問題一覧
1
二つの出来事AとBの間にどのような条件が成立したときAがBを「引き起こした」と言っているのか。 例3 Aのすぐ後に続けてBが生じた時? 例4 常に、Aのすぐ後に続けてBが生じるとき?
スマホに充電ケーブルをさした、着信が鳴った、常にではない 昼がくると夜もくるこれは引き起こすとは言わない 常であるから
2
普段我々は様々に異なった方法で何かを知る、知識を得ている
今晴れているということは自分の目で見て知ることができる、ロシアがウクライナに侵攻したということは人から聞いて知ることができる、今財布に500円しか入ってないということは自分で計算して知ることができるこれらのように普段様々な方法で何かを知り知識を得ているつまり認識論を使用している。
3
血液型性格診断V S科学的知見
我々は、自分自身の長年の経験よりも、高度に専門的で自分では理解できない方法によって得られた科学者たちの主張の方が正しいものだと考えている。例としてこれまでの経験からA型の人は几帳面であるということがわかっているが科学者が「血液型は人の性格に影響を与えないとわかった」というと自分の信じていたことは間違いだったと多くの人が考える。自分自身の経験よりも他人である科学者の方が正しいと考える。科学的な自分が理解できない方法の方が信じられるということが科学中心の時代になる要因になっている。
4
推論と推論による知識の獲得の一例
推論するということはある前提が成り立つとき、他にどのような前提が成り立ち、それらが同時に成り立つことによって、それらとは別のどのようなこと、結論が成り立つかを考えることである。例を挙げると父か母が家にいることを知っている時に今いるスーパーで母に会ったこのことから家には父がいることを知るということである。
5
非心理性 我々は心に思い浮かべることなく、自分が推論していると意識することなく、推論できる。
渡された書類に「あなたの4限の教室は1―203です。」と書かれている。このことからこの後1―203に行かなければいけないことを同時に知るように自分自身で心に思い浮かべることなく次の行動を知ることが出来る。
6
非時間性 我々は一瞬の間に無限に長い推論を当たり前にしている。この意味で推論には時間が関係しない。
佐藤が窓の外を見て「アメがふっている」と言った。このことから瞬間的に佐藤は窓の外で雨が降っているのを見たと知ることが出来る。佐藤がアメがふっていると発言したことを前提1とすると佐藤が日本語を話すということが前提2となるそうすることで佐藤は「雨が降っている」と言ったという結論=前提1に辿り着くことができる。さらにこの結論に佐藤が言っていることを演技しているわけでも小説を朗読しているわけでもないのでそのまま受け取らない理由はないということになりそこから佐藤は雨が降っているのを見たという結論2に辿り着くことが出来る。これは一瞬のうちに高速で推論できるわけではないので非時間的であると考えられる。
7
本能的、反射的、直感的、感情的反応においても我々は推論している。推論がありとあらゆる人間の行為をそもそも可能にしている。
サッカー選手が飛んできたボールを反射的にシュートすると反射的にということは自分が今サッカーの試合をしている、目の前のゴールは相手チームのものということをわかっている状態で知らぬ間にシュートしているということである。目の前にボールが飛んできて目の前には自分のゴールがあり今はサッカーの試合中ということはシュートするべきであるという一連の流れが反射的に行われる。また他の例として他人の言葉に瞬間的に怒りを覚えるということを考える。他人の言葉は大量の推論であり頭で考える、理屈は意識的に推理してしまうが推論は非意識的に感情が生まれることである。
8
ここで「推論が間違っている」とは、推論の前提や帰結が間違っている時ではなく、推論の前提が正しいのに結論が成り立たない時であることに注意
ある前提が成立しているならある結論が成立すると考えることが出来る。例として今まで死ななかった人間がいるということが偽だとすると不死の生命が存在するということも偽なる。しかし、推論としては正しいということになる。結論が誤っているということは前提と結論が偽ということではない。推論は命題の真偽ではなく命題の関係の方が重要である。
9
したがって演繹が間違っていることが不可能とは、演繹の前提が間違っているということは不可能ということ
前提として①全ての人間はいつか死ぬ②私は人間であるということがある。そうすると私はいつか死ぬという結論に至る。その結論が偽であるとすると必ず前提のどれかも偽であり前提が全て真実で結論が偽である状況は理解が不能であることがわかる。よって演繹の前提が間違っていることは不可能であることがわかる。
10
また、帰納が誤りでありうるとは、帰納の前提が正しいが結論が誤っていることは可能ということ
前提として今まで死ななかった人間はいない結論として全ての人間はいつか死ぬということがある。前提が偽であるとすると今まで死なない人間もいたということになるがこれは理解不能である。しかし、前提が真実であると今以降不死の人間が存在し始めたというのは理解可能であり前提が正しく結論が誤っていることは可能であることがわかる。
11
我々が実際に行なっている推論は大抵演繹と帰納の組み合わせになっている。
今までの人間は皆死んだから人間は皆いつか死ぬという帰納が存在する。そうすると私は人間である。人間は皆いつか死ぬということは私はいつか死ぬということであるという演繹に繋がる。
12
電子の観察 「反実在論的科学観」
電子の観察は飛行機雲の生成と同じ法則であり箱の中に飽和状態の水蒸気があり電子が通過することによって箱の中の物質がイオン化され水蒸気が水になるつまり雲になるそうすることでスジとして観察することが出来る。飛行機雲を観察することは飛行機の観察とは言えないが飛行機がそこにいたことを推察することが出来る。これと同様にスジの観察は電子を見たことにはならないがそこにあったことを観察することが出来る。電子は原理的に観察することは不可能であることがわかる。
13
実験による帰納法とは何か。それ以外の帰納法(観察による帰納法)とどのような違いがあるのか。
二酸化マンガンに過酸化水素水を加えて酸素を発生させる実験をする。そうすると二酸化マンガンに過酸化水素水を加えると酸素が発生するという知識を得ることができる。科学的な帰納では、今までいつもこうなったということを実験することでこれからも常にそうであるという知識に辿り着く。非科学的に今日起きて窓から見た最初の動物はオスであるということを考える。観察していくと次の日もオスその次の日もオスであることがわかり結果的に窓からその日の最初に見る動物はオスであるとなった。これらのことから実験による帰納法は自然に介入し能動的で「する」ということに対し観察では自然に対し受動的であり「見る」ということであると考えられる。
14
実験による帰納法によって得られるのは、自然ではなく、人の行為についての知識である。
二酸化マンガンと過酸化水素水を準備するや二酸化マンガンに過酸化水素水を加えるということは全て人工的な環境で行われていて人間がある操作をしてある結果を引き起こしているということがわかる。実験は人の行為で観察は植物や生物による結果ということになる。
15
このような自然を操作する人の能力としての科学的知識という見方は、哲学的な分析においてのみならず、我々の日常的な「科学的」という言葉の用法にも現れている。
有毒な果実と食用の果実を見分けられ食べ物となる植物を採集できる人が存在するとするとさらに植物の世話をし保護、繁殖、改良のできる人はより科学的であると考えられる。また色々な石を選び綺麗に磨ける、珍しい石を集めることよりも金属を溶解して陶器やガラスを製造できる人の方がより科学的である。誰がやっても同じ結果を引き起こせる再現性よりも自然に介入してそれまで存在しなかった結果を引き起こせることが科学的であると考えることが出来る。
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従ってある科学的知識を持っていることがある実験ができることであるならば、科学的知識を持っているとは、それに従えば誰でもその実験を遂行できるような決まった手順、マニュアル、レシピを知っているということである。
ある実験ができるとは決まった手順に従えるということである。つまりやり方、マニュアル、レシピを知っているということである。例としてある複雑な機械を操縦できる人がいるとする。そうするとその人はその機械の操作のやり方を知っているということがわかる。実験による知識の集合つまりレシピの知識の集合が科学ということになる。
17
このような知識概念は、世界の概念自体を、誰にでも同じように操作できる世界として定義することになる。
科学的に知るとは実験によって知るということであり実験は誰でも同じ結果を引き起こすことが出来る客観的な知識である。つまり科学的に知りうる世界とは客観的な世界であり誰にとっても同じように存在し操作できるということである。
18
ピアジェによる観察
最初期の幼児は反実在論として物事を捉えており目の前にあったものが見えなくなるとそれは消滅したと考える。その後自分で物を動かせるようになると成長した幼児は実在論として見えていない間も存在しているということを認識できるようになる。つまり動かせる、操作できるものは視界から外れても存在しているということが理解できるということである。
19
さらにここから、実験による知識の獲得とは実験するという行為そのものであり、知識の所持とはその実験という行為を遂行する能力の所持であるといえることになる。このことを表しているのがベーコンによる「知は力なり」という有名なフレーズ
実験による知識と実験の観察によるによる知識はイコールの関係ではなく実験をしている人と自分が実験をしているのを見ている人もイコールの関係ではない。イコールの関係であるのは実験によって知るということと実験をするということであるこれらはどちらもある結果を引き起こすという点で共通している。知ると行為はイコールの関係であり知っているということは行為できる状態つまり力、能力のある状態のことを指す。これがベーコンの定義する「知は力なり」ということである。
20
①において、ソクラテスにおける身体的変化が姿勢の変化を決定している。従って、身体的変化が、座っているということの原因であるといえる。
姿勢の変化が起こると座っているという状態を引き起こしていると考えられる。姿勢の変化は観察することが可能であり出来事因果であると考えられる。
21
だがそれだけだはなく、②においては、ソクラテスの意図も、姿勢の変化を決定している。従って、ソクラテスの意図が、座っているということの原因であるといえる。
逃げるべきではないと考えたことが座っているという状態を引き起こしたといえると考える。逃げるべきではないという感情を観察することは不可能であり行為者因果であると考えることができる。
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行為者因果の成立条件 例27 引き起こされた出来事(結果)は自然現象ではなく、人の振る舞いでなければならない。
①引き起こされるのは行為であるということが重要である。例として信濃川が増水したというのは人の行為によるものではないので該当しない。部下がスイッチを押したのように人が行動しなければ成立しない。「私の決断によって橋が爆破された」のように心的原因である「私の決断」と行為者因果が成り立ち物的原因である「スイッチを押す」という行為そして出来事因果として部下がスイッチを押し橋が爆発される。このように人が行動することによって行為者因果は成り立つ。
23
例28 結果となる振る舞いをしようと思ったというその人の意図が存在しなければならない。
②その行為への意図が存在しなければならないとされている。例としてある人が椅子に座ったとする。だが、薬で意識が朦朧としていて座ったり、数人で体を抑え込まれていたりしたため椅子に座ったと考えると椅子に座ったその人自身に座ろうという意図が存在していないということになる。これは行為者因果の成立条件に反している。
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例29 しかし、この二つだけでは足りない。(①と②を満たすが行為者因果が成立しない事例がある)
→ある行為が引き起こされたときに直前まで両立しない別の行為が可能な状況つまり他行為可能性のある状況であることも重要である。薬を投与されたり電撃を受けたりした際には座るという選択肢のみであるのに対して普通に部屋に入ってきて椅子に座るのでは大きく異なる。座るという行動以外を自分自身で行えるかが重要である。
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例30 そこでさらに、ある行為が引き起こされたとき、それが引き起こされる直前の状況が、その行為と両立しない別の行為を行為者が行うことが可能であるといえる状況でなければならない(他行為可能性)という条件が必要とわかる。(従って行為者因果の成立はある意味で、心の中ではなく、外において成立する関係といえるが、例31、一方で、行為者因果は物的関係ではなく、概念的関係であることにも注意)
花壇の花を踏み潰したとする。そのときに足をその場に下ろしたのは意図的であるが花を踏み潰したのは意図的ではなかった。これは物理的には同一の振る舞いではあるが複数の別の行為でありうる。そのためそれぞれについて行為者因果が成立する行為と不成立と行為に分かれる。行為が物理的振る舞いとイコールの関係にならない概念的対象であり行為者因果と物理的事実はイコールの関係にはならない概念的事実の関係にあることがわかる。行為者因果には他者行為可能性が一つも存在していない。つまり人間には常に行為の選択肢がない自由が存在しないということである。私が話していることを板書するかどうか私は自由に決められるが私以外の人のを自由に決めることはできない。
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例32 我々は普段の生活の中では、明らかに自由は存在していると考えている。
板書しようと思うのは自分の性格や状況から行える自由であり環境やD N Aからの決定論であるともいえる。
27
例34 決定論者は、行為の原因がわかってくるという過程は責任を問えると思っていた行為が問えない行為だったとわかるという過程と同一視できる。
科学の発展により人間の行為の原因が判明した。その究極的なのが環境、遺伝的性質つまり自由がないということになる。よって行為の原因がわかると人間には自由がないとわかる。自由な行為は原因が未知であり、自由でない行為は原因が既知であるということだ。
28
例35 一般的に自由だと思っていた行為が自由でないと分かったという過程は、責任を問えると思っていた行為が問えない行為だったということがわかるという過程と同一視できる。
人が窓から飛び降りて目の前の花を踏み潰したとする。それに対して腹を立てる。しかしその人は強盗に窓から放り投げられていたと知る。そうすると相手を責めても仕方ないとわかる。その人自身の自由だと思っていた行為がそうでないとわかると道徳的に責任を問えると思っていた行為が問えないとわかるつまり腹を立てても意味がないとわかる。
29
例36 ①、②より、決定論者は、科学が進展するにつれ、我々は人々の振る舞いについて道徳的な評価をしない状態へ、善悪というものがそもそもない状態へどんどん近づいていく(責任という概念が消滅する)と主張しなければならないことになる。
科学が進展すると行為の原因が判明しその行為は自由な行為ではないと判明する。そうなると道徳的責任を問えると思っていた行為がそうでないとわかり科学が進展すればするほど道徳的判断が減少していくつまり善悪の区別が減少すると考えられる。しかし現代ではハラスメントなど昔よりも道徳的判断が厳しくなっているためもの結論は誤っているのではないかと考えられる。
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例37 このような決定論の否定はそもそも不可能だ、とする運論証と呼ばれる議論がある。
運論証とはアリスを例に説明すると本当のことを言うか塾慮しているが非決定論によって本当のことを言ったとする。しかし、非決定論であるため全く同じ状況でも異なる結果が可能であり神が世界をアリスが本当のことを言う直前の状況まで巻き戻す。そうすると本当のことを言うか嘘を言うかランダムになり巻き戻しを2000回したときに本当と嘘が半数ずつになったとする。そうすると2001回目にアリスが本当のことを言うかどうかは偶然になる。非決定論的行為は自由な行為ではないため。
31
例38 「熟慮」という概念を用いた、運論証への反論も存在する。
旅人が分かれ道のたびにコイントスでどちらにいくか決めるように自分で決めていない自由な状態でないこと行為の決定が運任せである運論証に対して熟慮はなぜそうしたのか聞かれたら理由を答えられるつまり行為自分の意思によるが自由なものであるため理由が述べられる。
32
例39 まず物的出来事から意図への因果関係とは、実際には脳から心への因果関係である
物的出来事とは脳状態であり心的出来事とは心的状態である。雷が鳴ったことを知覚すると脳状態に変化が起こり怖いという心的状態を引き起こす。
33
例40 心脳同一説が成り立つと仮説する。すると、ある心的状態pとqについて、「pであるならばqでなければならない」が成り立つとき、pであるときの脳状態m、qであるときの脳状態nがあり、「mであるならばnでなければならない」が「pであるならばqでなければならない」と同じ意味の文にならなければならない。
背理法では心脳同一説が正しいと仮説されている。つまり任意のMだと思っているという状態の信念Mについて信念Mを持つときには常に脳状態Aにあり、脳状態Aにあるときに常に信念Mを持つといえる脳状態Aがある。(どんな心的状態Mにも一対一対応する脳状態がある) P私のカバンにリンゴが少なくとも10個入っているという命題がある。またgでは私のカバンにリンゴが少なくとも5個入っているという命題もある。これを例に考えるとPを信じている人はqを信じているのでかけなければならない。仮定よりもPを信じているという心的状態と同一視である脳的状態mがある。脳状態mである人は脳状態nでもあるのでなければならない。
34
例41 しかし両者の文では「〜でなければならない」の意味が原理的に異なる。従ってこの二つの文は同じ意味を持つことができない。例41 しかし両者の文では「〜でなければならない」の意味が原理的に異なる。従ってこの二つの文は同じ意味を持つことができない。
a 〜でなければならないでは規範的に考えてPだと信じているがqだと信じていないと言うことは理解不解能でありPだと信じていないことになる。 Bでは脳状態mにある人は脳状態nにあるのでなければならないと事実的になりmになっている人の脳を調べれば必ずnになっていることがわかる。予期の必然性である。信念同士の関係は規範的である。
35
例42 しかし、一見したところ、意図から行為への因果関係はこのような法則化ができない、必然性をもたないように思える。
目の前のフラスコ内の空気が膨張し気温の温度が下がることを引き起こしたとする。これは気体が膨張するとその温度は必ず下がると法則化することができる。 しかし、意図の場合AがBを決定論的に引き起こしたとするとAが生じると必ずBが生じるという法則化ができるとは言えない。どんぐりを食べたいと思ったからどんぐりを食べたとするとどんぐりを食べたいと思った人は必ずどんぐりを食べるという法則化にはならずどんぐりは食べない方が良いのかもしれないと言う他の意図が働く人もいるかもしれないので非決定になる。
36
例43 これに対し、「その行為をしたいと言う欲求が他のいかなる欲求よりも強いならば」と言う条件を補足することで「必ずその行為をする」と必然化、法則化できるのではないか?とも思える。
殺人事件が発生したとする。容疑者全員に殺したいという欲求つまり動機、機会があるが犯人は1人である。犯人以外は殺したいという欲求があっても殺すという行為は引き起こされていない。犯人以外になくて犯人にだけ成立する条件として犯人以外は殺したいという欲求よりも捕まりたくない、罪を犯したくないという別の欲求の方が上回るが犯人の場合他のどの欲求よりも最大欲求として殺したいという欲が出ている。事前に欲求の強さを確定することで殺人行為が予測可能になる。
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例49 欲求が複数ある。
複数の欲求が存在しているということである。目の前にハエが飛ぶのを見てカエルが舌を伸ばして食べると言うことを例に考える。ハエを食べたいという欲求とハエを食べるという行為であることがわかる。人間の場合ケーキを食べたいからケーキを食べるの流れの中にダイエットしたいという欲求が入ってくる。カエルとは違い人間には複数の欲求が存在するため自由な行為ができる。複数の欲求の有無は自由の有無にもつながる。
38
例50 欲求の選択の理由が、その欲求自体の性質、強さから独立に存在する、の二つが成立することである。
複数の欲求の中から一つの欲求を選ぶ理由が存在する。これは欲求の強さが関係していて一番強い欲求に自動的に従う。ケーキを食べたいけどダイエットの方がしたいのように欲求が行為を選択している。
39
例51 そして欲求を選択するとは、行為への欲求への欲求(二段の欲求)に従うことである。
食べたいという欲求よりも痩せたいという欲求に従える自分でありたいという欲求に従った。つまりダイエットしたいという一階の欲求とダイエットしたいという欲求に従いたいという二階の欲求をが存在し二階の欲求を選択しているということになる。一階への欲求への欲求が行為を引き起こし自由な行為を生み出している。
40
例52 この定義は、動物や薬物中毒者の事例や、フランクファースト事例をうまく説明できる。
カエルを例にとるとカエルは一階の欲求しか持たず二階の欲求は存在しない。つまり欲求の奴隷であるといえる。抑え難い衝動に駆られて薬物を摂取してしまう中毒患者も自由ではない。熟慮の上の行為は欲求の選択からくるものであると考えられる。
41
例53 だが、二階の欲求が存在するにも関わらず、自由ではないという事例があることを示す思考実験(ペレブレームの操作論証)が知られている。
太郎が熟慮の上利己的な理由で二郎を殺害したとする。(熟慮の上利己的な理由とはどんな時でも他人より自分の利益を優先できる自分でいたいという二階の欲求である。)しかし、悪い科学者によってひそかに脳内にチップが埋め込まれていたことにより常に自己中心的な二階の欲求が形成されるようになっていた。よって悪いのは太郎ではなく科学者である。殺害は太郎の自由な行為ではなくチップによる二階の欲求に従った行為であるからだ。このことから自由な行為とは、他人によって引き起こされているかどうかではなく行為の源泉つまり原因が自分にあるかどうかであるといえる。
42
例54 歴史的経緯とは、絵画における真贋のように、ある対象の性質が、その対象自身の内在的な性質ではなく、その対象がたどってきた歴史的経緯によって持つことになる性質のこと。
絵画の真贋とは通常、タッチや絵の具の種類など物理的対象としての絵画そのものを調べればわかる性質つまり内在的性質のことをいう。しかしそれは本当の基準ではなく分子レベルまで本物と全く同じだが偽物であると認識するのはゴッホ本人が描いていないと言う歴史的経緯があるからである。自由な行為とは本物のゴッホの絵画のみに存在し自由な行為の必要条件である二階の欲求は内在的性質ではなくどのようにして作られてきたかのように二階の欲求の歴史である。
43
例55 源泉説の否定で慈悲深い操作者の思考実験(外部の介入を受けているがゆえに自由であるといえてしまう事例)
太郎は生まれつき脳に重度の障害がある。その障害とはノイズを発生して二階の欲求をもたせなくするものである。慈悲深い操作者はノイズが発生する度にキャンセルをする。このことは太郎は知らない。太郎は常に二階の欲求に従いながら行為をしているがその行為には他者の介入を受けているため自由ではない。介入を受けずに一階の欲求に動かされた行為は自由ではないが操作をされているから自由な行為ができるのであると考えられるためそれは自由な行為であるといえる。
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例62 数学的真理は(数学的)証明によって知られているが、証明は経験ではないから。
一つのおはじきともう一つのおはじきを合わせると二つのおはじきになる経験をしたとする。しかし、それは1+1=2を証明しているわけではない。仮定として現実の事実を合わせるとどうなるかという経験によって真だと知られるのが「1+1=2」だとする。1リットルの水と1リットルのエチルアルコールを合わせると2リットルにならないという経験をした。この経験から1+1=2はいつも真ではない、大体が真であると言うことを知った。1+1=1,8になることもある。この体積計算に1+1=2は当てはまらない。一致しない経験が生じても無関係であり経験に先立って真であると考える。一般法則として任意のストロンチウムイオン水溶液に針金をつけて熱すると紅色の炎がでるということがあるとする。この時に個別事例としてあるこのストロンチウムイオン水溶液にこの針金をつけて熱したら紅色の炎が出たということが不成立であるとすると一般法則が修正される。個別事例が成り立たなければ法則が違ったということになる。数学とは現実がどうであろうと無関係に成立するものである。
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例64 また、おはじきによって数式を学ぶこという経験的な事実によって、数学的真理がア・プリオリであることは否定できない、ということにも注意
おはじきによって数式を学ぶことはおはじきの実例がまずありそこから数式が真であるということではない。学習の順において先であり時間的順序が原因になる。それが理由で正しくなるという関係であり正当化の順序があるため理由になる。
46
例65 そして数学的真理が経験によらない真理であるということは、数学的真理は抽象的対象や抽象的事実について述べているということを意味している。
数学的真理とは世界で成立している事実について語っているということであり現実の事物がどうであろうと関係なく真であり物事の事物について何も語っていないということになる。世界における現実の事物ではないもの(観察不可能な対象、事実)について語っている。
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例66 さらに、物理学は数学を前提としていることを考慮に入れると、我々の世界は、まず抽象的対象、事実が存在・成立し、その上に具体的対象、事実が存在・成立するという構造を持つことになる。例66 さらに、物理学は数学を前提としていることを考慮に入れると、我々の世界は、まず抽象的対象、事実が存在・成立し、その上に具体的対象、事実が存在・成立するという構造を持つことになる。
数学の目に見えない事実の上に物理学の目に見えるものが乗っかっている。つまり目に見えないものが基礎にないと今目に見えているものは存在しなくなるということである。観察可能なものの前提には基本層として観察不可能なものが存在しているということである。
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例67 錯覚という現象を説明するためには対象と対象の観念という区別が必要になる。
錯覚論法として水面に棒を差し込むと光の屈折により曲がって見えるということを例にとる。光の屈折により曲がって見えているため実際には棒自体は曲がっていない。棒自体とは別に曲がって見えている何かがあるのだ。この曲がって見えている何か間違いようのない否定不可能なものを棒の観念と呼ぶ。
49
例68 錯覚から知覚に同様の議論を拡張して適用
棒と棒の観念は同じものであると考えてしまいがちであるが棒と棒の観念は全くの別物であることに気づく。人が対象Aを見るとする。しかしその時対象Aを見ているのではなく対象Aの観念を見ているのだ。感覚の対象は観念であり感覚不可能なものは対象である。観念の原因となるのが実在である。私たちが日頃目にしているものは全て観念である。
50
例69 正常な知覚、錯覚、幻覚は本人には区別できないということがありうる。
視覚経験として①真正な知覚(対象が見られている+正確に見られている)②錯覚(対象が見られている+不正確に見られている)③幻覚(対象が見られていない)という3点がある。前述に当てはめた①ピンクの象がいる+ピンクの象を見ている②灰色の象を見ている+ピンクの象を見ている③象がいない+ピンクの象を見ているという例をみていく。①、②、③のどれも心の外にあるピンクの象がいる、灰色の象がいる、象がいないという部分は第三者は判断が可能である。一方で幻を見るなどして本人はその区別ができなくなっていると心の中では全て同一の状態になりピンクの象をみているという観念=センス・データとなる。心の外は異なっていても心の中つまりセンス・データは全て同じになる。
51
例70 従ってこれら三種の視覚経験に共通した何か=センス・データが存在
日焼けと火傷にはどのような違いがあるか。皮膚の状態としては同じであるが外部の原因とされる太陽光によるものなのか熱源への接近によるものなのかに違いがある。
52
例71 消滅した星の光の知覚において、太陽の性質とは別に太陽の性質のセンス・テーマが存在する。
あまりに遠く離れていて地球に光が届く時には星は消滅している。光っている星自体は消滅しているが光が届いているので夜空に白く輝いているものを見ることができる。つまり星のセンス・データを見ているといえる。
53
例72 遅れて知覚される太陽の性質において、太陽の性質とは別に太陽の性質のセンスデータが存在する。
太陽光は地球上に届くまで8分かかる。時刻tに太陽のある性質を知覚したとする。そうすると実際には太陽がt -8分に持っていた性質であると考えられる。Tにおいて性質fを持った何かを見ているということになる。この太陽じゃない何かのことを太陽のセンス・データという。
54
例73 あらゆる対象の知覚が微小な時間差をもつのだから、あらゆる対象やその性質にはセンス・データが存在するといえる。
一般の視覚経験として対象と視覚システムの間にはタイムラグが存在し消滅変化を遂げてから認識しているが視覚内容がそのまま成立することをセンス・データとされている。私たちが見えているもの対象が消滅しても変わらず見え続けている。
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例74 二つのものが同じものを表しているからといってそれらが同じ表象であるとは限らない。浅草寺へのアクセス・マップと浅草寺の絵葉書は浅草寺の異なる表象
浅草寺へのアクセスマップと絵葉書はどちらも浅草寺について知ることができる。しかし表象の仕方、何を伝えるかが異なる。表象の仕方として「浅草寺」の横に「卍」と書くなどの言語的、記号的な表し方、建物の画像のように絵画的な表し方また、何を伝えるかとして位置、建物の境内の色や形という違いが見られる。表象は対象と内容で構成されている。
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例75 一般的に知覚は①表象の対象②表象の内容の両方を持っているので、表象である
目の前にある机のセンス・データについて知る。対象は机のセンス・データではなく机であり机がどうであるかを知ることが対象である。また内容として机がどのような形をしているか、私からみてどのような位置にあるのかである。知覚は世界、環境が自分の身体とどのような関係にあるのか、自分がどのような場所にいるのかが重要である。
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例76 表象とはどのようなものか。これらの例のうち、特に存在しないものの表象は、表象が関係ではないという可能性を示唆している。
数字は数、視線や顔の表情は苛立ちなどが表象になれる。言葉や絵、音楽、顔の表情は気分や感情や情動を表象している。XはYを表象しているとはXとYに成立する関係である。キスを例に考えていく。私はサンタクロースにキスすることはできない。つまり私とサンタクロースの間にキスをするという関係は成立できない。これはサンタクロースが存在しないからである。しかしサンタクロースの絵などはサンタクロースを表象していることになる。実際に存在していなくても表象というものはできてしまう。
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例77 似ているが表象しているわけではないことがある。
私と私の父は目元と鼻が似ている。しかし私は私の父を表象しているわけではない。
59
例78 類似性は対称的だが表象は対称的ではないという違いがある
類似性は対称的であり私と私の父が似ていているというような関係を表している。一方で表象は非対称的でありナポレオンの肖像画はナポレオンに似ていて表象しているがナポレオンはナポレオンの肖像画に似ているわけではなく表象しているとは言えない。このような違いが見られる。
60
例79 類似性という概念自体が非常に曖昧で、そもそもそのような曖昧な概念によって表象を説明すること自体が疑わしい。
類似性とは表象を説明することが非常に難しく同じ性質を持つものとして私や私の父、物質で考えると私や机などあらゆるものが似ていると考えることができてしまう。そこで表象するには類似性+αである必要があるとわかる。
61
例80 だが、類似性=表象ではなく、類似性+α=表象、とすればあくまでも類似性を使って表象を定義できるのではないか?
ナポレオンの肖像画はナポレオンを表象している。必要条件としてナポレオンに似ているということにプラスとしてナポレオン本人を見ながら描いたという事実があるとナポレオンを表象していることになる。
62
例81 しかし、類似性の度合いは表象に無関係なので、やはり表象は類似性とは無関係に思える
ピカソの「ゲルニカ」とドレスデンの写真を比べてみるとナチスドイツに空襲されたゲルニカの街を表象しているのはピカソであるが似ておらずより似ているのは写真であるが写真が表象しているのは連合軍に空襲されたドレスデンの街である。このことからより似ているものではなくより似ていないものの方が表象であることで表象にとって似ているということは必要条件ではないのではないかとわかる。
63
例82 言語表象
a「もし今日の午後雨が降らなかったら一緒に散歩に行こう。」という文を雨が降っていない景色の中をあなたと私が散歩している絵で表す。「今日の午後」という部分をカレンダーや時計、日差しで表さなければならない。しかしその絵であるとb「あなたと私が雨が降っていない時に散歩している」という意味になる。Bの意味ではなくaの意味を表していると言える根拠がない。Aは二つの文の組み合わせであることがわかり雨が降っていない絵と私とあなたが散歩している絵の組み合わせであると考えられる。C「雨が降っていない、かつ私とあなたが散歩している」d「雨が降っていない、または私とあなたが散歩している」のようになる。2枚の絵がcやdではなくaという文の意味を表しているとなぜ言えるのか?雨が降っていない絵には「雨が降っていない」「晴れている」という異なる意味が存在する。かつ、または、ならば、〜でないのように命題論理の文結合子であり論理の成立し言語の成立へとつながる。
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例83 現代ではAとB(原因と結果)にあたるものは、対象ではなく出来事であると考えられている。
AがBを引き起こすこれは出来事であり対象ではない。原因と結果は対象ではなく出来事である。例文として「溶けたチョコがP Cの故障の原因だ。」を挙げる。これはチョコが溶けてP C内部に入ったということP Cが壊れたという出来事を省略した文章である。出来事とは一回限りのことを指す。ロンドンオリンピックが開催されたは出来事として認識されるがオリンピックは四年ごとに開催されるやステンレスは鉄より軽いなど文であってもいつどこでかを言えないと出来事として認識されない。
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例84 しかしどんな出来事どうしも因果関係をもてるわけではない。
あるサッカーの試合の全体と前半は時間がずれているので別物また、ある野球の試合の1〜6回と3〜9回は重複しているので出来事としての因果関係は持てない。どんな出来事同士でも必ず因果関係を持てるとは限らない。出来事AとBの間にどのような関係が成立するのかつまりAとBの間に因果関係が成立する。引き起こすとは関係X+Y+Zであるように要十分条件は実在するのか。
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例85 ヒュームにとって何かが実在するとは何かが知覚可能であるということ
イギリスの経験論では実在する=知覚可能である。このスマホつまり目の前にあるスマホは見ること、触ることができこれは実在していると言える。しかし平和の概念は人の心の中にあるかもしれないが心の外にはないつまり実在しないため知覚不可能である。
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例86 ヒュームにとって関係が実在するとは、その関係の成立を知覚によって判断できるということ
関係が実在しているということは知覚が可能ということであり成立が知覚のみで判断可能ということである。例として男の子と女の子がベンチに座っているとする。2人が並んでいるという関係は見ればわかる。位置関係は実在しているからである。しかし、2人が同級生であるという関係は見てもわからず人間が後から作った制度的関係であることがわかる。これは非実在であり人の心の内のみに存在している。
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例87 因果関係の成立条件 まず二つの出来事AとBが空間的に離れているならば、AはBの原因ではないと即座に判断される。
「目の前でビリヤード球Bが転がった」という結果があるとする。その原因となるのは「ビリヤード球AがBに衝突した」「カエサルがルビコン河を渡った」「前日に佐藤の自室のP Cが壊れた」「直後に鈴木が隣の部屋でタバコを吸った」などの中で原因となるのは「ビリヤード球AがBに衝突した」である。いつ起きたことであっても離れた場所で起こった出来事は原因ではないつまり原因と結果は近接していなければならない。
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例88 離れている出来事の間に因果関係が成立するような言い回しは存在するが、基本的にそれは省略表現にすぎず、そのような場合にも実際には近接は成立している。
私がキューで突いたことが球Bの転がったことの原因だという例を挙げる。これは原因と結果を表した省略表現にすぎず近接を細かく見ていくと、キューで突いたからCが転がり、CがAに衝突さらに、Aが転がりAがBに衝突し結果としてBが転がっている。離れている出来事にも近接は成立している。
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例89 次に、出来事Aが出来事Bの後に生じている時にも、AはBの原因ではないと即座に判断される。
Bが移動する直前にAがBに衝突したという出来事があるように継起した出来事ではないとならない。全く同じ球AとBの衝突が同じスピード、角度、同じビリヤード台で前日または翌日に起こっていてもそれは因果関係にはならない。原因となる出来事は結果となる出来事の直前に生じていなければならない。つまり継起でなければならない。結果が先に起こり後から原因が生じることを逆むき因果とも呼ぶ