1651年、兵学者由井正雪による( 1 )の摘発後、11歳の( 2 )が4大将軍に就任し、会津藩主である叔父の( 3 )がこれを補佐した慶安の変, 徳川家綱, 保科正之
1680年、5代将軍になった( 1 )は堀田正俊を大老としたが、彼が暗殺された後は、使用人に( 2 )を登用して側近政治を強化した徳川綱吉, 柳沢吉保
浮世草子の代表作品である、『好色一代男』を著した、元禄期の文学者は誰か井原西鶴
荒事という勇壮な演技で好評を得た、江戸の歌舞伎役者はだれか市川団十郎
徳川綱吉は武家諸法度で文治主義の理念を明示し、湯島聖堂を建てて( 1 )を大学頭に任じるなど、特に( 2 )を保護した林鳳岡, 朱子学
17世紀半ば以降、多くの藩では藩主に権力を集中し、( )の充実をはかった領国経営
神道を儒教流に解釈して釈迦神道を説いた朱子学者は誰か山崎闇斎
朱子学に対し、中江藤樹や熊沢蕃山が学んだ、現実を批判して矛盾を改めようとする学問は何か陽明学
徳川綱吉は、仏教思想に基づいて生類の全ての殺傷を禁じる( )を出した。これは1709年に廃止されたが、後世に大きな影響を及ぼした生類憐みの令
武士の土着を説き、8代将軍徳川吉宗の享保の改革で顧問の役割を果たした経世思想家は誰か荻生徂徠
岡山藩主池田光政は、陽明学を学んだ( 1 )を登用して藩校( 2 )や郷学( 3 )を設立するなど、教学振興をめざした熊沢蕃山, 花畠教場, 閑谷学校
新井白石が独自の時代区分を示し、朝廷や武家政権の推移を説いた歴史書はなにか『読史余論』
水戸藩主( )は、『大日本史』の編纂を奨励するべく、中国から亡命した朱舜水を重用した徳川光圀
1657年の( )後の江戸復興事業や寺社造営の出費などのため、幕府財政は動揺していた明暦の大火
天文学の分野で暦の誤差を修正し、日本独自の貞享歴を完成させた人物は誰か。渋川春海
和歌を道徳的に解釈する従来の見解を否定し、『万葉集』を研究した人物は誰か。契沖
幕府は、勘定吟味役であった( )を勘定奉行に登用し、品質を落とした元禄金銀に改鋳した萩原重秀
幕府は、勘定吟味役であった萩原重秀を勘定奉行に登用し、品質を落とした元禄金銀に改鋳した。これにより幕府は収入を得たが、貨幣価値の下落にともなう( )により、人々の生活は圧迫された物価騰貴
浮世絵版画を創始し、代表作に『見返り美人図』がある画家は誰か菱川師宣
俵屋宗達の装飾的な画法を取り入れて琳派を起こした画家は誰か尾形光琳
6大将軍( 1 )と、7代将軍( 2 )の時代に幕政をリードしたのは、朱子学者( 3 )と側用人( 4 )である。徳川家宣, 徳川家継, 新井白石, 間部詮房
1716年、7代将軍家継の死後、紀伊藩主であった( )が8代将軍となった徳川吉宗
新井白石らは、将軍権威の高揚をめざすとととに、( )を創設して天皇家との結び付きを強めた閑院宮家
徳川吉宗は使用人を置かず、有能な人材を次々に登用して改革に取り組んだ(( ))享保の改革
外交では、朝鮮通信使が用いる大王という呼称を、「( )」に改め、将軍の地位を明確化した日本国王
享保の改革の中心は財政再建であり、大名から石高1万石ごとに米100石を上納させる( )を実施し、見返りとして参勤交代の負担を緩和した上げ米
経済政策としては、( 1 )への貨幣改鋳をし、さらに( 2 )で長崎貿易の制限を行い、金銀の海外流出を防ごうとした正徳小判, 海舶互市新例
農業技術の進歩により、新耕用の( )や脱穀用の千歯扱など、様々な農具が考案された備中鍬
農政では、耕地拡大をはかるとともに、検見法を( )に改めて年貢の増徴を目指した定免法
行政改革では、奉行所の訴訟実務の軽減のため、金銭関係の訴訟を受理しない( )を発した相対済し令
商品作物生産が発達した地域では、干鰯・〆粕・油粕・糖などが( )として普及した金肥
野田や銚子など全国各地で生産された( )は、日本の食文化に大きな影響を与えた醤油
消化制度の整備のために町火消を組織させたり、評定所の門前に( )を設置し、その投書により小石川養成所を建てたりした。目安箱
基本法典である( )を編纂して、法治主義を強化したのも、行政改革の一環である公事方御定書
商人や職人は同業者団体をつくり、江戸の( )は海上輸送の安全と流通の独占を目指して結成された十組問屋
17世紀後半、村民の利害を代表する村役人層が、藩主や幕府に直訴する( 1 )一揆が活発になり、下総の( 2 )は義民として伝説化した代表越訴型, 佐倉惣五郎
17世紀中頃までに金・銀・銭の三貨が普及したが、東日本では主に( )が取引の中心とされた金貨
17世紀末以降になると、村民全員が参加する( 1 )一揆が一般化したが、その反面では、村役人層の不当な行為に対する農民の運動である( 2 )も増加した惣百姓, 村方運動
享保の飢餓の翌年には、米価高騰に怒る貧民層により、江戸で最初の( )が発生した打ちこわし
流動的な状況下で幕政を主導したのは、10代将軍( 1 )の使用人から老中となった( 2 )である徳川家治, 田沼意次
田沼意次は株仲間を拡大し、営業税である( )の増徴など積極的な商業・経済政策を展開した運上・冥加
工藤平助の提言を取り入れて( )らを蝦夷地に派遣し、開発やロシア人との交易の可能性を調査させた最上徳内
天明の飢餓が将軍家治が死去すると、( )は老中を辞任することになった田沼意次
1787年、11代将軍( 1 )の補佐として老中首座になった( 2 )は、寛政の改革に着手した徳川家斉, 松平定信
農民の出稼ぎを制限し、各地の社倉・義倉に米を蓄えさせる( )を整備して、飢餓に備えた囲米
困窮する旗本・御家人を救済するべく、( )を発して礼差に賃金を放棄させた棄捐令
都市政策にも力を入れ、正業を持たないものに資金を与えて帰農を奨励する( 1 )を出す一方、町入用の節約分の7割を積み立てさせ、窮民対策に当てる( 2 )を開始した旧里帰農令, 七分積金
思想面では、朱子学を正学とする( )を発令し、民間に対しても厳しい出版統制をおこなったため、民衆の反発をまねく結果になった寛政異学の禁
1792年、ロシア使節( )が根室に来航し、漂流民を送り届けると共に通商を求めたラクスマン
( 1 )事件での幕府の対応に関し、( 2 )は『慎機論』を、( 3 )は『戌成夢物語』を著したモリソン号, 渡辺崋山, 高野長英
1837年、飢餓に対する大阪町奉行の対応を批判して、陽明学者の( )が挙兵したが、半日で鎮圧された大塩平八郎
老中( 1 )は、農村出身者を強制的に帰農させる( 2 )を出したが、庶民に受け入れられなかった水野忠邦, 人返しの法
諸藩では藩政改革がおこなわれ、薩摩藩の( 1 )、長州藩の( 2 )など、各地で有能な人材が登用された調所広郷, 村田清風
1774年、前野良沢・杉田玄白らによって訳述された解剖書は何か『解体新書』
『古事記伝』を著し、国学を大成した学者は誰か本居宣長
18世紀半ば、京都で尊王論を説いた竹内式部が処罰された事件をなんというか宝暦事件
18世紀初め、町人の道徳として広まった心学の創始者は誰か石田梅岩
封権的身分社会を否定する『自然真営道』を著した、八戸の医者は誰か安藤昌益
日本全国を測量した結果を元に、「大日本史沿海興地全図」の作成に着手した人物は誰か伊能忠敬
オランダ商館医シーボルトが長崎郊外に開いた私塾はなにか鳴滝塾
滑稽本の代表作品である『東海道中膝栗毛』を著した人物は誰か十返舎一九
人情本の代表的作家で、天保の改革で処罰された人物は誰か為永春水
風景画を得意とし、『富嶽三十六景』を代表作とする浮世絵師は誰か葛飾北斎
1840年に( 1 )戦争で清国が敗北し、イギリスとの間で南京条約が結ばれると、江戸幕府は( 2 )を出して強靭な郊外方針を緩和したアヘン, 薪水給与令
1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官( 1 )が浦賀に来航すると、老中首座( 2 )はアメリカ大統領の国書を受理したペリー, 阿部正弘
1854年にはアメリカと( 1 )を結んで日本は開国したが、この条約はアメリカに飲み最恵国待遇を与える不平等なものであった日米和親条約
ロシアとの間でも、使節( 1 )が長崎に来航したのをきっかけに( 2 )が結ばれ、両国の国境を画定したプチャーチン, 日露和親条約
1856年、下田に着任したアメリカ初代駐日総領事( 1 )は、英仏の脅威を主張して( 2 )を幕府に迫ったハリス, 通商条約締結
老中首座( 1 )は勅許の獲得を求めたが、孝明天皇の反対にあって失敗し、幕府は大老( 2 )のもとで調印を断行した。これが( 3 )である堀田正睦, 井伊直弼, 日米修好通商条約
日米修好通商条約では、自国民が犯罪をした場合に領事が本国法に従って裁判を行う( 1 )が承認され、関税を条約附属の貿易章程で規定して日本の( 2 )が否定された領事裁判権, 関税自主権
自由貿易が始まると、江戸を中心とする流通機構の昨日が大きく低下したため、幕府は1860年に特定の品目については江戸の問屋を経て開港場に送ることを命じた( 1 )を発したが、在郷商人や列国の反対で効果は上がらなかった五品江戸廻送令
13代将軍( 1 )の継嗣問題がおこり、前水戸藩主徳川家斉昭や薩摩藩主島津斉彬ら有力大名は一橋家の( 2 )を推薦したが、大老井伊直弼の決断により紀伊藩主徳川慶福が継嗣に決定した。これが14代将軍( 3 )である徳川家定, 徳川慶喜, 徳川家茂
大老井伊直弼が( 1 )で暗殺されると、幕府の威信は大きく揺らいだ。そこで老中( 2 )は朝廷との和解をめざしたが、尊王擁夷派の反発を受け、さらに( 3 )で襲撃され失脚した桜田門外の変, 安藤信正, 坂下門外の変
独自の公務合体策を取る薩摩藩は1863年、会津藩と協力して三條実美ら急進派の公家を朝廷から追放した。このクーデターを( )という八月十八日の政変
長州藩は八月十八日の変に対抗して( )を起こしたが、薩摩・会津両藩に敗北した禁門の変
幕府は第1次長州征討に着手し、長州藩はこれに恭順の意を示したが、その後の第2時長州征討においては、長州藩と薩摩藩の間に( )が成立し、幕府に対抗する姿勢が整っていた薩長連合
幕府は将軍の死去を理由に撤退したが、この頃社会変革などを求める( 1 )や打ちこわしが頻発し、1867年には京坂一帯で( 2 )の乱舞が起きるという混乱した情勢の元で倒幕運動が進んだ世直し一揆, ええじゃないか
土佐藩では後藤象二郎や前藩主山内容堂が徳川家を中心とする( 1 )を構想し、彼らの献策を受け入れた幕府は1867年に( 2 )の上表を朝廷に提出した雄藩連合政権, 大政奉還
討幕の密勅を手にしていた薩長両藩は、( )の大号令を発して天皇を中心とする新政府を樹立した王政復古
戊辰戦争中の1868年、新政府は政治の基本方針として( )を発した五ヵ条の誓文
1871年、新政府は( )を断行し、従来の知藩事を罷免して新たに府知事・県令を任命した廃藩置県
新政府は1872年、群馬県に( )を開設するなど、官営模範工場を各地に設立した富岡製糸場
廃藩置県後の1871年、右大臣( )を中心とする使節団が海外に派遣されたが、条約改正交渉は失敗した岩倉具視
新政府は1875年の江華島事件を契機に( )を強要し、朝鮮を開国させた日朝修好条規
板垣退助が片岡健吉らとともに土佐で1874年に設立した、民権運動の中心適政社は何か立志社
大隈重信を党首として、1882年に結成された、イギリス流の議院内閣制を主張した政党はなにか立憲改進党
1880年代に大蔵卿としてデフレ政策を展開し、日本銀行を設立した人物は誰か松方正義
民権運動が激化する中で、旧自由党の大井憲太郎らが朝鮮の内政改革をはかって検挙された事件はなにか大阪事件
明治憲法に基づく帝国議会の二院を構成するのは、衆議院ともうひとつはなにか貴族院
第1回帝国議会が開かれる以前に、超然主義の立場を声明していた首相は誰か黒田清隆
不平等条約改正のために、極端な欧化政策をとって批判を浴びた人物は誰か井上馨
1894年、不平等条約改正の内容を含む日英通商航海条約調印に成功した外務大臣は誰か陸奥宗光
1884年、親日派の金玉均らが清仏戦争をきっかけに朝鮮国内でクーデタを起こして鎮圧された事件はなにか甲申事変
日清戦争後の下関条約で獲得したが、三国干渉により日本が返還を強いられた地域はどこか遼東半島
1651年、兵学者由井正雪による( 1 )の摘発後、11歳の( 2 )が4大将軍に就任し、会津藩主である叔父の( 3 )がこれを補佐した慶安の変, 徳川家綱, 保科正之
1680年、5代将軍になった( 1 )は堀田正俊を大老としたが、彼が暗殺された後は、使用人に( 2 )を登用して側近政治を強化した徳川綱吉, 柳沢吉保
浮世草子の代表作品である、『好色一代男』を著した、元禄期の文学者は誰か井原西鶴
荒事という勇壮な演技で好評を得た、江戸の歌舞伎役者はだれか市川団十郎
徳川綱吉は武家諸法度で文治主義の理念を明示し、湯島聖堂を建てて( 1 )を大学頭に任じるなど、特に( 2 )を保護した林鳳岡, 朱子学
17世紀半ば以降、多くの藩では藩主に権力を集中し、( )の充実をはかった領国経営
神道を儒教流に解釈して釈迦神道を説いた朱子学者は誰か山崎闇斎
朱子学に対し、中江藤樹や熊沢蕃山が学んだ、現実を批判して矛盾を改めようとする学問は何か陽明学
徳川綱吉は、仏教思想に基づいて生類の全ての殺傷を禁じる( )を出した。これは1709年に廃止されたが、後世に大きな影響を及ぼした生類憐みの令
武士の土着を説き、8代将軍徳川吉宗の享保の改革で顧問の役割を果たした経世思想家は誰か荻生徂徠
岡山藩主池田光政は、陽明学を学んだ( 1 )を登用して藩校( 2 )や郷学( 3 )を設立するなど、教学振興をめざした熊沢蕃山, 花畠教場, 閑谷学校
新井白石が独自の時代区分を示し、朝廷や武家政権の推移を説いた歴史書はなにか『読史余論』
水戸藩主( )は、『大日本史』の編纂を奨励するべく、中国から亡命した朱舜水を重用した徳川光圀
1657年の( )後の江戸復興事業や寺社造営の出費などのため、幕府財政は動揺していた明暦の大火
天文学の分野で暦の誤差を修正し、日本独自の貞享歴を完成させた人物は誰か。渋川春海
和歌を道徳的に解釈する従来の見解を否定し、『万葉集』を研究した人物は誰か。契沖
幕府は、勘定吟味役であった( )を勘定奉行に登用し、品質を落とした元禄金銀に改鋳した萩原重秀
幕府は、勘定吟味役であった萩原重秀を勘定奉行に登用し、品質を落とした元禄金銀に改鋳した。これにより幕府は収入を得たが、貨幣価値の下落にともなう( )により、人々の生活は圧迫された物価騰貴
浮世絵版画を創始し、代表作に『見返り美人図』がある画家は誰か菱川師宣
俵屋宗達の装飾的な画法を取り入れて琳派を起こした画家は誰か尾形光琳
6大将軍( 1 )と、7代将軍( 2 )の時代に幕政をリードしたのは、朱子学者( 3 )と側用人( 4 )である。徳川家宣, 徳川家継, 新井白石, 間部詮房
1716年、7代将軍家継の死後、紀伊藩主であった( )が8代将軍となった徳川吉宗
新井白石らは、将軍権威の高揚をめざすとととに、( )を創設して天皇家との結び付きを強めた閑院宮家
徳川吉宗は使用人を置かず、有能な人材を次々に登用して改革に取り組んだ(( ))享保の改革
外交では、朝鮮通信使が用いる大王という呼称を、「( )」に改め、将軍の地位を明確化した日本国王
享保の改革の中心は財政再建であり、大名から石高1万石ごとに米100石を上納させる( )を実施し、見返りとして参勤交代の負担を緩和した上げ米
経済政策としては、( 1 )への貨幣改鋳をし、さらに( 2 )で長崎貿易の制限を行い、金銀の海外流出を防ごうとした正徳小判, 海舶互市新例
農業技術の進歩により、新耕用の( )や脱穀用の千歯扱など、様々な農具が考案された備中鍬
農政では、耕地拡大をはかるとともに、検見法を( )に改めて年貢の増徴を目指した定免法
行政改革では、奉行所の訴訟実務の軽減のため、金銭関係の訴訟を受理しない( )を発した相対済し令
商品作物生産が発達した地域では、干鰯・〆粕・油粕・糖などが( )として普及した金肥
野田や銚子など全国各地で生産された( )は、日本の食文化に大きな影響を与えた醤油
消化制度の整備のために町火消を組織させたり、評定所の門前に( )を設置し、その投書により小石川養成所を建てたりした。目安箱
基本法典である( )を編纂して、法治主義を強化したのも、行政改革の一環である公事方御定書
商人や職人は同業者団体をつくり、江戸の( )は海上輸送の安全と流通の独占を目指して結成された十組問屋
17世紀後半、村民の利害を代表する村役人層が、藩主や幕府に直訴する( 1 )一揆が活発になり、下総の( 2 )は義民として伝説化した代表越訴型, 佐倉惣五郎
17世紀中頃までに金・銀・銭の三貨が普及したが、東日本では主に( )が取引の中心とされた金貨
17世紀末以降になると、村民全員が参加する( 1 )一揆が一般化したが、その反面では、村役人層の不当な行為に対する農民の運動である( 2 )も増加した惣百姓, 村方運動
享保の飢餓の翌年には、米価高騰に怒る貧民層により、江戸で最初の( )が発生した打ちこわし
流動的な状況下で幕政を主導したのは、10代将軍( 1 )の使用人から老中となった( 2 )である徳川家治, 田沼意次
田沼意次は株仲間を拡大し、営業税である( )の増徴など積極的な商業・経済政策を展開した運上・冥加
工藤平助の提言を取り入れて( )らを蝦夷地に派遣し、開発やロシア人との交易の可能性を調査させた最上徳内
天明の飢餓が将軍家治が死去すると、( )は老中を辞任することになった田沼意次
1787年、11代将軍( 1 )の補佐として老中首座になった( 2 )は、寛政の改革に着手した徳川家斉, 松平定信
農民の出稼ぎを制限し、各地の社倉・義倉に米を蓄えさせる( )を整備して、飢餓に備えた囲米
困窮する旗本・御家人を救済するべく、( )を発して礼差に賃金を放棄させた棄捐令
都市政策にも力を入れ、正業を持たないものに資金を与えて帰農を奨励する( 1 )を出す一方、町入用の節約分の7割を積み立てさせ、窮民対策に当てる( 2 )を開始した旧里帰農令, 七分積金
思想面では、朱子学を正学とする( )を発令し、民間に対しても厳しい出版統制をおこなったため、民衆の反発をまねく結果になった寛政異学の禁
1792年、ロシア使節( )が根室に来航し、漂流民を送り届けると共に通商を求めたラクスマン
( 1 )事件での幕府の対応に関し、( 2 )は『慎機論』を、( 3 )は『戌成夢物語』を著したモリソン号, 渡辺崋山, 高野長英
1837年、飢餓に対する大阪町奉行の対応を批判して、陽明学者の( )が挙兵したが、半日で鎮圧された大塩平八郎
老中( 1 )は、農村出身者を強制的に帰農させる( 2 )を出したが、庶民に受け入れられなかった水野忠邦, 人返しの法
諸藩では藩政改革がおこなわれ、薩摩藩の( 1 )、長州藩の( 2 )など、各地で有能な人材が登用された調所広郷, 村田清風
1774年、前野良沢・杉田玄白らによって訳述された解剖書は何か『解体新書』
『古事記伝』を著し、国学を大成した学者は誰か本居宣長
18世紀半ば、京都で尊王論を説いた竹内式部が処罰された事件をなんというか宝暦事件
18世紀初め、町人の道徳として広まった心学の創始者は誰か石田梅岩
封権的身分社会を否定する『自然真営道』を著した、八戸の医者は誰か安藤昌益
日本全国を測量した結果を元に、「大日本史沿海興地全図」の作成に着手した人物は誰か伊能忠敬
オランダ商館医シーボルトが長崎郊外に開いた私塾はなにか鳴滝塾
滑稽本の代表作品である『東海道中膝栗毛』を著した人物は誰か十返舎一九
人情本の代表的作家で、天保の改革で処罰された人物は誰か為永春水
風景画を得意とし、『富嶽三十六景』を代表作とする浮世絵師は誰か葛飾北斎
1840年に( 1 )戦争で清国が敗北し、イギリスとの間で南京条約が結ばれると、江戸幕府は( 2 )を出して強靭な郊外方針を緩和したアヘン, 薪水給与令
1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官( 1 )が浦賀に来航すると、老中首座( 2 )はアメリカ大統領の国書を受理したペリー, 阿部正弘
1854年にはアメリカと( 1 )を結んで日本は開国したが、この条約はアメリカに飲み最恵国待遇を与える不平等なものであった日米和親条約
ロシアとの間でも、使節( 1 )が長崎に来航したのをきっかけに( 2 )が結ばれ、両国の国境を画定したプチャーチン, 日露和親条約
1856年、下田に着任したアメリカ初代駐日総領事( 1 )は、英仏の脅威を主張して( 2 )を幕府に迫ったハリス, 通商条約締結
老中首座( 1 )は勅許の獲得を求めたが、孝明天皇の反対にあって失敗し、幕府は大老( 2 )のもとで調印を断行した。これが( 3 )である堀田正睦, 井伊直弼, 日米修好通商条約
日米修好通商条約では、自国民が犯罪をした場合に領事が本国法に従って裁判を行う( 1 )が承認され、関税を条約附属の貿易章程で規定して日本の( 2 )が否定された領事裁判権, 関税自主権
自由貿易が始まると、江戸を中心とする流通機構の昨日が大きく低下したため、幕府は1860年に特定の品目については江戸の問屋を経て開港場に送ることを命じた( 1 )を発したが、在郷商人や列国の反対で効果は上がらなかった五品江戸廻送令
13代将軍( 1 )の継嗣問題がおこり、前水戸藩主徳川家斉昭や薩摩藩主島津斉彬ら有力大名は一橋家の( 2 )を推薦したが、大老井伊直弼の決断により紀伊藩主徳川慶福が継嗣に決定した。これが14代将軍( 3 )である徳川家定, 徳川慶喜, 徳川家茂
大老井伊直弼が( 1 )で暗殺されると、幕府の威信は大きく揺らいだ。そこで老中( 2 )は朝廷との和解をめざしたが、尊王擁夷派の反発を受け、さらに( 3 )で襲撃され失脚した桜田門外の変, 安藤信正, 坂下門外の変
独自の公務合体策を取る薩摩藩は1863年、会津藩と協力して三條実美ら急進派の公家を朝廷から追放した。このクーデターを( )という八月十八日の政変
長州藩は八月十八日の変に対抗して( )を起こしたが、薩摩・会津両藩に敗北した禁門の変
幕府は第1次長州征討に着手し、長州藩はこれに恭順の意を示したが、その後の第2時長州征討においては、長州藩と薩摩藩の間に( )が成立し、幕府に対抗する姿勢が整っていた薩長連合
幕府は将軍の死去を理由に撤退したが、この頃社会変革などを求める( 1 )や打ちこわしが頻発し、1867年には京坂一帯で( 2 )の乱舞が起きるという混乱した情勢の元で倒幕運動が進んだ世直し一揆, ええじゃないか
土佐藩では後藤象二郎や前藩主山内容堂が徳川家を中心とする( 1 )を構想し、彼らの献策を受け入れた幕府は1867年に( 2 )の上表を朝廷に提出した雄藩連合政権, 大政奉還
討幕の密勅を手にしていた薩長両藩は、( )の大号令を発して天皇を中心とする新政府を樹立した王政復古
戊辰戦争中の1868年、新政府は政治の基本方針として( )を発した五ヵ条の誓文
1871年、新政府は( )を断行し、従来の知藩事を罷免して新たに府知事・県令を任命した廃藩置県
新政府は1872年、群馬県に( )を開設するなど、官営模範工場を各地に設立した富岡製糸場
廃藩置県後の1871年、右大臣( )を中心とする使節団が海外に派遣されたが、条約改正交渉は失敗した岩倉具視
新政府は1875年の江華島事件を契機に( )を強要し、朝鮮を開国させた日朝修好条規
板垣退助が片岡健吉らとともに土佐で1874年に設立した、民権運動の中心適政社は何か立志社
大隈重信を党首として、1882年に結成された、イギリス流の議院内閣制を主張した政党はなにか立憲改進党
1880年代に大蔵卿としてデフレ政策を展開し、日本銀行を設立した人物は誰か松方正義
民権運動が激化する中で、旧自由党の大井憲太郎らが朝鮮の内政改革をはかって検挙された事件はなにか大阪事件
明治憲法に基づく帝国議会の二院を構成するのは、衆議院ともうひとつはなにか貴族院
第1回帝国議会が開かれる以前に、超然主義の立場を声明していた首相は誰か黒田清隆
不平等条約改正のために、極端な欧化政策をとって批判を浴びた人物は誰か井上馨
1894年、不平等条約改正の内容を含む日英通商航海条約調印に成功した外務大臣は誰か陸奥宗光
1884年、親日派の金玉均らが清仏戦争をきっかけに朝鮮国内でクーデタを起こして鎮圧された事件はなにか甲申事変
日清戦争後の下関条約で獲得したが、三国干渉により日本が返還を強いられた地域はどこか遼東半島