問題一覧
1
中世の西ヨーロッパでは、ローマーカトリック教会が普遍的な権威をおよぼした。教皇を 頂点とし、大司教・修道院長、司教・司祭など、聖職者の序列を定めたピラミッド型の① がつくられ、大司教や修道院長などは荘園をもつ大領主でもあった。司祭が日常的に農民の信仰を指導し、教会は農民から②を取り立て、独自の裁判権さえもっていた。
階層制組織, 十分の一税
2
こうして教会が世俗権力の影響を受けると、聖職売買など様々な弊害が生じ、10世紀以降、フランス中東部の①を中心に改革運動がおこった。教皇②はこの改革を推し進め、聖職売買や聖職者の妻帯を禁じ、聖職叙任権を世俗権力から教会の手に移して教皇権を強 化しようとした。
クリュニー修道院, グレゴリウス7世
3
聖職叙任権を世俗権力から教会の手に移して教皇権を強化しようとしたのに対し、ドイツ国王(のち神聖ローマ皇帝)①が反発し、ひる ここから②が始まった。①は改革を無視しようとしたため教皇は彼を破門したが、1077年に①が教皇に謝罪し許されるという③と呼ばれる事件がおきた。その後、1122年のヴォルムス協約で両者の妥協が成立し、ここに②は終結した。 教皇権は13世紀の④の時に絶頂に達した。
ハインリヒ4世, 叙任権闘争, カノッサの屈辱, インノケンティウス3世
4
11~13 世紀の西ヨーロッパはおおむね気候が温暖で、①という土地利用法の普及や、農業技術の進歩により、農業生産は増大し、人口も飛躍的に増えた。それにともなって 西ヨーロッパ世界は、しだいに内外に向けて拡大しはじめ、修道院を中心にした開墾運動や、 十字軍遠征などがおこなわれた。11世紀に東地中海沿岸に進出し、聖地②を配下においたイスラーム教国の③朝が、アナトリアにも進出してピザンツ帝国をもおびやかした。
三圃制, イェルサレム, セルジューク
5
教皇①は1095年に②を招集し、聖地回復の聖戦をおこすことを提唱した。翌96年に第1回③が出発し、99年にはイェルサレムを占領してイェルサレム王国をはじめとする③国家を建てた。その後、イスラーム勢力に再び聖地は奪 われた。第4回③では、ヴェネツィア商人の要求により、聖地回復の目的を捨て、その 商業上のライバルであるビザンツ帝国のコンスタンティノープルを占領して④を建てた。あいつぐ③遠征の失敗により教皇の権威はゆらぎはじめ、逆に遠征を指揮した国王の権威は高まった。また、③の輸送によりイタリアの諸都市は大いに繁栄した。
ウルバヌス2世, クレルモン宗教会議, 十字軍, ラテン帝国
6
11~12世紀には、遠隔地貿易で発達する都市が現れた。遠隔地貿易は、まず地中海商業圏で発達した。①・ジェノヴァ・ピサなどイタリアの港市は、ムスリム商人を通じた②で発展し、ミラノ・③などの内陸都市も毛織物業や金融業で栄えた。
ヴェネツィア, 東方貿易, フィレンツェ
7
地中海商業圏ついで重要なのは、北海・バルト海沿岸を中心として新たに成立した北ヨーロッパ商業圏である。①・ハンブルク・ブレーメンなど北ドイツの諸都市は、 海産物・木材・穀物などを取引し、またガン(ヘント)・ブリュージュなど②地方の都市は毛織物生産で繁栄した。これら2つの大商業圏を結ぶ内陸の通商路にも都市が発達し、 とくにフランスの③地方は定期市で繁栄した。
リューベック, フランドル, シャンパーニュ
8
中世の有力都市は、北イタリアの①や北ドイツ諸都市の②のように、共通の利害のために都市同盟を結成した。 各自治都市では、③と呼ばれる同業組合が運営の基礎となった。都市の上層市民のなかには、アウクスブルクの④家のように神聖ローマ皇帝に融資してその地位を左右 したり、フィレンツェの⑤家のように一族から教皇を出す富豪も現れた。
ロンバルディア同盟, ハンザ同盟, ギルド, フッガー家, メディチ家
9
中世の有力都市である北イタリアのロンバルディア同盟と北ドイツ諸都市のハンザ同盟の中心都市をそれぞれ答えよ
ミラノ, リューベック
10
教皇の権威は、十字軍の失敗から傾きはじめていた。13世紀末に教皇となった①は 教皇権の絶対性を主張し、聖職者への課税に反対してイギリス・フランス国王と争った。し かし、1303年に教皇はフランス国王によって捕らえられ、まもなく釈放されたが屈辱のう ちに亡くなるという②がおこった。その後、教皇庁はローマから南フランスの③に移され、以後約70年間この地にとどまった。この時代は「④」と呼ばれた。のちに教皇がローマに戻ると、④にもフランスのあと押しを受けて別の教皇が立ち、両教皇がともに正統性を主張して対立した。これを⑤と呼び、教皇と教会の権威の失墜は決定的となった。
ボニファティウス8世, アナーニ事件, アヴィニョン, 教皇のバビロン捕囚, 大シスマ
11
14世紀後半、イギリスのウィクリフは、聖書こそ信仰の最 高の権威であって、教会はその教えから離れていると批判し、聖書を英訳するなど自説の普 及につとめた。ベーメンの①はウィクリフの説に共鳴し、教皇からの破門にもひるまず教会を批判した。1414~1418年に神聖ローマ皇帝の提唱によって開かれた②は、ウィクリフと①を異端と宣告してフスを火刑に処し、ローマの教皇を正統と認めて教会大分 裂を終わらせた。
フス, コンスタンツ公会議
12
12世紀、イギリスではノルマン朝にかわって①が成立した。②の時代、フランスとの戦いに敗北してフランスにおける領地の大半を失い、教皇とも争って破門された。そのうえ財政困難におちいって重税を課したため、貴族は結束して王に反抗し、 1215年に③を王に認めさせた。これは、新たな課税には高位聖職者と大貴族の承認を必要とすることなどが定めたものである。
プランタジネット朝, ジョン王, マグナ=カルタ
13
1295年にはいわゆる①が招集され、さ らに14世紀半ばには、議会は高位聖職者と大貴族を代表する上院と、州と都市を代表する下院とにわかれ、法律の制定や新課税には下院の承認が必要になった。一方、フランスでは、 12 世紀末に即位した②が1302年に聖職者・貴族・平民の代表者が出席する③を開き、その支持を得て教皇をおさえ、王権をさらに強化した。
模範議会, フィリップ4世, 全国三部会
14
6世紀の①大帝の死後、ビザンツ帝国は②王国やフランク王国にイタリアを奪われ、7世紀にはアラブ人ムスリムの進出によりシリア・エジプトを失った。バルカン半島にはインド=ヨーロッパ語系の③人が数多く移住し、さらにトルコ系の④人がブルガリア帝国を建設するなど、 徐々に支配領域を縮小させていった。
ユスティニアヌス, ランゴバルド, スラヴ, ブルガール
15
11世紀後半にはトルコ系イスラーム王朝である①朝のアナトリア進出が十字軍の契機となり、1204年には第4回十字軍によって首都②が占領され、十字軍兵士たちによる③帝国が建てられて、ビザンツ帝国は一時的に滅亡した。その後、帝国は復活したが、 かつての繁栄は戻らず、首都とその周辺のみを支配する地方政権となり、1453年には④帝国に滅ぼされた。
セルジューク, コンスタンティノープル, ラテン, オスマン
16
ビザンツ帝国では、はじめコロヌスを使用する大土地所有制がおこなわれてい たが、7世紀以降は異民族の侵入に対処するため、帝国をいくつかの①にわけ、その司令官に行政と軍事の権限を与える②制がしかれた。また、それぞれの②の農民には③制により兵役を課した。その後再び大土地所有制が拡大すると、11世紀末以降は貴族に軍役奉仕と引き換えに領地を与える④制がおこなわれ、皇帝の権力は衰えていった。
軍管区, テマ, 屯田兵, プロノイア
17
ビザンツ文化の特色はギリシア古典文化と①教の融合にあり、7世紀以降公用語は②語が用いられ、②古典がさかんに研究された。学問 はキリスト教神学が中心で、聖像崇拝論争などがたたかわされた。美術では③と④壁画を特色とする⑤様式の教会建築が有名で、イエスや聖母などの聖画像を描いた⑥美術も特徴的である。
ギリシア正, ギリシア, ドーム, モザイク, ビザンツ, イコン
18
ビザンツ様式の代表例である画像の建築物はなに
ハギア=ソフィア聖堂
19
ビザンツ様式の代表例である画像の建築物はなに
サン=ヴィターレ聖堂
20
14世紀半ばには、議会は高位聖職者と大貴族を代表する上院と、州と都市を代表する一この時の国王 下院とにわかれ、法律の制定や新課税には下院の承認が必要になった。この時のイギリス国王は誰
エドワード3世
21
14世紀に入ると、西ヨーロッパの封建社会はしだいに衰退に向かい、①が浸透するにつれて、領主は貨幣を手に入れるため②をやめて直営地を分割して農民に貸し与え、生産物や貨幣で地代をおさめさせるようになった。またこの頃から気候が寒冷化し、 凶作や飢饉、③の流行、あいつぐ戦乱などで農業人口が減少した。
貨幣経済, 賦役, 黒死病
22
イギリス・フランス・西南ドイツなどでは、農奴から解放された農民が、自営農民に成長していった。とくに貨幣地代が普及したイギリスでは、かつての農奴は①と呼ばれる②になった。 やがて経済的に困窮した領主が再び農民への束縛を強めようとすると、農民たちはこれに抵抗し、農奴制の廃止などを要求して各地で大規模な農民一揆をおこした。 14世紀後半のフランスの③(1358)やイギリスの④(1381)がそれである。
ヨーマン, 独立自営農民, ジャックリーの乱, ワット=タイラーの乱
23
画像はワット=タイラーの乱を描いたものである。中央の馬に乗っている人物の名前を答えよ。そしてこの者が身分制度を批判したときに言った言葉を答えよ。
ジョン=ボール, アダムが耕しイヴが紡いだ時、誰が貴族であったか
24
教皇権の絶頂期であった13世紀、インノケンティウス3世が言った言葉は何
教皇は太陽、皇帝は月
25
一方、商業圏が拡大するにつれて、都市の市民たちは市場を統一する①な政治権力の出現を望んだ。そこで国王は彼らと協力して諸侯をおさえ、権力集中をはかるようになった。これにより封建社会の政治体制は解体に向かい、西ヨーロッパ各国は②に向けてそれぞれの歩みを始めた。
中央集権的, 中央集権国家
26
100年戦争でフランス軍を率い、イギリス軍を大敗させた画像の人物は誰
ジャンヌ=ダルク
27
画像のような美しいステンドグラスが飾られているフランスにあるゴシック様式の代表例を2つ答えよ
シャルトル大聖堂, ランス大聖堂
28
西欧最大のゴシック様式聖堂である画像の建物の名前を答えよ そしてどこにあるのか答えよ(国ではなく)
ケルン大聖堂, ライン河畔
29
厚い石壁に小さな窓を持つロマネスク様式の代表例である画像の建築物はなに
ピサの斜塔
30
教会の権威の理論的確立のために、信仰を論理的に体系化しようとした中世西ヨーロッパ特有の学問は何 そして「神学大全」などを書きこの学問を大成し教皇権の理論的支柱となったのは誰
スコラ学, トマス=アクィナス
31
世界最古の大学であり法学で有名であったイタリアの大学はなに
ボローニャ大学
32
フランク王カール大帝のスペイン遠征の際、 殿軍を率いてイスラーム軍と戦った勇士ローランの奮戦と死のありさまをうたった12世紀初め頃完成した騎士道物語は何
ローランの歌
33
ケルト人の英雄として半伝説的人物のアー サー王と箪の騎士の武勇を物語った12世紀北フランスで完成した騎士道物語は何
アーサー王物語
34
13世紀に書かれた英雄ジークフリートの結婚と、彼の暗殺後の妻クリームヒルトの報復物語はなに
ニーベルンゲンの歌
35
フランスではトゥルバドール、ドイツではミンネジンガーと呼ばれており、ローランの歌やニーベルンゲンの歌をうたった人物たちを何という
吟遊詩人
36
イベリア半島では、8世紀半ばにイスラーム教徒が南部に①朝を建てた。これに対して北部のキリスト教徒は、以後約800年にわたって②の戦いを続け、回復された領土には北部に③、東部に④、西部に⑤が建てられた。
後ウマイヤ, レコンキスタ, カスティリャ王国, アラゴン王国, ポルトガル王国
37
カスティリャ、アラゴン、ポルトガルが建てられた後、 カスティリャ王女①とアラゴン王子②の結婚により、 両国は1479年に統合されて③王国が成立した。共同統治にあたった2人は、92年にはイスラーム勢力最後の拠点である④を陥落させて国土統一を果たし、また国内貴族の勢いをおさえて、積極的に海外進出に乗り出した。
イザベル, フェルナンド, スペイン, グラナダ
38
イスラーム勢力最後の拠点であったグラナダにある世界遺産はなに
アルハンブラ宮殿
39
①は、12世紀にカステ イリャから独立したのち、15世紀後半に国王②が貴族の反乱をしずめて王権を強化した。 彼はまた、バルトロメウ=ディアスの③を援助するなどしたため、①はスペインとともにヨーロッパ人の海洋進出の先がけとなった。
ポルトガル, ジョアン2世, 航海
40
次の①〜④に入る王国名、または場所の名前を答えよ
アラゴン王国, カスティリャ王国, ポルトガル王国, グラナダ
41
地図中のA,Bの運動名、および第4回十字軍が攻略したCの都市を答えよ
レコンキスタ, 東方植民, イェルサレム
42
1339年に始まった100年戦争の発生の原因の①政治的理由と②経済的理由を答えよ そして③最終的にどうなったかを答えよ
カペー朝が断絶してヴァロア朝がたつと、イギリス国王であったエドワード3世が母がカペー朝出身であることからフランス王位継承権を主張した, フランス国王は毛織物産地のフランドル地方を直接支配下に置こうとしたが、この地方に羊毛を輸出していたイギリス国王がこれを阻止しようとした, ジャンヌダルクの活躍によってフランスが勝利し、フランスでは諸侯や騎士が没落したことで中央集権化が急速に進展した。
43
中世ヨーロッパの建築様式の移り変わりについて特に有名な3つの建築様式の名前とそれぞれの特徴をふまえて答えよ
ドームやモザイク壁画を特徴とするビザンツ様式から、11世紀に小さな窓を持つ重厚なロマネスク様式に代わり、12世紀では尖塔とステンドグラスが特徴のゴシック様式に移り変わった