの役所が設けられた。

    ①棟梁②太政大臣③源頼朝④御家人⑤侍所

  • 10

    中世の寺社の勢力拡大についての、 次の説明のうち、誤っているものを1つ選び答えなさい。 ア 呪法や修法で顧望をかなえるとされた締教は、平安時代から貴族の信仰を集め、国家と仏教が支えあう存在とする考え方が生まれた。 イ 大寺社は僧兵や神人を使いしばしば朝廷への強訴に及んだので、 朝廷はこれに対処するため、公家を武装させ組織化した。 ウ 天皇家や貴族出身の僧侶は寺院内でも高い地位につき、住坊·院家を中心に独立的な勢力を築いた。 エ 上皇たちの帰依を受けた大寺院は、地方の寺院を支配下に置き、多くの荘園をたくわえ、僧兵を組織した。

  • 11

    中世日本の国際交流について次の説明のうち、正しいものを1つ選び、記号で答えなさい。 ア 中国から日本に輸入された品には、元は酒の容器だったが、日本では骨査になったりと、本来とは違う用途で使われたものもあった。 イ 12世紀から 14世紀にかけて蘭漢道障らの渡海僧や栄西らの渡来僧が、貿易船に便乗し行き交った。 ウ 15世紀前半、東シナ海周辺で活動した金元珍は、朝鮮人でありながら朝鮮国では「漢人」とよばれるなど国際人として活躍した。 エ 15世紀から 16世紀に中国からの輸入品で高級舶来品の証である唐物として最も役立ったのは銅銭であった。

  • 12

    1199年、源頼朝が亡くなると、将軍を 補佐する役目の重要度が高まり、 やがてその地位は執権とよばれ代々北条氏に引きつがれていった。 1221(承久 3)年、朝廷の権力復活をめざす(①)が承久の乱を起こし、幕府軍に鎖圧された。 その後、都には京都警備と西国の御家人統括を職務とする(②)が管かれた。 1232 年、3代執権であった(③)は初の武家法典となる貞永式目(御成敗式月)を制定した。 中国北方から勢力を伸ばし一大帝国を築いたモンゴルの5代皇帝(④)は都を大都(北京)に移し、1271年に国号を元と称した。 やがて元は文永・弘安年間の2度 、日本に軍を送り幕府軍と戦ったがともに勝利には至らなかった。 この2度の襲来を(⑤)という。

    ①後鳥羽上皇②六波羅探題③北条泰時④フビライ・ハン⑤元寇

  • 13

    1333年、鎌倉幕府が滅亡すると大覚寺統から即位した後醍醐天皇は(①)といわれる新政を開始した。 時天皇側についた足利尊氏はやがて離反し京都からのがれたが、ふたたび京都に攻めのぼり、持明院統の光明天皇を即位きせると、後醍開天皇は吉野にのがれて皇位を主張し、以後約60 年、京都の(②)と吉野の(③)が並立した。 この間、1338年に氏が(②)から征夷大将軍に任じられ(④)が成立することとなった。 その後3代将軍(⑤)は、南北朝の合一を実現させた。

    ①建武の新政②北朝③南朝④室町幕府⑤足利義満

  • 14

    室町幕府の8代将軍(①)は失敗を重ね、幕府の実権はしだいに有力大名の細川勝元と山名宗全に移っていった。 この二氏は、やがて厳対関係に陥り、これに将軍の後継問題などもからみ、1467年、京都を二分する(②)が起き戦いは11年余り続いた。 やがて争いは地方に波及し、国を支面する守護の力のおとろえに乗じ、各地で守護代や領国内の有力家臣が領国経営の実権を握る動きが強まった。 こうした、身分が下の者が上の者の権限をうばったり、 その地位についたりする風潮を(③)という。 この風潮は、(②)の前後から強まり、 東国ですでに始まっていた享徳の乱とも連動し、以後、百数|年にわたる(④)時代 が始まる。 この 時代、実力により新しい支配体制を築いた大名を(⑤)とよぶ。 例えば越後では、守護代長尾景虎が主家の上杉氏をつぎ(⑥)と名のり、領国を支配した。

    ①足利義政②応仁の乱③下克上④戦国⑤戦国大名⑥上杉謙信

  • 15

    連歌について、次の説明のうち正しいものを1つ選び、答えなさい。 ア 多数の有名な和談の上の句と下の句を別々の紙に書いて分解して並べ、交五に取り合ってできた正しい組み合わせの数を破う遊び。 イ 和歌の上の句と下の句を次々に人がよんで連ねる、新形式の歌。

  • 16

    東山文化について、 次の説明のうち正しいものを1つ選び、答えなさい。 ア 室町幕府8代将軍足利義政のころの文化慈照寺銀閣は代表的な建築。のちの茶道や華道の基礎もこの頃に形づくられた。 イ 室町幕府3代将軍足利義満のころの文化。鹿苑寺金閣は代表的な建築。このころ京都五山を中心に漢文学が最盛期を迎えた。

  • 17

    次の図は、1560年ごろの諸大名の勢カ分布を示した図である。 図に肖像が描かれている5名の大名(上杉議信、武田信玄、今川義元、毛利元就、 島津貴久)のうち、守護以外の身分から大名となった人物の組み合わせとして正しいものを次のア〜エから答えなさい。 ア 武田信玄、今川義元 イ 島津費久、武田信玄 ウ 上杉謙信、毛利元就 エ 上杉議信、今川義元

  • 18

    尾張の大名(①)は、桶狭間の戦いで今川義元に勝利するとその後勢いを増し、ついには宅町幕府を倒し琵密湖に面した地に安士城を築き全国統一の拠点とした。 安士城下では商工業者に自由な営業を認める(②)が実施され都市の繁栄はかられた。(①)は本能寺の変で家臣の明智光秀にそむかれ自害したが、同じく家臣だった羽柴秀吉が光秀を倒し、その後のにも勝利して、 全国統一を進めた。 秀吉は、石山本願寺跡地に(③)を築き、 朝廷から 1585年に関白、翌年には太政大臣に任ぜられ豊臣姓があたえられた。 信長・秀吉の時代の文化を桃山文化という。 障艇画では(④)が水墨画と大和絵を融合させた桃山様式を完成きせた。 芸能では(⑤)がかぶき踊りを考案し評判をよんだ。

    ①織田信長②楽市・楽座③大阪城④狩野永徳⑤出雲阿国

  • 19

    豊臣秀吉の死後、 五大老のひと(①)が大きな力を持つようになった。 (①)は、(②)で石田三成らの軍をやぶり、 全国的な支面配権を確立し、1603 年に朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開いた。 その後、なお勢力を持っていた秀吉の造児、 豊臣秀頼を(③)・夏の陣でやぶり、 豊臣氏をほろぼした。 江戸府では、統一政権としての幕府と、大名が支配し独立した領地を持つ藩とによって全国の土地と人民を支配する(④)というしくみが機能していた。 江戸幕府の3代将軍(⑤)は1635年、武家諸法度を改定して参勤交代の制度を加えた。

    ①徳川家康②関ヶ原の戦い③大阪冬の陣④幕藩体制⑤徳川家光

  • 20

    幕府による支配の確立に関して、 次の説明のうち正しいものを1つ選び、答えなさい。 ア 徳川氏一族は御三家、関ヶ原の戦い以前に家康に仕えた家を読代、以後にしたがった家を外様という。 イ 徳川氏一族は親藩、 関ヶ原の戦い以前に家康に仕えた家を古参、以後にこしたがった家を譜代という。 ウ 徳川氏族は親藩、 関ヶ原の戦い以前に家康に仕えた家を外様、以後にしたがった家を譜代という。 エ 徳川氏族は親議、 関ヶ原の戦い以前に家康に仕えた家を譜代、以後にしたがった家を外様という。

  • 21

    江戸時代の社会では、武士や百姓、(①)、職人などがそれぞれの職能により区分された身分を形成したが、これらとは別にえたや(②)とよばれる身分の人々もいた。 百姓は、検地候に記載された本百姓と耕地を持たぬ(③)に分かれていた。 村に住む百姓は数戸ずつ(④)に編成され、犯罪防止や年貢納入に連帯責任を負わされていた。 江戸時代初め、徳川家康は東南アジア諸国に親書を送り、渡航証明書を発給した船による(⑤)の許可を求めた。 また幕府は、この貿易で長崎にもたらされた生糸の購入価格を決めて括輸入する(⑥)を始めるなど貿易振興をはかった。

    ①町人②非人③水呑百姓④五人組⑤朱印船貿易⑥糸割符制度

  • 22

    江戸時代には諸産業の発達も見られた。 例えば製塩業では瀬戸内海沿岸で浜辺に提防を築く(①)が発達し、生産量が増大した。 貨幣制度も整備され、鉄貨では全国共通の(②)が大量に鋳造され中国鉄や模造銭を駆逐した。 社会構造の変化は、大都市の形成にもおよび、17世紀後半には江戸・大坂・京都が(③)とよばれ突出した人口規模を誇るまでに成長した。 江戸では旗本・御家人に支給される俸禄米が(④)とよばれる商人に委託販売され、最終的には底民の1に入るという流通経路が確立された。 一方、大坂は「天下の台所」とよばれ、全国から年度米や産物が集まり諸藩の(⑤)に収められた。 また、江戸時代には東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中の(⑥)などの交通網も整備された。

    ①入浜式塩田②寛永通宝③三都④札差⑤蔵屋敷⑥五街道

  • 23

    島原・天草投についての説明のうち正しいものを1つ選び、 答えなさい。 ア 幕府は、仏教徒とキリスト教信者の区別を明備化するために、 宗門改めを行った。 イ 幕府は、キリスト信者を根絶するために、宗門改めを行い、寺請制度を実施した。 ウ 幕府は、九州では、2年ごとに絵略をさせて、キリスト教信者の摘発につとめた。 エ 幕府は、すべての人をどこかの寺の檀家とし、京門人別改帳を国ごとにつくらせた。

  • 24

    1716年、紀州藩主(①)が8代将軍となり、享保の改革が始まった。 この時代は、手工業生産にも変化がみられ、京都の西陣から高機が伝わると、北関東では問屋商人が原料や資金を農家に前貸しし、製品を受けとる(②)もあらわれた。 庶民の初等教育機関である(③)は、18世紀半ばから19世紀半ばにかけて増加・普及した。 文化面で(④) が南画(文人画)の世界で秀作を残し、また俳句の世界でも活躍した。 画家には動植物に趣材をとった色彩豊かな作品で知られる(⑤)もいる。 浮世絵から発展した錦絵の分野では、(⑥)が多くの美人画を描き人気を博した。

    ①徳川吉宗②問屋制家内工業③寺子屋④与謝蕪村⑤伊藤若冲⑥喜多川歌麿

  • 25

    11代将軍徳川家斉のころ、 自河藩主(①)が老中になり、寛政の改革を進めた。同じころ、諸藩でも(②)が行われ、特産物の増産や専売制度による財政立て直しなどで大きな成果をあげる藩もあった。 このころ、日本近海にはロシア船が出没し幕府が危機感をつのらせる中、1792年に(③)がロシア使節として根室に来航、通商を求めたが、 幕府は長崎への入港許可をあたえたのみで退去させた。 以後もロシアの接触は続き、 蝦夷地の地理情報取得の必要性を意識するようになった幕府は、探検隊を派造するなどした。 その後、幕府天文方の高橋至時に師事した(④)は、蝦夷地から始まり、 本列島全域の海岸線を測量し、その成果は死後『大日本沿海東地全図』としてまとめられたが、幕府はこれを機術扱いとした。 この時代の文化は化政文化といわれ、長編小説『南総単見八犬伝I が好評を博した(⑤)や大胆な構図と被密な描写の浮世絵作者(⑥)などが活躍した。

    ①松平定信②藩政改革③ラックスマン④伊能忠敬⑤曲亭馬琴⑥葛飾北斎

  • 26

    寧保の改革に関する説明のうち、正しいものを1つ選び、答えなさい。 ア 敵争原理をはたらかせるため、株仲間による独占的営業を禁じた。 イ 町人出資による新田開発を禁じ、農民による開組を奨励した。 ウ 倫約令を出し、上米の制を定めるなど財源確保につとめた。 エ 財政難のもとで人材を奪用するため、相対済し令を出した。

  • 27

    下記の資料①、②の作品の作者として正しい人物を答えなさい。

    ①葛飾北斎②司馬江漢

  • 28

    (①)で清が敗北し開国したとの報に、幕府は異国能打払令をあらため薪水給与令を発したが、オランダ国王の開国勧告には応じなかった。 しかし、1854 年アメリカから来航し開国を迫ったべリーとの間で(②)を締結し、イギリス 、ロシア 、 オランダとも同様の条約を結ぶにいたり、幕府の領国政策は終務を迎えた。 さらに 1858年、大老の(③)が勅許をえず調印した日米修好通商条約は、治外法権の承認、(④)など日本に不利な内容であった。 続いて、オランダ、ロシア 、 イギリス、フランスともほぼ同様の条約を結んだ、その後、 1866年の(⑤)で輸入税が切り下げられ、不平等性は層強まった。

    ①アヘン戦争②日米和親条約③井伊直弼④関税自主権の欠如⑤改税約書

  • 29

    勅許をえず通商条約を結んだ幕府の外交方針を批判する(①)は、将軍の後継間題で大老と対立する。 派と結びつき幕府を攻撃した。 その後、桜田門外の変が起き、幕府の専制的政治は崩壊し始めた。 1862 年、公武合体論者島津久光の大名行列を横ぎったイギリス人を摩藩士が殺傷した(②)がおきると、薩摩藩、長州藩を中心に政局はますます混迷を深めた。 1866年(③)らの仲介で薩長盟約が成立すると、薩長両藩は討幕運動の中核となった。 このころ、回内では凶作や地震に物価上昇が重なり、生活に苦しむ民衆が増え、百姓 投や打ちこわしが激発し、1867 年には「(④)」 の踊りが流行して社会の誕迷はますます深まった。 15代将軍となった徳川慶喜が1867 年に大政奉還を申し出て政権を返上すると、朝廷は王政復古の大号令を発し、天中心の新政府の樹立を宣言した。 これにともなう諸改革や社会の変化を(⑤)という。

    ①尊王攘夷派②生麦事件③坂本龍馬④ええじゃないか⑤明治維新

  • 30

    戸籍法と解放合について、 正しいものを1つ選び答えなさい。 ア 新政府の統治下では、大名を領主とする諸藩のうち有力な部はそのまま残り新政府は旧幕府の直轄領と中小藩を支配した。 イ 新政府は江戸時代の身分制度を解体し、新たに華族、士族、 平民、えた·非人の区分を設定し、「四民平等」を実現した。 ウ 新政府は徴税をしやすくするため、1871年、 戸籍法を公布して家(戸)を通じて回民を直接把握することとした。 エ 1869 年新政府は版籍奉還を各藩に命じたが旧藩主を知藩事に任命したため各藩には依然独自の軍事力と徴税権があった。

  • 31

    自由民権運動の発展について、正しいものを1つ選び選びなさい。 ア 1877 年6月、立志社の片岡健吉は建白書を提出し、国会開設、地租軽減、条約改正、成文憲法制定の4項目 を要求した。 イ 民権運動は全国規模に発展し、1880年3月には国会期成同盟が結成され、天皇に対して国会開設請願書が提出された。 ウ 広まる民権運動に対し政府は、1880年4月、政治集会開催や政治結社の活動を制限する集会条例を制定し鎮静化を図った。 エ 1880 年11月の国会期成同盟第2回大会で、 次回大会までに各政社に意法草案(私擬憲法)擬出が義務付けられた。

  • 32

    新政府による、経済を発展させて国力をつけ、軍備の整備を進める近代化の方針を(①)政策という。 また、 この政策の実現のために、近代産業の保護·育成をめざし実施されたさまざまな政策を(②)という。 その環として 、政府は、群馬県の(③)など官営模範工場を経営し、軽工業部門の指導にあたった。 一方、北海道には開拓使を設識し、各地から移住してきた士族や農業兼業の兵士である(④)などを従事させ、西洋の農業技術を取り入れた開拓事業を進めた。 西洋文明をとりいれて近代化をはかろうとした政府は、江戸時代までの大陰暦に代わり、1873年(⑤)を実施した。 1872年に(⑥)を公布し、小学校教育の普及を中心に大学までの学校制度を定めた。 教育制度の整備と並行して、知識人による欧来の近代思想の紹介も進み、人間の平等と民主主義思想を説いた(⑦)の 『学問のすすめ』はベストセラーとなった。

    ①富国強兵②殖産興業③富岡製糸場④屯田兵⑤太陽暦⑥学制⑦福沢諭吉

  • 33

    幕末に結ばれた不平等条約改正を目指す新政府は、1871年に(①)使節団を欧米に派遣したが思うような成果は得られなかった。 外交では、1871年に日清修好条規を結んだが、朝鮮は当初国交を拒み、1875年の(②)を機に、 翌年日朝修好条規(江華条約)の締結にいたった。 国王による統治を行っていた統球については、1879年、地元民の反対をおさえつけて(③)を実施し、沖縄県を設置した。

    ①岩倉②江華島事件③琉球処分

  • 34

    明治時代におこった文明開化について、次の問いに答えなさい。 下記の資料は、明治時代の新橋ステーションを描いたものである。 図から読みとれる文明開化のようすを1つ書きなさい。

    日本に初めて鉄道が生まれた。

  • 35

    国会開設を約束した政府は(①)らをヨーロッパに派遣し、近代国家の憲法や諸制度を調査させた。 やが、て1889年、(②)が発布された。 また、これと同時に皇位の継承などについて定された(③)も制定された。 その他の法典整備も進むか中、 1890 年に公布された民法は、フランス民法典をモデルとしつつ、従来の日本の法制度を反映させたものだったが、日本の伝統に反すると非難をあびるなど(④)がくり広げられた。

    ①伊藤博文②大日本帝国憲法③皇室典範④民法典論争

  • 36

    1879年、外務卿井上答は(①)により日本の近代化を欧米に示すことで、不平等条約改正の進展をはかったが、期待どおりの効果はえられず、1894年、(②)外相のもとでようやく領事裁判権の撤廃に成功した。 外交問題では、朝鮮をめぐる日本と清の関係が次第に悪化し、1894年、ついに日清戦争が勃発した。 約1年の戦いは日本の勝利に終わり、1895年、(③)の調印で講利和にいたった。 戦後、 軍拡と地組増徴をめぐって政局は迷し、第8次伊藤内開退陣後に細織された、第1次大限重信内閣では内務大臣に板垣送助が蔵任し、この内関は(④)とよばれた。

    ①欧化政策②陸奥宗光③下関条約④隈板内閣

  • 37

    憲法の制定に関する次の説明のうち正しいものを1つ選び、答えなさい。 ア 伊藤博文らの起草した憲法草案は、機密院で審議されたのち、1889年2月11日に大日本帝国憲法として発布された。 イ 帝国議会は、皇族·華族や動選議員、多額納税者の五選議員からなる族院と、 公選議員からなる衆議院との二院制だった。 ウ 大日本帝国憲法は、民定憲法であり、天皇が国の元首として統治権のすべてをにぎるという天皇主権制が定められていた。

  • 38

    資本家と労働者に関する次の説明のうち、正しいものを1つ選び、答えなさい。 ア 労働組合結成の動きに対し、政府は治安警察法で集会·結社を制限する方、工場法で労働条件を厳しくした。 イ 日清戦争後には、労働組合が結成されるようになり、貨金引きあげや労働条件の改善を求める小作争議が増加した。 ウ 明治時代、繊維産業で働く労働者の大部分は女性(女エ)で、 賃金は低く1日12時間以上の、厳しい労働に従事していた。

  • 39

    1886年以降連の(①)が制定され、小学校から帝国大学までの体系的学校教育制度が確立され、日清戦争とその利、政府の教育政策を通じ、日本という国家のまとまりへの強い意識や国民としての意識、 すなわち(②)が定着していった。 文学の世界では、(③)が発生し、小説の表現方法が変化した。 一方、詩歌の分野では、貧窮生活のなかにある自己の悲哀や苦悩を作品に投影し、社会の矛盾を表現した(④)が活躍した。彫刻界では、(⑤)らが伝統的な木彫を近代能刻として再興し、西洋絵画では、(⑥)らが白馬会を結成し、洋画発展の基礎を築いた。

    ①学校令②ナショナリズム③言文一致運動④石川啄木⑤高村光雲⑥黒田清輝

  • 40

    19 世紀後半、 資本主義の発展にともない、 資源獲得や投資市場を求め、 軍事力でアジア·アフリカを植民地や勢力範囲に組みこもうとする(①)とよばれる膨張政策が列強の間に広まった。 日清戦争に敗北した清もその対象になり、欧米諸国が進出を加速させた。 清の国内では、(②)などこれに対する排外運動が起きたが、日本をふくむ列強がこれを鎮圧すると中国はさらに体化していった。 これ以降、韓国や満洲をめぐり日露間の緊張が高まり、1904年、 ついに(③)が始まった。 そのさなか、日本は第1次日韓協約を結び、韓国の財政と外交に介入を開始、ポーツマス条約調印により日露戦争が終結すると韓国支配を本格化し、1910年には軍事力を背景にした条約により韓国を(④)した。 一方、日露戦争によりロシアから利権を継承した遼東半島の租借地は関東州と名づけられ、旅順に(⑤)が置かれた。 中国では、1911年に(⑥)がおこり、中華民国が建国された。

    ①帝国主義②義和団戦争③日露戦争④併合⑤関東都督府⑥辛亥革命

  • 41

    大日本帝国憲法と同時に公布された衆議院議員選挙法において、 選挙人がどのような人に限られたかを説明しなさい。

    直接国税15円以上おさめる満25歳以上の男性に限られた。

  • 42

    日英同盟と日露戦争に関する次の説明のうち誤っているものを1つ選び、答えなさい。 ア 1904年、日露戦争が始まり、日本陸軍は旅順、奉天と敗戦を重ねたが、海軍が日本海海戦で圧勝し戦争を逆転勝利に導いた。 イ 義和団戦争後も満洲に居座るロシア軍に対し、政府は韓国がロシアに支配されるとの危機感から、日英同盟を結び対抗策をとった。 ウ 戦争継続が困難になった日露両国は、アメリカの韓旋でポーツマス条約を結び講和したが、日本は賠償金を獲得できなかった。

  • 43

    次の資料は、英同盟が結ばれた当時の国際関係を風刺したものである。 図中のア〜エの人物のうち、当時のロシアを表している人物を記号で答えなさい。

  • 44

    1914年におこった(①)で、日本は日英同盟を提拠に連合国側に加わったが、 戦場からは遠く、 さほど被害も受けないまま終戦を迎えた。 この間、日本では(②)が進み、海運や造船など国際競争力を持つ産業が急成長した。 社会構造も変化し、都市ではサラリーマンが増加し、教師やバス車掌などの職種では(③)と呼ばれる女性の就業も拡大した。メディアは、大衆化が進み、新聞の発行部数の急速な伸長やラジオ放送の開始、映画も無声から有声の「(④)」が登場するなど、 変化が見られた。 学問・思想では(⑤)が、各地の農山漁村で民話や生活を調査し、民俗学を打ち立てた。

    ①第一次世界大戦②重化学工業化③職業婦人④トーキー⑤柳田国男

  • 45

    1915年、日本は中国に(①)を示し権益拡大をはかった。 中国では、1919年、日本の対中政策に反発する学生や労働者らがストライキなどを行う(②)がおきた。 1921年から翌年にかけ開かれた(③)で海軍軍縮が決まると日本はこれに同調の方針を取ったが、対中国では強硬政策を保った。 関東軍の部が満洲支配を企て武力行使の機会を狙うなか、中国では日本製品をボイコットする(④)が高まった。

    ①二十一か条の要求②五・四運動③ワシントン会議④日貨排斥運動

  • 46

    1929年の世界恐慌の影響は、(①)に復捕直後の日本経済を直撃し、日本は昭和恐慌とよばれる不況におちいった。 その後、政府の(①)からの離脱や財政支出の拡大政策、円安による輸出増加などが追い風となり、国内の景気は急速に回復し、化学工業では(②)とよばれる企業集団が成長するなどした。 内政では、 昭和恐慌下で会不安と国民の不満がつのるなか、議会政治や政党政治の暴力的破壊をめざす動きが加速し、1932 年には犬養殺首相が海軍青年将校の団に官邸で射殺される(③)が、1936 年には陸軍皇道派の青年将校が首相官邸や警視庁を襲撃し、高橋是清蔵相や斎藤実内大臣らを殺害する(④)が発生した。

    ①金本位制②新興財閥③五・一五運動④二・二六運動

  • 47

    関東軍は、奉天郊外の柳条湖で南満洲鉄道の線路を爆破して中国軍の行為と主張し、のちに(①)とよばれる軍事行動を開始した。 1937 年7月7日、北京郊外の虚溝橋での日中両国軍の武力衝突を機に(②)が始まった。 さらに、1939年、独ソ両国のポーランド侵攻で(③)が勃発した。 日本はドイツとの関係強化をはかり、1940年に(④)に調印した。 一方、中国での日本の軍事行動をめぐり日来関係は悪化した。 国内では、東条英機内閣が成立、アメリカのハル国務長官から日本軍の全面撤兵など対日強硬提案が示された結果、1941年12月、(⑤)が始まった。 やがて兵力不足を補うため学徒出陣が、 労働力不足を補うため勤労動員が命じられたが戦局は悪化の途をたどり、 1945年3月の(⑥)のような、都市とその住民を標的とした大規模な無差別爆撃をくりかえすようになった。 4月には、 アメリカ軍が沖縄島に上陸し、住民をまきこんだ悲惨な地上戦がくりひろげられた。 8月には、広島と長崎に原子爆弾が投下された。 政府は8月14日、(⑦)の受諾を連合国に通知し、8月 15日、天皇がラジオを通じて国民に(⑦)を受諾したことを伝えた。

    ①満洲事変②日中戦争③第二次世界大戦④日独伊三国軍事同盟⑤アジア太平洋戦争⑥東京大空襲⑦ポツダム宣言

  • 48

    新産業の成長に関する次の説明のうち、正しいものを1つ選び、答えなさい。 ア 鉄射業では、第次世界大戦中、急増する需要に対応できなかったが、戦後、鞍山製鉄所を強化して供給能力を増強した。 イ 三井三菱·住友の三大財閥は、同族が経営する持株会社が鉱工業、商社、銀行など 傘下企業の株式を保有し市場を支配した。 ウ 第次世界大戦中に完成した福島県の猪苗代水力発電所は、高圧送電により、関西方面への女価な電力供給を可能にした。 エ 第次世界大戦中、 敵国となったドイツからの輸入がとだえたことにより、薬品や染料、人造肥料などの国内化学工業は衰退した。 オ 軽工業では、国内の賃金上昇にともない、 安価な労働力を求め、 日本企業による東南アジア方面への工場進出が盛んになった。

  • 49

    立憲政治の動橋とテロ事件に関する次の説明のうち、正しいものを1つ選び、 記号で答えなさい。 ア 二・二六事件後に成立した広田弘殺内閣は、軍部の意向を無視できず、 軍部大臣現役武官制を復活させ、軍備拡張を容認した。 イ 浜口内閣の軍縮条約締結をめぐって、 統帥権干犯問題がおき、 陸軍の部と国家主義者や政友会が、内閣をはげしく攻撃した。 ウ 五・一五事件のあと、 斎藤実内閣と聞田啓介内閣は「挙国一致」をかかげたが、財政支出拡大を唱える蔵相高橋是清は解任された。 エ 二・六事件が鎮圧された後、事件を主導した陸軍皇道派は勢力を失い、それとともに、軍部の政治的発言力も弱まっていった。 オ 民政党の浜口内閣の外相幣原喜重郎は、英米との協調につとめ、 ワシントン海軍軍縮条約を結んで補助艦艇の制限を約束した。

  • 50

    次の資料は、満州国がかかげた「五族協和」を宣伝するチラシである。 図中に描かれた五族に含まれる民族をすベて答えなさい

    日本 蒙古 満洲 朝鮮 漢

  • 51

    降伏文書に調印後、 日本には(①)を最高司令官とする GHQ/SCAP が設置され、 日本政府に指令して占領政策を実施する間接統治の方法がとられた。 戦争犯罪の疑いのある政府や軍部の指導者は逮捕され、うち28名はA級戦犯として起訴され(②)で審理された。 GHQ は経済の民主化をめざし、政府に財関解体と(③)を実施させた。 1946年11月に(④)が公布され、翌年5月から施行されると、 これにもとづき、制度改革が行われた。 教育も民主化がはかられ(⑤)が制定された。 労働組合育成の方針から、労働組合法、労働関係調整法、労働基準法の(⑥)も制定された。

    ①マッカーサー②極東国際軍事裁判③農地改革④日本国憲法⑤教育基本法⑥労働三法

  • 52

    1947 年ごろから米ソ間で、(①)とよばれる対立構造が鮮明になった。 1949 年、アメリカが両ヨーロッパの自由主義諸国に対する軍事、経済上の接助を開始し、(②)と呼ばれる共同防衛体制をかためると、ソ連は東ヨーッバの社会主義諸国との相五防衛体制を構築し、1955年にワルシャワ条約機構を発足させた。 アジアでは、朝鮮作島で、北結 38度線をはさんで、アメリカとソ連による分割占領が行われ、1948年、大韓民国(韓国)と(③)に分かれて独立したが、1950年6月、両国間で(④)が勃発した。 南には米軍が主力の回連軍が加わり、 一進一退の戦いが続き、朝鮮半島は荒廃した。在日アメリカ軍が朝鮮に 出動すると、 GHQ の指令により、日本には(⑤)が創設された。国内経済においては、アメリカがGHQ 経由で指令した経済安定九原則やドッジ·ライン、 シャウプの勧告などの施策によりインフが鎮静化し、回復基調にあった経済は(④)による特需もあり、立ち直りのきっかけをつかんだ。

    ①冷戦②北大西洋条約機構③朝鮮民主主義人民共和国④朝鮮戦争⑤警察予備隊

  • 53

    1951年に、日本はアメリカなど48か国との間で(①)を調印した。 翌年、この条約が発効し、連合国による日本の占領が終了すると、日本は独立国としての主権を回復した。 (①)の謝印と同日、(②)も調印され、 極東の平和と日本の安全に寄与するとの名目で、 占領終了後も米軍の日本駐留が継続されることになった。 吉田内開は、1952 年から54年にかけ、(③)、スト規制法、新警察法などを相次いで成立させ、GHQによる占領下での政策に修正を加えると、 国民に 戦前への回婦を想起させた。 その後、吉田内閣が退陣すると、 改憲などをめぐり政覚の再編が進み、自由民主党と日本社会党の二大政覚が対立する(④)とよばれる政治体制が成立した。 1960年、国内では、新たな(②)の調印をめぐり、 労働組合、全学連、一般市民らによる(⑤)とよばれるはげしい反対運動がおこった。

    ①サンフランシスコ平和条約②日米安全保障条約③破壊活動防止法④55年体制⑤安保闘争

  • 54

    第二次世界大戦後の世界では、植民地が独立をはたし、多くの独立国が誕生した。 これらの国々のなかには、1955年にインドネシアのバンドンで開かれた(①)のように、米ソ以外の第三勢力として平和をめざす動きもみられた。 また、米ン間で核の均衡のうえに平和共存をはかる情勢が生まれ、1968年には 62 か国により(②)が調印された。 西欧諸国は、経済的結東を強め、1967年に、(③)を発足させた。 1960年末、南北べトナムでおきた軍事衝突は、北に中ソ、南にアメリカが軍事介入して規模が拡大し(④)となった。 日本政府は、「持たず、作らず、 持ちこませず」の(⑤)の遵守を国会答弁で明言し、アメリカと領士返還交渉を行い、1971年に(⑥)の調申にいたった。

    ①アジア・アフリカ会議②核拡散防止条約③ヨーロッパ共同体④ベトナム戦争⑤非核三原則⑥沖縄返還協定

  • 55

    財間解体と農地改革に関する説明で正しいものを1つ選び、 記号で答えなさい。 ア 当初、不在地主の農地所有いっきい認められず、 在村地主の小作地は平均10町歩まで(北海道では40町歩)とされた。 イ 1947年には、いっさいの独占的細織を禁ずる独立禁止法が制定され、執行機関として公正取引委員会が設営された。 ウ 日本政府が自主的に決定した農地改半案はGHQに評価され、第 次と第一次の2回に分けて、1946年11月から実施された。 エ GHQは同族経営のもとに多角的経営を行い、独占的地位を有する財閥を反民主的存在とみなし1945年末に解体を求めた。 オ 農地改革で多くの小作人が自作農になり、土地を Fに入れた農民は生産意欲を高めたので、経営規模も拡大した。

  • 56

    経済女定政策について、 次の説明のうち正しいものを1つ選び、答えなさい。 ア 1948年12月、アメリカ政府は GHQを通じ、第2次吉田内閣に、経済女定八原則を指令した。 イ GHQの経済顧間として来日した銀行家のドッジは、1ドルー120円の単為替レートを設定し、輸出板興をはかった。 ウ 官公庁労働者の争議行為の禁止、 労働運動の左右両派への分裂、国鉄関係の事件の続発などで労働運動は沈滞していった。 エ デフレ政策と増税により大企業の倒産が増えたことに加え、行政整理や企業の人員整理が進んだ結果、失業者が増加した。 オ ドッジ·ラインやシャウプの勧告などの政策により、 1949年のなかごろにはインフレが鎮静化し、中小企業を中心に生産が回復してきた。

  • 57

    日本国憲法の根本精神を1つ答えなさい。

    主権は国民にある

  • 58

    日本国憲法において、天皇はどのような存在とされたか、文章から20字以内で抜き出しなさい。

    日本国の象徴であり日本国民統合の象徴

  • 59

    1979 年の米中国交正常化により、それまで続いてきた米ソの対立構造は変化し、 冷戦下での(①)が進んだ。 インドシナ半島では、1976 年に南北ベトナムが統合され、ベトナム社会主義共和国が成立した。 一方、ソ連は1979年、親ソ政権擁護のため(②)に侵攻したが、反政府派によるはげしい抵抗と国際的な批判にさらされた。中東では、1979年にイランで革命がおきたが、翌年、イラクがイランに侵攻して(③)となり、 1982 年にはイスラエルがレバノンに侵攻した。日本国内では、米中国交正常化を受けて中国との国交正常化を求める声が高まり、1972年の日中共同声明を経て、1978年には、(④)が結ばれた。 戦後、長らく国会の議席でな定多数を確保してきた自由民主党だが、1976 年にアメリカの航空機売りこみをめぐり(⑤)と よばれる汚職事件がおき、田中前首相が逮捕されると党内に動揺が広まった。

    ①デタント②アフガニスタン③イラン・イラク戦争④日中平和友好条約⑤ロッキード事件

  • 60

    1971 年8月、アメリカが発表したドルと金の交換停止をふくむドル防衛策は、世界経済に(①)とよばれる大きな影響をおよぼした。 1973年に第4次中東戦争が勃発すると、アラブ諸国が石減産と価格引き上げを行った結果、 原油価格が高騰し、(②)がおきた。 この後、日本経済はエネルギー型へと転換し、大企業を中心に、(③)を進め、国際戦争力を強化していった。 両側主要国は、1975 年に(④)を開催し、政策協調による経済危機回避をはかり、日本も当初からこれに参加した。 高度成長後の日本は、税収ののびなやみなどで発生した財政赤字解消のため行財政改革を進め、1989年にその環として(⑤)を導入した。 1985年の先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)の合意後、門高が進行したが、不況にはならなかった。 しかし、将来が見通せないなかで、企業は金融機関の後押しを受けて講達した資金を十地や株式への投資にふり向けたため、 地価や株価の上昇が続き、のちに(⑥)とよばれる状況となった。

    ①ドル・ショック②第一次石油危機③減量経営④先進国首脳会議⑤消費税⑥バブル経済

  • 61

    行財政改革に関する次の明のうち、正しいものを1つ選び、 答えなさい。 ア 高度成長後の日本では税収がのびなやむ一方、財政主導の景気回復策などで財政黒字が拡大し、財政再建が達成された。 イ 1981年に発足した第2次臨調は「増税なき財政再建」をかかげ公共事業の拡大、公務員給与の抑制と定員減などを求めた。 ウ 中曽根康弘内開は公務員給与の抑制、省庁の統廃合などを行い、健康保険などの社会保障制度では国民の負担を軽減した。 エ 1982年に成立した中曽根康弘内閣は、電信· 電話事業とたばこ産業を1985年に、日本国有鉄道を1987年に民営化した。

  • 62

    衆議院議員の選挙制度の変遷に関する次の説明のうち、誤っているものを1つ選び、 答えなさい。 ア 1890年の第1回衆議院議員総選挙は、小選挙区制中心の制度で行われた。 イ 1925 年の改正以後は、敗戦直後の 1946年の大選挙区制による運挙をのぞき、 小選挙区制で実施されてきた。 ウ 1919年には小達挙区制中の制度に、1925年の男子普通選挙制が実施された際には、中選挙区制が採用された。 エ 1900年には、各府県内の都市部を小運学区とし、それ以外の郡部を大通挙区とする大運、区制中心の制度が導入された。

  • 63

    1985年、ソ連でゴルバチョフ政権が成立し(①)が進められるとその影響は治の民主化や経済の自由化となって東ヨーロッパ諸国に波及し、1989年のベルリンの壁崩壊を経て翌年(②)された。 1991 年にはソ連も解体となった。 一方、冷戦終結後、世界中で民族・宗教などさまざまな対立が表面化した。 1990年にはイラクがクウェートに侵攻したが、 翌年、アメリカを中心とする多国籍軍に撃送される(③)がおきた。 このように国際環境が変化するなか、日本も主要国のつとして資金提供や人的協力など役割分担を求められ、1992年には、(④)へ協力を行うための法律が成立した。 また、 情報・通信技術の発達を背景に経済の(⑤)も進展した。 近隣諾国が緊密な経済関係を結ぼうとする動きも強まり、 ヨーロッパでは(⑥)が形成され、アジアでは東アジア諸国やアメリカが中心となり(⑦)の会議が開催された。 中国では、共産党の独裁を維持しつつ市場経済を導入する独自の(⑧)が展開された。 日本はバブル経済前壊後の不況を克服するため、 企業は国内の生産拠点の閉鎖·海外移転等の動きを強めた結果、(⑨)が懸念されるようになった。

    ①ペレストロイカ②ドイツ統一③湾岸戦争④PKO⑤グローバル化⑥EU⑦APEC⑧改革・開放政策⑨産業の空洞化

  • 64

    2001 年9月11日、(①)が発生すると、その後、 テロの脅威は世界に拡散した。 同年、国内では小泉純郎内閣が成立し、(②)による経済活動の活性化をはかった。 小泉内閣は、2005年には(③)を成立させ、「聖城なき構造改」を推進した。 2008年には、世界同時不況がおこった。 2011 年3月 11 日には(④)が発生し、巨大津波による多数の人的被害に加え、原発の被災による放射性物質放出という深刻な事故も発生し、多くの住民が避難を余儀なくされた。

    ①アメリカ同時多発テロ事件②規制緩和③郵政民営化関連法案④東日本大震災

  • 65

    竪穴式石室と横穴式石室の違いを説明しなさい。

    竪穴式石室が埋葬時に密封されたのに対して、横穴式石室は後から出入りすることができ、羨道を通って追葬された。

  • 66

    6世紀末に大王の墓に起こった変化について、墓の規模と役割に着目して説明しなさい。

    6世紀末には大王の墓は規模が縮小し、権威の象徴から葬送・供養の場へと変化した。

  • 67

    江戸時代の参勤交代が、幕藩体制にとってどのような意味を持っていたのかを書きなさい。

    参勤交代は、大名を江戸に集め監視し、往復の負担で勢力を抑え、幕藩体制を安定させた。

  • パキスタンの州・連邦直轄地域の旗問題

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    問題一覧

  • 1

    人類が他の動物と異なる点は、道具をつくり自然に働きかけ、火を使用し、共同生活のなかで(①)を発達させていったことである。 初期の人類は、石を打ちかいつくった(②)をおもな道具として、狩りや漁、植物の採集を行っていた。 この時代を(③)という。

    ①言葉②打製石器③旧石器時代

  • 2

    いまから約1万1500年前に温暖な完新世が始まると、木を加工しやすいよう表面をみがいた(①)が使われるようになり、人々は木造の(②)に住むようになった。 食料を煮たり貯蔵したりできるように土器がつくられ、食生活が豊かになった。 この時代を(③)という。

    ①磨製石器②竪穴住居③縄文時代

  • 3

    紀元前4世紀ごろになると、大陸から水稲耕作と金属器が伝わり、 食料生産をおもな生業とする(①)時代が始まった。 この時代には、収穫物を湿気や害虫から守りたくわえておく(②)もつくられるようになった。 8世紀前半の日本には、(③)という女王を立てた(④)という国も成立した。

    ①弥生②高床倉庫③卑弥呼④邪馬台国

  • 4

    以下の説明のうち、正しいものを1つ選び、 記号で答えなさい。 ア 時代区分については、資料が文字であろうと非文字であろうと、自然科学的手法を用いて年代が、正確に特定できたとして   も、時代から時代への移行期の理解しだいで、時代の区切りは変化する。 イ 文字資料のない時代の実年代の決定には、放射性酸素C14を用いた年代測定法など、 自然科学のを借りる必要がある。 ウ 文字資料で歴史を組み立てられる 時代を歴史時代、 それよりも前を前史時代という。

  • 5

    3世紀後半ごろ、近畿地方から瀬戸内海沿岸各地に(①)とよばれる大きな墳丘を持つ古墳がつくられるようになった。 4世紀初めには、古墳をつくった各地の王が大和地方の王を盟主として(②)といわれる政治的な連合体を形成していたと考えられる。 盟主となった王は、のちに(③)とよばれた。 5世紀初めからほぼ1世紀のあいだ、(②)の5代の王(④)は、軍事的支配権を示す高い称号をえようと中国南朝に朝貢した。 5 世紀前半には大阪平野に誉田御廟山古墳や(⑤)のような巨大な古墳がつくられた。

    ①前方後円墳②大和王権③大王④倭の五王⑤大仙陵古墳

  • 6

    6世紀末、物部氏を倒し政権をにぎった大臣(①)は、 (②)とともに国政改革を開始した。 やがて中国に(③)が送られるようになり、とだえていた国交が再開した。 国内では人材登用や外交上の必要性から(④)が、天皇中心の国家秩序確立のため官僚としての心構えを豪族たちに説く(⑤)がそれぞれ定められた。

    ①蘇我馬子②厩戸王③遣隋使④冠位十二階⑤憲法十七条

  • 7

    平安時代、 ときの天皇の外戚が幼少の天の摂政となって、天皇の成人後は関自となって、 政治の実権をにぎるのが慣例となった。 こうした政治のありかたを(①)といい、あいつぎ摂政・関自を出した家柄は摂関家とよばれる。 摂関家の勢いが最もさかんだったのは、(②)と、その子頼通の時代だった。 平安時代には、貴族の住居の建て方として(③)が発達した。 また、文学の世界では、字が音を表す(④)の考案から創作活動が活発化し、紫式部の『(⑤)』など多くの名作が世に出た。

    ①摂関政治②藤原道長③寝殿造④仮名文字⑤源氏物語

  • 8

    中大皇子、中臣鎌足(のちの藤原鎌足)らによって開始され、公地公民、中央集権的な政治体制、戸箱・計帳の作成、統一的税制の導入などを内容とした一連の政治改革を(①)という。 中大兄皇子は即位して天智天皇となり、その死後、皇位継承をめぐり、子の大友皇子と弟の大海人皇子が争い、大海人皇子が大友皇子を倒した。 このできごとを(②)という。 大海人皇子は、やがて即位して天武天皇となった。 公されるという制度を(①)という。 701 年、藤原鎌足の子、不比等と刑部親王らにより完成された、刑割と統治組織や政治運用に関する諸規定を(③)という。 律令制のもと、戸籍にもとづき実施きれた、 6歳以上の男女に口分田を班給、死後は収公されるという制度を(④)という。 710 年、元明天皇により、藤原京から移された奈良の都を(⑤)という。政府は、日分田不足で土地政策 の 転換を迫られ、743年(⑥)を出して一定範囲で塾田の私有を認めた。これをきっかけに中央の貴族や 大寺社は大規模な開墾を進め、墾田を農民に貸して経営を始めた。こうした私有地を(⑦)という。

    ①大化の改新②壬申の乱③大宝律令④班田収授法⑤平城京⑥墾田永年私財法⑦初期荘園

  • 9

    東国を拠点にしていた源氏は、前九年合戦と後三年合戦を通じ、各地の武士と主従関係を結び、武家の(①)とあおがれるようになった。 一方、保元・平治の乱を経て勢力を伸ばした平氏の長、平清盛は 1167(仁安 2)年、武士として初めて(②)となった。 1180年、以仁王の令旨に呼応した源氏一族は、 平氏打倒の声をあげ、伊豆の(③)や木普の源義仲らが挙兵した。 幾度かの戦いを経て平氏を誠ぼした(③)は、鎌倉に御所を新造し、鎌倉殿とよばれ関東を支配した。 鎌倉の家末は特に(④)といわれ、鎌倉殿と御思と奉公の関係を結んだ。 やがて鎌倉には(④)を統制する(⑤)や公文所、問注所などの役所が設けられた。

    ①棟梁②太政大臣③源頼朝④御家人⑤侍所

  • 10

    中世の寺社の勢力拡大についての、 次の説明のうち、誤っているものを1つ選び答えなさい。 ア 呪法や修法で顧望をかなえるとされた締教は、平安時代から貴族の信仰を集め、国家と仏教が支えあう存在とする考え方が生まれた。 イ 大寺社は僧兵や神人を使いしばしば朝廷への強訴に及んだので、 朝廷はこれに対処するため、公家を武装させ組織化した。 ウ 天皇家や貴族出身の僧侶は寺院内でも高い地位につき、住坊·院家を中心に独立的な勢力を築いた。 エ 上皇たちの帰依を受けた大寺院は、地方の寺院を支配下に置き、多くの荘園をたくわえ、僧兵を組織した。

  • 11

    中世日本の国際交流について次の説明のうち、正しいものを1つ選び、記号で答えなさい。 ア 中国から日本に輸入された品には、元は酒の容器だったが、日本では骨査になったりと、本来とは違う用途で使われたものもあった。 イ 12世紀から 14世紀にかけて蘭漢道障らの渡海僧や栄西らの渡来僧が、貿易船に便乗し行き交った。 ウ 15世紀前半、東シナ海周辺で活動した金元珍は、朝鮮人でありながら朝鮮国では「漢人」とよばれるなど国際人として活躍した。 エ 15世紀から 16世紀に中国からの輸入品で高級舶来品の証である唐物として最も役立ったのは銅銭であった。

  • 12

    1199年、源頼朝が亡くなると、将軍を 補佐する役目の重要度が高まり、 やがてその地位は執権とよばれ代々北条氏に引きつがれていった。 1221(承久 3)年、朝廷の権力復活をめざす(①)が承久の乱を起こし、幕府軍に鎖圧された。 その後、都には京都警備と西国の御家人統括を職務とする(②)が管かれた。 1232 年、3代執権であった(③)は初の武家法典となる貞永式目(御成敗式月)を制定した。 中国北方から勢力を伸ばし一大帝国を築いたモンゴルの5代皇帝(④)は都を大都(北京)に移し、1271年に国号を元と称した。 やがて元は文永・弘安年間の2度 、日本に軍を送り幕府軍と戦ったがともに勝利には至らなかった。 この2度の襲来を(⑤)という。

    ①後鳥羽上皇②六波羅探題③北条泰時④フビライ・ハン⑤元寇

  • 13

    1333年、鎌倉幕府が滅亡すると大覚寺統から即位した後醍醐天皇は(①)といわれる新政を開始した。 時天皇側についた足利尊氏はやがて離反し京都からのがれたが、ふたたび京都に攻めのぼり、持明院統の光明天皇を即位きせると、後醍開天皇は吉野にのがれて皇位を主張し、以後約60 年、京都の(②)と吉野の(③)が並立した。 この間、1338年に氏が(②)から征夷大将軍に任じられ(④)が成立することとなった。 その後3代将軍(⑤)は、南北朝の合一を実現させた。

    ①建武の新政②北朝③南朝④室町幕府⑤足利義満

  • 14

    室町幕府の8代将軍(①)は失敗を重ね、幕府の実権はしだいに有力大名の細川勝元と山名宗全に移っていった。 この二氏は、やがて厳対関係に陥り、これに将軍の後継問題などもからみ、1467年、京都を二分する(②)が起き戦いは11年余り続いた。 やがて争いは地方に波及し、国を支面する守護の力のおとろえに乗じ、各地で守護代や領国内の有力家臣が領国経営の実権を握る動きが強まった。 こうした、身分が下の者が上の者の権限をうばったり、 その地位についたりする風潮を(③)という。 この風潮は、(②)の前後から強まり、 東国ですでに始まっていた享徳の乱とも連動し、以後、百数|年にわたる(④)時代 が始まる。 この 時代、実力により新しい支配体制を築いた大名を(⑤)とよぶ。 例えば越後では、守護代長尾景虎が主家の上杉氏をつぎ(⑥)と名のり、領国を支配した。

    ①足利義政②応仁の乱③下克上④戦国⑤戦国大名⑥上杉謙信

  • 15

    連歌について、次の説明のうち正しいものを1つ選び、答えなさい。 ア 多数の有名な和談の上の句と下の句を別々の紙に書いて分解して並べ、交五に取り合ってできた正しい組み合わせの数を破う遊び。 イ 和歌の上の句と下の句を次々に人がよんで連ねる、新形式の歌。

  • 16

    東山文化について、 次の説明のうち正しいものを1つ選び、答えなさい。 ア 室町幕府8代将軍足利義政のころの文化慈照寺銀閣は代表的な建築。のちの茶道や華道の基礎もこの頃に形づくられた。 イ 室町幕府3代将軍足利義満のころの文化。鹿苑寺金閣は代表的な建築。このころ京都五山を中心に漢文学が最盛期を迎えた。

  • 17

    次の図は、1560年ごろの諸大名の勢カ分布を示した図である。 図に肖像が描かれている5名の大名(上杉議信、武田信玄、今川義元、毛利元就、 島津貴久)のうち、守護以外の身分から大名となった人物の組み合わせとして正しいものを次のア〜エから答えなさい。 ア 武田信玄、今川義元 イ 島津費久、武田信玄 ウ 上杉謙信、毛利元就 エ 上杉議信、今川義元

  • 18

    尾張の大名(①)は、桶狭間の戦いで今川義元に勝利するとその後勢いを増し、ついには宅町幕府を倒し琵密湖に面した地に安士城を築き全国統一の拠点とした。 安士城下では商工業者に自由な営業を認める(②)が実施され都市の繁栄はかられた。(①)は本能寺の変で家臣の明智光秀にそむかれ自害したが、同じく家臣だった羽柴秀吉が光秀を倒し、その後のにも勝利して、 全国統一を進めた。 秀吉は、石山本願寺跡地に(③)を築き、 朝廷から 1585年に関白、翌年には太政大臣に任ぜられ豊臣姓があたえられた。 信長・秀吉の時代の文化を桃山文化という。 障艇画では(④)が水墨画と大和絵を融合させた桃山様式を完成きせた。 芸能では(⑤)がかぶき踊りを考案し評判をよんだ。

    ①織田信長②楽市・楽座③大阪城④狩野永徳⑤出雲阿国

  • 19

    豊臣秀吉の死後、 五大老のひと(①)が大きな力を持つようになった。 (①)は、(②)で石田三成らの軍をやぶり、 全国的な支面配権を確立し、1603 年に朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開いた。 その後、なお勢力を持っていた秀吉の造児、 豊臣秀頼を(③)・夏の陣でやぶり、 豊臣氏をほろぼした。 江戸府では、統一政権としての幕府と、大名が支配し独立した領地を持つ藩とによって全国の土地と人民を支配する(④)というしくみが機能していた。 江戸幕府の3代将軍(⑤)は1635年、武家諸法度を改定して参勤交代の制度を加えた。

    ①徳川家康②関ヶ原の戦い③大阪冬の陣④幕藩体制⑤徳川家光

  • 20

    幕府による支配の確立に関して、 次の説明のうち正しいものを1つ選び、答えなさい。 ア 徳川氏一族は御三家、関ヶ原の戦い以前に家康に仕えた家を読代、以後にしたがった家を外様という。 イ 徳川氏一族は親藩、 関ヶ原の戦い以前に家康に仕えた家を古参、以後にこしたがった家を譜代という。 ウ 徳川氏族は親藩、 関ヶ原の戦い以前に家康に仕えた家を外様、以後にしたがった家を譜代という。 エ 徳川氏族は親議、 関ヶ原の戦い以前に家康に仕えた家を譜代、以後にしたがった家を外様という。

  • 21

    江戸時代の社会では、武士や百姓、(①)、職人などがそれぞれの職能により区分された身分を形成したが、これらとは別にえたや(②)とよばれる身分の人々もいた。 百姓は、検地候に記載された本百姓と耕地を持たぬ(③)に分かれていた。 村に住む百姓は数戸ずつ(④)に編成され、犯罪防止や年貢納入に連帯責任を負わされていた。 江戸時代初め、徳川家康は東南アジア諸国に親書を送り、渡航証明書を発給した船による(⑤)の許可を求めた。 また幕府は、この貿易で長崎にもたらされた生糸の購入価格を決めて括輸入する(⑥)を始めるなど貿易振興をはかった。

    ①町人②非人③水呑百姓④五人組⑤朱印船貿易⑥糸割符制度

  • 22

    江戸時代には諸産業の発達も見られた。 例えば製塩業では瀬戸内海沿岸で浜辺に提防を築く(①)が発達し、生産量が増大した。 貨幣制度も整備され、鉄貨では全国共通の(②)が大量に鋳造され中国鉄や模造銭を駆逐した。 社会構造の変化は、大都市の形成にもおよび、17世紀後半には江戸・大坂・京都が(③)とよばれ突出した人口規模を誇るまでに成長した。 江戸では旗本・御家人に支給される俸禄米が(④)とよばれる商人に委託販売され、最終的には底民の1に入るという流通経路が確立された。 一方、大坂は「天下の台所」とよばれ、全国から年度米や産物が集まり諸藩の(⑤)に収められた。 また、江戸時代には東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中の(⑥)などの交通網も整備された。

    ①入浜式塩田②寛永通宝③三都④札差⑤蔵屋敷⑥五街道

  • 23

    島原・天草投についての説明のうち正しいものを1つ選び、 答えなさい。 ア 幕府は、仏教徒とキリスト教信者の区別を明備化するために、 宗門改めを行った。 イ 幕府は、キリスト信者を根絶するために、宗門改めを行い、寺請制度を実施した。 ウ 幕府は、九州では、2年ごとに絵略をさせて、キリスト教信者の摘発につとめた。 エ 幕府は、すべての人をどこかの寺の檀家とし、京門人別改帳を国ごとにつくらせた。

  • 24

    1716年、紀州藩主(①)が8代将軍となり、享保の改革が始まった。 この時代は、手工業生産にも変化がみられ、京都の西陣から高機が伝わると、北関東では問屋商人が原料や資金を農家に前貸しし、製品を受けとる(②)もあらわれた。 庶民の初等教育機関である(③)は、18世紀半ばから19世紀半ばにかけて増加・普及した。 文化面で(④) が南画(文人画)の世界で秀作を残し、また俳句の世界でも活躍した。 画家には動植物に趣材をとった色彩豊かな作品で知られる(⑤)もいる。 浮世絵から発展した錦絵の分野では、(⑥)が多くの美人画を描き人気を博した。

    ①徳川吉宗②問屋制家内工業③寺子屋④与謝蕪村⑤伊藤若冲⑥喜多川歌麿

  • 25

    11代将軍徳川家斉のころ、 自河藩主(①)が老中になり、寛政の改革を進めた。同じころ、諸藩でも(②)が行われ、特産物の増産や専売制度による財政立て直しなどで大きな成果をあげる藩もあった。 このころ、日本近海にはロシア船が出没し幕府が危機感をつのらせる中、1792年に(③)がロシア使節として根室に来航、通商を求めたが、 幕府は長崎への入港許可をあたえたのみで退去させた。 以後もロシアの接触は続き、 蝦夷地の地理情報取得の必要性を意識するようになった幕府は、探検隊を派造するなどした。 その後、幕府天文方の高橋至時に師事した(④)は、蝦夷地から始まり、 本列島全域の海岸線を測量し、その成果は死後『大日本沿海東地全図』としてまとめられたが、幕府はこれを機術扱いとした。 この時代の文化は化政文化といわれ、長編小説『南総単見八犬伝I が好評を博した(⑤)や大胆な構図と被密な描写の浮世絵作者(⑥)などが活躍した。

    ①松平定信②藩政改革③ラックスマン④伊能忠敬⑤曲亭馬琴⑥葛飾北斎

  • 26

    寧保の改革に関する説明のうち、正しいものを1つ選び、答えなさい。 ア 敵争原理をはたらかせるため、株仲間による独占的営業を禁じた。 イ 町人出資による新田開発を禁じ、農民による開組を奨励した。 ウ 倫約令を出し、上米の制を定めるなど財源確保につとめた。 エ 財政難のもとで人材を奪用するため、相対済し令を出した。

  • 27

    下記の資料①、②の作品の作者として正しい人物を答えなさい。

    ①葛飾北斎②司馬江漢

  • 28

    (①)で清が敗北し開国したとの報に、幕府は異国能打払令をあらため薪水給与令を発したが、オランダ国王の開国勧告には応じなかった。 しかし、1854 年アメリカから来航し開国を迫ったべリーとの間で(②)を締結し、イギリス 、ロシア 、 オランダとも同様の条約を結ぶにいたり、幕府の領国政策は終務を迎えた。 さらに 1858年、大老の(③)が勅許をえず調印した日米修好通商条約は、治外法権の承認、(④)など日本に不利な内容であった。 続いて、オランダ、ロシア 、 イギリス、フランスともほぼ同様の条約を結んだ、その後、 1866年の(⑤)で輸入税が切り下げられ、不平等性は層強まった。

    ①アヘン戦争②日米和親条約③井伊直弼④関税自主権の欠如⑤改税約書

  • 29

    勅許をえず通商条約を結んだ幕府の外交方針を批判する(①)は、将軍の後継間題で大老と対立する。 派と結びつき幕府を攻撃した。 その後、桜田門外の変が起き、幕府の専制的政治は崩壊し始めた。 1862 年、公武合体論者島津久光の大名行列を横ぎったイギリス人を摩藩士が殺傷した(②)がおきると、薩摩藩、長州藩を中心に政局はますます混迷を深めた。 1866年(③)らの仲介で薩長盟約が成立すると、薩長両藩は討幕運動の中核となった。 このころ、回内では凶作や地震に物価上昇が重なり、生活に苦しむ民衆が増え、百姓 投や打ちこわしが激発し、1867 年には「(④)」 の踊りが流行して社会の誕迷はますます深まった。 15代将軍となった徳川慶喜が1867 年に大政奉還を申し出て政権を返上すると、朝廷は王政復古の大号令を発し、天中心の新政府の樹立を宣言した。 これにともなう諸改革や社会の変化を(⑤)という。

    ①尊王攘夷派②生麦事件③坂本龍馬④ええじゃないか⑤明治維新

  • 30

    戸籍法と解放合について、 正しいものを1つ選び答えなさい。 ア 新政府の統治下では、大名を領主とする諸藩のうち有力な部はそのまま残り新政府は旧幕府の直轄領と中小藩を支配した。 イ 新政府は江戸時代の身分制度を解体し、新たに華族、士族、 平民、えた·非人の区分を設定し、「四民平等」を実現した。 ウ 新政府は徴税をしやすくするため、1871年、 戸籍法を公布して家(戸)を通じて回民を直接把握することとした。 エ 1869 年新政府は版籍奉還を各藩に命じたが旧藩主を知藩事に任命したため各藩には依然独自の軍事力と徴税権があった。

  • 31

    自由民権運動の発展について、正しいものを1つ選び選びなさい。 ア 1877 年6月、立志社の片岡健吉は建白書を提出し、国会開設、地租軽減、条約改正、成文憲法制定の4項目 を要求した。 イ 民権運動は全国規模に発展し、1880年3月には国会期成同盟が結成され、天皇に対して国会開設請願書が提出された。 ウ 広まる民権運動に対し政府は、1880年4月、政治集会開催や政治結社の活動を制限する集会条例を制定し鎮静化を図った。 エ 1880 年11月の国会期成同盟第2回大会で、 次回大会までに各政社に意法草案(私擬憲法)擬出が義務付けられた。

  • 32

    新政府による、経済を発展させて国力をつけ、軍備の整備を進める近代化の方針を(①)政策という。 また、 この政策の実現のために、近代産業の保護·育成をめざし実施されたさまざまな政策を(②)という。 その環として 、政府は、群馬県の(③)など官営模範工場を経営し、軽工業部門の指導にあたった。 一方、北海道には開拓使を設識し、各地から移住してきた士族や農業兼業の兵士である(④)などを従事させ、西洋の農業技術を取り入れた開拓事業を進めた。 西洋文明をとりいれて近代化をはかろうとした政府は、江戸時代までの大陰暦に代わり、1873年(⑤)を実施した。 1872年に(⑥)を公布し、小学校教育の普及を中心に大学までの学校制度を定めた。 教育制度の整備と並行して、知識人による欧来の近代思想の紹介も進み、人間の平等と民主主義思想を説いた(⑦)の 『学問のすすめ』はベストセラーとなった。

    ①富国強兵②殖産興業③富岡製糸場④屯田兵⑤太陽暦⑥学制⑦福沢諭吉

  • 33

    幕末に結ばれた不平等条約改正を目指す新政府は、1871年に(①)使節団を欧米に派遣したが思うような成果は得られなかった。 外交では、1871年に日清修好条規を結んだが、朝鮮は当初国交を拒み、1875年の(②)を機に、 翌年日朝修好条規(江華条約)の締結にいたった。 国王による統治を行っていた統球については、1879年、地元民の反対をおさえつけて(③)を実施し、沖縄県を設置した。

    ①岩倉②江華島事件③琉球処分

  • 34

    明治時代におこった文明開化について、次の問いに答えなさい。 下記の資料は、明治時代の新橋ステーションを描いたものである。 図から読みとれる文明開化のようすを1つ書きなさい。

    日本に初めて鉄道が生まれた。

  • 35

    国会開設を約束した政府は(①)らをヨーロッパに派遣し、近代国家の憲法や諸制度を調査させた。 やが、て1889年、(②)が発布された。 また、これと同時に皇位の継承などについて定された(③)も制定された。 その他の法典整備も進むか中、 1890 年に公布された民法は、フランス民法典をモデルとしつつ、従来の日本の法制度を反映させたものだったが、日本の伝統に反すると非難をあびるなど(④)がくり広げられた。

    ①伊藤博文②大日本帝国憲法③皇室典範④民法典論争

  • 36

    1879年、外務卿井上答は(①)により日本の近代化を欧米に示すことで、不平等条約改正の進展をはかったが、期待どおりの効果はえられず、1894年、(②)外相のもとでようやく領事裁判権の撤廃に成功した。 外交問題では、朝鮮をめぐる日本と清の関係が次第に悪化し、1894年、ついに日清戦争が勃発した。 約1年の戦いは日本の勝利に終わり、1895年、(③)の調印で講利和にいたった。 戦後、 軍拡と地組増徴をめぐって政局は迷し、第8次伊藤内開退陣後に細織された、第1次大限重信内閣では内務大臣に板垣送助が蔵任し、この内関は(④)とよばれた。

    ①欧化政策②陸奥宗光③下関条約④隈板内閣

  • 37

    憲法の制定に関する次の説明のうち正しいものを1つ選び、答えなさい。 ア 伊藤博文らの起草した憲法草案は、機密院で審議されたのち、1889年2月11日に大日本帝国憲法として発布された。 イ 帝国議会は、皇族·華族や動選議員、多額納税者の五選議員からなる族院と、 公選議員からなる衆議院との二院制だった。 ウ 大日本帝国憲法は、民定憲法であり、天皇が国の元首として統治権のすべてをにぎるという天皇主権制が定められていた。

  • 38

    資本家と労働者に関する次の説明のうち、正しいものを1つ選び、答えなさい。 ア 労働組合結成の動きに対し、政府は治安警察法で集会·結社を制限する方、工場法で労働条件を厳しくした。 イ 日清戦争後には、労働組合が結成されるようになり、貨金引きあげや労働条件の改善を求める小作争議が増加した。 ウ 明治時代、繊維産業で働く労働者の大部分は女性(女エ)で、 賃金は低く1日12時間以上の、厳しい労働に従事していた。

  • 39

    1886年以降連の(①)が制定され、小学校から帝国大学までの体系的学校教育制度が確立され、日清戦争とその利、政府の教育政策を通じ、日本という国家のまとまりへの強い意識や国民としての意識、 すなわち(②)が定着していった。 文学の世界では、(③)が発生し、小説の表現方法が変化した。 一方、詩歌の分野では、貧窮生活のなかにある自己の悲哀や苦悩を作品に投影し、社会の矛盾を表現した(④)が活躍した。彫刻界では、(⑤)らが伝統的な木彫を近代能刻として再興し、西洋絵画では、(⑥)らが白馬会を結成し、洋画発展の基礎を築いた。

    ①学校令②ナショナリズム③言文一致運動④石川啄木⑤高村光雲⑥黒田清輝

  • 40

    19 世紀後半、 資本主義の発展にともない、 資源獲得や投資市場を求め、 軍事力でアジア·アフリカを植民地や勢力範囲に組みこもうとする(①)とよばれる膨張政策が列強の間に広まった。 日清戦争に敗北した清もその対象になり、欧米諸国が進出を加速させた。 清の国内では、(②)などこれに対する排外運動が起きたが、日本をふくむ列強がこれを鎮圧すると中国はさらに体化していった。 これ以降、韓国や満洲をめぐり日露間の緊張が高まり、1904年、 ついに(③)が始まった。 そのさなか、日本は第1次日韓協約を結び、韓国の財政と外交に介入を開始、ポーツマス条約調印により日露戦争が終結すると韓国支配を本格化し、1910年には軍事力を背景にした条約により韓国を(④)した。 一方、日露戦争によりロシアから利権を継承した遼東半島の租借地は関東州と名づけられ、旅順に(⑤)が置かれた。 中国では、1911年に(⑥)がおこり、中華民国が建国された。

    ①帝国主義②義和団戦争③日露戦争④併合⑤関東都督府⑥辛亥革命

  • 41

    大日本帝国憲法と同時に公布された衆議院議員選挙法において、 選挙人がどのような人に限られたかを説明しなさい。

    直接国税15円以上おさめる満25歳以上の男性に限られた。

  • 42

    日英同盟と日露戦争に関する次の説明のうち誤っているものを1つ選び、答えなさい。 ア 1904年、日露戦争が始まり、日本陸軍は旅順、奉天と敗戦を重ねたが、海軍が日本海海戦で圧勝し戦争を逆転勝利に導いた。 イ 義和団戦争後も満洲に居座るロシア軍に対し、政府は韓国がロシアに支配されるとの危機感から、日英同盟を結び対抗策をとった。 ウ 戦争継続が困難になった日露両国は、アメリカの韓旋でポーツマス条約を結び講和したが、日本は賠償金を獲得できなかった。

  • 43

    次の資料は、英同盟が結ばれた当時の国際関係を風刺したものである。 図中のア〜エの人物のうち、当時のロシアを表している人物を記号で答えなさい。

  • 44

    1914年におこった(①)で、日本は日英同盟を提拠に連合国側に加わったが、 戦場からは遠く、 さほど被害も受けないまま終戦を迎えた。 この間、日本では(②)が進み、海運や造船など国際競争力を持つ産業が急成長した。 社会構造も変化し、都市ではサラリーマンが増加し、教師やバス車掌などの職種では(③)と呼ばれる女性の就業も拡大した。メディアは、大衆化が進み、新聞の発行部数の急速な伸長やラジオ放送の開始、映画も無声から有声の「(④)」が登場するなど、 変化が見られた。 学問・思想では(⑤)が、各地の農山漁村で民話や生活を調査し、民俗学を打ち立てた。

    ①第一次世界大戦②重化学工業化③職業婦人④トーキー⑤柳田国男

  • 45

    1915年、日本は中国に(①)を示し権益拡大をはかった。 中国では、1919年、日本の対中政策に反発する学生や労働者らがストライキなどを行う(②)がおきた。 1921年から翌年にかけ開かれた(③)で海軍軍縮が決まると日本はこれに同調の方針を取ったが、対中国では強硬政策を保った。 関東軍の部が満洲支配を企て武力行使の機会を狙うなか、中国では日本製品をボイコットする(④)が高まった。

    ①二十一か条の要求②五・四運動③ワシントン会議④日貨排斥運動

  • 46

    1929年の世界恐慌の影響は、(①)に復捕直後の日本経済を直撃し、日本は昭和恐慌とよばれる不況におちいった。 その後、政府の(①)からの離脱や財政支出の拡大政策、円安による輸出増加などが追い風となり、国内の景気は急速に回復し、化学工業では(②)とよばれる企業集団が成長するなどした。 内政では、 昭和恐慌下で会不安と国民の不満がつのるなか、議会政治や政党政治の暴力的破壊をめざす動きが加速し、1932 年には犬養殺首相が海軍青年将校の団に官邸で射殺される(③)が、1936 年には陸軍皇道派の青年将校が首相官邸や警視庁を襲撃し、高橋是清蔵相や斎藤実内大臣らを殺害する(④)が発生した。

    ①金本位制②新興財閥③五・一五運動④二・二六運動

  • 47

    関東軍は、奉天郊外の柳条湖で南満洲鉄道の線路を爆破して中国軍の行為と主張し、のちに(①)とよばれる軍事行動を開始した。 1937 年7月7日、北京郊外の虚溝橋での日中両国軍の武力衝突を機に(②)が始まった。 さらに、1939年、独ソ両国のポーランド侵攻で(③)が勃発した。 日本はドイツとの関係強化をはかり、1940年に(④)に調印した。 一方、中国での日本の軍事行動をめぐり日来関係は悪化した。 国内では、東条英機内閣が成立、アメリカのハル国務長官から日本軍の全面撤兵など対日強硬提案が示された結果、1941年12月、(⑤)が始まった。 やがて兵力不足を補うため学徒出陣が、 労働力不足を補うため勤労動員が命じられたが戦局は悪化の途をたどり、 1945年3月の(⑥)のような、都市とその住民を標的とした大規模な無差別爆撃をくりかえすようになった。 4月には、 アメリカ軍が沖縄島に上陸し、住民をまきこんだ悲惨な地上戦がくりひろげられた。 8月には、広島と長崎に原子爆弾が投下された。 政府は8月14日、(⑦)の受諾を連合国に通知し、8月 15日、天皇がラジオを通じて国民に(⑦)を受諾したことを伝えた。

    ①満洲事変②日中戦争③第二次世界大戦④日独伊三国軍事同盟⑤アジア太平洋戦争⑥東京大空襲⑦ポツダム宣言

  • 48

    新産業の成長に関する次の説明のうち、正しいものを1つ選び、答えなさい。 ア 鉄射業では、第次世界大戦中、急増する需要に対応できなかったが、戦後、鞍山製鉄所を強化して供給能力を増強した。 イ 三井三菱·住友の三大財閥は、同族が経営する持株会社が鉱工業、商社、銀行など 傘下企業の株式を保有し市場を支配した。 ウ 第次世界大戦中に完成した福島県の猪苗代水力発電所は、高圧送電により、関西方面への女価な電力供給を可能にした。 エ 第次世界大戦中、 敵国となったドイツからの輸入がとだえたことにより、薬品や染料、人造肥料などの国内化学工業は衰退した。 オ 軽工業では、国内の賃金上昇にともない、 安価な労働力を求め、 日本企業による東南アジア方面への工場進出が盛んになった。

  • 49

    立憲政治の動橋とテロ事件に関する次の説明のうち、正しいものを1つ選び、 記号で答えなさい。 ア 二・二六事件後に成立した広田弘殺内閣は、軍部の意向を無視できず、 軍部大臣現役武官制を復活させ、軍備拡張を容認した。 イ 浜口内閣の軍縮条約締結をめぐって、 統帥権干犯問題がおき、 陸軍の部と国家主義者や政友会が、内閣をはげしく攻撃した。 ウ 五・一五事件のあと、 斎藤実内閣と聞田啓介内閣は「挙国一致」をかかげたが、財政支出拡大を唱える蔵相高橋是清は解任された。 エ 二・六事件が鎮圧された後、事件を主導した陸軍皇道派は勢力を失い、それとともに、軍部の政治的発言力も弱まっていった。 オ 民政党の浜口内閣の外相幣原喜重郎は、英米との協調につとめ、 ワシントン海軍軍縮条約を結んで補助艦艇の制限を約束した。

  • 50

    次の資料は、満州国がかかげた「五族協和」を宣伝するチラシである。 図中に描かれた五族に含まれる民族をすベて答えなさい

    日本 蒙古 満洲 朝鮮 漢

  • 51

    降伏文書に調印後、 日本には(①)を最高司令官とする GHQ/SCAP が設置され、 日本政府に指令して占領政策を実施する間接統治の方法がとられた。 戦争犯罪の疑いのある政府や軍部の指導者は逮捕され、うち28名はA級戦犯として起訴され(②)で審理された。 GHQ は経済の民主化をめざし、政府に財関解体と(③)を実施させた。 1946年11月に(④)が公布され、翌年5月から施行されると、 これにもとづき、制度改革が行われた。 教育も民主化がはかられ(⑤)が制定された。 労働組合育成の方針から、労働組合法、労働関係調整法、労働基準法の(⑥)も制定された。

    ①マッカーサー②極東国際軍事裁判③農地改革④日本国憲法⑤教育基本法⑥労働三法

  • 52

    1947 年ごろから米ソ間で、(①)とよばれる対立構造が鮮明になった。 1949 年、アメリカが両ヨーロッパの自由主義諸国に対する軍事、経済上の接助を開始し、(②)と呼ばれる共同防衛体制をかためると、ソ連は東ヨーッバの社会主義諸国との相五防衛体制を構築し、1955年にワルシャワ条約機構を発足させた。 アジアでは、朝鮮作島で、北結 38度線をはさんで、アメリカとソ連による分割占領が行われ、1948年、大韓民国(韓国)と(③)に分かれて独立したが、1950年6月、両国間で(④)が勃発した。 南には米軍が主力の回連軍が加わり、 一進一退の戦いが続き、朝鮮半島は荒廃した。在日アメリカ軍が朝鮮に 出動すると、 GHQ の指令により、日本には(⑤)が創設された。国内経済においては、アメリカがGHQ 経由で指令した経済安定九原則やドッジ·ライン、 シャウプの勧告などの施策によりインフが鎮静化し、回復基調にあった経済は(④)による特需もあり、立ち直りのきっかけをつかんだ。

    ①冷戦②北大西洋条約機構③朝鮮民主主義人民共和国④朝鮮戦争⑤警察予備隊

  • 53

    1951年に、日本はアメリカなど48か国との間で(①)を調印した。 翌年、この条約が発効し、連合国による日本の占領が終了すると、日本は独立国としての主権を回復した。 (①)の謝印と同日、(②)も調印され、 極東の平和と日本の安全に寄与するとの名目で、 占領終了後も米軍の日本駐留が継続されることになった。 吉田内開は、1952 年から54年にかけ、(③)、スト規制法、新警察法などを相次いで成立させ、GHQによる占領下での政策に修正を加えると、 国民に 戦前への回婦を想起させた。 その後、吉田内閣が退陣すると、 改憲などをめぐり政覚の再編が進み、自由民主党と日本社会党の二大政覚が対立する(④)とよばれる政治体制が成立した。 1960年、国内では、新たな(②)の調印をめぐり、 労働組合、全学連、一般市民らによる(⑤)とよばれるはげしい反対運動がおこった。

    ①サンフランシスコ平和条約②日米安全保障条約③破壊活動防止法④55年体制⑤安保闘争

  • 54

    第二次世界大戦後の世界では、植民地が独立をはたし、多くの独立国が誕生した。 これらの国々のなかには、1955年にインドネシアのバンドンで開かれた(①)のように、米ソ以外の第三勢力として平和をめざす動きもみられた。 また、米ン間で核の均衡のうえに平和共存をはかる情勢が生まれ、1968年には 62 か国により(②)が調印された。 西欧諸国は、経済的結東を強め、1967年に、(③)を発足させた。 1960年末、南北べトナムでおきた軍事衝突は、北に中ソ、南にアメリカが軍事介入して規模が拡大し(④)となった。 日本政府は、「持たず、作らず、 持ちこませず」の(⑤)の遵守を国会答弁で明言し、アメリカと領士返還交渉を行い、1971年に(⑥)の調申にいたった。

    ①アジア・アフリカ会議②核拡散防止条約③ヨーロッパ共同体④ベトナム戦争⑤非核三原則⑥沖縄返還協定

  • 55

    財間解体と農地改革に関する説明で正しいものを1つ選び、 記号で答えなさい。 ア 当初、不在地主の農地所有いっきい認められず、 在村地主の小作地は平均10町歩まで(北海道では40町歩)とされた。 イ 1947年には、いっさいの独占的細織を禁ずる独立禁止法が制定され、執行機関として公正取引委員会が設営された。 ウ 日本政府が自主的に決定した農地改半案はGHQに評価され、第 次と第一次の2回に分けて、1946年11月から実施された。 エ GHQは同族経営のもとに多角的経営を行い、独占的地位を有する財閥を反民主的存在とみなし1945年末に解体を求めた。 オ 農地改革で多くの小作人が自作農になり、土地を Fに入れた農民は生産意欲を高めたので、経営規模も拡大した。

  • 56

    経済女定政策について、 次の説明のうち正しいものを1つ選び、答えなさい。 ア 1948年12月、アメリカ政府は GHQを通じ、第2次吉田内閣に、経済女定八原則を指令した。 イ GHQの経済顧間として来日した銀行家のドッジは、1ドルー120円の単為替レートを設定し、輸出板興をはかった。 ウ 官公庁労働者の争議行為の禁止、 労働運動の左右両派への分裂、国鉄関係の事件の続発などで労働運動は沈滞していった。 エ デフレ政策と増税により大企業の倒産が増えたことに加え、行政整理や企業の人員整理が進んだ結果、失業者が増加した。 オ ドッジ·ラインやシャウプの勧告などの政策により、 1949年のなかごろにはインフレが鎮静化し、中小企業を中心に生産が回復してきた。

  • 57

    日本国憲法の根本精神を1つ答えなさい。

    主権は国民にある

  • 58

    日本国憲法において、天皇はどのような存在とされたか、文章から20字以内で抜き出しなさい。

    日本国の象徴であり日本国民統合の象徴

  • 59

    1979 年の米中国交正常化により、それまで続いてきた米ソの対立構造は変化し、 冷戦下での(①)が進んだ。 インドシナ半島では、1976 年に南北ベトナムが統合され、ベトナム社会主義共和国が成立した。 一方、ソ連は1979年、親ソ政権擁護のため(②)に侵攻したが、反政府派によるはげしい抵抗と国際的な批判にさらされた。中東では、1979年にイランで革命がおきたが、翌年、イラクがイランに侵攻して(③)となり、 1982 年にはイスラエルがレバノンに侵攻した。日本国内では、米中国交正常化を受けて中国との国交正常化を求める声が高まり、1972年の日中共同声明を経て、1978年には、(④)が結ばれた。 戦後、長らく国会の議席でな定多数を確保してきた自由民主党だが、1976 年にアメリカの航空機売りこみをめぐり(⑤)と よばれる汚職事件がおき、田中前首相が逮捕されると党内に動揺が広まった。

    ①デタント②アフガニスタン③イラン・イラク戦争④日中平和友好条約⑤ロッキード事件

  • 60

    1971 年8月、アメリカが発表したドルと金の交換停止をふくむドル防衛策は、世界経済に(①)とよばれる大きな影響をおよぼした。 1973年に第4次中東戦争が勃発すると、アラブ諸国が石減産と価格引き上げを行った結果、 原油価格が高騰し、(②)がおきた。 この後、日本経済はエネルギー型へと転換し、大企業を中心に、(③)を進め、国際戦争力を強化していった。 両側主要国は、1975 年に(④)を開催し、政策協調による経済危機回避をはかり、日本も当初からこれに参加した。 高度成長後の日本は、税収ののびなやみなどで発生した財政赤字解消のため行財政改革を進め、1989年にその環として(⑤)を導入した。 1985年の先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)の合意後、門高が進行したが、不況にはならなかった。 しかし、将来が見通せないなかで、企業は金融機関の後押しを受けて講達した資金を十地や株式への投資にふり向けたため、 地価や株価の上昇が続き、のちに(⑥)とよばれる状況となった。

    ①ドル・ショック②第一次石油危機③減量経営④先進国首脳会議⑤消費税⑥バブル経済

  • 61

    行財政改革に関する次の明のうち、正しいものを1つ選び、 答えなさい。 ア 高度成長後の日本では税収がのびなやむ一方、財政主導の景気回復策などで財政黒字が拡大し、財政再建が達成された。 イ 1981年に発足した第2次臨調は「増税なき財政再建」をかかげ公共事業の拡大、公務員給与の抑制と定員減などを求めた。 ウ 中曽根康弘内開は公務員給与の抑制、省庁の統廃合などを行い、健康保険などの社会保障制度では国民の負担を軽減した。 エ 1982年に成立した中曽根康弘内閣は、電信· 電話事業とたばこ産業を1985年に、日本国有鉄道を1987年に民営化した。

  • 62

    衆議院議員の選挙制度の変遷に関する次の説明のうち、誤っているものを1つ選び、 答えなさい。 ア 1890年の第1回衆議院議員総選挙は、小選挙区制中心の制度で行われた。 イ 1925 年の改正以後は、敗戦直後の 1946年の大選挙区制による運挙をのぞき、 小選挙区制で実施されてきた。 ウ 1919年には小達挙区制中の制度に、1925年の男子普通選挙制が実施された際には、中選挙区制が採用された。 エ 1900年には、各府県内の都市部を小運学区とし、それ以外の郡部を大通挙区とする大運、区制中心の制度が導入された。

  • 63

    1985年、ソ連でゴルバチョフ政権が成立し(①)が進められるとその影響は治の民主化や経済の自由化となって東ヨーロッパ諸国に波及し、1989年のベルリンの壁崩壊を経て翌年(②)された。 1991 年にはソ連も解体となった。 一方、冷戦終結後、世界中で民族・宗教などさまざまな対立が表面化した。 1990年にはイラクがクウェートに侵攻したが、 翌年、アメリカを中心とする多国籍軍に撃送される(③)がおきた。 このように国際環境が変化するなか、日本も主要国のつとして資金提供や人的協力など役割分担を求められ、1992年には、(④)へ協力を行うための法律が成立した。 また、 情報・通信技術の発達を背景に経済の(⑤)も進展した。 近隣諾国が緊密な経済関係を結ぼうとする動きも強まり、 ヨーロッパでは(⑥)が形成され、アジアでは東アジア諸国やアメリカが中心となり(⑦)の会議が開催された。 中国では、共産党の独裁を維持しつつ市場経済を導入する独自の(⑧)が展開された。 日本はバブル経済前壊後の不況を克服するため、 企業は国内の生産拠点の閉鎖·海外移転等の動きを強めた結果、(⑨)が懸念されるようになった。

    ①ペレストロイカ②ドイツ統一③湾岸戦争④PKO⑤グローバル化⑥EU⑦APEC⑧改革・開放政策⑨産業の空洞化

  • 64

    2001 年9月11日、(①)が発生すると、その後、 テロの脅威は世界に拡散した。 同年、国内では小泉純郎内閣が成立し、(②)による経済活動の活性化をはかった。 小泉内閣は、2005年には(③)を成立させ、「聖城なき構造改」を推進した。 2008年には、世界同時不況がおこった。 2011 年3月 11 日には(④)が発生し、巨大津波による多数の人的被害に加え、原発の被災による放射性物質放出という深刻な事故も発生し、多くの住民が避難を余儀なくされた。

    ①アメリカ同時多発テロ事件②規制緩和③郵政民営化関連法案④東日本大震災

  • 65

    竪穴式石室と横穴式石室の違いを説明しなさい。

    竪穴式石室が埋葬時に密封されたのに対して、横穴式石室は後から出入りすることができ、羨道を通って追葬された。

  • 66

    6世紀末に大王の墓に起こった変化について、墓の規模と役割に着目して説明しなさい。

    6世紀末には大王の墓は規模が縮小し、権威の象徴から葬送・供養の場へと変化した。

  • 67

    江戸時代の参勤交代が、幕藩体制にとってどのような意味を持っていたのかを書きなさい。

    参勤交代は、大名を江戸に集め監視し、往復の負担で勢力を抑え、幕藩体制を安定させた。