地質学で言う( )は氷河時代とも呼ばれ、海面が現在より大幅に低下した更新世
地質学で言う更新世は氷河時代とも呼ばれ、海面が現在より大幅に低下したため、現在の日本列島はアジア大陸北東部と陸続きになっていたと考えられ、( )や( )などの大型生物が渡来したトウヨウゾウ, ナウマンゾウ
人類は猿人・旧人・新人の順に出現したとされるが、日本列島では静岡県の( 1 )や沖縄県の( 2 )・( 3 )など、新人段階の化石人骨が発見されている浜北人, 港川人, 山下町洞人
新人段階の人類はまだ金属器を知らず、打ち欠いただけの( 1 )石器を使用していたので、この時代を( 2 )時代という打製, 旧石器
かつて、日本列島に旧石器時代遺跡は存在しないと考えられていたが、群馬県( )遺跡で関東ローム層から打製石器が発見され、その定説は覆された岩宿
人々はナイフ形石器や尖頭器を利用して大型動物を捕え、旧石器時代の終わりには( )と呼ばれる小型の石器も出現している細石器
およそ一万年余り前、地質学で言う( 1 )にはいると、気候の温暖化で海面が上昇し、現在とほぼ同形の日本列島が形成された。自然環境の変化に応じて人々の生活も変わり、( 2 )が成立した完新世, 縄文文化
縄文文化の特徴は、中小動物を射るための狩猟具である( 1 )、食物を煮るための( 2 )、石を磨いて作り上げる( 3 )石器の出現である弓矢, 土器, 磨製
縄文土器にはさまざまな形態があり、形式変化を基準にして( )期に区別することが多い。算用数字で答えなさい。6
縄文文化では、各地に残る( )から骨角器などが発掘され、従来の狩猟、採取に加えて漁労が発達したことがわかる貝塚
縄文文化の時代。地面を掘り下げた掘立柱式の( )住居の存在は、定住的な生活の開示を示すものである。竪穴
縄文文化の時代。集落には住居だけでなく、食料保存のための貯蔵穴や墓地があり、青森県( )遺跡のように、大規模な集落住居伴う場合もある三内丸山
縄文文化の時代。社会生活の面では各地域で広く交易がなされ、黒色透明の火成岩である( )やひすい(硬玉)など、石器の原料となる鉱物の広範な分布がそれを物語る黒曜石
縄文文化の時代。精神生活の面ではあらゆる自然物に霊威の存在を認める( )の考え方をもとに、さまざまな呪術が行われたアニミズム
土偶や石棒の製作、通過儀礼としての抜歯、死者の体を折り曲げて埋葬する( )などは、アニミズムの典型である。屈葬
紀元前4世紀ごろ、西日本に水稲農耕を基礎とする( )が成立し、やがて東日本に広まった弥生文化
水稲農耕による収穫物は( )や貯蔵穴に収納された高床倉庫
弥生文化の時代。人々の住居は縄文時代と大きく異なることはなかったが、まわりに深い濠や土塁をめぐらせた( )が出現するようになった環濠集落
弥生文化の時代。集落では、豊作祈願 収穫感謝の祭が行われたが、その際に、( 1 )や銅剣 銅矛 銅戈などの( 2 )が使用された銅鐸, 青銅製祭器
弥生文化の頃の日本列島は、各地に「クニ」と呼ばれる政治的まとまりが成長していたと考えられ、その様子は中国の歴史書から知ることができる。( )には「倭人」の社会が百余国にわかれ、定期的に楽郡に使者送っていたと言う記事がある『漢書』地理志
( )には、倭の奴国の王の使者が光武帝から金印を授かったと言う記事がある『後漢書』東夷伝
( 1 )には、( 2 )が邪馬台国連合の王として統治を行ったと記されている「魏志」倭人伝, 卑弥呼
卑弥呼の死後には、宗女である( )が邪馬台国連合の王になったとされる壱与
前期 中期古墳時代に見られる内部構造で、木棺や石棺をおさめた形式の石室をなんと言うか竪穴式石室
仁徳天皇陵古墳ともいわれる、5世紀に築造された最大規模の前方後円墳の名称は何か大山古墳
朝鮮半島には馬韓 弁韓 辰韓という小国連合が形成されたが、4世紀に馬韓地域から成立した国は何か百済
4世紀後半、倭国は朝鮮半島の南下を図る高句麗と交戦したが、その出来事を記録する資料はなにか好太王碑
5世紀初め、いわゆる倭の五王が中国南朝に朝貢したことを伝える史料はなにか『宋書』倭国伝
6〜7世紀、特定の地域内に円墳などの小規模古墳が密集して、構築されたものをなんというか群集墳
5世紀後半以降、朝鮮半島伝来の技術で生産された灰色で硬質の土器をなんというか須恵器
古墳時代の呪術的風習で、熱湯に手を入れ、火傷の有無で真偽を確かめる審判方法はなにか盟神探湯
古墳時代の終末期に、前方後円墳の造営停止と並行して見られる、近畿の大王墓の形式は何か八角墳
ヤマト政権のもとで、有力な豪遊が私有した土地のことをなんというか田荘
崇峻天皇の暗殺後、592年に即位した( )は、厩戸王(聖徳太子)や、大臣の蘇我馬子とともに中央集権国家の形成を進めた推古天皇
603年に制定された( 1 )は、個人の功績を重視して人材登用をはかるためのもので、604年には豪族たちに官僚としての自覚を促すため( 2 )が定められた冠位十二階, 憲法十七条
外交では、607年に遣隋使として( 1 )が大陸へ派遣され、隋の皇帝( 2 )は大王を「天子」と称する倭の国に怒ったが、翌年返礼使として裴世清を派遣した小野妹子, 煬帝
小野妹子と共に隋に派遣された人物には、のちに大化改新で活躍する留学生( 1 )、僧( 2 )や南淵請安がいた高向玄理, 旻
645年、中大兄皇子は( 1 )らとはかつて、自己の権力集中をはかる蘇我入鹿とその父( 2 )を滅ぼした中臣鎌足, 蘇我蝦夷
中大兄皇子は、蘇我蝦夷を滅ぼした事変後に即位した( )の皇太子として政治改革に着手した孝徳天皇
中大兄皇子は、孝徳天皇の皇太子として政治改革に着手した。まず都を飛鳥から難波に移し、翌年には公地公民制など4項目からなる「( )」を発して、新しい政策の方針を示した改新の詔
660年、朝鮮半島で百済が唐・新羅の攻撃で滅ぶと、日本は百済救済のため朝鮮半島に出兵した。しかし663年に倭の軍政は( )で唐・新羅の連合軍に大敗を喫した。白村江の戦い
白村江の戦いで唐・新羅に大敗を喫したあと、中大兄皇子は唐・新羅の報復に備えるべく改革を進め、667年には( 1 )に遷都し、翌年( 2 )に即位した近江大津宮, 天智天皇
中大兄皇子は天智天皇として即位したあと、さらに670年に初の全国的戸籍として( 1 )を作成させるなど、次々に改革を実行していったが、天皇の死後 皇位継承をめぐる内乱が発生した。これが( 2 )である庚午年籍, 壬申の乱
壬申の乱で大友皇子を破った大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位し( )となった天武天皇
天武天皇は中央集権的な律令国家形成に向けた政治改革を志し、684年制定の( )では、天皇を中心とする新たな身分秩序に豪族を再編成した八色の性
天武天皇の死後は皇后が( )として即位し、律令国家体制の成功に尽力した持統天皇
701年に( )律令が制定され、古代律令国家が成立した大宝
奈良時代から平安時代初期。律令の班田収授法に基づいて、( )歳以上の男女に口分田が与えられた6
奈良時代から平安時代初期。遣唐使はほぼ20年ごとに派遣され、676年に朝鮮半島を統一した( )とも使節を派遣しあった新羅
奈良時代は貴族の激しい政争が続き、729年には皇族の左大臣( )が藤原氏によって自殺に追いやられた長屋王
人口増加に対する口分田不足を補うため、政府は743年に( )を発布して、開墾した土地は面積を限って永久に私有することを決めた墾田永年私財法
奈良時代から平安時代初期。桓武天皇ははじめ( )に遷都したが、造営を主導した藤原種継が暗殺されたために工事を中止した長岡京
飛鳥時代には豪族の氏寺が次々に建設されたが、蘇我氏の発願による寺院の名称を答えよ飛鳥寺
飛鳥時代の仏師で、法隆寺金堂釈迦三尊像の作者と伝えられているのは誰か鞍作鳥
大官大寺・薬師寺を建立し、仏教興隆を国家的に進めた天皇は誰か天武天皇
中国や朝鮮半島の影響が認められる白鳳時代の壁画が残る奈良県の古墳の名称は何か高松塚古墳
律令では僧侶の布教活動が禁止されたが、奈良時代に社会事業を進めながら布教に努め、大仏造立にも協力した僧は誰か行基
中国史書の体裁にならって720年に編纂され、漢文の編年体で記された歴史書はなにか日本書紀
奈良時代に編纂され、現存最古の漢詩集として知られる作品はなにか懐風藻
奈良時代に成立し、詩形・作者共に幅広く約4500首の歌を収録した和歌集はなにか万葉集
平安時代の密教彫刻に多く見られる、一本の木から一体の仏像を彫り起こす技法をなんというか一木造
嵯峨天皇の時代に藤原冬嗣が( )に任命されたことは、藤原氏北家が正解で台頭する重要なきっかけになった蔵人頭
858年に幼少の清和天皇の外祖父として摂政に就任した冬嗣の子は誰か藤原良房
冬嗣の子である藤原良房は、858年に幼少の( )の外祖父として摂政に就任した清和天皇
藤原良房の養子となった( 1 )は、光孝天皇の即位に当たって実質上の( 2 )の地位についた藤原基経, 関白
842年 藤原良房が伴氏・橘氏などを退けた出来事承和の変
866年 藤原良房が伴・紀両氏を没落させた出来事応天門の変
901年 藤原時平が( )の陰謀により太宰府に左遷した菅原道真
10世紀前半は醍醐・村上天皇のもとで摂関職は置かれず、のちに( )と称される天皇新政が実現した延喜・天暦の治
969年の( )で源高明が左遷されると、藤原氏北家の勢力は不動のものとなった安和の変
安和の変以降、摂関の職は常置となり、摂関家が政権の政治を左右する体制が生まれた。これを( )という摂関政治
11世紀初めに藤原氏の氏長者となった( 1 )と、その子である( 2 )の時代に摂関政治は全盛期を迎えた藤原道長, 藤原頼通
紀貴之らによって編纂された、最初の勅撰和歌集はどれか古今和歌集
次のうち、所謂 国風文化の時代に作られた作品はどれか枕草子
日本の神々は、仏が仮に姿を変えてこの世に現れたものとみなす思想をなんというか本地垂迹説
浄土教の布教に活躍した比叡山の僧原信の著作はどれか往生要集
平安時代の貴族の住宅様式として適するものはどれか寝殿造
藤原頼通が京都宇治に建立した、現在まで残る阿弥陀堂建築はどれか平等院鳳凰堂
浄土教芸術の一つで、極楽往生する人間を迎えに来る仏を描いた仏画をなんというか来迎図
10世紀は律令体制の崩れがはっきりした時代であり、戸籍・計帳の登録による従来の微税方式が機能不全になった。このため政府は( )と呼ばれた有力農民に耕作を請け負わせて、彼らに税を負担させる方式を採用した田堵
10世紀ごろ。地方政治にあたるようぬなった国司は( )と呼ばれ、任国を私領化して私腹を肥やすようになった受領
受領の中には、988年の( )という記録からもわかるように、農民から暴政を訴えられる国司もいた尾張国郡司百姓等解
平安時代 貴族社会の中で国司の地位は利権視され、私財を提供して自分の望む官職を得る( )や、地位の継続を求める重任も広く行われた。成功
貴族社会の時代。任国に代理人を派遣して収入のみを得る( )も一般化した遙任
10世紀以降、地方政治の変質の中で地方豪族や有力農民は田地の耕作を請け負い、それに伴って墾田開発を進めた。彼らは11世紀には( )と呼ばれ、国司の圧迫に対抗するため、自己の所領を中央の貴族などに寄進する動きを見せ始めた開発領主
開発領主から寄進を受けた貴族などの荘園領主は( 1 )と呼ばれ、そこからさらに寄進を受けた上級の領主は( 2 )と呼ばれた領家, 本家
10世紀以降。はじめに寄進を行った開発領主は現地の荘官となったが、このように重層的な所有関係を持つ荘園を( )という寄進地形荘園
10世紀以降。租税免除の特権である( 1 )を持つものや、国司が派遣する検田使などの立ち入りを拒否できる( 2 )の特権を持つ荘園も生まれ、寄進地形荘園はその独立性を強めた不輸, 不入
939年に反乱を起こして関東地方一帯を制圧し、自ら新皇と名乗った桓武平氏の一族は誰か平将門
もと伊予の国司で、平将門と同じ頃に瀬戸内海の海賊を率いて太宰府などを襲撃した人物は誰か藤原純友
1028年に上総でおこった平忠常の乱を平定した清和源氏の一族は誰か源頼信
11世紀に源頼義が子の義家とともに平定した、陸奥の豪族安倍氏との戦いをなんというか前九年合戦
前九年合戦ののち、陸奥・出羽両国で大きな勢力を得た一族の氏族名は何か清原氏
平安時代初期 比叡山延暦寺を開いた最澄が中国からもたらした仏教の宗派は何か天台宗
地質学で言う( )は氷河時代とも呼ばれ、海面が現在より大幅に低下した更新世
地質学で言う更新世は氷河時代とも呼ばれ、海面が現在より大幅に低下したため、現在の日本列島はアジア大陸北東部と陸続きになっていたと考えられ、( )や( )などの大型生物が渡来したトウヨウゾウ, ナウマンゾウ
人類は猿人・旧人・新人の順に出現したとされるが、日本列島では静岡県の( 1 )や沖縄県の( 2 )・( 3 )など、新人段階の化石人骨が発見されている浜北人, 港川人, 山下町洞人
新人段階の人類はまだ金属器を知らず、打ち欠いただけの( 1 )石器を使用していたので、この時代を( 2 )時代という打製, 旧石器
かつて、日本列島に旧石器時代遺跡は存在しないと考えられていたが、群馬県( )遺跡で関東ローム層から打製石器が発見され、その定説は覆された岩宿
人々はナイフ形石器や尖頭器を利用して大型動物を捕え、旧石器時代の終わりには( )と呼ばれる小型の石器も出現している細石器
およそ一万年余り前、地質学で言う( 1 )にはいると、気候の温暖化で海面が上昇し、現在とほぼ同形の日本列島が形成された。自然環境の変化に応じて人々の生活も変わり、( 2 )が成立した完新世, 縄文文化
縄文文化の特徴は、中小動物を射るための狩猟具である( 1 )、食物を煮るための( 2 )、石を磨いて作り上げる( 3 )石器の出現である弓矢, 土器, 磨製
縄文土器にはさまざまな形態があり、形式変化を基準にして( )期に区別することが多い。算用数字で答えなさい。6
縄文文化では、各地に残る( )から骨角器などが発掘され、従来の狩猟、採取に加えて漁労が発達したことがわかる貝塚
縄文文化の時代。地面を掘り下げた掘立柱式の( )住居の存在は、定住的な生活の開示を示すものである。竪穴
縄文文化の時代。集落には住居だけでなく、食料保存のための貯蔵穴や墓地があり、青森県( )遺跡のように、大規模な集落住居伴う場合もある三内丸山
縄文文化の時代。社会生活の面では各地域で広く交易がなされ、黒色透明の火成岩である( )やひすい(硬玉)など、石器の原料となる鉱物の広範な分布がそれを物語る黒曜石
縄文文化の時代。精神生活の面ではあらゆる自然物に霊威の存在を認める( )の考え方をもとに、さまざまな呪術が行われたアニミズム
土偶や石棒の製作、通過儀礼としての抜歯、死者の体を折り曲げて埋葬する( )などは、アニミズムの典型である。屈葬
紀元前4世紀ごろ、西日本に水稲農耕を基礎とする( )が成立し、やがて東日本に広まった弥生文化
水稲農耕による収穫物は( )や貯蔵穴に収納された高床倉庫
弥生文化の時代。人々の住居は縄文時代と大きく異なることはなかったが、まわりに深い濠や土塁をめぐらせた( )が出現するようになった環濠集落
弥生文化の時代。集落では、豊作祈願 収穫感謝の祭が行われたが、その際に、( 1 )や銅剣 銅矛 銅戈などの( 2 )が使用された銅鐸, 青銅製祭器
弥生文化の頃の日本列島は、各地に「クニ」と呼ばれる政治的まとまりが成長していたと考えられ、その様子は中国の歴史書から知ることができる。( )には「倭人」の社会が百余国にわかれ、定期的に楽郡に使者送っていたと言う記事がある『漢書』地理志
( )には、倭の奴国の王の使者が光武帝から金印を授かったと言う記事がある『後漢書』東夷伝
( 1 )には、( 2 )が邪馬台国連合の王として統治を行ったと記されている「魏志」倭人伝, 卑弥呼
卑弥呼の死後には、宗女である( )が邪馬台国連合の王になったとされる壱与
前期 中期古墳時代に見られる内部構造で、木棺や石棺をおさめた形式の石室をなんと言うか竪穴式石室
仁徳天皇陵古墳ともいわれる、5世紀に築造された最大規模の前方後円墳の名称は何か大山古墳
朝鮮半島には馬韓 弁韓 辰韓という小国連合が形成されたが、4世紀に馬韓地域から成立した国は何か百済
4世紀後半、倭国は朝鮮半島の南下を図る高句麗と交戦したが、その出来事を記録する資料はなにか好太王碑
5世紀初め、いわゆる倭の五王が中国南朝に朝貢したことを伝える史料はなにか『宋書』倭国伝
6〜7世紀、特定の地域内に円墳などの小規模古墳が密集して、構築されたものをなんというか群集墳
5世紀後半以降、朝鮮半島伝来の技術で生産された灰色で硬質の土器をなんというか須恵器
古墳時代の呪術的風習で、熱湯に手を入れ、火傷の有無で真偽を確かめる審判方法はなにか盟神探湯
古墳時代の終末期に、前方後円墳の造営停止と並行して見られる、近畿の大王墓の形式は何か八角墳
ヤマト政権のもとで、有力な豪遊が私有した土地のことをなんというか田荘
崇峻天皇の暗殺後、592年に即位した( )は、厩戸王(聖徳太子)や、大臣の蘇我馬子とともに中央集権国家の形成を進めた推古天皇
603年に制定された( 1 )は、個人の功績を重視して人材登用をはかるためのもので、604年には豪族たちに官僚としての自覚を促すため( 2 )が定められた冠位十二階, 憲法十七条
外交では、607年に遣隋使として( 1 )が大陸へ派遣され、隋の皇帝( 2 )は大王を「天子」と称する倭の国に怒ったが、翌年返礼使として裴世清を派遣した小野妹子, 煬帝
小野妹子と共に隋に派遣された人物には、のちに大化改新で活躍する留学生( 1 )、僧( 2 )や南淵請安がいた高向玄理, 旻
645年、中大兄皇子は( 1 )らとはかつて、自己の権力集中をはかる蘇我入鹿とその父( 2 )を滅ぼした中臣鎌足, 蘇我蝦夷
中大兄皇子は、蘇我蝦夷を滅ぼした事変後に即位した( )の皇太子として政治改革に着手した孝徳天皇
中大兄皇子は、孝徳天皇の皇太子として政治改革に着手した。まず都を飛鳥から難波に移し、翌年には公地公民制など4項目からなる「( )」を発して、新しい政策の方針を示した改新の詔
660年、朝鮮半島で百済が唐・新羅の攻撃で滅ぶと、日本は百済救済のため朝鮮半島に出兵した。しかし663年に倭の軍政は( )で唐・新羅の連合軍に大敗を喫した。白村江の戦い
白村江の戦いで唐・新羅に大敗を喫したあと、中大兄皇子は唐・新羅の報復に備えるべく改革を進め、667年には( 1 )に遷都し、翌年( 2 )に即位した近江大津宮, 天智天皇
中大兄皇子は天智天皇として即位したあと、さらに670年に初の全国的戸籍として( 1 )を作成させるなど、次々に改革を実行していったが、天皇の死後 皇位継承をめぐる内乱が発生した。これが( 2 )である庚午年籍, 壬申の乱
壬申の乱で大友皇子を破った大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位し( )となった天武天皇
天武天皇は中央集権的な律令国家形成に向けた政治改革を志し、684年制定の( )では、天皇を中心とする新たな身分秩序に豪族を再編成した八色の性
天武天皇の死後は皇后が( )として即位し、律令国家体制の成功に尽力した持統天皇
701年に( )律令が制定され、古代律令国家が成立した大宝
奈良時代から平安時代初期。律令の班田収授法に基づいて、( )歳以上の男女に口分田が与えられた6
奈良時代から平安時代初期。遣唐使はほぼ20年ごとに派遣され、676年に朝鮮半島を統一した( )とも使節を派遣しあった新羅
奈良時代は貴族の激しい政争が続き、729年には皇族の左大臣( )が藤原氏によって自殺に追いやられた長屋王
人口増加に対する口分田不足を補うため、政府は743年に( )を発布して、開墾した土地は面積を限って永久に私有することを決めた墾田永年私財法
奈良時代から平安時代初期。桓武天皇ははじめ( )に遷都したが、造営を主導した藤原種継が暗殺されたために工事を中止した長岡京
飛鳥時代には豪族の氏寺が次々に建設されたが、蘇我氏の発願による寺院の名称を答えよ飛鳥寺
飛鳥時代の仏師で、法隆寺金堂釈迦三尊像の作者と伝えられているのは誰か鞍作鳥
大官大寺・薬師寺を建立し、仏教興隆を国家的に進めた天皇は誰か天武天皇
中国や朝鮮半島の影響が認められる白鳳時代の壁画が残る奈良県の古墳の名称は何か高松塚古墳
律令では僧侶の布教活動が禁止されたが、奈良時代に社会事業を進めながら布教に努め、大仏造立にも協力した僧は誰か行基
中国史書の体裁にならって720年に編纂され、漢文の編年体で記された歴史書はなにか日本書紀
奈良時代に編纂され、現存最古の漢詩集として知られる作品はなにか懐風藻
奈良時代に成立し、詩形・作者共に幅広く約4500首の歌を収録した和歌集はなにか万葉集
平安時代の密教彫刻に多く見られる、一本の木から一体の仏像を彫り起こす技法をなんというか一木造
嵯峨天皇の時代に藤原冬嗣が( )に任命されたことは、藤原氏北家が正解で台頭する重要なきっかけになった蔵人頭
858年に幼少の清和天皇の外祖父として摂政に就任した冬嗣の子は誰か藤原良房
冬嗣の子である藤原良房は、858年に幼少の( )の外祖父として摂政に就任した清和天皇
藤原良房の養子となった( 1 )は、光孝天皇の即位に当たって実質上の( 2 )の地位についた藤原基経, 関白
842年 藤原良房が伴氏・橘氏などを退けた出来事承和の変
866年 藤原良房が伴・紀両氏を没落させた出来事応天門の変
901年 藤原時平が( )の陰謀により太宰府に左遷した菅原道真
10世紀前半は醍醐・村上天皇のもとで摂関職は置かれず、のちに( )と称される天皇新政が実現した延喜・天暦の治
969年の( )で源高明が左遷されると、藤原氏北家の勢力は不動のものとなった安和の変
安和の変以降、摂関の職は常置となり、摂関家が政権の政治を左右する体制が生まれた。これを( )という摂関政治
11世紀初めに藤原氏の氏長者となった( 1 )と、その子である( 2 )の時代に摂関政治は全盛期を迎えた藤原道長, 藤原頼通
紀貴之らによって編纂された、最初の勅撰和歌集はどれか古今和歌集
次のうち、所謂 国風文化の時代に作られた作品はどれか枕草子
日本の神々は、仏が仮に姿を変えてこの世に現れたものとみなす思想をなんというか本地垂迹説
浄土教の布教に活躍した比叡山の僧原信の著作はどれか往生要集
平安時代の貴族の住宅様式として適するものはどれか寝殿造
藤原頼通が京都宇治に建立した、現在まで残る阿弥陀堂建築はどれか平等院鳳凰堂
浄土教芸術の一つで、極楽往生する人間を迎えに来る仏を描いた仏画をなんというか来迎図
10世紀は律令体制の崩れがはっきりした時代であり、戸籍・計帳の登録による従来の微税方式が機能不全になった。このため政府は( )と呼ばれた有力農民に耕作を請け負わせて、彼らに税を負担させる方式を採用した田堵
10世紀ごろ。地方政治にあたるようぬなった国司は( )と呼ばれ、任国を私領化して私腹を肥やすようになった受領
受領の中には、988年の( )という記録からもわかるように、農民から暴政を訴えられる国司もいた尾張国郡司百姓等解
平安時代 貴族社会の中で国司の地位は利権視され、私財を提供して自分の望む官職を得る( )や、地位の継続を求める重任も広く行われた。成功
貴族社会の時代。任国に代理人を派遣して収入のみを得る( )も一般化した遙任
10世紀以降、地方政治の変質の中で地方豪族や有力農民は田地の耕作を請け負い、それに伴って墾田開発を進めた。彼らは11世紀には( )と呼ばれ、国司の圧迫に対抗するため、自己の所領を中央の貴族などに寄進する動きを見せ始めた開発領主
開発領主から寄進を受けた貴族などの荘園領主は( 1 )と呼ばれ、そこからさらに寄進を受けた上級の領主は( 2 )と呼ばれた領家, 本家
10世紀以降。はじめに寄進を行った開発領主は現地の荘官となったが、このように重層的な所有関係を持つ荘園を( )という寄進地形荘園
10世紀以降。租税免除の特権である( 1 )を持つものや、国司が派遣する検田使などの立ち入りを拒否できる( 2 )の特権を持つ荘園も生まれ、寄進地形荘園はその独立性を強めた不輸, 不入
939年に反乱を起こして関東地方一帯を制圧し、自ら新皇と名乗った桓武平氏の一族は誰か平将門
もと伊予の国司で、平将門と同じ頃に瀬戸内海の海賊を率いて太宰府などを襲撃した人物は誰か藤原純友
1028年に上総でおこった平忠常の乱を平定した清和源氏の一族は誰か源頼信
11世紀に源頼義が子の義家とともに平定した、陸奥の豪族安倍氏との戦いをなんというか前九年合戦
前九年合戦ののち、陸奥・出羽両国で大きな勢力を得た一族の氏族名は何か清原氏
平安時代初期 比叡山延暦寺を開いた最澄が中国からもたらした仏教の宗派は何か天台宗