問題一覧
1
1853年4月に琉球王国の那覇に寄港したアメリカ東インド艦隊司令官は誰か
ペリー
2
ロシアの使節、長崎に来校して、開国と国境の画定を欲求した
プチャーチン
3
ペリーは1854年1月に7隻の艦隊を率いて浦賀に来航し、条約の締結を強硬にせまった。幕府はその威力に屈して を結んだ
日米和親条約
4
老中首座はそれまでの方針を変え朝廷に報告し、諸大名や幕臣にも意見を述べさせて、挙国的に対策を立てようとした。その老中首座は誰か
阿部正弘
5
国防を充実する必要から江戸湾に台場を築き、大船建造の禁を解き、貿易容認に向けて蘭学に通ずる を老中首座にすえたその老中は誰か、またこのことをなんというか
堀田正睦、安政の改革
6
日米和親条約にもとづき1856年に来日した初代アメリカ総領事は誰か
ハリス
7
清が第二次アヘン戦争の結果として、イギリス・フランスと天津条約を結ぶと、ハリスはイギリス・フランスの脅威を説いて通商条約の調印を強くせまった。大老 は勅許を得られないまま、同年6月に の調印を断行した。
井伊直弼、日米修好通商条約
8
開港場に居留地を設け、一般外国人の国内旅行を禁じることなどが定められた。さらにアメリカに を認め、日本の関税については日本に税率の決定権がなく、相互で協議して協定関税を定める 不平等条約であった。
領事裁判権、関税自主権の欠如
9
オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも類似の条約を結んだ
安政の五カ国条約
10
1863年8月18日、朝廷内の公武合体派の公家とともに朝廷の実権を奪って、長州藩勢力と急進派の公家 らを京都から追放したこれをなんというか
三条実美、八月十八日の政変
11
1864年池田屋事件を契機に京都に攻めのぼったが、会津・桑名・薩摩などの諸藩の兵に敗れて退いた または 。幕府は直ちに諸藩を動員して に向かった
禁門の変、蛤御門の変、長州征討
12
イギリスを中心にフランス、アメリカ、オランダ4国の連合艦隊を編成して下関の砲台を攻撃したこの事件をなんというか
四国艦隊下関砲撃事件
13
薩摩藩は の経験からかえってイギリスに接近し、 ら下級藩士の革新派が藩政を掌握した。
薩英戦争、西郷隆盛、大久保利通
14
徳川慶喜を擁する旧幕府側は、1868年1月、大阪城から京都に進撃したが、 で新政府軍に敗れ、慶喜は江戸に逃げた
鳥羽・伏見の戦い
15
東征軍は、 を結成した東北諸藩の抵抗を打ち破り、9月にはその中心とみられた会津藩の若松城を攻め落とした
奥羽越列藩同盟
16
1869年5月には箱館の五稜郭に立てこもっていた旧幕府海軍の榎本武揚らの軍も降伏し、国内は新政府によってほぼ統一された。1年半近くに渡った内戦をなんというか
戊辰戦争
17
1868年9月に年号を と改元して を採用し、1869年には京都から東京に首都を移した
明治、一世一元の制
18
家禄と賞典禄を合わせて というがその支出は国の総支出約30%を占めて大きな負担となった
秩禄
19
1876年にはすべての受給者に年間支給額の5〜14年分の額の を与えて、秩禄を全廃した ( )。ここに、同年の と合わせて、士族がもつ特権は奪われた
金禄公債証書、秩禄処分、廃刀令
20
1871年に田畑勝手作りを許可し、翌年には田畑永代売買の禁止令を解き、 を発行して土地の所有権をはっきり認めた。
地券
21
地券は原則として従来の年貢負担者に交付され、幕府や大名などが年貢を受け取る権利は否定された。この地券制度をもとに、1873年7月に を公布して地租改正に着手し、1881年までにほぼ完了した
地租改正条例
22
富岡製糸場
23
1871年末、右大臣岩倉具視を子とするを大使とする施設団 がアメリカ、ヨーロッパに派遣された。その団体は何か
岩倉使節団
24
1873年、留守政府、首脳の西郷、隆盛、板垣退助らは をとなえたが、帰国した大久保利通らの強い反対にあって挫折した。
征韓論
25
1875年の を機に日本は朝鮮にせまり、1876年に を結び、朝鮮を開国させた。
江華島事件、日朝修好条規
26
幕末以来ロシアとの間で懸案となっていた樺太の帰属については、日本は北海道の開拓で手一杯であったため、1875年、 を結んで、樺太にもっていたいっさいの権利をロシアに譲り、その代わりに千島全島を領有した。
樺太、千島交換条約
27
征韓論が否決されると、西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣は英語らの征韓派参議はいっせいに辞職し( )、1874年から、これら士族の不満を背景に政府批判の運動を始めた。
明治六年の政変
28
1880年3月には前年末の愛国社の第3回大会の呼びかけに基づいて が結成された
国会期成同盟
29
同盟参加の各地の政社の代表が署名した、天皇宛の国会開設請願書を太政官や元老院に提出しようとした。政府はこれを受理せず、4月に を定めて、政社の活動を制限した。
集会条例
30
板垣退助を総理とする が結成された。
自由党
31
1878年に政府の最高実力者であった。大久保利通内務省が暗殺されてから、強力な指導者を欠いていた政府は、このような自由民権運動の高まりを前にして、内紛を生じ大隈重信は、イギリス流の議員内閣制の早期導入を主張し、右大臣岩倉具視や伊藤博文と激しく対立した。これと同時期に起こった で、世論の政府攻撃が激しくなった
開拓使官有物払下げ事件
32
1881年10月、政府は、大隈をこの世論の動きと関係ありとみて罷免したうえで、欽定憲法制定の基本方針を決定し、 を出して、1890年 に国会を開設すると公約した。この によって、伊藤博文らを中心とする薩長藩閥の政権が確立し、君主権の強い立憲君主制の樹立に向けて準備が始められた。
国会開設の勅諭、 明治十四年の政変
33
1882年には が起こり、ついで関東および北陸・東海地方で高田事件・群馬事件・加波山事件などの騒擾が続いた。
福島事件
34
1884年には、埼玉県秩父地方で、国民党と称する約3000人の農民が急増する負債の減免を求めて蜂起し、多数の民衆を加えて高利貸・警察・郡役所などを襲撃したのに対し、政府はその鎮圧に軍隊まで派遣した事件( )
秩父事件
35
1887年には、井上馨外務大臣の条約改正交渉の内容が明るみに出ると がおこり、旧自由党系と立憲改進党系の別なく、小異を捨て大同につき、団結して国会開設に備えようという大同団結の動きが活発になった。同年末に政府が を公布して多くの在京の民権派を東京から追放したあとも、運動は東北地方を中心に継続し、1889年の憲法配布によって政党再建に向かっていった
三大事件建白運動、保安条例
36
三大事件建白運動の三つの運動は
地租の軽減、言論・集会の自由、外交失策の回復
37
ビゴー
38
ドイツ人顧問ロエスレルらの助言を得て、伊藤を中心に井上馨、伊東巳代治、金子堅太郎らが起草に当たった。この案は、天皇臨席のもとに ( )で審議が重ねられ、1889年2月11日 が発布された。
枢密院、大日本帝国憲法
39
大日本帝国憲法は、天皇が定めて国民に与える であり、天皇と行政府にきわめて強い権限が与えられた
欽定憲法
40
神聖不可侵とされた天皇は、統治権のすべてを握る総覧社であり、文武官の任免、陸海軍の統帥、宣戦・講和や条約の締結など、議会の関与できない大きな権限をもっていた。( )
天皇大権
41
陸海軍の統帥権は、内閣からも独立して天皇に直属していた。( )
統帥権の独立
42
( )は、対等の権限を持つ と からなっていたので、衆議院の立法権行使は、華族や勅選議員などからなる貴族院の存在によって実質的に制限されていた。
帝国議会、貴族院、衆議院
43
地租改正
地券所有者が地価の3%を金納