問題一覧
1
唐は領域を拡大 →周辺地域に大きな影響&西アジアとの交流 →都の①は世界的な都市として国際的な文化 東アジア諸国も唐と交流し、漢字・②・仏教などを共有する③が形づくられる。
長安, 儒教, 東アジア文化圏
2
8世紀 日本からの①は20年に1度の割合で派遣 多い時500人もの人々が4隻の船に乗って渡海 →1隻でもたどり着けばいいということ。 日本は②は受けなかった →実質的には唐に臣従する朝貢。 大使以下の使者は③に参列し、皇帝を祝賀。 唐からは高級織物や④・楽器を賜与されたほか 吉備真備や⑤らの留学生や学問僧が 儒教や仏教、⑥など多くの書物と知識を伝えた →日本の律令国家としての発展に大きく寄与。
遣唐使, 冊封, 正月朝賀, 銀器, 玄昉, 法律
3
676年①は朝鮮半島を統一 →唐をけん制するために日本とのあいだに多くの使節を往来。8世紀初めまでは日本に従うが →やがて対等外交を主張→日本は拒否 新羅と日本の関係は悪化 八世紀末②は少なくなるが外交とは別に ③の往来は盛んになった。
新羅, 遣新羅使, 民間商人
4
中国東北部などに住む①や旧高句麗人を中心に建国された②は③・新羅と対立。 →日本に従属し、友好的な外交関係
靺鞨族, 渤海, 唐
5
710年 ①天皇は藤原京から奈良盆地北部の②に遷都。 こののち、長岡京・平安京に遷都するまでを③時代という。
元明, 平城京, 奈良
6
平城京は唐のどこをもとに作成された?
長安
7
唐の都はどこ?
長安
8
碁盤の目状の都市区画のことをなんという?
条坊制
9
条坊制の都市で中央を南北に走る道路のことをなんという?
朱雀大路
10
朱雀大路で東西を何と何に分けられますか?
左京, 右京
11
天皇の生活の場は?
内裏
12
政務や儀礼の場は何?
大極殿, 朝堂院
13
庶民は京に住むことはできなかった
✕
14
平城京の人口はおよそどれくらい?
10万人
15
五条以北の平城宮近くには長屋王邸など貴族たちの大邸宅が立ち並び 八条・九条などの宮から遠い地区には下級官人たちの小規模な住宅が分布していた。
◯
16
下級官人は八条・九条など宮から遠い地区に住宅を持っていた一方で、 畿内にあるみずからの本籍地で①にも従事していた。
農業経営
17
左京・右京には官営の①が設けられ、②が監督した。
市, 市司
18
問一 708年,武蔵国から献上されたものは何? 問二 その結果年号はなんと改められた? 問三 なにを鋳造した?
銅, 和銅, 和同開珎
19
富本銭の次に鋳造された貨幣はなに?
和同開珎
20
和同開珎のあと国家による銅銭の鋳造は10世紀半ばまで12回にわたり続けられてきた。 これらの銅銭を総称してなんという?
皇朝十二銭
21
皇朝十二銭の一番最後の銅銭は何?
乾元大宝
22
銭貨は平城京造営で使役された人々に労働の代金として支給 →政府はさらなる流通を目指す。 →711年①発令。 しかし京・畿内以外では稲や布などを交換手段とする交易が行われた。
蓄銭叙位令
23
遣唐留学生だった①は唐の②に重用されて高官にのぼり、詩人の王維・③らとも交流。 帰国の船の遭難で唐にとどまる。
阿倍仲麻呂, 玄宗皇帝, 李白
24
都を囲む畿内を中心に七道の諸国府へのびる ①が整備された。
官道
25
官道(駅路)は約16kmごとに①を設ける駅制が敷かれ、官人が公用に利用した。 地方では駅路と離れて郡家などを結ぶ道②が 交通体系の網の目を構成した。
駅家, 伝路
26
国には、中央から派遣された国司が政治を行う拠点として①が設けられ、 ①の中心には政務や儀礼を行う②があった。 のちに①の近くには③も建立され、 文化的な中心でもあった。
国府, 国庁, 国分寺
27
郡には➀が設けられ、租を蓄える②がおかれ、 近くに郡司の③も営まれた。
郡衙, 正倉, 氏寺
28
国司には中央の官人が 一定の任期で派遣されたが、 郡司にはもとの①などの在地の豪族が任命され ②はなく地位は世襲され 多くの田地の保有が認められていた。 →律令制の民衆支配は郡司のもつ伝統的な支配力によって可能になっていた。
国造, 任期
29
奈良時代に行われていないものとして適切なのはどれ?
政府は有力農民を使った直営方式で収益をはかるなど、財源の確保につとめた。
30
国内では東北地方に住む人々のことをなんと呼んだ?
蝦夷
31
国内では九州南部の人々のことをなんと呼んだ?
隼人
32
国内では蝦夷や隼人を異民族として服従させ、 支配地を拡大していった。 →7世紀半ばに、日本海側に①と②が設けられる。
渟足柵, 磐舟柵
33
斉明天皇の時代に①が遣わされ、 秋田地方などさらに北方の蝦夷と関係を結んだ →しかし政府の支配領域は まだ日本海沿いの拠点にとどまっていた。 8世紀になると、 蝦夷に対する軍事的な制圧政策も進められた。 日本海側には712年に②がおかれ、 ついで秋田城が築かれ、太平洋側にも 7世紀後期の城柵に続けて陸奥国府となる ③が築かれて、それぞれ出羽・陸奥の政治や蝦夷対策の拠点となった。
阿倍比羅夫, 出羽国, 多賀城
34
南九州の隼人は天武・持統天皇の頃には服属し 8世紀初めには薩摩国についで①がおかれ、 反乱をおこしたものの制圧され 政府に②することが課された。 種子島や③も行政区画され、 さらに南の島々も ④などの産物を貢進する関係に入った。
大隅国, 朝貢, 屋久島, 赤木
35
蝦夷対策として城柵には関東を中心とする農民を①として植民させた。
柵戸
36
755~763年唐で①がおこり混乱が広がると ②が唐・新羅に進出する動きに応じて 新羅攻撃を計画した人物③はだれ? (実現はしなかった。)
安史の乱, 渤海, 藤原仲麻呂