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鎌倉時代
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  • 1

    反平氏諸勢力のうち、東国の武士団の大半が武家の棟梁①の嫡流である②のもとに集結したため、②はもっとも有力な勢力に成長した。 ②は挙兵すると相模の③を根拠地として広く武士たちと主従関係を結び④として組織し、東国の⑤・⑥を支配して彼らの所領支配を保証していった。

    源氏, 源頼朝, 鎌倉, 御家人, 荘園, 公領

  • 2

    頼朝は1183年に平氏の都落ちのあと、京都の①と交渉して東海・東山両道の東国の支配権の承認を得た(②)。

    後白河法皇, 寿永二年十月宣旨

  • 3

    1185(①元)年、平氏の滅亡後、源頼朝は②と対立するようになった。 ②が法皇から頼朝追討令を与えられて挙兵するも失敗すると頼朝は軍勢を③に送って法皇にせまり、②追討を名目として諸国に④を、荘園や公領には⑤を任命する権利や1段当たり⑥の兵粮米を徴収する権利、さらに諸国の国衙の実権を握る⑦を支配する権利を獲得した。 こうして東国を中心にした頼朝の支配権は西国にもおよびはじめ、武家政権としての⑧が確立した。 その後、頼朝は逃亡した②をかくまったとして⑨を滅ぼし、⑩・⑪を支配下においた。 1190年には上洛して⑫ 1192年、後白河法皇の死後には⑬に任じられた。 こうして鎌倉幕府が成立してから滅亡するまでの時代を⑭と呼んでいる。

    文治, 源義経, 京都, 守護, 地頭, 5升, 在庁官人, 鎌倉幕府, 奥州藤原氏, 陸奥, 出羽, 右近衛大将, 征夷大将軍, 鎌倉時代

  • 4

    幕府の支配機構は簡素で実務的なものであった。 鎌倉には中央機関として 御家人を組織し統制する① 一般政務や財政事務をつかさどる②(初めは③) 裁判事務を担当する④ などがおかれ京都からまねいた⑤ を中心とする側近たちが将軍頼朝を補佐した

    侍所, 政所, 公文所, 問注所, 下級貴族

  • 5

    侍所の長官(①)には東国②の③が任じられたが 公文所(政所)の長官(①)は④ 問注所の長官(⑤)は⑥で ともに⑦出身であった。

    別当, 御家人, 和田義盛, 大江広元, 執事, 三善康信, 貴族

  • 6

    地方には①と②がおかれた。 ①は原則として各国に1人ずつ、おもに③出身の 有力御家人が任命された。 ④として国内の御家人を指揮して、平時は⑤など 治安の維持と⑥の行使にあたった。とくに③では国衙の⑦を支配し地方行政官としての役割も果たした ②は御家人の中から任命され、おもに平家没官領を中心とする⑧の所領におかれ、⑨の徴収・納入と 土地の管理および治安の維持を任務とした。 ⑤は、諸国の御家人に天皇・院の御所を警護させる ⑩の催促と⑧・⑪の逮捕で、平時の①の職務でもっとも重要なものであった。 また、京都には⑫がおかれ、⑬との交渉や西国御家人の統轄にあたった。 九州におかれた⑭はこの地域の御家人を統轄するとともに、⑮の実権も握った。

    守護, 地頭, 東国, 軍事指揮官, 大犯三カ条, 警察権, 在庁官人, 謀叛人, 年貢, 京都大番役, 殺害人, 京都守護, 朝廷, 鎮西奉行, 大宰府

  • 7

    幕府支配の根幹となったのは①と②の主従関係である。 頼朝は主人として②に対し主に③に任命することによって先祖伝来の所領の支配を保証したり(④) 新たな所領をあたえたりした(⑤)。 この⑥に対して②は戦時には軍役を 平時には⑦や幕府御所を警護する⑧などをつとめて従者として⑨した。

    将軍, 御家人, 地頭, 本領安堵, 新恩給与, 御恩, 京都大番役, 鎌倉番役, 奉公

  • 8

    土地の給与を通じて、主人と従者が御恩と奉公の関係によって結ばれる制度を①というが鎌倉幕府は ①にもとづいて成立した最初の政権であり ②・③の設置によってはじめて日本の①が 国家的制度として成立した。 東国は実質的に幕府の支配地域であり、幕府が ④・⑤を握り、東国以外の国々でも国司の支配下にある国衙の任務は②を通じて幕府に吸収されていった。 一国内の荘園・公領ごとの田地の面積や荘園領主・地頭を調査した⑥は本来の国衙の土地台帳としてつくられたものである。その⑥を幕府が国衙の在庁官人に命じてつくらせてきることは国衙に対する幕府の支配力を示している。

    封建制度, 守護, 地頭, 行政権, 裁判権, 大田文

  • 9

    この時代には、朝廷や貴族・大寺社を中心とする①の力もまだ強く残っていた。 朝廷は国司を任命(全国の一般行政) 貴族・大寺社は受領や①として土地からの収益を。 そのもとには幕府に属さない②たちもいた。 →この時期の特徴は③面・④面で公家と武家の二元的な支配である。

    荘園領主, 武士, 経済, 政治

  • 10

    将軍である源頼朝自身も多くの知行国や平家没官領をはじめとする大量の荘園を所有していたがそれぞれ別の言い方をすると何という? 知行国→① 平家没官領などの荘園→②

    関東知行国, 関東御領

  • 11

    幕府と朝廷との関係は①と呼ばれる朝廷の法令や宣旨で定められており、朝廷と幕府は②としての共通面をもっていた。

    新制, 支配者

  • 12

    幕府は①・②を通じて全国の治安維持にあたり、③しない地頭を罰するなど一面では朝廷の支配や ④・⑤の維持を助けた。

    守護, 地頭, 年貢を納入, 荘園, 公領

  • 13

    幕府は東国以外でも支配の実権を握ろうとしたために、 守護・地頭と①・②の間で紛争が多くなった。

    荘園領主, 国司

  • 14

    源頼朝が①体勢で政治運営していたが死後、子の②,③の時代になると④中心の政治を求める動きが強まった。

    独裁, 頼家, 実朝, 御家人

  • 15

    頼朝の死後、①・②ら貴族出身の頼朝側近と ③・④・⑤・⑥・⑦ら有力御家人からなる⑧によって政治が行われた。

    大江広元, 三善康信, 北条時政, 梶原景時, 三浦義澄, 比企能員, 和田義盛, 十三人の合議制

  • 16

    有力御家人の間で政治の主導権をめぐる激しい闘いが続き多くの御家人が滅んでいった。 その中で勢力を伸ばしたのが伊豆の在庁官人出身の ①である。

    北条氏

  • 17

    頼朝の妻は→① 頼朝の妻①の父は→②

    北条政子, 北条時政

  • 18

    ①は将軍の頼家を廃し、弟の②を立てて幕府の実権を握った。

    北条時政, 源実朝

  • 19

    ①は頼家を廃し→頼家の後見の②を滅ぼし(③) 頼家を伊豆の④に幽閉して⑤年に暗殺した。

    北条時政, 比企能員, 比企氏の乱, 修善寺, 1204

  • 20

    北条時政の地位は①と呼ばれて、子の②に継承されたが②は侍所の長官であった③を滅ぼし(④)、 ⑤と⑥の長官を兼ねてその地位を固めた。 これ以後①は北条氏一門の間で世襲されるようになった。

    執権, 北条義時, 和田義盛, 和田合戦, 政所, 侍所

  • 21

    朝廷では幕府の成立と勢力拡大に直面して政治の立て直しがおこなわれた。 その中心にあたったのが①である。 ①は分散していた数多くの皇室領の荘園を手中におさめるとともに、 新たに②をおいて軍事力の増強をはかるなどして ③を強化し、朝廷の勢力を挽回する動きを強めた。

    後鳥羽上皇, 西面の武士, 院政

  • 22

    1219年、上皇との連携をはかっていた将軍①が 源頼家の子②に暗殺される事件が起こった。 これをきっかけに朝幕関係が不安定になり1221年 上皇は畿内・西国武士や③、さらに北条氏に反発する④の一部おも味方に引き入れて⑤追討の兵をあげた。 →しかし上皇側の期待に反して、東国武士の大多数は⑥の呼びかけに応じて幕府側に結集した。 幕府は、北条義時の子⑦(北条義時の)弟の⑧らが率いる軍を送って京都を攻め、その結果1ヶ月の後には⑨側の圧倒的な勝利に終わった。これが⑩である。

    源実朝, 公暁, 僧兵, 東国武士, 北条義時, 北条政子, 北条泰時, 北条時房, 幕府, 承久の乱

  • 23

    承久の乱後幕府は3上皇を配流 後鳥羽上皇→① 土御門上皇→②→③ 順徳上皇→④ 後鳥羽上皇の孫である⑤を廃し、⑥を即位させた。 また⑦のかわりに新たに⑧をおいて、朝廷を監視し 京都の内外の警備、および西国の統括にあたらせた 上皇側についた貴族や武士の所領3000余ヶ所を没収し、戦功のあった御家人らをその地の⑨に任命した

    隠岐, 土佐, 阿波, 佐渡, 仲恭天皇, 後堀河天皇, 京都守護, 六波羅探題, 地頭

  • 24

    公暁の実朝暗殺後①は皇族を将軍にまねく交渉をしたが上皇が拒否。 そこで幕府は源頼朝の遠縁にあたる摂関家出身の幼い②を後継者に迎えた。以後2代続いた摂関家出身の将軍を③または④と呼ぶ。

    北条義時, 藤原頼経, 藤原将軍, 摂家将軍

  • 25

    承久の乱後に新しく地頭をおく際に、これまで給与が少なかった土地では新たに基準(①)を定めて②の給与を保証した。 (1)田畑11町ごとに③の土地 (2)田地1段につき④の米(加徴米) (3)山や川からの収益の⑤ をそれぞれの地頭に与えるというものであった。

    新補率法, 新補地頭, 1町, 5升, 半分

  • 26

    承久の乱後、幕府は3代執権①の指導のもとに発展の時期を迎えた。②の死後①は執権を補佐する③をおいて北条氏一門の有力者をこれに当てた。 ついで有力な御家人や政務にすぐれた者を④に 選んで執権・③が主導する④の会議で ⑤に基づいて幕府の政治や裁判に当たらせた。

    北条泰時, 北条政子, 連署, 評定衆, 合議制

  • 27

    1232年に①は②51ヶ条を制定して広く御家人たちに示した。 この②は頼朝以来の先例や③と呼ばれた武士社会での慣習・道徳にもとづいて、④・⑤の任務と権限を定め、御家人同士や御家人と荘園領主とのあいだの紛争を公平に裁く基準を明らかにしたもので、武家独自の最初の整った法典であった。 1232年は⑥元年である。 ②は別名を⑦という。

    北条泰時, 御成敗式目, 道理, 守護, 地頭, 貞永, 貞永式目

  • 28

    幕府の勢力範囲を対象とする①と並んで朝廷の支配下には律令の系統を引く②が、また荘園領主のもとでは③がそれぞれの効力をもっていた。

    御成敗式目, 公家法, 本所法

  • 29

    公平な裁判を重視する武家法は公家法や本所法の対象となる人々にも影響を与えるようになり、効力の及ぶ範囲は拡大していった。

    正しい

  • 30

    執権政治の隆盛をもたらした北条泰時の政策は孫の 執権①に受け継がれた。①は評定のもとに新たに②をおいて③を任命し、御家人たちの所領に関する訴訟を専門に担当させ、迅速で公正な裁判の確立につとめた。

    北条時頼, 引付, 引付衆

  • 31

    北条時頼は独自の力をもちはじめた前将軍①を②に送還し、①と結んだ有力御家人らを失脚させ さらに1247年には③一族を滅ぼして(④) 北条氏の地位を不動のものとした。 また朝廷に政治の刷新と制度の改革を求めた結果、 ⑤の院政下で⑥がおかれるなど幕府は朝廷内部に深く影響力を持つようになった。

    藤原頼経, 京都, 三浦泰村, 宝治合戦, 後嵯峨上皇, 院評定集

  • 32

    幕府は、藤原頼経などの①にかわる②として 後嵯峨上皇の皇子③を迎えた。②は以後4代続いたがいずれも④はなく名目だけの将軍にすぎなかった 北条頼時は禅宗の本格的寺院である⑤を造営するなど、鎌倉を武家の都として整えた。 こうして執権政治は時頼のもとでさらに強化されたが、同時に北条氏独裁の性格を強めていった。

    藤原将軍, 皇族将軍, 宗尊親王, 実権, 建長寺

  • 33

    武士の家では所領を一族の子弟・子女にわけ与える①を原則としていたが、一族の同族意識も強かった 宗家(本家)の代表は②(または③)と呼ばれそれ以外の庶子に対して血縁による統制をおこない、その集団は一門・一家と称された。 戦時には一門は②(または③)を指揮官として団結して戦った。 平時でも先祖や一門の氏神の祭祀を行う権利は②(または③)にあり、それはまた義務でもあった。 こうした体制を④と呼ぶが、鎌倉幕府の政治・軍事体制はこの④に基づいており、幕府への軍役も、荘園領主・国衙への年貢や⑤の納入も②(もしくは③)が責任者となって一門の庶子たちにこれを割り当て、一括して奉仕した。 庶子も御家人ではあったが幕府とは②(もしくは③)を通じて結ばれていた。

    分割相続, 惣領, 家督, 惣領制, 公事

  • 34

    結婚形態は①から②が一般的となったが 当時の家族制度では女性の地位は比較的③く、 相続の際も男性と同じく財産を分配され、女性が④になる例もみられた。

    妻問婚, 嫁入婚, 高, 地頭

  • 35

    武士の生活は簡素で、みずからの地位を守るためにも武芸を身につけることが重視され常に①・②・③や④などの訓練を行った。 彼らの日常生活の中から生まれた「⑤」などと呼ばれる道徳は武勇を重んじ、主人に対する献身や 一門・一家の名誉を尊ぶ精神、恥を知る態度などを特徴としており、後世の武士道の起源となった。

    流鏑馬, 笠懸, 犬追物, 巻狩, 弓馬の道

  • 36

    所領支配を拡大しようとする武士たちは荘園・公領の領主や、近隣の武士との間で①や②の問題をめぐって紛争を起こすことが多かった。 特に③後には畿内・西国地方にも多くの④が任命され東国出身の武士が各地に新たな所領をもつようになり、現地の支配権をめぐる紛争はますます拡大した。幕府が公正な裁判制度の確立に努めたのはこうした状況に対応するためであった。 ④の支配権拡大の動きに直面した荘園・公領領主たちも幕府に訴えて④の年貢未納などの動きをおさえようとした。しかし、現地に根を下ろした④の行動を抑えることは難しく領主たちは紛争解決のためにやむを得ず荘園現地の管理いっさいを④に任せて一定の年貢納入だけを請け負わせる⑤の契約を結んだり、現地を④と折半し相互の支配権を認め合う⑥の取り決めを行ったりすることもあった。

    年貢, 境界, 承久の乱, 地頭, 地頭請書, 下地中分

  • 37

    日宋間の正式な国交は開かれなかったが、平氏政権の積極的な海外通交後、鎌倉幕府のもとでも民間商人の貿易や僧侶の往来などはさかんにおこなわれ、日本列島は①を中心とする②の中に組み入られていった。

    南宋, 東アジア通商圏

  • 38

    ①世紀はじめにモンゴル高原に②が現れ、モンゴル諸部族を統合して③〜④までを征服した。 ついでその後継者は⑤をおこない、⑥を滅ぼして ユーラシア大陸の東西にまたがる大帝国を建設した

    13, チンギス・ハン, 中央アジア, 南ロシア, ヨーロッパ遠征, 金

  • 39

    チンギス・ハンの孫①は中国を支配するため都を②(北京)に移し、国号を③と定めた。 さらに④を全面的に服属させると日本に対しても強く朝貢を要求してきた。 しかし北条時頼の子で幕府の執権となった⑤がこれを拒否したため③は④の軍勢もあわせた約3万の兵で⑥年、⑦・⑧を攻め、大挙して九州北部の⑨に上陸した。幕府は九州地方に所領を持つ御家人を動員して迎え撃ったが、③軍の⑩やすぐれた兵器に対し ⑪を主とする幕府軍は苦戦した。 しかし③軍も損害が大きく、内部の対立などもあって退いた(⑫)

    フビライ, 大都, 元, 高麗, 北条時宗, 1274, 対馬, 壱岐, 博多湾, 集団戦, 一騎打ち, 文永の役

  • 40

    その後幕府は再度の襲来に備えて博多湾岸などの九州北部の要地を御家人に警備させる①を強化し博多湾沿いに石造の②(石築地)を構築させた。 ①は文永の役(③年)の前からあり九州地方の御家人に課せられていた。 文永の役後は②の構築は御家人だけでなく 九州地方の④にも割り当てられた。

    異国警固番役, 防塁, 1274, 所領所有者

  • 41

    そこに①を滅ぼした元が再び日本征服を目指し②年 約14万の大軍をもって九州北部に迫った。ところが ③によって博多湾岸への上陸を阻まれている間に④がおこって元軍は大損害を受け再び敗退した(⑤)。 この2回にわたる元軍の襲来を⑥という。 再度にわたる襲来の失敗は元に征服された人々の抵抗によるところもあったが、幕府の統制のもとに、おもに九州地方の武士がよく戦ったことが大きな理由であった。

    南宋, 1281, 防塁, 暴風雨, 弘安の役, モンゴル襲来

  • 42

    ①は30年余りモンゴル軍に抵抗したのちに服属したものの、以後も②など様々な形で抵抗を続けた。 ③は日本との交渉や戦いに①を利用したが①の元に対する抵抗の継続は日本遠征の障害となった。 また旧南宋の勢力や④の人々にも元への抵抗の動きがおこり、3度目の日本侵攻を断念させる要因にもなった。

    高麗, 三別抄の乱, フビライ, 大越

  • 43

    元はその後も日本征服を計画していたので幕府も警戒態勢を緩めず九州地方の御家人を引き続き①に動員した。また幕府は御家人以外の荘園・公領以外の②をも動員する権利を③から獲得するとともに 蒙古襲来を機会に④一帯の支配を強めていった。 とくに九州の博多には北条氏一門を⑤として送り 九州地方の政務や⑥、御家人の指揮に当たらせた。

    異国警固番役, 武士, 朝廷, 西国, 鎮西探題, 裁判

  • 44

    幕府の支配権が全国的に強化されていく中で北条氏の権力はさらに拡大し、なかでも宗家の家督を継ぐ①の勢力が強大となった。 それとともに①の家臣である②と御家人の対立が激しくなり北条時宗の子の③の代になって1285年に内管領の④が有力御家人の⑤を滅ぼした。(⑥) ③は④を滅ぼし幕府の全権を握った。 こうして①の絶大な権力のもとで、②や北条氏一門が幕政を主導するようになった。これを⑦と呼ぶ。全国の⑧の半分以上は北条氏一門が占め、各地の地頭職の多くも北条氏の手に帰した。

    得宗, 御内人, 北条貞時, 平頼綱, 安達泰盛, 霜月騒動, 得宗専制政治, 守護

  • 45

    モンゴルの動きが東アジアに大きな影響を与える中日本列島の南の琉球では、各地の首長である①が ②を拠点として勢力を広げていき、やがて北山・中山・南山の3つの勢力に統合されていった。 琉球では、それまでの貝塚後期文化を経て12世紀頃から③が始まり②が形成されてきた。 ②は当初は集落や聖地からなっていたが、その指導者である①の成長とともに、しだいに立派な石垣による城がつくられるようになった。 一方、北の④では、古代には続縄文文化を経て⑤や ⑥が広がっていたが、13世紀には⑦の文化が生まれ津軽の⑧を根拠地として得宗の支配下にあった⑨氏と交易をおこなっていた。⑦のうち⑩に住んでいた人々は、たびたびモンゴルと交戦していた。

    按司, グスク, 農耕生活, 蝦夷ヶ島, 擦文文化, オホーツク文化, アイヌ, 十三湊, 安東, サハリン

  • 46

    蒙古襲来の前後から農業の発展が広くみられ、畿内や西国では①を裏作とする②が普及していった。 肥料には草を刈って田に敷く③や草や木を焼いて灰にした④が使われ鉄製の農具や⑤を利用した農耕も広がっていった。 また⑥(灯油の原料)などが栽培され⑦や⑧などが織られた。 ⑨・⑩・⑪などの手工業者は農村内に住んで商品を作ったり、各地を渡り歩いたりして仕事をした。

    麦, 二毛作, 刈敷, 草木灰, 牛馬, 荏胡麻, 絹布, 麻布, 鍛冶, 鋳物師, 紺屋

  • 47

    荘園・公領の中心地や交通の要地、①の門前などには地元の特産品や米などを売買する②が開かれ 月に3回開かれる③も珍しくなかった。さらに中央から地方の市に織物や工芸品などを運んでくる④も現れた。 ⑤・⑥・⑦などには高級品を扱う手工業者や商品が集まり、②のほかに常設の小売店(⑧)も出現した。 ⑤や⑥ではすでに平安時代の後期頃から大寺社に属する⑨や天皇家に属する⑩と呼ばれる人々が販売や製造についての特権を認められて商工業に従事していたが、やがて同業者の団体である⑪を結成するようになった。

    寺社, 定期市, 三斎市, 行商人, 京都, 奈良, 鎌倉, 見世棚, 神人, 供御人, 座

  • 48

    遠隔地を結ぶ商業取引も盛んで陸上交通の要地には①が設けられ各地の②には商品の③や中継・運送を行う④が活躍した。売買の手段としては米などの現物にかわって貨幣が多く用いられるようになり、荘園の一部では年貢の銭納もおこなわれたが、それにはもっぱら中国から輸入された⑤が利用された。 さらに遠隔地の取引には金銭の輸送を手形で代用する⑥が使われ、金融業者の⑦も多く現れた。 様々な人や物が集まる①や②は⑧として発展し⑨と呼ばれる富裕な人々が成長していった。 また荘園領主や地頭の圧迫・非法に対する農民の動きが活発となり団結して⑩をおこしたり、集団で逃亡する例も多くなった。年貢を農民が定額で請け負うこともおこなわれた。

    宿, 湊, 委託販売, 問, 宋銭, 為替, 借上, 町, 有徳人, 訴訟

  • 49

    生産や流通経済の目覚ましい発達と社会の大きな変化の中で幕府は多くの困難に直面していた。 ①は御家人たちに多大な犠牲を払わせたが幕府は十分な恩賞を与えることができず御家人たちの信頼を失う結果になった。 また②の繰り返しによって所領が細分化されたうえ 売買や③によって所領を失う御家人も少なくなかった。 こうした動きにともなって女性の地位が低下の傾向をみせはじめ女性に与えられる財産が少なくなり、また本人1代限りで死後は④に返す約束付きの相続(⑤)が多くなった。 幕府は⑥年に⑦を発布して御家人の所領の③や売買を禁止し、それまでに③・売却した御家人領を無償で取り戻させ御家人が関係する金銭の訴訟を受けつけないことにした。しかし御家人が所領を手放す動きを止めることはできなかった。 中小御家人の多くが没落していく一方で、経済情勢が転換する機会をうまくつかんで勢力を拡大する武士も生まれた。とくに⑧やその周辺では地頭や非御家人の⑨たちが武力に訴えて年貢の納入を拒否するなど荘園領主に抵抗するようになった。これらの武士は当時⑩と呼ばれ、その動きは各地に広がっていった。このような動きをしずめるために北条氏の⑪は強化されたが、それはますます御家人の不満をつのらせる結果となった。こうして幕府の支配は動揺するようになった。

    蒙古襲来, 分割相続, 質入れ, 惣領, 一期分, 1297, 永仁の徳政令, 畿内, 新興武士, 悪党, 得宗専制政治