問題一覧
1
卓越したマネジメントや組織の技術、例えばマーケティング、会計、優れた管理者,組織構造などは、多国籍企業の所有優位性の源泉の1つになります。
〇
2
折衷理論とは、①所有優位性、②立地優位性、③内部化の概念を結合して、多国籍企業の形成を説明する理論で、ダニング(Dunning)によって提唱されました。
〇
3
企業と市場は生産を組織化する代替的方法であることを最初に主張したのは、マクマナス(McManus)でした。
✕
4
経営学者のコグー(Kogut)は、海外事業を持つ米国企業の諸問題に関する論稿の中で、「多国籍企業」という用語を1960年に初めて定義しました。
✕
5
グローバリゼーションを「世界の経済、政治,社会の構成要素間、そして一般的に行為者間で独自性や相互意識(柔軟性)が大きくなっていくプロセス」と定義したのは、社会学者のギレン(Guillen)です。
〇
6
南アジアでは、プランテーションが茶の主要な生産形態となり、19世紀末時点でインドが中国に代わって世界最大の生産国となりました。
〇
7
再生可能資源は、流通や最終市場の偶然性と非対称性(不均等分布)、規模の経済性,一度きりの使用、資源の領有権や最適開発などに特徴づけられます。
✕
8
イギリスのフリースタンディング企業は、19世紀後半からは金・ダイヤモンドを目指して南アフリカへ対外直接投資を行いました。1914年には、イギリスの鉱山業対外直接投資の40%は、南アフリカの金産業に向けられていました。
〇
9
ヨーロッパの3大石油企業の1つになるシェル・グループ(後のブリティッシュ・ペトロリアム(BP))が、ロンドンに本社を置くフリースタンディング企業として1909年に設立されました。
✕
10
ボリビアの錫は、低品位であるものの,地表近くで発見されるために採掘が容易でした。鉱石の選鉱が容易であり、精鉱は均質で不純物をほとんど含まなかったため、精錬が容易でした。ボリビアの採掘企業と精錬企業は、ともに統合する必要性を感じませんでした。
✕
11
1950年以降、アメリカ国内の鉄鉱石の供給不安、長距離海上輸送技術の発展、新しい鉄鉱石山地(カナダ、チリ、ベネズエラ、リベリアなど)の発見によって、アメリカ鉄鋼企業の対外直接投資が増えてきました。
〇
12
サトウキビ産業への対外直接投資はほとんど行われませんでしたが、甜菜(てんさい=サトウダイコン)産業への対外直接投資は19世紀後半以降かなり行われました。
✕
13
錫生産者同盟が1929年に発足して、自主的に生産量を統制して価格維持に成功しました。同カルテルは1985年まで続いて世界最長期間続いた商品カルテルとなりました。
〇
14
セブンシスターズは1956年時点で共産諸国を除く世界のアルミニウム精錬能力の85%を占め、ボーキサイトとアルミナの国際取引量の75%を占めました。
✕
15
プランテーションの外国人所有は大きく減少したものの、例えばバナナ産業では、①「協力生産者」システム、②生産投入物、③技術支援、④買取価格設定などを通じて、多国籍企業が途上国農業に影響を与え続けました。
〇
16
1930年代,国際カルテルは、①消費財を生産する産業、②比較的多数の生産者がいる産業において、盛んになりました。
✕
17
イギリスのフリースタンディング企業は、海外生産以前に本国で輸出活動を行っていなかったので、関税障壁を乗り越える問題は生じませんでした。
〇
18
自動車産業では、ジャガーとボルボだけが複数国で大量に自動車を販売する製造企業に成長しました。両社はともにヨーロッパ以外のアルゼンチン、オーストラリア、ブラジル、メキシコで自動車組立を行っていました。
✕
19
アメリカでは、綿糸,レーヨン、磁石発電機、染料などの製品分野を外国企業が完全に支配していました。
〇
20
人工染料では、フランス企業8社(これらの海外子会社を含む)が1900年代に世界の生産総額の75%を占めて、新製品の輸出と直接投資を積極的に行いました。代表的企業はバイエル(最大),BASF,ヘキストの3社でした。
✕
21
日本の製造企業は専ら輸出を通じて事業の再構築を行いました。1950年代は繊維製品が輸出の半分を占めていましたが、1975年には機械と輸送機器が主力製品になりました。
〇
22
ドイツの自動車企業は国内市場における競争関係を海外市場でも再現しました。ダイムラーはドイツの国内市場での競争地位を維持するために1945年以降、外国企業を買収し、1973年時点でアメリカの自動車生産量の約7.5%を占めました。
✕
23
アメリカの半導体企業は1974年までにアメリカの生産量の5分の4を中国、香港、韓国、香港などで組み立てました。
✕
24
多くの多国籍製造企業は1980年代以降、「コア・コンピタンス(中核能力)」に集中し、周辺的な活動を外部化(アウトソース)するようになりました。
〇
25
アメリカ政府は国家安全保障のためにエレクトロニクス・デジタルコンピューターや小型エレクトロニクス産業に対して財政支援と研究奨励策を実施して育成しました。
〇
26
サービス多国籍企業は、組織、技術手法、消費パターン、文化などを国際的に移転し、辺境地域を世界経済の中に組み込む動きを促進しました
〇
27
アメリカの生命保険は、イギリス、オランダ、ドイツ、その他ヨーロッパ企業と並んで国際的に事業を縮小しましたが、各国政府による規制への懸念と第1次世界大戦中のインフレが高まるにつれて対外直接投資は増加しました。
✕
28
19世紀の発展途上国の大半では、立地制約型サービス業の競争企業が育っていたため、多国籍企業が二番手企業となりました。
✕
29
イギリスの「海外銀行」は、やがて本国出身の企業顧客や在留本国人の要求に応える業務(多国籍サービス・バンキング)から、現地顧客相手に地元国内銀行と同様の預貯金貸付業務を提供する業務(多国籍リテール・バンキング)を行うようになりまし た。
〇
30
貿易商社は何世紀にもわたって政府特許状によって活動していたが、一度独占的特権を失っても、それ以降ほとんど存続することができました。
✕
31
世界の穀物市場は、長年にわたり6大企業(カーギル、コンチネンタル(以上、アメリカ)、ルイ・ドリュフィス(フランス),ブンゲ・アンド・ボーン(アルゼンチン)、アンドレ(スイス、2000年に破綻)、テュップファー(ドイツ))が実質的に支配しました。
〇
32
第2次世界大戦後、多くの小売企業は自国の国内市場を中心にして商売を続け、国境を越えた小売業に対しては多国籍小売業における様々なリスクを考慮して、ライセンシング戦略で対処しました。
〇
33
メディア事業では、国の法律や規制問題を回避するために提携を組む必要がありましたが、国際航空産業では、各国政府の厳しい規制の中で、多国籍企業が成長しました。
✕
34
政府の規制が強く、多国籍企業があまり活躍できなかったのは、再保険の業界でした。
✕
35
サービス企業のFDIが発展途上国から先進国に移り、1970年代までにサービス投資総残高の約75%が先進国に存在するようになりました。
〇
36
大規模な多国籍企業は現地に優れた社会資本と科学研究の場がある場所に海外子会社を設立して、親会社の技術とは差別化されながらも競合関係にあるような技術を開発しょうと試みました。
✕
37
企業が初めて海外に進出するときは、現地子会社の新規設立を通じて進出することを好む傾向があります。
✕
38
多国籍企業が現地環境で経験を積むにつれて、親会社の財務戦略と経営戦略の変更は、海外子会社の撤退要因にはならなくなっていきました。むしろ、多国籍企業の「外国人であることの不利」が海外子会社の撤退の要因になっていきました。
✕
39
企業買収のリスクには、企業の売り手が買い手よりも多くの情報をもっているリスク,被買収企業が買収後に業績悪化に陥るリスクがあるとされています。
〇
40
国際戦略提携は参入コストが高く、グローバル化していて、規模の経済が大きく、技術が急速に変化し、事業リスクのかなり高い産業、すなわちコンピュータ、自動車電機、遠距離通。バイオテクノロジー、化学、航空宇宙などで見られました
〇
41
クラスターは共同体の紐帯(「道徳的」カルチャー)で強く結ばれ構成要員が目標と理解を共有する集団のことをいいます。
✕
42
多国籍企業のマルチナショナルモデルは、多国籍企業が自律性の高い海外子会社をもって現地に高度に適応していく組織形態のことです。
〇
43
多くの多国籍企業は、①海外子会社の差別化と統合ネットワーク、②規範的メカニズムに基づく統合,③グローバルな知識の開発と共有に特徴付けられた組織モデルへの移行をやがて模索し始めます。トランスナショナルモデルに移行した多国籍企業は、実際にはかなり多いと考えられます。
✕
44
ヨーロッパの多国籍企業は一般的には体系的なマネジメントを欠いており、海外子会社に権限と高い自律性を付与して対処しました。また、ヨーロッパの多国籍企業は海外子会社の現地化を発展途上国において進めていく中で人種と文化の問題に直面したので、現地事業拠点に自律性を付与して対処しました。
〇
45
定期船海運産業は、かつて同族所有と同族経営に特徴づけられる産業でしたが、1970年代を通じてコンテナ化の波が押し寄せ、まったく新しい船舶と荷扱い施設が必要になり、大規模な経営者支配型企業(例えば、デンマークのメルスク)がグローバルなサービスを提供するようになりました。
〇
46
多国籍企業は第1次グローバル経済で成長する際に知識を移転しました。しかし、暗黙知やノウハウについては、それらが個人に体化されるために、移転するためにはそれらを保有する個人を移動させることが重要でした。
〇
47
戦間期には、ヨーロッパ諸国の政府は外国企業をほとんど規制しませんでした。しかし、アメリカは第1次世界大戦後に世界最大の債務国から債権国への道を歩み始めると,ナショナリズムが台頭して広範な産業で大規模な外規制を実施し始めました。
〇
48
1980年代以降、資本市場と金融市場がグローバル化するにつれて、多国籍企業の行動を効果的に監視することが極めて易しくなってきました。
✕
49
1990年代までにアメリカ企業・日本企業・フランス企業・ドイツ企業は研究開発活動を海外で積極的に行いましたが、イギリス企業とオランダ企業は研究開発活動を本国で集中して行う傾向がありました。
✕
50
第2次世界大戦以降、ヨーロッパ企業はアメリカ企業よりもより積極的に「グローバル」ブランドの構築に力を入れました。
✕
51
イラン、アルゼンチン,ベネズエラ、ボリビア、メキシコは、戦間期に特に石油産業において外国企業に対して敵対的な政策をとるようになりました。
〇
52
ソビエト社会主義連邦共和国は1980年代に段階的に対外直接投資に国内市場を開放しましたが、次の10年でサービス分野の自由化も計画しました。その結果、同国は発展途上国の中でも最大の投資受入れ国になりました。
✕
53
多国籍企業は発展途上諸国の海外子会社のトップに現地人を登用することによって、当該諸国の排外的政策の影響から免れました。
〇
54
欧米各国政府は19世紀以降、自国企業が外国市場に安全に参入できるように手助けし、場合によってはビジネスの権益を守るために発展途上国で軍事介入を行うこともありました。
〇
55
各国政府は1970年代以降、二国間協定,近隣諸国間協定,地域投資協定を締結して、外国企業の保護・処遇・紛争解決などを定め、外国企業の行動を規制しました。
✕
56
Dunningの投資発展経路モデルによれば、企業は新製品を本国(アメリカ)で開発・生産して、やがて他国にも輸出するようになります。さらに時間が経過すると、他国(発展途上国)で生産して本国に輸出(本国が逆輸入)するようになります。
✕
57
多くの多国籍企業は本国だけでなく複数の国に立地して、そこから優位性や特性を得ています。これらの多国籍企業は今や本国と海外の両方のダイヤモンド(国の優位性)に基礎をおいてグローバルな競争力を身につけていこうとしています。
〇
58
スウェーデンとスイスは、第二次世界大戦後、脱植民地化及び発展途上国のナショナリズムの高まりによって、海外資産に甚大な被害を被りました。しかし、それにもかかわらず、両国はその後も対外直接投資に積極的であり続けました。
✕
59
企業が初めて対外直接投資を行う場合は、地理的または文化的に近接している(情報コストの低い)諸国を選ぶ傾向がありました。
〇
60
イタリア、スペイン、香港、シンガポール、韓国、台湾、ブラジルは、持続型投資国(地域)に分類されます。
✕
61
多国籍企業は海外と比較して国内に優位性がなかったとしても多くの資本を国内に振り向け、海外への投資を控えるだろうし、その逆もまた同様です。
✕
62
アメリカ、カナダ、イギリス,ドイツは,発展途上国が対内直接投資の大部分を受け入れていたときですら、最大の対内直接投資の受入れ国であり続けました。
〇
63
企業買収(直接投資)の困難な国として、日本とイタリアがあげられます。逆に、企業買収(直接投資)の容易な国としては、アメリカとイギリスが挙げられます。
〇
64
「縁故資本主義」に依拠して急成長してきた多くの新興市場国出身の多国籍企業は、1997年のアジア金融危機で統治構造と専門的経営能力の構築という組織的制約の問題を露呈しました。
〇
65
中国における外国企業は、内陸地域に集中していました。
✕
66
第2次世界大戦以降、①海外での事業が困難に直面する場合,②海外で新事業を立ち上げる際に上級管理職を必要とする場合,③多国籍銀行が海外支店を開設する際に上級管理職を必要とする場合などに、多国籍企業の親会社は本国人を多く派遣しました。
〇
67
イランにおけるアングロペルシャン、中央アメリカにおけるユナイテッド・フルーツ、フランスにおけるコカ・コーラとマクドナルドの事例は、多国籍企業がナショナリズムの強い国において現地企業との同一化に成功したものとして理解できます。
✕
68
特に発展途上国では、同一産業分野の多国籍企業から現地企業へのスピルオーバーが顕著にありました。
✕
69
多国籍企業の海外子会社の大半の研究開発活動は、特定の製品や工程の適応ではなく、基礎的研究ないし基盤研究を目指していました。
✕
70
発展途上国の現地企業は多国籍企業に対していつも従属的立場にあったわけではなく、多国籍企業との関係を活かして自らの能力を高めることもありました。
〇