問題一覧
1
不満が高まるなかアッバース家の革命運動が成功して、 750年に(1)がひらかれた。
アッバース朝
2
アッバース朝は 「(1)」 ともよばれる。
イスラーム帝国
3
アッバース朝は第5代カリフの(1)のときに黄金時代をむかえた。
ハールーン=アッラシード
4
ティグリス川中流に建設された首都(1)は、 軍事・経済上の重要な地方につうじる四つの門をもち、 駅伝制と交易路が整備された。
バグダード
5
Ⅱ、 イスラーム世界の広がりと支配 図の(1)に当てはまるウマイヤ朝のときに都市を答えよ。
ダマスクス
6
Ⅱ、 イスラーム世界の広がりと支配 (2)に当てはまるウマイヤ朝に支配される前の国名を何というか。
西ゴート王国
7
☆ウマイヤ朝 都:ダマスクス 建国者:(1)
ムアーウィヤ
8
☆ウマイヤ朝 (1)し、 カリフの地位へ以降、 カリフは 世襲(制) となる
実力で建国
9
☆ウマイヤ朝 実力で建国し、 カリフの地位へ以降、 カリフは (1) となる
世襲
10
○イスラームの分裂 (1)を認める⋯ 多数 の スンナ 派 4代目正統カリフのアリーのみを認める⋯ 少数 の シーア 派
ムアーウィヤ
11
○イスラームの分裂 ムアーウィヤを認める⋯ ❴多数・少数 ❵ の スンナ 派 4代目正統カリフのアリーのみを認める⋯ 少数 の シーア 派
多数
12
○イスラームの分裂 ムアーウィヤを認める⋯ 多数 の (1) 派 4代目正統カリフのアリーのみを認める⋯ 少数 の シーア 派
スンナ
13
○イスラームの分裂 ムアーウィヤを認める⋯ 多数 の スンナ 派 4代目正統カリフの(1)のみを認める⋯ 少数 の シーア 派
アリー
14
○イスラームの分裂 ムアーウィヤを認める⋯ 多数 の スンナ 派 4代目正統カリフのアリーのみを認める⋯ ❴多数・少数 ❵ の シーア 派
少数
15
○イスラームの分裂 ムアーウィヤを認める⋯ 多数 の スンナ 派 4代目正統カリフのアリーのみを認める⋯ 少数 の (1) 派
シーア
16
○イスラームの分裂 ※なぜ、 四代正統カリフのアリーを認めたのか⋯ アリーはムハンマドの (1) であり、娘のファーティマの 夫(娘婿) である →アリーこそが正当なムハンマドの後継者であり、その他の正統カリフも認めない
従兄弟
17
○イスラームの分裂 ※なぜ、 四代正統カリフのアリーを認めたのか⋯ アリーはムハンマドの 従兄弟 であり、娘のファーティマの (1) である →アリーこそが正当なムハンマドの後継者であり、その他の正統カリフも認めない
夫
18
○イスラームの分裂 ※なぜ、 四代正統カリフのアリーを認めたのか⋯ アリーはムハンマドの 従兄弟 であり、娘のファーティマの 夫(娘婿) である →アリーこそが正当なムハンマドの後継者であり、その他の(1)
正統カリフも認めない
19
○イスラームの分裂 (1)に当てはまる人物の名前を書きなさい。
ムハンマド
20
○イスラームの分裂 (2)に当てはまる人物の名前を書きなさい。
アリー
21
○イスラームの分裂 (3)に当てはまる人物の名前を書きなさい。
ファーティマ
22
○征服活動 ((1)) ・イベリア半島の 西ゴート王国 を滅ぼす 現:スペイン
ジハード
23
○征服活動 (ジハード) ・イベリア半島の (1) を滅ぼす 現:スペイン
西ゴート王国
24
○征服活動 (ジハード) ・フランク王国との (1) で敗北 現:フランス
トゥール=ポワティエ間の戦い
25
○征服活動 (ジハード) (1)に当てはまるウマイヤ朝の首都を答えよ。
ダマスクス
26
○征服活動 (ジハード) (2)に当てはまる首都ダマスクスである国名を答えよ。
ウマイヤ朝
27
○征服活動 (ジハード) (3)に当てはまるウマイヤ朝に支配される前の国名を答えよ。
西ゴート王国
28
☆ウマイヤ朝の滅亡 背景:度重なる征服活動による財政不足 →税制上の (1) による民衆の不満
不平等
29
☆ウマイヤ朝の滅亡 (1)に当てはまるものを答えよ。
アラブ人
30
☆ウマイヤ朝の滅亡 (2)に当てはまるものを答えよ。
イスラーム教徒
31
☆ウマイヤ朝の滅亡 (3)に当てはまるものを答えよ。
非イスラーム教徒
32
イスラーム帝国の分裂 アッバース朝が成立すると、ウマイヤ朝の一族はイベリア半島にのがれ、 756年(1)をたてた。
後ウマイヤ朝
33
イスラーム帝国の分裂 10世紀になるとシーア派の一派が北アフリカに(1)をたて、 エジプトを征服して首都カイロを建設した。
ファーティマ朝
34
イスラーム帝国の分裂 10世紀になるとシーア派の一派が北アフリカにファーティマをたて、 エジプトを征服して首都(1)を建設した。
カイロ
35
イスラーム帝国の分裂 イラン人のシーア派軍事政権(1)が946年にバグダードを占領し、 アッバース朝カリフにかわってイスラーム法を執行する権限をあたえられ、 大アミール(司令官のなかの第一人者に任じられた)。
ブワイフ朝
36
トルコ人の台頭 中央アジアの遊牧民であったトルコ人は騎馬戦士としてすぐれていたので、 9世紀ころから(1)とよばれるトルコ人奴隷が、 イスラーム諸政権でさかんにもちいられるようになり、 軍事力の中心となっていった。
マムルーク
37
トルコ人の台頭 10世紀ころ成立したトルコ人の(1)は、 東・西トルキスタンをあわせてこの地方のイスラーム化をすすめ、 アフガニスタンのガズナ朝は、 10世紀末から北インドへの侵入をくりかえした。
カラハン朝
38
トルコ人の台頭 中央アジアにおこったトルコ人の(1)は西方に進出して、 1055年にブワイフ朝を追ってバグダードに入城し、 アッバース朝カリフからスルタン(支配者)の称号をさずけられた。
セルジューク朝
39
トルコ人の台頭 中央アジアにおこったトルコ人のセルジューク朝は西方に進出して、 1055年にブワイフ朝を追ってバグダードに入城し、 アッバース朝カリフから(1)(支配者)の称号をさずけられた。
スルタン
40
北アフリカのイスラーム化 12世紀のエジプトでは、 クルド人の(1)がファーティマ朝を倒してアイユーブ朝をたて、 さらに十字軍を破り聖地イェルサレムを奪回した。
サラディン
41
北アフリカのイスラーム化 12世紀のエジプトでは、 クルド人のサラディンがファーティマ朝を倒して(1)をたて、 さらに十字軍を破り聖地イェルサレムを奪回した。
アイユーブ朝
42
北アフリカのイスラーム化 アイユーブ朝のもとでもマムルークの勢力は強大となり、 13世紀にはアイユーブ朝を倒してエジプト・シリアに(1)をたてた。
マムルーク朝
43
北アフリカのイスラーム化 アイユーブ朝からマムルーク朝時代のエジプトでは、 小麦やサトウキビなどの生産が向上し、 海上交易も発展して、首都(1)はバグダードにかわってイスラーム世界の中心地として繁栄した。
カイロ
44
北アフリカのイスラーム化 北アフリカでは、 11世紀から先住民(1)のイスラーム教への改宗が急速にすすんだ。
ベルベル人
45
北アフリカのイスラーム化 彼らはモロッコを中心に(1)、 ついでムワッヒド朝をたてた。
ムラービト朝
46
北アフリカのイスラーム化 彼らはモロッコを中心にムラービト朝、 ついで(1)をたてた。
ムラッビト朝
47
北アフリカのイスラーム化 13世紀以降はキリスト教徒の反撃が激しくなり、 1492年に、 スペイン王国によってイベリア半島最後のイスラーム王朝である(1)の首都グラナダが陥没し、 イスラーム教徒の多くは北アフリカに引き上げた。
ナスル朝
48
北アフリカのイスラーム化 彼らはグラナダに残した(1)は、 高度なイスラーム文明の繊細な美しさを現在に伝えている。
アルハンブラ宮殿
49
イスラームの国家と経済 ブワイフ朝はバグダードに入城したのち、土地の徴税金を軍人にあたえ、 各人の俸給にみあう金額を、 直接、 農民や都市民から徴税される制度を開始した。 これを(1)という。
イクター制
50
イスラームの国家と経済 アイユーブ朝やマムルーク朝時代には、 (1)とよばれるムスリム商人のグループが、 インド商人とイタリア商人を仲介する東西交易に広く活躍した。
カーリミー商人
51
神秘主義教団の活動 複雑化・形式化した信仰から離れ、 神との一体感を求める神秘主義((1))が都市の職人や農民のあいだでさかんになった。
スーフィズム
52
イスラーム勢力の進出とインド・東南アジア 13世紀始めには、 インド初のイスラーム政権である(1)が成立した。
奴隷王朝
53
イスラーム勢力の進出とインド・東南アジア 16世紀までデリーを都とする五つの王朝が成立し、 (1)と総称される。
デリー=スルタン朝
54
イスラーム勢力の進出とインド・東南アジア 進出したイスラーム勢力はイスラーム教への改宗を強制しなかったが、 インド古来の信仰であるヨーガや神への献身を求める(1)などとイスラーム教の教えには共通性があったため、現地の人々のあいだにも広まっていった。
バクティ
55
イスラーム勢力の進出とインド・東南アジア 15世紀末に交易の拠点であった(1)の国王がイスラーム教に改宗したため、 交易ルートにそってジャワやフィリピンの島々にイスラーム教が広まっていった。
マラッカ
56
西・東アフリカのイスラーム化 西アフリカの(1)は金を豊富に生産したので、 8世紀以降ムスリム商人が岩塩をもって訪れ、 金と交換していた。
ガーナ王国
57
西・東アフリカのイスラーム化 13世紀にはニジェール川上流域に(1)、 ついで15世紀にはソンガイ王国が成立したが、 両国とも王をはじめ支配階級はイスラーム教徒であった。
マリ王国
58
西・東アフリカのイスラーム化 13世紀にはニジェール川上流域にマリ王国、 ついで15世紀には(1)が成立したが、 両国とも王をはじめ支配階級はイスラーム教徒であった。
ソンガイ王国
59
西・東アフリカのイスラーム化 10世紀以降マリンディ・モンバサ・ザンジバル・キルワなどの海港都市にムスリム商人が住みつき、 彼らによるインド洋貿易の西拠点としてこれらの都市が繁栄した。 やがてこの海岸地帯では、 アラビア語の影響をうけた(1)が共通語としてもちいられるようになった。
スワヒリ語
60
イスラームの学問と芸術 最初に発達したイスラーム教の学問は、 アラビア語の言語学と 「コーラン」 の解釈にもとづく(1)・法学であった。
神学
61
イスラームの学問と芸術 最初に発達したイスラーム教の学問は、 アラビア語の言語学と 「コーラン」 の解釈にもとづく神学・(1)であった。
法学
62
イスラームの学問と芸術 補助手段として歴史学が発達し、 14世紀の(1)は 「世界史序説」 を著した。
イブン=ハルドゥーン
63
イスラームの学問と芸術 とくに(1)を中心としたギリシアの哲学は熱心に研究され、 合理的なスンナ派の神学体系の樹立に貢献した。
アリストテレス
64
イスラームの学問と芸術 哲学の分野では他に、 ともに医学者としても有名な(1)(ラテン名アヴィケンナ)とイブン=ルシュド(ラテン名アヴェロエス)がいる。
イブン=シーナー
65
イスラームの学問と芸術 哲学の分野では他に、 ともに医学者としても有名なイブン=シーナー(ラテン名アヴィケンナ)と(1)(ラテン名アヴェロエス)がいる。
イブン=ルシュド
66
イスラームの学問と芸術 文学では、詩の分野が大いに発達し、(1)はペルシア語の詩集 「ルバイヤート」 を著した。
ウマル=ハイヤーム
67
イスラームの学問と芸術 説話文学も数多く書かれ、 インド・イラン・アラビア・ギリシアなどの説話を集大成した 「(1)」(アラビア=ナイト)がまとめられた。
千夜一夜物語
68
イスラームの学問と芸術 メッカ巡礼記を中心とする旅の文学もさかんで、 (1)はモロッコから中国を旅して、口述筆記による 「旅行記」(「三大陸周遊記」)を残した。
イブン=バットゥータ
69
イスラームの学問と芸術 美術・工芸の分野では、 唐草文や文字を図案化した(1)という装飾文様や、 繊細な細密画(ミニアチュール)が発達した。
アラベスク
70
イスラームの学問と芸術 美術・工芸の分野では、 唐草文や文字を図案化したアラベスクという装飾文様や、 繊細な(1)(ミニアチュール)が発達した。
細密画
71
ヨーロッパ人の風土と人々 東ヨーロッパは、 ロシアの大森林に向けて東にいくほど寒さと乾燥がきびしい(1)となり、 同じくインド=ヨーロッパ語系に属するスラヴ人に加え、 マジャール人らアジア語系の人々も活躍した。
大森林気候
72
ヨーロッパ人の風土と人々 中央部の山脈より南の地中海沿岸は山がちで大河がなく、 夏にあつく乾燥する(1)に属し、かつてのギリシア人・イタリア人らが古典文明をきずいた。
地中海性気候
73
ゲルマン人の大移動と西ローマ帝国の滅亡 バルト海沿岸を原住地とした(1)は、 ヨーロッパの先住民であったケルト人を西に追いながら、 紀元前後ころにはラテン川やドナウ川一帯でローマ帝国と境を接するようになっていた。
ゲルマン人
74
ゲルマン人の大移動と西ローマ帝国の滅亡 ゲルマン人は数十の部族にわかれ、 重要な決定は成年男性による(1)でおこなっていた。
民会
75
ゲルマン人の大移動と西ローマ帝国の滅亡 4世紀後半、 東方からアジア系の(1)が侵入すると、 ゲルマン人の一派である西ゴード人は375年に南下をはじめ、 翌年にはドナウ川をわたってローマ帝国領内に移住した。
フン人
76
ゲルマン人の大移動と西ローマ帝国の滅亡 フン人は、 5世紀前半に(1)がパンノニア(今日のハンガリー)を中心に一時大帝国をたてたが、 西ローマとゲルマンの連合軍に敗れておとろえた。
アッティブ王
77
ゲルマン人の大移動と西ローマ帝国の滅亡 混乱のなか、 すでに皇帝の権力が領内におよばなくなっていた(1)は、 476年ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによってほろぼされた。
西ローマ帝国
78
フランク王国の発達 ゲルマン諸国家の大半が短命だったのに対し、 その後も領土を広げ、もっとも有力な国として西ヨーロッパ世界の形成に大きな役割をはたしたのは、 (1)であった。
フランク王国
79
フランク王国の発達 5世紀後半、 メロヴィング家の(1)は全フランクを統一し(メロヴィング朝)、 他のゲルマン人がローマ帝国で異端とされたアリウス派キリスト教を信仰するなかで、 正統派のアタナシウス派に改宗した。
クローヴィス
80
フランク王国の発達 5世紀後半、 メロヴィング家のクローヴィスは全フランクを統一し((1))、 他のゲルマン人がローマ帝国で異端とされたアリウス派キリスト教を信仰するなかで、 正統派のアタナシウス派に改宗した。
メロヴィング朝
81
フランク王国の発達 5世紀後半、 メロヴィング家のクローヴィスは全フランクを統一し(メロヴィング朝)、 他のゲルマン人がローマ帝国で異端とされたアリウス派キリスト教を信仰するなかで、 正統派の(1)した。
アタナシウス派に改宗
82
フランク王国の発達 カロリング家の(1)は、 732年トゥール・ポワティエ間の戦いでこれを撃退し、 西方キリスト教世界をまもった。
カール=マルテル
83
フランク王国の発達 カロリング家のカール=マルテルは、 732年(1)でこれを撃退し、 西方キリスト教世界をまもった。
トゥール・ポワティエ間の戦い
84
フランク王国の発達 751年、 その子(1)はローマ教会の支持のもと、 メロヴィング朝を廃してみずから王位について、 カロリング朝をひらいた。
ピピン
85
フランク王国の発達 751年、 その子ピピンはローマ教会の支持のもと、 メロヴィング朝を廃してみずから王位について、 (1)をひらいた。
カロリング朝
86
ローマ=カトリック教会の成長 使徒ペテロの後継者を自任するローマ司教は、他のすべての教会をしのぐ権威をもつと主張し、 (1)(法皇)の称号をもちはじめた。
教皇
87
ローマ=カトリック教会の成長 8世紀にビザンツ皇帝レオン3世が発布した(1)によって、 ローマ教会とコンスタンティノープル教会との溝はより深まった。
聖像禁止令
88
ローマ=カトリック教会の成長 折もカロリング家のピピンによるフランク王位の継承を教皇が認めると、 ピピンはイタリアに侵攻し、 うばった領土の一部をその返礼として教皇に寄進した。これが(1)の始まりであり、 フランク王国と教皇はさらに結びつきを強めていった。
教皇領
89
カール大帝と西ローマ帝国 ピピンの子(1)(シャルルマーニュ)は外部勢力を撃退し、 西ヨーロッパの大半の地域を征服してフランク王国の領土とし、 住民をローマ=カトリックに改宗した。
カール大帝
90
カール大帝と西ローマ帝国 ビザンツ皇帝に対応できる後ろ盾を見出したローマ教皇(1)は、 800年のクリスマスの日に、 カールにローマ皇帝の帝冠をあたえ、 「西ローマ帝国」の復活を宣言した。
レオ3世
91
カール大帝と西ローマ帝国 ビザンツ皇帝に対応できる後ろ盾を見出したローマ教皇レオ3世は、 800年のクリスマスの日に、 カールに(1)の帝冠をあたえ、 「西ローマ帝国」の復活を宣言した。
ローマ皇帝
92
カール大帝と西ローマ帝国 ローマ以降の古典文化とキリスト教に、 あらたにゲルマン的な要素が加わった(1)が誕生することとなった。
西ヨーロッパ中世世界
93
カール大帝と西ローマ帝国 ローマ教皇はビザンツ皇帝への従属から独立し、 のちにキリスト教世界は、 教皇を主張とする(1)と、 ビザンツ皇帝を首長とするギリシア正教会の二つに完全にわかれた。
ローマ=カトリック教会
94
カール大帝と西ローマ帝国 ローマ教皇はビザンツ皇帝への従属から独立し、 のちにキリスト教世界は、 教皇を主張とするローマ=カトリック教会と、 ビザンツ皇帝を首長とする(1)の二つに完全にわかれた。
ギリシア正教会