問題一覧
1
アントニウスを破り、権力の頂点に立ったオクタヴィアヌス。 しかし彼は全権限を元老院に返し、共和 政を尊重する姿勢をとった。そして自らをなんと呼んだか
プリンケプス
2
プリンケプスの和名
第一の市民
3
元老院がオクタヴィアヌスに送った称号
アウグストゥス
4
アウグストゥスの和名
尊厳者
5
アウグストゥスの政治の特徴
州の統治などは元老院と分担。執政官民官軍の最高司令官など文武の要職はアウグストゥスが担当(最高権力者)。・最高権力者の地位は世襲。
6
共和政の伝統を名目上は尊重しつつ、実権はプリンケプスが握っている統治体制
元首政
7
元首政のラテン語
プリンキパトゥス
8
元首政の始まりは何の始まりか
帝政 (ローマ帝国)の始まり。
9
ローマ皇帝を表す言葉で、軍の最高司令官を表し、 皇帝の語源となった
インペラトル
10
ローマ帝国二代目の皇帝で、この皇帝の治世中にイエスの処刑が行われた。イエスが活動したパレスチナは当時、ローマの属州だった。
ティベリウス
11
第五代ローマ皇帝で暴君として知られる皇帝。
ネロ
12
ネロは64年のローマ大火の責任をキリスト教徒に押しつけ、迫害したが、この際殉教した使徒二人
ペテロとパウロ
13
優れた皇帝が続き、ローマ帝国を1 世紀末から2 世紀末にかけて特に繁栄させた。
五賢帝
14
五賢帝初代。 後継者に子を指名。
ネルヴァ
15
五賢帝二代。ダキア (現ルーマニア)を属州とし、 パルティアを破ってメソポタミアに進出。
トラヤヌス
16
トラヤヌスの時代に成し遂げたこと
ローマの最大版図が実現した。
17
五賢帝三代。 辺境防衛に力を入れ、 ブリタニアに長城を築いたことで有名。
ハドリアヌス
18
五賢帝四代。 ピウスは 「敬虔な人」の意味。
アントニヌス=ピウス
19
五賢帝五代。 哲学者としても知られ、 哲人皇帝の名を持つ。
マルクス=アウレリウス=アントニヌス
20
マルクス=アウレリウス=アントニヌスは何派の哲学者か。また、彼の著書は何か
ストア派 自省録
21
マルクス=アウレリウス=アントニヌスは後漢時代の中国に使者を派遣したとされ、 後漢の史料に登場する彼を指す名前
大秦王安敦
22
アウグストゥス~五賢帝末までの約200年間を指す言葉
ローマの平和
23
ローマの平和のラテン語
パックス=ロマーナ
24
パックス=ロマーナの特徴
広大な領域の治安が安定した。・各地にローマ風の都市が建設された。ルテティア(現パリ)、ウィンドボナ (現ウィーン)、ロンディニウム(現ロンドン)
25
パックス=ロマーナ期に行われたアジアからは絹・香辛料が輸入され、 ローマからはガラス器葡萄酒・金貨が輸出された貿易
季節風貿易
26
ローマ帝国各地の軍団によって擁立された皇帝のこと。
軍人皇帝
27
初の軍人皇帝
セウェルス
28
212 年にローマ帝国内の全自由民にローマ市民権を与えた軍人皇帝。
カラカラ帝
29
特に235~284年の約50年の間に、 26人もの皇帝が乱立した時代
軍人皇帝時代
30
軍人皇帝時代に軍の後押し を受けた皇帝は元老院と対立を深めたことで起こったこと
元首政の崩壊
31
「3世紀の危機」と呼ばれるほど、軍人皇帝時代の前後でローマ社会は変化衰退した
領土が広がれば、辺境防衛の必要性も高まる。 防衛のため軍が強化され、発言機を増した軍は自ら皇帝 を立てるようになった。また、軍の維持費のため都市に重税が課され、都市の衰退へとつながった。
32
平和が続いて奴隷の供給が低下したことによる害
ラティランディアの維持が困難に
33
大土地所有者が新たに下層市民を奴隷の代わりとしたときの名称
コロヌス
34
コロヌスたちを奴隷の代わりに労働させる農業
コロナートゥス
35
ローマの国境を脅かした民族
北からゲルマン人、東からササン朝ペルシャ
36
アウグストゥスはゲルマン人攻撃のため兵を派遣するが、大敗した戦い
トイトブルク森の戦い
37
最後の軍人皇帝で、軍人皇帝時代の混乱を収めて即位。
ディオクレティアヌス
38
ディオクレティアヌスの政治の特徴の一つで、元老院など共和政の伝統を無視し、皇帝を専制君主とする政治
専制君主制
39
専制君主制のラテン語
ドミナートゥス
40
ディオクレティアヌスが行った専制君主制の一つで、官僚制を整えた他、皇帝を神 として礼拝させること
皇帝崇拝
41
ディオクレティアヌスが行った、異民族の攻撃に対応するため、 帝国の領土を4つに分割。 東西それぞれに正帝・副帝を置き、国の防衛 に当たらせたこと。 自身は東の正帝に。
国帝分治制
42
国帝分治制のラテン語
テトラルキア
43
ディオクレティアヌスが行った皇帝を拒否するキリスト教徒に対して、 最大・最後の迫害
キリスト教徒の大迫害
44
ディオクレティアヌス死後の混乱を収め、 帝国を再び統一。 官僚制を整備して中央集権体制を確立し、専制君主政を完成させた。
コンスタンティヌス
45
コンスタンティヌスが発したキリスト教を公認する令。増大したキリスト教徒を帝国の支配に取り込み、キリスト教を統治に利用する意図があったとされる。
ミラノ勅令
46
コンスタンティヌスは商業の栄える東に帝国の中心を移動。ギリシアの植民都市ビザンティウムへ遷都し、自らの名を冠した
コンスタンティノープル
47
コンスタンティヌスの経済政策
徴税を簡単にするため、帝国民の身分・職業を固定。 また、コロヌスの移動も禁止した。
48
コン スタンティヌスが発行した良質な貨幣で、地中海交易で用いられた。
ソリドゥス金貨 (ノミスマ)
49
この他にコンスタンティヌスは軍の強化も行ったが、官僚と車の維持費は重税でまかなわれ、 属州の乱につながった。
50
375 年、ゲルマン人の一である西ゴート族が南下し、 ドナウ川を越えてローマ帝国に侵入したこと。西ゴート族の影響を受けた他のゲルマン人も移動を始め ヨーロッパは大混乱に陥った。
ゲルマン人の大移動
51
「統一」 ローマ帝国最後の皇帝。 392年、 キリスト教を国教に定め、異教を禁止することで帝国の
テオドシウス (379~395)
52
テオドシウスは死に際して、息子に帝国を二分して治めるように告げた。これにより ローマ帝国は東西に分裂した。その年号
395 年
53
西ゴート族がローマを侵略、打撃を受けた。 権力をめぐる抗争も起こり、476年にゲルマン人の傭兵隊長が皇帝を廃し、滅亡した
西ローマ帝国
54
西ローマ帝国の皇帝を廃したゲルマン人の傭兵隊長
オドアケル
55
コンスタンティノープルを首都とし、商業発展に支えられて繁栄し、 一時は地中海世界の統一を回復した。
東ローマ帝国
56
東ローマ帝国の別名
ビザンツ帝国
57
1453 年にオスマン帝国に滅ぼされるまで約100年にわたって存続した
58
ユダヤ教を母体として生まれたイエスがキリスト救世主であることやイエスの教えを信仰する宗教。
キリスト教
59
キリスト教が生まれた地
パレスチナ
60
ヘブライ人の苦難の歴史をもとに成立した宗教。
ユダヤ教
61
ユダヤ教の特徴
ヤハウェを信仰する一神教ヤハウェとの契約 (戒律法)を守るユダヤ人はヤハウェに選ばれた民族であり、 最後の審判のときにメシアがユダヤ人を救う経典は旧約聖書
62
ユダヤ教の祭司や排法を守ることを重んじる流派
パリサイ派
63
イエスが生まれた地
パレスチナのベツレヘム
64
イエスが成長した場所
ガリラヤ地方のナザレ
65
イエスの教え
ヨハネの洗礼を受けた 後、ユダヤ教の祭司やパリサイ派を形式主義として批判し、自らの教えを説いた。
66
キリスト教の特徴で、唯一の神をあがめること
一神教
67
神は、無償、無差別で全人類を愛しているとするキリスト教の思想
神の絶対授
68
神の国の到来で神を信じる者は救われる
69
この思想により、人どうしの愛を説いた
隣人愛
70
これらの教えを説くイエスを民衆はキリストとし、その教えに従う者が増えていった。
特に、イエスの 教えは社会的に虐げられていた人々に支持された。
71
イエスに批判された祭司やパリサイ派は、ユダヤ総督にイエスは反逆者であると訴えたその総督
ピラト
72
イエスがゴルゴダの丘で処刑された際の刑法
十字架
73
イエスの死後、弟子たちの間に「イエスが復活した」「イエスの十字架上の死は人間の罪を贖うものであった」という信仰が生まれた。
この復活により、イエスがキリストであるとするキリスト教が成立した。
74
イエスが選んだ12人の弟子
使徒
75
最初の使徒。ローマへの伝道に力を尽くし、ネロの迫害で殉教。ローマ教会を設立
ペテロ
76
ペテロが初代を務める地位
ローマ教皇
77
ユダヤ教徒だったがイエスの死後に回心し、使徒に加えられた。
パウロ
78
パウロが行った伝道
東方への伝道 (異邦人伝道)
79
布教活動の結果、 パレスチナの外にキリスト教が拡大。
3世紀頃までに奴隷・女性・下層市民といった社会的弱者を中心に信徒を増やし、帝国全土へと広まった。 やがて、上層市民の信徒も現れるように。
80
1~4世紀にかけて成立したキリスト教の聖典
新約聖書
81
新約聖書の言語
コイネー(ギリシア語)
82
新約聖書におけるイエスの言葉
4福音書
83
新約聖書における使徒の記録
使徒行伝
84
キリスト教の経典
旧約聖書・新約聖書の2つ
85
ネロやディオクレティアヌスらの迫害を受けたキリスト教徒が秘密裏に礼拝をおこなった場所
カタコンベ
86
カタコンベとは何か
地下墓所
87
キリスト教を公認するローマの勅令
ミラノ勅令
88
ミラノ勅令が発せられた年
313年
89
4世紀、キリスト教内では教義をめぐり論争が起こっていた。そこで、教義の統一のために公会議が開催された。
90
コンスタンティヌスがニケーアで開催した公会議
ニケーア公会議
91
ニケーア公会議で正統とされた流派
アタナシウス派
92
アタナシウス派が主張した理論
三位一体説
93
ニケーア公会議で異端とされたキリストを人間とする流派
アリウス派
94
三位一体說の説明
アタナシウスが説いた父である神、子であるイエス、聖霊は一体であるという考え
95
正統とされたアタナシウス派は以後、キリスト教会の主流として広まっていくことになったが、アリウス派はどうなったか
ゲルマン人に布敏されることとなった。
96
ミケーネ公会議の年号
325
97
ミケーネ公会議の後にアタナシウス派を正統とした公会議
エフェソス公会議
98
エフェソス公会議の年号
431
99
エフェソス公会議で異端とされたキリストの神性と人性を分けて考える流派
ネストリウス派
100
ネストリウス派は異端となった後どうなったか
ササン朝を通って中国へと伝わり、唐代の中国では景教と呼ばれた。