問題一覧
1
平安遷都と唐風文化についての、以下の説明のうち、正しいものを1つ選び、記号で答えなさい ア 桓武天皇は、国司交代時の事務引継ぎ完了証である解由状を審査するための役人として勘解由官を置いた イ 辺境地以外では、公民からの徴兵制や軍団を廃止し、郡司などの子弟で弓馬にたくみな者を健児とし、国府などを守らせた ウ 雑徭を30日から60日にする、出挙の利率を上げるなどして、農民の負担の軽減がはかられた エ 律令国家では、関東地方などから移住させた人々(柵戸)による開墾を進めながら徐々に支配領域の拡大を図ったため、蝦夷社会との人的・文化的交流が促進された
イ
2
平安遷都と唐風文化についての、以下の説明のうち、誤っているものを1つ選び、記号で答えなさい ア 805年、桓武天皇は、都の造営と蝦夷との戦いという二大事業の継続の是非を論じさせ、結局、両事業を打ち切ることにした イ 律令制は、嵯峨天皇の頃から日本の実情に合わせ大きく修正され、平城太上天皇の変に際して、機密がもれるのを防ぐため、蔵人頭を置いた ウ 平安遷都から9世紀末ごろまでは、遣隋使の派遣が続けられ、隋の文化をさらに摂取しながら、隋風の学問や儀礼を重視する新しい文化が発達した エ 新しい仏教の成立に伴い、密教の世界を図像でえがく曼荼羅もつくられた。
ウ
3
平安遷都と唐風文化についての、以下の説明のうち、正しいものを1つ選び、記号で答えなさい ア 長岡京・平安京への遷都に際しては、平城京からの寺院移転が推進され、僧尼や寺院への手厚い保護もはかられた イ 唐への留学から帰国した最澄は比叡山に延暦寺を建て真言宗をおこした。また、空海は高野山に金剛峯寺を建て天台宗をおこした ウ 神秘的な呪法を通じ悟りの境地に達しようとする密教は、朝廷の支持を得たが貴族には広まらず、一般民衆の間に広く浸透した エ 平安時代の仏像彫刻では、一木造の木彫りが主流となり、豊満で神秘的な像が多くつくられた
エ
4
1333年、鎌倉幕府が滅亡すると大覚寺統から即位した後醍醐天皇は( ① )といわれる新政を開始した。一時天皇側についた足利尊氏はやがて離反し京都から離れたが、再び京都に攻め込み,持明院統の光明天皇を即位させると、後醍醐天皇は吉野に逃れて皇位を主張し、以後60年余り、京都の( ② )と吉野の( ③ )が並立した。この間、1338年に尊氏が( ② )から征夷大将軍に任じられ( ④ )が成立することとなった。その後3代将軍( ⑤ )は、南北朝の合一を実現させた。幕府の機能は京都に移り、関東には( ⑥ )が置かれた ➀はなんでしょう
建武の新政
5
1333年、鎌倉幕府が滅亡すると大覚寺統から即位した後醍醐天皇は( ① )といわれる新政を開始した。一時天皇側についた足利尊氏はやがて離反し京都から離れたが、再び京都に攻め込み,持明院統の光明天皇を即位させると、後醍醐天皇は吉野に逃れて皇位を主張し、以後60年余り、京都の( ② )と吉野の( ③ )が並立した。この間、1338年に尊氏が( ② )から征夷大将軍に任じられ( ④ )が成立することとなった。その後3代将軍( ⑤ )は、南北朝の合一を実現させた。幕府の機能は京都に移り、関東には( ⑥ )が置かれた ➁はなんでしょう
北朝
6
1333年、鎌倉幕府が滅亡すると大覚寺統から即位した後醍醐天皇は( ① )といわれる新政を開始した。一時天皇側についた足利尊氏はやがて離反し京都から離れたが、再び京都に攻め込み,持明院統の光明天皇を即位させると、後醍醐天皇は吉野に逃れて皇位を主張し、以後60年余り、京都の( ② )と吉野の( ③ )が並立した。この間、1338年に尊氏が( ② )から征夷大将軍に任じられ( ④ )が成立することとなった。その後3代将軍( ⑤ )は、南北朝の合一を実現させた。幕府の機能は京都に移り、関東には( ⑥ )が置かれた ➂はなんでしょう
南朝
7
1333年、鎌倉幕府が滅亡すると大覚寺統から即位した後醍醐天皇は( ① )といわれる新政を開始した。一時天皇側についた足利尊氏はやがて離反し京都から離れたが、再び京都に攻め込み,持明院統の光明天皇を即位させると、後醍醐天皇は吉野に逃れて皇位を主張し、以後60年余り、京都の( ② )と吉野の( ③ )が並立した。この間、1338年に尊氏が( ② )から征夷大将軍に任じられ( ④ )が成立することとなった。その後3代将軍( ⑤ )は、南北朝の合一を実現させた。幕府の機能は京都に移り、関東には( ⑥ )が置かれた ➃はなんでしょう
室町幕府
8
1333年、鎌倉幕府が滅亡すると大覚寺統から即位した後醍醐天皇は( ① )といわれる新政を開始した。一時天皇側についた足利尊氏はやがて離反し京都から離れたが、再び京都に攻め込み,持明院統の光明天皇を即位させると、後醍醐天皇は吉野に逃れて皇位を主張し、以後60年余り、京都の( ② )と吉野の( ③ )が並立した。この間、1338年に尊氏が( ② )から征夷大将軍に任じられ( ④ )が成立することとなった。その後3代将軍( ⑤ )は、南北朝の合一を実現させた。幕府の機能は京都に移り、関東には( ⑥ )が置かれた ➄はなんでしょう
足利義満
9
1333年、鎌倉幕府が滅亡すると大覚寺統から即位した後醍醐天皇は( ① )といわれる新政を開始した。一時天皇側についた足利尊氏はやがて離反し京都から離れたが、再び京都に攻め込み,持明院統の光明天皇を即位させると、後醍醐天皇は吉野に逃れて皇位を主張し、以後60年余り、京都の( ② )と吉野の( ③ )が並立した。この間、1338年に尊氏が( ② )から征夷大将軍に任じられ( ④ )が成立することとなった。その後3代将軍( ⑤ )は、南北朝の合一を実現させた。幕府の機能は京都に移り、関東には( ⑥ )が置かれた ➅はなんでしょう
鎌倉府
10
豊臣秀吉の死後、五大老の一人 ( )が大きな力を持つようになった。彼は、( )で石田三成らの軍を破り、全国的な支配権を確立し、1603年に朝廷から征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いた。
徳川家康、関ヶ原の戦い
11
徳川家康が幕府を開いたその後、なお勢力を持っていた秀吉の遺児、豊臣秀頼を( )・夏の陣で破り、豊臣家を滅ぼして天下統一を成し遂げた。
大坂冬の陣
12
江戸幕府では、統一政権としての幕府と、大名が支配し独立した領地を持つ藩とによって全国の土地と人民を支配する ( ) というしくみが機能していた。
幕藩体制
13
江戸幕府の3代目将軍 ( ) は1635年、武家諸法度を改定して参勤交代の制度を加えた。
徳川家光
14
1615年、幕府は ( ) を定め、天皇や公家の統制をはかった。また、 ( ) を置いて朝廷の監視も行った。
禁中並公家諸法度、京都所司代
15
朝廷の監視に加え、さらに、寺院や神社に対しても寺院法度を出すなど統制を強め、宗派ごとに本山が末寺を統制する ( ) を確立させていった。
本末制度
16
政治組織としては中央に3~6名の ( ) が任命され、その下には補佐役として若年寄が置かれ、将軍のもとで政務を行った。
老中
17
地方では、大坂には ( ) を置くほか、将軍の直轄領に、( ) や ( ) が配置された
城代、郡代、代官
18
17世紀前半の文化は ( ) といい、桃山文化の豪壮華麗な気風を残しつつ、洗練された落ち着きを見せる内容だった。
寛永文化
19
寛永文化の主な建築物は、日光東照宮と ( ) に代表される。
桂離宮
20
寛永文化の文芸では、連歌から発生した俳諧の世界で京都の ( ) の貞門俳諧の人々が活躍した
松永貞徳
21
寛永文化の学問の分野では、儒学の中の ( ) が天地万物の法則と人間の本性とを結びつけて理解しようとする教えの中の、自己の職分に忠実であれと説かれた部分が、幕府からも社会秩序維持に役立つと評価され、儒学の主流となっていった
朱子学
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享保の改革に関する次の説明で正しいのはどれですか ア 倹約令を出し,上米の制を定めるなど財源確保に努めた イ 町人出資による新田開発を禁じ,農民による開墾を奨励した ウ 競争原理を働かせるため,株仲間による独占的営業を禁じた エ 財政難のもとで人材を登用するため,相対済し令を出した。
ア
23
蘭学の始まりに関する次の説明で誤っているのはどれですか ア 8代将軍吉宗は,漢訳洋書の輸入制限をゆるめ,青木昆陽らにオランダ語を学ばせるなど西洋の学術を取り入れようとした イ 西洋の知識への高まりから,平賀源内は,起電機や寒暖計をつくって人々を驚かせた ウ 蘭方医の前野良沢・杉田玄白らは,オランダ語の解剖書を翻訳して『解体新書』を著した エ 蘭学の入門書である『蘭学階梯』の著者稲村三伯の弟子である大槻玄沢は,日本最初の蘭和辞書『ハルマ和解』を著した
エ
24
雄藩の誕生に関する次の説明で正しいのはどれですか ア 幕末には,諸藩でも有能な中下級家臣を登用し,財政再建や藩権力を強化し,幕政改革に協力しようとする動きがみられた イ 長州藩では,村田清風が商人から多額の借財を行い,紙や蝋の専売制を改革した ウ 幕府は,江川英龍(太郎左衛門)に命じて伊豆韮山に反射炉を築き,大砲を鋳造した エ 薩摩藩では,調所広郷を登用し,奄美の黒砂糖の専売制度や琉球経由の貿易の大規模な事業化に成功した ※雄藩とは勢力のある藩のことである、大藩
ウ
25
国民国家と資本主義の成立に関し、以下の設問に記号で答えなさい 問)憲法の制定に関する次の説明で正しいのはどれですか ア 伊藤博文らの起草した憲法草案は、機密院で審議された後、1889年2月11日に大日本帝国憲法として発布された イ 大日本帝国憲法は、民定憲法であり、天皇が国の元首として統治権の全てを握るという天皇主権制が定められていた ウ 帝国議会は、皇族・華族や勅選議員、多額納税者の互選議員から成る貴族院と、公選議員から成る衆議院との二院制だった
ウ
26
資本家と労働者に関する次の説明で正しいのはどれですか ア 明治時代、繊維産業で働く労働者の大部分は女性(女工)で、賃金は低く、1日12時間以上の厳しい労働に従事していた イ 日清戦争後には、労働組合が結成されるようになり、賃金引き上げや労働条件の改善を求める小作争議が増加した ウ 労働組合結成の動きに対し、政府は治安警察法で集会・結社を制限する一方、工場法で労働条件の自由化を図った
ア
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1889年大日本帝国憲法が発布されたが、信教、言論、結社など、近代国家における国民の権利としての自由権について、大日本帝国憲法ではどのような規定があったのか。教科書の記述を参考に正確に記述しなさい ※自分の意見を記述
信教・言論・結社などの自由が憲法に明文化され、国民の権利がある程度保障されることになった。権利の保障は法律の範囲内においてのみ認められたため、法律によって権利を制限することが可能であったが、法律の改正によって権利を拡大する可能性も残されていた
28
1915年、日本は中国に ( ) を示し権益拡大を図った。
二十一か条の要求
29
中国では、1919年、日本の対中政策に反発する学生や労働者らがストライキや日本製品ボイコットを行う ( ) が起きた
五・四運動
30
1921年から翌年にかけ開かれた ( ) で海軍軍縮の国際秩序が決まると日本はこれに同調の方針を取ったが、対中国では強硬政策を維持した
ワシントン会議
31
関東軍が満洲支配を企て武力行使の機会を狙い暗躍する中、中国では日本製品をボイコットする ( ) が高まった
日貨排斥運動
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降伏文書に調印後、日本には ( ) を最高司令官とするGHQ/SCAPが設置され、そこが政府に指令して占領政策を実施する間接統治の方法が取られた
マッカーサー
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戦争犯罪の疑いのある政府や軍部の指導者は逮捕され、うち28名はA級戦犯として起訴され ( )(東京裁判)で審理された
極東国際軍事裁判
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GHQは経済民主化を目指し、政府に財閥解体と ( ) を実施させた
農地改革
35
1946年11月に ( ) が公布され、翌年5月から施行されると、これに基づき、多くの法律がつくられ、制度改革が行われた
日本国憲法
36
教育も民主化が図られ ( ) が制定された
教育基本法
37
労働組合育成の方針から、労働組合法、労働関係調整法、労働基準法の ( ) も制定された
労働三法
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急速な民主化やインフレ、食糧難の中、労働運動が高揚し、1947年2月には官公庁労働者中心に ( ) が計画されたが、GHQの命令で前日に中止を余儀なくされた
ゼネラル・ストライキ
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「行財政改革」に関する次の説明で正しいのはどれですか ア 高度成長後の日本では税収が伸び悩む一方、財政主導の景気回復策などで財政黒字が拡大し、財政再建が重要課題となった イ 1981年に発足した第2次臨調は「増税なき財政再建」を掲げ、公共事業の拡大、公務員給与の抑制と定員減などを求めた ウ 1982年に成立した中曽根康弘内閣は、電信・電話事業とたばこ産業を1985年に、日本国有鉄道を1987年に民営化した エ 中曽根康弘内閣は、公務員給与の抑制、省庁の統廃合などを行い、健康保険などの社会保障制度では国民の負担を軽減した オ 竹下登内閣は、1989年に、国民の間に待望論のあった消費税を導入したが、政治資金をめぐり疑惑が発覚して退陣した
ウ
40
衆議院議員の「選挙制度の変遷」に関する次の説明で誤っているのはどれですか ア 1890年の第1回衆議院議員総選挙は,小選挙区制中心の制度で行われた イ 1900年には,各府県内の都市部を小選挙区とし,それ以外の郡部を大選挙区とする大選挙区制中心の制度が導入された ウ 1919年には小選挙区制中心の制度に,1925年の男子普通選挙制が実施された際には,中選挙区制が採用された エ 1925年の改正以後は,敗戦直後の1946年の大選挙区制による選挙を除き,小選挙区制で実施されてきた オ 1994年の公職選挙法の改正で,小選挙区制の長所を生かし,短所を軽減する小選挙区比例代表並立制が導入された。
エ
41
「持続可能な社会に向けて」に関する次の説明で誤っているのはどれですか ア 科学技術の発展と経済成長により,私たちの生活は便利で豊かになったが,地球規模での環境破壊も引き起こされるようになってきた イ 1972年に開催された国連人間環境会議で,人口問題が世界的な問題として取り上げられた ウ 1987年には国連の環境と開発に関する世界委員会が,その報告書の中で「持続可能な開発」という概念を提唱した エ 2015年には,国連サミットで「持続可能な開発目標」(SDGs)が採択された オ SDGsは2030年までに全ての国が「誰一人取り残さない」持続可能で多様性と包摂性のある社会の実現に取り組むことになっている
イ
42
6世紀末、物部氏を倒し政権を握った大臣( ① )は、( ② )とともに国政改革を開始した。やがて中国に( ③ )が送られるようになり途絶えていた国交が回復した。国内では人材登用や外交上の必要性から( ④ )が、天皇中心の国家秩序確立のため官僚としての心構えを豪族たちに説く( ⑤ )がそれぞれ定められた。 ・( ② )が建立した( ⑥ )は、仏教文化といわれる( ⑦ )を代表する寺院である。 ➀はなに
蘇我馬子
43
6世紀末、物部氏を倒し政権を握った大臣( ① )は、( ② )とともに国政改革を開始した。やがて中国に( ③ )が送られるようになり途絶えていた国交が回復した。国内では人材登用や外交上の必要性から( ④ )が、天皇中心の国家秩序確立のため官僚としての心構えを豪族たちに説く( ⑤ )がそれぞれ定められた。 ・( ② )が建立した( ⑥ )は、仏教文化といわれる( ⑦ )を代表する寺院である。 ➁はなに
厩戸王
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6世紀末、物部氏を倒し政権を握った大臣( ① )は、( ② )とともに国政改革を開始した。やがて中国に( ③ )が送られるようになり途絶えていた国交が回復した。国内では人材登用や外交上の必要性から( ④ )が、天皇中心の国家秩序確立のため官僚としての心構えを豪族たちに説く( ⑤ )がそれぞれ定められた。 ・( ② )が建立した( ⑥ )は、仏教文化といわれる( ⑦ )を代表する寺院である。 ➂はなに
遣隋使
45
6世紀末、物部氏を倒し政権を握った大臣( ① )は、( ② )とともに国政改革を開始した。やがて中国に( ③ )が送られるようになり途絶えていた国交が回復した。国内では人材登用や外交上の必要性から( ④ )が、天皇中心の国家秩序確立のため官僚としての心構えを豪族たちに説く( ⑤ )がそれぞれ定められた。 ・( ② )が建立した( ⑥ )は、仏教文化といわれる( ⑦ )を代表する寺院である。 ➃はなに
冠位十二階
46
世紀末、物部氏を倒し政権を握った大臣( ① )は、( ② )とともに国政改革を開始した。やがて中国に( ③ )が送られるようになり途絶えていた国交が回復した。国内では人材登用や外交上の必要性から( ④ )が、天皇中心の国家秩序確立のため官僚としての心構えを豪族たちに説く( ⑤ )がそれぞれ定められた。 ・( ② )が建立した( ⑥ )は、仏教文化といわれる( ⑦ )を代表する寺院である。 ➄はなに
憲法十七条
47
6世紀末、物部氏を倒し政権を握った大臣( ① )は、( ② )とともに国政改革を開始した。やがて中国に( ③ )が送られるようになり途絶えていた国交が回復した。国内では人材登用や外交上の必要性から( ④ )が、天皇中心の国家秩序確立のため官僚としての心構えを豪族たちに説く( ⑤ )がそれぞれ定められた。 ・( ② )が建立した( ⑥ )は、仏教文化といわれる( ⑦ )を代表する寺院である。 ➅はなに
法隆寺
48
6世紀末、物部氏を倒し政権を握った大臣( ① )は、( ② )とともに国政改革を開始した。やがて中国に( ③ )が送られるようになり途絶えていた国交が回復した。国内では人材登用や外交上の必要性から( ④ )が、天皇中心の国家秩序確立のため官僚としての心構えを豪族たちに説く( ⑤ )がそれぞれ定められた。 ・( ② )が建立した( ⑥ )は、仏教文化といわれる( ⑦ )を代表する寺院である。 ➆はなに
飛鳥文化