問題一覧
1
すべて答えてください。 ①魏の創始者は誰か。 ②赤壁の戦いで連合軍に負けたのは誰か。 ③九品中正を行った曹操の子で、三国魏の初代皇帝は誰か。 ④蜀の建国者は誰か。 ⑤呉の初代皇帝は誰か。 ⑥呉の建国者は誰か。
①曹操 ②曹操 ③曹丕 ④劉備 ⑤孫権 ⑥孫権
2
三国時代について、空所補充。 中国史で後漢王朝は滅亡後の、魏・呉・蜀の三国が分立対抗した220年~280年の60年間を言う。 220年、曹丕が後漢の献帝の禅譲を受けて(①)を建国して皇帝となると、翌221年年、劉備が成都で皇帝に即位(昭烈帝)して(②)を建国した。翌々年、孫権は(③)王を称し、さらに229年に帝となった。一般に、曹丕が①帝となったきわ年から実質的に三国鼎立の状態となったとして、三国時代としている。それ以後も三国の抗争が続き、263年、①(実権は(④)に移っていた)が②を滅ぼすが、①は265年に④に帝位を奪われて(⑤)(西⑤)に代わる。その⑤が、280年に③を滅ぼし、一時中国の統一を回復する。そこまでを三国時代という。この三国の歴史を次の晋の時に陳寿が叙述した正史が『(⑤)』である。
①魏 ②蜀 ③呉 ④司馬炎 ⑤晋 ⑥三国志
3
★三国時代とはどのような時代か。
華北の魏、四川の蜀、長江中流域の呉が並び立ち、近隣の異民族を引き入れながら抗争を繰り返した時代。
4
空所補充。 魏は最も豊かな黄河流域(華北)を抑えて有力であり、(①)によって荒廃した国土の復興にあたり、また(②)による人材登用をはかるなど、法整備に努めたが、武将の司馬懿(仲達)が蜀の諸葛孔明との戦争でよく国を守ったことから実権をふるうようになり、その孫の司馬炎は265年に帝位を奪い、武帝として即位し晋(西晋)を建てる。 呉は米作地帯の長江下流域を支配し、(③)(現在の南京)を都とした。始め蜀と連合して魏にあたっていたが、曹操の働きかけを受けた孫権が魏と結ぶこととなり、蜀を攻めて関羽を攻め滅ぼすなど、三国の一角を維持していたが、司馬炎の晋によって280年に滅ぼされ、三国時代が終わる。呉の時代に(④)の開発が始まり、さらにその勢力を中国の南方のベトナム方面に拡張した。 蜀は三国の中で最も国力も小さく、長江上流という地域にあって勢力を拡大することはできなかったが、劉備の死後は後継の劉禅を補佐した(⑤)の活躍で魏とはたびたび互角の戦いをした。⑤は蜀の背後を固めるため、南方の雲南地方にもしばしば兵を出し、その方面への漢人の進出の端緒となった。しかし、⑤が234年、最後の遠征の途次、五丈原で陣没すると、その後は次第に魏に圧迫され、263年、魏によって滅ぼされた。
①屯田制 ②九品中正 ③建業 ④江南 ⑤諸葛孔明
5
2024東大 中国は、3世紀前半に、3人の皇帝が並び立つ時代を迎えた。長江下流域に都をおいた国名、その都の名前、および3世紀後半にその国を滅ぼした国の名前を答えよ。
呉、建業、晋
6
★魏は、三国の中でもっとも東に位置していたので3世紀の東アジア情勢に大きな影響を与えた。それについて、60字程度で説明せよ。 指定語句〔高句麗、親魏倭王〕
魏は楽浪郡・帯方郡を支配し、高句麗への影響力を持ち、倭の親魏倭王への冊封を通じて、3世紀の東アジア国際秩序を主導した。(59字)
7
★清談とは何か、「自由」という言葉を用いて30字程度で説明せよ。
伝統的権威が弱まった魏や晋の時代の、道家思想や仏教の影響を受けながら、世俗を超越した自由な議論。
8
空所補充。 中国三国時代の魏の皇帝から実権を奪った司馬懿しばい(仲達)の孫の(①)は、265年に魏の皇帝から禅譲を受ける形で皇帝となった(晋の武帝)。都は(②)におかれた。武帝は勢いに乗り、280年には江南の呉を滅ぼし、中国を統一した。 武帝は、土地公有制の先駆となる占田法・課田法を実施し、統一政策を進めた。また、魏の官吏登用法である(③)制を継承して人材登用を図ったが、その結果地方豪族の家格が固定化し、中央の官僚として門閥貴族化が進んだ。
①司馬炎 ②洛陽 ③九品中正
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2010 立命館大、空所補充。 司馬炎は、はじめ(①)の将軍であったが、①の皇帝からの禅譲を受けて(②)を建国し、やがて(③)を滅ぼして中国を統一した。空欄を埋めよ。
①魏 ②晋 ③呉
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空所補充。 武帝の死後、290年に長子の恵帝が継いだが暗愚であったので、皇后の賈后とその一族が実権を握り、そのため武帝の兄弟や、武帝の子(恵帝の兄弟)の司馬氏一門に激しい内紛が生じた。この一族の争いは長期化して(①)へと発展し、300年ごろから激化し、306年まで続いた。そのため晋は急速に衰退、中国は再び分裂の時代に向かっていく。このとき、八王がそれぞれ兵力として頼ったのが、当時(②)といわれた北方民族であった。 この①の際、それぞれの勢力が、兵力として北方民族を導き容れて傭兵としため、次第に彼らが華北に進出する契機となった。北方民族は②と言われ、様々な系列を含んでいたが、華北の農耕地帯への進出をそれぞれねらっており、晋の統制が効かなくなるにつれて活動を活発にしていった。 ②の一つの南匈奴出身の劉淵は-04年に漢を建国、その弟の劉聡はついに311年、晋の都(③)に侵入、永嘉の乱となり、晋は実質的に衰えた。さらに劉淵の子の劉曜が316年に(④)を陥れ、晋は完全に滅亡した。その後、江南にいた一族の(⑤)が、建業で晋を再建するがそれを東晋とし、それ以前を西晋と言って区別する。
①八王の乱 ②五胡 ③洛陽 ④長安 ⑤司馬睿
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五胡をすべて答えなさい。
匈奴、鮮卑、羯 氐、羌
12
★3~4世紀前半の中国国内の勢力の移り変わりについて、100字程度で説明しなさい。 必須語句〔魏・蜀・呉、司馬炎、八王の乱、五胡、司馬睿、建康〕
3世紀、中国は魏・蜀・呉の三国鼎立時代だったが、司馬炎が呉を滅ぼし、晋を建国し統一。しかし八王の乱で晋の支配が弱まると、五胡が台頭し華北を席巻。晋は南遷し、4世紀前半に司馬睿が建康で東晋を建国した。(99字)
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西晋の都はどこか。また、東晋の都はどこか。
洛陽、建康
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東晋の文化について、空欄補充。 東晋は、皇帝にも暗愚なものが多く、政治的には混乱が続いたが、魏・西晋を経て形成された貴族社会が継承され、宮廷では高度な貴族文化が花咲いた。詩人では(①)が『桃花源記』などで名高く、画家では(②)が『女史箴図』を描いたのはこのころのことであった。書家の(③)の傑作『蘭亭序』などが生まれた。総じてこの時代は、続く南朝の時代も含めて六朝文化といわれ、その最盛期となった。また、僧侶の(④)がグプタ朝時代のインドに行き、戒律を学んで帰り、仏教も盛んであった。
①陶淵明 ②顧愷之 ③王羲之 ④法顕
15
北魏について、空所補充。 三代(①)帝(在位423~452年)が北燕、北涼、夏を併合して439年華北を統一した。さらに太武帝の征服活動は西域・モンゴル高原に及び、ユーラシア内陸に広大な北魏帝国が成立した。 北魏帝国が成立して東西交易路の安全が復活すると、西域のシルクロードを経由して商人とともに(②)などの文化が中国にもたらされることになった。特に②は、西域や華北の北涼などの②信仰国が征服されたことで多くの僧侶が北魏に連行され、信者も増えていった。⑦の浸透に対し北魏の支配下に入っていた漢人の中の伝統的な信仰である(③)を信じる人々は反発を強めていった。 ①帝も(④)が説いた新天師道を信仰し、442年には③を北魏の国教と定めた。そのため、446年には、激しい②弾圧(廃仏)を行った。 ①帝の②弾圧は、③の道士④と、①帝に信任された漢人で儒学者の崔浩の二人が強く働きかけたもので、その通りの動きとなった。ところが北魏の歴史を編纂することになった崔浩は、北魏の支配層に残る胡人(北方遊牧民)の風俗をあからさまに記述したために、彼らの怒りを買うという「国史事件」で失脚し、450年に①帝によって彼とその一門、一族は死刑になってしまった。 しかし、北魏の②弾圧・③保護策は、太武帝一代で終わりを告げ、452年のその死後に即位した4代文成帝は、ただちに②を復興させる詔を発し、北魏の②は復活した。ただし、復興した②は国家の統制下におかれることになり、僧侶・寺院の数には制限が設けられた。それでも寺院は再建され、造仏も盛んになった。北魏における造寺・造仏活動の最初の隆盛を示すものが、平城の郊外で造営された(⑤)の石窟寺院であった。
①太武 ②仏教 ③道教 ④寇謙之 ⑤雲崗
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空所補充。 471年に6代(①)帝(在位471~499年)が即位したが、わずか10歳だったので、後見の文明太后(馮太后)が政治の実権を握った。均田制・(②村落制度)制などの制定は、文明太后の手で行われたが、490年、文明太后の死によって親政を行うことになった①帝はその改革を引き継ぎ、さらに前進させた。その基本方針は(③)政策といわれるもので、それまでの北魏が胡族と漢族の要素を併せ持つ胡漢二重体制であったものを改め、胡族の要素をなくし、漢族風の皇帝制度による支配に一本化することであった。それは宮中での胡語・胡服の禁止だけでなく各方面に及んだ。 ③政策の中で最も重要なことが(④)遷都である。①帝は南朝宋を討伐し、中華全土を統一することを視野に入れていたので、平城は統一中国の都としてはふさわしくないと考え、中原の歴史的な都市④への遷都が必要と考えた。それに対しては胡族の中に根強い反対論があったが、493年8月、軍を率いて④に赴き、家臣の合意を取り付けて遷都を決定し、翌494年に遷都を実行した。次の皇帝たちも④城を修築して、都市の整備を進めると、北魏の支配圏は西域まで広がっていたので、多くの外国商人も集まって商業が活発となり、さらに多くの仏教寺院も建設された。①帝は平城の郊外の雲崗石窟寺院に匹敵する仏教寺院を建設しようと、郊外の(⑤)に、新たに石窟寺院の造営を開始した。⑤石窟はその後も隋唐時代まで造営が継続され、中国を代表する仏教史跡となっている。
①孝文 ②三長 ③漢化 ④洛陽 ⑤竜門
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北魏を建てた、一族を答えなさい。
拓跋氏
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★北魏の太武帝が、442年に儒教ではなく道教を国教として定めたのはなぜか、簡単に説明しなさい。
太武帝自身が鮮卑であり、漢民族のみが天子になれると考える儒教は都合が悪かったから。
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★北魏の政治の特徴について90字程度で説明しなさい。 指定語句〔柔然、孝文帝、遷都、鮮卑〕
北魏は、鮮卑族の建てた王朝で、初期は遊牧民の習俗を残した。しかし、孝文帝が柔然への対策と漢文化受容のため、平城から洛陽へ遷都し、漢化政策を推進、これにより支配体制を強化した。(87字)
20
★九品中正とはどんな制度か。
官位を9つの等級に分類し、地方におかれた中正官がそれにあわせて人材を等級づけて推薦する制度。
21
★九品官人法の特徴を、科挙との比較において100字程度で説明しなさい。
郡ごとの中正官から官内の人物を一品官から九品官で評価して推薦させる役人登用制度で、名声や賄賂による登用が横行するという短所があった。それに対して科挙は試験に合格した人物のみを採用する実力主義だった。(99字)
22
★均田制はどのようなものなのか、簡単に説明しなさい。
国家が国民に土地を分け与えるもの。
23
北魏の分裂について、空所補充。 しかし、孝文帝の漢化政策に対して、胡族の中に不満がたまっていった。とくに、北魏の北辺を(①)などの遊牧民から守るために置かれていた(②)といわれる軍事都市の兵士や住民は、都が南方の洛陽に移されたことで孤立感を深め、また待遇も悪化したので不満を募らせていた。彼らは、523年、胡族の兵士を中心として鎮の連絡を取り、②の乱と言われる反乱を起こした。そのころ、北魏の宮廷では年少の皇帝の即位が続き、さらに皇帝が暗殺されるなどの事件が続いて統治能力を失っており、実権は軍事力を握る将軍たちに移っていた。それらの将軍の中には②の反乱軍とも結ぶものもおり、北魏は分裂状態に陥った。 その中から鮮卑系武将の高歓は孝静帝をかついで洛陽で(③)を建て、同じく鮮卑系宇文部の宇文泰は洛陽を逃れた孝武帝をかついで長安で(④)を建てた。こうして534年には、北魏は洛陽(後にさらに東の鄴に移る)を都とした③と、長安を都とした④とに分裂した。 ③と④はいずれも部族国家連合である拓跋国家を継承していたが、いずれも軍事力を担ったのは②出身の胡族であり、それを漢人官僚が支えるという構造を持っていた。違いは、③は漢人貴族を抱えていたことから孝文帝の漢化路線を継承しており、一方の④は少ない軍事力を補うため、漢人を兵士として取り込んだ軍事体制をつくりあげた。 ③・④はいずれも拓跋氏を皇帝としていたが、実権は高歓と宇文泰が握っていた。次の世代になるとそれぞれの後継者が拓跋氏に代わって皇帝の地位に就くことになった。③では高歓の子の高洋が禅譲を受ける形で即位して(⑤)を建て、④では宇文泰の子の代に(⑥)を建国した。⑤は漢化路線を継承しながら胡族の軍事力にも依存しなければならない矛盾をかかえていたことから、やがて衰退した。それに対して胡族体制に回帰した④を継承した⑥は、周という国号をかかげたように中華王朝としての改めて胡族体制との融合を図り、それに成功して主導権を握り、そこから新たな国家として(⑦)があらわれてくる。
①柔然 ②六鎮 ③東魏 ④西魏 ⑤北斉 ⑥北周 ⑦隋
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★北魏が滅亡したのはなぜか。反乱の名前をあげ、簡単に説明しなさい。
農耕社会の安定化をはかるために、平城から洛陽に遷都したり、鮮卑の文化を無理に中国的にしたりする政策に人々が反発し、六鎮の乱が起きたから。
25
六鎮の乱は、どこが起こした反乱か、簡単に答えなさい。
柔然への備えとして北辺におかれた6つの駐屯地である鎮が起こした。
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★4~5世紀頃の中央ユーラシアの勢力の推移について、中国との関係にも触れながら、130字程度で説明せよ。 指定語句〔傭兵、華北に進出、可汗、華北の統一、漢化政策〕
4〜5世紀頃、匈奴に代わり柔然や鮮卑などの遊牧民族が台頭し、その首長は可汗を称した。彼らの一部は五胡十六国時代に中国で傭兵として利用され、華北に進出した。特に北魏を建てた鮮卑は、武力で華北の統一を達成後、漢化政策を進めて中国社会への定着を図ったが、分裂し衰退した。(134字)
27
北魏の文化について、空所補充。 北方民族の鮮卑が華北を支配したことによって、その王朝である北魏の時代に、中国の文化に大きな変化が起こった。それまで農業主体であった中国社会に、北方遊牧民の生活スタイルであるズボンの着用や椅子の使用などが入り込み、やがてそれが伝統的で現在につながる漢文化へと定着していった。その他に次のようなことが指摘できる。 宗教と思想では、漢代の儒教の隆盛に代わって、西方から伝来した(①)と、中国固有の(②)がともに発展した。太武帝は②を保護し、①に対しては廃仏と言われる厳しい弾圧を行ったが、次の文成帝から①保護に転じ、その結果、北魏時代の都の平城近くに(③)、洛陽に遷都した後にその郊外に(④)という、中国の①文化を代表する石窟寺院が建設された。 漢及び三国時代の魏を通じて、中国の科学技術の出発点といえる新たな文化が芽生えた。北魏の科学技術は南北朝時代の北朝にも受けつがれていく。その代表的業績としては、賈思勰(かしきょう)の農業技術書『斉民要術』、酈道元の地理書『(⑤)』があらわれたのがこの時代である。
①仏教 ②道教 ③雲崗 ④竜門 ⑤水経注
28
★魏晋南北朝時代において、貴族と呼ばれる名門が形成された理由を2つ答えなさい。 必須語句〔荘園、社会的指導力、独占、固定化〕
後漢末頃に社会秩序の混乱を受け、豪族を中心に村の自衛がはかられるようになり、戦乱で土地を失った人を勢力下におき、荘園を経営した豪族の社会的指導力が上がったから。 三国時代の魏で始まった九品中世により、有力な豪族による高級官職の独占を招き、同時に全国的な家柄も固定化されていったから。
29
6世紀半ば、モンゴル高原で勢力を伸ばした民族は何か。
突厥
30
★この遺跡の特徴を説明しなさい。
遊牧文化と中国文化の融合が示されていること。
31
★次の人物はそれぞれどんな活躍をしたのか、宗教的観点から簡単に説明しなさい。 ①仏図澄 ②鳩摩羅什 ③法顕
①仏図澄 30余年の布教活動により、約900の仏寺を建立し、1万人近くの漢人僧を育成した。 ②鳩摩羅什 般若や法華などの大乗諸経を約300巻漢訳した。 ③法顕 各地域の歴史資料としてだけでなく、仏教史の資料としても貴重な仏国記を残した。
32
★江南の文化の発展や、朝鮮半島や日本での新国家の形成が起きた背景を簡単に説明しなさい。
戦乱によって周辺地域へ人々が流出したから。
33
★冊封体制とは何か、簡単に説明しなさい。
中国王朝が、諸王朝との対抗関係で優位にたつために、積極的に近隣の勢力に官位や称号を与えてできた、中国王朝を中心とする理念上の秩序。
34
空所補充。 420年、江南地方で東晋に代わり(①)が成立、439年、華北で北魏が統一を達成した。このころから、中国は淮河(わいが)を境として、北半分の北方民族が支配し漢民族との融合が進められた地域と、南半分の漢民族の文化が維持された地域に二分される時代が589年に隋が統一するまで続く。その時代を南北朝時代という。 北朝では、北魏の後は、東魏→北斉と西魏→(②)の対立が続き、②が統一する。その北周から隋が出て中国全土を統一するに至る。南朝では、東晋の後、宋→斉→梁→陳という漢民族の王朝が続き、陳が隋に滅ぼされて、終わる。 この間、南朝では魏・晋から継承した六朝文化が栄え、北朝では仏教の浸透とともに北方民族と漢民族の文化的融合が進んだ。
①宋 ②北周