紀元前753年、ローマは何人(民族)によって支配されていたかエトルリア人
ラテン人による半島統一は、紀元前272年、どこを征服して完了したかタレントゥム
スパルタクスの乱を収束させ、共和制を廃し、皇帝に成った人オクタウィアヌス
476年、西ローマ帝国を滅ぼして、イタリア領主と成ったゲルマン人オドアケル
493年にオドアケルを倒して東ゴート王国を建てた人テオドリック
568年、イタリアに進出してきた最後のゲルマン人の一派ランゴバルド人
756年、ラヴェンナからランゴバルド人を排除してこれを奪い、ローマ教皇に寄進した人ピピン三世
773-4年、ランゴバルド王国を征服し(ランゴバルド王と成り)、北イタリアを征服した人カール大帝
870年、フランク王国を東西中に分割し、その中部をイタリア王国へと成らしめた条約メルセン条約
北イタリアのヴェネツィア、ジェノヴァ、ミラノやフィレンツェは、ローマ教皇[①]が[②]宗教会議で提唱した「十字軍遠征」のもたらす特需(東方貿易)によって、大いに栄えた。ウルバヌス二世, クレルモン
1077年、「カノッサの屈辱」は、「[ ]は皇帝ではなく教皇に存する」ことを示した象徴的な出来事である。聖職叙任権
1130年、南イタリア及びシチリア島を領地とする両シチリア王国を建国した人ルッジェーロ二世
12世紀頃、成長した都市の有力者のうち、皇帝派と教皇派とはそれぞれ何と呼ばれたかギベリン, ゲルフ
十字軍遠征の限界が露呈し、14世紀に[①]や[②]というかたちでそれが顕れ、ローマ教皇の衰退は明らかとなった。アナーニ事件, アヴィニヨン捕囚
イタリア戦争(1494)を勃発させ、ルネサンス時代を終わらせた人シャルル八世
狭義の本格化したイタリア戦争は、1520年の、[①]vs[②]の戦争のことを指す。フランソワ一世, カール五世
イタリア戦争(15-6世紀)を終結させた人フェリペ二世
1571年、スペイン&ローマ教皇&ヴェネツィアの連合艦隊は、[①]、[②]で勝利し、オスマン帝国から地中海を取り返した。レパントの海戦, プレヴェザの海戦
1714年、スペイン継承戦争終結時に締結された条約の1つで、イタリアの各地を分割して戦勝諸国の領地としたものラシュタット条約
スペイン継承戦争後のユトレヒト条約でサルデーニャ島を獲得し、1720年、サルデーニャ王国と成った国サヴォイア公国
[ ]によるイタリア遠征を契機として、「リソルジメント」(イタリア統一運動)が始まった。ナポレオン
18世紀、ナポレオンが北イタリアを平定してミラノを首都にして建てた国チザルピナ共和国
1798年、ナポレオンに迫られ、退位した教皇ピウス六世
ナポレオンを大統領とするイタリア共和国が成立したときの西暦1802
ウィーン会議によって、サルデーニャ王国の支配を任された人ヴィットーリオ・エマヌエーレ一世
オーストリアや旧い王政支配からの解放を目指す民族主義結社カルボナリ
1830年のフランス七月革命(ウィーン体制の崩壊)に触発され、青年イタリアを組織した革命家マッツィーニ
1848年、フランス二月革命によりウィーン体制が崩壊したことを契機に、オーストリアに宣戦布告(第一次イタリア統一戦争)したサルデーニャの王カルロ・アルベルト
1849年、マッツィーニがローマに入って共和国を樹立したと同時にローマ教皇領から脱出した教皇ピウス九世
ヴィットリオ・エマヌエーレ二世の治世のもとで、1852年にサルデーニャ王国の首相と成った人カヴール
1854年、英仏に恩を売っておく好機と捉えて、クリミア戦争への参戦を決定した人カヴール
オーストリアと戦うために、1858年、カヴールがナポレオン三世と結んだ密約プロンビエールの密約
ガリバルディは、赤シャツ隊を率いて、1860年、ナポリやシチリアに攻め入り、南イタリアを[ ]から解放した。ブルボン家
サヴォイア王家サルデーニャ王国を核とするイタリア王国(首都トリノ、のちフィレンツェ)が成立したときの西暦1861
1866年、ヴェネツィア併合の契機となった出来事普墺戦争
普仏戦争で[ ]が併合され、イタリア統一は完成した。ローマ
19世紀末、帝国主義の台頭するヨーロッパで、フランスのチュニジア侵出に対抗して、イタリアは、どこと同盟をむすんだかドイツ帝国, オーストリア・ハンガリー帝国
1896年、帝国主義を掲げ、アフリカ進出に乗り出た[ ]は、アドワの戦いで敗北した。クリスピ
エチオピア侵出に失敗したイタリアが、次に定めた目的地トリポリ
1901-14年、工業化・近代化の時期のイタリアで首相を務めた人ジョリッティ
1915年、イタリアは「未回収のイタリア」の獲得を条件に何を密約したか三国協商
WWI後のパリ講和会議(1919)でのイタリア代表オルランド
ファシズムの台頭は、何への不満を動機としたものかサン・ジェルマン条約
パリ講和会議でイタリアの領土拡大案が否決されたことへの不満から、フィウメ(クロアチアの都市)に武力侵入を敢行した詩人ダンヌンツィオ
ムッソリーニは、1919年に[①]を、1921年には[②]を組織した。戦闘ファッシ, 全国ファシスト党
1924年、ファシストに拉致され殺害された社会党代議士マッテオッティ
フィウメの件(ダンヌンツィオ事件)でユーゴスラヴィア王国と対立していたイタリアは、どこを属国化させたかアルバニア
1929年、ムッソリーニがローマ教皇庁と締結した条約で、ヴァチカン市国の建国を内容とするものラテラノ条約
1935年、南部の貧困やマフィアの暗躍のもたらす国民不満を解消するため、ムッソリーニは、どこの侵略を開始したかエチオピア
1936年、ムッソリーニは、スペイン戦争で誰に軍事支援を行ったかフランシスコ・フランコ
1939年、ヒトラーがチェコスロヴァキアの解体を強行したので、ムッソリーニも便乗して[ ]を征服した。アルバニア
失脚したムッソリーニに代わって成立した内閣バドリオ内閣
1943年、ローマを奪い、ムッソリーニ元首相を使って、ドイツが北イタリアに建てた傀儡政権サロ共和国
ドイツ・サロ共和国に対する反乱勢力パルチザンの中心組織イタリア共産党
ファシズム崩壊後のイタリアで、モスクワ(亡命先)から戻って指導者に成った共産党員トリアッティ
1943年のドイツによるローマ占領時に逃亡したエマヌエーレ三世に代わって即位した人ウンベルト二世
紀元前753年、ローマは何人(民族)によって支配されていたかエトルリア人
ラテン人による半島統一は、紀元前272年、どこを征服して完了したかタレントゥム
スパルタクスの乱を収束させ、共和制を廃し、皇帝に成った人オクタウィアヌス
476年、西ローマ帝国を滅ぼして、イタリア領主と成ったゲルマン人オドアケル
493年にオドアケルを倒して東ゴート王国を建てた人テオドリック
568年、イタリアに進出してきた最後のゲルマン人の一派ランゴバルド人
756年、ラヴェンナからランゴバルド人を排除してこれを奪い、ローマ教皇に寄進した人ピピン三世
773-4年、ランゴバルド王国を征服し(ランゴバルド王と成り)、北イタリアを征服した人カール大帝
870年、フランク王国を東西中に分割し、その中部をイタリア王国へと成らしめた条約メルセン条約
北イタリアのヴェネツィア、ジェノヴァ、ミラノやフィレンツェは、ローマ教皇[①]が[②]宗教会議で提唱した「十字軍遠征」のもたらす特需(東方貿易)によって、大いに栄えた。ウルバヌス二世, クレルモン
1077年、「カノッサの屈辱」は、「[ ]は皇帝ではなく教皇に存する」ことを示した象徴的な出来事である。聖職叙任権
1130年、南イタリア及びシチリア島を領地とする両シチリア王国を建国した人ルッジェーロ二世
12世紀頃、成長した都市の有力者のうち、皇帝派と教皇派とはそれぞれ何と呼ばれたかギベリン, ゲルフ
十字軍遠征の限界が露呈し、14世紀に[①]や[②]というかたちでそれが顕れ、ローマ教皇の衰退は明らかとなった。アナーニ事件, アヴィニヨン捕囚
イタリア戦争(1494)を勃発させ、ルネサンス時代を終わらせた人シャルル八世
狭義の本格化したイタリア戦争は、1520年の、[①]vs[②]の戦争のことを指す。フランソワ一世, カール五世
イタリア戦争(15-6世紀)を終結させた人フェリペ二世
1571年、スペイン&ローマ教皇&ヴェネツィアの連合艦隊は、[①]、[②]で勝利し、オスマン帝国から地中海を取り返した。レパントの海戦, プレヴェザの海戦
1714年、スペイン継承戦争終結時に締結された条約の1つで、イタリアの各地を分割して戦勝諸国の領地としたものラシュタット条約
スペイン継承戦争後のユトレヒト条約でサルデーニャ島を獲得し、1720年、サルデーニャ王国と成った国サヴォイア公国
[ ]によるイタリア遠征を契機として、「リソルジメント」(イタリア統一運動)が始まった。ナポレオン
18世紀、ナポレオンが北イタリアを平定してミラノを首都にして建てた国チザルピナ共和国
1798年、ナポレオンに迫られ、退位した教皇ピウス六世
ナポレオンを大統領とするイタリア共和国が成立したときの西暦1802
ウィーン会議によって、サルデーニャ王国の支配を任された人ヴィットーリオ・エマヌエーレ一世
オーストリアや旧い王政支配からの解放を目指す民族主義結社カルボナリ
1830年のフランス七月革命(ウィーン体制の崩壊)に触発され、青年イタリアを組織した革命家マッツィーニ
1848年、フランス二月革命によりウィーン体制が崩壊したことを契機に、オーストリアに宣戦布告(第一次イタリア統一戦争)したサルデーニャの王カルロ・アルベルト
1849年、マッツィーニがローマに入って共和国を樹立したと同時にローマ教皇領から脱出した教皇ピウス九世
ヴィットリオ・エマヌエーレ二世の治世のもとで、1852年にサルデーニャ王国の首相と成った人カヴール
1854年、英仏に恩を売っておく好機と捉えて、クリミア戦争への参戦を決定した人カヴール
オーストリアと戦うために、1858年、カヴールがナポレオン三世と結んだ密約プロンビエールの密約
ガリバルディは、赤シャツ隊を率いて、1860年、ナポリやシチリアに攻め入り、南イタリアを[ ]から解放した。ブルボン家
サヴォイア王家サルデーニャ王国を核とするイタリア王国(首都トリノ、のちフィレンツェ)が成立したときの西暦1861
1866年、ヴェネツィア併合の契機となった出来事普墺戦争
普仏戦争で[ ]が併合され、イタリア統一は完成した。ローマ
19世紀末、帝国主義の台頭するヨーロッパで、フランスのチュニジア侵出に対抗して、イタリアは、どこと同盟をむすんだかドイツ帝国, オーストリア・ハンガリー帝国
1896年、帝国主義を掲げ、アフリカ進出に乗り出た[ ]は、アドワの戦いで敗北した。クリスピ
エチオピア侵出に失敗したイタリアが、次に定めた目的地トリポリ
1901-14年、工業化・近代化の時期のイタリアで首相を務めた人ジョリッティ
1915年、イタリアは「未回収のイタリア」の獲得を条件に何を密約したか三国協商
WWI後のパリ講和会議(1919)でのイタリア代表オルランド
ファシズムの台頭は、何への不満を動機としたものかサン・ジェルマン条約
パリ講和会議でイタリアの領土拡大案が否決されたことへの不満から、フィウメ(クロアチアの都市)に武力侵入を敢行した詩人ダンヌンツィオ
ムッソリーニは、1919年に[①]を、1921年には[②]を組織した。戦闘ファッシ, 全国ファシスト党
1924年、ファシストに拉致され殺害された社会党代議士マッテオッティ
フィウメの件(ダンヌンツィオ事件)でユーゴスラヴィア王国と対立していたイタリアは、どこを属国化させたかアルバニア
1929年、ムッソリーニがローマ教皇庁と締結した条約で、ヴァチカン市国の建国を内容とするものラテラノ条約
1935年、南部の貧困やマフィアの暗躍のもたらす国民不満を解消するため、ムッソリーニは、どこの侵略を開始したかエチオピア
1936年、ムッソリーニは、スペイン戦争で誰に軍事支援を行ったかフランシスコ・フランコ
1939年、ヒトラーがチェコスロヴァキアの解体を強行したので、ムッソリーニも便乗して[ ]を征服した。アルバニア
失脚したムッソリーニに代わって成立した内閣バドリオ内閣
1943年、ローマを奪い、ムッソリーニ元首相を使って、ドイツが北イタリアに建てた傀儡政権サロ共和国
ドイツ・サロ共和国に対する反乱勢力パルチザンの中心組織イタリア共産党
ファシズム崩壊後のイタリアで、モスクワ(亡命先)から戻って指導者に成った共産党員トリアッティ
1943年のドイツによるローマ占領時に逃亡したエマヌエーレ三世に代わって即位した人ウンベルト二世