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九州学 テスト
  • 志水虎道

  • 問題数 90 • 7/27/2024

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    問題一覧

  • 1

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 約1万2000年前、地球規模の温暖化が進み、(    )といわれる氷期が終わりに向かうとともに、旧石器文化も終焉 した。

    ヴュルム氷期

  • 2

    氷期が終わりに向かうことによって日本列島に生じた自然環境の変化のうち、誤っているものを全て選択しなさい。

    針葉樹林帯の拡大, 海水面の下降による複雑な沿岸部の形成

  • 3

    旧石器時代につづいて日本列島に展開した縄文文化は、縄文土器の型式を指標として、(  )・早期・前期・中期・後期・晩期の六期に分けられる。

    草創期

  • 4

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 縄文時代の人々は内湾性の漁労によって、シジミやハイガイなどの貝類を食料として多く採集した。こうして食された貝の殻が堆積した遺跡を貝塚という。佐賀県の(  )貝塚は縄文早期後半の大規模な貝塚として有名である。

    東名

  • 5

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 九州北部に伝来した水田稲作は、弥生時代中期には東北地方まで広がった。こうして、日本列島の社会は縄文時代の獲得(採取)経済を脱し、自ら食料を生産する(  )へと移行した。

    生産経済

  • 6

    弥生時代に渡来人がもたらした新たな道具として正しいものを全て選びなさい。

    銅戈, 鉄製農工具

  • 7

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 『漢書』地理志は1世紀頃の日本列島の様子を伝えている。なお、『漢書』とは(  )と呼ばれる王朝の歴史を記した1世紀頃の書物 であり、地理志とは国の内外の地理的状況を説明した編目である。

    前漢

  • 8

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 建武中元2年、後漢の(   )は奴国の首長に対して金印・紫綬を与え、奴国王であることを認めた。

    光武帝

  • 9

    冊封体制について述べたものとして、誤っているものを全て選択しなさい。

    中国皇帝が周辺地域の首長と交流を行い、対等な同盟関係を結ぶ制度である, 中国皇帝が地域の首長に賜わった印綬は全て金印紫綬であった

  • 10

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 奴国王墓(須玖岡本遺跡)や伊都国王・王妃墓(三雲南小路遺跡)から出土する(   )は、中国皇帝との交流を示すものである。

    前漢鏡

  • 11

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 中国の魏・蜀・呉の歴史を記した『三国志』には、(  )といわれる部分がある。さらに、この部分には中国東方の諸民族や国のことを記した「東夷伝」と呼ばれる部分がある。この「東夷伝」の倭人条のことを通称「魏志倭人伝」という。

    魏書

  • 12

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 魏志倭人伝には、卑弥呼について「鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす」とある。近年、奈良県桜井市の纏向遺跡から出土した(  )は、鬼道に関連する遺物として注目されている。

    大量の桃の種

  • 13

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 景初2(238)年、魏の明帝が公孫氏を滅ぼし、その領地を手中におさめると、翌年、卑弥呼は(  )をたよって魏に使者を派遣した。

    帯方郡

  • 14

    邪馬台国・九州説について述べたものとして、正しいものを全て選びなさい。

    佐賀県の吉野ヶ里遺跡は魏志倭人伝にみえる大型建物・物見櫓・柵が出土し、邪馬台国との関連性が注目されている, 魏志倭人伝の邪馬台国への行程について、伊都国から先は伊都国を起点として読む

  • 15

    以下の(  )にあてはまる語句を選択しなさい。 2万年前頃の日本列島は地質学でいう(  )にあたり、氷期と間氷期をくり返していた時期なので氷河時代ともいう。

    更新世

  • 16

    以下の(  )にあてはまる語句を選択しなさい。 縄文時代の経済は、植物採取・漁労・狩猟を基本とする(  )経済である。

    獲得(採取)

  • 17

    日本列島への水田稲作の伝来について述べたものとして、誤っているものを全て選択しなさい。

    山東半島から遼東半島、朝鮮半島北部を経由して伝来した説が有力である, 炭素14年代測定法によると、水田稲作の伝来は通説よりも100年程さかのぼる

  • 18

    以下の(  )にあてはまる語句を選択しなさい。 東日本における縄文文化の豊かさを象徴する遺跡が、縄文都市とも称される青森市の(  )である。

    三内丸山遺跡

  • 19

    以下の(  )にあてはまる語句を選択しなさい。 貢ぎ物を携え中国皇帝を訪れ皇帝への臣従を約束する、こうした形式の外交を朝貢という。また、皇帝が周辺地域の首長を臣下である「王」と認めることを(  )という。

    冊封

  • 20

    以下の(  )にあてはまる語句を選択しなさい。 魏志倭人伝には「世々王あるも、皆、女王国に統属す。郡使の往来、常に駐まる所なり」という記述がある。これは九州北部の(  )に関する記述である。

    伊都国

  • 21

    以下の(  )にあてはまる語句を選択しなさい。 卑弥呼の鏡ともいわれている(  )は近畿の前期古墳から多く出土している。

    三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)

  • 22

    ヤマト政権の朝鮮半島政策について述べたものとして、正しいものを全て選択しなさい。

    百済・新羅を軍事的に従属させ、高句麗の南下を抑え、半島南端の伽耶(任那)での権益を確保することが外交的使命であった, 倭の五王が半島南部の軍事的指揮権を求めて中国・南朝に遣使したことが『宋書』夷蕃伝・倭国条に記されている

  • 23

    以下の(  )にあてはまる語句を選択しなさい。 ヤマト政権の海上交通を支えた(  )による沖ノ島祭祀は政権の最重要祭祀であった。

    胸形(胸肩)君

  • 24

    以下の(  )にあてはまる語句を選択しなさい。 福岡県古賀市の(  )より出土した玉虫装飾の馬具は、九州豪族と新羅との交流を示す貴重な遺物である。

    船原古墳

  • 25

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 宣化天皇元(536)年、ヤマト政権は那津(現、福岡市博多区)の沿岸部に官家を設置した。現在、この官家と関連深い遺跡として福岡市の(  )が注目されている。

    比恵遺跡

  • 26

    6世紀から7世紀にかけての東アジア情勢について述べたものとして、誤っているものを全て選択しなさい。

    589年、隋が中国を統一したが、倭国は中国に対して国交断絶を続けた, 660年、新羅が隋と連合して、百済を滅ぼした

  • 27

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 対新羅政策から設置された那津官家(倉庫群を伴うヤマト政権の軍事的拠点)に、推古天皇16(608)年の裴はい世せい清せい来日をきっかけに(  )が置かれたと考えられている。

    筑紫大宰

  • 28

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 滅亡した百済の遺臣たちは百済の再興を目指して倭国に救援を求めた。斉明天皇は要請に応じ、自ら九州まで出陣し、(  )に朝廷をうつした。

    朝倉橘広庭宮(あさくらたちばなのひろにわのみや)

  • 29

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 『日本書紀』天智天皇3(664)年是歳条には「対馬島・壱岐島・筑紫国等に、防さきもりと烽とぶひとを置く。また筑紫に、大堤おおつつみを築き水を貯え、名づけて(  )と曰いう。」とある。

    水城

  • 30

    大宰府の役割について述べたものとして、正しいものを全て選択しなさい。

    外交使節の接待、および外交使節との交渉を行う, 防人の指揮や大野城・基肄城などの軍事施設および兵器の維持管理を行う

  • 31

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 大宰府政庁は10世紀前半に起こった(  )により焼失したが、ほぼ消失前と同様に再建された。

    藤原純友の乱(ふじわらすみとものらん)

  • 32

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 菅原道真にいたる三代の父祖は、いずれも学問にゆかりの深い要職を歴任した。なかでも、祖父・清公、父・是善は大学寮で文章道(or紀伝道)を教授する教員の最高位である(  )に就任した。

    文章博士

  • 33

    菅原道真が官人になった経緯について述べたものとして、誤っているものを全て選択しなさい。

    道真は父・是善が高位高官であったため、その子として朝廷より特別に官人に抜擢された, 道真は大学寮に明法生として入学し、秀才試に合格することで官人となった

  • 34

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 道真は周囲から文人としての才能を認められ、太政大臣や右大臣など最高位の人々からの依頼で天皇への(  )を代筆するようになった。

    上表文

  • 35

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 漢詩文や中国語の能力で朝廷から信頼されていた道真は、貞観13(871)年に加賀国(現在の石川県)に来着した渤海使の接待や入京の雑事を任される(  )に任命された。

    存問渤海客使

  • 36

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 貞観19(877)年に文章博士となった道真は、祖父・清公から受け継がれてきた私塾(  )の塾主として、多くの門弟を抱えていた。

    菅家廊下(かんけろうか)

  • 37

    阿衡の紛議(あこうのふんぎ)について述べたものとして、正しいものを全て選択しなさい。

    宇多天皇が藤原基経に出した任命書には「阿衡」とあり、この語句が問題となった, 宇多天皇が藤原基経に出した任命書を作成したのは、当時の文章博士・橘広相(たちばなのひろみ)であった

  • 38

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 宇多天皇に重用された道真は、寛平3(891)年、天皇の秘書官長に相当する蔵人頭(くろうどのとう)に就任し、寛平5(893)年には太政官の公卿(国政審議官)である(  )に抜擢された。

    参議

  • 39

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 寛平6(894)年8月、朝廷は56年ぶりに参議・菅原道真を大使、左少弁・紀長谷雄を副使として(  )を任命した。

    遣唐使

  • 40

    承和の変・応天門の変について述べたものとして、誤っているものを全て選択しなさい。

    承和の変では、伴健岑・橘逸勢が皇太子道康親王の擁立を企てた罪で流刑となった, 応天門の変では、清和天皇は事件の収拾を任せるべく藤原良房を関白に任命した

  • 41

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 『寛平御遺誡』では、新天皇である醍醐天皇に対して、功臣の子孫で政治に長けた(  )と希代の学者である菅原道真、両者の指導に従うよう指示している。

    藤原時平

  • 42

    昌泰の変について述べたものとして、正しいものを全て選択しなさい。

    901年正月、藤原時平は菅原道真の謀反を醍醐天皇に上申した, 道真の主だった子たちは、長子である大学頭・高視をはじめとして地方に左遷された

  • 43

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 昌泰4(901)年2月、道真は隈麿と紅姫をつれて筑紫に下向した。下向先の大宰府では(  )(現在の榎木社)でわびしい生活を送った。

    南館

  • 44

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 道真は大宰府で失意の日々を送りながら、その心情を漢詩で表現し続けた。(  )には道真左遷後の漢詩が多数収められている。

    菅家後集

  • 45

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 一条天皇は京都北野の聖廟で祭祀を行い、道真の御霊にはじめて(  )の称号を贈り、以降、道真は王朝守護の神として正式に朝廷の崇拝対象となった。

    天満天神

  • 46

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 安史の乱や黄巣の乱で唐国内が疲弊すると、日本の朝廷において唐を政治・経済・文化の規範として位置づける意識が低下した。このような意識の低下が宝亀の遣唐大使(  )や承和の遣唐副使小野篁らの渡航拒否につながったと考えられる。

    佐伯今毛人(さえきのいまえみし)

  • 47

    9世紀以降の東アジアにおける日本の外交状況について述べたものとして、誤っているものを全て選択しなさい。

    遣唐使は乗船拒否など問題は生じたが、9世紀以降もほぼ20年に一回派遣された, 唐や新羅からの正式使節の来日は9世紀以降も続き、筑紫の鴻臚館で接待が行われた

  • 48

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 新羅や唐商人の宿泊施設・貿易拠点へと転換した筑紫館(後、鴻臚館と改称)の跡地は、現在、福岡市中央区の舞鶴公園内にあり、中国の(  )をはじめとする9~11世紀の中国陶磁器が多く出土する。

    越州窯青磁(えっしゅうようせいじ)

  • 49

    大宰府・朝廷の貿易管理について述べたものとして、正しいものを全て選択しなさい。

    大宰府に中国や新羅商船が来着すると、大宰府が臨検を行い、その結果を平安京の朝廷に報告する, 大宰府の報告を受けた朝廷では、商船の受け入れや交易の可否をめぐって陣定という公卿会議が開催される

  • 50

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 960年に中国を再統一した(  )では、安定した経済状況を背景に対外交易が大きく展開し、日本とも盛んに商人(海商)による交易が行われた。

    宋(北宋)

  • 51

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 鴻臚館廃絶後、これまで補助的な貿易都市であった博多が日宋貿易の中心地となった。宋商人たちは博多に居住しつつ貿易を行った。このような貿易形態を(  )という。

    住蕃貿易(じゅうばんぼうえき)

  • 52

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 貿易都市・博多には貿易全般をとり仕切った宋商人たちが存在し、彼らは博多(  )と呼ばれた。著名な人物として13世紀前半に活躍した謝国明があげられる。

    綱首

  • 53

    以下の(  )にあてはまる語句を選択しなさい。 推古天皇16(608)年の隋使・裴世清来日をきっかけに那津官家に設置された(  )は、九州北部の外交と防衛を司った。

    筑紫大宰

  • 54

    以下の(  )にあてはまる語句を選択しなさい。 百済の遺臣は国の再興を目指し倭国に救援を求めた。(  )天皇(大王)はその要請に応じ、朝倉橘広庭宮に遷御した。

    斉明

  • 55

    以下の(  )にあてはまる語句を選択しなさい。 2011年に西鉄二日市操車場跡地から(  )が発見され、大宰府の朱雀大路にも外国使節をもてなす施設が存在したことが判明した。

    客館跡

  • 56

    以下の(  )にあてはまる語句を選択しなさい。 2011年に西鉄二日市操車場跡地で発見された遺跡からは、唐の白磁・青磁ほか、新羅製の高級食器である(  )等が出土した。

    佐波理(さはり)

  • 57

    以下の(  )にあてはまる語句を選択しなさい。 菅原道真は醍醐天皇の求めに応じて、自身の漢詩や散文を収める文集を献上した。この文集を(  )という。

    菅家文草

  • 58

    以下の(  )にあてはまる語句を選択しなさい。 菅原道真は六国史の最後に位置する(  )の編さんに携わる他、六国史の記事を諸事項に分類した『類聚国史』も編集した。

    日本三代実録

  • 59

    菅原道真の怨霊騒動や天神信仰について述べたものとして、誤っているものを全て選択しなさい。

    朝廷は道真の御霊を恐れ、道真をもとの左大臣に復すなどして対応した。, 一条天皇は大宰府の聖廟で祭祀を行い、道真に天満天神の称号を贈った。

  • 60

    以下の(  )にあてはまる語句を選択しなさい。 鴻臚館廃絶後、これまで補助的な貿易都市であった博多が日宋貿易の中心地となった。宋商人たちは博多に居住しつつ貿易を行い、博多には(  )が形成された。

    博多津唐房

  • 61

    以下の(  )にあてはまる語句を選択しなさい。 保元3(1158)年から永暦元(1160)年まで、平清盛は(  )に就任し、博多における日宋貿易の管理責任者をつとめた。

    大宰大弐

  • 62

    日宋貿易の終焉について述べたものとして、正しいものを全て選択しなさい。

    蒙古襲来により異国人への警戒が強まり、入国の阻止が図られたことによる。, 元の南下によって南宋が滅亡し、宋商人が故国との交通を遮断されたことによる。

  • 63

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 1234(文暦元)年、モンゴル帝国は中国北部を支配していた金を滅ぼし、南の(  )と対立することになった。

    南宋

  • 64

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 1260(文応元)年、モンゴル帝国の大ハーンに即位した世祖・フビライは、1268(文永5)年に日本に朝貢を促す(  )を派遣してきた。

    招諭使

  • 65

    文永の役について述べたものとして、誤っているものを全て選択しなさい。

    元(大蒙古国)は恭順を示す日本からの返牒を無視して侵攻した, 元(大蒙古国)侵攻軍は博多湾から上陸して、朝廷のある京都付近まで進軍した

  • 66

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 文永の役で蒙古兵の脅威にさらされた鎌倉幕府は(  )を強化するために、翌年、九州御家人を春夏秋冬四期に編成し博多湾沿岸防備に当たらせた。

    異国警固番役(いこくけいごばんやく)

  • 67

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 建治2(1276)年、鎌倉幕府は鎮西西方奉行の少弐経資に命じ、九州御家人に博多湾沿岸防備のための(  )を構築させた

    石築地(いしついじ)

  • 68

    弘安の役について述べたものとして、正しいものを全て選択しなさい。

    侵攻軍は、元(大蒙古国)・高麗の連合軍である東路軍と旧南宋兵を主体とする江南軍によって編成された, 日本への侵攻軍は鷹島沖で大暴風雨に遭遇し、壊滅的な打撃を受け撤退した。

  • 69

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 蒙古襲来に備えて幕府内部では北条氏への権力集中が行われた。その結果、北条得宗家の家臣である(  )の権力も増大し、評定衆を構成する有力御家人等の不満の一因となった。

    御内人(みうちびと)

  • 70

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 豊臣秀吉が構想していた「唐入り」とは、当時、中国・朝鮮沿海で活動していた(  )の取り締まり等で国力が衰退していた明を打倒し、日本を中心とする新たな東アジア世界を構築することであった。

    倭寇(わこう)

  • 71

    下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 1587(天正15)年、豊臣秀吉は対馬の(  )を介して朝鮮国(李氏朝鮮)へ服属・朝貢要求を行った。この他、秀吉は琉球国や高山国(台湾)等にも服属・朝貢要求を行い、日本を中心とした新秩序構想を実行していった。

    宗義智(そうよしとし)

  • 72

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 豊臣秀吉は唐入りを正当化するために、自身が(  )であると述べ、日本統一や天下泰平も天の意思であったと主張した。

    日輪の子

  • 73

    豊臣秀吉が「唐入り」に着手した頃の日本と朝鮮国(李氏朝鮮)との外交について述べたものとして、誤っているものを全て選択しなさい。

    朝鮮国は日本の服属・朝貢要求を受け入れ、朝貢使を日本に派遣した, 豊臣秀吉は朝鮮国から派遣された使節に対して「仮途入明」を命じた

  • 74

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 1591(天正19)年8月、豊臣秀吉は九州諸大名に命じて、大陸侵攻の国内拠点として(  )に総石垣づくりの巨大城郭を築造させた。

    肥前名護屋

  • 75

    文禄の役の戦況について述べたものとして、正しいものを全て選択しなさい。

    開戦から間もなく王都・漢城を陥落させたが、国王は事前に平壌へと逃れていた, 李舜臣率いる朝鮮水軍による補給路遮断によって日本は防戦を強いられることになった

  • 76

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 文禄・慶長の役では、朝鮮国より多くの技術者が日本に連行された。そのなかの一人である李参平(金ヶ江三兵衛)は日本の磁器文化の端緒を開き、(  )の祖といわれている。

    有田焼

  • 77

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 1549(天文18)年、(  )の司祭であるフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来着した。

    イエズス会

  • 78

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 日本での布教に確信を得たザビエルは、天皇や室町幕府将軍による布教保護を得ようとしたが断念し、守護大名・大内義隆を頼って(  )を訪れた。

    山口

  • 79

    諸大名とキリスト教宣教師の関係について述べたものとして、誤っているものを全て選択しなさい。

    領国内において宣教師を保護し布教を許可した大名をキリシタン大名と呼称した, 著名なキリシタン大名である松浦隆信はザビエルを豊後府内に招き布教を許可した

  • 80

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 日本最初のキリシタン大名として著名な大村純忠は宣教師らの交渉に応じて、領内(  )へのポルトガル船の寄港を許可した。

    横瀬浦

  • 81

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 肥前有馬氏は第13代晴信の代になって、再度竜造寺隆信の脅威にさらされた。窮地に追い込まれた晴信は当時来日していた東洋巡察使(  )に救援を要請した。

    ヴァリニヤーノ

  • 82

    有馬氏領国内におけるキリスト教の布教状況について述べたものとして、正しいものを全て選択しなさい。

    城下町・有馬に日本初のセミナリヨ(初等神学校)が設立された, 天正遣欧使節としてローマに派遣された4人の少年は、有馬のセミナリヨの第1期生であった

  • 83

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 キリシタン弾圧に松倉氏・寺沢氏の暴政が加わり、1637(寛永14)年、(  )を総大将とした島原・天草のキリシタン農民が蜂起した。

    益田時貞(ますだときさだ)

  • 84

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 1854(安政元)年に締結した(  )は、アメリカに対して片務的最恵国待遇が認められていた。

    日米和親条約

  • 85

    幕末における尊皇・攘夷派の動向について述べたものとして、誤っているものを全て選択しなさい。

    1863(文久3)年8月18日、長州藩と急進派公家らは公武合体派の薩摩・会津により江戸から追放された, 長州藩の吉田松陰や高杉晋作らは攘夷思想を見直し、開明思想へ転換した

  • 86

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 1867(慶応3)年、公武合体派は(  )の上表を提出し、倒幕派の機先を制し徳川主導の諸藩による連合政権樹立を画策した。

    大政奉還(たいせいほうかん)

  • 87

    版籍奉還と廃藩置県について述べたものとして、正しいものを全て選択しなさい。

    版籍奉還とは藩主(大名)が版(領地)と籍(領民)を天皇に返還することである, 廃藩置県によって知藩事は罷免され、かわりに中央政府から府知事や県令が派遣された

  • 88

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 1869(明治2)年に明治政府は李氏朝鮮に強引に開国を迫ったが、朝鮮側は拒否し日本の強引な外交姿勢を非難した。これに対して、明治政府内では朝鮮側の非礼をただすため出兵すべきであるという意見が出た。これが、いわゆる(  )である。

    征韓論(せいかんろん)

  • 89

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 1876(明治9)年10月24日、政府の欧化政策に反対する熊本の神官・太田黒伴雄ら170人余が蜂起した事件を(  )という。

    神風連の乱

  • 90

    以下の(  )に当てはまる語句を選択しなさい。 1877(明治10)年2月14日、西郷隆盛率いる薩摩士族13000人は東京を目指して進軍を開始した。3月3日、北上する薩軍と南下する政府軍が(  )で激しく戦った。この戦いは西南戦争の雌雄を決する戦いであり、最も多くの戦死者を出した。

    田原坂(たばるざか)