問題一覧
1
1870年代のヨーロッパで本格的に利用されるようになった燃料は何か?
石油
2
1870年代のヨーロッパでは、石炭に 加えて( )が燃料として本格的に 利用される ようになった。
石油
3
蒸気力にかわって、( )の利用も始まった。
電力
4
さらに、( )や電機工業が登場し、産業の機械化と大規模化が進んだ。 こうした産業の変化を( )と呼ぶ。
重化学工業、第二次産業革命
5
大規模化した産業は( )を必要とした。 そのため各国では( )が進み、企業の銀行への依存も強まった。
巨額の資本、企業の合併
6
大規模化した産業に( ・ )を調達するため、また手狭になったヨーロッパ市場を超えて商品の( )を確保するため、ヨーロッパの産業界では植民地拡大の要請が高まった。
原料・燃料、販路
7
1880年代以降、各国の政府は新しい植民地の獲得に力を入れ、また従来からの植民地においても、現地社会への介入をより深めた。こうした政策を( )主義と呼ぶ。
帝国
8
1870~71年の( )戦争以降、ヨーロッパの列強はたがいに戦争することがなかった。
プロイセン=フランス
9
列強各国では、有権者の拡大にともない、広く住民のあいだで政治への関心が高まった。政治家も世論を無視できなくなり( )を掲げて世論の支持を得ようとする動きも見られた。
ナショナリズム
10
また、第二次産業革命により工場労働者の数が増し、労働者が無視できない勢力となるとともに、その利害を代表する( )の結成も進んだ。
労働者政党
11
【イギリス】 カナダやオーストラリア、ニュージーランドなど、白人が入植する植民地に( )の地位を認めることで、本国と植民地の関係もより緊密になった。
自治領
12
【イギリス】 20世紀初頭には労働組合などによって( )が成立し、社会政策の充実を求めた。
労働党
13
【イギリス】 自治や独立を求める気運の高まっていたアイルランドに対しては、1914年に( )が成立したが、イギリス人が多く入植していた北アイルランドでは激しい反発にあい、政府は第一次世界大戦の勃発を理由にして、自治法の施行を延期した。
アイルランド自治法
14
【フランス】 フランスは( )のもとで、アフリカと東南アジアに植民地を拡大した。
第三共和政
15
【フランス】 国内政治では、軍部が関与して、反ユダヤ主義にもとづく冤罪事件である( )がおこった。
ドレフュス事件
16
・フランス ドレフュス事件は、世論を反ユダヤ的・半共和政的な( )と( )とに二分したが、その後、共和派が優位を占めるようになり、国内は安定した。
保守派、共和派
17
・フランス 労働者政党としては( )が成立し、議席数をのばしていった。
社会党
18
・ドイツ 1888年に即位した( )は政治の主導権を握ることを望み、ビスマルクと対立した。
ヴィルヘルム2世
19
・ドイツ 皇帝は( )の延長を認めず、ビスマルクを辞任に追い込んだ。
社会主義者鎮圧法
20
フランス 対外政策:( )を掲げて海軍を増強し、イギリスに脅威を与えた。
世界政策
21
フランス 社会主義者鎮圧法が廃止されると、( )党は順調に勢力を伸ばし、1912年には帝国議会で第一党となった。
社会民主
22
党の理論家( )は、社会主義革命ではなく、議会での活動を主要な課題とすることをとなえた。
ベルンシュタイン
23
ドイツ ベルンシュタインの考えは( )として1部の社会主義者らに非難されたが、労働者政党としてはが国民国家に取り込まれていくヨーロッパ各国の当時の状況によく適合していた。
修正主義
24
ロシア ベルリン会議ののち、ロシアはバルカン半島からシベリア極東に目を転じた。その後、1891年に起工された( )は、経済的な勢力圏の拡大を目指すものであった。
シベリア鉄道
25
ロシア 1904年に( )がおこり、戦争で生活条件が悪化すると、国民国家としての統合が弱いロシアでは住民の不満が高まり、05年に革命が起こった。(1905年革命)
日露戦争
26
ロシア 皇帝( )は憲法の制定と国会の開設により事態を収束させたが、強大な権力を保持し続け、ロシア社会民主労働党などの社会主義政党を弾圧し、再び専制的な姿勢を強めた。
ニコライ2世
27
アメリカ 豊富な資源と広大な国内市場に支えられたアメリカ合衆国の( )は、19世紀末までに世界第一位となった。
工業力
28
アメリカ 1898年には( )に勝利し、フィリピンやプエルトリコなど、太平洋やカリブ海のスペイン植民地を獲得し、( )を保護国化した。
アメリカ=スペイン戦争、キューバ
29
アメリカ ( )大統領はカリブ海に面した諸国にたびたび武力介入し( )、パナマ運河の開設も、現地に強制的に介入して、パナマを独立させた上で実現させた。
セオドア=ローズヴェルト、棍棒外交
30
アメリカ 対中国政策では経済的な進出を基本とし、( )と機会均等・領土保全をほかの列強に呼びかけた。
門戸開放
31
アメリカ 東ヨーロッパ・南ヨーロッパなどからの大量の( )は、都市の貧困問題を発生させた。
移民
32
帝国主義の時代は、「世界の一体化」がいっそう進んだ時代でもあった。1869年に開通した( )は地中海と紅海を結んだ。
スエズ運河
33
1914年に開通した( )は大西洋と太平洋を結んだ。
パナマ運河
34
1869年には社会主義政党の国際組織である( )がパリで発足し、反戦運動に力を注いだ。
第2インターナショナル
35
アフリカ大陸は、従来は北部およびインド航路の港がヨーロッパ人に知られていたにすぎなかったが、( )らの探検を経て、1880年代以降、激しい植民地獲得競走の舞台となった。
リヴィングストン
36
ドイツのビスマルクが1884~85年に開催した( )は、コンゴを( )の実質的な植民地として認めるとともに、アフリカを植民地化する際の実効支配の原則を定めた。
ベルリン=コンゴ会議、ベルギー
37
イギリスは1880年代初めに( )を事実上の保護国とし、さらにスーダンも征服した。
エジプト
38
1899年には金やダイヤモンドを得るために、ブール人と( )を起こし、彼らの国を併合した。
南アフリカ戦争
39
イギリスはアフリカ大陸を南北に縦断する政策を取り、アフリカ南端の( )、北岸の( )、そしてインド植民地の( )を結びつけることを目指した。
ケープタウン、カイロ、カルカッタ
40
フランスはアルジェリアを拠点に、東のチュニジアを保護国化し、サハラ砂漠地帯もおさえると、そこからアフリカを東西に縦断して、( )やマダガスカルと連結しようとした。
ジブチ
41
横断政策はイギリスの縦断政策とファショダで衝突した( )が、フランスの譲歩により解決した。
ファショダ事件
42
イギリス・フランス両国は接近し、1904年には( )を結んで、エジプトにおけるイギリスの支配的地位と、モロッコにおけるフランスの支配的地位を相互に承認することで、ドイツに対抗した。
英仏協商
43
イタリアは( )の獲得をめざしたが、逆に撃退された。
エチオピア
44
イタリアは1911年にオスマン帝国に戦争をしかけ( )戦争、リビアを獲得した。この戦争はオスマン帝国のさらなる弱体化をまねいた。
イタリア=トルコ
45
20世紀初頭までにアフリカは、エチオピア、それにアメリカの解放奴隷が入植した( )を除き、ヨーロッパ列強の植民地として分割された
リベリア
46
オーストラリアは18世紀後半にイギリスの流刑植民地となったが、まもなく自由移民も入植し、先住民の( )は抑圧された。
アボリジニ
47
イギリスは19世紀前半にニュージーランドも植民地とし、先住民( )の土地を武力で奪った。
マオリ
48
アメリカ合衆国も1898年のアメリカ=スペイン戦争の勝利により、( )とグアムを獲得した。
フィリピン
49
独立国だった( )もアメリカの入植者によって転覆され、1898年にアメリカに併合された。
ハワイ王国
50
1917年に自由主義者の政権が憲法を制定し、大土地所有の分割、農民・労働者の権利擁護、地下資源の国家への帰属も定められた。この( )は、列強の介入を排して「遅れた」地城が自立をめざした点や、民衆層の権利を擁護した点で、辛亥革命やロシア革命と重なる面があった。
メキシコ革命
51
ドイツのヴィルヘルム2世は、勢力均衡にもとづくビスマルク外交を否定して、ロシアとの( )の更新を拒否した。
再保障条約
52
これによりロシアはフランスに接近し、1891~94年に( )が結ばれ、フランスはプロイセン=フランス戦争以来の孤立から脱却した。
露仏同盟
53
ドイツは、ベルリン・ビザンティウム・( )を鉄道で結ぶ計画を立て、西アジアへの進出をはかり、イギリスの優位を揺るがそうとした。
バグダード
54
19世紀のイギリスは、ヨーロッパ大陸から距離を置き、孤立外交政策をとっていた( )。
光栄ある孤立
55
帝国主義のもとで列強間の競争が激化すると、政策を転換した。まず、極東でのロシアの進出に対抗すべく、1902年に日本と( )をむすんだ。
日英同盟
56
1904年にはドイツを抑えるために( )を結び、フランスとの長い対抗関係を解消した。
英仏協商
57
1907年にはイギリスはロシアと( )を結び、イランを両国の勢力圏に分割し、アフガニスタンを自国の勢力圏とした。
英露協商
58
1882年にビスマルク外交で結ばれたドイツ・オーストリア・イタリアの( )と対抗した。
三国同盟
59
1898年にドイツが膠州湾を租借すると、ロシア・イギリス・フランスなどもそれぞれ ( )を設定した。
租借地
60
アメリカは自国の通商活動の余地がなくなることを恐れ、中国の( )・機会均等および領土保全を提唱した。
門戸開放
61
( )を中心とする変法派は1898年、光緒帝を説得して改革に乗り出した( )が、保守派の( )によってクーデターをおこされ( )、改革は約3ヶ月で失敗に終わった。
康有為、戊戌の変法、西太后、戊戌の政変
62
19世紀末に山東省の農村の自警団組織を基盤に生まれてきた宗教的武術集団の( )は、鉄道やキリスト教の教会を破壊するとともに、宣教師や信徒を襲撃し、( )をとなえて北京に入城して外国公使館を包囲した。
義和団、扶清滅洋
63
各国は在留外国人の保護を名目に共同出兵をおこない、( )を組織して北京を占領した(義和団戦争)。
8ヶ月連合軍
64
ロシアは義和団戦争のあと、中国東北部( )に軍隊をとどめた。
満州
65
日本は満州をロシアの勢力圏として認めさせる交渉を試みるが、ロシアはこれに応じなかった。このような情勢の中、1902年に( )が結ばれた。
日英同盟
66
国内の主戦論の高まりを背景に、1904年2月、日本軍が旅順港のロシア艦隊を攻撃し、( )が始まった。
日露戦争
67
1905年1月には多くの犠牲を払ってロシア海軍の根拠地となっていた旅順を占領し、5月にはヨーロッパから来航したロシアのバルチック艦隊に( )で壊滅的な打撃を与えた。
日本海海戦
68
1905年9月に( )とウィッテによってまとめられた講和条約( )では、ロシアが日本に対して韓国に対する日本の監督・指導権を認め、旅順・大連を中心とした地域の清からの租借権と長春以南の清領内の鉄道とこれに付属する権益をゆずり、北緯50度以南の( )を譲渡し、沿海州とカムチャッカ半島沿岸の漁業権を認めた。
小村寿太郎、ポーツマス条約、樺太
69
韓国からロシアの影響力を排除するという日本の戦争目的は達成されたが、賠償金が得られなかったことなどから、増税や人的犠牲に釣り合う成果ではないと受け止めた人々も多く、講和条約調印の日には東京で講和反対の暴動がおきた( )。
日比谷焼打ち事件
70
日本は日露戦争中に第1次( )を結んで、韓国に外交と財政の顧問を送り込んだ。 イギリスは旅順港陥落後に、日英同盟を同盟国のいずれかが攻撃されたら連行して対応する攻守同盟へと強化し、対象地域も拡大することを提案した。
日韓協約
71
政府はこれを受け入れ、対象地域を東アジアとインドとし、日本による韓国の保護を認めた第2次日英同盟協約を結んだ。日本はまた、アメリカとも( )協定を結び、アメリカのフィリピン支配と、日本の韓国保護とを相互に了解した上でポーツマス条約を締結した。
桂・タフト
72
そして、第2次日韓協約を結んで韓国の外交権を奪い、伊藤博文を韓国統監として漢城に( )を置いた。
統監府
73
さらに、高宗が1907年に第2回万国平和会議に密使を送って窮状を訴えようとした( )ことを契機に、第3次日韓協約を結んで内政権を手に入れ、高宗を退位させ、韓国の軍隊を解散させた。
ハーグ密使事件
74
これに対し、韓国民衆の抗日運動である( )は旧軍人の参加を得て活発となり、ハルビンで伊藤博文が暗殺された。
義兵運動
75
すると日本政府は、1910年に韓国併合条約を強要して韓国を植民地とし、( )を置いた。
朝鮮総督府
76
総督府は土地の所有権を確定する( )をおこない、所有者が明らかでない土地は国有としたうえで払い下げた。
土地調査事業
77
満州では、1906年に旅順に関東総督府を置いて租借地の軍事・行政を管理し、ロシアから引き継いだ鉄道やこれに付属する炭鉱などを経営するため半官半民の( )が設立された。
南満州鉄道株式会社
78
しかし、南満州の権益を独占しようとする日本の姿勢は、門戸開放を求めるアメリカの批判を招き、アメリカでの( )運動とあいまって、日米関係を悪化させた。
日本人移民排斥
79
第1次( )内閣は日本社会党の設立を許したが、1910年には社会主義者らが天皇の暗殺を企てた( )事件が発覚して、社会に衝撃を与えた。
西園寺公望、大逆
80
義和団戦争以後、改革の必要に迫られた清は、科挙の廃止、立憲生の準備としての憲法大綱の発表など、かつて戊戌の変法で試みられた制度改革に踏みきった( )が、改革にともなう増税は、地方の有力者や民衆の反発をまねいた。
光緒新政
81
革命運動は、( )や留学生など海外在住の中国人のあいだで活発に行われた。
華僑
82
広東省出身の( )は、出身地ごとにわかれていた革命諸団体の結集をはかり、1905年に日本の東京で( )会を組織した。
孫文、中国同盟
83
中国同盟会は、民族・民権・民生の( )を掲げて革命の宣伝や武装蜂起をおこなった。
三民主義
84
1911年、政府による( )鉄道の国有化に反対して四川でおこった暴動をきっかけに、湖北省の武昌で軍隊のなかにいた革命派が蜂起し、その動きは急速に全国に波及して、1ヶ月のうちに大半の省が清からの独立を表明した( )。
幹線、辛亥革命
85
革命派は孫文を( )に選出し、1912年1月に南京で( )の成立が宣言された。
臨時大統領、中華民国
86
清側は、軍隊を握る( )を起用して革命側と交渉させたが、清を見限った袁世凱は、清朝皇帝の退位と共和政の維持を条件に、孫文から臨時大統領の地位を譲り受け、北京で就任した。
袁世凱
87
1912年に最後の皇帝である( )が退位し、アジア初の共和国が正式に発足したが、共和政は安定せず、議会の力をおさえようとする袁世凱と、これに対抗する孫文らが激しく対立した。
溥儀
88
中華民国は、清の領土を受け継ぎ、漢・満・モンゴル・チベット・回の( )をめざしたが、辛亥革命後、チベットやモンゴルで独立の動きがおこった。
五族共和
89
外モンゴルては1924年にソ連の影響のもとで、( )が成立したが、その他の地域は中華民国の中にとどまった。
モンゴル人民共和国
90
インドでは、1885年に( )会議が結成され、しだいに民族運動の中心となった。
インド国民
91
イギリスは反英運動の中心地であったベンガル州を東西に分ける( )令を1905年に発表し、ヒンドゥー教徒とムスリムを対立させて民族運動をおさえようとした。
ベンガル分割
92
また、ムスリムらによって親英的な( )同盟も1906年に結成された。
全インド=ムスリム
93
オランダ支配下でのインドネシアでは、1912年に( )同盟が結成され、民族運動が盛んになっていった。
イスラーム
94
ベトナムでは、( )らがフランスからの独立を目指すと共に、日本へ留学生を派遣する( )運動を展開したが、フランスから取締りの要請を受けた日本は留学生を国外撤去させた。
ファン=ボイ=チャウ、ドンズー
95
フィリピンでは1880年代に( )が民族意識を覚醒させる言論活動を行った。
ホセ=リサール
96
ホセ=リサールは1896年にはスペインの支配に対して( )革命をはじめた
フィリピン
97
革命のさなかの1898年にはアメリカ=スペイン戦争が勃発し、アメリカがフィリピンの領有権を獲得するなかで、革命運動は( )を中心に進められたが、1901年にアメリカに降伏した。
アギナルド
98
イランではガージャール朝による専制と列強への従属に反対するウラマーや都市住民を中心に( )革命が起こり、国民議会の開設と憲法の発布が実現したが、ロシアの軍事干渉によって抑圧された。
立憲
99
オスマン帝国でも専制に反対する知識人や青年将校が立憲政の回復をめざす( )革命がおこり、スルタンの大権を廃した改正憲法のもとで議会が再開された。
青年トルコ
100
20世紀初頭、列強の二極分化が進み、協商国と同盟国の対立が深まった。対立の焦点となったのは、新たに独立した国々が領土をめぐってにらみあい、列強も介入の野心をもつバルカン半島で、その状況から( )と呼ばれた。
ヨーロッパの火薬庫