問題一覧
1
朱雀天皇の摂政、関白を務めた
藤原忠平
2
応天門は①(超簡単に言えば広場)の正門であり大伴氏が守衛していた
朝堂院
3
様々な蝦夷攻略政略が行われ、平安初期には①流域まで朝廷の勢力が及んだ
米代川
4
①年に安和の変において源高明は②の密告により左遷された
969, 源満仲
5
10世紀後半(960)中国では①が建国
宗
6
年中行事には神仏に関係する①、②、③がある
大祓, 賀茂祭, 灌仏会
7
藤原道長の娘威子は①天皇に入内した
後一条
8
左右近衛府の陣において公卿が審議を行うこと
陣定
9
2番目の勅撰漢詩文集① 3番目②
文華秀麗集, 経国集
10
①による秘密の宗教、現世利益を求めた密教
加持祈祷
11
空海の著書で、仏教、儒教、道教を比較して仏教が一番優れているとした
三教指帰
12
長岡京は①にある
山背国
13
天台宗は①を基づいている
法華宗
14
財政を改善するために太宰府に①(太宰府が最初なだけで他にもある) 畿内だと②となる
公営田, 官田
15
日本最古の説話集(因果応報の仏教の思考に基づく)①を編纂したのは②である
日本霊異記, 景戒
16
宇多天皇は菅原道真を①に任命
蔵人頭
17
最澄が弟子の泰範に宛てた
久隔帖
18
養老律令の公式注釈書である令義解は①が編纂 私選注釈書令集解は②が編纂
清原夏野, 惟宗直本
19
藤原道長は①②③天皇の外祖父として権力を得た
後一条, 後朱雀, 後冷泉
20
藤原種継は薬子の変で失脚した仲成と同じ①である
式家
21
三代格を分類、編集した法令書
類聚三代格
22
延暦寺内で①派と②派が争い後者が下野し③に入った
円仁, 円珍, 園城寺
23
801年に班田は①年に一度行うと改められた
12
24
平安時代に天皇権力と結びついて勢力を栄えた少数皇族を①
院宮王臣家
25
源高明による儀式のあり方を詳しく記した① 院政期の大江匡房(まさふさ)の②
西宮記, 江家次第
26
780年蝦夷①が按察使紀広純を殺害し多賀城を陥れた
伊治呰麻呂
27
神社の境内に建てられた寺
神宮寺
28
徳政論争で舌戦をした藤原緒嗣と①
菅野真道
29
健児の制では①の子弟などが採用された
郡司
30
空海の詩文の作法を論じた著書
文鏡秘府論
31
白紙に戻そう遣唐使、これは年号で言ったら①六年のことである
寛平
32
遣唐使として派遣された空海や最澄、能書者① この船が出発したのは②天皇の時である
橘逸勢, 桓武
33
万多親王を中心に編纂された畿内の諸氏の系譜の集成
新撰姓氏録
34
応天門の変で伴善男は①氏と共々追放され、②へ島流し
紀, 伊豆
35
寺院の境内に守護神として祀られる
鎮守
36
承和の変の詳細を示した正史には①があり、編纂者は良房や伴善男など
続日本後紀
37
平安京右京は湿気が酷く、荒廃していたと①が著書②で述べた
慶滋保胤, 池亭記
38
御堂関白とも呼ばれた道長は実際には関白にはなっていないが①にはなった
太政大臣
39
坂上田村麻呂は①を築いて、鎮守府を移した 胆沢城の北方に蝦夷戦争の前線として②を築いた
胆沢城, 志波城
40
円仁の末流① 円珍の末流②
山門派, 寺門派
41
宗に入り太宗に謁見した①は持ち帰った釈迦如来像を②に安置
奝然, 清涼寺
42
宇多天皇の子供が即位して①となった。
醍醐天皇
43
安和の変の変後に、①と②の兄弟が北家の長者をめぐり対立した
藤原兼通, 藤原兼家
44
桓武天皇が長岡京に遷都を行ったのは①年
784
45
宇治殿とは誰を指すか
藤原頼通
46
菅原道真が編纂、六国史にある事件事例が部門別にある
類聚国史
47
凌雲宗指示→① 文華秀麗集→① 経国集→②
嵯峨天皇, 淳和天皇
48
藤原氏の長者が受け継いだ荘園群は藤原氏の権力も踏まえて①と呼ばれた
殿下渡領
49
藤原頼通も道長と同じ3天皇の①(祖父ではないので外祖父は不可)
外戚
50
国司に不正がなかったと証明する書類
解由状
51
蝦夷征討で帰属同化した人を①と呼ぶ
俘囚
52
桓武天皇は父①の政策を引き継いだ
光仁天皇
53
官職を任命する行事
除目
54
両界曼荼羅の両界は ①(すべての悩みを打ち砕く金剛) ②(宇宙の慈悲と母性)
金剛界, 胎蔵界
55
皇室の財政収入のための開墾された土地
勅旨田
56
天台宗の密教① 真言宗の密教②
台密, 東密
57
藤原道長も甥である①と争っていたが①とその弟である②が失脚すると勢力が固まった
藤原伊周, 藤原隆家
58
平安時代の婚姻の状態は同居せず夫が妻の家を訪れる妻問婚から①(結婚生活が妻の家で営まれる)
招婿婚
59
延喜の荘園整理令では①の禁止がうたわれた
勅旨田
60
修験道の開祖、699年に文武天皇が島流
役小角
61
役小角の建立したと言われる寺であり、金堂は以前の伽藍配置にとらわれない作りであった。
室生寺
62
788年、征東大使として①が蝦夷征討に派遣されたが②に撃退された
紀古佐美, 阿弖流為
63
①が②天皇の関白になって以降、摂関は常置されるようになった
藤原実頼, 冷泉
64
最後の遣唐使に加わって唐に行った最澄の弟子①は②を記した
円仁, 入唐求法巡礼行記
65
弘仁貞観文化を代表する密教彫刻①(寺)の如意観音像などがある
観心寺
66
①には②が書かせた全身黄色の不動明王像があり、黄不動とも呼ばれる
園城寺, 円珍
67
僧侶が神に仏典を読むこと
神前読経
68
唐滅亡年
907
69
承和の変で失脚したのは橘逸勢と①であり、皇太子を廃されたのは②である
伴健岑, 恒貞親王
70
①天皇が幼少で即位したため、臣下で初めて②が③になった
清和, 藤原良房, 太政大臣
71
最澄は天台僧の教育方針を記した①を書いた
山家学生式
72
878年に俘囚の反乱である①が起き、秋田城が焼き討ちに遭った
元慶の乱
73
926年に中国東北部の①が滅亡した
渤海
74
律令の補足修正の追加法を① 基本法の執行細則を②
格, 式
75
安和の変の後、①が譲位し、②が即位した
冷泉, 円融
76
桓武が国力安定を目指して①の利率を5割から②割に改めたり、雑徭を60から③以内に軽減
公出挙, 3, 30
77
最初の勅撰漢詩文集である①は②が編纂した
凌雲集, 小野岑守
78
平安時代に、漢文や歴史を学ぶことが盛んになった=律令体制の大学における一課程である①
紀伝道
79
延喜式は①が中心となって編纂した
藤原忠平
80
蝦夷征討で最後に派遣された(811年)のは①(天皇)時代の②である
嵯峨天皇, 文室綿麻呂
81
菅原道真は左遷され、①に任命され②年に没した
太宰権帥, 903
82
菅原道真が左遷された(901年)
昌泰の変
83
最澄は大乗戒壇の正当性を説く①を書いた
顕戒論
84
弘仁格式を編纂したのは①である
藤原緒嗣
85
桓武天皇の弟①は種継暗殺の疑惑をかけられ、捕えられ死去
早良親王
86
平安初期の密教や密教美術が発展した文化
弘仁貞観文化
87
醍醐天皇の後に即位した
朱雀天皇
88
三代格式は①、②、③に渡って行われた
弘仁, 貞観, 延喜
89
第五代天台座主
円珍
90
開拓や防衛のため東国から移住させられた農民
柵戸
91
阿弖流為を討つため桓武天皇時代に征夷大将軍に①が任命された
坂上田村麻呂
92
唐が衰退するきっかけにもなった内乱
安史の乱
93
宇多が醍醐に与えた政治の心得
寛平御遺誡
94
光孝天皇の後に①天皇が即位し、基経は名実ともに関白へとなった
宇多
95
国司交代の規定として①②③三代の※交替式が制定された
延暦, 貞観, 延喜
96
太政官符にかわり、摂関家の①を国政の下達文書
政所下文
97
宮中で慣例として毎年行う行事
年中行事
98
菅原道真は遣唐大臣に任命されたが①天皇に建議し遣唐を停止させた
宇多
99
基経は陽成天皇(宮中で殺人)を退位させ①を即位させた
光孝天皇
100
弘仁貞観文化において、文学の発展が延いては国の発展につながるという思想
文章経国