暗記メーカー
ログイン
教育史3
  • ユーザ名非公開

  • 問題数 23 • 6/11/2024

    記憶度

    完璧

    3

    覚えた

    10

    うろ覚え

    0

    苦手

    0

    未解答

    0

    アカウント登録して、解答結果を保存しよう

    問題一覧

  • 1

    技術習得を目指して練習を積んでいるときに、しばらく休んだり別の運動をしたりすることで、目的としていた技術が急激に上達することをなんというか

    レミニッセンス効果

  • 2

    バズ学習を提唱したのは誰か

    フィリップス

  • 3

    安中藩士(あんなか)の子として生まれ、漢学と蘭学を学び、キリスト教文献に接して若くして西欧文化に興味を持った。 1864年に禁令を犯して米国にわたり、神学と自然科学を修めた。在米中、岩倉具視使節団の欧米教育視察に加わる。 日本に戻ってからは、同志社英学校を開設し、キリスト教に基づく精神教育に尽力した。

    新島襄

  • 4

    高崎藩士の家に生まれた。 札幌農学校で学びキリスト教に触れたことで感化され、米国に渡り神学を学んだ。帰国後第一高等中学校講師になったが、「不敬事件」を起こし退職した。 その後は評論活動に入り、聖書研究会を開いて無教会主義の立場に立つキリスト教伝道を行い、多くの若者に影響を与えた。

    内村鑑三

  • 5

    美濃(みの)恵那郡(えなぐん)岩村藩士の家に生まれた。 幼少より漢学・和歌などを学び宮中に出仕した。麹町(こうじまち)元園町に桃夭塾(とうようじゅく)を創設し、華族の子女を教育した。 1884年、宮内省御用掛として華族女学校の設立に参与し、学監となる。 1894年帝国婦人会を組織し、翌年には実践女学校と女子工芸学校を開設した。

    下田歌子

  • 6

    長岡藩医の家に生まれた。 漢学・洋算を修め、東京師範学校中学師範科に入学・卒業した。 東京女子師範学校の幼稚園監事になり、先進諸国の保育事情やその理論を平易に紹介して、日本の草創期の幼児教育を牽引した。 そののち訓盲唖院に移り、盲聾(もうろう)教育の父と呼ばれた

    小西信八

  • 7

    青森県八戸に生まれた。 1897年我が国最初の婦人記者として現在の報知新聞者に入社した。 社会改良の拠点として家庭を重視し、近代的家庭の建設、女性の独立の必要性を唱えた。 1921年、文部省令によらない自由学園を創設し、キリスト教的自由主義教育思想に基づく生活教育を展開した。

    羽仁もと子

  • 8

    イギリス民衆教育の推進者だった。 マンチェスターで医者として働く中で下層民衆の生活を知り、その教育に関心を持った。1839年枢密院教育委員会の初代事務局長に就任して、民衆学校の教員養成のために国立の教員養成大学を設置しようとしたが、宗教団体の反対でうまくいかなかったため、1840年に自分で養成大学を開設した。

    ケイ・シャトルワース

  • 9

    ミュンヘン市の視学官を長く務め、大きな功績を上げた。 彼の根本思想は、公立学校は社会有要の公民を養成すべきであること、職業的作業によって初めて人は陶冶されるということを二つの柱としている。 この職業的作業を通して有要な公民へという思想から作業学校を構想した。

    ケルシェンシュタイナー

  • 10

    ( )は、乳児のアタッチメント(愛着)の個人差を測定する実験方法として( )を考案した。 これは、乳児と養育者を実験室に入れ、養育者との分離や再会などの場面で乳児が見せる反応パターンを観察して類型化することにより、アタッチメントの特徴を記述しようとするものである。

    エインズワース, ストレンジ・シチュエーション法

  • 11

    クインシーの教育長を務め、子どもの活動主義を主張してクインシー運動を展開した。 子どもの自発的な活動を尊重し、書物ではなく仕事を中心とした学習を主張し、地理を中心とした統合カリキュラムを提唱した。

    パーカー

  • 12

    人間の内に合一する超感覚的・霊的本質を探究する人智学を確立した。 人智学に基づき人間の心と体の質的な変容を的確に把握し、教育を芸術として再構成した。自由ヴァルドルフ学校を創設した。

    シュタイナー

  • 13

    戦前の教育運動について古い順に並べよ A:東京で「八大教育主張講演会」が開催され、小原国芳(おばらくによし)が「全人教育論」を主張した B:『Education in Japan』を編著した森有礼が、文部大臣として学校令を制定し、教育改革に取り組んだ C:小砂丘忠義(ささおか ただよし)、野村芳兵衛(よしべえ)などにより、『綴方生活』(つづりかたせいかつ)が刊行され、各地の教師の実践活動を促した

    B→A→C

  • 14

    次は『教育に関する考察』の一部である。著者は誰か。 「われわれが出逢う万人の中で、十人の中九人までは、良くも悪くも、有用にも無用にも、教育によってなるものだといって差し支えないと思われます。教育こそ、人間の間に大きな相違をもたらすものです。

    ロック

  • 15

    石上宅嗣(いそのかみの やかつぐ)によって設けられた、わが国最初の公開図書館

    芸亭

  • 16

    上杉憲実(のりざね)によって再興された。 学生には僧侶が多く、武士や俗人もいた。 外典の習得を中心に、天文・土木・医学なども教育されていた

    足利学校

  • 17

    庶民教化のために空海が開いた教育機関。 全ての学芸を修め真実の知恵を学ぶという総合的な全人教育を目指したものであった。

    綜芸種智院

  • 18

    岡山藩主、池田光政(みつまさ)によって創設された郷学。 藩営の民衆教育機関としては最も早い時期のものの一つである。

    閑谷学校

  • 19

    パーテンによって見出された遊びの一形態であり、他の子どものそばで、似た玩具・道具を用いて遊ぶものの、関わり合いや会話のない状態の遊びのことをなんというか

    平行遊び

  • 20

    同じ指導を行ったとしても、学習者によってはその効果が異なる場合があるという現象を「適性処遇交互作用」と名付けた。 個々の学習者に適した教授法があるとし、学習の最適化を図ることを強調した。

    クロンバック

  • 21

    1871年、欧米視察岩倉具視一行に伴われて渡米。7歳より11年間初等中等教育を受けて帰国。 1889年に再渡米し、ブリンマー・カレッジの選科生として生物学を中心に諸学を修め、さらにオズウィゴー師範学校で教育、教授法を学んだ。 帰国後1900年、女子英学塾を創立した。

    津田梅子

  • 22

    生来もっている能力の自力による開発

    開発教授法

  • 23

    教師がティームをつくり、その協力で一定の責任分担をして学習指導する方法

    ティーム・ティーチング